番外編1 信言は美ならず、美言は信ならず
ー/ー 山城 匠は個人の家の固定電話に電話をかける時はいつも緊張する。それが仕事でも私用でも。誰が出るか分からないからだ。自分も今時の若者の一人なのだと感じる瞬間である。
都内にある警察庁の独身寮の自室でパソコンデスクの前に腰かけながら、匠は自分のスマホから母の二番目の妹、叔母の岩泉 真由子の世田谷区にある自宅に電話を掛けていた。
「岩泉さんのお宅でしょうか……」
「さようですが……」
声から察するに叔母の真由子で間違いないはずだが、登録されていない番号からの電話に対して、少々刺々しさが感じられた。今のご時世営業の電話だの、振込め詐欺だの、出ても楽しくない電話ばかりだからそれも仕方のない事だ。
「あ、真由子叔母さん? 甥の匠です、お盆以来ですね、お元気ですか!」
匠はいつもより声のトーンを上げ、明るく喋り始めた。
「なんだ、たっくんか。私はいつも元気よー、相変わらず暇を持て余してるけど」
真由子の声もたちまち優しくなる。
「我が家に電話なんて珍しいわね。大地に御用?」
大地とは真由子の息子で、匠とは同学年にあたる。大学卒業後建築事務所に就職し、今年の一級建築士の試験を受けたところだというところまでは聞いていたが、そう言えば試験の結果までは聞いていなかった事を思い出す。
「いえ、そうではなく叔母さんご自身に御用が……」
と言いかけたとたん、真由子がころころと笑い始めた。
「どういう風の吹き回し? たっくんからの電話なんて初めて!」
匠はパソコンデスクの上に置いてあるチケットを、空いた右手で取り上げた。
「実は……来週10月9日土曜日上演の、とある演劇のチケットを二枚突然知人からいただいてしまったのですが、叔母さん興味ないかと思いまして……」
そう言ってから、シェークスピアの悲劇『リア王』を現代物として翻案したという演劇の詳細を説明する。本当はそのチケットは匠自身が購入したもので、観劇が趣味の真由子の好きな劇団については以前に耳にしていたから、しっかり覚えていたのである。
「本当に!? 是非行きたいわ~♪」
真由子の声が弾んだ。すかさず匠が話を続ける。
「もう一枚ですけど、自分がご一緒してもいいですか?」
「もちろんよ。イケメンの甥っ子とデートなんて嬉しいじゃない♪」
「叔母さんには素敵なイケメンの息子さんがいるじゃないですか」
「大地となんてもう何年も一緒に外出してないのよ。何度誘っても駄目。亜由美とは頻繁に出かけてるんだけどね」
とぷんすか怒っている。亜由美とは真由子のもう一人の子どもで、大地の二つ年上の姉の事である。現在商社に総合職として勤務し、忙しい毎日を送っているらしい。
「帝国劇場、14時開演なので、11時頃に銀座で待ち合わせして早めのランチとかいかがですか?」
匠は不自然にならないように真由子をランチに誘導する。本当の目的は真由子からさりげなく両親の情報を聞き出す事だからだ。演劇チケットは真由子とのランチが不自然にならないための小道具でしかない。
「そうしましょう。嬉しいわ、今からワクワクしちゃう♪」
真由子はそう言ってから、うふふと笑った。
「精一杯おめかしして行こうかしら。銀座なんて行くの本当に久しぶり♪ 主人にたっくんからデートに誘われたって自慢しちゃおうっと」
匠は待ち合わせ場所と時間を決めた後、自分のスマホの番号を真由子に伝えてから通話を切った。緊張から解放され、息を大きく吐き出す。
真由子は母、加奈子とは五つ年が離れていたため、どこまで両親の結婚事情を知っているのかは全くの未知数だ。しかし東京に住んでいる唯一の母方の親戚であり、同時に一番アポを取りやすい相手だった。人柄も明るく気さくな事から、『聞き込み』の手始めには丁度良かったのである。
その直後、匠は弟の駆のスマホに電話を掛けた。2コールほどで駆はすぐ出てくれる。
「今大丈夫?」
匠が尋ねると、うん、と駆は明るい声で返事をしてくる。
「あのさ、仕送りの件なんだけど……いくら氷室さんがお前を手助けしてくれていても、学費とか大変じゃないのか?」
先日氷室 有葉に指摘された通り、仕送りの件を駆に確認してみることにしたのだ。すると駆は即答した。
「何とかなってるから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。キッズシッター以外に、おばあさんがテニスのコーチのアルバイトを紹介してくれるんだ……それがけっこういい日給で……ただ……」
「ただ?」
「そのバイト、肝心のテニスのコーチは一時間くらいで、残りの時間はホテルでおばあさんのお友達のマダム達とアフタヌーンティとかなんだよ!」
駆はぷりぷり怒っている。匠はそれを聞いて吹き出しそうになった。駆は祖母のお気に入りで、かつては祖母が上京するたびにハイブランドの衣服などを買い与えられていたことは知っていたが、今は駆が援助を一切断っているのでそういう形で間接的に援助しているのだろう、恐らく。
「コーチはいいんだよ。大学のサークルでもさんざんやってきたから……だけど、マダム達との会話が辛いんだ……オレ、口下手だし……何話せばいいんだよ……」
思わぬ愚痴を聞かされてしまう。確かに駆が口達者なホストのように滑らかに話すなんて想像できない。だが有閑マダム達からすれば、孫のような年齢のイケメンを相手に『ヌン活』できるだけで大満足なのだろう。何より身元は確かだし、合法だ。厳格な父、剛が駆のそんな姿を見たら卒倒するかもしれないが、元はといえばこれも父自身が蒔いた種だ。
「そっか、あれこれ大変だろうけど、頑張れ!」
匠は弟を励ましてやる。
「だけどどうしても足りないようだったら、遠慮なく俺に言えよ、これでも貯金くらいはしてるからさ」
「でも兄さん、その貯金で大型バイク買うって言ってたよね?」
駆の言うとおり、匠は大型バイクが欲しくて就職してからずっと貯金してきたのだ。子どもの頃白バイ隊員に憧れ、学生時代には思い切って大型二輪免許を取得したものの、さすがに大型バイクを新車で買うまでには至らなかった。就職したらいつか自前のバイクを買ってやると決めていたのだ。
「別に全然急いでないし」
実際新車を買えるだけの貯金は既に十分すぎるほどあった。だが結婚という文字が頭をちらつくようになって以来、買うのをためらうようになっていたのだ。いくら二人乗り出来るといっても、大型バイクよりも自動車を買う方が現実的な気がし始めていたのだが。
「うん、ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」
駆の声は始終朗らかで、決して無理をしている雰囲気は感じられなかった。
その後しばらく他愛もない雑談を交わした後、匠はスマホを切った。有葉の言うように、駆は何とか自力で学費を工面しているようだ。有葉と同居している限り親からの仕送りは全く必要なさそうである。
先日居酒屋で話した時、有葉は駆を手放したくないと言っていたが、一方の駆はというと、以前匠と食事をした際有葉への恋心を語っていた。匠は告白すればと勧めたのだが、駆はお馴染みの困り顔をしながら首を振ってこう語ったのだ。「オレは留年中の半人前だし、言えるはずないよ」と。またこうも言っていた。「いつか堂々と告白できるように、今はひたすら頑張るだけだから」
匠は駆が恋について語ったことをそれまで聞いたことがなかった。母方の祖父譲りの鼻筋の通った整った顔立ち、ぱっちりとした瞳、長いまつ毛、すらりとした長身などから小学生の頃からやたらもてていたが、駆本人にとってそれは完全に他人事だった。
バレンタインデーにチョコをもらうと、ホワイトデーには律儀にお菓子を見よう見まねで作り、チョコをくれた者全員に平等に返していたようだが、部屋に貼っているポスターは憧れのプロテニス選手のものばかりだったし、恋というより女性そのものに対して興味があまりなかったのだろう。なのに有葉の事を語る時の駆の顔は上気し、その瞳はきらきらと輝いていた。実家ではいつも俯き加減で、眉を寄せ困り顔をしていたというのに。
「お前ら、さっさと付き合っちまえよ」
もどかしく思った匠はつい呟いてしまう。決して認めたりはしなかったものの、有葉だって駆の事を憎からず思っているからこそ「手放したくない」なんてことを口走ってしまったのだろう。二人が同居し始めてから確か半年が経過していたはずだが、まるでティーンエイジャー同士の恋のように一切進展していないようだ。自分を半人前だと認識している駆ならともかく、社会人としてしっかりと自立しているはずの有葉が、全く煮え切らない態度を取り続けているのが謎だった。寂しいと感じていたのなら尚更だ。
他人様の恋の行方はさておき、駆が父からの仕送り再開を望んでいるわけではないことを確認できたのは良かった。知らずに行動し続けていたら、駆の望まぬ方向に事態が転がっていたかもしれないと考えるとぞっとする。有葉に事前に相談しておいて正解だったという事なのだろう。
匠が物心ついたころには駆が傍にいて、気が付けばずっと世話を焼いていたから、駆のことなら何でも知っている気分になっていたが、自分が知っていたのは駆の表面上の姿でしかなかった。本当はゲームや少女漫画、かわいいものが好きだった事も全然知らず、家ではひたすら読書するか音楽を聴くか落書きしかしていないので、せっかく人並み以上の運動神経に恵まれているというのに、内向的でもったいないとしか捉えていなかった。
また剣道の道場で駆がいじめられていたことにも全然気づいてあげられなかったことで、父親と駆の確執が生まれてしまったのに手を打つ事もできなかった。先日駆から過去の上級生からのいじめの件を告白された時、匠の精神的ダメージは相当なものだったのだ。
知らなかった事とはいえ、弟をいじめていた張本人を後輩としてずっと可愛がっていたという事実は、匠を激しく落ち込ませた。早く打ち明けてくれればよかったのにとは思うものの、それはいじめ被害者の駆に対して口が裂けても言えない台詞だった。あの当時の駆は既に親を全く信頼していなかったし、自身がいじめを訴える事で生じる人間関係の波紋の方を心配したのだろう。
匠は自分自身を正義感の強い人間だと自負していたが、その正義感も認知できない事柄に対しては完全に無力なのだと最近ずっと思い知らされている。だから恋人である大浦 英里香が反対しても、両親が隠している真実を知りたいと思ったのだ。知らない事でこれ以上無自覚に誰かを傷つけたくなかった。もちろんそう思う事すら独善だし、そもそも全てを知ることなど出来ないことは承知していたが、それでも何かしら問題を抱えているように思えてならない両親を、そして家族の未来を少しでも変えることができればと願ってしまうのだ。
10月9日真由子との約束当日、匠は寮を出る前にこんなシチュエーションではどんな服装をすればいいのか、はたと迷ってしまった。センスの良い駆ならワードローブの中からさりげなく洒落た服を選べるのだろうが、匠は英里香からファッションのダメ出しを何度も食らっており、自分のセンスには全くと言っていいほど自信がなかった。「服なんて着られればいいだろ」と言ってはいつもイヤな顔をされてしまうのだ。銀座でのランチに大劇場での観劇。ファストファッションにすると周囲から浮きそうだ。かといって、あまりにも気張ったスーツを着て真由子とのファッションに差が出てしまうのも困る。恥を忍んででも、真由子にどんな服装をするのか聞いておくべきだった。
散々迷った挙句、サックスブルーの長袖シャツにグレーのスラックスを選択し、そこに紺ブレを羽織る事にしたが、早速ブレザーに袖を通したところ学生時代に購入していたものだったため、筋トレのやりすぎで肩の辺りがだいぶぱつぱつな事に気が付いてしまった。やむを得ずそれは諦め、ざっくりした薄手の紺のカーディガンを羽織ることにする。
10月1日から職場のクールビズが終了したため仕方なくスーツを着始めていたが、就職する時に祖母にせっかく仕立ててもらったスーツすら肩がかなりきつくなっていた事を改めて思い出す。
「しまったな……」
匠はひとりごちた。独身寮に入居しているし、その年齢の国家公務員としてはそれなりの給料をもらっている身分ではあるが、最近英里香の司法試験合格祝いに背伸びして大枚はたいてしまったばかりで、ジャケットを複数新調するのは痛い出費である。筋トレにはまり調子に乗って身体を作り込んでいたが、適当なところで手を打たないとやがて着るものがなくなってしまうという事態に陥りそうだ。
匠は成果が見える事に励むのが好きだった。筋トレは努力すればするほどその成果が現れる。せっせとジムに通い、プロテインを摂取し、高タンパク質の食事を摂る。この繰り返しでみるみるうちに身体が出来上がるのだから、すっかり気持ちよくなってしまったのだがものには限度というものがあるようだ。
「観劇後、叔母さんにジャケットを見繕ってもらうとするか……」
そう呟きながら、独身寮を後にする。
匠は約束の5分前には東京メトロ銀座駅A2出口外に立っていた。目の前にお香や書画用品を扱う鳩居堂がある。地価が日本一高いところで有名な場所だ。警察官という仕事柄5分前行動を徹底的に叩きこまれたため、日常においてもそうしないと落ち着かなくなってしまっていた。一方真由子は約束の時間ぴったりに現れた。
「お待たせ!」
真由子はアラフィフの専業主婦なのだが、夫はメガバンクの銀行マンであり、子ども達も社会人となった今悠々自適な生活を送っているようだ。匠が心配していた服装だが、淡いオレンジのシフォンのブラウスに白っぽいフレアスカートで、ミセスのわりには可愛らしい雰囲気を漂わせていた。女優のように凛として美しい匠の母親とはタイプが全然違っていて、とても同じ姉妹とは思えなかった。
「今日はたっくんとのデートを本当に楽しみにしていたから、物凄く早く目が醒めちゃったのよ!」
真由子は興奮を抑えきれないように、どんどん喋っている。
「貴重な休日なのに、こんなおばさん相手のデートで本当にごめんね! でも、私の趣味が観劇だなんてよく覚えてくれていた事!」
真由子は実家に帰省する度、母相手に観劇や好きな俳優の話を沢山していたから、匠はそれをしっかりと記憶していたのだ。匠は人一倍記憶力が良かったのである。
「もちろん覚えていますよ。チケット譲ってもらった時、これは絶対に真由子叔母さんに進呈しなくちゃって思いましたから」
「もー、嬉しいわ♪ 出来た甥を持って本当に幸せ♪」
匠は真由子のマシンガントークを適当に流しながら、この怒涛のようなおしゃべりは母方の祖母、津紀子譲りだなと内心考えていた。
「……叔母さん、今日のランチなんですが、わざわざ資生堂パーラーを予約して下さったなんてなんだか申し訳ないです」
匠が頭を下げた。
「いいの、いいの! 主人がね、私がたっくんとデートするって自慢したら、チケットを譲ってもらうならお礼にランチをご馳走してやれって言うの。だったら私の行きたかったお店にしようと思って」
真由子はそう言って無邪気に笑う。匠は再度頭を下げた。
「そういうことなら、遠慮なくご馳走になります」
銀座の資生堂パーラーにはカフェとレストランがあるのだが、真由子が予約してくれたのはレストランの方だった。開店の時刻まで多少外で待ってから、開店と同時に入店する。
真白い清潔なテーブルクロスがひかれた席に腰かけてから、真由子がてきぱきとランチコースをオーダーしてくれる。
前菜が届くまで、匠は同い年のいとこである大地について真由子に尋ねた。
「確か大地君、一級建築士の試験受けたんですよね?」
「お陰様で一発合格しました!」
真由子は満面の笑顔で答えた。匠も笑顔で返す。
「それは本当に良かったですね。この前会った時、いつかは独立したいって言ってましたから」
「その時は山城不動産にお世話になるかも」
「お袋も大地君には期待してましたよ」
山城不動産は現在祖母の津紀子が社長をしている地方のディベロッパーだが、数年後には母、加奈子が後を継ぐことが決定しているものの、その後誰が継いでいくかは全く未定となっている。匠は国家公務員だから退職するまで家業には携われないし、『勘当』された駆は論外のため、残りのいとこ三人のうちの誰かではないかと匠は思っていた。同族会社ではあるがどうせ株式会社なのだから、直系の子どもが社長になる必要などないのだ。
「……かーくんは戻ってくるつもりはないのかしら?」
真由子の眉が八の字になった。匠は肩をすくめた。
「もともと理系で家業に全然興味なかったのに、あんな事になってしまったらもう絶対無理でしょうね」
「それにしてもゲームのし過ぎで留年だなんて……」
真由子がため息を吐いた。
「可哀そうに……子どもの頃に思いっきりゲームで遊ばせてあげれば良かったのに……かーくん、本当にゲームが好きだったものね……」
「え、叔母さん、どうしてその事を知っているんですか?」
匠は心底驚いていた。匠ですら駆がゲームが好きだとは知らなかったというのに。真由子はちょっと悲しそうな顔をして目を伏せた。
「実はね、かーくん、小学生の頃うちに一人で夏休み一週間くらい泊りに来たことがあったんだけど、その時亜由美のゲームで無我夢中になって遊んでいたの。私も可哀そうに思ってやりたいようにやらせていたんだけど、それだけじゃなく、あの時姉さんにちゃんと言えばよかったのかしらって後悔しているのよ……」
「そうでしたか……」
匠もため息を吐いた。匠は最初に遊んだゲームにはまれなかったせいか、禁止されていたものの特にゲームに固執することはなかったのだが、駆が幼い頃そこまでゲームに飢えていたとは全く気付かなかった。最近になって小中学生の頃友達の家で頻繁に遊ばせてもらっていた事は白状したのだが、東京の叔母の家に遊びに行ってまで夢中になっていて遊んでいたとは。
「でもご安心ください。今は以前よりのびのび暮らしてますから」
「あら、そうなの? なら良かったわ」
真由子が笑顔に戻った。
「おばあさんから、仕送りも受けず何とか大学に通ってるって聞いたものだからどんな生活送っているのか心配だったのよ。ああ見えてかーくんも案外逞しかったのね」
この時前菜が運ばれてきたので、二人は美味しいランチに専念し始めた。
食後のコーヒーとデザートが運ばれてから、そろそろ匠は今日の『デート』の本来の目的、聞き込みにさりげなく突入する。
「実は最近自分も結婚を意識するようになったんですよね……地元の同級生の結婚報告が次々に舞い込んできて……」
両親の結婚の話題に触れるためには、しんどいとはいえ自分自身を餌にするしかない。意識するようになった事自体は事実だ。
「で、ふと思ったんですけど、うちの両親ってどんな風に付き合い始めたのか、叔母さんご存じですか?」
皺ひとつないテーブルクロスのかけられた四角いテーブルの先に座っていた真由子は、元々大きな目を更に見開いた。
「……付き合い始めたきっかけですって? 聞いてないの?」
「ええ、絶対に教えてくれなくて。お袋は秘密って言って教えてくれないし、あの親父にそんな事聞けるわけないでしょう?」
真由子はあははと笑った。
「確かに剛さんにはそんな事聞けないわよねえ。私だっておっかないもの……」
それから右手を頬に当て少し考え込むような仕草をしたが、思い切ったように口を開く。
「たっくんはもう成人しているし、そろそろ時効だと思うからここだけの話って事でいいかしら?」
両親の付き合うきっかけが『時効』とか言われると不安しかないが、匠は覚悟を決めて頷いた。
「加奈子姉さんは大学卒業後、素直に地元に戻ってお母さんの仕事を手伝い始めたわ。東京じゃ相当ブイブイ言わせてたみたいだから大人しく戻って来たのにはびっくりだったけど」
「ブイブイって……」
匠が苦笑する。真由子も笑った。
「本当なんだって! 私と姉さんは五つ違うから高三の時に姉さんが戻ってきたんだけど、地元のあの雰囲気と姉さんがあまりにも合わな過ぎて、腹がよじれるほど笑ったほどよ!」
