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郷愁

19/22





 美蕗達と合流し、帰りの船が出る時間まで港近くの街を見て回る事にした。  海岸沿いの一帯に、レストランやセレクト・ショップに内装を作り変えた重厚な赤煉瓦の倉庫街が並び、その横を運河が流れている。運河には、飾りのついた石造りの橋が架かって、その下を観光客を乗せた遊覧船がゆったりと運航していた。  運河から、車道を挟んだ反対側では、市街地の一部が歩行者天国になっている。オルゴールやがら細工の民芸品を扱う店や洋菓子店、明治以前の時代を思わせる堂々たる佇まいの建築物などが軒を連ねていた。  極彩色の服を着た観光客で溢れ返った交差点を、超低速度で通過する時、美蕗が一言だけ「阿呆みたいな人出ね」と口にした。  空いているコインパーキングを探して車を停める。  エンジンを切った途端、柊牙が挙手をした。 「俺、煙草吸いたい」 「煙たいのは嫌」即座に美蕗が否決する。 「こういう観光地って、今は灰皿の撤去が進んでいますから、吸う場所がないかもしれませんよ」ヘビィ・スモーカーの兄を持つ利玖が助け舟を出した。 「じゃあ、車のキー貸してくれよ。後で追いつくから」 「他人ひとの車を喫煙所代わりにするな」  そうは言ったものの、しかし、そろそろ一服したいのは史岐も同じだった。 「しょうがないな……、ごめん、利玖ちゃん。先に行っててくれる?」  利玖はこくんと頷いて、美蕗と一緒に歩行者天国の方へ歩いて行った。  車内に残った二人は、黙って煙草に火を点ける。  初めの一本を吸い終えるまで、どちらも口を聞かなかった。  やがて、史岐が先に煙草を捨て、ドリンクホルダーから缶コーヒーを取る。買った時には素手で持てないほど熱かったのに、もうぬるくなっていた。 「二人きりにして大丈夫だったかな……」 「本の話でもしてんじゃねえの」  柊牙は、ミラー越しにちらっと史岐を見た。 「で、どうだったんだよ」 「何が?」  柊牙は片目をつむる。 「俺のおかげで、ちょっとの間でも二人きりになれただろ?」  史岐は舌打ちしてシートにもたれかかった。 「それ、お前に話す必要あるか?」 「ある、ある」柊牙は運転席のヘッドレストに手をかけて身を乗り出す。「俺、今ものすごくブルーなわけよ。変な魚食わされて目がおかしくなるわ、行って帰って来たばかりの北海道にとんぼ返りさせられるわ、船の中じゃ高飛車なお嬢様と同じ部屋になって、あれやこれやと命じられて、その上、潟杜で平穏に暮らすのを保障してやる代わりに、これから先、好きに目を使わせろって持ちかけられてんだから」 「それならそれで、せめてもう少し神妙な顔をしたらどうだ」史岐はそう口にした後、顔面蒼白になって振り向いた。「──何だって?」 「あの家の台所で、姉貴とおふくろが肉だけの魚をさばいているのが見えた」  まるで通学途中に珍しい気候現象に出くわしたのを伝えるような口調で、柊牙は、矢淵氏が以前付き合っていた女性が不審死を遂げている事、そして、その犯人がまだ捕まっていない事を語った。 「二人とも普通の顔で皿を運んできたんだぜ」口を開いた隙間から、煙を逃がす。「おっかねえな、うちの家族はよ」 「だからって、そんな……」  言葉が見つからなかったのか、史岐は唇を噛み、苛立たしげに髪をかき上げた。  わかりやすく取り乱している人間が目の前にいるとかえって心が落ち着くものだ、と他人事のように柊牙は思う。 「そういう訳で、実家とは縁を切るつもりで潟杜で生計を立てた方が良いって話になったのさ。しかし、家族に知られていない安全な部屋に引っ越すにも金がかかる。伝手も土地勘もない俺が、大学に通いながら諸々の手筈を整えるのは難しい。そこで、あのお嬢様にちょっとばかし口利きしてもらおうってわけ」 「お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」  史岐は気色ばんだ目元を柊牙に向けた。 