表示設定
表示設定
目次 目次




第5章 嘘から出たまこと-2

ー/ー



 追加で注文した品が届き、匠は美味しそうに焼き鳥を頬張ってから満面の笑みを浮かべこう言った。
「ねえ、聞いてよ、実はね彼女が司法試験に合格したんだ!」
 確か初めて会った時彼女の資格試験が終わったとか言っていたけど、それって司法試験の事だったんだ。
「おめでとうございます!!!」
私は一生懸命手を叩いた。匠も一緒になって手を叩いている。それから頼んでもいないのに、スマホを取り出すと彼女の写真を見せてくれた。
「これが彼女。大浦(おおうら) 英里香(えりか)って名前なんだけどね」
匠の顔がとろけそうだ。
 スマホを受け取り、じっくりと英里香さんの写真を見せてもらう。染めていない真っ直ぐな黒い髪はセミロングほどで、前髪は真ん中で二つに分けている。帰国子女と聞いていたが、メイクもそんな雰囲気でアイラインがくっきり描かれている。日焼けを気にする事なくしっかり焼けていて、胸が大きく開いた白っぽいカットソーにデニムのミニスカート、素足に白いサンダルを履いている。筋肉質で健康的な笑顔の似合う女性だった。
「素敵な彼女だね」
 キャリア警察官と未来の法曹界を背負って立つ女性。パワーカップルすぎて眩暈がする。私が今まで生きてきた世界には存在しない、ドラマにでも出てくるような人達だった。それもこれも駆と私がオンラインゲームFQⅢで出会ったからなのだが、違う世界がこうやって交差する事もあるらしい。人の縁とは本当に奇妙なものだ。
「試験勉強、相当大変だったんじゃない?」
「そうだね。本当に優秀な人は在学中に直接司法試験を受けたりもするけど、英里香の場合は安全策を取って法科大学院を経由して二年間しっかり学んでから受験した」
 匠はこれまた頼んでもいないのに、いかにお互いが支え合ったかをそれは熱く語ってくれた。
 二人はT大法学部の同級生で、刑法のゼミで一緒になったものの、周囲が優秀すぎて二人とも落ちこぼれそうになっていたそうだ。そんな二人が意気投合し付き合うに至った。四年になってから匠は『国家公務員採用総合職試験』を受けたのだが、死に物狂いで勉強していたものの辛すぎて心が折れかかっていた時、英里香さんがずっと叱咤激励してくれたそうだ。
「英里香がいなかったら自分は合格できなかっただろうな……」
頬を緩め、惚気話を延々と語ってくれる。私に彼氏がいないと知っててのそのトーク、喧嘩売ってんのか、ゴルァ! とは思うが、寛大な気持ちで許してやる事にする。今回のサシ飲みは匠のおごりだしね。

 「英里香さんは今頃解放感に浸ってるんじゃない?」
惚気話がようやくひと段落した頃尋ねると、匠は大きく頭を振った。
「11月中旬から司法修習が始まるから今はその準備とかしている。英里香の場合弁護士志望なんだけど、就活も並行して行わなくちゃいけないらしいし」
「大変なんだね」
「確かに大変なんだけど、英里香は困っている女性達に寄り添える弁護士になるのが夢だから、そのために今は頑張るだけだって」
「へー、立派な志があるんだね。じゃ、将来何かあったら私も英里香さんに頼っちゃおう。無事就職決まったら紹介して!」
 嬉しそうに説明している匠を見ていると、本当に英里香さんが好きなのだと言う事がひしひしと伝わってくる。
「ちょーラブラブじゃん。ご馳走さまです」
私はわざとにやけた。
「羨ましいなあ、末永くお幸せに!」
 そう言った瞬間、何故か匠の顔がさっと曇った。
「……うん、だといいんだけどね……」
え、私、何かまずい事言ってしまった? 思わず動揺してしまう。
 焦っている私に気づき、匠は寂しそうに笑ってみせる。
「ええとね、英里香と自分じゃ結婚観が全然違ってるんだ……」
「そうなの……」
そうとしか言えない役立たずな私である。匠は続けた。
「自分は実家があんなだから平凡だけど温かい家庭というものに憧れていたんだけど、一方の英里香はそもそも結婚なんて一切考えられないって……」
「二人とも若いから結婚なんてまだまだ先の事じゃあ……」
と私はフォローのつもりで言ったのだが、匠は首を振る。
「後数年で自分の『どさ回り』が始まる。それまでに結婚できればなんて考えてたけど甘かった……そりゃそうだよな、英里香はせっかく夢の入り口に立ったところなんだから……」