元々山城不動産は岩手の弱小ディベロッパーに過ぎなかったのだが、旧華族の三男坊である祖父を、借金と引き換えに婿に迎えてからは上流階級の人々とのつてが出来て、東京へ進出を図ったのだ。それが昭和四十年以降の話で、最盛期には東京周辺に土地や建物を相当数保有していたようだ。昭和という時代が終わり世間がバブルに熱狂している時、祖母、津紀子は時代の先読みをしたのだろうか、見る見る間に地価が上昇していく不動産投資からすっと手を引いてしまったらしい。結果、山城不動産はバブル崩壊時に大きな痛手を負わずに済んだと聞いている。
母はあまり自分の事を語るたちではなかったものの、大人しく地元に戻った理由について「おばあさんと最初からそういう約束だったの。学生時代は遊んでもかまわないけど、その代わり絶対に戻ってこいって言われていたのよ」と語っていた。あれは確か駆が母と同じK大への入学を決めた時開かれたささやかな祝いの席での話だった。普段駆には無関心な母も、駆が母校へ進学する事はそれなりに嬉しかったようで、珍しく大学時代の思い出話を笑顔で語ってきかせてくれたのだった。
すっかり都会の色に染まった加奈子が約束通り地元に戻ってきた頃と、バブル崩壊は偶然にも重なっていた。
「あんな時代だったから実家の会社(うち)もけっこう大変だったらしいのよ。その頃私は進学で東京にいたから主に伝聞だけどね。私は姉さんみたいには遊べなかったわ」
真由子はそう言ってふふっと笑った。匠は頷く。
「なるほど……お袋もその頃は忙しかったんだろうな」
「そう思う。姉さんも大学出たてで経験も全然ないからえらく苦労したみたい」
真由子はマロンアイスクリームの残りを小さなスプーンですくった。
「そんな姉さんも数年経って仕事が落ち着いた頃……ようやくお付き合いをする人ができたんだけど……」
何故かそこで真由子の眉がひそめられた。
「いい? これから私が言う事は落ち着いて聞いてね」
匠はそう言われて身構えてしまう。真由子はゆっくりと語った。
「そのお付き合いしたって人は風谷 誠って名前だった……」
匠は驚きのあまり手に持っていたデザートスプーンを落としそうになった。風谷 誠とは父、剛の一つ年上の兄だったからだ。誠が家庭の経済状況など全く気にする事もなく東京のW大文学部に進学し予定外に教育費用がかかってしまったため、とばっちりを食った父はT大の駒場にあったおんぼろ寮で二年間を過ごしたと聞いていた。お陰でそれ以来どんな環境でも生きていけるようになったと何故か自慢げに語っていたのを聞いたことがあったのだが。
「……どうして……?」
「ぶっちゃけた話をさせてもらうけど、誠さんは大学卒業後盛岡の経済誌の記者をしていたのよ。その取材の過程で姉さんと知り合ったって訳。元々二人とも同じ高校出身だったし、弟の剛さんが姉さんと同級生だったこともあって、共通の話題から急接近したと私は聞いてるわ」
全く知らなかった話を聞かされ、匠は眩暈がしそうだった。確かにそのような話は子どもには聞かせたくないだろうと納得する。
「……そうでしたか……。そんな事情があったなんて全く知りませんでした……しかし、そこで何故親父が出てくるのかさっぱり分かりません……」
「私も詳しくは知らないの……自分が結婚する直前に姉さんから誠さんと交際している話を聞かされていたんだけど、一年後には何故か剛さんとの婚約が決まっていてそれからはあっという間に挙式していたから……」
真由子は三姉妹の中で一番早く結婚し、東京で暮らすようになっていた。だから自分の結婚後、地元に残った姉、加奈子の事情には疎いのだろう。
匠は考え込んだ。母は最初伯父の誠と交際し、何かきっかけがあって父、剛と結婚した。普通に考えれば母の心変わりだろう。しかし、匠が先日有葉に説明したとおり、父はずっと盛岡周辺には住んでおらず、母と再会する可能性があるのはせいぜい同級会くらいのはず。また、直接顔を見た事すらない誠伯父は若い頃に日本を出国し、ハワイで日本人向けのオプショナルツアーを企画する会社を経営していて、既にアメリカの永住権を取得しているそうだ。出国以来一度も帰国した事がないと父方の祖父から聞かされていた。何があったのか推理するにはまだまだパーツが足りない。
「変な話を聞いてしまってごめんなさい」
匠は丁寧に頭を下げる。真由子はとんでもない、と手を振ってみせた。
「確かに姉さんや剛さんからは言いにくい話よね。でも、こんな話を噂や憶測で聞かされるのもたっくんやかーくんには良くないと思う。実際、姉さんが結婚した頃は地元に酷い噂話が流れたらしいの。千賀子姉さんがそんな事ぼやいていたもの……」
千賀子姉さんとは山城三姉妹の次女のことである。現在は盛岡市内にある山城不動産の子会社でお洒落な飲食店を複数経営している。その一人娘、飛鳥は現在、アメリカでMBAを取るために留学していた。
「そうなるでしょうね……」
匠はゆっくりと頷く。傍から見れば母は兄から弟に乗り換えたようにしか見えない。それとも父が実の兄から彼女を奪ったというのか。地元で経済誌の記者をしていたはずの誠が出国してしまったという話も気になってしまう。
「私が知っているのはこれだけ。詳しく知りたかったらおばあさんに直接聞くしかないんじゃないかしら?」
真由子はそう言って肩をすくめてから、匠に優しい眼差しを向けた。
「ま、あのおばあさんから話を聞き出すのはとても大変だと思うけど」
それを聞いた匠は深々とため息を吐いた。匠にとって父は巨大な壁だが、祖母は踏破困難な険しい山、そうK2やアンナプルナのように感じてしまう。だが祖母は両親の結婚を渋々であろうと許可している。当事者である両親以外に事情を知っているとすれば祖母だけだろう。
「……分かりました……何とか勇気を奮って聞いてみます……」
「もう、たっくんったら、そんな憂鬱な顔しない」
真由子は両手で親指を上げてみせた。
「ファイトよ! 私も出来婚した時は大騒ぎだったんだから~」
「え、そうだったんですか!?」
匠は仰天した。真由子の結婚が三姉妹の中で一番早いのは知っていたが、まさかそんな理由だったとは。
「そうなの、今はありふれた話だし授かり婚なんて言い方もあるみたいだけど、当時は大変だったのよ~私は大学卒業したばかりでね…………」
そこから真由子の怒涛のような出来ちゃった結婚話に話題が移っていったのだった。
重厚で物語としては救いようのない悲劇を見終わった時、帝国劇場前で真由子は深いため息を吐いた。
「うち、三姉妹じゃない? なんか身につまされる話だったわ……。もちろん役者さん達のお芝居が真に迫るものがあったからだし、観る事ができて本当に良かったんだけど……」
三姉妹の末っ子の真由子はリア王で言えば不器用だが誠実なコーディリアに相当しているので、匠は内心ほっとする。これが不実な姉二人の立場だったらなんだか申し訳なかっただろう。だが一方でリア王の大筋しか知らなかった匠は、芝居を見ている間どうして自分はこれを選んでしまったのかとずっと後悔していた。何故なら三姉妹もさることながら、父の不興を買ったコーディリアは無一文で勘当されてしまうし、登場人物でエドマンドというグロスター伯の庶子が出てくるのだが、この男は自分の父や嫡子の兄を陥れたりするばかりか、コーディリアの二人の姉ゴネリルとリーガン両方と関係を持ってしまうのだ。これらの事象があまりにも自分の家で起こった出来事にリンクしているため、その偶然に匠は寒気すら覚えたのである。
「叔母さんや千賀子叔母さん、お袋は皆仲良いし、おばあさんはあんなに癇癪持ちの勝手な年寄りじゃないから大丈夫ですよ」
と平静を装い、一生懸命フォローする。すると真由子は
「だといいんだけどね……」
とぎこちなく微笑んで見せた。真由子が何を危惧しているか匠には容易に想像できる。だが用意周到な祖母は来るべき時に備え遺言状をしたため、既に顧問弁護士に託していると聞いている。残された者達はそれを粛々と実行するだけだ。
匠は
「まあ、そうなんですけどきっと心配いりませんよ。それにおばあさん、絶対長生きしますって」
と言ってから
「自分は今まで本格的な演劇を見る機会なんて滅多にありませんでしたけど、三時間弱あっという間でした。芸能界には疎い自分すら見知っている俳優さんが完全に役になりきっていて、その演技力に圧倒されましたよ」
と芝居の感想を率直に述べ、重たい話題を逸らした。それを聞いた真由子がとたんにぱっと嬉しそうな顔になった。
「うちの家族ったら、誰も観劇に付き合ってくれないのよ。これを機にたっくん、いかが?」
と匠をすかさず観劇沼に沈めようとしてくるので、匠はあいまいな笑みを浮かべてみせる。
「ええと、機会があったら誘って下さい」
その時観劇後真由子にお願いしようと思っていた案件をようやく思い出し、自分のために適当なジャケットを見繕って欲しいと頼んだ。
「おばあさんにおねだりしたら? 大喜びで飛んでくるわよ」
真由子は悪戯っぽく笑う。
「おばあさんったらかーくんが全然会ってくれないって拗ねてたし、ジャケットが欲しいってたっくんがおねだりしたら何着だって買ってくれるって」
「自分は別にブランド物が欲しい訳じゃないんで」
匠はぼそっと言った。仕事柄ハイブランドは意識して身に付けないようにしている。例外はおばあさんから大学の入学祝でもらった一生ものの腕時計くらいだ。
「そっか、なら仕方ないわね。おばさんに任せなさい! たっくんに合うものを見繕ってあげるわ♪」
真由子は何故かうきうきしている。
「せっかく有楽町にいるのだから、阪急メンズ館行きましょうよ♪ いつもファストファッションばかりじゃ彼女泣くわ」
そこまで言った時、真由子ははたと思い出したようだった。
「あ、たっくん、阪急行く前にATM寄っていいかしら。現金引き出さないといけないのを忘れていたの」
「もちろんです」
「ちょっと待っててね。スマホで場所を調べるから」
真由子はハンドバッグからスマホを取り出すと、手早くATMの場所を検索する。
「あ、すぐ近くにあったからラッキー♪」
目指すのはもちろん真由子の夫の勤めている銀行のATMだ。運がいいことに帝国劇場のすぐ近くにあった。銀行の支店の中に設置されているATMなので数は多いが、休日なので当然人影はまばらだし係員も不在である。
匠は中には入らず外で待っている事にしたのだが、スマホでLIMEチェックをし始めた時中からギャーという物凄い女性の悲鳴が聞こえてきた。匠は考える間もなく、ATMコーナーに飛び込んでいった。
「どうしましたか!」
叫んでいたのは真由子である。
「ゴ、ゴキブリが出たの!!!」
ATMの隅の方を指差しながら匠にしがみついてきた。真由子の近くでガラケーを持って通話しようとしていた年配の女性も、真由子の絶叫に驚いたのかATMの前で硬直している。
「おばさんもオーバーだなあ」
そう真由子に話しかけると、真由子が怯えたように抱きついてきたかと思うと、いきなり声を潜めて匠に耳打ちしてきた。
「あそこのご婦人がATMの前に来るなり携帯を掛けようとしたのよ。もしかしたら振込め詐欺かなんかじゃないかって急に不安になってつい叫んじゃった。たっくん、警察官でしょ、何とかして!」
何とかしてと言われても、匠とて警察手帳など所有しておらず一見ただの民間人なのだが。匠は小声で真由子にATMコーナーの外に出て110番に電話するようお願いしてから、携帯と手書きのメモを手にしたままの白髪の年配の女性に礼儀正しく話しかけた。
「僕の叔母が驚かせたみたいで申し訳ありません」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
女性は目をぱちくりさせている。
「ちょっと見てきますね」
匠はいもしないゴキブリを探すためにATM周辺をしばらくきょろきょろしてから、女性のところに戻ってくる。それから女性の持った携帯に初めて気が付いたような振りをした。
「あ、お電話中でしたか。本当に叔母がご迷惑をおかけしたみたいですね」
「いえ、これから掛けるところだったので全然大丈夫ですよ」
ここで匠はわざとらしく女性の手の中の携帯をじっと見つめてみせる。
「うーむ、ATMで携帯お使いになるって……まさか役所の還付金の手続きだったりしますか?」
「そうだけど……何か問題でも?」
女性はとたんに不安になったらしく、匠をじっと見つめてくる。匠は優しくこう言った。
「実は僕公務員なんですけど、役所の還付金の手続きはATMからじゃ絶対にしないんですよ」
警察手帳を持っていない警察官なんて逆に偽警官と疑われてしまっては仕方がないので、敢えてこういう言い方をする。
すると女性は不審そうな眼差しで匠を見てきた。
「千代田区役所の人が医療費の還付金だって言ってたの。私は確かに二か月前長期入院してたから。それが今日までなら戻ってくるって聞いたの!」
運悪く本当に多額の医療費がかかっていたのか。匠はどうやって女性を説得しようか考える。身分証明書はマイナカードを使っているため無くすのがいやで持ってきていないし、予備の名刺は財布に入っているもののそれを見せたところで信じてもらえるだろうか。
迷っている暇はない。匠はやむを得ず尻ポケットから財布を取り出すと、急いで名刺を探した。
「失礼いたしました! 実はわたくし、こういう者です」
財布をポケットに戻した後、そう言いながら両手で名刺を差し出した。『警察庁 ○○局△△課係長 警部 山城 匠』と印刷されている。
女性はそれを受け取ってしげしげと眺めるが、ぽつりと言う。案の定疑われてしまった。
「あなた、本物の警官なの? 警察手帳は?」
「非番なので持参しておりません」
実際のところ匠は現在名ばかり警察官なのでそもそも警察手帳を所有してなどいない。それを馬鹿正直に説明したところで理解してもらえる状況でもなかった。
その時匠の頭に閃くものがあった。先日有葉にねだられ見せたばかりの警察官の制服姿の画像だった。慌ててシャツの胸ポケットからスマホを取り出すと、大量の画像からその写真を探し出し、女性に見せる。
「これなら如何でしょう?」
採用された後警察大学校での研修を終え、初めて交番で勤務した時の初々しい制服姿の写真だったが、匠が現在所持しているものの中では一番それらしいものだった。女性は写真の顔と匠の顔を何度か見比べていたが、最終的には納得したのか肩をがくりと落とした。
「区役所から医療費の還付はいずれあるかもしれませんが、ATMでの手続きによる還付は絶対にないのです」
匠はそんな女性に優しく説明した。
「そんな……」
女性は信じられないというように声を震わせた。
「じゃ、これは詐欺なの? 私騙された!? 悔しいっ!」
そう言いながらメモを破りそうになったので、匠は慌てて止めた。貴重な電話番号が書いてある物的証拠を破られてはかなわない。
「いや、被害に遭わずに済んだのですから、本当に運が良かったんですよ」
泣き出しそうな女性に対してあくまで穏やかにそう慰める。
その時外からパトカーのサイレンが聞こえてきたので、匠は心底ほっとした。真由子のとっさの演技のおかげで、還付金詐欺の被害者が一人出ずに済んで本当に良かったと思う。そういえば真由子は高校時代演劇部だったということを突然思い出した。
だがこれでしばらく事情聴取に時間を割く羽目に陥ってしまい、ジャケット選びや真由子の帰宅は遅くなってしまった。しかし真由子は人の役に立ち、なおかつ貴重な体験ができたと大喜びだったので、匠も胸をなでおろしたのだった。
別れ際に真由子がこう言ってくる。
「おばあさんから話を聞くなら、絶対当たって砕けろの精神だからね!」
「了解です。粉砕されてきます」
匠は苦笑いを浮かべたのだった。
その夜匠は寮に戻ると、早速有葉にLIMEを入れる。
『おばさんからの聞き込みは無事完了!』
『とりあえず判明した事は、両親が結婚する前、母と交際していたのは父の二番目の兄貴、誠だったって事だけ』
『誠伯父は若い頃に日本を出国し今はハワイに永住している。自分やかーくんは会ったこともない人物』
『これ以上はおばあさんから聞き出さないと分からない。引き続き調査は続ける。以上ご報告まで』
それから『よろしくお願いします!』という無料スタンプを送った。
その後風呂に入ってからスマホを確認すると、有葉からの返事が送信されてきていた。可愛らしいピンクの小さなブタが『お疲れ様!』と挨拶しているスタンプの後、
『その誠伯父さんってどんな人物だったのかな』
『両親との間に何らかの確執はありそうだよね?』
『交際の件と出国は無関係なのかな?』
と立て続けにトークが投稿されてから、少し時間が経った後
「フルネームで検索かけたら、もしかして出てきたりするかも?」
と投稿されてから、『頑張ってね!』という水色のテディベアが応援しているスタンプで締めくくられていた。
匠は『分かった、確かにその通りだ。検索かけてみる!』
と入れてから、『頑張る!』というスタンプを送りLIMEを終了させた。それからパソコンデスクの前に腰かけ、パソコンに電源を入れる。やがてOSが立ち上がると、ブラウザを開き、検索画面で『Makoto Kazatani』と入力してみる。
その名前で検索されたのは、ハワイ島在住で日本人向けのオプショナルツアー会社を経営している男性一人だけだった。会社のホームページと口コミが検索画面のトップに表示されている。口コミを見ると、ツアーの価格が手頃だとか、社長のトークが軽妙で楽しかったなど概ね評判は良さそうだ。会社のサイトのリンクをクリックしてみると、日本語に対応した見栄えの良いホームページが表示される。トップ画面の背景はハワイ島の美しい風景で、ページの一番下では、自己紹介とともに真っ黒に日焼けした中年男性のにこやかな顔が匠を出迎えたのだった。匠はその顔に確かに見覚えがあった。父方の祖父母の家の居間に飾られていた写真の人物だった。派手な花柄のアロハシャツとジーンズを身に着け、満面の笑みを浮かべたその男性のピンナップ写真は、孫達が成人式のために前撮りした振袖や羽織袴姿の写真に囲まれ、かなり場違いな写真だったので、しっかり記憶に刻み込まれていたのだ。
誠は、面長で精悍な顔つきの一番上の伯父で現在高校で物理の教師をしている稔や、匠とよく似ていると言われる父の剛とは全然顔立ちの違う、いかにも女性からもてそうな甘いマスクの持ち主で、今どきの言葉を使うえば『イケオジ』なのだろう。年を重ね刻まれた皺さえも魅力的に見えてしまうほどだ。
自己紹介の欄には、W大出身であること、趣味が写真撮影と旅行、日本のサブカルチャーが好きな事などが記載されていた。
そのサイトからは日本語で書かれた本人のブログがリンクされていて、そちらをクリックすると日常生活が綴られたブログが表示された。ざっくりと眺めてみたのだが、どうやら二回の結婚・離婚歴があり、子ども達――すなわち匠からすればいとこ達が四人いて、年上の子二人は既に父親の仕事を手伝っているようだ。ブログでは誠やその子ども達がハワイで行える様々なアクティビティを楽しんでいる写真が頻繁にアップされている。
ブログを眺めながら匠は奇妙な気分に陥っていた。見ず知らずの親戚達が6千キロ以上離れたハワイの色鮮やかな美しい自然の中で充実した生活を送っているという事実が、あまりにも現実離れしていたからである。
それにしても誠はハワイでこんなに成功しているようなのに、一度も日本に帰ってきていないとはどういう事なのだろう。数年前に父方の祖父が突然病で倒れ亡くなった時も、誠は帰国してこなかった。葬儀の時、喪主を務めた稔伯父が『こんな時くらい帰国すればいいものを……』と憤慨していた事を突然思い出す。日本にはやはり何らかの確執があるであろう父と母がいるからなのだろうか。
匠はブログのあちこちに掲載されている誠の写真をぼんやり眺めているうちに、ちょっとした角度によっては誠が駆に似ている事に気が付いた。そして駆に似ているという事は母方の祖父の滋とも少し似ているという事でもあった。
匠の頭が混乱する。母は実の父親と何となく似た男と付き合っていたというのか。母はずっと無職で、ひたすら趣味の絵を描くことに耽溺していた祖父の事を『ヒモ、ジゴロ』と事あるごとに悪く言っていたため嫌っていたのかと思っていたのだが、自分の思い違いだったのか?
