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胎動

2/15





 白銀の森の中、黄金色の鎧を身につけた男が立っている。目元は仮面で覆われ、表情は分からない。体は大きく、たくましい。  丸い光がふわふわと浮いている。男が手をかざすと光は分裂した。赤、青、緑、茶の四色に分裂した光は回転しながら舞い上がり、空の彼方へと消えていった。  ――本当に、よかったのですか?  柔らかな女性の声が聞こえる。  大きな切り株に、ピンクの髪を美しく伸ばした女性が座っていた。顔はぼやけている。  ――また、会えるさ。  男は女性の横に座り一本の葉巻を取り出した。ガントレットに埋め込まれた宝珠から炎が静かに上がる。じわじわ炙られた葉巻の先端から細い煙が立ちのぼった。その様子を眺めたあと、男は大切そうに葉巻を咥えた。頬をへこませ、静かに煙が吐き出される。  淡い緑色の煙が、舞い散る雪と混じり合い、溶けていった――    ホッホー! ホッホー!  薄暗い部屋の中で、フクロウが鳴いている。 「また、この夢か」  勇斗は布団の中で目を覚ました。眠気の海に体を浮かべつつ、フクロウの鳴き声に設定したアラームをしばらく聞いていたが、じわりとした痛みで布団から身体を出した。 「あつっ」  左手首にあるアザを、勇斗は見つめた。小さな四芒星の形をしたアザは生まれつきあるものだ。  一ヶ月くらい前からアザが痛み出すようになった。不思議な夢を見た後に痛むことが多い。不安だったが、すぐに痛みは消えるので誰にも相談はしていなかった。  ホッホー! ホッホー!  アラームを消すため、ブラックのスマホを手に取る。画面を開くと光太からメッセージが届いていた。 『今日暇なら蔵の掃除を手伝ってほしい!』  文章のあとに、ゆるキャラが頭を下げているイラストのスタンプが添えられていた。  光太の家は神社であり、学校が休みの日は朝から掃除をさせられているらしい。昨日の怪我のこともあり、大変だろうと思った勇斗は『OK』のスタンプで返信をした。 「さてと」  勇斗はカーテンを開けると、思いきり伸びをした。窓からは神社の裏山が見える。頂上には、大きな樹のシルエットが佇んでいた。  ボーッと眺めていると、空に亀裂が入り、その周辺がぐにゃりと歪んだ。 「あれ?」  勇斗は目をこすり、再び見る。ブルーの空に雲がゆっくりと流れている。特におかしいところはなかった。 「気のせいかな」 「勇斗ー、ごはんできたよー」 「は、はーい」  朝食を済ませた勇斗はボサボサになっていたブラウンの髪を母にセットしてもらった。  自室に戻り、黄色のプルオーバーパーカーに着替える。スマホをイージースラックスのポケットに入れ、出かける準備はバッチリ整った。  母が玄関の外まで見送りに来てくれた。 「暗くなる前に帰ってきなさいね」 「わ、わかってるよ」 「気をつけて、行ってらっしゃい」 「うん。行ってきます」  母に背を向け、歩みを進めた勇斗を秋陽が照らす。母の姿はだんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。  高日町は人口が三千人ほどの小さな町である。都会から少し離れた自然豊かな地で、屋根瓦の家が多く存在している。  休日の朝ということで、人もあまり歩いていない。行き交う車の騒音もない。静かな町を、勇斗はゆっくりと歩いた。  十分くらい歩いたところで地面はアスファルトから石畳に変化した。細い路地に入り、ゆるやかな坂道を登っていくと道端に本が散乱していた。 「あちゃぁ、しまったなぁ」  エプロンをつけたスラっと背の高いメガネの男性がうなだれている。 「桜田さん!」 「ああ、勇斗くん、おはよう。早いね」  勇斗に桜田さんと呼ばれた男性はにっこりと微笑んだ。