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番外編2 蒔いた種は刈らねばならぬ-1

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 10月15日金曜、深夜になる前に仕事を無理やり終わらせた匠と、一日中都内の弁護士事務所を巡って就活をしていた恋人の英里香は、渋谷の外れにあるビジネスホテルの一室で落ち合っていた。
 都内の独身寮に入っている匠と、両親と共に横浜の自宅に住んでいる恋人の英里香は、夜を一緒に過ごしたい時はこうしていつもビジネスホテルに泊まることにしていた。潔癖症気味の英里香はラブホテルを好まなかったし、匠もホテル街で巡回中の顔見知りの警察官とは遭遇したくなかったので、自ずとビジネスホテルを使うようになっていたのだ。
 シャワーを浴びたばかりの匠が、腰に白いバスタオルを巻きダブルベッドに腰かけ濡れた髪をタオルで拭いていると、先にシャワーを浴び終え、長めの髪をドライヤーで完全に乾かしきったばかりのバスタオル姿の英里香が話しかけてきた。
「タクミ……」
 匠は英里香の自分を呼びかける時の全ての母音をはっきりと発音するその響きが好きだった。英里香は父親の仕事の都合で、日本の高校に入学するまで諸外国を転々とした帰国子女のため、日本語の発音に特徴があったのだ。
 目を細めながら、英里香を見上げ抱き寄せようと手を伸ばした時の事だった。
「叔母さんからの聞き込みはどうだったの?」
予想外に色気のない問いかけに、匠は内心がっかりしてしまう。だがLIMEでもったいぶって、会った時にゆっくり話すと伝えたのは確かに自分自身だった。英里香は匠の右側に座ると、報告を期待するようにじっと見つめてくる。
「後じゃダメ?」
匠は英里香の腰に手を回そうとしたが、ぴしゃりと叩かれた。
「ダメ!」

 お預けを食った犬の気分だったが仕方がない。母方の叔母真由子から聞いた話を手短に語ってきかせた。両親が結婚する前に母が交際していたのは父の二番目の兄、誠だったという話である。
「それ以上知りたかったら、おばあさんに聞けって言われた……」
匠は手にしていた湿ったタオルをベッドサイドにある小さな机の上に投げると、手で顔を覆った。
「気が重い……」
「自ら進んでパンドラの箱を開けるから」
 パンドラの箱とは、ギリシャ神話に出てくるあらゆる災いの詰まった箱の事である。そう言ったものの英里香の表情は優しかった。匠のまだ少し湿った髪にそっと触れる。
「で、探偵さんはここで諦めるの?」
「……いや……ここまで来たら引き下がれない……」
そう言いながらも匠は顔を覆ったままだ。
 「そんなにおばあさんって怖い人なの?」
英里香が不思議そうに尋ねると、匠は顔から手を外し英里香を情けない顔で見つめ返した。
「ガキの頃、おばあさんの家の中でサッカーボールで遊んでいて、亡くなったおじいさんが作ったという大切な焼き物の花瓶を壊してしまって、物凄い剣幕で怒られて以来怖いんだ」
「そりゃキミが悪いね」
英里香に一刀両断される。
「仰る通り! 何故家の中で、しかもよりによってサッカーボールで遊ぼうと思ったのか、ガキの自分が全く理解できない」
匠は遠い目をする。
「おばあさんは基本子どもに対しては心の広い人なんだけど、おじいさんの遺品だけは物凄く大切にしていて、何てことしでかしたんだろうって今頃になって後悔してるってわけだ……」
「その時の謝罪も兼ねておばあさんとお話してみれば?」
英里香がそう提案してきたので、匠は顎に手を当て考え込んだ。
「……その発想は全くなかったな……まあ、話のきっかけとしては有りか……」
「でも……お願いだから本当に無理しないでね」
英里香はそう言いながら匠にそっと身体を寄せてきた。
「ワタシはキミが傷つくところを見たくないんだ……前にワタシが余計な事を言ったばかりに、キミは無理している気がするから……」
「いや、自分は英里香に感謝している」
匠は英里香の肩を右腕で抱き寄せた。
「あの時まで自分や両親の問題に気が付くことができなかった……まあ、本当は薄々気が付いていたんだけど、ずっと目をつぶってたって感じかな……逃げてた訳だからショックを受ける事くらい覚悟してるさ……」
 あの時、とは英里香が匠から弟の駆が『勘当』された話を聞かされ「山城家はおかしい」と指摘した時のことである。それがきっかけで匠は氷室 有葉と接触したのだ。
「そっか……キミがそこまで言うならワタシはもう何も言わないよ……」
 英里香は匠の逞しい肩に頭をすり寄せてきた。ビジネスホテルの備え付けのアメニティを嫌い、わざわざ自宅から持参してきたという揃いのボディソープとシャンプーの微かな花の香りが漂ってくる。学生時代に付き合い始めて以来ずっと馴染んでいる英里香の香りそのものだ。
「そろそろいい?」
匠は英里香のさらさらの長くて黒い髪に顔を埋めた。英里香は仕方がないなという感じで声を立てて朗らかに笑う。
「キミって本当にせっかちだなあ……まあ、いいよ!」
その言葉を合図として、二人はしっかりと抱き合い唇を重ねたのだった。



 翌朝、いつも起きる時間よりも二時間ほど遅く目覚めた匠は、英里香と共にホテルの朝食ビュッフェをたっぷり食べた後、ホテルのチェックアウトを行った。これから外国人観光客向けのツアーガイドのアルバイトをするために浅草へ向かう英里香と、東京メトロ銀座線の改札前で別れた直後に、祖母の携帯に電話を掛けた。
「あ、おばあさん、おはようございます、匠です。今度上京するのはいつですか?」
「朝っぱらから珍しく電話を掛けてきたと思えば、藪から棒だね。実は今東京の事務所にいるんだよ」
 匠の母方の祖母、山城 津紀子は八十歳過ぎとは思えないような張りのある元気な声の持ち主だった。彼女が社長を務める山城不動産は西新宿に小さいながら持ちビルがあって、そこが東京営業所となっていた。匠は今渋谷駅にいるので、西新宿の東京営業所までは二十分強といったところか。
 「そちらにお邪魔してもいいですか? おばあさんと直接お話したいんで」
匠は緊張を隠しながら、努めて明るく話した。
「全然構わないけど。あんたからあたしと話したいなんて言い出す時が来るなんて夢にも思わなかったよ」
祖母はくつくつと笑った。
「じゃ、首を長くして待ってるから」
「なるべく早く行きます。それじゃ!」
 匠はスマホを切ると、JR改札口へと大股で向かったのだった。

 山城不動産東京営業所は、丸の内線西新宿駅や新宿警察署のすぐ近くにあった。青梅街道の内側にある超高層ビル群側とは反対側である。西新宿は道路一つ隔てただけで顔をいきなり変える。営業所がある周辺は小さなビルが乱立しているのだ。
 匠はJR新宿駅からずっと急ぎ足で営業所までやって来た。営業所は間口は狭く、奥行きが広い五階建てのビルだった。ここの最上階だけ居住スペースとなっており、津紀子が上京した時はそこに泊まる事になっている。
 タッチ式自動ドアを開き、中に一歩入ったが一階の店舗はすべての接客用カウンターが埋まっていて朝から盛況だった。
 「いらっしゃいませ」
そう声をかけられたものの、入店してきたのが社長の見慣れた孫である事に気が付いた営業所長が、上を指差し祖母が二階にいるというジェスチャーをしてくれる。匠は「ありがとう」と返すと、狭い階段をつかつかと上がっていった。
 二階はオフィスになっていて数名の社員が忙しそうに働いていたが、皆匠の姿を認めると「おはようございます」と気さくに挨拶してくるので、匠はその都度律儀に挨拶を返してから「社長は?」と尋ねると、一番奥にあるしっかりしたパーティションで区切られた社長室にいると言われたため早速向かった。
 のぞき窓の付いているドアの外側からパーティション内を覗き込むと、眼鏡をかけた祖母の津紀子が高級な革のソファに行儀よく座って何かの書類を読んでいる。一気に緊張する匠だったが、呼吸を整えると意を決してノックした。
「おばあさん、匠です」
「早かったね、お入り」
 津紀子が書類から目を上げ入室を促したので、匠は恐る恐る社長室の中に入っていった。
「お忙しいところ、すみません」
匠が恐縮しながら頭を下げると、津紀子は書類をローテーブルの上に置き鷹揚に首を振ってみせた。
「全然大丈夫さ、そう言えばあんたに会うのはお盆以来だね。そっちにおかけ」
反対側のソファを指差すので、匠は身を小さく縮めながらソファに腰かけた。
 津紀子の肩越しに見える重厚な焦げ茶色のエグゼクティブデスクの上には、ノートパソコンと決裁待ちと思われるうず高く積まれた書類が見え、さらに片隅には長年津紀子が愛用している大きめの黒いブランド物のバッグも置いてあった。ブランドに疎い匠だったが、そのバッグは現在定価で二百万円近くする代物だとは小耳に挟んだことがある。津紀子はいいものを買った方が結果的に長く使えるからという理由でブランド物を好んで使っており、匠や駆の大学の入学祝いにも丈夫な高級時計を贈ってくれたのだ。
 土曜だというのに、スーツにネクタイ姿の匠を見て津紀子はにやっと笑う。
「朝帰りかい?」
匠は赤くなって咳払いで答えた。津紀子は続ける。
「まったくその年になってもまだ成長してるのかい。スーツの肩辺りがだいぶ窮屈そうじゃないか」
 匠はジムに通い続けた結果肩幅が予想以上に広くなったことを説明する。津紀子はくくっと笑った。
「だったら新しいスーツを仕立ててやるよ」
普段なら祖母の申し出を断る匠だったが、最近出費が立て込んでいたため、今回ばかりは有難く承諾したのだった。