匠は突然疲労を覚え、こめかみの辺りを押さえながら深くため息を吐く。思い起こすと長い一日だった。誠の会社のサイトをお気に入りに登録し、パソコンのブラウザを閉じる。それからスマホのブラウザを開き先ほどのお気に入りからurlをコピペしてから、LIMEアプリを開く。
『伯父のサイト発見!』
と打ってから、urlを貼り付けた。興味があれば有葉もブログを読むだろうと思いながら。
それから三日後の10月12日、三連休明けの火曜日の朝、匠はいつも通り始業前だいぶ早い時間に職場に向かった。早朝だと地下鉄も混んでいないので快適なのだ。
通勤用リュックを机の棚にしまい、肩がきついスーツは速攻で脱いで椅子の背にかけ、まずは近くのコンビニで買ってきたホットコーヒーでも飲もうかと紙カップを手に取った時、内線電話が鳴り始めた。深く考えることなく反射的に内線電話を取る。
「はい、△△課です」
「俺だ」
名乗る事もなくいきなり『俺だ』なんて言ってくるその低い声は、できる事なら職場では話したくもない父親だった。オレオレ詐欺かよと突っ込みたくなる。ずっと地方に赴任してくれていれば平和なものを。第一何故こんな早い時間にいるんだ、部下達だって迷惑だろうに。
「どちら様でしょう?」
匠は知らんぷりをしようとしたが、ご機嫌な声で続けられた。
「とぼけなくたっていいだろう? ったく、俺の息子はほんと冷たいなあ」
内線で私用電話をしてくるなと言いたいが、一応偉い人なので無碍にもできない。
「はぁ…………」
露骨にため息を吐いた。
「内線はもう勘弁してください……それで何の御用ですか?」
「土曜に還付金詐欺を阻止したんだって?」
地獄耳かよ、と匠は内心で悪態をつく。いったいどこからそんな情報を入手したんだか。
「怪しいと気が付いた真由子叔母さんのおかげです。自分はその場にいて説得しただけですよ」
「真由子さんと一緒だったのか、それは珍しい」
「たまたま観劇のチケットが手に入ったので、叔母さんをお誘いしたんです」
念のために準備したチケットだったが、丁度いい言い訳になったため高い買い物にはならずに済んだようだ。とはいえ心にやましいところがある匠はこの電話をさっさと早く切ってしまいたかった。なのに父親は大層機嫌よく喋り続けている。
「そうか……真由子さんは観劇好きだからなあ……」
「あの……自分、これから急ぎの仕事があるので、失礼してもよろしいですか?」
急ぎの仕事といっても、本当はコーヒーを飲むだけなのだが。
「お、邪魔して悪かったな。そうだ、たまには一緒に食事しないか。今週末母さんも上京してくるんだが」
「あいにく週末は予定が入っておりますので。それでは失礼します」
予定が入っている事自体はウソではない。あくまで他人行儀に振舞ってから、匠はゆっくりと静かに電話を切った。脂汗がどっと出てくる。父親が同じ役所で偉い役職に付いているというだけで揶揄されることがあるのだ。絶対に慣れ合いたくなかった。それに今は両親と冷静に話せる気がしないから、絶対に顔を合わせたくなどない。
冷めかけたコーヒーを飲みながら、憂鬱な気分で頬杖をつきため息を吐いていると、正面の席に座っている若い女性の同僚、緑川さんが声を殺して笑っていた。いつの間にか出勤していて、今の会話を聞いていたようだった。
「係長、お仕事お疲れ様です!」
にこやかにそう言われてしまったのだった。
都内にある警察庁の独身寮の自室でパソコンデスクの前に腰かけながら、匠は自分のスマホから母の二番目の妹、叔母の岩泉 真由子の世田谷区にある自宅に電話を掛けていた。
「岩泉さんのお宅でしょうか……」
「さようですが……」
声から察するに叔母の真由子で間違いないはずだが、登録されていない番号からの電話に対して、少々刺々しさが感じられた。今のご時世営業の電話だの、振込め詐欺だの、出ても楽しくない電話ばかりだからそれも仕方のない事だ。
「あ、真由子叔母さん? 甥の匠です、お盆以来ですね、お元気ですか!」
匠はいつもより声のトーンを上げ、明るく喋り始めた。
「なんだ、たっくんか。私はいつも元気よー、相変わらず暇を持て余してるけど」
真由子の声もたちまち優しくなる。
「我が家に電話なんて珍しいわね。大地に御用?」
大地とは真由子の息子で、匠とは同学年にあたる。大学卒業後建築事務所に就職し、今年の一級建築士の試験を受けたところだというところまでは聞いていたが、そう言えば試験の結果までは聞いていなかった事を思い出す。
「いえ、そうではなく叔母さんご自身に御用が……」
と言いかけたとたん、真由子がころころと笑い始めた。
「どういう風の吹き回し? たっくんからの電話なんて初めて!」
匠はパソコンデスクの上に置いてあるチケットを、空いた右手で取り上げた。
「実は……来週10月9日土曜日上演の、とある演劇のチケットを二枚突然知人からいただいてしまったのですが、叔母さん興味ないかと思いまして……」
そう言ってから、シェークスピアの悲劇『リア王』を現代物として翻案したという演劇の詳細を説明する。本当はそのチケットは匠自身が購入したもので、観劇が趣味の真由子の好きな劇団については以前に耳にしていたから、しっかり覚えていたのである。
「本当に!? 是非行きたいわ~♪」
真由子の声が弾んだ。すかさず匠が話を続ける。
「もう一枚ですけど、自分がご一緒してもいいですか?」
「もちろんよ。イケメンの甥っ子とデートなんて嬉しいじゃない♪」
「叔母さんには素敵なイケメンの息子さんがいるじゃないですか」
「大地となんてもう何年も一緒に外出してないのよ。何度誘っても駄目。亜由美とは頻繁に出かけてるんだけどね」
とぷんすか怒っている。亜由美とは真由子のもう一人の子どもで、大地の二つ年上の姉の事である。現在商社に総合職として勤務し、忙しい毎日を送っているらしい。
「帝国劇場、14時開演なので、11時頃に銀座で待ち合わせして早めのランチとかいかがですか?」
匠は不自然にならないように真由子をランチに誘導する。本当の目的は真由子からさりげなく両親の情報を聞き出す事だからだ。演劇チケットは真由子とのランチが不自然にならないための小道具でしかない。
「そうしましょう。嬉しいわ、今からワクワクしちゃう♪」
真由子はそう言ってから、うふふと笑った。
「精一杯おめかしして行こうかしら。銀座なんて行くの本当に久しぶり♪ 主人にたっくんからデートに誘われたって自慢しちゃおうっと」
匠は待ち合わせ場所と時間を決めた後、自分のスマホの番号を真由子に伝えてから通話を切った。緊張から解放され、息を大きく吐き出す。
真由子は母、加奈子とは五つ年が離れていたため、どこまで両親の結婚事情を知っているのかは全くの未知数だ。しかし東京に住んでいる唯一の母方の親戚であり、同時に一番アポを取りやすい相手だった。人柄も明るく気さくな事から、『聞き込み』の手始めには丁度良かったのである。
その直後、匠は弟の駆のスマホに電話を掛けた。2コールほどで駆はすぐ出てくれる。
「今大丈夫?」
匠が尋ねると、うん、と駆は明るい声で返事をしてくる。
「あのさ、仕送りの件なんだけど……いくら氷室さんがお前を手助けしてくれていても、学費とか大変じゃないのか?」
先日氷室 有葉に指摘された通り、仕送りの件を駆に確認してみることにしたのだ。すると駆は即答した。
「何とかなってるから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。キッズシッター以外に、おばあさんがテニスのコーチのアルバイトを紹介してくれるんだ……それがけっこういい日給で……ただ……」
「ただ?」
「そのバイト、肝心のテニスのコーチは一時間くらいで、残りの時間はホテルでおばあさんのお友達のマダム達とアフタヌーンティとかなんだよ!」
駆はぷりぷり怒っている。匠はそれを聞いて吹き出しそうになった。駆は祖母のお気に入りで、かつては祖母が上京するたびにハイブランドの衣服などを買い与えられていたことは知っていたが、今は駆が援助を一切断っているのでそういう形で間接的に援助しているのだろう、恐らく。
「コーチはいいんだよ。大学のサークルでもさんざんやってきたから……だけど、マダム達との会話が辛いんだ……オレ、口下手だし……何話せばいいんだよ……」
思わぬ愚痴を聞かされてしまう。確かに駆が口達者なホストのように滑らかに話すなんて想像できない。だが有閑マダム達からすれば、孫のような年齢のイケメンを相手に『ヌン活』できるだけで大満足なのだろう。何より身元は確かだし、合法だ。厳格な父、剛が駆のそんな姿を見たら卒倒するかもしれないが、元はといえばこれも父自身が蒔いた種だ。
「そっか、あれこれ大変だろうけど、頑張れ!」
匠は弟を励ましてやる。
「だけどどうしても足りないようだったら、遠慮なく俺に言えよ、これでも貯金くらいはしてるからさ」
「でも兄さん、その貯金で大型バイク買うって言ってたよね?」
駆の言うとおり、匠は大型バイクが欲しくて就職してからずっと貯金してきたのだ。子どもの頃白バイ隊員に憧れ、学生時代には思い切って大型二輪免許を取得したものの、さすがに大型バイクを新車で買うまでには至らなかった。就職したらいつか自前のバイクを買ってやると決めていたのだ。
「別に全然急いでないし」
実際新車を買えるだけの貯金は既に十分すぎるほどあった。だが結婚という文字が頭をちらつくようになって以来、買うのをためらうようになっていたのだ。いくら二人乗り出来るといっても、大型バイクよりも自動車を買う方が現実的な気がし始めていたのだが。
「うん、ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」
駆の声は始終朗らかで、決して無理をしている雰囲気は感じられなかった。
その後しばらく他愛もない雑談を交わした後、匠はスマホを切った。有葉の言うように、駆は何とか自力で学費を工面しているようだ。有葉と同居している限り親からの仕送りは全く必要なさそうである。
先日居酒屋で話した時、有葉は駆を手放したくないと言っていたが、一方の駆はというと、以前匠と食事をした際有葉への恋心を語っていた。匠は告白すればと勧めたのだが、駆はお馴染みの困り顔をしながら首を振ってこう語ったのだ。「オレは留年中の半人前だし、言えるはずないよ」と。またこうも言っていた。「いつか堂々と告白できるように、今はひたすら頑張るだけだから」
匠は駆が恋について語ったことをそれまで聞いたことがなかった。母方の祖父譲りの鼻筋の通った整った顔立ち、ぱっちりとした瞳、長いまつ毛、すらりとした長身などから小学生の頃からやたらもてていたが、駆本人にとってそれは完全に他人事だった。
バレンタインデーにチョコをもらうと、ホワイトデーには律儀にお菓子を見よう見まねで作り、チョコをくれた者全員に平等に返していたようだが、部屋に貼っているポスターは憧れのプロテニス選手のものばかりだったし、恋というより女性そのものに対して興味があまりなかったのだろう。なのに有葉の事を語る時の駆の顔は上気し、その瞳はきらきらと輝いていた。実家ではいつも俯き加減で、眉を寄せ困り顔をしていたというのに。
「お前ら、さっさと付き合っちまえよ」
もどかしく思った匠はつい呟いてしまう。決して認めたりはしなかったものの、有葉だって駆の事を憎からず思っているからこそ「手放したくない」なんてことを口走ってしまったのだろう。二人が同居し始めてから確か半年が経過していたはずだが、まるでティーンエイジャー同士の恋のように一切進展していないようだ。自分を半人前だと認識している駆ならともかく、社会人としてしっかりと自立しているはずの有葉が、全く煮え切らない態度を取り続けているのが謎だった。寂しいと感じていたのなら尚更だ。
他人様の恋の行方はさておき、駆が父からの仕送り再開を望んでいるわけではないことを確認できたのは良かった。知らずに行動し続けていたら、駆の望まぬ方向に事態が転がっていたかもしれないと考えるとぞっとする。有葉に事前に相談しておいて正解だったという事なのだろう。
匠が物心ついたころには駆が傍にいて、気が付けばずっと世話を焼いていたから、駆のことなら何でも知っている気分になっていたが、自分が知っていたのは駆の表面上の姿でしかなかった。本当はゲームや少女漫画、かわいいものが好きだった事も全然知らず、家ではひたすら読書するか音楽を聴くか落書きしかしていないので、せっかく人並み以上の運動神経に恵まれているというのに、内向的でもったいないとしか捉えていなかった。
また剣道の道場で駆がいじめられていたことにも全然気づいてあげられなかったことで、父親と駆の確執が生まれてしまったのに手を打つ事もできなかった。先日駆から過去の上級生からのいじめの件を告白された時、匠の精神的ダメージは相当なものだったのだ。
知らなかった事とはいえ、弟をいじめていた張本人を後輩としてずっと可愛がっていたという事実は、匠を激しく落ち込ませた。早く打ち明けてくれればよかったのにとは思うものの、それはいじめ被害者の駆に対して口が裂けても言えない台詞だった。あの当時の駆は既に親を全く信頼していなかったし、自身がいじめを訴える事で生じる人間関係の波紋の方を心配したのだろう。
匠は自分自身を正義感の強い人間だと自負していたが、その正義感も認知できない事柄に対しては完全に無力なのだと最近ずっと思い知らされている。だから恋人である大浦 英里香が反対しても、両親が隠している真実を知りたいと思ったのだ。知らない事でこれ以上無自覚に誰かを傷つけたくなかった。もちろんそう思う事すら独善だし、そもそも全てを知ることなど出来ないことは承知していたが、それでも何かしら問題を抱えているように思えてならない両親を、そして家族の未来を少しでも変えることができればと願ってしまうのだ。
10月9日真由子との約束当日、匠は寮を出る前にこんなシチュエーションではどんな服装をすればいいのか、はたと迷ってしまった。センスの良い駆ならワードローブの中からさりげなく洒落た服を選べるのだろうが、匠は英里香からファッションのダメ出しを何度も食らっており、自分のセンスには全くと言っていいほど自信がなかった。「服なんて着られればいいだろ」と言ってはいつもイヤな顔をされてしまうのだ。銀座でのランチに大劇場での観劇。ファストファッションにすると周囲から浮きそうだ。かといって、あまりにも気張ったスーツを着て真由子とのファッションに差が出てしまうのも困る。恥を忍んででも、真由子にどんな服装をするのか聞いておくべきだった。
散々迷った挙句、サックスブルーの長袖シャツにグレーのスラックスを選択し、そこに紺ブレを羽織る事にしたが、早速ブレザーに袖を通したところ学生時代に購入していたものだったため、筋トレのやりすぎで肩の辺りがだいぶぱつぱつな事に気が付いてしまった。やむを得ずそれは諦め、ざっくりした薄手の紺のカーディガンを羽織ることにする。
10月1日から職場のクールビズが終了したため仕方なくスーツを着始めていたが、就職する時に祖母にせっかく仕立ててもらったスーツすら肩がかなりきつくなっていた事を改めて思い出す。
「しまったな……」
匠はひとりごちた。独身寮に入居しているし、その年齢の国家公務員としてはそれなりの給料をもらっている身分ではあるが、最近英里香の司法試験合格祝いに背伸びして大枚はたいてしまったばかりで、ジャケットを複数新調するのは痛い出費である。筋トレにはまり調子に乗って身体を作り込んでいたが、適当なところで手を打たないとやがて着るものがなくなってしまうという事態に陥りそうだ。
匠は成果が見える事に励むのが好きだった。筋トレは努力すればするほどその成果が現れる。せっせとジムに通い、プロテインを摂取し、高タンパク質の食事を摂る。この繰り返しでみるみるうちに身体が出来上がるのだから、すっかり気持ちよくなってしまったのだがものには限度というものがあるようだ。
「観劇後、叔母さんにジャケットを見繕ってもらうとするか……」
そう呟きながら、独身寮を後にする。
匠は約束の5分前には東京メトロ銀座駅A2出口外に立っていた。目の前にお香や書画用品を扱う鳩居堂がある。地価が日本一高いところで有名な場所だ。警察官という仕事柄5分前行動を徹底的に叩きこまれたため、日常においてもそうしないと落ち着かなくなってしまっていた。一方真由子は約束の時間ぴったりに現れた。
「お待たせ!」
真由子はアラフィフの専業主婦なのだが、夫はメガバンクの銀行マンであり、子ども達も社会人となった今悠々自適な生活を送っているようだ。匠が心配していた服装だが、淡いオレンジのシフォンのブラウスに白っぽいフレアスカートで、ミセスのわりには可愛らしい雰囲気を漂わせていた。女優のように凛として美しい匠の母親とはタイプが全然違っていて、とても同じ姉妹とは思えなかった。
「今日はたっくんとのデートを本当に楽しみにしていたから、物凄く早く目が醒めちゃったのよ!」
真由子は興奮を抑えきれないように、どんどん喋っている。
「貴重な休日なのに、こんなおばさん相手のデートで本当にごめんね! でも、私の趣味が観劇だなんてよく覚えてくれていた事!」
真由子は実家に帰省する度、母相手に観劇や好きな俳優の話を沢山していたから、匠はそれをしっかりと記憶していたのだ。匠は人一倍記憶力が良かったのである。
「もちろん覚えていますよ。チケット譲ってもらった時、これは絶対に真由子叔母さんに進呈しなくちゃって思いましたから」
「もー、嬉しいわ♪ 出来た甥を持って本当に幸せ♪」
匠は真由子のマシンガントークを適当に流しながら、この怒涛のようなおしゃべりは母方の祖母、津紀子譲りだなと内心考えていた。
「……叔母さん、今日のランチなんですが、わざわざ資生堂パーラーを予約して下さったなんてなんだか申し訳ないです」
匠が頭を下げた。
「いいの、いいの! 主人がね、私がたっくんとデートするって自慢したら、チケットを譲ってもらうならお礼にランチをご馳走してやれって言うの。だったら私の行きたかったお店にしようと思って」
真由子はそう言って無邪気に笑う。匠は再度頭を下げた。
「そういうことなら、遠慮なくご馳走になります」
銀座の資生堂パーラーにはカフェとレストランがあるのだが、真由子が予約してくれたのはレストランの方だった。開店の時刻まで多少外で待ってから、開店と同時に入店する。
真白い清潔なテーブルクロスがひかれた席に腰かけてから、真由子がてきぱきとランチコースをオーダーしてくれる。
前菜が届くまで、匠は同い年のいとこである大地について真由子に尋ねた。
「確か大地君、一級建築士の試験受けたんですよね?」
「お陰様で一発合格しました!」
真由子は満面の笑顔で答えた。匠も笑顔で返す。
「それは本当に良かったですね。この前会った時、いつかは独立したいって言ってましたから」
「その時は山城不動産にお世話になるかも」
「お袋も大地君には期待してましたよ」
山城不動産は現在祖母の津紀子が社長をしている地方のディベロッパーだが、数年後には母、加奈子が後を継ぐことが決定しているものの、その後誰が継いでいくかは全く未定となっている。匠は国家公務員だから退職するまで家業には携われないし、『勘当』された駆は論外のため、残りのいとこ三人のうちの誰かではないかと匠は思っていた。同族会社ではあるがどうせ株式会社なのだから、直系の子どもが社長になる必要などないのだ。
「……かーくんは戻ってくるつもりはないのかしら?」
真由子の眉が八の字になった。匠は肩をすくめた。
「もともと理系で家業に全然興味なかったのに、あんな事になってしまったらもう絶対無理でしょうね」
「それにしてもゲームのし過ぎで留年だなんて……」
真由子がため息を吐いた。
「可哀そうに……子どもの頃に思いっきりゲームで遊ばせてあげれば良かったのに……かーくん、本当にゲームが好きだったものね……」
「え、叔母さん、どうしてその事を知っているんですか?」
匠は心底驚いていた。匠ですら駆がゲームが好きだとは知らなかったというのに。真由子はちょっと悲しそうな顔をして目を伏せた。
「実はね、かーくん、小学生の頃うちに一人で夏休み一週間くらい泊りに来たことがあったんだけど、その時亜由美のゲームで無我夢中になって遊んでいたの。私も可哀そうに思ってやりたいようにやらせていたんだけど、それだけじゃなく、あの時姉さんにちゃんと言えばよかったのかしらって後悔しているのよ……」
「そうでしたか……」
匠もため息を吐いた。匠は最初に遊んだゲームにはまれなかったせいか、禁止されていたものの特にゲームに固執することはなかったのだが、駆が幼い頃そこまでゲームに飢えていたとは全く気付かなかった。最近になって小中学生の頃友達の家で頻繁に遊ばせてもらっていた事は白状したのだが、東京の叔母の家に遊びに行ってまで夢中になっていて遊んでいたとは。
「でもご安心ください。今は以前よりのびのび暮らしてますから」
「あら、そうなの? なら良かったわ」
真由子が笑顔に戻った。
「おばあさんから、仕送りも受けず何とか大学に通ってるって聞いたものだからどんな生活送っているのか心配だったのよ。ああ見えてかーくんも案外逞しかったのね」
この時前菜が運ばれてきたので、二人は美味しいランチに専念し始めた。
食後のコーヒーとデザートが運ばれてから、そろそろ匠は今日の『デート』の本来の目的、聞き込みにさりげなく突入する。
「実は最近自分も結婚を意識するようになったんですよね……地元の同級生の結婚報告が次々に舞い込んできて……」
両親の結婚の話題に触れるためには、しんどいとはいえ自分自身を餌にするしかない。意識するようになった事自体は事実だ。
