シアン:うそ(2/7)
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(どこにいる?)(いない。あの巣にはいない) (町の方にいる)(場所は……) (作りものの臭いがする)(いた、出てきた)(石と砂のハコから出てきた) (建物。ヒトが安全に寝起きする) 溺水で搬送されたダミアンは予定通りに退院できた。入院中は病院備え付けの衣類を借りていた。洗って返そうとすると衛生の観点からそれは不要だと断られた。それなのにダミアンが搬送時に着ていた衣類は、丁寧に洗浄とアイロンまでしてもらったものを返されている。海水でベタついていたはずだが、まるで見違えるように綺麗になって返ってきた。 ただし、しっかりと代金は請求されている。 「まあ、それはそうか」 ダミアンは一度帰宅し、自宅に異常がないことを確認したのちに一息つき、昼食を簡単に済ませてから片付け。それから支払い手続きのために再び病院に赴いた。たっぷり休んだからだろうか。とても体が軽く、フットワークも軽い。先にできることはやってしまおうと思った。 支払いは滞りなく手続きされた。少なくともダミアンが筆記するような部分は終わった。 次にダミアンが向かったのは書店である。語学教師をやるにあたり、参考になるものや基本を押さえた書籍を探すためだ。それから手帳とノート。今後はスケジュールの管理がより重要になってくる。ペンは愛用のものがあるものの、文具というものはどうしても目移りしてしまう。気分に合ったデザインのペンと定規をまた新たに迎えてしまった。 早いもので時刻は昼下がりから夕方に差し掛かろうとしていた。 (怪しい、これはなに?)(ハコ。入れ物。コンテナ) (何?)(シナモノが入ってる)(シナモノ。人間のコロニーで使う) (人間もシナモノ?) ダミアンが向かったのは顔馴染みの不動産屋がいる事務所である。ダミアンが溺れて死んでしまう前に発見し、救助してくれた恩人に会うためだ。食事くらい奢らねば無作法というものだろう。 特に、あの褐色肌の不動産屋はよく食べる。満足するまで食わせてみたい好奇心もあった。 「シドーですか? あいつ外にいませんでした?」 「外?」 事務所にいた別の人間から、シドーは休憩のため外にいると言われた。はて、おかしい。来る途中には見かけなかったが。 そう思いつつ、裏口の方は見ていないと思い出したダミアンはそちらに足を向けた。細い路地。太陽の光が入らず、涼しく風が通りつつも暗い印象のある場所だった。 一歩入ったその時。煙草の臭いが鼻先を掠めていったのを感じた。む、とダミアンが眉をしかめると同時に視線を感じ、ゆっくりと下方に目をやる。 「あ?」 そこに居た人物は股を広げてしゃがみ、その膝に手を置いてこちらを睨めあげていた。左手には先ほど感じた臭いの出どころらしいタバコがそこで煙を細く伸ばしている。シャツを胸元まで開けて着崩した様子は、それが本人にとっての日常である印象を受けた。 褐色肌、黒い髪に威圧的な眼差し。人違いです、と言ってダミアンが逃げ出す前に、その人物は顔つきを変えて立ち上がった。 「ラムラスさん? ああ、今日退院って言ってたな」 顔つきを変えたとは言っても、無愛想な顔色に変わりない。それでも見慣れた横顔にはホッとする。 「ああ、あの……休憩中にお邪魔してしまってすみません」 「いえ、すみませんこちらこそ」 言ってシドーは携帯灰皿を取り出して煙草の火を揉み消した。彼の吐く言葉にタバコの臭いが混じっている。 「退院おめでとうございます。見舞いに行く前に出てこれるほど無事とは思いませんでした」 そう言いながらシャツのボタンを留めて衣類の乱れを整える。あの時の怒り方といい、休憩時間の過ごし方といい、シドーはダミアンの知らない生活スタイルや経験でここまで来たことを思わせる。 