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揺れる心

1/15





 土砂降りの雨の中、ひとりの少年が山を駆け上っていた。  獣道の視界は悪く、ぬかるんだ地面と横倒しになった木々が行く手を阻む。 「はっ、はっ」  少年の口からは白い息が絶え間なく吐き出され、首から下がったお守りが激しく揺れている。黄色のプルオーバーパーカーはぐっしょりと濡れ、泥だらけになっていた。 『落ち着いて避難して下さい!』  けたたましいサイレンの音と防災スピーカーから発せられるアナウンスが、激しい雨音に混ざって木霊した。  背後から轟音が鳴り響くも、少年は後ろを振り返らない。上へ上へと走り続ける。 「はやく行かないと――」  突如、雷鳴と同時に地面が大きく割れた。 「くそっ!」  少年は大きく跳躍をして、木の枝を掴んだ。今まで走ってきた足場が闇に飲まれていく。木の枝が折れる寸前、腕の力だけで身体を放り投げ、崖の上に転がり込んだ。 「はぁっ、はぁっ」  鼓動が速くなり、荒々しく息を吐いた。  立ち上がり、お守りを握り締める。再び歩を進めようとした瞬間、斜面の上から岩塊が降り注いだ。 「くっ」  少年は岩を避けようとしたが、ぬかるみに足をとられる。 「しまっ――」  小さな体は、鈍い音と共に弾き飛ばされた。  何度も回転し、叩きつけられ、切り裂かれる。体全体にありとあらゆる衝撃を受け続けている少年の悲鳴は、激しさを増した雨音にかき消された。  崖下に到達した少年はうつ伏せになったまま、動かなかった。  冷たい雨が、血まみれの体を容赦なく打ち続けていた。  日向勇斗ひなたゆうとは鼻歌を歌いながら歩いていた。穏やかであどけない顔立ちと低めの身長から小学生高学年かと間違われそうだが、胸につけられたネームプレートには高日たかび中学校と印字され、新一年生のカラーである緑色が黒い学ランに映えている。  今日は大好きな父が海外出張から久々に帰ってくる日だった。家に帰るのが待ち遠しい。今回はどんなお土産があるのだろう?  勇斗の足取りが軽くなる。ブラウンの髪が秋風でサラサラと揺れた。 「おいガキ! てめえどこ見て歩いてやがる!」  ドキッとした。罵声が自分に向かって飛んできたと思ったからだった。  しかし、それは違った。  勇斗の視線の先には背の高い男子二人組の姿があった。誰かを怒鳴りつけている。学ランについているネームプレートのカラーは赤色。三年生だ。とっさに電柱の影に身を隠した。 「ご、ごめんなさい――」  ボソボソした声が聞こえる。勇斗はその声に聞き覚えがあった。電柱の影からそっと覗いてみる。 「真弘まひろくん?」  男子二人組に絡まれているのは知り合いの小学五年生である夏野真弘なつのまひろだった。黒いパーカーのフードを深々と被った真弘は、男子生徒二人組に頭を下げている。 「あの、もう行ってもいい、ですか」 「ああ? 何言ってんのか聞こえねーよ?」 「とっ、通して!」 「とおしてぇ? じゃあ通行料よこしな。おっと、ぶつけられたところが痛み出した。これは慰謝料も追加だな」  男子生徒の一人がわざとらしく膝を押さえている。それを見ているもう一人はケラケラと笑っていた。 「あの、ほんとに、とおしてください」  真弘は声を震わせて言った。 「かわいいねぇ。おい、スマホ出せ。動画撮ろうぜ」 「や、やめて――」  真弘はうんと背伸びをして、自分に向けられたスマホのカメラ部分を小さな手で押さえた。 「触んな!」  男子生徒は真弘の腕を振りはらった。その反動で真弘は尻もちをつき、ランドセルからは教科書が飛び出た。  勇斗の心臓の鼓動がはやくなった。助けに行きたい。