桜田さんは父の古い友人であり、『桜田書店』という古本屋を営んでいる。 「どうしたんですか、これ」 「新しく仕入れた本をトラックからおろすとき、ダンボールが底抜けしちゃってね。ご覧の有様さ」 「手伝いましょうか」 「いいのかい? 助かるよ」  勇斗は散らばった本を集め、店先へと運んだ。思いの外すぐに終わったので、他のダンボールに入っている本も運ぶ。店へ行くためには階段を降りる必要があったので、何度も往復していると息があがってきた。  全ての本を運び終わった勇斗は店先のベンチでひと休みした。ベンチの下では猫がスヤスヤと寝ている。息を整えていると、隣に缶ジュースが置かれた。 「いやぁ、助かったよ。ジュース飲んでね」 「あ、ありがとうございます」  勇斗は缶ジュースを口につける。 「そういやお父さんは? 昨日帰ると聞いたけど」 「急に仕事が入って、帰れなくなったんです」 「そうか、アイツも忙しいんだな」 「はい――」  ジュースを飲み終えた勇斗は立ち上がり、ゴミ箱に缶を入れる。ふと店の外に敷かれている新聞紙の上を見ると、一冊の本が開いた状態で置かれていた。紙の色は黄ばんでいて、かなり古い本だとわかる。 「桜田さん、あれは?」 「ああ、虫干しをしているんだ。古い本には小さな虫が結構いてね、お日様に当てて虫を退治する必要があるんだよ」 「へぇ」  勇斗は開かれているページを見る。左のページには大きな樹の下で女性が子供に手を差し伸べている絵が浮世絵風のタッチで描かれている。右のページには――大いなる生命の母 自身の力を分け与え 亡き者を甦らせる――と書かれていた。 「うっ」  突然、勇斗は左手首の痛みを感じ、顔をしかめた。手首を押さえていると、次第に胸の奥が熱くなる感覚を覚えた。 「大丈夫かい? もしかして本を運ぶとき痛めた?」 「だ、大丈夫です。もう治りましたので」 「うーん、それならいいんだけど」 「じゃ、僕はこれで。光太を待たせてるので。ジュースごちそうさまでした」  勇斗は一礼し、桜田書店を後にした。  五分ほど歩くと『夏野神社』と掘られた石碑が見えてきた。石碑が置かれている角を曲がり、道なりに進むと目の前に二匹の狛犬が姿を現した。 「おーい、勇斗ー!」  石段の上から光太の声がした。見上げると、鳥居の下で青色のジャージを羽織った光太が手を振っていた。首からは濃い緑色のお守りがぶら下がっている。  勇斗は石段を上り、光太の顔を見る。そこには昨日男子生徒に殴られたアザが痛々しく残っていた。 「急にごめんな。なんか用事あった?」 「ううん、暇だった」 「そっか。今日のはちょい大変だから、マジ助かる。真弘も手伝ってくれるし、チャチャっと終わらせてゲームしようぜ」 「そうだね。あ、怪我は大丈夫なの?」 「まだ痛むけど、平気だぜ!」  光太は腕をぶんぶんと振り回した。割と平気そうで安心した。 「じゃ、行くか」  蔵は本殿の裏から少し歩いたところ――裏山への入り口の近くにある。夏野神社の敷地は狭いので、たどり着くまであまり時間はかからない。境内を散歩しているお爺さんとお婆さんに挨拶しながら歩いていると、小さな社が見えてきた。 「ここ、てんぴ様が祀られているんだよね」 「そうそう、てんぴ様はここ。んで、本殿にはヤト様が祀られてる」  てんぴ様は救いの神であり、ヤト様は高日の地に古くから住まう守り神だと小学生の頃に授業で習った。てんぴ様は光り輝く衣をまとい、ヤト様は大きな翼を持っているらしい。 「てんぴ様とヤト様ってどういう関係なんだろう」 「それがなー、俺も知らないんだよな。親父も知らないって言うし」  ヤト様に関する言い伝えはたくさんあるが、てんぴ様については情報がほとんどなかった。高日の地が未曾有の災害に襲われたとき、どこからともなく現れ、災害を止めたという伝説くらいしか残っていない。 