 深くため息をついて天井を仰ぐ。どさ回りとは地方赴任の事である。キャリア警察官は基本霞が関と都道府県警察の間を行ったり来たりするのだ。
「英里香は別に結婚しなくたっていいじゃんって言うんだ。敢えて自ら進んで法律の枷に縛られなくたっていいじゃん、だってさ……」
「英里香さんの言い分に一理あると思う……」
私は英里香さんに同意した。
「別に今の時代法律婚に拘る必要はないし、気楽な恋人同士の方がお互い楽じゃない?」
「分かってる、分かってるんだ……」
匠は頭を抱える。
「自分の望む結婚をするって事は、すなわち彼女の職業選択の自由を奪うって事なんだって」
 匠は誰からも祝福され、家族は共に過ごすという結婚に憧れているようだった。私自身そんな家庭で十分に愛情を受けながら育ち、一方匠は特殊な家庭に育っていて愛情に飢えているから、平凡な家庭に憧れる気持ちは分からなくはないが、現代日本において、全国に異動する可能性のある男がそれを望んだら、それは女の方が妥協しなければ成り立たない結婚という事になる。いざ地方に異動となれば、在宅ワークでもしていない限り職を持つ女は退職せざるを得ない訳だ。
 「どこか妥協できる点をお互いに見出すしかないでしょうね……」
私の助言なんてこのカップルにおいてはこれっぽっちも意味もなさないだろうな、と思いつつもとりあえず言う。
「どさ回りまでまだ時間があるんでしょ。それまでゆっくり考えればいいじゃん」
匠は黙ってこくりと頷き、酒を飲む。

 それから少したって匠が本音を吐露する。
「……英里香の合格はもちろん嬉しかったんだけど、いずれこの問題に向き合わなければならなくなる事が分かっていたから、心から喜べずにいたんだ……」
「まあ、そうなるよね……」
「自分が情けない……そんな心の狭い男だったんだなって知って愕然としている……」
 先ほどまでの惚気て幸せそうな匠はなりをひそめ、不安そうで悲し気な表情を浮かべている。私は両者の気持ちがそれぞれ分かる。私は女だから心は英里香さん寄りではあるけど。
「自分の中でアンビバレントな感情が渦巻いている……実は明日、英里香と合格祝いで久しぶりにデートの約束をしているんだけど、どんな顔をして会えばいいか分からないんだ……」
「……ひとまず結婚の話はしばらく脇に置いておいたら?」
私はとりあえず提案してみた。
「英里香さんはこれからやるべき事が沢山あってそれどころじゃないんだし。ここは彼女の立場に立って考えてみようよ。たくみんだって英里香さんの事一生懸命支えてあげたんでしょ。なら彼女の喜びを理解できるはずだよ!」
「……そうだね……」
 匠は額に右手を当てちょっと目を閉じ、少し考え込んでいた。
「……自分がちょっと先走りすぎてたようだ……」
そう言ってから目をぱちりと開く。
「あるるのお陰で落ち着く事ができた、ありがとう……」
「どういたしまして」
私はにっと笑ってみせてから、テーブルの上に置いていたスマホを覗き込む。
「明日予定が入ってるなら、そろそろお開きの時間だね」
「おっと、もうこんな時間か」
匠は左手首にはめた腕時計を確認した。駆の腕時計とよく似た、黒い文字盤にギリシャ文字が刻印された時計だった。きっとそれもおばあさんからのプレゼントなのだろう。テーブルの上にあった呼び出しボタンを押して店員さんがやってきたので、会計を頼んでいる。

 会計が済んだので、私は傍に置いておいたショルダーバッグを掴んで立ち上がると、丁寧に頭を下げる。
「今日も本当にご馳走さまでした」
「次はかーくんも誘わないと恨まれそうだ」
匠も立ち上がると笑ってみせた。
「今日はこんな遅くまで自分の話にとことん付き合ってくれて嬉しかったよ。仕事が忙しいだろうに、ごめんね」
「仕事はお互い様でしょ」
「全くだ。弊社はブラックだからなあ。働き方改革とやらで昔よりは若干改善されたらしいけど」
匠は歯を見せてあははと笑った。



 匠は私をJR有楽町駅までわざわざ送ってくれた。匠自身は東京メトロを使うという事なので、昼間と違って人もまばらな銀座口改札横で別れ間際に立ち話をする。
「かーくんの誕生日に旅行に連れて行ってくれたんだってね」
「うん……」