「で、ふと思ったんですけど、うちの両親ってどんな風に付き合い始めたのか、叔母さんご存じですか?」
皺ひとつないテーブルクロスのかけられた四角いテーブルの先に座っていた真由子は、元々大きな目を更に見開いた。
「……付き合い始めたきっかけですって? 聞いてないの?」
「ええ、絶対に教えてくれなくて。お袋は秘密って言って教えてくれないし、あの親父にそんな事聞けるわけないでしょう?」
真由子はあははと笑った。
「確かに剛さんにはそんな事聞けないわよねえ。私だっておっかないもの……」
それから右手を頬に当て少し考え込むような仕草をしたが、思い切ったように口を開く。
「たっくんはもう成人しているし、そろそろ時効だと思うからここだけの話って事でいいかしら?」
両親の付き合うきっかけが『時効』とか言われると不安しかないが、匠は覚悟を決めて頷いた。
「加奈子姉さんは大学卒業後、素直に地元に戻ってお母さんの仕事を手伝い始めたわ。東京じゃ相当ブイブイ言わせてたみたいだから大人しく戻って来たのにはびっくりだったけど」
「ブイブイって……」
匠が苦笑する。真由子も笑った。
「本当なんだって! 私と姉さんは五つ違うから高三の時に姉さんが戻ってきたんだけど、地元のあの雰囲気と姉さんがあまりにも合わな過ぎて、腹がよじれるほど笑ったほどよ!」
元々山城不動産は岩手の弱小ディベロッパーに過ぎなかったのだが、旧華族の三男坊である祖父を、借金と引き換えに婿に迎えてからは上流階級の人々とのつてが出来て、東京へ進出を図ったのだ。それが昭和四十年以降の話で、最盛期には東京周辺に土地や建物を相当数保有していたようだ。昭和という時代が終わり世間がバブルに熱狂している時、祖母、津紀子は時代の先読みをしたのだろうか、見る見る間に地価が上昇していく不動産投資からすっと手を引いてしまったらしい。結果、山城不動産はバブル崩壊時に大きな痛手を負わずに済んだと聞いている。
母はあまり自分の事を語るたちではなかったものの、大人しく地元に戻った理由について「おばあさんと最初からそういう約束だったの。学生時代は遊んでもかまわないけど、その代わり絶対に戻ってこいって言われていたのよ」と語っていた。あれは確か駆が母と同じK大への入学を決めた時開かれたささやかな祝いの席での話だった。普段駆には無関心な母も、駆が母校へ進学する事はそれなりに嬉しかったようで、珍しく大学時代の思い出話を笑顔で語ってきかせてくれたのだった。
すっかり都会の色に染まった加奈子が約束通り地元に戻ってきた頃と、バブル崩壊は偶然にも重なっていた。
「あんな時代だったから実家の会社(うち)もけっこう大変だったらしいのよ。その頃私は進学で東京にいたから主に伝聞だけどね。私は姉さんみたいには遊べなかったわ」
真由子はそう言ってふふっと笑った。匠は頷く。
「なるほど……お袋もその頃は忙しかったんだろうな」
「そう思う。姉さんも大学出たてで経験も全然ないからえらく苦労したみたい」
真由子はマロンアイスクリームの残りを小さなスプーンですくった。
「そんな姉さんも数年経って仕事が落ち着いた頃……ようやくお付き合いをする人ができたんだけど……」
何故かそこで真由子の眉がひそめられた。
「いい? これから私が言う事は落ち着いて聞いてね」
匠はそう言われて身構えてしまう。真由子はゆっくりと語った。
「そのお付き合いしたって人は風谷 誠って名前だった……」
匠は驚きのあまり手に持っていたデザートスプーンを落としそうになった。風谷 誠とは父、剛の一つ年上の兄だったからだ。誠が家庭の経済状況など全く気にする事もなく東京のW大文学部に進学し予定外に教育費用がかかってしまったため、とばっちりを食った父はT大の駒場にあったおんぼろ寮で二年間を過ごしたと聞いていた。お陰でそれ以来どんな環境でも生きていけるようになったと何故か自慢げに語っていたのを聞いたことがあったのだが。
「……どうして……?」
「ぶっちゃけた話をさせてもらうけど、誠さんは大学卒業後盛岡の経済誌の記者をしていたのよ。その取材の過程で姉さんと知り合ったって訳。元々二人とも同じ高校出身だったし、弟の剛さんが姉さんと同級生だったこともあって、共通の話題から急接近したと私は聞いてるわ」
全く知らなかった話を聞かされ、匠は眩暈がしそうだった。確かにそのような話は子どもには聞かせたくないだろうと納得する。
「……そうでしたか……。そんな事情があったなんて全く知りませんでした……しかし、そこで何故親父が出てくるのかさっぱり分かりません……」
「私も詳しくは知らないの……自分が結婚する直前に姉さんから誠さんと交際している話を聞かされていたんだけど、一年後には何故か剛さんとの婚約が決まっていてそれからはあっという間に挙式していたから……」
真由子は三姉妹の中で一番早く結婚し、東京で暮らすようになっていた。だから自分の結婚後、地元に残った姉、加奈子の事情には疎いのだろう。
匠は考え込んだ。母は最初伯父の誠と交際し、何かきっかけがあって父、剛と結婚した。普通に考えれば母の心変わりだろう。しかし、匠が先日有葉に説明したとおり、父はずっと盛岡周辺には住んでおらず、母と再会する可能性があるのはせいぜい同級会くらいのはず。また、直接顔を見た事すらない誠伯父は若い頃に日本を出国し、ハワイで日本人向けのオプショナルツアーを企画する会社を経営していて、既にアメリカの永住権を取得しているそうだ。出国以来一度も帰国した事がないと父方の祖父から聞かされていた。何があったのか推理するにはまだまだパーツが足りない。
「変な話を聞いてしまってごめんなさい」
匠は丁寧に頭を下げる。真由子はとんでもない、と手を振ってみせた。
「確かに姉さんや剛さんからは言いにくい話よね。でも、こんな話を噂や憶測で聞かされるのもたっくんやかーくんには良くないと思う。実際、姉さんが結婚した頃は地元に酷い噂話が流れたらしいの。千賀子姉さんがそんな事ぼやいていたもの……」
千賀子姉さんとは山城三姉妹の次女のことである。現在は盛岡市内にある山城不動産の子会社でお洒落な飲食店を複数経営している。その一人娘、飛鳥は現在、アメリカでMBAを取るために留学していた。
「そうなるでしょうね……」
匠はゆっくりと頷く。傍から見れば母は兄から弟に乗り換えたようにしか見えない。それとも父が実の兄から彼女を奪ったというのか。地元で経済誌の記者をしていたはずの誠が出国してしまったという話も気になってしまう。
「私が知っているのはこれだけ。詳しく知りたかったらおばあさんに直接聞くしかないんじゃないかしら?」
真由子はそう言って肩をすくめてから、匠に優しい眼差しを向けた。
「ま、あのおばあさんから話を聞き出すのはとても大変だと思うけど」
それを聞いた匠は深々とため息を吐いた。匠にとって父は巨大な壁だが、祖母は踏破困難な険しい山、そうK2やアンナプルナのように感じてしまう。だが祖母は両親の結婚を渋々であろうと許可している。当事者である両親以外に事情を知っているとすれば祖母だけだろう。
「……分かりました……何とか勇気を奮って聞いてみます……」
「もう、たっくんったら、そんな憂鬱な顔しない」
真由子は両手で親指を上げてみせた。
「ファイトよ! 私も出来婚した時は大騒ぎだったんだから~」
「え、そうだったんですか!?」
匠は仰天した。真由子の結婚が三姉妹の中で一番早いのは知っていたが、まさかそんな理由だったとは。
「そうなの、今はありふれた話だし授かり婚なんて言い方もあるみたいだけど、当時は大変だったのよ~私は大学卒業したばかりでね…………」
そこから真由子の怒涛のような出来ちゃった結婚話に話題が移っていったのだった。
重厚で物語としては救いようのない悲劇を見終わった時、帝国劇場前で真由子は深いため息を吐いた。
「うち、三姉妹じゃない? なんか身につまされる話だったわ……。もちろん役者さん達のお芝居が真に迫るものがあったからだし、観る事ができて本当に良かったんだけど……」
三姉妹の末っ子の真由子はリア王で言えば不器用だが誠実なコーディリアに相当しているので、匠は内心ほっとする。これが不実な姉二人の立場だったらなんだか申し訳なかっただろう。だが一方でリア王の大筋しか知らなかった匠は、芝居を見ている間どうして自分はこれを選んでしまったのかとずっと後悔していた。何故なら三姉妹もさることながら、父の不興を買ったコーディリアは無一文で勘当されてしまうし、登場人物でエドマンドというグロスター伯の庶子が出てくるのだが、この男は自分の父や嫡子の兄を陥れたりするばかりか、コーディリアの二人の姉ゴネリルとリーガン両方と関係を持ってしまうのだ。これらの事象があまりにも自分の家で起こった出来事にリンクしているため、その偶然に匠は寒気すら覚えたのである。
「叔母さんや千賀子叔母さん、お袋は皆仲良いし、おばあさんはあんなに癇癪持ちの勝手な年寄りじゃないから大丈夫ですよ」
と平静を装い、一生懸命フォローする。すると真由子は
「だといいんだけどね……」
とぎこちなく微笑んで見せた。真由子が何を危惧しているか匠には容易に想像できる。だが用意周到な祖母は来るべき時に備え遺言状をしたため、既に顧問弁護士に託していると聞いている。残された者達はそれを粛々と実行するだけだ。
匠は
「まあ、そうなんですけどきっと心配いりませんよ。それにおばあさん、絶対長生きしますって」
と言ってから
「自分は今まで本格的な演劇を見る機会なんて滅多にありませんでしたけど、三時間弱あっという間でした。芸能界には疎い自分すら見知っている俳優さんが完全に役になりきっていて、その演技力に圧倒されましたよ」
と芝居の感想を率直に述べ、重たい話題を逸らした。それを聞いた真由子がとたんにぱっと嬉しそうな顔になった。
「うちの家族ったら、誰も観劇に付き合ってくれないのよ。これを機にたっくん、いかが?」
と匠をすかさず観劇沼に沈めようとしてくるので、匠はあいまいな笑みを浮かべてみせる。
「ええと、機会があったら誘って下さい」
その時観劇後真由子にお願いしようと思っていた案件をようやく思い出し、自分のために適当なジャケットを見繕って欲しいと頼んだ。
「おばあさんにおねだりしたら? 大喜びで飛んでくるわよ」
真由子は悪戯っぽく笑う。
「おばあさんったらかーくんが全然会ってくれないって拗ねてたし、ジャケットが欲しいってたっくんがおねだりしたら何着だって買ってくれるって」
「自分は別にブランド物が欲しい訳じゃないんで」
匠はぼそっと言った。仕事柄ハイブランドは意識して身に付けないようにしている。例外はおばあさんから大学の入学祝でもらった一生ものの腕時計くらいだ。
「そっか、なら仕方ないわね。おばさんに任せなさい! たっくんに合うものを見繕ってあげるわ♪」
真由子は何故かうきうきしている。
「せっかく有楽町にいるのだから、阪急メンズ館行きましょうよ♪ いつもファストファッションばかりじゃ彼女泣くわ」
そこまで言った時、真由子ははたと思い出したようだった。
「あ、たっくん、阪急行く前にATM寄っていいかしら。現金引き出さないといけないのを忘れていたの」
「もちろんです」
「ちょっと待っててね。スマホで場所を調べるから」
真由子はハンドバッグからスマホを取り出すと、手早くATMの場所を検索する。
「あ、すぐ近くにあったからラッキー♪」
目指すのはもちろん真由子の夫の勤めている銀行のATMだ。運がいいことに帝国劇場のすぐ近くにあった。銀行の支店の中に設置されているATMなので数は多いが、休日なので当然人影はまばらだし係員も不在である。
匠は中には入らず外で待っている事にしたのだが、スマホでLIMEチェックをし始めた時中からギャーという物凄い女性の悲鳴が聞こえてきた。匠は考える間もなく、ATMコーナーに飛び込んでいった。
「どうしましたか!」
叫んでいたのは真由子である。
「ゴ、ゴキブリが出たの!!!」
ATMの隅の方を指差しながら匠にしがみついてきた。真由子の近くでガラケーを持って通話しようとしていた年配の女性も、真由子の絶叫に驚いたのかATMの前で硬直している。
「おばさんもオーバーだなあ」
そう真由子に話しかけると、真由子が怯えたように抱きついてきたかと思うと、いきなり声を潜めて匠に耳打ちしてきた。
「あそこのご婦人がATMの前に来るなり携帯を掛けようとしたのよ。もしかしたら振込め詐欺かなんかじゃないかって急に不安になってつい叫んじゃった。たっくん、警察官でしょ、何とかして!」
何とかしてと言われても、匠とて警察手帳など所有しておらず一見ただの民間人なのだが。匠は小声で真由子にATMコーナーの外に出て110番に電話するようお願いしてから、携帯と手書きのメモを手にしたままの白髪の年配の女性に礼儀正しく話しかけた。
「僕の叔母が驚かせたみたいで申し訳ありません」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
女性は目をぱちくりさせている。
「ちょっと見てきますね」
匠はいもしないゴキブリを探すためにATM周辺をしばらくきょろきょろしてから、女性のところに戻ってくる。それから女性の持った携帯に初めて気が付いたような振りをした。
「あ、お電話中でしたか。本当に叔母がご迷惑をおかけしたみたいですね」
「いえ、これから掛けるところだったので全然大丈夫ですよ」
ここで匠はわざとらしく女性の手の中の携帯をじっと見つめてみせる。
「うーむ、ATMで携帯お使いになるって……まさか役所の還付金の手続きだったりしますか?」
「そうだけど……何か問題でも?」
女性はとたんに不安になったらしく、匠をじっと見つめてくる。匠は優しくこう言った。
「実は僕公務員なんですけど、役所の還付金の手続きはATMからじゃ絶対にしないんですよ」
警察手帳を持っていない警察官なんて逆に偽警官と疑われてしまっては仕方がないので、敢えてこういう言い方をする。
すると女性は不審そうな眼差しで匠を見てきた。
「千代田区役所の人が医療費の還付金だって言ってたの。私は確かに二か月前長期入院してたから。それが今日までなら戻ってくるって聞いたの!」
運悪く本当に多額の医療費がかかっていたのか。匠はどうやって女性を説得しようか考える。身分証明書はマイナカードを使っているため無くすのがいやで持ってきていないし、予備の名刺は財布に入っているもののそれを見せたところで信じてもらえるだろうか。
迷っている暇はない。匠はやむを得ず尻ポケットから財布を取り出すと、急いで名刺を探した。
「失礼いたしました! 実はわたくし、こういう者です」
財布をポケットに戻した後、そう言いながら両手で名刺を差し出した。『警察庁 ○○局△△課係長 警部 山城 匠』と印刷されている。
女性はそれを受け取ってしげしげと眺めるが、ぽつりと言う。案の定疑われてしまった。
「あなた、本物の警官なの? 警察手帳は?」
「非番なので持参しておりません」
実際のところ匠は現在名ばかり警察官なのでそもそも警察手帳を所有してなどいない。それを馬鹿正直に説明したところで理解してもらえる状況でもなかった。
その時匠の頭に閃くものがあった。先日有葉にねだられ見せたばかりの警察官の制服姿の画像だった。慌ててシャツの胸ポケットからスマホを取り出すと、大量の画像からその写真を探し出し、女性に見せる。
「これなら如何でしょう?」
採用された後警察大学校での研修を終え、初めて交番で勤務した時の初々しい制服姿の写真だったが、匠が現在所持しているものの中では一番それらしいものだった。女性は写真の顔と匠の顔を何度か見比べていたが、最終的には納得したのか肩をがくりと落とした。
「区役所から医療費の還付はいずれあるかもしれませんが、ATMでの手続きによる還付は絶対にないのです」
匠はそんな女性に優しく説明した。
「そんな……」
女性は信じられないというように声を震わせた。
「じゃ、これは詐欺なの? 私騙された!? 悔しいっ!」
そう言いながらメモを破りそうになったので、匠は慌てて止めた。貴重な電話番号が書いてある物的証拠を破られてはかなわない。
「いや、被害に遭わずに済んだのですから、本当に運が良かったんですよ」
泣き出しそうな女性に対してあくまで穏やかにそう慰める。
その時外からパトカーのサイレンが聞こえてきたので、匠は心底ほっとした。真由子のとっさの演技のおかげで、還付金詐欺の被害者が一人出ずに済んで本当に良かったと思う。そういえば真由子は高校時代演劇部だったということを突然思い出した。
だがこれでしばらく事情聴取に時間を割く羽目に陥ってしまい、ジャケット選びや真由子の帰宅は遅くなってしまった。しかし真由子は人の役に立ち、なおかつ貴重な体験ができたと大喜びだったので、匠も胸をなでおろしたのだった。
別れ際に真由子がこう言ってくる。
「おばあさんから話を聞くなら、絶対当たって砕けろの精神だからね!」
「了解です。粉砕されてきます」
匠は苦笑いを浮かべたのだった。
その夜匠は寮に戻ると、早速有葉にLIMEを入れる。
『おばさんからの聞き込みは無事完了!』
『とりあえず判明した事は、両親が結婚する前、母と交際していたのは父の二番目の兄貴、誠だったって事だけ』
『誠伯父は若い頃に日本を出国し今はハワイに永住している。自分やかーくんは会ったこともない人物』
『これ以上はおばあさんから聞き出さないと分からない。引き続き調査は続ける。以上ご報告まで』
それから『よろしくお願いします!』という無料スタンプを送った。
その後風呂に入ってからスマホを確認すると、有葉からの返事が送信されてきていた。可愛らしいピンクの小さなブタが『お疲れ様!』と挨拶しているスタンプの後、
『その誠伯父さんってどんな人物だったのかな』
『両親との間に何らかの確執はありそうだよね?』
『交際の件と出国は無関係なのかな?』
と立て続けにトークが投稿されてから、少し時間が経った後
「フルネームで検索かけたら、もしかして出てきたりするかも?」
と投稿されてから、『頑張ってね!』という水色のテディベアが応援しているスタンプで締めくくられていた。
匠は『分かった、確かにその通りだ。検索かけてみる!』
と入れてから、『頑張る!』というスタンプを送りLIMEを終了させた。それからパソコンデスクの前に腰かけ、パソコンに電源を入れる。やがてOSが立ち上がると、ブラウザを開き、検索画面で『Makoto Kazatani』と入力してみる。
その名前で検索されたのは、ハワイ島在住で日本人向けのオプショナルツアー会社を経営している男性一人だけだった。会社のホームページと口コミが検索画面のトップに表示されている。口コミを見ると、ツアーの価格が手頃だとか、社長のトークが軽妙で楽しかったなど概ね評判は良さそうだ。会社のサイトのリンクをクリックしてみると、日本語に対応した見栄えの良いホームページが表示される。トップ画面の背景はハワイ島の美しい風景で、ページの一番下では、自己紹介とともに真っ黒に日焼けした中年男性のにこやかな顔が匠を出迎えたのだった。匠はその顔に確かに見覚えがあった。父方の祖父母の家の居間に飾られていた写真の人物だった。派手な花柄のアロハシャツとジーンズを身に着け、満面の笑みを浮かべたその男性のピンナップ写真は、孫達が成人式のために前撮りした振袖や羽織袴姿の写真に囲まれ、かなり場違いな写真だったので、しっかり記憶に刻み込まれていたのだ。
誠は、面長で精悍な顔つきの一番上の伯父で現在高校で物理の教師をしている稔や、匠とよく似ていると言われる父の剛とは全然顔立ちの違う、いかにも女性からもてそうな甘いマスクの持ち主で、今どきの言葉を使うえば『イケオジ』なのだろう。年を重ね刻まれた皺さえも魅力的に見えてしまうほどだ。
自己紹介の欄には、W大出身であること、趣味が写真撮影と旅行、日本のサブカルチャーが好きな事などが記載されていた。
そのサイトからは日本語で書かれた本人のブログがリンクされていて、そちらをクリックすると日常生活が綴られたブログが表示された。ざっくりと眺めてみたのだが、どうやら二回の結婚・離婚歴があり、子ども達――すなわち匠からすればいとこ達が四人いて、年上の子二人は既に父親の仕事を手伝っているようだ。ブログでは誠やその子ども達がハワイで行える様々なアクティビティを楽しんでいる写真が頻繁にアップされている。
ブログを眺めながら匠は奇妙な気分に陥っていた。見ず知らずの親戚達が6千キロ以上離れたハワイの色鮮やかな美しい自然の中で充実した生活を送っているという事実が、あまりにも現実離れしていたからである。
それにしても誠はハワイでこんなに成功しているようなのに、一度も日本に帰ってきていないとはどういう事なのだろう。数年前に父方の祖父が突然病で倒れ亡くなった時も、誠は帰国してこなかった。葬儀の時、喪主を務めた稔伯父が『こんな時くらい帰国すればいいものを……』と憤慨していた事を突然思い出す。日本にはやはり何らかの確執があるであろう父と母がいるからなのだろうか。
匠はブログのあちこちに掲載されている誠の写真をぼんやり眺めているうちに、ちょっとした角度によっては誠が駆に似ている事に気が付いた。そして駆に似ているという事は母方の祖父の滋とも少し似ているという事でもあった。
匠の頭が混乱する。母は実の父親と何となく似た男と付き合っていたというのか。母はずっと無職で、ひたすら趣味の絵を描くことに耽溺していた祖父の事を『ヒモ、ジゴロ』と事あるごとに悪く言っていたため嫌っていたのかと思っていたのだが、自分の思い違いだったのか?
