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兄の疲労

10/23





 学園祭の期間中は、理学部棟でも空き講義室が出し物の場として貸し出され、それに合わせて玄関や通用口も開放されていた。しかし、祭りなどどこ吹く風といわんばかりにいつも通りの陰鬱さをたたえているので、入ってくるのは客よりも渇いた空っ風ばかりで、一階のロビーは外と変わらないくらい冷えていた。  利玖の後についてロビーを横切り、奥の階段から二階に上がると、まだ少し暖房が効いていて、上着を脱いで食事を取る事が出来た。  自動販売機が設置された人気のないラウンジの窓際に、利玖と史岐は腰を下ろした。  西門通りに面した壁の一部ががら張りになっていて、下に屋台の並びが見える。日比谷遥がこちらに気づいて、嬉しそうに手を振った。 「そういえば、わたしに何かご用でしたか?」  味気ないカロリー・バーを食べ終えた史岐が、缶コーヒーを買ってきて飲んでいると、まだ焼きそばと格闘を続けている利玖が思い出したように訊ねた。サービスに次ぐサービスを重ねられたのか、肉も野菜もてんこ盛りで、懸命に箸を動かしているがあまり減っていくようには見えない。  史岐は、コーヒーを飲んでいる振りをしながら、どう答えたものか悩んだが、一緒に学園祭を見て回りたかった、と正直に打ち明けた所で、 『屋台の食べ物が買えないのにですか?』 と訊き返されるのが関の山に思えた。 「まあ……、利玖ちゃんの予定はどうかな、と思って……」 「わたしの予定?」  利玖は史岐の言葉をくり返し、しばらく思案した後、合点がいったようにぱっと目を明るくして片方の拳を握った。 「今日は売り子が終われば時間が空くので、史岐さんのライブにも何人か連れて行けると思いますよ」  どうやら、独り合点のようだった。  温泉同好会の屋台に戻って広報活動の首尾を報告し、その後はまだ構内をさすらっているであろう阿智あち茉莉花まりかを探すのを手伝って、二人が合流出来たら、史岐はそこで別れる事にした。  今日は、何よりもまずステージの事を第一に考えるべきだし、終わったら終わったでそのまま駅前にでも流れて打ち上げになるだろう。夜の自分が何時まで飲み歩いているかはわからないが、明日の朝になって目が覚めて、それでもまだ利玖を誘う気力が残っていたらもう一度悩めば良い。 『講義棟の中を歩いて行けば人混みを避けられますし、近道ですよ』 という利玖の言葉に従って、一階に戻った後は、西門通りと並行して伸びている内部の廊下を進んだ。  天井近くの採光窓からわずかに日が射し込むだけで、ロビーよりもいっそう薄暗い。  時々、左右の壁に、研究内容を説明したフルカラーのポスターが貼り出されていた。教授の物と思しきネーム・プレートが掛かった扉もある。おそらく、講義棟の中にも飛び地のように研究室が点在している区画があって、ここもそういう一帯なのだろう。  廊下は静まり返っているが、壁の向こうでは誰かが動いている気配がする。  しかし、本当に人だろうか。  何しろ生物科学科の研究室である。どこぞの山奥で捕えられた活きの良い研究対象がまだ生きていて、暴れ回っているのではあるまいか。  得体の知れない雑多な暗がりに向かって、工学部情報工学科の史岐はそんな想像を膨らませた。  なんだかおっかない所だね、と口に出しかけた時、何の前触れもなく右手の扉が開いたので、二人揃って飛び上がりそうになった。  眼鏡をかけた青年が顔を覗かせる。  利玖の実兄・くらがわたくみだった。 「懐かしい格好だね」  廊下に棒立ちになっている二人を見て、匠はまず利玖に声をかけ、それから史岐に向かって片手を挙げた。こちらも無言で、返礼する史岐。 「おお、さぶ……」  匠は顔をしかめて二の腕をさすった。 「また正面玄関を開けっ放しにしてるな……。