 津紀子はチェーンでつながっている眼鏡を外すと一度立ち上がり、ドアを開け一番手近にいた若手の男性社員にコーヒーを二つ持ってくるように依頼し、再び元の位置に腰かけた。匠はそんな祖母をじっと見つめる。ショートヘアをきれいにグレイに染め、痩せた身体を紺色のオーダーメイドスーツで包み、背筋をピンと伸ばして座っている津紀子はとても八十代には見えなかった。匠が口を開くのを今か今かと待ち受けているようである。
 匠は再度咳ばらいをすると、ここに来るまで頭の中でずっと組み立てていた話を切り出した。
「ええと……小さい時、おじいさんの作った花瓶を壊して申し訳ありませんでした……」
そう言ってから深々と頭を下げる。完全に予想外の匠の言葉に然しもの津紀子も目を丸くした。
「いきなりどうしたんだい? 今頃になって昔の懺悔なんて始めてさ」
「いや、ずっと悪い事したって思ってたんですけど、なかなか言い出せなくて……」
匠が恥ずかしそうに目を伏せごにょごにょと口の中で言うと、津紀子は明るい声であははと大笑いを始めた。
「そうかいそうかい、あんたはずっとあの時の事気にしてたんだね、確かにあんたはあれ以来うちに来るといつも借りてきた猫状態だったっけ……」
 まだ剣道を習い始める前で正座にも慣れていなかった幼い頃、正座のまま津紀子の説教を一時間近く聞く羽目になったのだ。
「……おじいさんの作ったものがおばあさんにとってどれだけ大切なものだったか、自分は知らなかったから……」
「形あるものはいつか壊れるのさ。あたしも迂闊だった。我が子が皆女の子だったから男の子があんなに活発だって知らなかったからね、大切なものをあんなところに置くべきじゃなかったんだ……」
「……本当にごめんなさい……」
匠は膝に手を置くと鍛えられた身体をきゅっと縮める。津紀子はそんな孫に優しく微笑みかけた。
「もういいんだよ……あんたの気持ちは十分伝わったから……」
 それから腕を組んで再び匠をじっと見つめてきた。
「だけど、これだけを言いにわざわざあたしに会いに来たわけじゃないんだろう? それで本題は?」

 この時ドアがノックされた。先ほどコーヒーを淹れるように頼まれていた男性社員が、プラスチックの使い捨てカップに入れられたコーヒーを二つ運んできてくれたので話が中断する。匠のコーヒーの横に砂糖とポーションミルクが置かれたので、それらは社員が持っていたお盆に即戻した。一方津紀子は砂糖とミルクを両方コーヒーに投入し熱心にかき混ぜる。
 淹れたての香ばしいコーヒーを味わいながら、匠は心の中で苦笑する。やはり読まれていたか。今まで自分からは連絡を寄こしたこともない孫から突然電話があって、幼い頃の悪戯を謝って終わりのはずはないと津紀子だって分かっているはずだ。
 匠はもう一口コーヒーを飲んでからローテーブルに置き、ぴんと居住まいを正すと
「先日真由子叔母さんと会ったんですが……」
と先週土曜の件を手短に話した。
 「……叔母さんから、うちの両親が結婚する前、母さんが父さんの二番目のお兄さん……誠伯父さんと付き合ってたって聞いちゃって……一体どういうことなのかおばあさんに確認しておこうと思いまして……」
 匠はしばらく悩んだ末、祖母に対しては正攻法で行くことにしたのだ。津紀子はしばらく匠をじっと見据えていたが、コーヒーを飲んでからゆっくりと口を開いた。
「……あんたのことだ、興味本位で聞いているわけじゃないんだろう?」
「もちろんです……」
匠は真剣な表情で頷いた。匠は、実の父親が亡くなっても帰国しなかった誠と両親の間には何かしらの確執があったと確信していた。
 津紀子は逡巡するようにソファのひじ掛けをしばらくトントンと指で叩いていたが、やがて深々とため息を吐いた。
「あたしがあんたに事情を話したと知ったら、加奈子が取り乱すだろうね……とはいえ今後あんたが地元に帰った時に無責任な噂話を耳にするかもしれない……あんたももう一人前の大人だ……しかも立派な職に就き、しっかりとした分別もある……だったらあたしが生きているうちにきちんと話した方が害がなさそうだ……。いいかい、頼むから、加奈子には今からあたしが話す事をあんたが知っているって悟られないようにしておくれ」
匠は神妙に頷いた。

 津紀子はコーヒーを全部飲み干してから、当時の事情を話し始めた。
「……真由子から既に聞いているかもしれないけど、加奈子が地元に戻って来た頃丁度バブルが崩壊してね、しばらくは山城不動産もバタバタしてたんだよ……加奈子は勝手が分からないなりに踏ん張ってくれた……ようやく会社が落ち着いて来た頃、地元企業の若手にインタビューするという取材で我が社にやって来たのが経済誌の記者をしていた風谷 誠だった……」
匠は誠の名を耳にして緊張を覚える。
「……W大の文学部を卒業した誠は、本当は東京で雑誌の編集者になりたかったらしい。だけど田舎出身でコネもないから結局仕方なく地元に舞い戻ってきて、さほど興味もない経済誌の記者を渋々やっていたそうだよ」
津紀子は少し考え込んでから話を続けた。
「……加奈子は学年が一つ上の誠の事を元々知っていた。高校でも有名なプレイボーイだったらしいからね」
「プレイボーイ!?」
 匠は先週見た誠の写真を思い出していた。確かにいかにもモテそうな容姿ではあったが、父方の風谷家は堅実な家庭だったから驚いてしまった。
「……今風に言えば物凄いイケメンだったんだよ。しかもファッションセンスも洗練されていたし、知識がとにかく豊富でね、都会的なものに飢えていた加奈子は、誠が女をとっかえひっかえする男だって知っていたはずなのにころっと参ってしまったんだよ……」
津紀子は目を伏せると深いため息を吐いた。
「あたしは加奈子が望むなら誠との結婚を許そうと思っていた。だけど一抹の不安を覚えて念のため興信所に誠の事を調べてもらったんだ。そしたら……加奈子以外に複数の女と同時に交際していた事が発覚してね……」
「……控えめに言って最低ですね……」
匠は呆れてしまった。津紀子は「全くだ」と顔をしかめてみせる。
「加奈子に証拠を見せたら激怒して、即座に誠に別れを告げた。それだけならただの男女の別れで済んだはずだったんだよ……」
「と言うと?」
 この時津紀子は少し躊躇っていたが、思い切ったように口を開いた。
「……愚かにも誠は加奈子を脅したんだ。仕事柄いいカメラを始終持ち歩いていたそうだから、それでいつの間にか撮っていた写真だったんだろうけど……この写真をばらまかれたくなかったら大人しく自分と結婚しろって……」
「なんてバカなことを!」
匠は思わず大きな声を上げてしまった。津紀子は言明しなかったものの、それは加奈子にとって恥ずかしい写真だっただろうし、立派な犯罪行為だった。
 津紀子は強く頷いた。
「本当だね……誠は山城家の婿になる事に執着してしまったらしい……楽して生きたかったんだろうね……だったらその名の通り誠実に生きていれさえすれば良かったものを……」
 ここで匠は恐る恐る尋ねる。
「それで……母さんは被害届を警察に出したんですか……?」
「最初からそうすれば良かったんだよ。なのに加奈子ときたらそうせずに、誠の行為をよりによって、かつての同級生で誠の弟だった剛君に相談してしまった……」
 匠は絶句した。父は身内の犯罪行為を被害者から相談されてしまったという事か。
「もちろん剛君は当初加奈子に被害届を出すことを勧めた。だが加奈子は主に羞恥心と……それから剛君の立場を心配してそれは出来ないと言ってしまったんだ……」
 母は当時着々とキャリアとしての地位を築きつつあった父の立場を気にしたという事なのか。身内が犯罪者というハンデを多少背負うことになったとしても、あの父はそんな些事を気にしたりはしなかっただろうに。

 「結局、懇願された剛君は加奈子の望むまま誠を諫めてくれた……ついでに誠の所有していた加奈子の写真やネガも全部焼却してくれたそうだ……」
「そんな…………」
それを聞いた時匠は頭を殴られたようなショックを受けてしまった。よりによって父が証拠品を焼却するという判断をした事がにわかには信じ難かった。
 「私達以外誰も誠がしでかした事を知らないんだから、誠が犯した罪は宙ぶらりんになってしまった……。この件では剛君には本当に悪い事をしたと思ってる……」
「本来なら父さんは母さんを説得すべきだったのに……」
匠の声がわなないた。津紀子は重々しく頷く。
「あたしもそう思ってる。でもそうはしなかった。結果誠は罪を償うこともなく出国してしまった」
「どうも意地でも日本には絶対戻らないみたいですね……後ろめたさからなのでしょうか……」
バクバクし始めた胸の鼓動を必死に押さえつつ匠は言った。津紀子は肩をすくめた。
「それもあるだろうし、何より剛君がいるからね……」
「どういうことですか?」
「剛君は誠に、俺の目の黒いうちは二度と加奈子の前に姿を現すなって言ったようだよ」
 本気で怒った父にそう言われたから、たとえ実の父親の葬儀であっても誠は戻ってこれなかったのだろう。父は現在剣道七段の有段者でその試合を何度か見たことがあるが、全身からほとばしる気迫はすさまじく、並みの犯罪者なら間違いなく睨まれただけでたじろぐだろう。
「……ああ……なるほど……」
匠は心底納得したが、同時に憂鬱な気分になった。