匠は突然疲労を覚え、こめかみの辺りを押さえながら深くため息を吐く。思い起こすと長い一日だった。誠の会社のサイトをお気に入りに登録し、パソコンのブラウザを閉じる。それからスマホのブラウザを開き先ほどのお気に入りからurlをコピペしてから、LIMEアプリを開く。
『伯父のサイト発見!』
と打ってから、urlを貼り付けた。興味があれば有葉もブログを読むだろうと思いながら。
それから三日後の10月12日、三連休明けの火曜日の朝、匠はいつも通り始業前だいぶ早い時間に職場に向かった。早朝だと地下鉄も混んでいないので快適なのだ。
通勤用リュックを机の棚にしまい、肩がきついスーツは速攻で脱いで椅子の背にかけ、まずは近くのコンビニで買ってきたホットコーヒーでも飲もうかと紙カップを手に取った時、内線電話が鳴り始めた。深く考えることなく反射的に内線電話を取る。
「はい、△△課です」
「俺だ」
名乗る事もなくいきなり『俺だ』なんて言ってくるその低い声は、できる事なら職場では話したくもない父親だった。オレオレ詐欺かよと突っ込みたくなる。ずっと地方に赴任してくれていれば平和なものを。第一何故こんな早い時間にいるんだ、部下達だって迷惑だろうに。
「どちら様でしょう?」
匠は知らんぷりをしようとしたが、ご機嫌な声で続けられた。
「とぼけなくたっていいだろう? ったく、俺の息子はほんと冷たいなあ」
内線で私用電話をしてくるなと言いたいが、一応偉い人なので無碍にもできない。
「はぁ…………」
露骨にため息を吐いた。
「内線はもう勘弁してください……それで何の御用ですか?」
「土曜に還付金詐欺を阻止したんだって?」
地獄耳かよ、と匠は内心で悪態をつく。いったいどこからそんな情報を入手したんだか。
「怪しいと気が付いた真由子叔母さんのおかげです。自分はその場にいて説得しただけですよ」
「真由子さんと一緒だったのか、それは珍しい」
「たまたま観劇のチケットが手に入ったので、叔母さんをお誘いしたんです」
念のために準備したチケットだったが、丁度いい言い訳になったため高い買い物にはならずに済んだようだ。とはいえ心にやましいところがある匠はこの電話をさっさと早く切ってしまいたかった。なのに父親は大層機嫌よく喋り続けている。
「そうか……真由子さんは観劇好きだからなあ……」
「あの……自分、これから急ぎの仕事があるので、失礼してもよろしいですか?」
急ぎの仕事といっても、本当はコーヒーを飲むだけなのだが。
「お、邪魔して悪かったな。そうだ、たまには一緒に食事しないか。今週末母さんも上京してくるんだが」
「あいにく週末は予定が入っておりますので。それでは失礼します」
予定が入っている事自体はウソではない。あくまで他人行儀に振舞ってから、匠はゆっくりと静かに電話を切った。脂汗がどっと出てくる。父親が同じ役所で偉い役職に付いているというだけで揶揄されることがあるのだ。絶対に慣れ合いたくなかった。それに今は両親と冷静に話せる気がしないから、絶対に顔を合わせたくなどない。
冷めかけたコーヒーを飲みながら、憂鬱な気分で頬杖をつきため息を吐いていると、正面の席に座っている若い女性の同僚、緑川さんが声を殺して笑っていた。いつの間にか出勤していて、今の会話を聞いていたようだった。
「係長、お仕事お疲れ様です!」
にこやかにそう言われてしまったのだった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
山城 匠は個人の家の固定電話に電話をかける時はいつも緊張する。それが仕事でも私用でも。誰が出るか分からないからだ。自分も今時の若者の一人なのだと感じる瞬間である。
都内にある警察庁の独身寮の自室でパソコンデスクの前に腰かけながら、匠は自分のスマホから母の二番目の妹、叔母の|岩泉《いわいずみ》 |真由子《まゆこ》の世田谷区にある自宅に電話を掛けていた。
「岩泉さんのお宅でしょうか……」
「さようですが……」
声から察するに叔母の真由子で間違いないはずだが、登録されていない番号からの電話に対して、少々刺々しさが感じられた。今のご時世営業の電話だの、振込め詐欺だの、出ても楽しくない電話ばかりだからそれも仕方のない事だ。
「あ、真由子叔母さん? 甥の匠です、お盆以来ですね、お元気ですか!」
匠はいつもより声のトーンを上げ、明るく喋り始めた。
「なんだ、たっくんか。私はいつも元気よー、相変わらず暇を持て余してるけど」
真由子の声もたちまち優しくなる。
「我が家に電話なんて珍しいわね。大地に御用?」
大地とは真由子の息子で、匠とは同学年にあたる。大学卒業後建築事務所に就職し、今年の一級建築士の試験を受けたところだというところまでは聞いていたが、そう言えば試験の結果までは聞いていなかった事を思い出す。
「いえ、そうではなく叔母さんご自身に御用が……」
と言いかけたとたん、真由子がころころと笑い始めた。
「どういう風の吹き回し? たっくんからの電話なんて初めて!」
匠はパソコンデスクの上に置いてあるチケットを、空いた右手で取り上げた。
「実は……来週10月9日土曜日上演の、とある演劇のチケットを二枚突然知人からいただいてしまったのですが、叔母さん興味ないかと思いまして……」
そう言ってから、シェークスピアの悲劇『リア王』を現代物として翻案したという演劇の詳細を説明する。本当はそのチケットは匠自身が購入したもので、観劇が趣味の真由子の好きな劇団については以前に耳にしていたから、しっかり覚えていたのである。
「本当に!? 是非行きたいわ~♪」
真由子の声が弾んだ。すかさず匠が話を続ける。
「もう一枚ですけど、自分がご一緒してもいいですか?」
「もちろんよ。イケメンの甥っ子とデートなんて嬉しいじゃない♪」
「叔母さんには素敵なイケメンの息子さんがいるじゃないですか」
「大地となんてもう何年も一緒に外出してないのよ。何度誘っても駄目。亜由美とは頻繁に出かけてるんだけどね」
とぷんすか怒っている。亜由美とは真由子のもう一人の子どもで、大地の二つ年上の姉の事である。現在商社に総合職として勤務し、忙しい毎日を送っているらしい。
「帝国劇場、14時開演なので、11時頃に銀座で待ち合わせして早めのランチとかいかがですか?」
匠は不自然にならないように真由子をランチに誘導する。本当の目的は真由子からさりげなく両親の情報を聞き出す事だからだ。演劇チケットは真由子とのランチが不自然にならないための小道具でしかない。
「そうしましょう。嬉しいわ、今からワクワクしちゃう♪」
真由子はそう言ってから、うふふと笑った。
「精一杯おめかしして行こうかしら。銀座なんて行くの本当に久しぶり♪ 主人にたっくんからデートに誘われたって自慢しちゃおうっと」
匠は待ち合わせ場所と時間を決めた後、自分のスマホの番号を真由子に伝えてから通話を切った。緊張から解放され、息を大きく吐き出す。
真由子は母、加奈子とは五つ年が離れていたため、どこまで両親の結婚事情を知っているのかは全くの未知数だ。しかし東京に住んでいる唯一の母方の親戚であり、同時に一番アポを取りやすい相手だった。人柄も明るく気さくな事から、『聞き込み』の手始めには丁度良かったのである。
都内にある警察庁の独身寮の自室でパソコンデスクの前に腰かけながら、匠は自分のスマホから母の二番目の妹、叔母の|岩泉《いわいずみ》 |真由子《まゆこ》の世田谷区にある自宅に電話を掛けていた。
「岩泉さんのお宅でしょうか……」
「さようですが……」
声から察するに叔母の真由子で間違いないはずだが、登録されていない番号からの電話に対して、少々刺々しさが感じられた。今のご時世営業の電話だの、振込め詐欺だの、出ても楽しくない電話ばかりだからそれも仕方のない事だ。
「あ、真由子叔母さん? 甥の匠です、お盆以来ですね、お元気ですか!」
匠はいつもより声のトーンを上げ、明るく喋り始めた。
「なんだ、たっくんか。私はいつも元気よー、相変わらず暇を持て余してるけど」
真由子の声もたちまち優しくなる。
「我が家に電話なんて珍しいわね。大地に御用?」
大地とは真由子の息子で、匠とは同学年にあたる。大学卒業後建築事務所に就職し、今年の一級建築士の試験を受けたところだというところまでは聞いていたが、そう言えば試験の結果までは聞いていなかった事を思い出す。
「いえ、そうではなく叔母さんご自身に御用が……」
と言いかけたとたん、真由子がころころと笑い始めた。
「どういう風の吹き回し? たっくんからの電話なんて初めて!」
匠はパソコンデスクの上に置いてあるチケットを、空いた右手で取り上げた。
「実は……来週10月9日土曜日上演の、とある演劇のチケットを二枚突然知人からいただいてしまったのですが、叔母さん興味ないかと思いまして……」
そう言ってから、シェークスピアの悲劇『リア王』を現代物として翻案したという演劇の詳細を説明する。本当はそのチケットは匠自身が購入したもので、観劇が趣味の真由子の好きな劇団については以前に耳にしていたから、しっかり覚えていたのである。
「本当に!? 是非行きたいわ~♪」
真由子の声が弾んだ。すかさず匠が話を続ける。
「もう一枚ですけど、自分がご一緒してもいいですか?」
「もちろんよ。イケメンの甥っ子とデートなんて嬉しいじゃない♪」
「叔母さんには素敵なイケメンの息子さんがいるじゃないですか」
「大地となんてもう何年も一緒に外出してないのよ。何度誘っても駄目。亜由美とは頻繁に出かけてるんだけどね」
とぷんすか怒っている。亜由美とは真由子のもう一人の子どもで、大地の二つ年上の姉の事である。現在商社に総合職として勤務し、忙しい毎日を送っているらしい。
「帝国劇場、14時開演なので、11時頃に銀座で待ち合わせして早めのランチとかいかがですか?」
匠は不自然にならないように真由子をランチに誘導する。本当の目的は真由子からさりげなく両親の情報を聞き出す事だからだ。演劇チケットは真由子とのランチが不自然にならないための小道具でしかない。
「そうしましょう。嬉しいわ、今からワクワクしちゃう♪」
真由子はそう言ってから、うふふと笑った。
「精一杯おめかしして行こうかしら。銀座なんて行くの本当に久しぶり♪ 主人にたっくんからデートに誘われたって自慢しちゃおうっと」
匠は待ち合わせ場所と時間を決めた後、自分のスマホの番号を真由子に伝えてから通話を切った。緊張から解放され、息を大きく吐き出す。
真由子は母、加奈子とは五つ年が離れていたため、どこまで両親の結婚事情を知っているのかは全くの未知数だ。しかし東京に住んでいる唯一の母方の親戚であり、同時に一番アポを取りやすい相手だった。人柄も明るく気さくな事から、『聞き込み』の手始めには丁度良かったのである。
その直後、匠は弟の駆のスマホに電話を掛けた。2コールほどで駆はすぐ出てくれる。
「今大丈夫?」
匠が尋ねると、うん、と駆は明るい声で返事をしてくる。
「あのさ、仕送りの件なんだけど……いくら氷室さんがお前を手助けしてくれていても、学費とか大変じゃないのか?」
先日氷室 有葉に指摘された通り、仕送りの件を駆に確認してみることにしたのだ。すると駆は即答した。
「何とかなってるから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。キッズシッター以外に、おばあさんがテニスのコーチのアルバイトを紹介してくれるんだ……それがけっこういい日給で……ただ……」
「ただ?」
「そのバイト、肝心のテニスのコーチは一時間くらいで、残りの時間はホテルでおばあさんのお友達のマダム達とアフタヌーンティとかなんだよ!」
駆はぷりぷり怒っている。匠はそれを聞いて吹き出しそうになった。駆は祖母のお気に入りで、かつては祖母が上京するたびにハイブランドの衣服などを買い与えられていたことは知っていたが、今は駆が援助を一切断っているのでそういう形で間接的に援助しているのだろう、恐らく。
「コーチはいいんだよ。大学のサークルでもさんざんやってきたから……だけど、マダム達との会話が辛いんだ……オレ、口下手だし……何話せばいいんだよ……」
思わぬ愚痴を聞かされてしまう。確かに駆が口達者なホストのように滑らかに話すなんて想像できない。だが有閑マダム達からすれば、孫のような年齢のイケメンを相手に『ヌン活』できるだけで大満足なのだろう。何より身元は確かだし、合法だ。厳格な父、|剛《つよし》が駆のそんな姿を見たら卒倒するかもしれないが、元はといえばこれも父自身が蒔いた種だ。
「そっか、あれこれ大変だろうけど、頑張れ!」
匠は弟を励ましてやる。
「だけどどうしても足りないようだったら、遠慮なく俺に言えよ、これでも貯金くらいはしてるからさ」
「でも兄さん、その貯金で大型バイク買うって言ってたよね?」
駆の言うとおり、匠は大型バイクが欲しくて就職してからずっと貯金してきたのだ。子どもの頃白バイ隊員に憧れ、学生時代には思い切って大型二輪免許を取得したものの、さすがに大型バイクを新車で買うまでには至らなかった。就職したらいつか自前のバイクを買ってやると決めていたのだ。
「別に全然急いでないし」
実際新車を買えるだけの貯金は既に十分すぎるほどあった。だが結婚という文字が頭をちらつくようになって以来、買うのをためらうようになっていたのだ。いくら|二人乗り《タンデム》出来るといっても、大型バイクよりも自動車を買う方が現実的な気がし始めていたのだが。
「うん、ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」
駆の声は始終朗らかで、決して無理をしている雰囲気は感じられなかった。
その後しばらく他愛もない雑談を交わした後、匠はスマホを切った。有葉の言うように、駆は何とか自力で学費を工面しているようだ。有葉と同居している限り親からの仕送りは全く必要なさそうである。
「今大丈夫?」
匠が尋ねると、うん、と駆は明るい声で返事をしてくる。
「あのさ、仕送りの件なんだけど……いくら氷室さんがお前を手助けしてくれていても、学費とか大変じゃないのか?」
先日氷室 有葉に指摘された通り、仕送りの件を駆に確認してみることにしたのだ。すると駆は即答した。
「何とかなってるから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。キッズシッター以外に、おばあさんがテニスのコーチのアルバイトを紹介してくれるんだ……それがけっこういい日給で……ただ……」
「ただ?」
「そのバイト、肝心のテニスのコーチは一時間くらいで、残りの時間はホテルでおばあさんのお友達のマダム達とアフタヌーンティとかなんだよ!」
駆はぷりぷり怒っている。匠はそれを聞いて吹き出しそうになった。駆は祖母のお気に入りで、かつては祖母が上京するたびにハイブランドの衣服などを買い与えられていたことは知っていたが、今は駆が援助を一切断っているのでそういう形で間接的に援助しているのだろう、恐らく。
「コーチはいいんだよ。大学のサークルでもさんざんやってきたから……だけど、マダム達との会話が辛いんだ……オレ、口下手だし……何話せばいいんだよ……」
思わぬ愚痴を聞かされてしまう。確かに駆が口達者なホストのように滑らかに話すなんて想像できない。だが有閑マダム達からすれば、孫のような年齢のイケメンを相手に『ヌン活』できるだけで大満足なのだろう。何より身元は確かだし、合法だ。厳格な父、|剛《つよし》が駆のそんな姿を見たら卒倒するかもしれないが、元はといえばこれも父自身が蒔いた種だ。
「そっか、あれこれ大変だろうけど、頑張れ!」
匠は弟を励ましてやる。
「だけどどうしても足りないようだったら、遠慮なく俺に言えよ、これでも貯金くらいはしてるからさ」
「でも兄さん、その貯金で大型バイク買うって言ってたよね?」
駆の言うとおり、匠は大型バイクが欲しくて就職してからずっと貯金してきたのだ。子どもの頃白バイ隊員に憧れ、学生時代には思い切って大型二輪免許を取得したものの、さすがに大型バイクを新車で買うまでには至らなかった。就職したらいつか自前のバイクを買ってやると決めていたのだ。
「別に全然急いでないし」
実際新車を買えるだけの貯金は既に十分すぎるほどあった。だが結婚という文字が頭をちらつくようになって以来、買うのをためらうようになっていたのだ。いくら|二人乗り《タンデム》出来るといっても、大型バイクよりも自動車を買う方が現実的な気がし始めていたのだが。
「うん、ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」
駆の声は始終朗らかで、決して無理をしている雰囲気は感じられなかった。
その後しばらく他愛もない雑談を交わした後、匠はスマホを切った。有葉の言うように、駆は何とか自力で学費を工面しているようだ。有葉と同居している限り親からの仕送りは全く必要なさそうである。
先日居酒屋で話した時、有葉は駆を手放したくないと言っていたが、一方の駆はというと、以前匠と食事をした際有葉への恋心を語っていた。匠は告白すればと勧めたのだが、駆はお馴染みの困り顔をしながら首を振ってこう語ったのだ。「オレは留年中の半人前だし、言えるはずないよ」と。またこうも言っていた。「いつか堂々と告白できるように、今はひたすら頑張るだけだから」
匠は駆が恋について語ったことをそれまで聞いたことがなかった。母方の祖父譲りの鼻筋の通った整った顔立ち、ぱっちりとした瞳、長いまつ毛、すらりとした長身などから小学生の頃からやたらもてていたが、駆本人にとってそれは完全に他人事だった。
バレンタインデーにチョコをもらうと、ホワイトデーには律儀にお菓子を見よう見まねで作り、チョコをくれた者全員に平等に返していたようだが、部屋に貼っているポスターは憧れのプロテニス選手のものばかりだったし、恋というより女性そのものに対して興味があまりなかったのだろう。なのに有葉の事を語る時の駆の顔は上気し、その瞳はきらきらと輝いていた。実家ではいつも俯き加減で、眉を寄せ困り顔をしていたというのに。
「お前ら、さっさと付き合っちまえよ」
もどかしく思った匠はつい呟いてしまう。決して認めたりはしなかったものの、有葉だって駆の事を憎からず思っているからこそ「手放したくない」なんてことを口走ってしまったのだろう。二人が同居し始めてから確か半年が経過していたはずだが、まるでティーンエイジャー同士の恋のように一切進展していないようだ。自分を半人前だと認識している駆ならともかく、社会人としてしっかりと自立しているはずの有葉が、全く煮え切らない態度を取り続けているのが謎だった。寂しいと感じていたのなら尚更だ。
他人様の恋の行方はさておき、駆が父からの仕送り再開を望んでいるわけではないことを確認できたのは良かった。知らずに行動し続けていたら、駆の望まぬ方向に事態が転がっていたかもしれないと考えるとぞっとする。有葉に事前に相談しておいて正解だったという事なのだろう。
匠は駆が恋について語ったことをそれまで聞いたことがなかった。母方の祖父譲りの鼻筋の通った整った顔立ち、ぱっちりとした瞳、長いまつ毛、すらりとした長身などから小学生の頃からやたらもてていたが、駆本人にとってそれは完全に他人事だった。
バレンタインデーにチョコをもらうと、ホワイトデーには律儀にお菓子を見よう見まねで作り、チョコをくれた者全員に平等に返していたようだが、部屋に貼っているポスターは憧れのプロテニス選手のものばかりだったし、恋というより女性そのものに対して興味があまりなかったのだろう。なのに有葉の事を語る時の駆の顔は上気し、その瞳はきらきらと輝いていた。実家ではいつも俯き加減で、眉を寄せ困り顔をしていたというのに。
「お前ら、さっさと付き合っちまえよ」
もどかしく思った匠はつい呟いてしまう。決して認めたりはしなかったものの、有葉だって駆の事を憎からず思っているからこそ「手放したくない」なんてことを口走ってしまったのだろう。二人が同居し始めてから確か半年が経過していたはずだが、まるでティーンエイジャー同士の恋のように一切進展していないようだ。自分を半人前だと認識している駆ならともかく、社会人としてしっかりと自立しているはずの有葉が、全く煮え切らない態度を取り続けているのが謎だった。寂しいと感じていたのなら尚更だ。
他人様の恋の行方はさておき、駆が父からの仕送り再開を望んでいるわけではないことを確認できたのは良かった。知らずに行動し続けていたら、駆の望まぬ方向に事態が転がっていたかもしれないと考えるとぞっとする。有葉に事前に相談しておいて正解だったという事なのだろう。
匠が物心ついたころには駆が傍にいて、気が付けばずっと世話を焼いていたから、駆のことなら何でも知っている気分になっていたが、自分が知っていたのは駆の表面上の姿でしかなかった。本当はゲームや少女漫画、かわいいものが好きだった事も全然知らず、家ではひたすら読書するか音楽を聴くか落書きしかしていないので、せっかく人並み以上の運動神経に恵まれているというのに、内向的でもったいないとしか捉えていなかった。
