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 まだ誰もいない防音構造を施された部屋で、私はいつものように個人練習に励んでいた。静かな空間に響き渡る自分の音に耳を傾け、癒やしの一時を満喫する。

 まだ寒さが残る三月の大阪。もうすぐやってくる桜の季節が待ち遠しい時期。
 ここは地元で有名な地域オーケストラ『和泉(いずみ)フィルハーモニー音楽団』の練習室だ。

 私は工藤和泉(くどういずみ)、生まれも育ちも生粋の大阪府民。名前はもちろん、生まれ育った愛着のあるこの和泉市から貰ったのだと両親は言っていた。

 この楽団には高校生になってから入団していて、先日卒業式を終えて四月からは地元の企業で働きながらこの楽団で活動することが決まっている。
 担当パートはヴァイオリン。幼少の頃から習い始め、それなりに腕には自信もある。私が持っているある特殊能力のお陰もあり、他の大人たちを押さえて私はこの楽団のコンサートミストレス(オーケストラの各奏者を統率して、指揮者の意図を音楽に具現する役)を務めるまでに至った。

「よお、和泉ちゃん。今日も早いのぅ、自分の熱心さには関心するわ」
「おはようございます、団長」

 集合時刻である十時が近づき、楽団長のコテコテな関西弁が室内に響いた。私は母の意向で控えているけど、大阪なのだから周りはほぼ関西弁だ。次第に他の団員たちも集まり、それぞれ楽器の準備とウォーミングアップを開始する。
 トランペットやフルートの音、バスドラムやシロフォンの音など、様々な音が鳴り響くここからの時間は私の大好きな時間でもあり……苦痛との戦いの時間でもあるのだ。

 ――あぁ、今日もやっぱり『D3(鍵盤の真ん中の高さの())』の音が微妙に低い。でも皆の楽器だけじゃない、街中に溢れる『D3()』が、私にはズレて聞こえるのだ。私が奏でる音だけは正確なのに。

 そう、私が持つ特殊能力とは〝絶対音感〟――ある音を単独で聴いた時に、音の高さを絶対的に認識できるものだ。例えばピアノで何かの音を鳴らしたとして、その音名を聴いただけで言い当てることができる音楽家には有利な能力だ。
 ところが最近、私はこの絶対音感に苦しめられていた。自分の中には絶対的な音程のD3()が存在するのに、周りの音程はズレて聞こえる。これがどれほど耳障りなのか、言葉でお伝えできないのがとても心苦しいけど、とにかく気持ちが悪い。

 それなのに皆は勿論、いつもなら音にウルサイ団長ですら何も感じていないようなので、どうやらおかしいのは私の方らしい。
 一体自分の身に何が起こっているのか分からないけれど、ただ大好きな音楽の時間が苦痛の時間と化していることが辛かった。

 このまま音がズレたままだったらどうしよう……。

「皆、おはようさん。始める前に今日から入団の新メンバーを紹介するで!」

 人知れず深い溜め息を吐いた時、指揮台に立った団長から挨拶と共に突然の報告の声が上がった。この時期に新メンバーだなんて珍しい。
 誰だろうと少し辺りを見渡すと、チェロの列に座っている人がこちらを見ていることに気づいた。

 目が合ったその人は、私と同い年くらいの男性だった。
 あ。もしかして、あの人かな。

「ほな日向(ひゅうが)君、悪いけど立ってくれるか?」

 団長がそうお願いすると、予想したその人は私から目を離して無言で立ち上がり、皆の注目を集めた。
 センターから流している薄茶のマッシュヘアに、切れ長の目が凜々しくてなかなかに整った顔つきだ。簡単に言うと〝イケメン〟であるその姿に、女性メンバーから「わっ」という小さな歓声が上がった。私もちょっとタイプの顔だったりする。

「チェロ奏者で加わってくれはる、宮崎から来はった高杉日向(たかすぎひゅうが)君や。来月からK教育大学へ通うことになっとって、転居先を探しとる中でウチのことを知って入団を申し込んでくれたっちゅーこっちゃ」