「美蕗はあの歳で立派に槻本の当主を務めている。裏を返せば、家の利益の為には手段を選ばないって事だ。何やらされるか、わかったもんじゃないぞ」 「そうだな。今まで避けてきたけど、刑事事件の犯人捜しなんかやらされたら、いらん恨みを買う可能性もある」 「それがわかっているなら、なんで……」 「俺にも同じ血が流れている」  史岐が息をのんだ。 「このまま学校に通って、卒業して、どこかの会社に入って働いて……、そういう普通の生き方をしているうちに、俺もいつか『こいつの為なら血縁の一人や二人どうなったって構わない』と思うような相手に出会うかもしれない。だけど、そうなった時、俺は姉貴と同じ事はしたくねえ」  柊牙は片手を目に当てた。 「だから彼女の下に着く。普通に生きていたら見られない世界を知る為に。この目を、自分の為に、上手くかせるように」  柊牙は後部座席からセンターコンソールに手を伸ばして灰皿を引き出し、煙草を押し込む。  それから、額に拳を当ててうつむいている史岐の肩に軽く触れた。 「あんまりお嬢さん達を待たせたら悪いぜ」  上着を羽織って外に出た。  車の周りに残っていた煙草の臭いが風に散らされて、代わりに、どこかから香ばしい匂いが漂ってくる。  時計塔の近くにあるベイクド・タルトの店だろう。この辺りは幼い頃、家族に連れられて何度も訪れた場所だから、柊牙には大体どんな物が売られているか察しがつく。  久しぶりに、故郷の銘菓を腹いっぱい食べたくなった。  時計塔のある広場の方から流れて来る、木管楽器のようなヒャラヒャラと軽い調べを聞くともなしに聞きながら、柊牙は、財布にあといくら残っていただろうと、ぼんやり計算した。 「礼文島って、どうやって行くのがいいんだ」  急に、後ろから史岐が訊ねた。 「なんだよ、藪から棒に」 「いいから」 「うーん」柊牙は上を向いて顎をさする。「俺も行った事がねえから、ツーリング仲間から聞いた話になるけど、稚内から船が出てるらしいから、それに乗るんじゃないか? いくら掛かるかは調べないとわからん。……なんだ、佐倉川さんが行きたいって言ったのか?」  史岐が頷いたので、柊牙は「すげえな」と笑った。 「雪まつりも知床もすっ飛ばして、いきなりそっちかよ。……まあ、そういう事を言いそうな子だよな」  歩みを再開させ、柊牙は何かをなぞり書くように、すいすいと宙に立てた指を動かした。 「あの辺りに行くなら、宗谷岬も外せないな。なんてったって最北端だぜ。記念に一度は行くべきだ。……そうだ、せっかくならサロベツ原野を通って行けよ。見渡す限りだだっ広い平野で、片側は海。晴れていれば遠くにしり富士ふじが見える。それがずっと稚内まで続くんだ。バイク乗りには憧れの地だぜ。本州じゃあんな景色、まず見られないからな。あと、道の駅で売ってる瓶の牛乳が美味い。バターみたいにコクがあって……」 「戻ってこいよ」  風が止むような声で史岐が言った。  とっさに振り返る事が出来ず、足が止まる。 「県外に出れば、美蕗の力だってそう強くは及ばない。恩があっても、援助を受けていても関係ない。ずっと潟杜に縛られている事なんてないんだ。ここが好きなら……、ここで生きていきたいなら、ちゃんと戻ってこい。お前なら出来る」  柊牙は靴の爪先に目を落としたまま、唇を歪めた。 (お前みたいな世話焼きがいなきゃ、もっと楽に捨てられた……)  喉まで出かかった言葉を飲み込む。  史岐に気づかれないように、きつい力で指を握りしめ、ゆっくりとそれを開いて、小波さざなみが立ったようにざらついた意識を切り替えた。 「俺は、お前ともっと面白い話が出来るようになるって思ったら、そう悪い気もしねえけどな」  史岐は苦笑し、消え入りそうな声で、馬鹿野郎、と呟いた。