知らない経歴を思わせるこの若き不動産屋にダミアンは笑みかけた。 「シドーさんに助けてもらわなければ、そうもいきませんでしたよ」 (この人間は難しかった)(間に合ったのは喜ばしいこと) (もう少し改良しないといけない) (カイリョウ?)(もっと強くする?)(このコロニーはもう取り込んだ)(必要ない) ダミアンの言葉にシドーは表情を曇らせる。彼の意志の強い眼差しが沈んでいた。 「あれは、あの日は……どうかしてたんです。どうしてそうなったのかも……」 「結果が良ければそれで良しとしませんか? お礼を兼ねてお食事にお誘いしようとしていたのですが」 「礼とか別に……」 「あなたのおかげで助かったのは事実です。それとも食事一回では足りないでしょうか」 シドーは口をへの字に曲げてダミアンを見た。よく見せる不機嫌そうな眼差しではなく、もう少し友好的なものだ。態度を軟化させ、何度か小さく頷いて見せる。 「一回でいいですよ。じゃあ片付けて来るんでその辺で待っててください」 言ってシドーはこの路地を出てすぐに事務所に戻った。 都市では不動産屋と交友関係を築くことなどない。あくまで担当の営業と顧客の関係性でしかなく、それ以上の付き合いはない。名刺は一応、万が一のために保管をするだけだろう。それがここベルティナではそんな垣根のようなものもない。 偶然といえばそうなのだろうが、シドーの性格を思えばダミアンを売り込むようなことはしていないだろう。語学教師の話をダミアンに持ちかけたのはシドーだが、発案者は別にいる。その人物はシドーを信頼して提案したのだ。 いかに彼が気迫ある怒声を放ち、暴力をも辞さない人間であるにしろ、仕事に対する姿勢は悪くない。仕事の話、ビジネスの話というのは本来、信頼できる相手にしかしないものだ。 彼は若い。欠点のない人間はいない。それらを思えば、あの程度は喧嘩のうちにも入らない。 「お待たせしました」 あまり時間をかけずにシドーが出て来た。ダミアンはそれを笑顔で迎える。 「行きたいところはありますか? シドーさんが食べたいものを出してくれるところに行きましょう」 「いいんですか? じゃあ肉食いたいんでレッドホーンで」 レッドホーンは鉄板料理の店の名前である。厚切りのステーキ肉や串焼き肉の他、魚介類や野菜に果物など焼けるものはなんでも焼く、というのがコンセプトだ。シドーに連れられ何度かダミアンも行ったことがある。焼いたフルーツなどリンゴくらいしか食べたことがなかったダミアンにとって、焼いたパイナップルやバナナ、ブドウなどはたまらない美味しさだった。 あまりにも肉を食べないものだからシドーには怪訝な顔をされたものである。 (甘いもの!)(好ましい食べ物)(行くなら今だ)(私も行く!)(お前は前回行った!)(パイナップル焼くの甘い、好ましい) (甘いものこそ最も大切なもの) 先ほどまでシドーがタバコを吹かしていた路地裏。誰も通らず日の当たらないそこに、まるで地面から水が湧き出し波紋が広がるように景色が歪んだ。歪みはやがて足元から人の形をとりながら色づき始め、みるみるうちに衣類を纏った人間の女性の姿に落ち着いていく。 衣類はここに来る途中に見かけた人々のものを真似ているものだ。靴も忘れずに。 「よし」 シアンは適当に身だしなみを整えた。どこから見ても問題ないだろう。問題があっても大きなものではないはずだし、後で誤魔化せる。 「ダミアン」 歩き出そうとしたダミアンとシドーの後ろ姿に声をかける。二人からは、シアンが路地裏からやって来たように見えるはずだ。違和感は強く出ないようにしている。そうでなくとも、もうこの町は。 「ええ、いきましょうか」 「おいてくぞ」 多少は、シアンの好きなようにできる。
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