おかげで部屋の中まで底冷えしてるよ」 「兄さん、ずっと研究室にいたんですか?」 「うん」  匠は目をしょぼしょぼとさせながら頷いた。  潟杜大学理学部生物科学科を卒業し、利玖の先輩にもあたる彼は、現在、同学部の博士課程に籍を置いている。元気げんき溌剌はつらつの四字熟語とは生涯決別の誓いを立てているような人物だが、それにしても、今日は一段と疲れがひどいように見えた。  眼鏡を取って目をこすった後、匠はもう一度利玖を見て、 「お正月に泊まるお客さんに貸してる浴衣だよね」 と言った。 「母さんから送ってもらったの?」 「はい。毎年何着も箪笥たんすの肥やしになっているので、それならいっそ祭りの場で着てもらう方が良いと」 「ふうん……」 「別海先生は今年もいらして下さるそうですよ。兄さんに会うのも、とても楽しみだとおっしゃっていました」 「ああ、そういえば先月、檸篠ねじのに行っていたんだっけ」匠は宙を見つめて顎をさすった。「そうか……、それなら、帰るかな……」 「あとですね、今日と明日、温泉同好会が学生支援センター前でお汁粉を売っています」  利玖はビラの束から素早く一枚抜き取って、匠に渡した。 「スリー・コインで買えますので、頭脳労働に疲れましたらぜひ」  ビラを受け取った匠は、そのまま研究室に戻った。  扉が閉まる時、暖かい部屋の空気が煙草の匂いとともにふわっと廊下まで押し出されてきて、二人の前髪を揺らした。  どうやら相当根を詰めているらしい。利玖の気遣わしげな表情から、史岐にもそれが伝わってきた。  匠を刺激しないように、二人は忍び足で神保研究室の前を離れた。 「商魂たくましい売り子に恵まれて、温泉同好会は安泰だね」 「理由もないのに浴衣姿で講義棟をすずろ歩いていると思われたのでは困ります」  利玖は毅然きぜんとして答えながら、ふと何かに気づいたように後ろを振り向いた。 「兄さん、何をしに廊下に出てきたんでしょう……?」



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 学園祭の期間中は、理学部棟でも空き講義室が出し物の場として貸し出され、それに合わせて玄関や通用口も開放されていた。しかし、祭りなどどこ吹く風といわんばかりにいつも通りの陰鬱さをたたえているので、入ってくるのは客よりも渇いた空っ風ばかりで、一階のロビーは外と変わらないくらい冷えていた。  利玖の後についてロビーを横切り、奥の階段から二階に上がると、まだ少し暖房が効いていて、上着を脱いで食事を取る事が出来た。  自動販売機が設置された人気のないラウンジの窓際に、利玖と史岐は腰を下ろした。  西門通りに面した壁の一部ががら張りになっていて、下に屋台の並びが見える。日比谷遥がこちらに気づいて、嬉しそうに手を振った。 「そういえば、わたしに何かご用でしたか?」  味気ないカロリー・バーを食べ終えた史岐が、缶コーヒーを買ってきて飲んでいると、まだ焼きそばと格闘を続けている利玖が思い出したように訊ねた。サービスに次ぐサービスを重ねられたのか、肉も野菜もてんこ盛りで、懸命に箸を動かしているがあまり減っていくようには見えない。  史岐は、コーヒーを飲んでいる振りをしながら、どう答えたものか悩んだが、一緒に学園祭を見て回りたかった、と正直に打ち明けた所で、 『屋台の食べ物が買えないのにですか?』 と訊き返されるのが関の山に思えた。 「まあ……、利玖ちゃんの予定はどうかな、と思って……」 「わたしの予定?」  利玖は史岐の言葉をくり返し、しばらく思案した後、合点がいったようにぱっと目を明るくして片方の拳を握った。 「今日は売り子が終われば時間が空くので、史岐さんのライブにも何人か連れて行けると思いますよ」  どうやら、独り合点のようだった。  温泉同好会の屋台に戻って広報活動の首尾を報告し、その後はまだ構内をさすらっているであろう阿智あち茉莉花まりかを探すのを手伝って、二人が合流出来たら、史岐はそこで別れる事にした。  