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#10 Verbena

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「なぁレイネ、ちょっといいか?」  よく晴れた朝、フィリオがいつもの様に朝ご飯のパンを食べているレイネに話しかけた。 「……なに?」 「ちょっとだけ、君に頼みたいことがあって」  フィリオは今までレイネに頼み事をしたことがなかった。コップをとって欲しい、ペンタにエサをやって欲しいなどといったごく小さな事でさえ、彼は一切要求することがなかった。それは彼なりの不器用な優しさであったが、彼は自分のその優しさがかえって彼女を縛り付け、支配しているのではないかと思ったのだ。 「あのさ……ちょっと、おつかいに、行ってきてくれないか?」 「おつかい……?」 「ま、可愛い子には旅をさせよってやつだ」 「……?」 レイネはパンを咥えたまま首を傾げた。彼女の長い亜麻色の髪は、地面と垂直の関係性を保っている。 「おつかいってのは、具体的に言うと……ルミンの店でパン買ってきてって話。いきなり、無茶言ったかな……」 「……いっしょ?」 「いや、君一人で行くんだ」 「ひとり……」  レイネは不思議そうな顔でこちらを見つめていた。 フィリオはやっぱり自分は無茶なことを言ったのか もしれない、と少し反省して彼女の方をじっと見ていた。  しばらくの間、この広いとは言えない空間に沈黙が流れた後、レイネが口を開いた。 「……わたし……いきたい」 「行ってくれるのか?無理しなくても良いんだぞ」 「むりしてない」 「本当か……? 強がってないか?」 「つよがって……?」 「出来ない事を出来るって言ったり、自分をことさらに強そうに見せるって事だよ」 「つよがってない……よ」 彼女はそう言うと頬をほのかに膨らませてムッとした。彼女の瞳がまるで「私を舐めるな」と訴えるかの様に輝く。そのあまりに純情で凛然とした瞳を見たフィリオの心中に、彼女を心配する思いはもう無かった。 「よし、君のやる気はよーく伝わった。じゃあ、準備開始!」  かくして、レイネはその身一つでおつかいに行くことが決まった。  レイネは早速出発への準備を始めた。パンを買って来れるだけのお金を、革で作られた小さなバッグに入れて、彼女の白く細長い首から下げ、つい数日前に帽子屋で買った赤いリボンが巻かれた麦わら帽子を深く被った。 「これ……にあってる?」  レイネは頭に被った麦わら帽子に手を当てて言った。 「あぁ、似合ってるさ」  フィリオは微笑んだ。 「それじゃ、いってらっしゃい」 「……いってらっしゃい?」 「人を見送る時の言葉だよ。そう言われたら、『いってきます』って言うんだ」 「いって、きます」  レイネはそう言ってフィリオに背中を向けた。彼女のワンピースは背中が大きくあいている。  彼女はドアをゆっくりと開ける。二人が出会ってから、ドアというドアは全てフィリオが開けていた。しかし今、レイネはドアを自分で開けた。彼女のそんな姿に、フィリオは小さな成長を感じるのだった。  それが閉まる音がアトリエに響く。 「行っちゃったな……レイネ」  フィリオはゆっくりと歩いて、アトリエの椅子に座った。 「待ってる間は……作業作業。この絵、もうちょっと何とかならないかな……」  フィリオはポケットから筆を取り出し、絵の制作に取り掛かった。 「……」  フィリオはパレットに絵の具を出して、溶き油で混ぜ合わせていった。  いつもならレイネがすぐ横で彼の作業風景を眺めているのだが、今回は違った。 「レイネがいないとこんなに淋しいものなのか……なんか、調子狂うな……」  フィリオは、自分にとってレイネがいかに大切な存在になっていたかに気付かされた。 「一人って、こんなに淋しいものだったっけ……」    フィリオは独り言を呟く。 「迷わずに帰って来られるといいけど……ま、ルミンのパン屋へは二人で何回も行ってるし、ここからそう遠くないから、ま、大丈夫でしょ」  フィリオはそう言って絵の作業を再開した。  キャンバスには桃色のバーベナの花が描かれていた。  しばらくして街が丁度昼になった頃、フィリオは窓の外を見て言った。 「あれ、雲だ……しかも黒い雲……これは雨が降るかもしれないな。しょうがない、レイネを迎えに行くか」  フィリオは心配して、まだ帰って来ないレイネを見つけに急いで外に出た。  フィリオはいつものルミンのパン屋へ向かう道を辿っていった。  しかし、レイネらしき人影は見えなかった。 「もう帰り道を歩いてると思ったんだけどな……レイネ、どこ行ったんだろう? ルミンとずっと話してるとか?」  それから彼は、そのままルミンのパン屋へ走って向かった。青い空が、黒い雲に包まれていく。 「なぁルミン! レイネいるか?」    彼は勢いよく店のドアを開けて言った。彼の息は荒かった。彼は子供の頃から運動は苦手としている。 「お、フィリオ! おっすー! レイネちゃんなら結構前にここを出てったよ」 「あ……ありがとう」 「レイネちゃん、おつかいだって言って張り切ってたわよ! 健気よねー! 可愛いよねレイネちゃん! 私もあんな風に色白で清楚な女に生まれたかったわ……」  ルミンがカウンターに頬杖をついて言った。 「あぁ、そういう話いいから! 実はレイネがまだ帰って来てないんだよ!」 「どえ! なんですと!? それは大変! 私も探すの手伝うわ……と言いたい所だけど、店を空ける訳にはいかないから……とにかく! レイネちゃんの捜索、頑張って! 確か、空がこんな雲に覆われる前には店を出てたはずよ」 「あ……情報ありがとう!じゃ、また」  絵の作業に没頭して天気の変化に気が付かなかったフィリオにとって、ルミンの情報は当てにならなかったが、それでも彼は彼女に一応お礼を言って、店を去った。すると空が一瞬、白く光った。 「レイネ……どこ行ったんだよ……!」  彼がそう言った刹那、雷が怒る様に轟音を出す。大雨が降って来た。それでも彼は街を走り続けた。ただ彼女に会いたいというその一心で。  彼はさまざまな場所を探し歩き、やがて人気のない街角にやって来た。すると、彼の瞳にレイネらしき少女の姿が映る。 「……レイネ!」 「……ん」  少女は確かにレイネだった。フィリオの全身は雨に打たれて濡れていたが、彼にとってそんな事はどうでも良かった。  彼は真っ先にレイネに駆け寄った。彼女は何故か道端でぐったりとしていた。 「レイネ! 大丈夫か? 何があったんだ?」  フィリオは彼女の手に花が握られているのに気が付いた。 「レイネ、これはもしかして……」 「はな……きれいだったから、かったの……よろこぶ……と……おもって……」  震える口でレイネは言った。 「レイネ……それで?」 「それで……みち……わからなくなった……」 「そうか……ありがとうレイネ。その花を買ってくれて。全身雨に濡れて、それでも家に帰ろうとしてくれて」  フィリオは彼女をおつかいに行かせた事を後悔した。水晶の様に純粋な彼女の優しさが痛かったのだ。  彼女が手にしていた桃色のバーベナの花から、一粒の水滴が落ちた。



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