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第一夜

ー/ー



 「その子」は深い深いまっくらな木々の中の小さな泉のほとりにいた。

 私はいまでもあの夏が忘れられないのだ。

 どんなにきれいなものを並べたってあの夏の思い出にはかないっこない。もくもくそびえ立つ入道雲。汗をかいたサイダーの瓶に伸びる太陽の光。縁側で食べるスイカ。夜には愛をささやきながらふわふわ舞う蛍。これはそういうお話。


「ねえ、お姉ちゃん。もしかして道に迷ってる?」


 妹の沙夜(さや)が私の手をぎゅっと握りながら言った。妹の言葉にじわりと全身の汗が滲み出る。

 私と沙夜は夏休みのあいだ父の実家にふたりだけで来ていた。

 ここは私達が普段住む街とは違って、自然豊かな場所だ。見渡す限り広がる田んぼ。その中にぽつんと建つ父の実家。一番近所の家でも100メートルくらいは距離があったと思う。近くにコンビニやスーパーといった便利なものはなく、アイスやお菓子が欲しかったら自分たちで自転車を走らせて片道15分のところにある駄菓子屋まで行かなければならなかった。

 道を歩けば突然蛙がぴょこんと脅かしてくるし、どこの家で飼われてるのかもわからない犬が知らぬ間に家の中に入ってきていたりする。

 けれども私達はこの場所が大好きだった。

 夜になれば怒鳴りつけるような昼間の暑さが嘘みたく影を潜め、星の瞬きの音が聞こえそうなほど静かだ。天の川を構成する星のひと粒ひと粒がはっきりと見える。さそり座の心臓みたいな赤い星が脈打つように煌々と光る。

 私と沙夜は毎晩縁側でそんな星空を眺めるのを日課にしていた。蚊取り線香の香りに包まれながら、昼間に灼熱の太陽に灼かれつつ自転車を走らせ買いに行ったアイスを食べる。冷たくて甘いミルクの味が、舌の上をすべって喉を伝いお腹の中に落ちるのが心地良い。

「ねえお姉ちゃん! あれ何!?」

 沙夜の驚いた声で視線を空から戻すと、緑色の小さな光が明滅しながらふわっと目の前を横切った。

「ホタルだ」
「前に来たときもいた?」
「夏しかいないんだよ」

 そうか、夏休みにこんなに長い間ここにいるのは初めてだから知らなかった。家の庭にホタルがやってきたりするのか。ますますこの場所が好きになった。

「ねえお姉ちゃん、ホタルこの一匹しかいないの?」

 沙夜が好奇心で瞳をきらきらさせながら私の顔を覗き込む。沙夜がこの表情をする時は……。嫌な予感と同時に沙夜が言う。

「もっとたくさん探しに行きたい!」

 あーあ。やっぱり。

「だめだよ。危ないから夜に川とか田んぼとか行っちゃだめってじいじに言われてるでしょ?」
「川とか田んぼじゃなかったらいい?」
「ホタルは川とか田んぼにいるの」

 沙夜の顔がむくれ顔になる。

「ね、お姉ちゃんもホタル見たいでしょ? だって来年はお姉ちゃんじいじとばあばのお家来れないでしょ? ね?」

 そう、私は来年中学受験を控えている。来年の夏休みは受験勉強で大変だろうから、今年は沙夜ちゃんとゆっくりしにおいで、と祖父母が呼んでくれたのだった。

 確かに私の住んでいる街でホタルなんてそうそうお目にかかる機会はない。そう思うと自分の中にも好奇心がむくむくと沸き立つのを感じた。

「ね?」

 沙夜が顔を覗き込んでくる。

「少しだけだからね。すぐ戻ってくるからね」
「やった!!」

(じいじ、ばあば。約束破ってごめんなさい)

 私は心の中にずしっとのしかかる罪悪感と共に夜の冒険に心が踊るのを感じながら、こっそり縁側から表に出た。

 ――夜ってこんなに真っ暗だったんだっけ。

 縁側からそっと玄関の方へ回り、門を出て目の前に広がるしんとした真っ暗な闇に、私は一瞬怯んだ。しかしその瞬間沙夜が言う。

「見て! 星がもっときらきらに見える!」

 その言葉に空を見上げると、自分たちを見ろと言わんばかりに燦々ときらめく星たちがいた。

「あの星が目印になるね」

 沙夜が星に負けないくらいの笑顔で言う。

「そうだね」

 私は沙夜の手を取り歩き出した。沙夜は私の3歳下の妹だ。歳の割にはしっかりしていて、引っ込み思案で消極的な私とは違って何でも自分からやりたがる子。こんな風に私が尻込みする場面でも、彼女にとってはわくわくする大冒険なのだ。