「謎だよね、てんぴ様って」  勇斗はふわぁ、とあくびをしたあと、目をこすった。 「珍しいな勇斗があくびするなんて」 「ちょっと色々考えてて、あまり寝れなかった」 「昨日、美咲に言われたこと、気にしてんのか?」  勇斗の動きが固まった。 「え、えっとぉ――」 「図星だな」  光太は腕を頭の後ろで組みながら、ニヤッと笑った。 「別にあいつの言うことなんか聞かなくてもいいんだよ。他人の目なんか気にすんな」 「でも――」  勇斗は肩をすくめてうつむいた。  沈黙の時間が流れる――  光太は太めの眉を八の字にしつつ、ツンツンと短い黒髪をかきむしった。 「勇斗」  光太の声がしたと同時に、両肩に感触を覚えた。勇斗は顔を上げる。目の前に、光太の真剣な眼差しが映し出された。これまで見せたことのない親友の表情に勇斗は息苦しさを感じた。 「勇気は小さな一歩から生まれる。それがきっかけで、勇気はどんどん大きくなるんだ。だから頑張って、その一歩を踏み出してみろ!」  芯のある声が耳に入り込んだ。  光太は勇斗の目をじっと見つめたあと、ニカっと笑った。 「なんてな。漫画のセリフを言ってみただけ。ちょっと真面目にしすぎたか?」 「そ、そうなんだ」  戸惑いと安堵が入り混じり、勇斗は不思議な気分になった。「ありがとう」と声をかけようとしたとき、 「ぎゃああああああああああああああっ!」と耳をつんざくような大声が本殿の裏の方から聞こえてきた。  その声に勇斗はビクッとした。 「な、何?」 「真弘っ?」  光太は血相を変え、走り出した。  蔵の前で真弘がしゃがんでいた。パーカーのフードを深くかぶり、震えている。 「真弘! どうした、何があった!」  光太は弟の体にそっと手を触れた。 「に、にいちゃん。あ、あれ――」  真弘が指さす先には大きな蜘蛛がいた。蔵の扉の上枠から糸を垂らし、ぶらぶらしている。 「おれ、もう無理! あれ、殺して!」  真弘が叫ぶ。普段はボソボソと喋る真弘なのだが、今は割れるような大声を出していた。 「はぁ」  光太はため息をついたあと、だらだらと扉の前まで歩く。立てかけられていたホウキを片手に持ち、「うりゃっ!」と蜘蛛を薙ぎ払った。  宙を舞った蜘蛛は真弘の目の前に仰向けで着地した。 「ぎゃあああああっ! な、何やってんだこのバカ兄貴!」  真弘は後ろに大きく跳躍して、顔を真っ赤にした。その時、真弘のジーンズのポケットから何かが転がり落ちた。 「あ、すまん」  光太はそそくさと蜘蛛をホウキで掃き、茂みの中へとシュートした。 「お前なぁ、また不良にでも絡まれたのかと思ってヒヤヒヤしたんだぞ!」 「お、おれは不良より虫の方が嫌いなんだ。昔からよく知ってるだろ!」  真弘はフードを外し、光太を睨みつけ、歩み寄る。そして光太の体をポカポカ殴り始めた。 「分かってるって、マジごめん」 「ま、真弘くん、もうそのへんに――」  勇斗が足を動かすと、硬いものが靴に当たる音がした。 「ん?」  カラカラと、石のようなものが転がっていった。よく見ると、それは何かの破片だった。紅く、禍々しい光を放っている。見ていると、背筋がゾッとした。 「あっ」  猫パンチを止めた真弘は素早く破片を拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。 「真弘くん、それ何?」 「な、なんでもない。気にしないで――」  真弘はフードを深くかぶったあと、唇を噛んだ。 「じゃ、掃除始めるか。あー、めんど」  光太はジャージのポケットから鍵を取り出し、キーリングに指を引っ掛けてくるくると回した。  ガチャリ  蔵の扉が、開いた。光太と真弘が中に入っていく。  勇斗が空を見上げると、一羽のトビがスッと横切った。