 母はこの件に関しては完全な被害者だ。知らないうちに恥ずかしい写真を撮られそれをネタに脅迫されたなんて、どれだけ恐怖や悲しみ、怒りを感じた事だろう。警察に被害届を出すことによって誠の所有する写真やネガが証拠品として押収されることを考えたら、母が臆してしまった事も理解できなくはない。今なら被害者に様々な配慮がなされるだろうが、三十年近く前はどうだっただろうか。女性警察官などほとんどいない時代だ。悩んだ末に、被害届を出す事よりも父に個人的に相談することを選んでしまったことも責められないだろう。
 しかし意外だったのが父の行動だった。厳格で職業倫理感も高い父が情に絆される事があるだなんて、全く思ったことがなかったからだ。いくら同級生からの切羽詰まった相談だったとしても、実の兄の犯罪の証拠を隠ぺいした上で見逃すとは信じ難かった。
 匠はわが身に置き換えて少し考えてみる。駆がそんな卑劣な犯罪行為に手を染めるとは想像もできないが、ただの同級生がそんな相談をしてきたら父と同様の選択をするだろうか? いや、同級生にはやはり被害届を出すように勧めるだろうし、一方で弟には即自首を勧めるだろう。

 要するに、父にとって母はただの同級生ではなかったという事だ。以前父が酔って機嫌の良い時に匠にぽろっと語ってくれた思い出話が記憶に蘇ってきた。大学時代、東京に進学した者達だけの高校の同級会があって、幹事だった母に誘われるがままにうっかり参加してしまったけど、母と自分の格差に愕然としたという切ない話だった。
『母さんは当時流行りの真っ赤なスーツ着てたのに、俺ときたらよれよれのシャツと擦り切れたジーンズ姿だった。同級会が終わったら、わざわざ男友達が高級スポーツ車で母さんの事迎えに来てたんだぞ』と父は思い出し笑いをしていたが、当時本当はどんな気持ちでそれを見ていたのだろう。

 祖父が県職員、祖母が薬剤師と共働きをしていたはずの風谷家が何故そこまで困窮していたのか不思議に思い、匠は理由を尋ねたところ、父はこう説明してくれた。当時資産など特になかった風谷家は盛岡市内の便の良いところに一軒家を購入したために重い住宅ローンを抱えており、更には匠から見たら曾祖父の介護もあった。今と違って介護保険などない時代だ。その負担が家計に重くのしかかっていたのだろう。
 そんな折、誠が勝手に東京の私大への進学を決めてしまいその仕送りで更に家計が圧迫されたのだとか。父はこう言っていた。
「俺達兄弟は、親からは頼むから進学は国公立だけと念を押されていたはずなのに、あいつはわざと三教科しか勉強していなかった。それじゃ国公立に合格するはずがない」と。 誠は最初から記念受験という名目で受験したW大に行くつもりで念入りに準備していたのだ。随分と狡猾な高校生である。
 一つ年下の父はそのとばっちりを受け、せっかくT大に合格したにもかかわらず親から大して仕送りはできないと宣告されてしまった。むしろT大生ならアルバイトで楽に稼げるだろうとまで言われてしまったらしい。それで半ば自棄で、寮費がわずか四百円だったという駒場寮に住むことにしたのだとか。意地でも誠とは同居したくなかったのだと、父は吐き捨てるかのように言っていた。
『親から仕送りを受けている身分のくせに、アパートに平気で女を連れ込んで同棲するヤツと同居なんてできるか』
 それを聞いた時、匠は父がどんな思いで誠の話をしていたのか全く分かっていなかった。単にずるくて女にだらしない兄の昔話をしているのだと思っていたのだった。

 「事情は大体把握しました……だけどどうしてそんな曰くのある二人が結婚したのですか?」
 真由子の話だと母と誠の交際は周知の事実だったようだ。交際の破局自体はよくある話だが、誠が逃げるように出国した後に、誠の弟である父が山城家の婿として納まったのはまさに地元の格好のゴシップだっただろう。
 津紀子は吐息を漏らした。
「……あれからしばらく加奈子は参ってしまってね……当時剛君は地方に赴任していたんだがその後を追っかけて行ってしまった、我が家の仕事を放り投げてね……。剛君は激務だっただろうに、弱った加奈子をしっかり支えてくれただけじゃなく、プロポーズもしてくれた……そんな経緯を知ってしまったら反対なんて出来る訳ないだろう……」
「でも自分はおばあさんが反対したって聞いてました……」
 匠が首をかしげると、津紀子は当時の裏事情を説明してくれた。
「本当に反対したのは風谷のお母さんの方だよ。誠はお母さんのご自慢の息子だったらしくてね、誠が加奈子と交際している時は喜んでいたらしいが、その誠が加奈子と別れた直後に海外に行ってしまい、何故か三男の剛君が山城に婿に行くとなったら、三人もいた息子が我が家のせいで二人も奪われてしまったって感じたんだろうね」
 事情を知らなければそう感じるのも無理はない。津紀子は父から頼まれて結婚に反対する振りを装ったようだ。父は両方の親の反対を押し切って母と結婚するという体にして、自分を兄から彼女を奪った悪者に仕立て上げたらしい。もちろん母とて陰口は叩かれたものの、当時主に悪く言われたのは父だったようだ。兄から彼女を奪い資産家の婿にちゃっかりと納まった野心家のキャリア警察官というわけだ。
 「剛君はそれは立派に加奈子の盾になってくれた……何も知らない連中が好き勝手言ったけど全く動じなかった……あたしは剛君に本当に感謝してるんだよ……」
「自分は……父さんとおばあさんは仲が悪いと思っていました……しょっちゅう喧嘩しているから……」
匠がそう言うと、津紀子は首を少し傾げ頬に手を当てた。
「……喧嘩の原因は主に駆の教育方針を巡ってだからね……こればっかりはあたしも譲れなかったんだよ……」

 そうだ、駆だ! 匠は肝心の事を思い出した。そもそも両親の事を調べ始めたきっかけは、母の駆に対する態度が明らかにおかしいからだった。
「おばあさん、母さんがかーくんに極力関わらないないようにしているのは、誠が原因だったりしますか!?」
匠は立ち上がらんばかりに身を乗り出した。津紀子は匠をじっと見つめてくる。匠も津紀子を見つめ返した。二人の視線がぶつかり、やがて津紀子がそっと目をそらした。
「……どうしてそう思うんだい? その根拠は?」
匠は言いよどむ。
「だって…………かーくんは誠に……ほんの少しだけ……似てるじゃないですか……」
 匠とて認めたくなかった。ずっと駆は祖父の滋(しげる)にそっくりだと思ってきた。実際二人の写真を並べたらその血の繋がりを誰もが認める事だろう。そこに誠の写真を追加したら、親子三代の写真だと誤解する者がいても不思議ではない程度に三人は似ていた。もちろん滋と誠には血縁関係は一切ないため、本当に偶然なのだが。
 ただし、滋が端正できりりとした往年の映画スターのような二枚目だとしたら、誠は多少滋を崩した上で相当甘味を足した結果、多くの女性の目を惹きつけてやまない魅力が備わったような印象だ。そして駆だが、ベースは滋の整った顔立ちに誠の甘さが多少風味付けされた結果、少女漫画に登場する王子様のような雰囲気を醸し出している。

 「……あんたも気が付いてしまったんだね……」
津紀子は悲しげに呟いた。
「駆は生まれた時からずば抜けてきれいな子だった……加奈子は本当は女の子が良かったなって言ってたくらいで、駆が赤ん坊の頃はちゃんと可愛がっていたんだよ……なのに……駆が二才過ぎた頃だっただろうか……突然この子は誠に似ているって言い出して取り乱してしまった……」
匠はそれを聞いて胸がえぐられるような気持ちになった。
「あたしは駆はあんたのお父さんに似ているだけだって言ったんだけど、加奈子は駆もお父さんも誠に似ているから大嫌いって言い出しちゃってね……」
津紀子はその時の事を思い出したように唇をぐっと噛んだ。
「……確かに誠は少し滋さんに似ていた……腹立たしいったらありゃしない……加奈子は本当はお父さんっ子だったのに……」
 母はそれまで自分の父親と誠が似ている事に気が付いていなかったのかもしれない。なのに、我が子がある時誠に似ている事に気が付き、そして大好きだった自分の亡くなった父親とも似ている事も悟ってしまった。

 「それ以来加奈子は駆に触れられなくなってしまい、しばらくはあたしが世話をしたりもしたんだけど、仕事もあったからあたし一人では限界でね……見かねた剛君が駆が誠に似ているのは、誠と血が繋がっている自分が原因だ、駆を連れて離婚するって言い出したんだよ……」
「そんな事があったんですね……」
匠は呆然とする。津紀子はため息を吐いた。
「……だけど加奈子は離婚を断固拒否した……加奈子は剛君『命』だったからね……。あたし達は相当話し合った結果、あんたも含めて平日の子どもの世話は和子にお願いする、剛君は駆を誠のようにだらしない男にならないように厳しく躾ける、加奈子は出来る範囲で駆の世話をする、だけど無理な場合遠慮なくあたしを頼るって決めた……結果的に幼かったあんたも巻き込んじゃったけどね……」
 和子とは山城家の遠縁の女性で、仕事が忙しい津紀子や加奈子に代わって匠や駆の面倒を見たり食事を作ってくれたおばさんの事である。
「だから自分がかーくんの面倒を見ることになったのか……」
匠は全てを合点した。