「ほ、ほ、ほーたるこい」

 沙夜はそう歌いながらそのへんでむしった草を振り回しながら私の前を歩く。

「ねえ、お姉ちゃんからあんまり離れないでってば」
「大丈夫だよお、田んぼに飛び込まなかったらいいんでしょ?」

 やっぱり星空みたいな笑顔で沙夜が笑う。

 夜にこんな場所まで来るの初めてだな。本当に大丈夫だったろうか。私達がいないことに気付いて、じいじとばあばが大騒ぎしてないだろうか。

 少しうつむきながら歩いていると、沙夜がはしゃいだ声で言った。

「ね! なんかきれいなお花が咲いてる! なんだろ、あれ?」

 その声に顔を上げると、道の脇に一本の百日紅(さるすべり)の木が立っていて、その枝には真っ赤な花が咲き乱れていた。

「百日紅」

 独り言のようにぽつりと呟いた私の瞳に人影が映った。

 真白なシャツに、白い肌の少年。街灯もない暗がりにその少年だけがぼんやりとした輪郭で佇んでいる。

 私の瞳が一瞬捉えた白い影は、こちらに気付くと百日紅の木の陰にすっと消えてしまった。

「お姉ちゃん?」

 沙夜にはその人影が見えていなかったらしく、私の顔を不思議そうに見上げた。

 こんな時間にこんな場所で、私達以外の子どもがいるだろうか。

 何となく気になって、百日紅の木まで近寄ると木の脇には小道が繋がっていた。

 こんなところに道があったなんて知らなかった。というか、百日紅がこんなところに生えていることも知らなかった。この小道の先には何があるんだろうか。

「ほ、ほ、ほーたるこい」

 沙夜が歌った。するとその小道を横切るようにホタルがすいっと緑色の光を放ちながら飛んでいった。

「ねえ! この先にホタルがいるんじゃない?!」

 沙夜の目が輝く。

 いやいや、こんな真っ暗な道。子ども二人だけで行けるわけがない。何かあったら取り返しのつかないことになるかもしれない。

 しかし、だめだよ、と言おうとした私の胸にほんの少しの好奇心がちらりと顔を覗かせてしまった。

 さっきの少年は誰だったのだろう?たった一瞬見ただけなのに、なぜか心がざわついた。無性に気になって仕方がない。こんなことは初めてだ。

 私は小道に踏み出していた。

 いやいやいや。なぜこんな危ないところに。そう思う私の気持ちと裏腹に歩みを止めることはできなかった。


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 「その子」は深い深いまっくらな木々の中の小さな泉のほとりにいた。
 私はいまでもあの夏が忘れられないのだ。
 どんなにきれいなものを並べたってあの夏の思い出にはかないっこない。もくもくそびえ立つ入道雲。汗をかいたサイダーの瓶に伸びる太陽の光。縁側で食べるスイカ。夜には愛をささやきながらふわふわ舞う蛍。これはそういうお話。
「ねえ、お姉ちゃん。もしかして道に迷ってる?」
 妹の|沙夜《さや》が私の手をぎゅっと握りながら言った。妹の言葉にじわりと全身の汗が滲み出る。
 私と沙夜は夏休みのあいだ父の実家にふたりだけで来ていた。
 ここは私達が普段住む街とは違って、自然豊かな場所だ。見渡す限り広がる田んぼ。その中にぽつんと建つ父の実家。一番近所の家でも100メートルくらいは距離があったと思う。近くにコンビニやスーパーといった便利なものはなく、アイスやお菓子が欲しかったら自分たちで自転車を走らせて片道15分のところにある駄菓子屋まで行かなければならなかった。
 道を歩けば突然蛙がぴょこんと脅かしてくるし、どこの家で飼われてるのかもわからない犬が知らぬ間に家の中に入ってきていたりする。
 けれども私達はこの場所が大好きだった。
 夜になれば怒鳴りつけるような昼間の暑さが嘘みたく影を潜め、星の瞬きの音が聞こえそうなほど静かだ。天の川を構成する星のひと粒ひと粒がはっきりと見える。さそり座の心臓みたいな赤い星が脈打つように煌々と光る。
 私と沙夜は毎晩縁側でそんな星空を眺めるのを日課にしていた。蚊取り線香の香りに包まれながら、昼間に灼熱の太陽に灼かれつつ自転車を走らせ買いに行ったアイスを食べる。冷たくて甘いミルクの味が、舌の上をすべって喉を伝いお腹の中に落ちるのが心地良い。
「ねえお姉ちゃん! あれ何!?」
 沙夜の驚いた声で視線を空から戻すと、緑色の小さな光が明滅しながらふわっと目の前を横切った。
「ホタルだ」
「前に来たときもいた?」