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胎動

2/15

 白銀の森の中、黄金色の鎧を身につけた男が立っている。目元は仮面で覆われ、表情は分からない。体は大きく、たくましい。  丸い光がふわふわと浮いている。男が手をかざすと光は分裂した。赤、青、緑、茶の四色に分裂した光は回転しながら舞い上がり、空の彼方へと消えていった。  ――本当に、よかったのですか?  柔らかな女性の声が聞こえる。  大きな切り株に、ピンクの髪を美しく伸ばした女性が座っていた。顔はぼやけている。  ――また、会えるさ。  男は女性の横に座り一本の葉巻を取り出した。ガントレットに埋め込まれた宝珠から炎が静かに上がる。じわじわ炙られた葉巻の先端から細い煙が立ちのぼった。その様子を眺めたあと、男は大切そうに葉巻を咥えた。頬をへこませ、静かに煙が吐き出される。  淡い緑色の煙が、舞い散る雪と混じり合い、溶けていった――    ホッホー! ホッホー!  薄暗い部屋の中で、フクロウが鳴いている。 「また、この夢か」  勇斗は布団の中で目を覚ました。眠気の海に体を浮かべつつ、フクロウの鳴き声に設定したアラームをしばらく聞いていたが、じわりとした痛みで布団から身体を出した。 「あつっ」  左手首にあるアザを、勇斗は見つめた。小さな四芒星の形をしたアザは生まれつきあるものだ。  一ヶ月くらい前からアザが痛み出すようになった。不思議な夢を見た後に痛むことが多い。不安だったが、すぐに痛みは消えるので誰にも相談はしていなかった。  ホッホー! ホッホー!  アラームを消すため、ブラックのスマホを手に取る。画面を開くと光太からメッセージが届いていた。 『今日暇なら蔵の掃除を手伝ってほしい!』  文章のあとに、ゆるキャラが頭を下げているイラストのスタンプが添えられていた。  光太の家は神社であり、学校が休みの日は朝から掃除をさせられているらしい。昨日の怪我のこともあり、大変だろうと思った勇斗は『OK』のスタンプで返信をした。 「さてと」  勇斗はカーテンを開けると、思いきり伸びをした。窓からは神社の裏山が見える。頂上には、大きな樹のシルエットが佇んでいた。  ボーッと眺めていると、空に亀裂が入り、その周辺がぐにゃりと歪んだ。 「あれ?」  勇斗は目をこすり、再び見る。ブルーの空に雲がゆっくりと流れている。特におかしいところはなかった。 「気のせいかな」 「勇斗ー、ごはんできたよー」 「は、はーい」  朝食を済ませた勇斗はボサボサになっていたブラウンの髪を母にセットしてもらった。  自室に戻り、黄色のプルオーバーパーカーに着替える。スマホをイージースラックスのポケットに入れ、出かける準備はバッチリ整った。  母が玄関の外まで見送りに来てくれた。 「暗くなる前に帰ってきなさいね」 「わ、わかってるよ」 「気をつけて、行ってらっしゃい」 「うん。行ってきます」  母に背を向け、歩みを進めた勇斗を秋陽が照らす。母の姿はだんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。  高日町は人口が三千人ほどの小さな町である。都会から少し離れた自然豊かな地で、屋根瓦の家が多く存在している。  休日の朝ということで、人もあまり歩いていない。行き交う車の騒音もない。静かな町を、勇斗はゆっくりと歩いた。  十分くらい歩いたところで地面はアスファルトから石畳に変化した。細い路地に入り、ゆるやかな坂道を登っていくと道端に本が散乱していた。 「あちゃぁ、しまったなぁ」  エプロンをつけたスラっと背の高いメガネの男性がうなだれている。 「桜田さん!」 「ああ、勇斗くん、おはよう。早いね」  勇斗に桜田さんと呼ばれた男性はにっこりと微笑んだ。桜田さんは父の古い友人であり、『桜田書店』という古本屋を営んでいる。 