また剣道の道場で駆がいじめられていたことにも全然気づいてあげられなかったことで、父親と駆の確執が生まれてしまったのに手を打つ事もできなかった。先日駆から過去の上級生からのいじめの件を告白された時、匠の精神的ダメージは相当なものだったのだ。
知らなかった事とはいえ、弟をいじめていた張本人を後輩としてずっと可愛がっていたという事実は、匠を激しく落ち込ませた。早く打ち明けてくれればよかったのにとは思うものの、それはいじめ被害者の駆に対して口が裂けても言えない台詞だった。あの当時の駆は既に親を全く信頼していなかったし、自身がいじめを訴える事で生じる人間関係の波紋の方を心配したのだろう。
また剣道の道場で駆がいじめられていたことにも全然気づいてあげられなかったことで、父親と駆の確執が生まれてしまったのに手を打つ事もできなかった。先日駆から過去の上級生からのいじめの件を告白された時、匠の精神的ダメージは相当なものだったのだ。
知らなかった事とはいえ、弟をいじめていた張本人を後輩としてずっと可愛がっていたという事実は、匠を激しく落ち込ませた。早く打ち明けてくれればよかったのにとは思うものの、それはいじめ被害者の駆に対して口が裂けても言えない台詞だった。あの当時の駆は既に親を全く信頼していなかったし、自身がいじめを訴える事で生じる人間関係の波紋の方を心配したのだろう。
匠は自分自身を正義感の強い人間だと自負していたが、その正義感も認知できない事柄に対しては完全に無力なのだと最近ずっと思い知らされている。だから恋人である大浦 英里香が反対しても、両親が隠している真実を知りたいと思ったのだ。知らない事でこれ以上無自覚に誰かを傷つけたくなかった。もちろんそう思う事すら独善だし、そもそも全てを知ることなど出来ないことは承知していたが、それでも何かしら問題を抱えているように思えてならない両親を、そして家族の未来を少しでも変えることができればと願ってしまうのだ。
10月9日真由子との約束当日、匠は寮を出る前にこんなシチュエーションではどんな服装をすればいいのか、はたと迷ってしまった。センスの良い駆ならワードローブの中からさりげなく洒落た服を選べるのだろうが、匠は英里香からファッションのダメ出しを何度も食らっており、自分のセンスには全くと言っていいほど自信がなかった。「服なんて着られればいいだろ」と言ってはいつもイヤな顔をされてしまうのだ。銀座でのランチに大劇場での観劇。ファストファッションにすると周囲から浮きそうだ。かといって、あまりにも気張ったスーツを着て真由子とのファッションに差が出てしまうのも困る。恥を忍んででも、真由子にどんな服装をするのか聞いておくべきだった。
散々迷った挙句、サックスブルーの長袖シャツにグレーのスラックスを選択し、そこに紺ブレを羽織る事にしたが、早速ブレザーに袖を通したところ学生時代に購入していたものだったため、筋トレのやりすぎで肩の辺りがだいぶぱつぱつな事に気が付いてしまった。やむを得ずそれは諦め、ざっくりした薄手の紺のカーディガンを羽織ることにする。
10月1日から職場のクールビズが終了したため仕方なくスーツを着始めていたが、就職する時に祖母にせっかく仕立ててもらったスーツすら肩がかなりきつくなっていた事を改めて思い出す。
「しまったな……」
匠はひとりごちた。独身寮に入居しているし、その年齢の国家公務員としてはそれなりの給料をもらっている身分ではあるが、最近英里香の司法試験合格祝いに背伸びして大枚はたいてしまったばかりで、ジャケットを複数新調するのは痛い出費である。筋トレにはまり調子に乗って身体を作り込んでいたが、適当なところで手を打たないとやがて着るものがなくなってしまうという事態に陥りそうだ。
匠は成果が見える事に励むのが好きだった。筋トレは努力すればするほどその成果が現れる。せっせとジムに通い、プロテインを摂取し、高タンパク質の食事を摂る。この繰り返しでみるみるうちに身体が出来上がるのだから、すっかり気持ちよくなってしまったのだがものには限度というものがあるようだ。
「観劇後、叔母さんにジャケットを見繕ってもらうとするか……」
そう呟きながら、独身寮を後にする。
散々迷った挙句、サックスブルーの長袖シャツにグレーのスラックスを選択し、そこに紺ブレを羽織る事にしたが、早速ブレザーに袖を通したところ学生時代に購入していたものだったため、筋トレのやりすぎで肩の辺りがだいぶぱつぱつな事に気が付いてしまった。やむを得ずそれは諦め、ざっくりした薄手の紺のカーディガンを羽織ることにする。
10月1日から職場のクールビズが終了したため仕方なくスーツを着始めていたが、就職する時に祖母にせっかく仕立ててもらったスーツすら肩がかなりきつくなっていた事を改めて思い出す。
「しまったな……」
匠はひとりごちた。独身寮に入居しているし、その年齢の国家公務員としてはそれなりの給料をもらっている身分ではあるが、最近英里香の司法試験合格祝いに背伸びして大枚はたいてしまったばかりで、ジャケットを複数新調するのは痛い出費である。筋トレにはまり調子に乗って身体を作り込んでいたが、適当なところで手を打たないとやがて着るものがなくなってしまうという事態に陥りそうだ。
匠は成果が見える事に励むのが好きだった。筋トレは努力すればするほどその成果が現れる。せっせとジムに通い、プロテインを摂取し、高タンパク質の食事を摂る。この繰り返しでみるみるうちに身体が出来上がるのだから、すっかり気持ちよくなってしまったのだがものには限度というものがあるようだ。
「観劇後、叔母さんにジャケットを見繕ってもらうとするか……」
そう呟きながら、独身寮を後にする。
匠は約束の5分前には東京メトロ銀座駅A2出口外に立っていた。目の前にお香や書画用品を扱う鳩居堂がある。地価が日本一高いところで有名な場所だ。警察官という仕事柄5分前行動を徹底的に叩きこまれたため、日常においてもそうしないと落ち着かなくなってしまっていた。一方真由子は約束の時間ぴったりに現れた。
「お待たせ!」
真由子はアラフィフの専業主婦なのだが、夫はメガバンクの銀行マンであり、子ども達も社会人となった今悠々自適な生活を送っているようだ。匠が心配していた服装だが、淡いオレンジのシフォンのブラウスに白っぽいフレアスカートで、ミセスのわりには可愛らしい雰囲気を漂わせていた。女優のように凛として美しい匠の母親とはタイプが全然違っていて、とても同じ姉妹とは思えなかった。
「今日はたっくんとのデートを本当に楽しみにしていたから、物凄く早く目が醒めちゃったのよ!」
真由子は興奮を抑えきれないように、どんどん喋っている。
「貴重な休日なのに、こんなおばさん相手のデートで本当にごめんね! でも、私の趣味が観劇だなんてよく覚えてくれていた事!」
真由子は実家に帰省する度、母相手に観劇や好きな俳優の話を沢山していたから、匠はそれをしっかりと記憶していたのだ。匠は人一倍記憶力が良かったのである。
「もちろん覚えていますよ。チケット譲ってもらった時、これは絶対に真由子叔母さんに進呈しなくちゃって思いましたから」
「もー、嬉しいわ♪ 出来た甥を持って本当に幸せ♪」
匠は真由子のマシンガントークを適当に流しながら、この怒涛のようなおしゃべりは母方の祖母、津紀子譲りだなと内心考えていた。
「……叔母さん、今日のランチなんですが、わざわざ資生堂パーラーを予約して下さったなんてなんだか申し訳ないです」
匠が頭を下げた。
「いいの、いいの! 主人がね、私がたっくんとデートするって自慢したら、チケットを譲ってもらうならお礼にランチをご馳走してやれって言うの。だったら私の行きたかったお店にしようと思って」
真由子はそう言って無邪気に笑う。匠は再度頭を下げた。
「そういうことなら、遠慮なくご馳走になります」
「お待たせ!」
真由子はアラフィフの専業主婦なのだが、夫はメガバンクの銀行マンであり、子ども達も社会人となった今悠々自適な生活を送っているようだ。匠が心配していた服装だが、淡いオレンジのシフォンのブラウスに白っぽいフレアスカートで、ミセスのわりには可愛らしい雰囲気を漂わせていた。女優のように凛として美しい匠の母親とはタイプが全然違っていて、とても同じ姉妹とは思えなかった。
「今日はたっくんとのデートを本当に楽しみにしていたから、物凄く早く目が醒めちゃったのよ!」
真由子は興奮を抑えきれないように、どんどん喋っている。
「貴重な休日なのに、こんなおばさん相手のデートで本当にごめんね! でも、私の趣味が観劇だなんてよく覚えてくれていた事!」
真由子は実家に帰省する度、母相手に観劇や好きな俳優の話を沢山していたから、匠はそれをしっかりと記憶していたのだ。匠は人一倍記憶力が良かったのである。
「もちろん覚えていますよ。チケット譲ってもらった時、これは絶対に真由子叔母さんに進呈しなくちゃって思いましたから」
「もー、嬉しいわ♪ 出来た甥を持って本当に幸せ♪」
匠は真由子のマシンガントークを適当に流しながら、この怒涛のようなおしゃべりは母方の祖母、津紀子譲りだなと内心考えていた。
「……叔母さん、今日のランチなんですが、わざわざ資生堂パーラーを予約して下さったなんてなんだか申し訳ないです」
匠が頭を下げた。
「いいの、いいの! 主人がね、私がたっくんとデートするって自慢したら、チケットを譲ってもらうならお礼にランチをご馳走してやれって言うの。だったら私の行きたかったお店にしようと思って」
真由子はそう言って無邪気に笑う。匠は再度頭を下げた。
「そういうことなら、遠慮なくご馳走になります」
銀座の資生堂パーラーにはカフェとレストランがあるのだが、真由子が予約してくれたのはレストランの方だった。開店の時刻まで多少外で待ってから、開店と同時に入店する。
真白い清潔なテーブルクロスがひかれた席に腰かけてから、真由子がてきぱきとランチコースをオーダーしてくれる。
前菜が届くまで、匠は同い年のいとこである大地について真由子に尋ねた。
「確か大地君、一級建築士の試験受けたんですよね?」
「お陰様で一発合格しました!」
真由子は満面の笑顔で答えた。匠も笑顔で返す。
「それは本当に良かったですね。この前会った時、いつかは独立したいって言ってましたから」
「その時は山城不動産にお世話になるかも」
「お袋も大地君には期待してましたよ」
山城不動産は現在祖母の津紀子が社長をしている地方のディベロッパーだが、数年後には母、加奈子が後を継ぐことが決定しているものの、その後誰が継いでいくかは全く未定となっている。匠は国家公務員だから退職するまで家業には携われないし、『勘当』された駆は論外のため、残りのいとこ三人のうちの誰かではないかと匠は思っていた。同族会社ではあるがどうせ株式会社なのだから、直系の子どもが社長になる必要などないのだ。
真白い清潔なテーブルクロスがひかれた席に腰かけてから、真由子がてきぱきとランチコースをオーダーしてくれる。
前菜が届くまで、匠は同い年のいとこである大地について真由子に尋ねた。
「確か大地君、一級建築士の試験受けたんですよね?」
「お陰様で一発合格しました!」
真由子は満面の笑顔で答えた。匠も笑顔で返す。
「それは本当に良かったですね。この前会った時、いつかは独立したいって言ってましたから」
「その時は山城不動産にお世話になるかも」
「お袋も大地君には期待してましたよ」
山城不動産は現在祖母の津紀子が社長をしている地方のディベロッパーだが、数年後には母、加奈子が後を継ぐことが決定しているものの、その後誰が継いでいくかは全く未定となっている。匠は国家公務員だから退職するまで家業には携われないし、『勘当』された駆は論外のため、残りのいとこ三人のうちの誰かではないかと匠は思っていた。同族会社ではあるがどうせ株式会社なのだから、直系の子どもが社長になる必要などないのだ。
「……かーくんは戻ってくるつもりはないのかしら?」
真由子の眉が八の字になった。匠は肩をすくめた。
「もともと理系で家業に全然興味なかったのに、あんな事になってしまったらもう絶対無理でしょうね」
「それにしてもゲームのし過ぎで留年だなんて……」
真由子がため息を吐いた。
「可哀そうに……子どもの頃に思いっきりゲームで遊ばせてあげれば良かったのに……かーくん、本当にゲームが好きだったものね……」
「え、叔母さん、どうしてその事を知っているんですか?」
匠は心底驚いていた。匠ですら駆がゲームが好きだとは知らなかったというのに。真由子はちょっと悲しそうな顔をして目を伏せた。
「実はね、かーくん、小学生の頃うちに一人で夏休み一週間くらい泊りに来たことがあったんだけど、その時亜由美のゲームで無我夢中になって遊んでいたの。私も可哀そうに思ってやりたいようにやらせていたんだけど、それだけじゃなく、あの時姉さんにちゃんと言えばよかったのかしらって後悔しているのよ……」
「そうでしたか……」
匠もため息を吐いた。匠は最初に遊んだゲームにはまれなかったせいか、禁止されていたものの特にゲームに固執することはなかったのだが、駆が幼い頃そこまでゲームに飢えていたとは全く気付かなかった。最近になって小中学生の頃友達の家で頻繁に遊ばせてもらっていた事は白状したのだが、東京の叔母の家に遊びに行ってまで夢中になっていて遊んでいたとは。
「でもご安心ください。今は以前よりのびのび暮らしてますから」
「あら、そうなの? なら良かったわ」
真由子が笑顔に戻った。
「おばあさんから、仕送りも受けず何とか大学に通ってるって聞いたものだからどんな生活送っているのか心配だったのよ。ああ見えてかーくんも案外逞しかったのね」
この時前菜が運ばれてきたので、二人は美味しいランチに専念し始めた。
真由子の眉が八の字になった。匠は肩をすくめた。
「もともと理系で家業に全然興味なかったのに、あんな事になってしまったらもう絶対無理でしょうね」
「それにしてもゲームのし過ぎで留年だなんて……」
真由子がため息を吐いた。
「可哀そうに……子どもの頃に思いっきりゲームで遊ばせてあげれば良かったのに……かーくん、本当にゲームが好きだったものね……」
「え、叔母さん、どうしてその事を知っているんですか?」
匠は心底驚いていた。匠ですら駆がゲームが好きだとは知らなかったというのに。真由子はちょっと悲しそうな顔をして目を伏せた。
「実はね、かーくん、小学生の頃うちに一人で夏休み一週間くらい泊りに来たことがあったんだけど、その時亜由美のゲームで無我夢中になって遊んでいたの。私も可哀そうに思ってやりたいようにやらせていたんだけど、それだけじゃなく、あの時姉さんにちゃんと言えばよかったのかしらって後悔しているのよ……」
「そうでしたか……」
匠もため息を吐いた。匠は最初に遊んだゲームにはまれなかったせいか、禁止されていたものの特にゲームに固執することはなかったのだが、駆が幼い頃そこまでゲームに飢えていたとは全く気付かなかった。最近になって小中学生の頃友達の家で頻繁に遊ばせてもらっていた事は白状したのだが、東京の叔母の家に遊びに行ってまで夢中になっていて遊んでいたとは。
「でもご安心ください。今は以前よりのびのび暮らしてますから」
「あら、そうなの? なら良かったわ」
真由子が笑顔に戻った。
「おばあさんから、仕送りも受けず何とか大学に通ってるって聞いたものだからどんな生活送っているのか心配だったのよ。ああ見えてかーくんも案外逞しかったのね」
この時前菜が運ばれてきたので、二人は美味しいランチに専念し始めた。
食後のコーヒーとデザートが運ばれてから、そろそろ匠は今日の『デート』の本来の目的、聞き込みにさりげなく突入する。
「実は最近自分も結婚を意識するようになったんですよね……地元の同級生の結婚報告が次々に舞い込んできて……」
両親の結婚の話題に触れるためには、しんどいとはいえ自分自身を餌にするしかない。意識するようになった事自体は事実だ。
「で、ふと思ったんですけど、うちの両親ってどんな風に付き合い始めたのか、叔母さんご存じですか?」
皺ひとつないテーブルクロスのかけられた四角いテーブルの先に座っていた真由子は、元々大きな目を更に見開いた。
「……付き合い始めたきっかけですって? 聞いてないの?」
「ええ、絶対に教えてくれなくて。お袋は秘密って言って教えてくれないし、あの親父にそんな事聞けるわけないでしょう?」
真由子はあははと笑った。
「確かに剛さんにはそんな事聞けないわよねえ。私だっておっかないもの……」
それから右手を頬に当て少し考え込むような仕草をしたが、思い切ったように口を開く。
「たっくんはもう成人しているし、そろそろ時効だと思うからここだけの話って事でいいかしら?」
両親の付き合うきっかけが『時効』とか言われると不安しかないが、匠は覚悟を決めて頷いた。
「実は最近自分も結婚を意識するようになったんですよね……地元の同級生の結婚報告が次々に舞い込んできて……」
両親の結婚の話題に触れるためには、しんどいとはいえ自分自身を餌にするしかない。意識するようになった事自体は事実だ。
「で、ふと思ったんですけど、うちの両親ってどんな風に付き合い始めたのか、叔母さんご存じですか?」
皺ひとつないテーブルクロスのかけられた四角いテーブルの先に座っていた真由子は、元々大きな目を更に見開いた。
「……付き合い始めたきっかけですって? 聞いてないの?」
「ええ、絶対に教えてくれなくて。お袋は秘密って言って教えてくれないし、あの親父にそんな事聞けるわけないでしょう?」
真由子はあははと笑った。
「確かに剛さんにはそんな事聞けないわよねえ。私だっておっかないもの……」
それから右手を頬に当て少し考え込むような仕草をしたが、思い切ったように口を開く。
「たっくんはもう成人しているし、そろそろ時効だと思うからここだけの話って事でいいかしら?」
両親の付き合うきっかけが『時効』とか言われると不安しかないが、匠は覚悟を決めて頷いた。
「加奈子姉さんは大学卒業後、素直に地元に戻ってお母さんの仕事を手伝い始めたわ。東京じゃ相当ブイブイ言わせてたみたいだから大人しく戻って来たのにはびっくりだったけど」
「ブイブイって……」
匠が苦笑する。真由子も笑った。
「本当なんだって! 私と姉さんは五つ違うから高三の時に姉さんが戻ってきたんだけど、地元のあの雰囲気と姉さんがあまりにも合わな過ぎて、腹がよじれるほど笑ったほどよ!」
「ブイブイって……」
匠が苦笑する。真由子も笑った。
「本当なんだって! 私と姉さんは五つ違うから高三の時に姉さんが戻ってきたんだけど、地元のあの雰囲気と姉さんがあまりにも合わな過ぎて、腹がよじれるほど笑ったほどよ!」
元々山城不動産は岩手の弱小ディベロッパーに過ぎなかったのだが、旧華族の三男坊である祖父を、借金と引き換えに婿に迎えてからは上流階級の人々とのつてが出来て、東京へ進出を図ったのだ。それが昭和四十年以降の話で、最盛期には東京周辺に土地や建物を相当数保有していたようだ。昭和という時代が終わり世間がバブルに熱狂している時、祖母、津紀子は時代の先読みをしたのだろうか、見る見る間に地価が上昇していく不動産投資からすっと手を引いてしまったらしい。結果、山城不動産はバブル崩壊時に大きな痛手を負わずに済んだと聞いている。
母はあまり自分の事を語るたちではなかったものの、大人しく地元に戻った理由について「おばあさんと最初からそういう約束だったの。学生時代は遊んでもかまわないけど、その代わり絶対に戻ってこいって言われていたのよ」と語っていた。あれは確か駆が母と同じK大への入学を決めた時開かれたささやかな祝いの席での話だった。普段駆には無関心な母も、駆が母校へ進学する事はそれなりに嬉しかったようで、珍しく大学時代の思い出話を笑顔で語ってきかせてくれたのだった。
母はあまり自分の事を語るたちではなかったものの、大人しく地元に戻った理由について「おばあさんと最初からそういう約束だったの。学生時代は遊んでもかまわないけど、その代わり絶対に戻ってこいって言われていたのよ」と語っていた。あれは確か駆が母と同じK大への入学を決めた時開かれたささやかな祝いの席での話だった。普段駆には無関心な母も、駆が母校へ進学する事はそれなりに嬉しかったようで、珍しく大学時代の思い出話を笑顔で語ってきかせてくれたのだった。
すっかり都会の色に染まった加奈子が約束通り地元に戻ってきた頃と、バブル崩壊は偶然にも重なっていた。
「あんな時代だったから実家の会社(うち)もけっこう大変だったらしいのよ。その頃私は進学で東京にいたから主に伝聞だけどね。私は姉さんみたいには遊べなかったわ」
真由子はそう言ってふふっと笑った。匠は頷く。
「なるほど……お袋もその頃は忙しかったんだろうな」
「そう思う。姉さんも大学出たてで経験も全然ないからえらく苦労したみたい」
真由子はマロンアイスクリームの残りを小さなスプーンですくった。