 幼い頃の記憶を遡ると、確かに自分が五才頃から弟の世話をしていた気がする。和子おばさんに連れられ、兄弟で手を繋いで家から少し離れた保育園に通っていた。保育園から帰ってくるとおばさんが早速台所で夕飯の支度を始めるので、二人きりでブロックを組み合わせたり、落書きしたり、時には幼児用教材のDVDを見たりもした。駆は大人しかったから手がかかったりはしなかったが、三つ離れていたからやはり遊びや意思疎通では物足りなさを感じて腹立たしく感じることもあった。それでも「おにいちゃん、おにいちゃん」と無邪気に慕ってくれる弟は可愛かった。
 単身赴任していた父が仕事が許す範囲で週末帰省してくると、兄弟に絵本を読んでくれたり、竹刀の素振りの仕方を教えてくれたりと、普段父子の触れ合いがない分けっこう構ってくれていた気はする。だが、大人しくて特に怒られるような問題行為も起こさない駆に対して父は理不尽なほど厳しかったと思う。
 母はというと、もちろん仕事が忙しかった事は事実だったが、和子おばさんが準備してくれた夕食を温め直し家族三人で食べ、母がその後片付けをした後は、仕事と称して不自然なほど自分の書斎にこもっていた。母がリビングにいるのは父が戻ってくる時くらいだった。

 匠が小学校に入学する頃までには、家で漫画やアニメを見たりゲームをする事は禁じられていた。誕生日のプレゼントに、保育園の友達と同じような携帯ゲーム機を父にねだった駆は、駄目なものは駄目だ、しつこい! と言われついにはぶたれたこともあった。
 母からは必要最低限の相手しかされず、父からは殊更に厳しく扱われていくうちに、駆は萎縮していき、いつの間にか家では俯き空気のように振舞うようになっていった。一方で匠は駆と同じように厳しくされることを恐れ、人一倍勉強やスポーツに励むようになった。励めば励むほど両親から褒められる事を学習してしまったからだ。

 父が内気な駆に特に厳しいのはその仕事に影響されたからだと、匠は今の今まで思いこんでいた。もちろん全くの無関係ではないだろう。警察は相当マッチョな世界である。女性警察官が増えだいぶ改善されたとはいえ、その傾向は依然強い。
 だが大人しく内向的な駆を男らしく鍛えるというよりも、誠のように育てたくないという情念から厳しくしていたという事実に、父の意外な一面を見た気がしていた。
 誠は幼い頃からマニアックな漫画を好み、もう少し大きくなるとテクノポップなどを聞くようになり80年代サブカルチャーにどっぷり漬かる青春時代を送っていたようだ。
 風谷家の物置には誠が残していったものがどっさり残されており、子どもの頃探検と称して父方のいとこ達と物置を漁った時、色褪せた漫画やレコード、ポスターが大量に発掘されたのを匠は覚えている。亡くなった風谷の祖父がそう語っていたし、先日見かけた誠の会社のサイトでも、自己紹介には相変わらずサブカル好きであることが記されている。
 そんな多趣味だった誠と違って父は高校まで剣道と勉学にひたすら励んでおり、大学に進学するまでは趣味らしい趣味もほとんどなかったようだ。両者をそれぞれ認めていた風谷家の祖父母は懐が深かったのだろうが、父は母の一件以降、誠の好んだものを憎んだのだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺があるが、自分の築く家庭からはそういったものを一掃せずにはいられなかったのだ。もちろんサブカルチャーには全く罪はないというのに。
 あまり感情には流されない人だと思っていた父にそんな執念深い一面があると知って、匠はえも言われぬ気持ちに陥った。

 しばらく俯き黙り込んでしまった匠を切なそうに見つめていた津紀子だったが、やがてぱんと手を叩いた。
「あんたの知りたい事は概ね話したよ、満足かい?」
 悪酔いした時のように吐き気と目眩がするが、匠は覚悟を決めるようにぎゅっと右のこぶしを握り締めた。自分の役目は両親の過去を知って終わりではない。むしろ問題はこれからどうするかなのだ。背筋を伸ばし顔を上げると、深呼吸をしてから口を開いた。
「おばあさん……事情は大体分かりました。母さんは卑劣な犯罪の被害者だった。深く傷つき、今でもトラウマに苦しめられているんですね……」
「……確かに誠のやった事はあたしも絶対に許せないけど、加奈子はとりわけ繊細だったからね……」
そう津紀子は言う。だがそれに対して匠はきっぱりと否定した。
「自分は心理学の専門家ではないので詳しい訳ではありませんが、犯罪被害者のトラウマについては多少学んでいます。トラウマは誰でも抱える可能性はあります。トラウマを背負った被害者が似たものをひたすら回避しようとする……それも症状の一つなんです……母さんが誠に似ていると認識してしまったかーくんを避けようとした事はある意味仕方なかった……」
母がトラウマを背負ってしまったのは、その繊細さで説明してはならないと思ったからだ。
 「じゃあ、あの時あたし達はどうすれば良かったんだい!?」
津紀子は悲痛な声を上げた。匠は、祖母が非難されたように感じないように、細心の注意を払いながら答える。
「本当はその時点で母さんにカウンセリングを受けさせるべきだったでしょうけど……」
「もちろん、あたしも剛君も加奈子を医者に連れて行こうとしたんだよ! だけど加奈子が頑なに拒否してしまった。自分は絶対に病気じゃないって……首に縄をつけてまで連れて行く訳にはいかないじゃないか!」
津紀子の声はやるせなく響いた。匠は頷く。
「その通りですね……でもその結果母さんの心は癒される事もなくそのままになってしまっています……それだけじゃない、何も悪くないかーくんがとばっちりを受けて、結果的に家から追い出される羽目に陥ってしまった……こんなのおかしいじゃないですか……」
 津紀子は、ああ……と呻いてから両手で顔を覆った。
「……あんたの言うとおりだ……半年前剛君から、駆がゲームのやりすぎで留年したから『勘当』したと聞いた時、あたしは剛君に強く抗議したんだ。剛君が駆に厳しくしすぎたからじゃないかって……でも剛君は聞く耳を持たなかった……それどころか駆は所詮誠と同じ……もう勝手に生きればいいんだって剛君が言った時、あたしはショックのあまり足元が崩れ落ちるかと思ったよ……」

 それを聞いた瞬間、匠はそれまでずっと必死に抑えてきた自分の感情が溢れだし、目からはとめどなく涙があふれてきた。卑劣な男の愚かな行為が四半世紀に渡って自分の家族を滅茶苦茶にして、今となっては呪いのように現在進行形で災厄をまき散らしている。
「何て事だよ…………」
 母は犯罪被害者だったし、父はそんな母をひたすら庇い守ろうとした。職業倫理からは逸脱してしまったものの、人としては十分理解できる。
 そんな二人が結ばれた後、誠の面影を仄かに彷彿とさせる駆が生まれてからボタンの掛け違いのような狂いが生じてしまった。母は駆に背を向け、父は必要以上に駆を厳しく躾けてしまったものの思ったようには制御できず、単位を落とし留年という駆の人生の中で一番どん底の時に簡単に見捨ててしまった。せめてもの救いは、当事者の駆が父親から見放された事を逆に家からの『解放』と捉えていて、前向きに明るく生きている事だった。

 年甲斐もなくぼろぼろと泣いている匠に、津紀子はエグゼクティブデスクの上に置いてあったボックスティッシュを黙ってそっと差し出してくる。匠はそれで涙を拭った。
「……あんたは何て優しい子なんだろう……」
 そう言いながら津紀子も自らの目をティッシュで拭いた。津紀子もずっと苦しかったはずだ。四十才頃に夫をガンで失ってからもずっと気丈に頑張ってきたと聞いているが、その陰でこんな秘密を抱えていたのだから。匠は涙で潤みぼやけて見える祖母を見ながらそう思った。更に津紀子は母親から突き放された駆のために、忙しい仕事の合間を縫ってずっと寄り添ってくれていたのだ。
 親戚一同、駆が津紀子の最愛の夫、滋にそっくりだったから溺愛しているという共通認識だったし、津紀子自身も頻繁にそんな事を匂わせていたから匠自身もそう信じていたのだが、実際はそんな単純な話ではなかったのだ。匠はそんな津紀子に改めて尊敬の念を覚え、その肩の荷を少しでも下ろして欲しいと心から願った。そこで思い切って涙声でこう提案する。
 「……おばあさん……トラウマ解消のための心理カウンセリングなのですが、本人が行くのを拒むようなら当初は親族が行ってもいいんですよ……」
すると津紀子は匠を期待を込めた眼差しで見つめてきた。
「本当かい?」
「そうなんです、母さんが嫌がるならまずはおばあさんや父さんが行ってもいいんですよ……」
津紀子は考え込むように少し目を伏せ頬に手を当てたが、意を決したように顔を上げた。
「分かった、とりあえずあたしが行ってみるよ! いいカウンセラーを探すのを手伝ってくれるかい?」
「もちろんです!」
 幸い匠はそういった情報に詳しい同僚に恵まれていた。来週早々カウンセリングの情報収集を行う事を決意する。本来父だって犯罪被害者や交通事故遺族のメンタルケアなどサポートの仕事に尽力していたはずだ。そういった事案は元々得意分野のはずだが、自分達の事になると客観視できなくなっているのかもしれない。

 匠は津紀子になるべく早めに評判の良いカウンセラーをピックアップする事を約束すると、山城不動産新宿営業所を後にした。別れ間際、津紀子が匠のがっちりとした手を痩せた両手でしっかりと握り締めるとじっと見つめてきた。
「匠、あんたは本当に立派に成長してくれた……ありがとう……だけど……だからこそあたしは心配だ。もっと我儘言っていいんだからね……辛い時には誰かに甘えたって許されるんだよ……」
「うん、ありがとう、そうしますよ……」
 匠は祖母の言葉に困惑しながらそう返したのだった。