「先日かーくんと都内で食事したんだけど、リュックサックに可愛いぬいぐるみぶら下げてて、満面の笑みで身振り手振りを交えて旅行の話をしてくれたんだ……」
匠が指しているのは『ひっそりぐらし』の『はりねずみ』のぬいぐるみストラップの事である。
「あれは駆君が好きなキャラクターで……」
「そうみたいだね。あいつがあんな可愛いキャラクターが好きだったなんて全然知らなかったし、あんなに楽しそうに話している姿は見た事もなくて、自分はかーくんの何を知っていたんだって愕然としたよ……」
「仕方ないよ。駆君はずっと好きなものを好きって表現できなかったんだから……」
そう言いながら胸がきゅっと痛くなる。匠は頷いた。
「あんなに幸せそうなかーくんを見てたら、あるると巡り会えて本当に良かったと思った。本当にありがとう」
匠は頭を下げる。私はあわわと手を振った。
「そんな大袈裟な。私は全然大した事してない。駆君が自分で頑張ってるんだ! 偉いと思うよ、本当に」
 その時、匠が悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「ねえ、本当にかーくんが一人でここまで頑張れると思う?」
「え、だってテニスだって物凄く頑張ったんだし、何の不思議もないよ」
私がそう返すと、匠は笑顔のままこう言った。
「やれやれ、前途多難だね」
「何が?」
「何でもない、こっちの話」
勝手に自己完結している。
 それから話題をがらっと変えてきた。
「そうそう、あるるが電車に乗ったら、かーくんにLIMEで最寄り駅まで迎えに来いって連絡しておくよ」
露骨に話題を変えられたのは気になるが、突っ込んだところで答えてくれそうもないので私は諦めた。
「こんな時間に帰るのしょっちゅうだし、だからっていちいち駆君に迎えに来てもらったりしないよ?」
「いやいや、しょっちゅうって、もう深夜残業の時間帯なんだけど。あるるの会社もブラックなのかな? たとえ短時間でも深夜の女性の一人歩きは危ないから。とにかく、家に帰るまでが飲み会って事で!」
「はーい、りょーかいです」
女性が巻き込まれやすい犯罪について色々知っているはずの匠がそう言うのだから、素直に承諾するしかなかった。
「明日、英里香さんによろしくね!」
そう言いながらにやにやする。
「……うん……」
匠は顎に手を当て顔をほのかに赤らめ目を逸らす。酒を飲んでも一切赤くならなかったくせに、なんか可愛い。ゴリマッチョのくせに。
「じゃ、またね、探偵さん!」
 探偵と呼ばれ匠はにやりとした。
「進展があれば必ず報告するから。帰りはくれぐれも気を付けて!」
 私は手を振って匠と別れた。匠は私の姿がホームに通じる階段に消えるまで改札前で見送ってくれていたようだ。

 最寄り駅まで到着しいつも使う改札口までやってきた時、私の姿を見つけた駆が駅の太い柱の陰から飛び出して来た。今日の飲み会は奢りだし、帰り道のボディガードまで付けてもらって至れり尽くせりだ。
 街灯はついているものの、あまり明るくはない道を駆と肩を並べてゆっくり歩いていく。
「わざわざ来てくれてありがとね」
と私が駆に感謝すると、駆はちょっと不貞腐れたような顔をする。
「オレも飲み会参加したかったな!」
「仕方ないよ、たくみんの恋の悩みだったんだから」
 そう言いながら、結果的に嘘から出た[[rb:実 > まこと]]になっていた事に初めて気が付いた。
「たくみんって兄さんの事?」
駆が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「そう、今度からそう呼ぶ事にしたから」
 「なんかさ、たった二回しか会っていないくせにすっごく打ち解けてない?」
駆は口を尖らせた。よほどハブられた事を根に持っているらしい。ごめん、君の事を思う者同士の共闘会議だったんだけど、そんな事言えないし。
「悩みとは言っても惚気話もさんざん聞かされたんだよ。独り身のこの私に!」
「オレもこの前兄さんと食事した時延々と聞かされたから、その気持ちよく分かるよ……」
駆が苦笑する。
「でも兄さんの悩みって結局のところ何だったの? オレには一切言ってなかったからさ」
「あー、それね……互いの結婚観にズレがあるって話?」