「夏しかいないんだよ」
 そうか、夏休みにこんなに長い間ここにいるのは初めてだから知らなかった。家の庭にホタルがやってきたりするのか。ますますこの場所が好きになった。
「ねえお姉ちゃん、ホタルこの一匹しかいないの?」
 沙夜が好奇心で瞳をきらきらさせながら私の顔を覗き込む。沙夜がこの表情をする時は……。嫌な予感と同時に沙夜が言う。
「もっとたくさん探しに行きたい!」
 あーあ。やっぱり。
「だめだよ。危ないから夜に川とか田んぼとか行っちゃだめってじいじに言われてるでしょ?」
「川とか田んぼじゃなかったらいい?」
「ホタルは川とか田んぼにいるの」
 沙夜の顔がむくれ顔になる。
「ね、お姉ちゃんもホタル見たいでしょ? だって来年はお姉ちゃんじいじとばあばのお家来れないでしょ? ね?」
 そう、私は来年中学受験を控えている。来年の夏休みは受験勉強で大変だろうから、今年は沙夜ちゃんとゆっくりしにおいで、と祖父母が呼んでくれたのだった。
 確かに私の住んでいる街でホタルなんてそうそうお目にかかる機会はない。そう思うと自分の中にも好奇心がむくむくと沸き立つのを感じた。
「ね?」
 沙夜が顔を覗き込んでくる。
「少しだけだからね。すぐ戻ってくるからね」
「やった!!」
(じいじ、ばあば。約束破ってごめんなさい)
 私は心の中にずしっとのしかかる罪悪感と共に夜の冒険に心が踊るのを感じながら、こっそり縁側から表に出た。
 ――夜ってこんなに真っ暗だったんだっけ。
 縁側からそっと玄関の方へ回り、門を出て目の前に広がるしんとした真っ暗な闇に、私は一瞬怯んだ。しかしその瞬間沙夜が言う。
「見て! 星がもっときらきらに見える!」
 その言葉に空を見上げると、自分たちを見ろと言わんばかりに燦々ときらめく星たちがいた。
「あの星が目印になるね」
 沙夜が星に負けないくらいの笑顔で言う。
「そうだね」
 私は沙夜の手を取り歩き出した。沙夜は私の3歳下の妹だ。歳の割にはしっかりしていて、引っ込み思案で消極的な私とは違って何でも自分からやりたがる子。こんな風に私が尻込みする場面でも、彼女にとってはわくわくする大冒険なのだ。
「ほ、ほ、ほーたるこい」
 沙夜はそう歌いながらそのへんでむしった草を振り回しながら私の前を歩く。
「ねえ、お姉ちゃんからあんまり離れないでってば」
「大丈夫だよお、田んぼに飛び込まなかったらいいんでしょ?」
 やっぱり星空みたいな笑顔で沙夜が笑う。
 夜にこんな場所まで来るの初めてだな。本当に大丈夫だったろうか。私達がいないことに気付いて、じいじとばあばが大騒ぎしてないだろうか。
 少しうつむきながら歩いていると、沙夜がはしゃいだ声で言った。
「ね! なんかきれいなお花が咲いてる! なんだろ、あれ?」
 その声に顔を上げると、道の脇に一本の|百日紅《さるすべり》の木が立っていて、その枝には真っ赤な花が咲き乱れていた。
「百日紅」
 独り言のようにぽつりと呟いた私の瞳に人影が映った。
 真白なシャツに、白い肌の少年。街灯もない暗がりにその少年だけがぼんやりとした輪郭で佇んでいる。
 私の瞳が一瞬捉えた白い影は、こちらに気付くと百日紅の木の陰にすっと消えてしまった。
「お姉ちゃん?」
 沙夜にはその人影が見えていなかったらしく、私の顔を不思議そうに見上げた。
 こんな時間にこんな場所で、私達以外の子どもがいるだろうか。
 何となく気になって、百日紅の木まで近寄ると木の脇には小道が繋がっていた。
 こんなところに道があったなんて知らなかった。というか、百日紅がこんなところに生えていることも知らなかった。この小道の先には何があるんだろうか。
「ほ、ほ、ほーたるこい」
 沙夜が歌った。するとその小道を横切るようにホタルがすいっと緑色の光を放ちながら飛んでいった。
「ねえ! この先にホタルがいるんじゃない?!」
 沙夜の目が輝く。
 いやいや、こんな真っ暗な道。子ども二人だけで行けるわけがない。何かあったら取り返しのつかないことになるかもしれない。
 しかし、だめだよ、と言おうとした私の胸にほんの少しの好奇心がちらりと顔を覗かせてしまった。
 さっきの少年は誰だったのだろう?たった一瞬見ただけなのに、なぜか心がざわついた。無性に気になって仕方がない。こんなことは初めてだ。
 私は小道に踏み出していた。
 いやいやいや。なぜこんな危ないところに。そう思う私の気持ちと裏腹に歩みを止めることはできなかった。