みんなのリアクション

 10月15日金曜、深夜になる前に仕事を無理やり終わらせた匠と、一日中都内の弁護士事務所を巡って就活をしていた恋人の英里香は、渋谷の外れにあるビジネスホテルの一室で落ち合っていた。
 都内の独身寮に入っている匠と、両親と共に横浜の自宅に住んでいる恋人の英里香は、夜を一緒に過ごしたい時はこうしていつもビジネスホテルに泊まることにしていた。潔癖症気味の英里香はラブホテルを好まなかったし、匠もホテル街で巡回中の顔見知りの警察官とは遭遇したくなかったので、自ずとビジネスホテルを使うようになっていたのだ。
 シャワーを浴びたばかりの匠が、腰に白いバスタオルを巻きダブルベッドに腰かけ濡れた髪をタオルで拭いていると、先にシャワーを浴び終え、長めの髪をドライヤーで完全に乾かしきったばかりのバスタオル姿の英里香が話しかけてきた。
「タクミ……」
 匠は英里香の自分を呼びかける時の全ての母音をはっきりと発音するその響きが好きだった。英里香は父親の仕事の都合で、日本の高校に入学するまで諸外国を転々とした帰国子女のため、日本語の発音に特徴があったのだ。
 目を細めながら、英里香を見上げ抱き寄せようと手を伸ばした時の事だった。
「叔母さんからの聞き込みはどうだったの?」
予想外に色気のない問いかけに、匠は内心がっかりしてしまう。だがLIMEでもったいぶって、会った時にゆっくり話すと伝えたのは確かに自分自身だった。英里香は匠の右側に座ると、報告を期待するようにじっと見つめてくる。
「後じゃダメ?」
匠は英里香の腰に手を回そうとしたが、ぴしゃりと叩かれた。
「ダメ!」
 お預けを食った犬の気分だったが仕方がない。母方の叔母真由子から聞いた話を手短に語ってきかせた。両親が結婚する前に母が交際していたのは父の二番目の兄、誠だったという話である。
「それ以上知りたかったら、おばあさんに聞けって言われた……」
匠は手にしていた湿ったタオルをベッドサイドにある小さな机の上に投げると、手で顔を覆った。
「気が重い……」
「自ら進んでパンドラの箱を開けるから」
 パンドラの箱とは、ギリシャ神話に出てくるあらゆる災いの詰まった箱の事である。そう言ったものの英里香の表情は優しかった。匠のまだ少し湿った髪にそっと触れる。
「で、探偵さんはここで諦めるの?」
「……いや……ここまで来たら引き下がれない……」
そう言いながらも匠は顔を覆ったままだ。
 「そんなにおばあさんって怖い人なの?」
英里香が不思議そうに尋ねると、匠は顔から手を外し英里香を情けない顔で見つめ返した。
「ガキの頃、おばあさんの家の中でサッカーボールで遊んでいて、亡くなったおじいさんが作ったという大切な焼き物の花瓶を壊してしまって、物凄い剣幕で怒られて以来怖いんだ」
「そりゃキミが悪いね」
英里香に一刀両断される。
「仰る通り! 何故家の中で、しかもよりによってサッカーボールで遊ぼうと思ったのか、ガキの自分が全く理解できない」
匠は遠い目をする。
「おばあさんは基本子どもに対しては心の広い人なんだけど、おじいさんの遺品だけは物凄く大切にしていて、何てことしでかしたんだろうって今頃になって後悔してるってわけだ……」
「その時の謝罪も兼ねておばあさんとお話してみれば?」
英里香がそう提案してきたので、匠は顎に手を当て考え込んだ。
「……その発想は全くなかったな……まあ、話のきっかけとしては有りか……」
「でも……お願いだから本当に無理しないでね」
英里香はそう言いながら匠にそっと身体を寄せてきた。
「ワタシはキミが傷つくところを見たくないんだ……前にワタシが余計な事を言ったばかりに、キミは無理している気がするから……」
「いや、自分は英里香に感謝している」
匠は英里香の肩を右腕で抱き寄せた。
「あの時まで自分や両親の問題に気が付くことができなかった……まあ、本当は薄々気が付いていたんだけど、ずっと目をつぶってたって感じかな……逃げてた訳だからショックを受ける事くらい覚悟してるさ……」
 あの時、とは英里香が匠から弟の駆が『勘当』された話を聞かされ「山城家はおかしい」と指摘した時のことである。それがきっかけで匠は氷室 有葉と接触したのだ。
「そっか……キミがそこまで言うならワタシはもう何も言わないよ……」
 英里香は匠の逞しい肩に頭をすり寄せてきた。ビジネスホテルの備え付けのアメニティを嫌い、わざわざ自宅から持参してきたという揃いのボディソープとシャンプーの微かな花の香りが漂ってくる。学生時代に付き合い始めて以来ずっと馴染んでいる英里香の香りそのものだ。
「そろそろいい?」
匠は英里香のさらさらの長くて黒い髪に顔を埋めた。英里香は仕方がないなという感じで声を立てて朗らかに笑う。
「キミって本当にせっかちだなあ……まあ、いいよ!」
その言葉を合図として、二人はしっかりと抱き合い唇を重ねたのだった。
 翌朝、いつも起きる時間よりも二時間ほど遅く目覚めた匠は、英里香と共にホテルの朝食ビュッフェをたっぷり食べた後、ホテルのチェックアウトを行った。これから外国人観光客向けのツアーガイドのアルバイトをするために浅草へ向かう英里香と、東京メトロ銀座線の改札前で別れた直後に、祖母の携帯に電話を掛けた。
「あ、おばあさん、おはようございます、匠です。今度上京するのはいつですか?」
「朝っぱらから珍しく電話を掛けてきたと思えば、藪から棒だね。実は今東京の事務所にいるんだよ」
 匠の母方の祖母、山城 津紀子は八十歳過ぎとは思えないような張りのある元気な声の持ち主だった。彼女が社長を務める山城不動産は西新宿に小さいながら持ちビルがあって、そこが東京営業所となっていた。匠は今渋谷駅にいるので、西新宿の東京営業所までは二十分強といったところか。
 「そちらにお邪魔してもいいですか? おばあさんと直接お話したいんで」
匠は緊張を隠しながら、努めて明るく話した。
「全然構わないけど。あんたからあたしと話したいなんて言い出す時が来るなんて夢にも思わなかったよ」
祖母はくつくつと笑った。
「じゃ、首を長くして待ってるから」
「なるべく早く行きます。それじゃ!」
 匠はスマホを切ると、JR改札口へと大股で向かったのだった。
 山城不動産東京営業所は、丸の内線西新宿駅や新宿警察署のすぐ近くにあった。青梅街道の内側にある超高層ビル群側とは反対側である。西新宿は道路一つ隔てただけで顔をいきなり変える。営業所がある周辺は小さなビルが乱立しているのだ。
 匠はJR新宿駅からずっと急ぎ足で営業所までやって来た。営業所は間口は狭く、奥行きが広い五階建てのビルだった。ここの最上階だけ居住スペースとなっており、津紀子が上京した時はそこに泊まる事になっている。
 タッチ式自動ドアを開き、中に一歩入ったが一階の店舗はすべての接客用カウンターが埋まっていて朝から盛況だった。
 「いらっしゃいませ」
そう声をかけられたものの、入店してきたのが社長の見慣れた孫である事に気が付いた営業所長が、上を指差し祖母が二階にいるというジェスチャーをしてくれる。匠は「ありがとう」と返すと、狭い階段をつかつかと上がっていった。
 二階はオフィスになっていて数名の社員が忙しそうに働いていたが、皆匠の姿を認めると「おはようございます」と気さくに挨拶してくるので、匠はその都度律儀に挨拶を返してから「社長は?」と尋ねると、一番奥にあるしっかりしたパーティションで区切られた社長室にいると言われたため早速向かった。
 のぞき窓の付いているドアの外側からパーティション内を覗き込むと、眼鏡をかけた祖母の津紀子が高級な革のソファに行儀よく座って何かの書類を読んでいる。一気に緊張する匠だったが、呼吸を整えると意を決してノックした。
「おばあさん、匠です」
「早かったね、お入り」
 津紀子が書類から目を上げ入室を促したので、匠は恐る恐る社長室の中に入っていった。
「お忙しいところ、すみません」
匠が恐縮しながら頭を下げると、津紀子は書類をローテーブルの上に置き鷹揚に首を振ってみせた。
「全然大丈夫さ、そう言えばあんたに会うのはお盆以来だね。そっちにおかけ」
反対側のソファを指差すので、匠は身を小さく縮めながらソファに腰かけた。
 津紀子の肩越しに見える重厚な焦げ茶色のエグゼクティブデスクの上には、ノートパソコンと決裁待ちと思われるうず高く積まれた書類が見え、さらに片隅には長年津紀子が愛用している大きめの黒いブランド物のバッグも置いてあった。ブランドに疎い匠だったが、そのバッグは現在定価で二百万円近くする代物だとは小耳に挟んだことがある。津紀子はいいものを買った方が結果的に長く使えるからという理由でブランド物を好んで使っており、匠や駆の大学の入学祝いにも丈夫な高級時計を贈ってくれたのだ。
 土曜だというのに、スーツにネクタイ姿の匠を見て津紀子はにやっと笑う。
「朝帰りかい?」
匠は赤くなって咳払いで答えた。津紀子は続ける。
「まったくその年になってもまだ成長してるのかい。スーツの肩辺りがだいぶ窮屈そうじゃないか」
 匠はジムに通い続けた結果肩幅が予想以上に広くなったことを説明する。津紀子はくくっと笑った。
「だったら新しいスーツを仕立ててやるよ」
普段なら祖母の申し出を断る匠だったが、最近出費が立て込んでいたため、今回ばかりは有難く承諾したのだった。