 私は差し支えない程度に聞いた話を伝えた。すると駆がいつもの困り顔をしながら、こんな辛辣な事を言う。
「バカだな、兄さんは。キャリア志向の強い女性が自分に付いて来てくれるはずないって最初から分かってるはずなのに。欲張りすぎなんだよ!」
 普段穏やかな駆の口から『バカ』とか出てくるとは思わなかったので、私は目を見開いた。
「そりゃそうだけど……ランちゃん、意外にたくみんに厳しいね……」
「だってうちの両親がそうじゃない? 母さんはずっと地元密着型の仕事をしていて、父さんは本来家族が付いてくる事が前提の仕事をしている。それでいて二人とも仕事は辞めない。結果家族はバラバラ。その寂しさを身をもって知っているはずなのに、自分も父さんと同じ仕事を選んでおいてから、彼女との結婚で困ってるだなんて今更言ってるのってちゃんちゃらおかしいよ」
御説ごもっとも。駆の説得力のある言葉には頷く他なかった。
「まあ、たくみんも公務員試験を受けた頃は後先考えてなかったんじゃないの? 男子なんてそんなもんだよ」
「きっとそうなんだろうけど……でもこうなった以上腹括るしかないんだ。彼女がそんなに大事なら思い切って転職しちゃえばいいのに! 兄さんくらいの人材ならどこにだって転職できるだろうし」
駆は容赦なく続ける。だが、死に物狂いで勉強した結果掴んだ年間せいぜい二十人程度しかなれないような仕事を、そう易々と手放せるだろうか。駆は気楽な学生だからそう言えるのかもしれないけど。
 そう思った私は駆に問いかけた。
「じゃあ、君だったらどうする?」
駆は即答する。
「オレ? そもそも地方赴任の多い仕事なんて絶対に選ばないよ。家族の引越や単身赴任が前提の仕事なんて、会社は社員とその家族の人生何だと思ってるんだろうって思っちゃうし」
 そうだね……と私は同意する。うちの父親が出世できなかった理由の一つがそれらしい。地方への異動を頑なに拒み続けていたようだから。
「もっとも、もし好きになった相手が万が一異動の多い仕事をしている人だったら、オレなら専業主夫になるかな」
「その場合君の夢は?」
「その時は潔く諦めるよ。自分の夢と大切な人がトレードオフなら、オレは100%大切な人を選ぶ!」
駆は迷いなき瞳で拳をぎゅっと握りしめた。横から駆を見上げていた私の心臓が急激に高鳴り、そう強く主張する駆から目が離せなくなってしまった。ちょっと待ってよ、こんな話題で私の心を鷲掴みにしてくるって反則でしょ。私は立ち止まると、呆けたようにずっと駆を見つめ続けた。
 「アルファさん?」
駆がきょとんとしたように私を見返してくる。私は我に返り曖昧に微笑むと再び歩き始めた。
「あ、ごめん、ちょっとびっくりしただけ。君って意外に熱い男だったんだね」
「熱いっていうか……肝心の相手がいないからあくまで仮定の話だし……」
そうぼそぼそと話す駆はいつもの駆だった。
「とにかく……オレだって兄さん同様家族バラバラはイヤだけど、だったら最初からそういう仕事は選んじゃダメだって思うんだ……」
「うん、そうだよね……」
駆に同意してから、私はちょっとだけ考えてから続けた。
「そうねぇ私なら…………私は自分の夢なんて特にないけど……だったら大切な人の夢は全力で支えてあげたいかな……」
 今度は駆が立ち止まって私をじっと見てきた。夜の街灯の陰になった駆の表情は全く読めない。
「……ねえ、アルファさんが夢を支えてあげたい人はまだいないの?」
思いの外低い声で尋ねてくる。私は瞬間返すべき言葉を失い、盛んに瞬きをする事しかできなかった。
「……えーっと……」
誤魔化すように頭をかく。じわりと額に汗がにじんできた。
「……ほら私、ご存じの通りカレなんていないし……」
 いないとは絶対に言えなかった。心の中では、君だよ、君の事だよ! とずっとリフレインしている。この一言が口に出せたらどんなに楽だろうか。だけど私達の関係は対等じゃない。そう思うとどうしても踏み出せないのだ。情けない臆病な私。
 「そっか……ちょっとだけ安心した……」
駆はそう言うと、すたすたと前を向いて歩き始める。
「待って! 君、私のボディガードでしょ! 先行っちゃダメじゃん!」
 駆はその言葉で振り返った。
「ごめんね!」
私は駆の後を急いで追ったが、その言葉の意味を問いただす事は結局できなかったのである。