でも、助けに入ったら自分も巻き添えをくらって、いじめられるかもしれない。何も見なかったことにして引き返す? それじゃあ後味が悪いような気もする。どうしたら――  いつの間にか、勇斗の足は一歩下がっていた。 「お前らーっ、何やってんだぁーっ!」  勇斗の耳に、聞き慣れた幼馴染の声が入ってきた。  少し大人っぽい顔立ちをしたツンツン髪の少年、夏野光太なつのこうたが声を荒げながら走ってきた。学ランの裾から出た白シャツが風でバタバタとなびいている。光太はすかさず真弘と男子生徒の間に入った。 「に、にいちゃん――」 「真弘、大丈夫か?」 「なんだてめー? こいつの兄か?」 「そうだよ、何か悪いか?」  光太は顔をあげ、男子生徒二人組を睨みつける。サッと両手を広げ、小声で「今のうちに逃げろ」と真弘に向けて言った。  しかし、真弘は地面に座り込んだまま、動こうとしなかった。 「おいおい、まだ震えてるぜ?」 「可愛いじゃん。持って帰っていい?」  気持ち悪い笑い声が閑静な住宅街に響き渡る。 「お前らっ!」  光太は男子の一人に殴りかかろうとした。しかし、その手はあっけなく受け止められる。次の瞬間、光太のみぞおちに拳がめりこんだ。 「ぉぐぇっ」  光太はお腹を抑えながらうずくまった。口からは液体が吐き出されている。 「よえーっ!」  うずくまった光太の体に男子生徒の足蹴りが何度も打ち込まれた。顔をガードしている腕を振りほどかれた後は胸ぐらを掴まれ、顔面を殴られる。アスファルトの地面に投げ出され、仰向けに倒れた光太の鼻からは血が流れていた。 「ったく、下級生が上級生に手を出すからこうなんだよ。おい、こいつらの写真撮っとけ。クラスの人気者にしてやろうぜ」  スマホが夏野兄弟に向けられる。 「や、やめろよ」  光太は起き上がり、男子生徒たちを睨みつける。その足はガクガクと小刻みに震え、今にも倒れてしまいそうだった。 「しつけえな」  固く、鈍い音が鳴る。光太の体は地面に崩れていった。 「にいちゃん!」  真弘は叫びながら、動かなくなった光太の体を必死に揺さぶる。 「あ、あぁ――」  勇斗の体は完全に固まっていた。頭の中が真っ白になり、その場に倒れてしまいそうだった。 「アンタら、ほんとしょーもないことしてるね。バッカじゃないの?」  鋭く透き通った声が勇斗の耳を横切った。同時に、スパイシーな香水の香りがふわりと漂った。赤茶色のショートヘアをした少女が男子生徒二人組の前に躍り出た。 「なんだ女かよ。しかも一年だし」 「すげー美人。俺、好みかも」  男子生徒二人組の顔がにやける。 「み、美咲さん?」  真弘に名前を呼ばれた少女、白鳥美咲しらとりみさきはため息をつく。しばらく間を置いてから、男子生徒たちに向かってクールな声を放った。 「あなた達、三年生ですよね? いいのですか、こんな事していて」 「なにぃ?」  男子生徒のひとりが眉間にしわを寄せながら美咲に近づく。  だが、美咲は動じず、吊り上がった目で男子生徒に強い眼差しを向け続けていた。 「このことは、生徒会で話し合っておきますね」 「は? せいとかい?」 「それと、さっき警察に電話しましたので、もうすぐ来ると思いますけど。はやく帰って受験勉強でもしたほうが良いですよ?」  美咲はニッコリと微笑み、ピンク色のスマホをちらつかせた。  それを見た男子生徒二人組の表情は青ざめ、路地の奥へと消えていった。 「ホント、バカな連中」 「あ、ありがとう――」 「真弘くん、泣かなかったね。えらいね」  美咲は真弘のフードをそっと外した。フードに隠れていた真弘の小さな顔があらわになる。  黒い髪をくしゃくしゃされた真弘は頬を赤らめた。 「いやー、さすが副会長! 助かった!」  いつの間にか意識を取り戻していた光太が仰向けのまま言った。 