 津紀子はチェーンでつながっている眼鏡を外すと一度立ち上がり、ドアを開け一番手近にいた若手の男性社員にコーヒーを二つ持ってくるように依頼し、再び元の位置に腰かけた。匠はそんな祖母をじっと見つめる。ショートヘアをきれいにグレイに染め、痩せた身体を紺色のオーダーメイドスーツで包み、背筋をピンと伸ばして座っている津紀子はとても八十代には見えなかった。匠が口を開くのを今か今かと待ち受けているようである。
 匠は再度咳ばらいをすると、ここに来るまで頭の中でずっと組み立てていた話を切り出した。
「ええと……小さい時、おじいさんの作った花瓶を壊して申し訳ありませんでした……」
そう言ってから深々と頭を下げる。完全に予想外の匠の言葉に然しもの津紀子も目を丸くした。
「いきなりどうしたんだい? 今頃になって昔の懺悔なんて始めてさ」
「いや、ずっと悪い事したって思ってたんですけど、なかなか言い出せなくて……」
匠が恥ずかしそうに目を伏せごにょごにょと口の中で言うと、津紀子は明るい声であははと大笑いを始めた。
「そうかいそうかい、あんたはずっとあの時の事気にしてたんだね、確かにあんたはあれ以来うちに来るといつも借りてきた猫状態だったっけ……」
 まだ剣道を習い始める前で正座にも慣れていなかった幼い頃、正座のまま津紀子の説教を一時間近く聞く羽目になったのだ。
「……おじいさんの作ったものがおばあさんにとってどれだけ大切なものだったか、自分は知らなかったから……」
「形あるものはいつか壊れるのさ。あたしも迂闊だった。我が子が皆女の子だったから男の子があんなに活発だって知らなかったからね、大切なものをあんなところに置くべきじゃなかったんだ……」
「……本当にごめんなさい……」
匠は膝に手を置くと鍛えられた身体をきゅっと縮める。津紀子はそんな孫に優しく微笑みかけた。
「もういいんだよ……あんたの気持ちは十分伝わったから……」
 それから腕を組んで再び匠をじっと見つめてきた。
「だけど、これだけを言いにわざわざあたしに会いに来たわけじゃないんだろう? それで本題は?」
 この時ドアがノックされた。先ほどコーヒーを淹れるように頼まれていた男性社員が、プラスチックの使い捨てカップに入れられたコーヒーを二つ運んできてくれたので話が中断する。匠のコーヒーの横に砂糖とポーションミルクが置かれたので、それらは社員が持っていたお盆に即戻した。一方津紀子は砂糖とミルクを両方コーヒーに投入し熱心にかき混ぜる。
 淹れたての香ばしいコーヒーを味わいながら、匠は心の中で苦笑する。やはり読まれていたか。今まで自分からは連絡を寄こしたこともない孫から突然電話があって、幼い頃の悪戯を謝って終わりのはずはないと津紀子だって分かっているはずだ。
 匠はもう一口コーヒーを飲んでからローテーブルに置き、ぴんと居住まいを正すと
「先日真由子叔母さんと会ったんですが……」
と先週土曜の件を手短に話した。
 「……叔母さんから、うちの両親が結婚する前、母さんが父さんの二番目のお兄さん……誠伯父さんと付き合ってたって聞いちゃって……一体どういうことなのかおばあさんに確認しておこうと思いまして……」
 匠はしばらく悩んだ末、祖母に対しては正攻法で行くことにしたのだ。津紀子はしばらく匠をじっと見据えていたが、コーヒーを飲んでからゆっくりと口を開いた。
「……あんたのことだ、興味本位で聞いているわけじゃないんだろう?」
「もちろんです……」
匠は真剣な表情で頷いた。匠は、実の父親が亡くなっても帰国しなかった誠と両親の間には何かしらの確執があったと確信していた。
 津紀子は逡巡するようにソファのひじ掛けをしばらくトントンと指で叩いていたが、やがて深々とため息を吐いた。
「あたしがあんたに事情を話したと知ったら、加奈子が取り乱すだろうね……とはいえ今後あんたが地元に帰った時に無責任な噂話を耳にするかもしれない……あんたももう一人前の大人だ……しかも立派な職に就き、しっかりとした分別もある……だったらあたしが生きているうちにきちんと話した方が害がなさそうだ……。いいかい、頼むから、加奈子には今からあたしが話す事をあんたが知っているって悟られないようにしておくれ」
匠は神妙に頷いた。
 津紀子はコーヒーを全部飲み干してから、当時の事情を話し始めた。
「……真由子から既に聞いているかもしれないけど、加奈子が地元に戻って来た頃丁度バブルが崩壊してね、しばらくは山城不動産もバタバタしてたんだよ……加奈子は勝手が分からないなりに踏ん張ってくれた……ようやく会社が落ち着いて来た頃、地元企業の若手にインタビューするという取材で我が社にやって来たのが経済誌の記者をしていた風谷 誠だった……」
匠は誠の名を耳にして緊張を覚える。
「……W大の文学部を卒業した誠は、本当は東京で雑誌の編集者になりたかったらしい。だけど田舎出身でコネもないから結局仕方なく地元に舞い戻ってきて、さほど興味もない経済誌の記者を渋々やっていたそうだよ」
津紀子は少し考え込んでから話を続けた。
「……加奈子は学年が一つ上の誠の事を元々知っていた。高校でも有名なプレイボーイだったらしいからね」
「プレイボーイ!?」
 匠は先週見た誠の写真を思い出していた。確かにいかにもモテそうな容姿ではあったが、父方の風谷家は堅実な家庭だったから驚いてしまった。
「……今風に言えば物凄いイケメンだったんだよ。しかもファッションセンスも洗練されていたし、知識がとにかく豊富でね、都会的なものに飢えていた加奈子は、誠が女をとっかえひっかえする男だって知っていたはずなのにころっと参ってしまったんだよ……」
津紀子は目を伏せると深いため息を吐いた。
「あたしは加奈子が望むなら誠との結婚を許そうと思っていた。だけど一抹の不安を覚えて念のため興信所に誠の事を調べてもらったんだ。そしたら……加奈子以外に複数の女と同時に交際していた事が発覚してね……」
「……控えめに言って最低ですね……」
匠は呆れてしまった。津紀子は「全くだ」と顔をしかめてみせる。
「加奈子に証拠を見せたら激怒して、即座に誠に別れを告げた。それだけならただの男女の別れで済んだはずだったんだよ……」
「と言うと?」
 この時津紀子は少し躊躇っていたが、思い切ったように口を開いた。
「……愚かにも誠は加奈子を脅したんだ。仕事柄いいカメラを始終持ち歩いていたそうだから、それでいつの間にか撮っていた写真だったんだろうけど……この写真をばらまかれたくなかったら大人しく自分と結婚しろって……」
「なんてバカなことを!」
匠は思わず大きな声を上げてしまった。津紀子は言明しなかったものの、それは加奈子にとって恥ずかしい写真だっただろうし、立派な犯罪行為だった。
 津紀子は強く頷いた。
「本当だね……誠は山城家の婿になる事に執着してしまったらしい……楽して生きたかったんだろうね……だったらその名の通り誠実に生きていれさえすれば良かったものを……」
 ここで匠は恐る恐る尋ねる。
「それで……母さんは被害届を警察に出したんですか……?」
「最初からそうすれば良かったんだよ。なのに加奈子ときたらそうせずに、誠の行為をよりによって、かつての同級生で誠の弟だった剛君に相談してしまった……」
 匠は絶句した。父は身内の犯罪行為を被害者から相談されてしまったという事か。
「もちろん剛君は当初加奈子に被害届を出すことを勧めた。だが加奈子は主に羞恥心と……それから剛君の立場を心配してそれは出来ないと言ってしまったんだ……」
 母は当時着々とキャリアとしての地位を築きつつあった父の立場を気にしたという事なのか。身内が犯罪者というハンデを多少背負うことになったとしても、あの父はそんな些事を気にしたりはしなかっただろうに。
 「結局、懇願された剛君は加奈子の望むまま誠を諫めてくれた……ついでに誠の所有していた加奈子の写真やネガも全部焼却してくれたそうだ……」
「そんな…………」
それを聞いた時匠は頭を殴られたようなショックを受けてしまった。よりによって父が証拠品を焼却するという判断をした事がにわかには信じ難かった。
 「私達以外誰も誠がしでかした事を知らないんだから、誠が犯した罪は宙ぶらりんになってしまった……。この件では剛君には本当に悪い事をしたと思ってる……」
「本来なら父さんは母さんを説得すべきだったのに……」
匠の声がわなないた。津紀子は重々しく頷く。
「あたしもそう思ってる。でもそうはしなかった。結果誠は罪を償うこともなく出国してしまった」
「どうも意地でも日本には絶対戻らないみたいですね……後ろめたさからなのでしょうか……」
バクバクし始めた胸の鼓動を必死に押さえつつ匠は言った。津紀子は肩をすくめた。
「それもあるだろうし、何より剛君がいるからね……」
「どういうことですか?」
「剛君は誠に、俺の目の黒いうちは二度と加奈子の前に姿を現すなって言ったようだよ」
 本気で怒った父にそう言われたから、たとえ実の父親の葬儀であっても誠は戻ってこれなかったのだろう。父は現在剣道七段の有段者でその試合を何度か見たことがあるが、全身からほとばしる気迫はすさまじく、並みの犯罪者なら間違いなく睨まれただけでたじろぐだろう。
「……ああ……なるほど……」
匠は心底納得したが、同時に憂鬱な気分になった。