みんなのリアクション

 追加で注文した品が届き、匠は美味しそうに焼き鳥を頬張ってから満面の笑みを浮かべこう言った。
「ねえ、聞いてよ、実はね彼女が司法試験に合格したんだ!」
 確か初めて会った時彼女の資格試験が終わったとか言っていたけど、それって司法試験の事だったんだ。
「おめでとうございます!!!」
私は一生懸命手を叩いた。匠も一緒になって手を叩いている。それから頼んでもいないのに、スマホを取り出すと彼女の写真を見せてくれた。
「これが彼女。|大浦《おおうら》 |英里香《えりか》って名前なんだけどね」
匠の顔がとろけそうだ。
 スマホを受け取り、じっくりと英里香さんの写真を見せてもらう。染めていない真っ直ぐな黒い髪はセミロングほどで、前髪は真ん中で二つに分けている。帰国子女と聞いていたが、メイクもそんな雰囲気でアイラインがくっきり描かれている。日焼けを気にする事なくしっかり焼けていて、胸が大きく開いた白っぽいカットソーにデニムのミニスカート、素足に白いサンダルを履いている。筋肉質で健康的な笑顔の似合う女性だった。
「素敵な彼女だね」
 キャリア警察官と未来の法曹界を背負って立つ女性。パワーカップルすぎて眩暈がする。私が今まで生きてきた世界には存在しない、ドラマにでも出てくるような人達だった。それもこれも駆と私がオンラインゲームFQⅢで出会ったからなのだが、違う世界がこうやって交差する事もあるらしい。人の縁とは本当に奇妙なものだ。
「試験勉強、相当大変だったんじゃない?」
「そうだね。本当に優秀な人は在学中に直接司法試験を受けたりもするけど、英里香の場合は安全策を取って法科大学院を経由して二年間しっかり学んでから受験した」
 匠はこれまた頼んでもいないのに、いかにお互いが支え合ったかをそれは熱く語ってくれた。
 二人はT大法学部の同級生で、刑法のゼミで一緒になったものの、周囲が優秀すぎて二人とも落ちこぼれそうになっていたそうだ。そんな二人が意気投合し付き合うに至った。四年になってから匠は『国家公務員採用総合職試験』を受けたのだが、死に物狂いで勉強していたものの辛すぎて心が折れかかっていた時、英里香さんがずっと叱咤激励してくれたそうだ。
「英里香がいなかったら自分は合格できなかっただろうな……」
頬を緩め、惚気話を延々と語ってくれる。私に彼氏がいないと知っててのそのトーク、喧嘩売ってんのか、ゴルァ! とは思うが、寛大な気持ちで許してやる事にする。今回のサシ飲みは匠のおごりだしね。
 「英里香さんは今頃解放感に浸ってるんじゃない?」
惚気話がようやくひと段落した頃尋ねると、匠は大きく頭を振った。
「11月中旬から司法修習が始まるから今はその準備とかしている。英里香の場合弁護士志望なんだけど、就活も並行して行わなくちゃいけないらしいし」
「大変なんだね」
「確かに大変なんだけど、英里香は困っている女性達に寄り添える弁護士になるのが夢だから、そのために今は頑張るだけだって」
「へー、立派な志があるんだね。じゃ、将来何かあったら私も英里香さんに頼っちゃおう。無事就職決まったら紹介して!」
 嬉しそうに説明している匠を見ていると、本当に英里香さんが好きなのだと言う事がひしひしと伝わってくる。
「ちょーラブラブじゃん。ご馳走さまです」
私はわざとにやけた。
「羨ましいなあ、末永くお幸せに!」
 そう言った瞬間、何故か匠の顔がさっと曇った。
「……うん、だといいんだけどね……」
え、私、何かまずい事言ってしまった? 思わず動揺してしまう。
 焦っている私に気づき、匠は寂しそうに笑ってみせる。
「ええとね、英里香と自分じゃ結婚観が全然違ってるんだ……」
「そうなの……」
そうとしか言えない役立たずな私である。匠は続けた。
「自分は実家があんなだから平凡だけど温かい家庭というものに憧れていたんだけど、一方の英里香はそもそも結婚なんて一切考えられないって……」
「二人とも若いから結婚なんてまだまだ先の事じゃあ……」
と私はフォローのつもりで言ったのだが、匠は首を振る。
「後数年で自分の『どさ回り』が始まる。それまでに結婚できればなんて考えてたけど甘かった……そりゃそうだよな、英里香はせっかく夢の入り口に立ったところなんだから……」