「アンタ、喧嘩弱いのに策もなく突っ込むクセ、どうにかなんないの? もっと考えて行動するべきだと思いますけど?」 「う、うるせーな。というか、マジでケーサツ呼んだのかよ」 「ハッタリよ、ハッタリ」  美咲はふふっと笑い、スマホをポケットにしまいこむ。  よかった――と心の中でつぶやいた勇斗はこっそりと来た道を戻ろうとした。 「ところで勇斗、アンタはいつまでコソコソ隠れてるの?」 「ひっ」  突然、自分の名前が呼ばれたことで勇斗の心臓は停止しかけた。 「え、勇斗?」 「ゆうと兄ちゃん?」  勇斗の手が美咲に強く引っ張られる。 「あ、これは、なんというか、ええと――」 「勇斗も変わってないね。その性格、どうにかしたほうがいいよ」  美咲は冷ややかに告げた後、その場を去っていった。  勇斗はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ハッと我にかえり、おそるおそる光太に近づいていった。 「た、立てる?」  勇斗は手を伸ばす。  光太は少し微笑んだあと、細い腕を掴み、ゆっくりと体を起こした。 「すまん」 「ご、ごめん。えっと、その――」  猫背になった勇斗は声を震わせ、鼻水をすすった。 「――帰ろうぜ」  光太は勇斗の背中をポンっと叩き、ニカっと笑った。 「いてて、アイツらマジで殴りやがって」  歩き出した光太の体がふらつく。 「あ、危ない」  勇斗は倒れそうになった光太の体をとっさに支えた。決して軽いとはいえない体重がのしかかり、一緒に倒れてしまいそうになったが、なんとか踏ん張ることができた。 「おっとと、サンキュー親友」 「――やめてよ、その言い方」  照れくさそうに、二人が言い合う。 「ねえ、はやく帰ろうよ」  真弘がパーカーのフードを被り、足を前に出した。 「あ、うん、ごめんね。じゃあ行こうか」  勇斗は光太を支えながら、そそくさと前を進む真弘の後ろ姿を追っていった。  夏野兄弟と別れ、勇斗は自宅に到着した。玄関前に置かれたプランターに咲いている黄金色の花が夕日に包まれ、輝いている。 「ただいま」 「おかえり勇斗。遅かったね」 「ちょっと色々あって」 「勇斗、その汚れは何?」  勇斗の学ランには光太を支えた時についてしまった汚れが点々としていた。 「えっと、ちょっと転んじゃって。今度クリーニングに出してて」 「ほんと? 大丈夫? 怪我してない?」 「だ、大丈夫だって!」  勇斗は急いで階段を駆け上がり、自室になだれ込んだ。ルームウェアに着替え、机の上に置かれたグミの袋からオレンジ味を一粒、口に放り込む。柑橘系の爽やかな甘さが、心を落ち着かせてくれた。 「勇斗ー、ごはんできてるよー」 「はーい」と返事をした勇斗は足早にダイニングへと向かった。  食卓は、勇斗と母の二人きりだった。 「あれ、お父さんは? 今日帰ってくるんじゃなかったの?」 「お父さんね、急な仕事が入って帰れなくなったって。お昼に電話あったのよ」  母は苦笑いしながらテーブルの上にハンバーグを並べる。勇斗の皿にはハンバーグが二つ乗っていた。 「せっかく父さんの好物用意したのにね。あ、それ父さんの分だから、勇斗食べてね」  母はやさしく言ったが、目は寂しそうだった。 「う、うん――」  かれこれ一年は父の姿を見ていない。仕事が忙しいのはわかるけど、このままだと顔を忘れてしまいそうだ。メンタルがへこんだ勇斗はぼんやりと食事をした。  結局、ハンバーグは一つ残してしまった。  自室に戻るため、勇斗は階段を上がった。階段を上がってすぐ左に勇斗の部屋があり、廊下の奥には父の部屋がある。  勇斗は自室を通り過ぎ、父の部屋に入った。電気をつけると、海外のコレクションが目に入ってきた。