今日は、何よりもまずステージの事を第一に考えるべきだし、終わったら終わったでそのまま駅前にでも流れて打ち上げになるだろう。夜の自分が何時まで飲み歩いているかはわからないが、明日の朝になって目が覚めて、それでもまだ利玖を誘う気力が残っていたらもう一度悩めば良い。 『講義棟の中を歩いて行けば人混みを避けられますし、近道ですよ』 という利玖の言葉に従って、一階に戻った後は、西門通りと並行して伸びている内部の廊下を進んだ。  天井近くの採光窓からわずかに日が射し込むだけで、ロビーよりもいっそう薄暗い。  時々、左右の壁に、研究内容を説明したフルカラーのポスターが貼り出されていた。教授の物と思しきネーム・プレートが掛かった扉もある。おそらく、講義棟の中にも飛び地のように研究室が点在している区画があって、ここもそういう一帯なのだろう。  廊下は静まり返っているが、壁の向こうでは誰かが動いている気配がする。  しかし、本当に人だろうか。  何しろ生物科学科の研究室である。どこぞの山奥で捕えられた活きの良い研究対象がまだ生きていて、暴れ回っているのではあるまいか。  得体の知れない雑多な暗がりに向かって、工学部情報工学科の史岐はそんな想像を膨らませた。  なんだかおっかない所だね、と口に出しかけた時、何の前触れもなく右手の扉が開いたので、二人揃って飛び上がりそうになった。  眼鏡をかけた青年が顔を覗かせる。  利玖の実兄・くらがわたくみだった。 「懐かしい格好だね」  廊下に棒立ちになっている二人を見て、匠はまず利玖に声をかけ、それから史岐に向かって片手を挙げた。こちらも無言で、返礼する史岐。 「おお、さぶ……」  匠は顔をしかめて二の腕をさすった。 「また正面玄関を開けっ放しにしてるな……。おかげで部屋の中まで底冷えしてるよ」 「兄さん、ずっと研究室にいたんですか?」 「うん」  匠は目をしょぼしょぼとさせながら頷いた。  潟杜大学理学部生物科学科を卒業し、利玖の先輩にもあたる彼は、現在、同学部の博士課程に籍を置いている。元気げんき溌剌はつらつの四字熟語とは生涯決別の誓いを立てているような人物だが、それにしても、今日は一段と疲れがひどいように見えた。  眼鏡を取って目をこすった後、匠はもう一度利玖を見て、 「お正月に泊まるお客さんに貸してる浴衣だよね」 と言った。 「母さんから送ってもらったの?」 「はい。毎年何着も箪笥たんすの肥やしになっているので、それならいっそ祭りの場で着てもらう方が良いと」 「ふうん……」 「別海先生は今年もいらして下さるそうですよ。兄さんに会うのも、とても楽しみだとおっしゃっていました」 「ああ、そういえば先月、檸篠ねじのに行っていたんだっけ」匠は宙を見つめて顎をさすった。「そうか……、それなら、帰るかな……」 「あとですね、今日と明日、温泉同好会が学生支援センター前でお汁粉を売っています」  利玖はビラの束から素早く一枚抜き取って、匠に渡した。 「スリー・コインで買えますので、頭脳労働に疲れましたらぜひ」  ビラを受け取った匠は、そのまま研究室に戻った。  扉が閉まる時、暖かい部屋の空気が煙草の匂いとともにふわっと廊下まで押し出されてきて、二人の前髪を揺らした。  どうやら相当根を詰めているらしい。利玖の気遣わしげな表情から、史岐にもそれが伝わってきた。  匠を刺激しないように、二人は忍び足で神保研究室の前を離れた。 「商魂たくましい売り子に恵まれて、温泉同好会は安泰だね」 「理由もないのに浴衣姿で講義棟をすずろ歩いていると思われたのでは困ります」  利玖は毅然きぜんとして答えながら、ふと何かに気づいたように後ろを振り向いた。 「兄さん、何をしに廊下に出てきたんでしょう……?」



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