 深くため息をついて天井を仰ぐ。どさ回りとは地方赴任の事である。キャリア警察官は基本霞が関と都道府県警察の間を行ったり来たりするのだ。
「英里香は別に結婚しなくたっていいじゃんって言うんだ。敢えて自ら進んで法律の枷に縛られなくたっていいじゃん、だってさ……」
「英里香さんの言い分に一理あると思う……」
私は英里香さんに同意した。
「別に今の時代法律婚に拘る必要はないし、気楽な恋人同士の方がお互い楽じゃない?」
「分かってる、分かってるんだ……」
匠は頭を抱える。
「自分の望む結婚をするって事は、すなわち彼女の職業選択の自由を奪うって事なんだって」
 匠は誰からも祝福され、家族は共に過ごすという結婚に憧れているようだった。私自身そんな家庭で十分に愛情を受けながら育ち、一方匠は特殊な家庭に育っていて愛情に飢えているから、平凡な家庭に憧れる気持ちは分からなくはないが、現代日本において、全国に異動する可能性のある男がそれを望んだら、それは女の方が妥協しなければ成り立たない結婚という事になる。いざ地方に異動となれば、在宅ワークでもしていない限り職を持つ女は退職せざるを得ない訳だ。
 「どこか妥協できる点をお互いに見出すしかないでしょうね……」
私の助言なんてこのカップルにおいてはこれっぽっちも意味もなさないだろうな、と思いつつもとりあえず言う。
「どさ回りまでまだ時間があるんでしょ。それまでゆっくり考えればいいじゃん」
匠は黙ってこくりと頷き、酒を飲む。
 それから少したって匠が本音を吐露する。
「……英里香の合格はもちろん嬉しかったんだけど、いずれこの問題に向き合わなければならなくなる事が分かっていたから、心から喜べずにいたんだ……」
「まあ、そうなるよね……」
「自分が情けない……そんな心の狭い男だったんだなって知って愕然としている……」
 先ほどまでの惚気て幸せそうな匠はなりをひそめ、不安そうで悲し気な表情を浮かべている。私は両者の気持ちがそれぞれ分かる。私は女だから心は英里香さん寄りではあるけど。
「自分の中でアンビバレントな感情が渦巻いている……実は明日、英里香と合格祝いで久しぶりにデートの約束をしているんだけど、どんな顔をして会えばいいか分からないんだ……」
「……ひとまず結婚の話はしばらく脇に置いておいたら?」
私はとりあえず提案してみた。
「英里香さんはこれからやるべき事が沢山あってそれどころじゃないんだし。ここは彼女の立場に立って考えてみようよ。たくみんだって英里香さんの事一生懸命支えてあげたんでしょ。なら彼女の喜びを理解できるはずだよ!」
「……そうだね……」
 匠は額に右手を当てちょっと目を閉じ、少し考え込んでいた。
「……自分がちょっと先走りすぎてたようだ……」
そう言ってから目をぱちりと開く。
「あるるのお陰で落ち着く事ができた、ありがとう……」
「どういたしまして」
私はにっと笑ってみせてから、テーブルの上に置いていたスマホを覗き込む。
「明日予定が入ってるなら、そろそろお開きの時間だね」
「おっと、もうこんな時間か」
匠は左手首にはめた腕時計を確認した。駆の腕時計とよく似た、黒い文字盤にギリシャ文字が刻印された時計だった。きっとそれもおばあさんからのプレゼントなのだろう。テーブルの上にあった呼び出しボタンを押して店員さんがやってきたので、会計を頼んでいる。
 会計が済んだので、私は傍に置いておいたショルダーバッグを掴んで立ち上がると、丁寧に頭を下げる。
「今日も本当にご馳走さまでした」
「次はかーくんも誘わないと恨まれそうだ」
匠も立ち上がると笑ってみせた。
「今日はこんな遅くまで自分の話にとことん付き合ってくれて嬉しかったよ。仕事が忙しいだろうに、ごめんね」
「仕事はお互い様でしょ」
「全くだ。弊社はブラックだからなあ。働き方改革とやらで昔よりは若干改善されたらしいけど」
匠は歯を見せてあははと笑った。
 匠は私をJR有楽町駅までわざわざ送ってくれた。匠自身は東京メトロを使うという事なので、昼間と違って人もまばらな銀座口改札横で別れ間際に立ち話をする。
「かーくんの誕生日に旅行に連れて行ってくれたんだってね」
「うん……」