「そんな姉さんも数年経って仕事が落ち着いた頃……ようやくお付き合いをする人ができたんだけど……」
何故かそこで真由子の眉がひそめられた。
「いい? これから私が言う事は落ち着いて聞いてね」
匠はそう言われて身構えてしまう。真由子はゆっくりと語った。
「そのお付き合いしたって人は|風谷《かざたに》 |誠《まこと》って名前だった……」
匠は驚きのあまり手に持っていたデザートスプーンを落としそうになった。風谷 誠とは父、剛の一つ年上の兄だったからだ。誠が家庭の経済状況など全く気にする事もなく東京のW大文学部に進学し予定外に教育費用がかかってしまったため、とばっちりを食った父はT大の駒場にあったおんぼろ寮で二年間を過ごしたと聞いていた。お陰でそれ以来どんな環境でも生きていけるようになったと何故か自慢げに語っていたのを聞いたことがあったのだが。
「……どうして……?」
「ぶっちゃけた話をさせてもらうけど、誠さんは大学卒業後盛岡の経済誌の記者をしていたのよ。その取材の過程で姉さんと知り合ったって訳。元々二人とも同じ高校出身だったし、弟の剛さんが姉さんと同級生だったこともあって、共通の話題から急接近したと私は聞いてるわ」
全く知らなかった話を聞かされ、匠は眩暈がしそうだった。確かにそのような話は子どもには聞かせたくないだろうと納得する。
「……そうでしたか……。そんな事情があったなんて全く知りませんでした……しかし、そこで何故親父が出てくるのかさっぱり分かりません……」
「私も詳しくは知らないの……自分が結婚する直前に姉さんから誠さんと交際している話を聞かされていたんだけど、一年後には何故か剛さんとの婚約が決まっていてそれからはあっという間に挙式していたから……」
真由子は三姉妹の中で一番早く結婚し、東京で暮らすようになっていた。だから自分の結婚後、地元に残った姉、加奈子の事情には疎いのだろう。
匠は考え込んだ。母は最初伯父の誠と交際し、何かきっかけがあって父、剛と結婚した。普通に考えれば母の心変わりだろう。しかし、匠が先日有葉に説明したとおり、父はずっと盛岡周辺には住んでおらず、母と再会する可能性があるのはせいぜい同級会くらいのはず。また、直接顔を見た事すらない誠伯父は若い頃に日本を出国し、ハワイで日本人向けのオプショナルツアーを企画する会社を経営していて、既にアメリカの永住権を取得しているそうだ。出国以来一度も帰国した事がないと父方の祖父から聞かされていた。何があったのか推理するにはまだまだパーツが足りない。
「あんな時代だったから実家の会社(うち)もけっこう大変だったらしいのよ。その頃私は進学で東京にいたから主に伝聞だけどね。私は姉さんみたいには遊べなかったわ」
真由子はそう言ってふふっと笑った。匠は頷く。
「なるほど……お袋もその頃は忙しかったんだろうな」
「そう思う。姉さんも大学出たてで経験も全然ないからえらく苦労したみたい」
真由子はマロンアイスクリームの残りを小さなスプーンですくった。
「そんな姉さんも数年経って仕事が落ち着いた頃……ようやくお付き合いをする人ができたんだけど……」
何故かそこで真由子の眉がひそめられた。
「いい? これから私が言う事は落ち着いて聞いてね」
匠はそう言われて身構えてしまう。真由子はゆっくりと語った。
「そのお付き合いしたって人は|風谷《かざたに》 |誠《まこと》って名前だった……」
匠は驚きのあまり手に持っていたデザートスプーンを落としそうになった。風谷 誠とは父、剛の一つ年上の兄だったからだ。誠が家庭の経済状況など全く気にする事もなく東京のW大文学部に進学し予定外に教育費用がかかってしまったため、とばっちりを食った父はT大の駒場にあったおんぼろ寮で二年間を過ごしたと聞いていた。お陰でそれ以来どんな環境でも生きていけるようになったと何故か自慢げに語っていたのを聞いたことがあったのだが。
「……どうして……?」
「ぶっちゃけた話をさせてもらうけど、誠さんは大学卒業後盛岡の経済誌の記者をしていたのよ。その取材の過程で姉さんと知り合ったって訳。元々二人とも同じ高校出身だったし、弟の剛さんが姉さんと同級生だったこともあって、共通の話題から急接近したと私は聞いてるわ」
全く知らなかった話を聞かされ、匠は眩暈がしそうだった。確かにそのような話は子どもには聞かせたくないだろうと納得する。
「……そうでしたか……。そんな事情があったなんて全く知りませんでした……しかし、そこで何故親父が出てくるのかさっぱり分かりません……」
「私も詳しくは知らないの……自分が結婚する直前に姉さんから誠さんと交際している話を聞かされていたんだけど、一年後には何故か剛さんとの婚約が決まっていてそれからはあっという間に挙式していたから……」
真由子は三姉妹の中で一番早く結婚し、東京で暮らすようになっていた。だから自分の結婚後、地元に残った姉、加奈子の事情には疎いのだろう。
匠は考え込んだ。母は最初伯父の誠と交際し、何かきっかけがあって父、剛と結婚した。普通に考えれば母の心変わりだろう。しかし、匠が先日有葉に説明したとおり、父はずっと盛岡周辺には住んでおらず、母と再会する可能性があるのはせいぜい同級会くらいのはず。また、直接顔を見た事すらない誠伯父は若い頃に日本を出国し、ハワイで日本人向けのオプショナルツアーを企画する会社を経営していて、既にアメリカの永住権を取得しているそうだ。出国以来一度も帰国した事がないと父方の祖父から聞かされていた。何があったのか推理するにはまだまだパーツが足りない。
「変な話を聞いてしまってごめんなさい」
匠は丁寧に頭を下げる。真由子はとんでもない、と手を振ってみせた。
「確かに姉さんや剛さんからは言いにくい話よね。でも、こんな話を噂や憶測で聞かされるのもたっくんやかーくんには良くないと思う。実際、姉さんが結婚した頃は地元に酷い噂話が流れたらしいの。千賀子姉さんがそんな事ぼやいていたもの……」
千賀子姉さんとは山城三姉妹の次女のことである。現在は盛岡市内にある山城不動産の子会社でお洒落な飲食店を複数経営している。その一人娘、|飛鳥《あすか》は現在、アメリカでMBAを取るために留学していた。
「そうなるでしょうね……」
匠はゆっくりと頷く。傍から見れば母は兄から弟に乗り換えたようにしか見えない。それとも父が実の兄から彼女を奪ったというのか。地元で経済誌の記者をしていたはずの誠が出国してしまったという話も気になってしまう。
「私が知っているのはこれだけ。詳しく知りたかったらおばあさんに直接聞くしかないんじゃないかしら?」
真由子はそう言って肩をすくめてから、匠に優しい眼差しを向けた。
「ま、あのおばあさんから話を聞き出すのはとても大変だと思うけど」
それを聞いた匠は深々とため息を吐いた。匠にとって父は巨大な壁だが、祖母は踏破困難な険しい山、そうK2やアンナプルナのように感じてしまう。だが祖母は両親の結婚を渋々であろうと許可している。当事者である両親以外に事情を知っているとすれば祖母だけだろう。
「……分かりました……何とか勇気を奮って聞いてみます……」
「もう、たっくんったら、そんな憂鬱な顔しない」
真由子は両手で親指を上げてみせた。
「ファイトよ! 私も出来婚した時は大騒ぎだったんだから~」
「え、そうだったんですか!?」
匠は仰天した。真由子の結婚が三姉妹の中で一番早いのは知っていたが、まさかそんな理由だったとは。
「そうなの、今はありふれた話だし授かり婚なんて言い方もあるみたいだけど、当時は大変だったのよ~私は大学卒業したばかりでね…………」
そこから真由子の怒涛のような出来ちゃった結婚話に話題が移っていったのだった。
匠は丁寧に頭を下げる。真由子はとんでもない、と手を振ってみせた。
「確かに姉さんや剛さんからは言いにくい話よね。でも、こんな話を噂や憶測で聞かされるのもたっくんやかーくんには良くないと思う。実際、姉さんが結婚した頃は地元に酷い噂話が流れたらしいの。千賀子姉さんがそんな事ぼやいていたもの……」
千賀子姉さんとは山城三姉妹の次女のことである。現在は盛岡市内にある山城不動産の子会社でお洒落な飲食店を複数経営している。その一人娘、|飛鳥《あすか》は現在、アメリカでMBAを取るために留学していた。
「そうなるでしょうね……」
匠はゆっくりと頷く。傍から見れば母は兄から弟に乗り換えたようにしか見えない。それとも父が実の兄から彼女を奪ったというのか。地元で経済誌の記者をしていたはずの誠が出国してしまったという話も気になってしまう。
「私が知っているのはこれだけ。詳しく知りたかったらおばあさんに直接聞くしかないんじゃないかしら?」
真由子はそう言って肩をすくめてから、匠に優しい眼差しを向けた。
「ま、あのおばあさんから話を聞き出すのはとても大変だと思うけど」
それを聞いた匠は深々とため息を吐いた。匠にとって父は巨大な壁だが、祖母は踏破困難な険しい山、そうK2やアンナプルナのように感じてしまう。だが祖母は両親の結婚を渋々であろうと許可している。当事者である両親以外に事情を知っているとすれば祖母だけだろう。
「……分かりました……何とか勇気を奮って聞いてみます……」
「もう、たっくんったら、そんな憂鬱な顔しない」
真由子は両手で親指を上げてみせた。
「ファイトよ! 私も出来婚した時は大騒ぎだったんだから~」
「え、そうだったんですか!?」
匠は仰天した。真由子の結婚が三姉妹の中で一番早いのは知っていたが、まさかそんな理由だったとは。
「そうなの、今はありふれた話だし授かり婚なんて言い方もあるみたいだけど、当時は大変だったのよ~私は大学卒業したばかりでね…………」
そこから真由子の怒涛のような出来ちゃった結婚話に話題が移っていったのだった。
重厚で物語としては救いようのない悲劇を見終わった時、帝国劇場前で真由子は深いため息を吐いた。
「うち、三姉妹じゃない? なんか身につまされる話だったわ……。もちろん役者さん達のお芝居が真に迫るものがあったからだし、観る事ができて本当に良かったんだけど……」
三姉妹の末っ子の真由子はリア王で言えば不器用だが誠実なコーディリアに相当しているので、匠は内心ほっとする。これが不実な姉二人の立場だったらなんだか申し訳なかっただろう。だが一方でリア王の大筋しか知らなかった匠は、芝居を見ている間どうして自分はこれを選んでしまったのかとずっと後悔していた。何故なら三姉妹もさることながら、父の不興を買ったコーディリアは無一文で勘当されてしまうし、登場人物でエドマンドというグロスター伯の庶子が出てくるのだが、この男は自分の父や嫡子の兄を陥れたりするばかりか、コーディリアの二人の姉ゴネリルとリーガン両方と関係を持ってしまうのだ。これらの事象があまりにも自分の家で起こった出来事にリンクしているため、その偶然に匠は寒気すら覚えたのである。
「叔母さんや千賀子叔母さん、お袋は皆仲良いし、おばあさんはあんなに癇癪持ちの勝手な年寄りじゃないから大丈夫ですよ」
と平静を装い、一生懸命フォローする。すると真由子は
「だといいんだけどね……」
とぎこちなく微笑んで見せた。真由子が何を危惧しているか匠には容易に想像できる。だが用意周到な祖母は来るべき時に備え遺言状をしたため、既に顧問弁護士に託していると聞いている。残された者達はそれを粛々と実行するだけだ。
匠は
「まあ、そうなんですけどきっと心配いりませんよ。それにおばあさん、絶対長生きしますって」
と言ってから
「自分は今まで本格的な演劇を見る機会なんて滅多にありませんでしたけど、三時間弱あっという間でした。芸能界には疎い自分すら見知っている俳優さんが完全に役になりきっていて、その演技力に圧倒されましたよ」
と芝居の感想を率直に述べ、重たい話題を逸らした。それを聞いた真由子がとたんにぱっと嬉しそうな顔になった。
「うちの家族ったら、誰も観劇に付き合ってくれないのよ。これを機にたっくん、いかが?」
と匠をすかさず観劇沼に沈めようとしてくるので、匠はあいまいな笑みを浮かべてみせる。
「ええと、機会があったら誘って下さい」
その時観劇後真由子にお願いしようと思っていた案件をようやく思い出し、自分のために適当なジャケットを見繕って欲しいと頼んだ。
「おばあさんにおねだりしたら? 大喜びで飛んでくるわよ」
真由子は悪戯っぽく笑う。
「おばあさんったらかーくんが全然会ってくれないって拗ねてたし、ジャケットが欲しいってたっくんがおねだりしたら何着だって買ってくれるって」
「自分は別にブランド物が欲しい訳じゃないんで」
匠はぼそっと言った。仕事柄ハイブランドは意識して身に付けないようにしている。例外はおばあさんから大学の入学祝でもらった一生ものの腕時計くらいだ。
「そっか、なら仕方ないわね。おばさんに任せなさい! たっくんに合うものを見繕ってあげるわ♪」
真由子は何故かうきうきしている。
「せっかく有楽町にいるのだから、阪急メンズ館行きましょうよ♪ いつもファストファッションばかりじゃ彼女泣くわ」
そこまで言った時、真由子ははたと思い出したようだった。
「あ、たっくん、阪急行く前にATM寄っていいかしら。現金引き出さないといけないのを忘れていたの」
「もちろんです」
「ちょっと待っててね。スマホで場所を調べるから」
真由子はハンドバッグからスマホを取り出すと、手早くATMの場所を検索する。
「あ、すぐ近くにあったからラッキー♪」
目指すのはもちろん真由子の夫の勤めている銀行のATMだ。運がいいことに帝国劇場のすぐ近くにあった。銀行の支店の中に設置されているATMなので数は多いが、休日なので当然人影はまばらだし係員も不在である。
匠は中には入らず外で待っている事にしたのだが、スマホでLIMEチェックをし始めた時中からギャーという物凄い女性の悲鳴が聞こえてきた。匠は考える間もなく、ATMコーナーに飛び込んでいった。
「どうしましたか!」
叫んでいたのは真由子である。
「ゴ、ゴキブリが出たの!!!」
ATMの隅の方を指差しながら匠にしがみついてきた。真由子の近くでガラケーを持って通話しようとしていた年配の女性も、真由子の絶叫に驚いたのかATMの前で硬直している。
「おばさんもオーバーだなあ」
そう真由子に話しかけると、真由子が怯えたように抱きついてきたかと思うと、いきなり声を潜めて匠に耳打ちしてきた。
「あそこのご婦人がATMの前に来るなり携帯を掛けようとしたのよ。もしかしたら振込め詐欺かなんかじゃないかって急に不安になってつい叫んじゃった。たっくん、警察官でしょ、何とかして!」
何とかしてと言われても、匠とて警察手帳など所有しておらず一見ただの民間人なのだが。匠は小声で真由子にATMコーナーの外に出て110番に電話するようお願いしてから、携帯と手書きのメモを手にしたままの白髪の年配の女性に礼儀正しく話しかけた。
「僕の叔母が驚かせたみたいで申し訳ありません」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
女性は目をぱちくりさせている。
「ちょっと見てきますね」
匠はいもしないゴキブリを探すためにATM周辺をしばらくきょろきょろしてから、女性のところに戻ってくる。それから女性の持った携帯に初めて気が付いたような振りをした。
「あ、お電話中でしたか。本当に叔母がご迷惑をおかけしたみたいですね」
「いえ、これから掛けるところだったので全然大丈夫ですよ」
ここで匠はわざとらしく女性の手の中の携帯をじっと見つめてみせる。
「うーむ、ATMで携帯お使いになるって……まさか役所の還付金の手続きだったりしますか?」
「そうだけど……何か問題でも?」
女性はとたんに不安になったらしく、匠をじっと見つめてくる。匠は優しくこう言った。
「実は僕公務員なんですけど、役所の還付金の手続きはATMからじゃ絶対にしないんですよ」
警察手帳を持っていない警察官なんて逆に偽警官と疑われてしまっては仕方がないので、敢えてこういう言い方をする。
すると女性は不審そうな眼差しで匠を見てきた。
「千代田区役所の人が医療費の還付金だって言ってたの。私は確かに二か月前長期入院してたから。それが今日までなら戻ってくるって聞いたの!」
運悪く本当に多額の医療費がかかっていたのか。匠はどうやって女性を説得しようか考える。身分証明書はマイナカードを使っているため無くすのがいやで持ってきていないし、予備の名刺は財布に入っているもののそれを見せたところで信じてもらえるだろうか。
迷っている暇はない。匠はやむを得ず尻ポケットから財布を取り出すと、急いで名刺を探した。
「失礼いたしました! 実はわたくし、こういう者です」
財布をポケットに戻した後、そう言いながら両手で名刺を差し出した。『警察庁 ○○局△△課係長 警部 山城 匠』と印刷されている。
女性はそれを受け取ってしげしげと眺めるが、ぽつりと言う。案の定疑われてしまった。
「あなた、本物の警官なの? 警察手帳は?」
「非番なので持参しておりません」
実際のところ匠は現在名ばかり警察官なのでそもそも警察手帳を所有してなどいない。それを馬鹿正直に説明したところで理解してもらえる状況でもなかった。
その時匠の頭に閃くものがあった。先日有葉にねだられ見せたばかりの警察官の制服姿の画像だった。慌ててシャツの胸ポケットからスマホを取り出すと、大量の画像からその写真を探し出し、女性に見せる。
「これなら如何でしょう?」
採用された後警察大学校での研修を終え、初めて交番で勤務した時の初々しい制服姿の写真だったが、匠が現在所持しているものの中では一番それらしいものだった。女性は写真の顔と匠の顔を何度か見比べていたが、最終的には納得したのか肩をがくりと落とした。
「区役所から医療費の還付はいずれあるかもしれませんが、ATMでの手続きによる還付は絶対にないのです」
匠はそんな女性に優しく説明した。
「そんな……」
女性は信じられないというように声を震わせた。
「じゃ、これは詐欺なの? 私騙された!? 悔しいっ!」
そう言いながらメモを破りそうになったので、匠は慌てて止めた。貴重な電話番号が書いてある物的証拠を破られてはかなわない。
「いや、被害に遭わずに済んだのですから、本当に運が良かったんですよ」
泣き出しそうな女性に対してあくまで穏やかにそう慰める。
その時外からパトカーのサイレンが聞こえてきたので、匠は心底ほっとした。真由子のとっさの演技のおかげで、還付金詐欺の被害者が一人出ずに済んで本当に良かったと思う。そういえば真由子は高校時代演劇部だったということを突然思い出した。
「うち、三姉妹じゃない? なんか身につまされる話だったわ……。もちろん役者さん達のお芝居が真に迫るものがあったからだし、観る事ができて本当に良かったんだけど……」
三姉妹の末っ子の真由子はリア王で言えば不器用だが誠実なコーディリアに相当しているので、匠は内心ほっとする。これが不実な姉二人の立場だったらなんだか申し訳なかっただろう。だが一方でリア王の大筋しか知らなかった匠は、芝居を見ている間どうして自分はこれを選んでしまったのかとずっと後悔していた。何故なら三姉妹もさることながら、父の不興を買ったコーディリアは無一文で勘当されてしまうし、登場人物でエドマンドというグロスター伯の庶子が出てくるのだが、この男は自分の父や嫡子の兄を陥れたりするばかりか、コーディリアの二人の姉ゴネリルとリーガン両方と関係を持ってしまうのだ。これらの事象があまりにも自分の家で起こった出来事にリンクしているため、その偶然に匠は寒気すら覚えたのである。
「叔母さんや千賀子叔母さん、お袋は皆仲良いし、おばあさんはあんなに癇癪持ちの勝手な年寄りじゃないから大丈夫ですよ」
と平静を装い、一生懸命フォローする。すると真由子は
「だといいんだけどね……」
とぎこちなく微笑んで見せた。真由子が何を危惧しているか匠には容易に想像できる。だが用意周到な祖母は来るべき時に備え遺言状をしたため、既に顧問弁護士に託していると聞いている。残された者達はそれを粛々と実行するだけだ。
匠は
「まあ、そうなんですけどきっと心配いりませんよ。それにおばあさん、絶対長生きしますって」
と言ってから
「自分は今まで本格的な演劇を見る機会なんて滅多にありませんでしたけど、三時間弱あっという間でした。芸能界には疎い自分すら見知っている俳優さんが完全に役になりきっていて、その演技力に圧倒されましたよ」
と芝居の感想を率直に述べ、重たい話題を逸らした。それを聞いた真由子がとたんにぱっと嬉しそうな顔になった。
「うちの家族ったら、誰も観劇に付き合ってくれないのよ。これを機にたっくん、いかが?」
と匠をすかさず観劇沼に沈めようとしてくるので、匠はあいまいな笑みを浮かべてみせる。
「ええと、機会があったら誘って下さい」
その時観劇後真由子にお願いしようと思っていた案件をようやく思い出し、自分のために適当なジャケットを見繕って欲しいと頼んだ。
「おばあさんにおねだりしたら? 大喜びで飛んでくるわよ」
真由子は悪戯っぽく笑う。