 母はこの件に関しては完全な被害者だ。知らないうちに恥ずかしい写真を撮られそれをネタに脅迫されたなんて、どれだけ恐怖や悲しみ、怒りを感じた事だろう。警察に被害届を出すことによって誠の所有する写真やネガが証拠品として押収されることを考えたら、母が臆してしまった事も理解できなくはない。今なら被害者に様々な配慮がなされるだろうが、三十年近く前はどうだっただろうか。女性警察官などほとんどいない時代だ。悩んだ末に、被害届を出す事よりも父に個人的に相談することを選んでしまったことも責められないだろう。
 しかし意外だったのが父の行動だった。厳格で職業倫理感も高い父が情に絆される事があるだなんて、全く思ったことがなかったからだ。いくら同級生からの切羽詰まった相談だったとしても、実の兄の犯罪の証拠を隠ぺいした上で見逃すとは信じ難かった。
 匠はわが身に置き換えて少し考えてみる。駆がそんな卑劣な犯罪行為に手を染めるとは想像もできないが、ただの同級生がそんな相談をしてきたら父と同様の選択をするだろうか? いや、同級生にはやはり被害届を出すように勧めるだろうし、一方で弟には即自首を勧めるだろう。
 要するに、父にとって母はただの同級生ではなかったという事だ。以前父が酔って機嫌の良い時に匠にぽろっと語ってくれた思い出話が記憶に蘇ってきた。大学時代、東京に進学した者達だけの高校の同級会があって、幹事だった母に誘われるがままにうっかり参加してしまったけど、母と自分の格差に愕然としたという切ない話だった。
『母さんは当時流行りの真っ赤なスーツ着てたのに、俺ときたらよれよれのシャツと擦り切れたジーンズ姿だった。同級会が終わったら、わざわざ男友達が高級スポーツ車で母さんの事迎えに来てたんだぞ』と父は思い出し笑いをしていたが、当時本当はどんな気持ちでそれを見ていたのだろう。
 祖父が県職員、祖母が薬剤師と共働きをしていたはずの風谷家が何故そこまで困窮していたのか不思議に思い、匠は理由を尋ねたところ、父はこう説明してくれた。当時資産など特になかった風谷家は盛岡市内の便の良いところに一軒家を購入したために重い住宅ローンを抱えており、更には匠から見たら曾祖父の介護もあった。今と違って介護保険などない時代だ。その負担が家計に重くのしかかっていたのだろう。
 そんな折、誠が勝手に東京の私大への進学を決めてしまいその仕送りで更に家計が圧迫されたのだとか。父はこう言っていた。
「俺達兄弟は、親からは頼むから進学は国公立だけと念を押されていたはずなのに、あいつはわざと三教科しか勉強していなかった。それじゃ国公立に合格するはずがない」と。 誠は最初から記念受験という名目で受験したW大に行くつもりで念入りに準備していたのだ。随分と狡猾な高校生である。
 一つ年下の父はそのとばっちりを受け、せっかくT大に合格したにもかかわらず親から大して仕送りはできないと宣告されてしまった。むしろT大生ならアルバイトで楽に稼げるだろうとまで言われてしまったらしい。それで半ば自棄で、寮費がわずか四百円だったという駒場寮に住むことにしたのだとか。意地でも誠とは同居したくなかったのだと、父は吐き捨てるかのように言っていた。
『親から仕送りを受けている身分のくせに、アパートに平気で女を連れ込んで同棲するヤツと同居なんてできるか』
 それを聞いた時、匠は父がどんな思いで誠の話をしていたのか全く分かっていなかった。単にずるくて女にだらしない兄の昔話をしているのだと思っていたのだった。
 「事情は大体把握しました……だけどどうしてそんな曰くのある二人が結婚したのですか?」
 真由子の話だと母と誠の交際は周知の事実だったようだ。交際の破局自体はよくある話だが、誠が逃げるように出国した後に、誠の弟である父が山城家の婿として納まったのはまさに地元の格好のゴシップだっただろう。
 津紀子は吐息を漏らした。
「……あれからしばらく加奈子は参ってしまってね……当時剛君は地方に赴任していたんだがその後を追っかけて行ってしまった、我が家の仕事を放り投げてね……。剛君は激務だっただろうに、弱った加奈子をしっかり支えてくれただけじゃなく、プロポーズもしてくれた……そんな経緯を知ってしまったら反対なんて出来る訳ないだろう……」
「でも自分はおばあさんが反対したって聞いてました……」
 匠が首をかしげると、津紀子は当時の裏事情を説明してくれた。
「本当に反対したのは風谷のお母さんの方だよ。誠はお母さんのご自慢の息子だったらしくてね、誠が加奈子と交際している時は喜んでいたらしいが、その誠が加奈子と別れた直後に海外に行ってしまい、何故か三男の剛君が山城に婿に行くとなったら、三人もいた息子が我が家のせいで二人も奪われてしまったって感じたんだろうね」
 事情を知らなければそう感じるのも無理はない。津紀子は父から頼まれて結婚に反対する振りを装ったようだ。父は両方の親の反対を押し切って母と結婚するという体にして、自分を兄から彼女を奪った悪者に仕立て上げたらしい。もちろん母とて陰口は叩かれたものの、当時主に悪く言われたのは父だったようだ。兄から彼女を奪い資産家の婿にちゃっかりと納まった野心家のキャリア警察官というわけだ。
 「剛君はそれは立派に加奈子の盾になってくれた……何も知らない連中が好き勝手言ったけど全く動じなかった……あたしは剛君に本当に感謝してるんだよ……」
「自分は……父さんとおばあさんは仲が悪いと思っていました……しょっちゅう喧嘩しているから……」
匠がそう言うと、津紀子は首を少し傾げ頬に手を当てた。
「……喧嘩の原因は主に駆の教育方針を巡ってだからね……こればっかりはあたしも譲れなかったんだよ……」
 そうだ、駆だ! 匠は肝心の事を思い出した。そもそも両親の事を調べ始めたきっかけは、母の駆に対する態度が明らかにおかしいからだった。
「おばあさん、母さんがかーくんに極力関わらないないようにしているのは、誠が原因だったりしますか!?」
匠は立ち上がらんばかりに身を乗り出した。津紀子は匠をじっと見つめてくる。匠も津紀子を見つめ返した。二人の視線がぶつかり、やがて津紀子がそっと目をそらした。
「……どうしてそう思うんだい? その根拠は?」
匠は言いよどむ。
「だって…………かーくんは誠に……ほんの少しだけ……似てるじゃないですか……」
 匠とて認めたくなかった。ずっと駆は祖父の滋(しげる)にそっくりだと思ってきた。実際二人の写真を並べたらその血の繋がりを誰もが認める事だろう。そこに誠の写真を追加したら、親子三代の写真だと誤解する者がいても不思議ではない程度に三人は似ていた。もちろん滋と誠には血縁関係は一切ないため、本当に偶然なのだが。
 ただし、滋が端正できりりとした往年の映画スターのような二枚目だとしたら、誠は多少滋を崩した上で相当甘味を足した結果、多くの女性の目を惹きつけてやまない魅力が備わったような印象だ。そして駆だが、ベースは滋の整った顔立ちに誠の甘さが多少風味付けされた結果、少女漫画に登場する王子様のような雰囲気を醸し出している。
 「……あんたも気が付いてしまったんだね……」
津紀子は悲しげに呟いた。
「駆は生まれた時からずば抜けてきれいな子だった……加奈子は本当は女の子が良かったなって言ってたくらいで、駆が赤ん坊の頃はちゃんと可愛がっていたんだよ……なのに……駆が二才過ぎた頃だっただろうか……突然この子は誠に似ているって言い出して取り乱してしまった……」
匠はそれを聞いて胸がえぐられるような気持ちになった。
「あたしは駆はあんたのお父さんに似ているだけだって言ったんだけど、加奈子は駆もお父さんも誠に似ているから大嫌いって言い出しちゃってね……」
津紀子はその時の事を思い出したように唇をぐっと噛んだ。
「……確かに誠は少し滋さんに似ていた……腹立たしいったらありゃしない……加奈子は本当はお父さんっ子だったのに……」
 母はそれまで自分の父親と誠が似ている事に気が付いていなかったのかもしれない。なのに、我が子がある時誠に似ている事に気が付き、そして大好きだった自分の亡くなった父親とも似ている事も悟ってしまった。
 「それ以来加奈子は駆に触れられなくなってしまい、しばらくはあたしが世話をしたりもしたんだけど、仕事もあったからあたし一人では限界でね……見かねた剛君が駆が誠に似ているのは、誠と血が繋がっている自分が原因だ、駆を連れて離婚するって言い出したんだよ……」
「そんな事があったんですね……」
匠は呆然とする。津紀子はため息を吐いた。
「……だけど加奈子は離婚を断固拒否した……加奈子は剛君『命』だったからね……。あたし達は相当話し合った結果、あんたも含めて平日の子どもの世話は和子にお願いする、剛君は駆を誠のようにだらしない男にならないように厳しく躾ける、加奈子は出来る範囲で駆の世話をする、だけど無理な場合遠慮なくあたしを頼るって決めた……結果的に幼かったあんたも巻き込んじゃったけどね……」
 和子とは山城家の遠縁の女性で、仕事が忙しい津紀子や加奈子に代わって匠や駆の面倒を見たり食事を作ってくれたおばさんの事である。
「だから自分がかーくんの面倒を見ることになったのか……」
匠は全てを合点した。
 幼い頃の記憶を遡ると、確かに自分が五才頃から弟の世話をしていた気がする。和子おばさんに連れられ、兄弟で手を繋いで家から少し離れた保育園に通っていた。保育園から帰ってくるとおばさんが早速台所で夕飯の支度を始めるので、二人きりでブロックを組み合わせたり、落書きしたり、時には幼児用教材のDVDを見たりもした。駆は大人しかったから手がかかったりはしなかったが、三つ離れていたからやはり遊びや意思疎通では物足りなさを感じて腹立たしく感じることもあった。それでも「おにいちゃん、おにいちゃん」と無邪気に慕ってくれる弟は可愛かった。