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19/22

 美蕗達と合流し、帰りの船が出る時間まで港近くの街を見て回る事にした。  海岸沿いの一帯に、レストランやセレクト・ショップに内装を作り変えた重厚な赤煉瓦の倉庫街が並び、その横を運河が流れている。運河には、飾りのついた石造りの橋が架かって、その下を観光客を乗せた遊覧船がゆったりと運航していた。  運河から、車道を挟んだ反対側では、市街地の一部が歩行者天国になっている。オルゴールやがら細工の民芸品を扱う店や洋菓子店、明治以前の時代を思わせる堂々たる佇まいの建築物などが軒を連ねていた。  極彩色の服を着た観光客で溢れ返った交差点を、超低速度で通過する時、美蕗が一言だけ「阿呆みたいな人出ね」と口にした。  空いているコインパーキングを探して車を停める。  エンジンを切った途端、柊牙が挙手をした。 「俺、煙草吸いたい」 「煙たいのは嫌」即座に美蕗が否決する。 「こういう観光地って、今は灰皿の撤去が進んでいますから、吸う場所がないかもしれませんよ」ヘビィ・スモーカーの兄を持つ利玖が助け舟を出した。 「じゃあ、車のキー貸してくれよ。後で追いつくから」 「他人ひとの車を喫煙所代わりにするな」  そうは言ったものの、しかし、そろそろ一服したいのは史岐も同じだった。 「しょうがないな……、ごめん、利玖ちゃん。先に行っててくれる?」  利玖はこくんと頷いて、美蕗と一緒に歩行者天国の方へ歩いて行った。  車内に残った二人は、黙って煙草に火を点ける。  初めの一本を吸い終えるまで、どちらも口を聞かなかった。  やがて、史岐が先に煙草を捨て、ドリンクホルダーから缶コーヒーを取る。買った時には素手で持てないほど熱かったのに、もうぬるくなっていた。 「二人きりにして大丈夫だったかな……」 「本の話でもしてんじゃねえの」  柊牙は、ミラー越しにちらっと史岐を見た。 「で、どうだったんだよ」 「何が?」  柊牙は片目をつむる。 「俺のおかげで、ちょっとの間でも二人きりになれただろ?」  史岐は舌打ちしてシートにもたれかかった。 「それ、お前に話す必要あるか?」 「ある、ある」柊牙は運転席のヘッドレストに手をかけて身を乗り出す。「俺、今ものすごくブルーなわけよ。変な魚食わされて目がおかしくなるわ、行って帰って来たばかりの北海道にとんぼ返りさせられるわ、船の中じゃ高飛車なお嬢様と同じ部屋になって、あれやこれやと命じられて、その上、潟杜で平穏に暮らすのを保障してやる代わりに、これから先、好きに目を使わせろって持ちかけられてんだから」 「それならそれで、せめてもう少し神妙な顔をしたらどうだ」史岐はそう口にした後、顔面蒼白になって振り向いた。「──何だって?」 「あの家の台所で、姉貴とおふくろが肉だけの魚をさばいているのが見えた」  まるで通学途中に珍しい気候現象に出くわしたのを伝えるような口調で、柊牙は、矢淵氏が以前付き合っていた女性が不審死を遂げている事、そして、その犯人がまだ捕まっていない事を語った。 「二人とも普通の顔で皿を運んできたんだぜ」口を開いた隙間から、煙を逃がす。「おっかねえな、うちの家族はよ」 「だからって、そんな……」  言葉が見つからなかったのか、史岐は唇を噛み、苛立たしげに髪をかき上げた。  わかりやすく取り乱している人間が目の前にいるとかえって心が落ち着くものだ、と他人事のように柊牙は思う。 「そういう訳で、実家とは縁を切るつもりで潟杜で生計を立てた方が良いって話になったのさ。しかし、家族に知られていない安全な部屋に引っ越すにも金がかかる。伝手も土地勘もない俺が、大学に通いながら諸々の手筈を整えるのは難しい。そこで、あのお嬢様にちょっとばかし口利きしてもらおうってわけ」 「お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」  史岐は気色ばんだ目元を柊牙に向けた。 