「どうしたんですか、これ」 「新しく仕入れた本をトラックからおろすとき、ダンボールが底抜けしちゃってね。ご覧の有様さ」 「手伝いましょうか」 「いいのかい? 助かるよ」  勇斗は散らばった本を集め、店先へと運んだ。思いの外すぐに終わったので、他のダンボールに入っている本も運ぶ。店へ行くためには階段を降りる必要があったので、何度も往復していると息があがってきた。  全ての本を運び終わった勇斗は店先のベンチでひと休みした。ベンチの下では猫がスヤスヤと寝ている。息を整えていると、隣に缶ジュースが置かれた。 「いやぁ、助かったよ。ジュース飲んでね」 「あ、ありがとうございます」  勇斗は缶ジュースを口につける。 「そういやお父さんは? 昨日帰ると聞いたけど」 「急に仕事が入って、帰れなくなったんです」 「そうか、アイツも忙しいんだな」 「はい――」  ジュースを飲み終えた勇斗は立ち上がり、ゴミ箱に缶を入れる。ふと店の外に敷かれている新聞紙の上を見ると、一冊の本が開いた状態で置かれていた。紙の色は黄ばんでいて、かなり古い本だとわかる。 「桜田さん、あれは?」 「ああ、虫干しをしているんだ。古い本には小さな虫が結構いてね、お日様に当てて虫を退治する必要があるんだよ」 「へぇ」  勇斗は開かれているページを見る。左のページには大きな樹の下で女性が子供に手を差し伸べている絵が浮世絵風のタッチで描かれている。右のページには――大いなる生命の母 自身の力を分け与え 亡き者を甦らせる――と書かれていた。 「うっ」  突然、勇斗は左手首の痛みを感じ、顔をしかめた。手首を押さえていると、次第に胸の奥が熱くなる感覚を覚えた。 「大丈夫かい? もしかして本を運ぶとき痛めた?」 「だ、大丈夫です。もう治りましたので」 「うーん、それならいいんだけど」 「じゃ、僕はこれで。光太を待たせてるので。ジュースごちそうさまでした」  勇斗は一礼し、桜田書店を後にした。  五分ほど歩くと『夏野神社』と掘られた石碑が見えてきた。石碑が置かれている角を曲がり、道なりに進むと目の前に二匹の狛犬が姿を現した。 「おーい、勇斗ー!」  石段の上から光太の声がした。見上げると、鳥居の下で青色のジャージを羽織った光太が手を振っていた。首からは濃い緑色のお守りがぶら下がっている。  勇斗は石段を上り、光太の顔を見る。そこには昨日男子生徒に殴られたアザが痛々しく残っていた。 「急にごめんな。なんか用事あった?」 「ううん、暇だった」 「そっか。今日のはちょい大変だから、マジ助かる。真弘も手伝ってくれるし、チャチャっと終わらせてゲームしようぜ」 「そうだね。あ、怪我は大丈夫なの?」 「まだ痛むけど、平気だぜ!」  光太は腕をぶんぶんと振り回した。割と平気そうで安心した。 「じゃ、行くか」  蔵は本殿の裏から少し歩いたところ――裏山への入り口の近くにある。夏野神社の敷地は狭いので、たどり着くまであまり時間はかからない。境内を散歩しているお爺さんとお婆さんに挨拶しながら歩いていると、小さな社が見えてきた。 「ここ、てんぴ様が祀られているんだよね」 「そうそう、てんぴ様はここ。んで、本殿にはヤト様が祀られてる」  てんぴ様は救いの神であり、ヤト様は高日の地に古くから住まう守り神だと小学生の頃に授業で習った。てんぴ様は光り輝く衣をまとい、ヤト様は大きな翼を持っているらしい。 「てんぴ様とヤト様ってどういう関係なんだろう」 「それがなー、俺も知らないんだよな。親父も知らないって言うし」  ヤト様に関する言い伝えはたくさんあるが、てんぴ様については情報がほとんどなかった。高日の地が未曾有の災害に襲われたとき、どこからともなく現れ、災害を止めたという伝説くらいしか残っていない。 「謎だよね、てんぴ様って」  勇斗はふわぁ、とあくびをしたあと、目をこすった。 