「先日かーくんと都内で食事したんだけど、リュックサックに可愛いぬいぐるみぶら下げてて、満面の笑みで身振り手振りを交えて旅行の話をしてくれたんだ……」
匠が指しているのは『ひっそりぐらし』の『はりねずみ』のぬいぐるみストラップの事である。
「あれは駆君が好きなキャラクターで……」
「そうみたいだね。あいつがあんな可愛いキャラクターが好きだったなんて全然知らなかったし、あんなに楽しそうに話している姿は見た事もなくて、自分はかーくんの何を知っていたんだって愕然としたよ……」
「仕方ないよ。駆君はずっと好きなものを好きって表現できなかったんだから……」
そう言いながら胸がきゅっと痛くなる。匠は頷いた。
「あんなに幸せそうなかーくんを見てたら、あるると巡り会えて本当に良かったと思った。本当にありがとう」
匠は頭を下げる。私はあわわと手を振った。
「そんな大袈裟な。私は全然大した事してない。駆君が自分で頑張ってるんだ! 偉いと思うよ、本当に」
 その時、匠が悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「ねえ、本当にかーくんが一人でここまで頑張れると思う?」
「え、だってテニスだって物凄く頑張ったんだし、何の不思議もないよ」
私がそう返すと、匠は笑顔のままこう言った。
「やれやれ、前途多難だね」
「何が?」
「何でもない、こっちの話」
勝手に自己完結している。
 それから話題をがらっと変えてきた。
「そうそう、あるるが電車に乗ったら、かーくんにLIMEで最寄り駅まで迎えに来いって連絡しておくよ」
露骨に話題を変えられたのは気になるが、突っ込んだところで答えてくれそうもないので私は諦めた。
「こんな時間に帰るのしょっちゅうだし、だからっていちいち駆君に迎えに来てもらったりしないよ?」
「いやいや、しょっちゅうって、もう深夜残業の時間帯なんだけど。あるるの会社もブラックなのかな? たとえ短時間でも深夜の女性の一人歩きは危ないから。とにかく、家に帰るまでが飲み会って事で!」
「はーい、りょーかいです」
女性が巻き込まれやすい犯罪について色々知っているはずの匠がそう言うのだから、素直に承諾するしかなかった。
「明日、英里香さんによろしくね!」
そう言いながらにやにやする。
「……うん……」
匠は顎に手を当て顔をほのかに赤らめ目を逸らす。酒を飲んでも一切赤くならなかったくせに、なんか可愛い。ゴリマッチョのくせに。
「じゃ、またね、探偵さん!」
 探偵と呼ばれ匠はにやりとした。
「進展があれば必ず報告するから。帰りはくれぐれも気を付けて!」
 私は手を振って匠と別れた。匠は私の姿がホームに通じる階段に消えるまで改札前で見送ってくれていたようだ。
 最寄り駅まで到着しいつも使う改札口までやってきた時、私の姿を見つけた駆が駅の太い柱の陰から飛び出して来た。今日の飲み会は奢りだし、帰り道のボディガードまで付けてもらって至れり尽くせりだ。
 街灯はついているものの、あまり明るくはない道を駆と肩を並べてゆっくり歩いていく。
「わざわざ来てくれてありがとね」
と私が駆に感謝すると、駆はちょっと不貞腐れたような顔をする。
「オレも飲み会参加したかったな!」
「仕方ないよ、たくみんの恋の悩みだったんだから」
 そう言いながら、結果的に嘘から出た[[rb:実 > まこと]]になっていた事に初めて気が付いた。
「たくみんって兄さんの事?」
駆が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「そう、今度からそう呼ぶ事にしたから」
 「なんかさ、たった二回しか会っていないくせにすっごく打ち解けてない?」
駆は口を尖らせた。よほどハブられた事を根に持っているらしい。ごめん、君の事を思う者同士の共闘会議だったんだけど、そんな事言えないし。
「悩みとは言っても惚気話もさんざん聞かされたんだよ。独り身のこの私に!」
「オレもこの前兄さんと食事した時延々と聞かされたから、その気持ちよく分かるよ……」
駆が苦笑する。
「でも兄さんの悩みって結局のところ何だったの? オレには一切言ってなかったからさ」
「あー、それね……互いの結婚観にズレがあるって話?」