色とりどりの切手やコイン、模型が綺麗に並べられている。机の上を見ると、小学生時代に家族三人で撮った写真が立てかけられていた。  勇斗は写真を手に取り、父の顔をじっと眺めた。 「お父さん――」  写真立ての隣には、父の宝物であるヒュミドールが置かれていた。葉巻を保管するための箱だが、金色の飾りがついた重厚なデザインで、まるで宝箱のようだった。中には、父が厳選した本場の葉巻がぎっしりと詰まっていた。  勇斗は父の話を聞くのが好きだった。海外で出会った面白い人の話、絶景の話、食べ物の話。そして、葉巻の話。  父は葉巻が趣味で、その世界を教えてくれた。種類や産地、保管方法、そして吸い方について熱く語る父の顔は、いつも輝いていた。  勇斗はヒュミドールから一番太くて長い葉巻を取り出した。そのボディは勇ましく、貫禄のあるものだった。 「――僕には似合わないな」  勇斗は葉巻をそっと戻し、父の部屋を後にした。    ――その性格、どうにかしたほうがいいよ。  布団の中で美咲の言葉を思い出していた。心の中で、幼馴染の少女の言葉が繰り返される。耐えきれず、布団から顔を出す。  勇斗は膝を抱えながら部屋を見渡し、独り言で問いかけた。 「僕はどうしたらいいのだろう?」  静まりかえった闇の中で、枕元の灯りが揺らめいていた――



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何言ってんのか聞こえねーよ?」 「とっ、通して!」 「とおしてぇ? じゃあ通行料よこしな。おっと、ぶつけられたところが痛み出した。これは慰謝料も追加だな」  男子生徒の一人がわざとらしく膝を押さえている。それを見ているもう一人はケラケラと笑っていた。 「あの、ほんとに、とおしてください」  真弘は声を震わせて言った。 「かわいいねぇ。おい、スマホ出せ。動画撮ろうぜ」 「や、やめて――」  真弘はうんと背伸びをして、自分に向けられたスマホのカメラ部分を小さな手で押さえた。 「触んな!」  男子生徒は真弘の腕を振りはらった。その反動で真弘は尻もちをつき、ランドセルからは教科書が飛び出た。  勇斗の心臓の鼓動がはやくなった。助けに行きたい。でも、助けに入ったら自分も巻き添えをくらって、いじめられるかもしれない。何も見なかったことにして引き返す? それじゃあ後味が悪いような気もする。どうしたら――  いつの間にか、勇斗の足は一歩下がっていた。 「お前らーっ、何やってんだぁーっ!」  勇斗の耳に、聞き慣れた幼馴染の声が入ってきた。  少し大人っぽい顔立ちをしたツンツン髪の少年、夏野光太なつのこうたが声を荒げながら走ってきた。学ランの裾から出た白シャツが風でバタバタとなびいている。光太はすかさず真弘と男子生徒の間に入った。 「に、にいちゃん――」 「真弘、大丈夫か?」 「なんだてめー? こいつの兄か?」 「そうだよ、何か悪いか?」  光太は顔をあげ、男子生徒二人組を睨みつける。サッと両手を広げ、小声で「今のうちに逃げろ」と真弘に向けて言った。  しかし、真弘は地面に座り込んだまま、動こうとしなかった。 「おいおい、まだ震えてるぜ?」 「可愛いじゃん。持って帰っていい?」  気持ち悪い笑い声が閑静な住宅街に響き渡る。 「お前らっ!」  光太は男子の一人に殴りかかろうとした。しかし、その手はあっけなく受け止められる。次の瞬間、光太のみぞおちに拳がめりこんだ。 「ぉぐぇっ」  光太はお腹を抑えながらうずくまった。口からは液体が吐き出されている。 「よえーっ!」  うずくまった光太の体に男子生徒の足蹴りが何度も打ち込まれた。顔をガードしている腕を振りほどかれた後は胸ぐらを掴まれ、顔面を殴られる。