 単身赴任していた父が仕事が許す範囲で週末帰省してくると、兄弟に絵本を読んでくれたり、竹刀の素振りの仕方を教えてくれたりと、普段父子の触れ合いがない分けっこう構ってくれていた気はする。だが、大人しくて特に怒られるような問題行為も起こさない駆に対して父は理不尽なほど厳しかったと思う。
 母はというと、もちろん仕事が忙しかった事は事実だったが、和子おばさんが準備してくれた夕食を温め直し家族三人で食べ、母がその後片付けをした後は、仕事と称して不自然なほど自分の書斎にこもっていた。母がリビングにいるのは父が戻ってくる時くらいだった。
 匠が小学校に入学する頃までには、家で漫画やアニメを見たりゲームをする事は禁じられていた。誕生日のプレゼントに、保育園の友達と同じような携帯ゲーム機を父にねだった駆は、駄目なものは駄目だ、しつこい! と言われついにはぶたれたこともあった。
 母からは必要最低限の相手しかされず、父からは殊更に厳しく扱われていくうちに、駆は萎縮していき、いつの間にか家では俯き空気のように振舞うようになっていった。一方で匠は駆と同じように厳しくされることを恐れ、人一倍勉強やスポーツに励むようになった。励めば励むほど両親から褒められる事を学習してしまったからだ。
 父が内気な駆に特に厳しいのはその仕事に影響されたからだと、匠は今の今まで思いこんでいた。もちろん全くの無関係ではないだろう。警察は相当マッチョな世界である。女性警察官が増えだいぶ改善されたとはいえ、その傾向は依然強い。
 だが大人しく内向的な駆を男らしく鍛えるというよりも、誠のように育てたくないという情念から厳しくしていたという事実に、父の意外な一面を見た気がしていた。
 誠は幼い頃からマニアックな漫画を好み、もう少し大きくなるとテクノポップなどを聞くようになり80年代サブカルチャーにどっぷり漬かる青春時代を送っていたようだ。
 風谷家の物置には誠が残していったものがどっさり残されており、子どもの頃探検と称して父方のいとこ達と物置を漁った時、色褪せた漫画やレコード、ポスターが大量に発掘されたのを匠は覚えている。亡くなった風谷の祖父がそう語っていたし、先日見かけた誠の会社のサイトでも、自己紹介には相変わらずサブカル好きであることが記されている。
 そんな多趣味だった誠と違って父は高校まで剣道と勉学にひたすら励んでおり、大学に進学するまでは趣味らしい趣味もほとんどなかったようだ。両者をそれぞれ認めていた風谷家の祖父母は懐が深かったのだろうが、父は母の一件以降、誠の好んだものを憎んだのだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺があるが、自分の築く家庭からはそういったものを一掃せずにはいられなかったのだ。もちろんサブカルチャーには全く罪はないというのに。
 あまり感情には流されない人だと思っていた父にそんな執念深い一面があると知って、匠はえも言われぬ気持ちに陥った。
 しばらく俯き黙り込んでしまった匠を切なそうに見つめていた津紀子だったが、やがてぱんと手を叩いた。
「あんたの知りたい事は概ね話したよ、満足かい?」
 悪酔いした時のように吐き気と目眩がするが、匠は覚悟を決めるようにぎゅっと右のこぶしを握り締めた。自分の役目は両親の過去を知って終わりではない。むしろ問題はこれからどうするかなのだ。背筋を伸ばし顔を上げると、深呼吸をしてから口を開いた。
「おばあさん……事情は大体分かりました。母さんは卑劣な犯罪の被害者だった。深く傷つき、今でもトラウマに苦しめられているんですね……」
「……確かに誠のやった事はあたしも絶対に許せないけど、加奈子はとりわけ繊細だったからね……」
そう津紀子は言う。だがそれに対して匠はきっぱりと否定した。
「自分は心理学の専門家ではないので詳しい訳ではありませんが、犯罪被害者のトラウマについては多少学んでいます。トラウマは誰でも抱える可能性はあります。トラウマを背負った被害者が似たものをひたすら回避しようとする……それも症状の一つなんです……母さんが誠に似ていると認識してしまったかーくんを避けようとした事はある意味仕方なかった……」
母がトラウマを背負ってしまったのは、その繊細さで説明してはならないと思ったからだ。
 「じゃあ、あの時あたし達はどうすれば良かったんだい!?」
津紀子は悲痛な声を上げた。匠は、祖母が非難されたように感じないように、細心の注意を払いながら答える。
「本当はその時点で母さんにカウンセリングを受けさせるべきだったでしょうけど……」
「もちろん、あたしも剛君も加奈子を医者に連れて行こうとしたんだよ! だけど加奈子が頑なに拒否してしまった。自分は絶対に病気じゃないって……首に縄をつけてまで連れて行く訳にはいかないじゃないか!」
津紀子の声はやるせなく響いた。匠は頷く。
「その通りですね……でもその結果母さんの心は癒される事もなくそのままになってしまっています……それだけじゃない、何も悪くないかーくんがとばっちりを受けて、結果的に家から追い出される羽目に陥ってしまった……こんなのおかしいじゃないですか……」
 津紀子は、ああ……と呻いてから両手で顔を覆った。
「……あんたの言うとおりだ……半年前剛君から、駆がゲームのやりすぎで留年したから『勘当』したと聞いた時、あたしは剛君に強く抗議したんだ。剛君が駆に厳しくしすぎたからじゃないかって……でも剛君は聞く耳を持たなかった……それどころか駆は所詮誠と同じ……もう勝手に生きればいいんだって剛君が言った時、あたしはショックのあまり足元が崩れ落ちるかと思ったよ……」
 それを聞いた瞬間、匠はそれまでずっと必死に抑えてきた自分の感情が溢れだし、目からはとめどなく涙があふれてきた。卑劣な男の愚かな行為が四半世紀に渡って自分の家族を滅茶苦茶にして、今となっては呪いのように現在進行形で災厄をまき散らしている。
「何て事だよ…………」
 母は犯罪被害者だったし、父はそんな母をひたすら庇い守ろうとした。職業倫理からは逸脱してしまったものの、人としては十分理解できる。
 そんな二人が結ばれた後、誠の面影を仄かに彷彿とさせる駆が生まれてからボタンの掛け違いのような狂いが生じてしまった。母は駆に背を向け、父は必要以上に駆を厳しく躾けてしまったものの思ったようには制御できず、単位を落とし留年という駆の人生の中で一番どん底の時に簡単に見捨ててしまった。せめてもの救いは、当事者の駆が父親から見放された事を逆に家からの『解放』と捉えていて、前向きに明るく生きている事だった。
 年甲斐もなくぼろぼろと泣いている匠に、津紀子はエグゼクティブデスクの上に置いてあったボックスティッシュを黙ってそっと差し出してくる。匠はそれで涙を拭った。
「……あんたは何て優しい子なんだろう……」
 そう言いながら津紀子も自らの目をティッシュで拭いた。津紀子もずっと苦しかったはずだ。四十才頃に夫をガンで失ってからもずっと気丈に頑張ってきたと聞いているが、その陰でこんな秘密を抱えていたのだから。匠は涙で潤みぼやけて見える祖母を見ながらそう思った。更に津紀子は母親から突き放された駆のために、忙しい仕事の合間を縫ってずっと寄り添ってくれていたのだ。
 親戚一同、駆が津紀子の最愛の夫、滋にそっくりだったから溺愛しているという共通認識だったし、津紀子自身も頻繁にそんな事を匂わせていたから匠自身もそう信じていたのだが、実際はそんな単純な話ではなかったのだ。匠はそんな津紀子に改めて尊敬の念を覚え、その肩の荷を少しでも下ろして欲しいと心から願った。そこで思い切って涙声でこう提案する。
 「……おばあさん……トラウマ解消のための心理カウンセリングなのですが、本人が行くのを拒むようなら当初は親族が行ってもいいんですよ……」
すると津紀子は匠を期待を込めた眼差しで見つめてきた。
「本当かい?」
「そうなんです、母さんが嫌がるならまずはおばあさんや父さんが行ってもいいんですよ……」
津紀子は考え込むように少し目を伏せ頬に手を当てたが、意を決したように顔を上げた。
「分かった、とりあえずあたしが行ってみるよ! いいカウンセラーを探すのを手伝ってくれるかい?」
「もちろんです!」
 幸い匠はそういった情報に詳しい同僚に恵まれていた。来週早々カウンセリングの情報収集を行う事を決意する。本来父だって犯罪被害者や交通事故遺族のメンタルケアなどサポートの仕事に尽力していたはずだ。そういった事案は元々得意分野のはずだが、自分達の事になると客観視できなくなっているのかもしれない。
 匠は津紀子になるべく早めに評判の良いカウンセラーをピックアップする事を約束すると、山城不動産新宿営業所を後にした。別れ間際、津紀子が匠のがっちりとした手を痩せた両手でしっかりと握り締めるとじっと見つめてきた。
「匠、あんたは本当に立派に成長してくれた……ありがとう……だけど……だからこそあたしは心配だ。もっと我儘言っていいんだからね……辛い時には誰かに甘えたって許されるんだよ……」
「うん、ありがとう、そうしますよ……」
 匠は祖母の言葉に困惑しながらそう返したのだった。