 わざわざ宮崎から? もっと近いところにも良い教育大学はあるでしょうに。
 私は大学に進学するつもりがないから詳しくないけれど、その大学にはよほど何か魅力があったのだろうか。

「日向君を採用した理由は、宮崎で賞を色々取っとるっちゅーのもあるんやが……まぁ、とにかく聞いてみーや」

 団長は高杉君に演奏するように促した。彼は少し困惑した顔をしたけれど、静かに着席すると自らのチェロを構えて大きく息を吸った。
 そして室内には、彼が演奏するチェロの音色が響き渡った。

 サン=サーンス作、『組曲・動物の謝肉祭』の中の一曲「白鳥」。バレエの音楽としても広く知られる、チェロの有名な演奏曲。
 この曲はチェロの優雅な響きを際立たせた旋律だけど、大人顔負けの色気を含んだその音色は場の空気を一変させ、私の脳裏には真っ青な湖で悠然と泳ぐ美しい白鳥の姿が思い浮かんだ。

 彼の見事な演奏が終わると、その場には自然に拍手が巻き起こった。なるほど、これほどの技術を持っていれば団長も是非と入団を勧めるだろう。それにイケメンの艶美な演奏に女性陣もすっかりメロメロだった。
 もちろん私も感動したけど、恐らく私が抱いている感想は皆と違うものだろう。驚くことに、彼の音にはD3()のズレがなかったのだ。自分以外の正確な音程を久しぶりに聞けたことが何より嬉しくて仕方がなかった。