アスファルトの地面に投げ出され、仰向けに倒れた光太の鼻からは血が流れていた。 「ったく、下級生が上級生に手を出すからこうなんだよ。おい、こいつらの写真撮っとけ。クラスの人気者にしてやろうぜ」  スマホが夏野兄弟に向けられる。 「や、やめろよ」  光太は起き上がり、男子生徒たちを睨みつける。その足はガクガクと小刻みに震え、今にも倒れてしまいそうだった。 「しつけえな」  固く、鈍い音が鳴る。光太の体は地面に崩れていった。 「にいちゃん!」  真弘は叫びながら、動かなくなった光太の体を必死に揺さぶる。 「あ、あぁ――」  勇斗の体は完全に固まっていた。頭の中が真っ白になり、その場に倒れてしまいそうだった。 「アンタら、ほんとしょーもないことしてるね。バッカじゃないの?」  鋭く透き通った声が勇斗の耳を横切った。同時に、スパイシーな香水の香りがふわりと漂った。赤茶色のショートヘアをした少女が男子生徒二人組の前に躍り出た。 「なんだ女かよ。しかも一年だし」 「すげー美人。俺、好みかも」  男子生徒二人組の顔がにやける。 「み、美咲さん?」  真弘に名前を呼ばれた少女、白鳥美咲しらとりみさきはため息をつく。しばらく間を置いてから、男子生徒たちに向かってクールな声を放った。 「あなた達、三年生ですよね? いいのですか、こんな事していて」 「なにぃ?」  男子生徒のひとりが眉間にしわを寄せながら美咲に近づく。  だが、美咲は動じず、吊り上がった目で男子生徒に強い眼差しを向け続けていた。 「このことは、生徒会で話し合っておきますね」 「は? せいとかい?」 「それと、さっき警察に電話しましたので、もうすぐ来ると思いますけど。はやく帰って受験勉強でもしたほうが良いですよ?」  美咲はニッコリと微笑み、ピンク色のスマホをちらつかせた。  それを見た男子生徒二人組の表情は青ざめ、路地の奥へと消えていった。 「ホント、バカな連中」 「あ、ありがとう――」 「真弘くん、泣かなかったね。えらいね」  美咲は真弘のフードをそっと外した。フードに隠れていた真弘の小さな顔があらわになる。  黒い髪をくしゃくしゃされた真弘は頬を赤らめた。 「いやー、さすが副会長! 助かった!」  いつの間にか意識を取り戻していた光太が仰向けのまま言った。 「アンタ、喧嘩弱いのに策もなく突っ込むクセ、どうにかなんないの? もっと考えて行動するべきだと思いますけど?」 「う、うるせーな。というか、マジでケーサツ呼んだのかよ」 「ハッタリよ、ハッタリ」  美咲はふふっと笑い、スマホをポケットにしまいこむ。  よかった――と心の中でつぶやいた勇斗はこっそりと来た道を戻ろうとした。 「ところで勇斗、アンタはいつまでコソコソ隠れてるの?」 「ひっ」  突然、自分の名前が呼ばれたことで勇斗の心臓は停止しかけた。 「え、勇斗?」 「ゆうと兄ちゃん?」  勇斗の手が美咲に強く引っ張られる。 「あ、これは、なんというか、ええと――」 「勇斗も変わってないね。その性格、どうにかしたほうがいいよ」  美咲は冷ややかに告げた後、その場を去っていった。  勇斗はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ハッと我にかえり、おそるおそる光太に近づいていった。 「た、立てる?」  勇斗は手を伸ばす。  光太は少し微笑んだあと、細い腕を掴み、ゆっくりと体を起こした。 「すまん」 「ご、ごめん。えっと、その――」  猫背になった勇斗は声を震わせ、鼻水をすすった。 「――帰ろうぜ」  光太は勇斗の背中をポンっと叩き、ニカっと笑った。 「いてて、アイツらマジで殴りやがって」  歩き出した光太の体がふらつく。 