「おばあさんったらかーくんが全然会ってくれないって拗ねてたし、ジャケットが欲しいってたっくんがおねだりしたら何着だって買ってくれるって」
「自分は別にブランド物が欲しい訳じゃないんで」
匠はぼそっと言った。仕事柄ハイブランドは意識して身に付けないようにしている。例外はおばあさんから大学の入学祝でもらった一生ものの腕時計くらいだ。
「そっか、なら仕方ないわね。おばさんに任せなさい! たっくんに合うものを見繕ってあげるわ♪」
真由子は何故かうきうきしている。
「せっかく有楽町にいるのだから、阪急メンズ館行きましょうよ♪ いつもファストファッションばかりじゃ彼女泣くわ」
そこまで言った時、真由子ははたと思い出したようだった。
「あ、たっくん、阪急行く前にATM寄っていいかしら。現金引き出さないといけないのを忘れていたの」
「もちろんです」
「ちょっと待っててね。スマホで場所を調べるから」
真由子はハンドバッグからスマホを取り出すと、手早くATMの場所を検索する。
「あ、すぐ近くにあったからラッキー♪」
目指すのはもちろん真由子の夫の勤めている銀行のATMだ。運がいいことに帝国劇場のすぐ近くにあった。銀行の支店の中に設置されているATMなので数は多いが、休日なので当然人影はまばらだし係員も不在である。
匠は中には入らず外で待っている事にしたのだが、スマホでLIMEチェックをし始めた時中からギャーという物凄い女性の悲鳴が聞こえてきた。匠は考える間もなく、ATMコーナーに飛び込んでいった。
「どうしましたか!」
叫んでいたのは真由子である。
「ゴ、ゴキブリが出たの!!!」
ATMの隅の方を指差しながら匠にしがみついてきた。真由子の近くでガラケーを持って通話しようとしていた年配の女性も、真由子の絶叫に驚いたのかATMの前で硬直している。
「おばさんもオーバーだなあ」
そう真由子に話しかけると、真由子が怯えたように抱きついてきたかと思うと、いきなり声を潜めて匠に耳打ちしてきた。
「あそこのご婦人がATMの前に来るなり携帯を掛けようとしたのよ。もしかしたら振込め詐欺かなんかじゃないかって急に不安になってつい叫んじゃった。たっくん、警察官でしょ、何とかして!」
何とかしてと言われても、匠とて警察手帳など所有しておらず一見ただの民間人なのだが。匠は小声で真由子にATMコーナーの外に出て110番に電話するようお願いしてから、携帯と手書きのメモを手にしたままの白髪の年配の女性に礼儀正しく話しかけた。
「僕の叔母が驚かせたみたいで申し訳ありません」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
女性は目をぱちくりさせている。
「ちょっと見てきますね」
匠はいもしないゴキブリを探すためにATM周辺をしばらくきょろきょろしてから、女性のところに戻ってくる。それから女性の持った携帯に初めて気が付いたような振りをした。
「あ、お電話中でしたか。本当に叔母がご迷惑をおかけしたみたいですね」
「いえ、これから掛けるところだったので全然大丈夫ですよ」
ここで匠はわざとらしく女性の手の中の携帯をじっと見つめてみせる。
「うーむ、ATMで携帯お使いになるって……まさか役所の還付金の手続きだったりしますか?」
「そうだけど……何か問題でも?」
女性はとたんに不安になったらしく、匠をじっと見つめてくる。匠は優しくこう言った。
「実は僕公務員なんですけど、役所の還付金の手続きはATMからじゃ絶対にしないんですよ」
警察手帳を持っていない警察官なんて逆に偽警官と疑われてしまっては仕方がないので、敢えてこういう言い方をする。
すると女性は不審そうな眼差しで匠を見てきた。
「千代田区役所の人が医療費の還付金だって言ってたの。私は確かに二か月前長期入院してたから。それが今日までなら戻ってくるって聞いたの!」
運悪く本当に多額の医療費がかかっていたのか。匠はどうやって女性を説得しようか考える。身分証明書はマイナカードを使っているため無くすのがいやで持ってきていないし、予備の名刺は財布に入っているもののそれを見せたところで信じてもらえるだろうか。
迷っている暇はない。匠はやむを得ず尻ポケットから財布を取り出すと、急いで名刺を探した。
「失礼いたしました! 実はわたくし、こういう者です」
財布をポケットに戻した後、そう言いながら両手で名刺を差し出した。『警察庁 ○○局△△課係長 警部 山城 匠』と印刷されている。
女性はそれを受け取ってしげしげと眺めるが、ぽつりと言う。案の定疑われてしまった。
「あなた、本物の警官なの? 警察手帳は?」
「非番なので持参しておりません」
実際のところ匠は現在名ばかり警察官なのでそもそも警察手帳を所有してなどいない。それを馬鹿正直に説明したところで理解してもらえる状況でもなかった。
その時匠の頭に閃くものがあった。先日有葉にねだられ見せたばかりの警察官の制服姿の画像だった。慌ててシャツの胸ポケットからスマホを取り出すと、大量の画像からその写真を探し出し、女性に見せる。
「これなら如何でしょう?」
採用された後警察大学校での研修を終え、初めて交番で勤務した時の初々しい制服姿の写真だったが、匠が現在所持しているものの中では一番それらしいものだった。女性は写真の顔と匠の顔を何度か見比べていたが、最終的には納得したのか肩をがくりと落とした。
「区役所から医療費の還付はいずれあるかもしれませんが、ATMでの手続きによる還付は絶対にないのです」
匠はそんな女性に優しく説明した。
「そんな……」
女性は信じられないというように声を震わせた。
「じゃ、これは詐欺なの? 私騙された!? 悔しいっ!」
そう言いながらメモを破りそうになったので、匠は慌てて止めた。貴重な電話番号が書いてある物的証拠を破られてはかなわない。
「いや、被害に遭わずに済んだのですから、本当に運が良かったんですよ」
泣き出しそうな女性に対してあくまで穏やかにそう慰める。
その時外からパトカーのサイレンが聞こえてきたので、匠は心底ほっとした。真由子のとっさの演技のおかげで、還付金詐欺の被害者が一人出ずに済んで本当に良かったと思う。そういえば真由子は高校時代演劇部だったということを突然思い出した。
だがこれでしばらく事情聴取に時間を割く羽目に陥ってしまい、ジャケット選びや真由子の帰宅は遅くなってしまった。しかし真由子は人の役に立ち、なおかつ貴重な体験ができたと大喜びだったので、匠も胸をなでおろしたのだった。
別れ際に真由子がこう言ってくる。
「おばあさんから話を聞くなら、絶対当たって砕けろの精神だからね!」
「了解です。粉砕されてきます」
匠は苦笑いを浮かべたのだった。
別れ際に真由子がこう言ってくる。
「おばあさんから話を聞くなら、絶対当たって砕けろの精神だからね!」
「了解です。粉砕されてきます」
匠は苦笑いを浮かべたのだった。
その夜匠は寮に戻ると、早速有葉にLIMEを入れる。
『おばさんからの聞き込みは無事完了!』
『とりあえず判明した事は、両親が結婚する前、母と交際していたのは父の二番目の兄貴、誠だったって事だけ』
『誠伯父は若い頃に日本を出国し今はハワイに永住している。自分やかーくんは会ったこともない人物』
『これ以上はおばあさんから聞き出さないと分からない。引き続き調査は続ける。以上ご報告まで』
それから『よろしくお願いします!』という無料スタンプを送った。
その後風呂に入ってからスマホを確認すると、有葉からの返事が送信されてきていた。可愛らしいピンクの小さなブタが『お疲れ様!』と挨拶しているスタンプの後、
『その誠伯父さんってどんな人物だったのかな』
『両親との間に何らかの確執はありそうだよね?』
『交際の件と出国は無関係なのかな?』
と立て続けにトークが投稿されてから、少し時間が経った後
「フルネームで検索かけたら、もしかして出てきたりするかも?」
と投稿されてから、『頑張ってね!』という水色のテディベアが応援しているスタンプで締めくくられていた。
『おばさんからの聞き込みは無事完了!』
『とりあえず判明した事は、両親が結婚する前、母と交際していたのは父の二番目の兄貴、誠だったって事だけ』
『誠伯父は若い頃に日本を出国し今はハワイに永住している。自分やかーくんは会ったこともない人物』
『これ以上はおばあさんから聞き出さないと分からない。引き続き調査は続ける。以上ご報告まで』
それから『よろしくお願いします!』という無料スタンプを送った。
その後風呂に入ってからスマホを確認すると、有葉からの返事が送信されてきていた。可愛らしいピンクの小さなブタが『お疲れ様!』と挨拶しているスタンプの後、
『その誠伯父さんってどんな人物だったのかな』
『両親との間に何らかの確執はありそうだよね?』
『交際の件と出国は無関係なのかな?』
と立て続けにトークが投稿されてから、少し時間が経った後
「フルネームで検索かけたら、もしかして出てきたりするかも?」
と投稿されてから、『頑張ってね!』という水色のテディベアが応援しているスタンプで締めくくられていた。
匠は『分かった、確かにその通りだ。検索かけてみる!』
と入れてから、『頑張る!』というスタンプを送りLIMEを終了させた。それからパソコンデスクの前に腰かけ、パソコンに電源を入れる。やがてOSが立ち上がると、ブラウザを開き、検索画面で『Makoto Kazatani』と入力してみる。
と入れてから、『頑張る!』というスタンプを送りLIMEを終了させた。それからパソコンデスクの前に腰かけ、パソコンに電源を入れる。やがてOSが立ち上がると、ブラウザを開き、検索画面で『Makoto Kazatani』と入力してみる。
その名前で検索されたのは、ハワイ島在住で日本人向けのオプショナルツアー会社を経営している男性一人だけだった。会社のホームページと口コミが検索画面のトップに表示されている。口コミを見ると、ツアーの価格が手頃だとか、社長のトークが軽妙で楽しかったなど概ね評判は良さそうだ。会社のサイトのリンクをクリックしてみると、日本語に対応した見栄えの良いホームページが表示される。トップ画面の背景はハワイ島の美しい風景で、ページの一番下では、自己紹介とともに真っ黒に日焼けした中年男性のにこやかな顔が匠を出迎えたのだった。匠はその顔に確かに見覚えがあった。父方の祖父母の家の居間に飾られていた写真の人物だった。派手な花柄のアロハシャツとジーンズを身に着け、満面の笑みを浮かべたその男性のピンナップ写真は、孫達が成人式のために前撮りした振袖や羽織袴姿の写真に囲まれ、かなり場違いな写真だったので、しっかり記憶に刻み込まれていたのだ。
誠は、面長で精悍な顔つきの一番上の伯父で現在高校で物理の教師をしている|稔《みのる》や、匠とよく似ていると言われる父の剛とは全然顔立ちの違う、いかにも女性からもてそうな甘いマスクの持ち主で、今どきの言葉を使うえば『イケオジ』なのだろう。年を重ね刻まれた皺さえも魅力的に見えてしまうほどだ。
自己紹介の欄には、W大出身であること、趣味が写真撮影と旅行、日本のサブカルチャーが好きな事などが記載されていた。
そのサイトからは日本語で書かれた本人のブログがリンクされていて、そちらをクリックすると日常生活が綴られたブログが表示された。ざっくりと眺めてみたのだが、どうやら二回の結婚・離婚歴があり、子ども達――すなわち匠からすればいとこ達が四人いて、年上の子二人は既に父親の仕事を手伝っているようだ。ブログでは誠やその子ども達がハワイで行える様々なアクティビティを楽しんでいる写真が頻繁にアップされている。
誠は、面長で精悍な顔つきの一番上の伯父で現在高校で物理の教師をしている|稔《みのる》や、匠とよく似ていると言われる父の剛とは全然顔立ちの違う、いかにも女性からもてそうな甘いマスクの持ち主で、今どきの言葉を使うえば『イケオジ』なのだろう。年を重ね刻まれた皺さえも魅力的に見えてしまうほどだ。
自己紹介の欄には、W大出身であること、趣味が写真撮影と旅行、日本のサブカルチャーが好きな事などが記載されていた。
そのサイトからは日本語で書かれた本人のブログがリンクされていて、そちらをクリックすると日常生活が綴られたブログが表示された。ざっくりと眺めてみたのだが、どうやら二回の結婚・離婚歴があり、子ども達――すなわち匠からすればいとこ達が四人いて、年上の子二人は既に父親の仕事を手伝っているようだ。ブログでは誠やその子ども達がハワイで行える様々なアクティビティを楽しんでいる写真が頻繁にアップされている。
ブログを眺めながら匠は奇妙な気分に陥っていた。見ず知らずの親戚達が6千キロ以上離れたハワイの色鮮やかな美しい自然の中で充実した生活を送っているという事実が、あまりにも現実離れしていたからである。
それにしても誠はハワイでこんなに成功しているようなのに、一度も日本に帰ってきていないとはどういう事なのだろう。数年前に父方の祖父が突然病で倒れ亡くなった時も、誠は帰国してこなかった。葬儀の時、喪主を務めた稔伯父が『こんな時くらい帰国すればいいものを……』と憤慨していた事を突然思い出す。日本にはやはり何らかの確執があるであろう父と母がいるからなのだろうか。
それにしても誠はハワイでこんなに成功しているようなのに、一度も日本に帰ってきていないとはどういう事なのだろう。数年前に父方の祖父が突然病で倒れ亡くなった時も、誠は帰国してこなかった。葬儀の時、喪主を務めた稔伯父が『こんな時くらい帰国すればいいものを……』と憤慨していた事を突然思い出す。日本にはやはり何らかの確執があるであろう父と母がいるからなのだろうか。
匠はブログのあちこちに掲載されている誠の写真をぼんやり眺めているうちに、ちょっとした角度によっては誠が駆に似ている事に気が付いた。そして駆に似ているという事は母方の祖父の|滋《しげる》とも少し似ているという事でもあった。
匠の頭が混乱する。母は実の父親と何となく似た男と付き合っていたというのか。母はずっと無職で、ひたすら趣味の絵を描くことに耽溺していた祖父の事を『ヒモ、ジゴロ』と事あるごとに悪く言っていたため嫌っていたのかと思っていたのだが、自分の思い違いだったのか?
匠は突然疲労を覚え、こめかみの辺りを押さえながら深くため息を吐く。思い起こすと長い一日だった。誠の会社のサイトをお気に入りに登録し、パソコンのブラウザを閉じる。それからスマホのブラウザを開き先ほどのお気に入りからurlをコピペしてから、LIMEアプリを開く。
『伯父のサイト発見!』
と打ってから、urlを貼り付けた。興味があれば有葉もブログを読むだろうと思いながら。
匠の頭が混乱する。母は実の父親と何となく似た男と付き合っていたというのか。母はずっと無職で、ひたすら趣味の絵を描くことに耽溺していた祖父の事を『ヒモ、ジゴロ』と事あるごとに悪く言っていたため嫌っていたのかと思っていたのだが、自分の思い違いだったのか?
匠は突然疲労を覚え、こめかみの辺りを押さえながら深くため息を吐く。思い起こすと長い一日だった。誠の会社のサイトをお気に入りに登録し、パソコンのブラウザを閉じる。それからスマホのブラウザを開き先ほどのお気に入りからurlをコピペしてから、LIMEアプリを開く。
『伯父のサイト発見!』
と打ってから、urlを貼り付けた。興味があれば有葉もブログを読むだろうと思いながら。
それから三日後の10月12日、三連休明けの火曜日の朝、匠はいつも通り始業前だいぶ早い時間に職場に向かった。早朝だと地下鉄も混んでいないので快適なのだ。
通勤用リュックを机の棚にしまい、肩がきついスーツは速攻で脱いで椅子の背にかけ、まずは近くのコンビニで買ってきたホットコーヒーでも飲もうかと紙カップを手に取った時、内線電話が鳴り始めた。深く考えることなく反射的に内線電話を取る。
「はい、△△課です」
「俺だ」
名乗る事もなくいきなり『俺だ』なんて言ってくるその低い声は、できる事なら職場では話したくもない父親だった。オレオレ詐欺かよと突っ込みたくなる。ずっと地方に赴任してくれていれば平和なものを。第一何故こんな早い時間にいるんだ、部下達だって迷惑だろうに。
「どちら様でしょう?」
匠は知らんぷりをしようとしたが、ご機嫌な声で続けられた。
「とぼけなくたっていいだろう? ったく、俺の息子はほんと冷たいなあ」
内線で私用電話をしてくるなと言いたいが、一応偉い人なので無碍にもできない。
「はぁ…………」
露骨にため息を吐いた。
「内線はもう勘弁してください……それで何の御用ですか?」
「土曜に還付金詐欺を阻止したんだって?」
地獄耳かよ、と匠は内心で悪態をつく。いったいどこからそんな情報を入手したんだか。
「怪しいと気が付いた真由子叔母さんのおかげです。自分はその場にいて説得しただけですよ」
「真由子さんと一緒だったのか、それは珍しい」
「たまたま観劇のチケットが手に入ったので、叔母さんをお誘いしたんです」
念のために準備したチケットだったが、丁度いい言い訳になったため高い買い物にはならずに済んだようだ。とはいえ心にやましいところがある匠はこの電話をさっさと早く切ってしまいたかった。なのに父親は大層機嫌よく喋り続けている。
「そうか……真由子さんは観劇好きだからなあ……」
「あの……自分、これから急ぎの仕事があるので、失礼してもよろしいですか?」
急ぎの仕事といっても、本当はコーヒーを飲むだけなのだが。
「お、邪魔して悪かったな。そうだ、たまには一緒に食事しないか。今週末母さんも上京してくるんだが」
「あいにく週末は予定が入っておりますので。それでは失礼します」
予定が入っている事自体はウソではない。あくまで他人行儀に振舞ってから、匠はゆっくりと静かに電話を切った。脂汗がどっと出てくる。父親が同じ役所で偉い役職に付いているというだけで揶揄されることがあるのだ。絶対に慣れ合いたくなかった。それに今は両親と冷静に話せる気がしないから、絶対に顔を合わせたくなどない。
冷めかけたコーヒーを飲みながら、憂鬱な気分で頬杖をつきため息を吐いていると、正面の席に座っている若い女性の同僚、緑川さんが声を殺して笑っていた。いつの間にか出勤していて、今の会話を聞いていたようだった。
「係長、お仕事お疲れ様です!」
にこやかにそう言われてしまったのだった。
通勤用リュックを机の棚にしまい、肩がきついスーツは速攻で脱いで椅子の背にかけ、まずは近くのコンビニで買ってきたホットコーヒーでも飲もうかと紙カップを手に取った時、内線電話が鳴り始めた。深く考えることなく反射的に内線電話を取る。
「はい、△△課です」
「俺だ」
名乗る事もなくいきなり『俺だ』なんて言ってくるその低い声は、できる事なら職場では話したくもない父親だった。オレオレ詐欺かよと突っ込みたくなる。ずっと地方に赴任してくれていれば平和なものを。第一何故こんな早い時間にいるんだ、部下達だって迷惑だろうに。
「どちら様でしょう?」
匠は知らんぷりをしようとしたが、ご機嫌な声で続けられた。
「とぼけなくたっていいだろう? ったく、俺の息子はほんと冷たいなあ」
内線で私用電話をしてくるなと言いたいが、一応偉い人なので無碍にもできない。
「はぁ…………」
露骨にため息を吐いた。
「内線はもう勘弁してください……それで何の御用ですか?」
「土曜に還付金詐欺を阻止したんだって?」
地獄耳かよ、と匠は内心で悪態をつく。いったいどこからそんな情報を入手したんだか。
「怪しいと気が付いた真由子叔母さんのおかげです。自分はその場にいて説得しただけですよ」
「真由子さんと一緒だったのか、それは珍しい」
「たまたま観劇のチケットが手に入ったので、叔母さんをお誘いしたんです」
念のために準備したチケットだったが、丁度いい言い訳になったため高い買い物にはならずに済んだようだ。とはいえ心にやましいところがある匠はこの電話をさっさと早く切ってしまいたかった。なのに父親は大層機嫌よく喋り続けている。
「そうか……真由子さんは観劇好きだからなあ……」
「あの……自分、これから急ぎの仕事があるので、失礼してもよろしいですか?」
急ぎの仕事といっても、本当はコーヒーを飲むだけなのだが。
「お、邪魔して悪かったな。そうだ、たまには一緒に食事しないか。今週末母さんも上京してくるんだが」
「あいにく週末は予定が入っておりますので。それでは失礼します」
予定が入っている事自体はウソではない。あくまで他人行儀に振舞ってから、匠はゆっくりと静かに電話を切った。脂汗がどっと出てくる。父親が同じ役所で偉い役職に付いているというだけで揶揄されることがあるのだ。絶対に慣れ合いたくなかった。それに今は両親と冷静に話せる気がしないから、絶対に顔を合わせたくなどない。
冷めかけたコーヒーを飲みながら、憂鬱な気分で頬杖をつきため息を吐いていると、正面の席に座っている若い女性の同僚、緑川さんが声を殺して笑っていた。いつの間にか出勤していて、今の会話を聞いていたようだった。
「係長、お仕事お疲れ様です!」
にこやかにそう言われてしまったのだった。