「美蕗はあの歳で立派に槻本の当主を務めている。裏を返せば、家の利益の為には手段を選ばないって事だ。何やらされるか、わかったもんじゃないぞ」 「そうだな。今まで避けてきたけど、刑事事件の犯人捜しなんかやらされたら、いらん恨みを買う可能性もある」 「それがわかっているなら、なんで……」 「俺にも同じ血が流れている」  史岐が息をのんだ。 「このまま学校に通って、卒業して、どこかの会社に入って働いて……、そういう普通の生き方をしているうちに、俺もいつか『こいつの為なら血縁の一人や二人どうなったって構わない』と思うような相手に出会うかもしれない。だけど、そうなった時、俺は姉貴と同じ事はしたくねえ」  柊牙は片手を目に当てた。 「だから彼女の下に着く。普通に生きていたら見られない世界を知る為に。この目を、自分の為に、上手くかせるように」  柊牙は後部座席からセンターコンソールに手を伸ばして灰皿を引き出し、煙草を押し込む。  それから、額に拳を当ててうつむいている史岐の肩に軽く触れた。 「あんまりお嬢さん達を待たせたら悪いぜ」  上着を羽織って外に出た。  車の周りに残っていた煙草の臭いが風に散らされて、代わりに、どこかから香ばしい匂いが漂ってくる。  時計塔の近くにあるベイクド・タルトの店だろう。この辺りは幼い頃、家族に連れられて何度も訪れた場所だから、柊牙には大体どんな物が売られているか察しがつく。  久しぶりに、故郷の銘菓を腹いっぱい食べたくなった。  時計塔のある広場の方から流れて来る、木管楽器のようなヒャラヒャラと軽い調べを聞くともなしに聞きながら、柊牙は、財布にあといくら残っていただろうと、ぼんやり計算した。 「礼文島って、どうやって行くのがいいんだ」  急に、後ろから史岐が訊ねた。 「なんだよ、藪から棒に」 「いいから」 「うーん」柊牙は上を向いて顎をさする。「俺も行った事がねえから、ツーリング仲間から聞いた話になるけど、稚内から船が出てるらしいから、それに乗るんじゃないか? いくら掛かるかは調べないとわからん。……なんだ、佐倉川さんが行きたいって言ったのか?」  史岐が頷いたので、柊牙は「すげえな」と笑った。 「雪まつりも知床もすっ飛ばして、いきなりそっちかよ。……まあ、そういう事を言いそうな子だよな」  歩みを再開させ、柊牙は何かをなぞり書くように、すいすいと宙に立てた指を動かした。 「あの辺りに行くなら、宗谷岬も外せないな。なんてったって最北端だぜ。記念に一度は行くべきだ。……そうだ、せっかくならサロベツ原野を通って行けよ。見渡す限りだだっ広い平野で、片側は海。晴れていれば遠くにしり富士ふじが見える。それがずっと稚内まで続くんだ。バイク乗りには憧れの地だぜ。本州じゃあんな景色、まず見られないからな。あと、道の駅で売ってる瓶の牛乳が美味い。バターみたいにコクがあって……」 「戻ってこいよ」  風が止むような声で史岐が言った。  とっさに振り返る事が出来ず、足が止まる。 「県外に出れば、美蕗の力だってそう強くは及ばない。恩があっても、援助を受けていても関係ない。ずっと潟杜に縛られている事なんてないんだ。ここが好きなら……、ここで生きていきたいなら、ちゃんと戻ってこい。お前なら出来る」  柊牙は靴の爪先に目を落としたまま、唇を歪めた。 (お前みたいな世話焼きがいなきゃ、もっと楽に捨てられた……)  喉まで出かかった言葉を飲み込む。  史岐に気づかれないように、きつい力で指を握りしめ、ゆっくりとそれを開いて、小波さざなみが立ったようにざらついた意識を切り替えた。 「俺は、お前ともっと面白い話が出来るようになるって思ったら、そう悪い気もしねえけどな」  史岐は苦笑し、消え入りそうな声で、馬鹿野郎、と呟いた。



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