 高杉日向君、彼なら私の気持ちを理解してくれるかも。

「ほな、今日も張り切って始めるで。演奏会まで二ヶ月を切ったさかいな!」

 団長の言葉に、とりあえず私は気持ちを切り替えて練習に励んだ。
 来る二ヶ月後のゴールデンウィークに行う、私たちの定期演奏会に向けて――。


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 まだ誰もいない防音構造を施された部屋で、私はいつものように個人練習に励んでいた。静かな空間に響き渡る自分の音に耳を傾け、癒やしの一時を満喫する。
 まだ寒さが残る三月の大阪。もうすぐやってくる桜の季節が待ち遠しい時期。
 ここは地元で有名な地域オーケストラ『|和泉《いずみ》フィルハーモニー音楽団』の練習室だ。
 私は|工藤和泉《くどういずみ》、生まれも育ちも生粋の大阪府民。名前はもちろん、生まれ育った愛着のあるこの和泉市から貰ったのだと両親は言っていた。
 この楽団には高校生になってから入団していて、先日卒業式を終えて四月からは地元の企業で働きながらこの楽団で活動することが決まっている。
 担当パートはヴァイオリン。幼少の頃から習い始め、それなりに腕には自信もある。私が持っているある特殊能力のお陰もあり、他の大人たちを押さえて私はこの楽団のコンサートミストレス(オーケストラの各奏者を統率して、指揮者の意図を音楽に具現する役)を務めるまでに至った。
「よお、和泉ちゃん。今日も早いのぅ、自分の熱心さには関心するわ」
「おはようございます、団長」
 集合時刻である十時が近づき、楽団長のコテコテな関西弁が室内に響いた。私は母の意向で控えているけど、大阪なのだから周りはほぼ関西弁だ。次第に他の団員たちも集まり、それぞれ楽器の準備とウォーミングアップを開始する。
 トランペットやフルートの音、バスドラムやシロフォンの音など、様々な音が鳴り響くここからの時間は私の大好きな時間でもあり……苦痛との戦いの時間でもあるのだ。
 ――あぁ、今日もやっぱり『D3(鍵盤の真ん中の高さの|レ《・》)』の音が微妙に低い。でも皆の楽器だけじゃない、街中に溢れる『|D3《レ》』が、私にはズレて聞こえるのだ。私が奏でる音だけは正確なのに。
 そう、私が持つ特殊能力とは〝絶対音感〟――ある音を単独で聴いた時に、音の高さを絶対的に認識できるものだ。例えばピアノで何かの音を鳴らしたとして、その音名を聴いただけで言い当てることができる音楽家には有利な能力だ。
 ところが最近、私はこの絶対音感に苦しめられていた。自分の中には絶対的な音程の|D3《レ》が存在するのに、周りの音程はズレて聞こえる。これがどれほど耳障りなのか、言葉でお伝えできないのがとても心苦しいけど、とにかく気持ちが悪い。
 それなのに皆は勿論、いつもなら音にウルサイ団長ですら何も感じていないようなので、どうやらおかしいのは私の方らしい。
 一体自分の身に何が起こっているのか分からないけれど、ただ大好きな音楽の時間が苦痛の時間と化していることが辛かった。
 このまま音がズレたままだったらどうしよう……。
「皆、おはようさん。始める前に今日から入団の新メンバーを紹介するで!」
 人知れず深い溜め息を吐いた時、指揮台に立った団長から挨拶と共に突然の報告の声が上がった。この時期に新メンバーだなんて珍しい。
 誰だろうと少し辺りを見渡すと、チェロの列に座っている人がこちらを見ていることに気づいた。
 目が合ったその人は、私と同い年くらいの男性だった。
 あ。もしかして、あの人かな。
「ほな|日向《ひゅうが》君、悪いけど立ってくれるか?」
 団長がそうお願いすると、予想したその人は私から目を離して無言で立ち上がり、皆の注目を集めた。
 センターから流している薄茶のマッシュヘアに、切れ長の目が凜々しくてなかなかに整った顔つきだ。簡単に言うと〝イケメン〟であるその姿に、女性メンバーから「わっ」という小さな歓声が上がった。私もちょっとタイプの顔だったりする。
「チェロ奏者で加わってくれはる、宮崎から来はった|高杉日向《たかすぎひゅうが》君や。来月からK教育大学へ通うことになっとって、転居先を探しとる中でウチのことを知って入団を申し込んでくれたっちゅーこっちゃ」
 わざわざ宮崎から? もっと近いところにも良い教育大学はあるでしょうに。
 私は大学に進学するつもりがないから詳しくないけれど、その大学にはよほど何か魅力があったのだろうか。
「日向君を採用した理由は、宮崎で賞を色々取っとるっちゅーのもあるんやが……まぁ、とにかく聞いてみーや」
 団長は高杉君に演奏するように促した。彼は少し困惑した顔をしたけれど、静かに着席すると自らのチェロを構えて大きく息を吸った。
 そして室内には、彼が演奏するチェロの音色が響き渡った。
 サン=サーンス作、『組曲・動物の謝肉祭』の中の一曲「白鳥」。バレエの音楽としても広く知られる、チェロの有名な演奏曲。
 この曲はチェロの優雅な響きを際立たせた旋律だけど、大人顔負けの色気を含んだその音色は場の空気を一変させ、私の脳裏には真っ青な湖で悠然と泳ぐ美しい白鳥の姿が思い浮かんだ。
 彼の見事な演奏が終わると、その場には自然に拍手が巻き起こった。なるほど、これほどの技術を持っていれば団長も是非と入団を勧めるだろう。それにイケメンの艶美な演奏に女性陣もすっかりメロメロだった。
 もちろん私も感動したけど、恐らく私が抱いている感想は皆と違うものだろう。驚くことに、彼の音には|D3《レ》のズレがなかったのだ。自分以外の正確な音程を久しぶりに聞けたことが何より嬉しくて仕方がなかった。
 高杉日向君、彼なら私の気持ちを理解してくれるかも。
「ほな、今日も張り切って始めるで。演奏会まで二ヶ月を切ったさかいな!」
 団長の言葉に、とりあえず私は気持ちを切り替えて練習に励んだ。
 来る二ヶ月後のゴールデンウィークに行う、私たちの定期演奏会に向けて――。