「珍しいな勇斗があくびするなんて」 「ちょっと色々考えてて、あまり寝れなかった」 「昨日、美咲に言われたこと、気にしてんのか?」  勇斗の動きが固まった。 「え、えっとぉ――」 「図星だな」  光太は腕を頭の後ろで組みながら、ニヤッと笑った。 「別にあいつの言うことなんか聞かなくてもいいんだよ。他人の目なんか気にすんな」 「でも――」  勇斗は肩をすくめてうつむいた。  沈黙の時間が流れる――  光太は太めの眉を八の字にしつつ、ツンツンと短い黒髪をかきむしった。 「勇斗」  光太の声がしたと同時に、両肩に感触を覚えた。勇斗は顔を上げる。目の前に、光太の真剣な眼差しが映し出された。これまで見せたことのない親友の表情に勇斗は息苦しさを感じた。 「勇気は小さな一歩から生まれる。それがきっかけで、勇気はどんどん大きくなるんだ。だから頑張って、その一歩を踏み出してみろ!」  芯のある声が耳に入り込んだ。  光太は勇斗の目をじっと見つめたあと、ニカっと笑った。 「なんてな。漫画のセリフを言ってみただけ。ちょっと真面目にしすぎたか?」 「そ、そうなんだ」  戸惑いと安堵が入り混じり、勇斗は不思議な気分になった。「ありがとう」と声をかけようとしたとき、 「ぎゃああああああああああああああっ!」と耳をつんざくような大声が本殿の裏の方から聞こえてきた。  その声に勇斗はビクッとした。 「な、何?」 「真弘っ?」  光太は血相を変え、走り出した。  蔵の前で真弘がしゃがんでいた。パーカーのフードを深くかぶり、震えている。 「真弘! どうした、何があった!」  光太は弟の体にそっと手を触れた。 「に、にいちゃん。あ、あれ――」  真弘が指さす先には大きな蜘蛛がいた。蔵の扉の上枠から糸を垂らし、ぶらぶらしている。 「おれ、もう無理! あれ、殺して!」  真弘が叫ぶ。普段はボソボソと喋る真弘なのだが、今は割れるような大声を出していた。 「はぁ」  光太はため息をついたあと、だらだらと扉の前まで歩く。立てかけられていたホウキを片手に持ち、「うりゃっ!」と蜘蛛を薙ぎ払った。  宙を舞った蜘蛛は真弘の目の前に仰向けで着地した。 「ぎゃあああああっ! な、何やってんだこのバカ兄貴!」  真弘は後ろに大きく跳躍して、顔を真っ赤にした。その時、真弘のジーンズのポケットから何かが転がり落ちた。 「あ、すまん」  光太はそそくさと蜘蛛をホウキで掃き、茂みの中へとシュートした。 「お前なぁ、また不良にでも絡まれたのかと思ってヒヤヒヤしたんだぞ!」 「お、おれは不良より虫の方が嫌いなんだ。昔からよく知ってるだろ!」  真弘はフードを外し、光太を睨みつけ、歩み寄る。そして光太の体をポカポカ殴り始めた。 「分かってるって、マジごめん」 「ま、真弘くん、もうそのへんに――」  勇斗が足を動かすと、硬いものが靴に当たる音がした。 「ん?」  カラカラと、石のようなものが転がっていった。よく見ると、それは何かの破片だった。紅く、禍々しい光を放っている。見ていると、背筋がゾッとした。 「あっ」  猫パンチを止めた真弘は素早く破片を拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。 「真弘くん、それ何?」 「な、なんでもない。気にしないで――」  真弘はフードを深くかぶったあと、唇を噛んだ。 「じゃ、掃除始めるか。あー、めんど」  光太はジャージのポケットから鍵を取り出し、キーリングに指を引っ掛けてくるくると回した。  ガチャリ  蔵の扉が、開いた。光太と真弘が中に入っていく。  勇斗が空を見上げると、一羽のトビがスッと横切った。



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