「あ、危ない」  勇斗は倒れそうになった光太の体をとっさに支えた。決して軽いとはいえない体重がのしかかり、一緒に倒れてしまいそうになったが、なんとか踏ん張ることができた。 「おっとと、サンキュー親友」 「――やめてよ、その言い方」  照れくさそうに、二人が言い合う。 「ねえ、はやく帰ろうよ」  真弘がパーカーのフードを被り、足を前に出した。 「あ、うん、ごめんね。じゃあ行こうか」  勇斗は光太を支えながら、そそくさと前を進む真弘の後ろ姿を追っていった。  夏野兄弟と別れ、勇斗は自宅に到着した。玄関前に置かれたプランターに咲いている黄金色の花が夕日に包まれ、輝いている。 「ただいま」 「おかえり勇斗。遅かったね」 「ちょっと色々あって」 「勇斗、その汚れは何?」  勇斗の学ランには光太を支えた時についてしまった汚れが点々としていた。 「えっと、ちょっと転んじゃって。今度クリーニングに出してて」 「ほんと? 大丈夫? 怪我してない?」 「だ、大丈夫だって!」  勇斗は急いで階段を駆け上がり、自室になだれ込んだ。ルームウェアに着替え、机の上に置かれたグミの袋からオレンジ味を一粒、口に放り込む。柑橘系の爽やかな甘さが、心を落ち着かせてくれた。 「勇斗ー、ごはんできてるよー」 「はーい」と返事をした勇斗は足早にダイニングへと向かった。  食卓は、勇斗と母の二人きりだった。 「あれ、お父さんは? 今日帰ってくるんじゃなかったの?」 「お父さんね、急な仕事が入って帰れなくなったって。お昼に電話あったのよ」  母は苦笑いしながらテーブルの上にハンバーグを並べる。勇斗の皿にはハンバーグが二つ乗っていた。 「せっかく父さんの好物用意したのにね。あ、それ父さんの分だから、勇斗食べてね」  母はやさしく言ったが、目は寂しそうだった。 「う、うん――」  かれこれ一年は父の姿を見ていない。仕事が忙しいのはわかるけど、このままだと顔を忘れてしまいそうだ。メンタルがへこんだ勇斗はぼんやりと食事をした。  結局、ハンバーグは一つ残してしまった。  自室に戻るため、勇斗は階段を上がった。階段を上がってすぐ左に勇斗の部屋があり、廊下の奥には父の部屋がある。  勇斗は自室を通り過ぎ、父の部屋に入った。電気をつけると、海外のコレクションが目に入ってきた。色とりどりの切手やコイン、模型が綺麗に並べられている。机の上を見ると、小学生時代に家族三人で撮った写真が立てかけられていた。  勇斗は写真を手に取り、父の顔をじっと眺めた。 「お父さん――」  写真立ての隣には、父の宝物であるヒュミドールが置かれていた。葉巻を保管するための箱だが、金色の飾りがついた重厚なデザインで、まるで宝箱のようだった。中には、父が厳選した本場の葉巻がぎっしりと詰まっていた。  勇斗は父の話を聞くのが好きだった。海外で出会った面白い人の話、絶景の話、食べ物の話。そして、葉巻の話。  父は葉巻が趣味で、その世界を教えてくれた。種類や産地、保管方法、そして吸い方について熱く語る父の顔は、いつも輝いていた。  勇斗はヒュミドールから一番太くて長い葉巻を取り出した。そのボディは勇ましく、貫禄のあるものだった。 「――僕には似合わないな」  勇斗は葉巻をそっと戻し、父の部屋を後にした。    ――その性格、どうにかしたほうがいいよ。  布団の中で美咲の言葉を思い出していた。心の中で、幼馴染の少女の言葉が繰り返される。耐えきれず、布団から顔を出す。  勇斗は膝を抱えながら部屋を見渡し、独り言で問いかけた。 「僕はどうしたらいいのだろう?」  静まりかえった闇の中で、枕元の灯りが揺らめいていた――



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