 私は差し支えない程度に聞いた話を伝えた。すると駆がいつもの困り顔をしながら、こんな辛辣な事を言う。
「バカだな、兄さんは。キャリア志向の強い女性が自分に付いて来てくれるはずないって最初から分かってるはずなのに。欲張りすぎなんだよ!」
 普段穏やかな駆の口から『バカ』とか出てくるとは思わなかったので、私は目を見開いた。
「そりゃそうだけど……ランちゃん、意外にたくみんに厳しいね……」
「だってうちの両親がそうじゃない? 母さんはずっと地元密着型の仕事をしていて、父さんは本来家族が付いてくる事が前提の仕事をしている。それでいて二人とも仕事は辞めない。結果家族はバラバラ。その寂しさを身をもって知っているはずなのに、自分も父さんと同じ仕事を選んでおいてから、彼女との結婚で困ってるだなんて今更言ってるのってちゃんちゃらおかしいよ」
御説ごもっとも。駆の説得力のある言葉には頷く他なかった。
「まあ、たくみんも公務員試験を受けた頃は後先考えてなかったんじゃないの? 男子なんてそんなもんだよ」
「きっとそうなんだろうけど……でもこうなった以上腹括るしかないんだ。彼女がそんなに大事なら思い切って転職しちゃえばいいのに! 兄さんくらいの人材ならどこにだって転職できるだろうし」
駆は容赦なく続ける。だが、死に物狂いで勉強した結果掴んだ年間せいぜい二十人程度しかなれないような仕事を、そう易々と手放せるだろうか。駆は気楽な学生だからそう言えるのかもしれないけど。
 そう思った私は駆に問いかけた。
「じゃあ、君だったらどうする?」
駆は即答する。
「オレ? そもそも地方赴任の多い仕事なんて絶対に選ばないよ。家族の引越や単身赴任が前提の仕事なんて、会社は社員とその家族の人生何だと思ってるんだろうって思っちゃうし」
 そうだね……と私は同意する。うちの父親が出世できなかった理由の一つがそれらしい。地方への異動を頑なに拒み続けていたようだから。
「もっとも、もし好きになった相手が万が一異動の多い仕事をしている人だったら、オレなら専業主夫になるかな」
「その場合君の夢は?」
「その時は潔く諦めるよ。自分の夢と大切な人がトレードオフなら、オレは100%大切な人を選ぶ!」
駆は迷いなき瞳で拳をぎゅっと握りしめた。横から駆を見上げていた私の心臓が急激に高鳴り、そう強く主張する駆から目が離せなくなってしまった。ちょっと待ってよ、こんな話題で私の心を鷲掴みにしてくるって反則でしょ。私は立ち止まると、呆けたようにずっと駆を見つめ続けた。
 「アルファさん?」
駆がきょとんとしたように私を見返してくる。私は我に返り曖昧に微笑むと再び歩き始めた。
「あ、ごめん、ちょっとびっくりしただけ。君って意外に熱い男だったんだね」
「熱いっていうか……肝心の相手がいないからあくまで仮定の話だし……」
そうぼそぼそと話す駆はいつもの駆だった。
「とにかく……オレだって兄さん同様家族バラバラはイヤだけど、だったら最初からそういう仕事は選んじゃダメだって思うんだ……」
「うん、そうだよね……」
駆に同意してから、私はちょっとだけ考えてから続けた。
「そうねぇ私なら…………私は自分の夢なんて特にないけど……だったら大切な人の夢は全力で支えてあげたいかな……」
 今度は駆が立ち止まって私をじっと見てきた。夜の街灯の陰になった駆の表情は全く読めない。
「……ねえ、アルファさんが夢を支えてあげたい人はまだいないの?」
思いの外低い声で尋ねてくる。私は瞬間返すべき言葉を失い、盛んに瞬きをする事しかできなかった。
「……えーっと……」
誤魔化すように頭をかく。じわりと額に汗がにじんできた。
「……ほら私、ご存じの通りカレなんていないし……」
 いないとは絶対に言えなかった。心の中では、君だよ、君の事だよ! とずっとリフレインしている。この一言が口に出せたらどんなに楽だろうか。だけど私達の関係は対等じゃない。そう思うとどうしても踏み出せないのだ。情けない臆病な私。
 「そっか……ちょっとだけ安心した……」
駆はそう言うと、すたすたと前を向いて歩き始める。
「待って! 君、私のボディガードでしょ! 先行っちゃダメじゃん!」
 駆はその言葉で振り返った。
「ごめんね!」
私は駆の後を急いで追ったが、その言葉の意味を問いただす事は結局できなかったのである。