表示設定
表示設定
目次 目次




揺れる心

ー/ー



 よく晴れた秋の日だった。

 日向勇斗(ひなたゆうと)は鼻歌まじりに歩いていた。小柄であどけない顔立ちのせいで小学生に間違われることもあるが、胸のネームプレートには高日(たかび)中学校の名が記され、一年生を示す緑色が黒い学ランに映えている。

 今日は父が帰国する日だ。どんな土産話が聞けるだろう。

 勇斗の足取りが軽くなる。茶色の髪がさらさらと揺れた。

「おいガキ! てめえどこ見て歩いてやがる!」

 角を曲がろうとしたとき、怒鳴り声が聞こえた。勇斗は肩を跳ねさせ、足を止めた。

 その先には、三年生の男子生徒が二人立っていた。向かいには、ランドセルを背負った小柄な少年がいる。ただ事ではないとわかり、勇斗はとっさに電柱の影へ身を隠した。

「ご、ごめんなさい」

 ぼそぼそとした声が聞こえた。そっと覗く。

「真弘くん?」

 囲まれていたのは、知り合いの小学五年生、夏野真弘(なつのまひろ)だった。黒いパーカーのフードを深く被り、必死に頭を下げている。

「慰謝料よこせよ。ぶつけられたとこが痛ぇんだよ」

「あの、ほんとに、通してください」

 真弘の声は震えていた。

「スマホ出せ。動画撮ろうぜ」

「や、やめて」

 真弘が手を伸ばした瞬間、男子生徒に腕を振り払われた。尻もちをつき、ランドセルから教科書が散らばる。

 勇斗の鼓動が一気に速くなった。

 助けないと。

 行ったら自分まで目をつけられるかもしれない。それでも、このまま見ているのは嫌だった。

 気づけば、足がほんの少しだけ前に出ていた。

 だが、次の一歩はどうしても出なかった。

「お前ら、何やってんだ」

 聞き慣れた声が飛んできた。

 ツンツンした黒髪の少年が駆けてくる。幼なじみの夏野光太(なつのこうた)だった。学ランの裾からのぞく白シャツが、風ではためいている。

「に、にいちゃん」

「なんだてめー、こいつの兄貴か?」

「そうだけど?」

 光太は二人を睨みつけた。両手を広げ、「今のうちに逃げろ」と小声で言う。だが真弘はその場に座り込み、頭を抱えて震えていた。

「おいおい、まだ震えてるぜ」

「可愛いじゃん。脱がしてみる?」

 下品な笑い声が響く。

 そのときだった。真弘がふらりと立ち上がり、ジーンズのポケットに手を入れた。

 真弘の瞳は、暗く濁っていた。

 勇斗の脳裏に紅い光が走った。理由もなく、嫌な予感がした。

「お前ら、いい加減にしろっ!」

 光太が叫んだ。

 次の瞬間、男子生徒の拳が光太のみぞおちにめり込んだ。

「なんか言ったか?」

 もう一人も加わり、光太の脇腹を何度も蹴りつけた。

 血の気が引いた。勇斗は今すぐ逃げ出したくなった。

「下級生が上級生に逆らうからこうなるんだよ」

「にいちゃん!」

 真弘が駆け寄る。仰向けに倒れた兄の体を必死にゆする。その様子を見ながら、男子生徒たちは笑っていた。

 勇斗は震える手でポケットに手を入れた。せめて誰かを呼ばないと。だが、スマートフォンを取り出した指先はうまく動かなかった。画面を開くことすらできない。

「アンタら、ほんとしょーもないことしてるね。バッカじゃないの?」

 鋭い声が飛んだ。

 背の高い少女が、男子生徒二人の前に立った。

「なんだ女かよ」

「しかも一年だし」

「み、美咲さん?」

 真弘に名前を呼ばれた少女、白鳥美咲(しらとりみさき)はため息をついた。ローズピンクの髪をかきあげ、男子生徒二人を交互に見る。

「あなた達、三年生ですよね? いいんですか、こんなことしていて」

「なにぃ?」

 男子生徒のひとりが眉間にしわを寄せて近づく。だが、美咲はまったく動じなかった。

「このことは生徒会で話しておきます。それと、さっき警察に電話しましたので。もうすぐ来るんじゃないですか?」

 美咲はにっこり笑い、スマートフォンを見せた。

「マジかよ。おい、逃げるぞ」

 男子生徒二人の顔色が変わる。やがて二人は路地の奥へ消えていった。

「ほんと、バカな連中」

「美咲ねぇちゃん!」

「真弘くん、泣かなかったね。えらいね」

 真弘は頬を赤くし、俯いた。うまく言葉が出てこないようだった。

「いやー、さすが生徒会副会長! 助かった!」

 光太が、倒れたまま明るい声を出す。

「アンタ、喧嘩弱いのに無茶しすぎ」

「うるせーな。で、警察呼んだのかよ」

「ハッタリよ」

 美咲はスマートフォンをしまった。

 終わった。勇斗はそっと背を向けた。

「ところで勇斗、アンタはいつまでコソコソ隠れてるの?」

 肩がびくりと跳ねた。

 振り向くと、美咲が腕を組んで立っていた。

「ちょっと来なさい」

 勇斗の手が強引に引かれる。

「あれ、勇斗?」

「勇斗にいちゃん?」

 光太と真弘の視線が向く。

「これは、その……」

「あんたも変わらないね。その性格、どうにかしたほうがいいよ」

 美咲は冷ややかに言い、その場を去っていった。

 反論したかった。違う、と言いたかった。けれど、一つも言葉が出てこない。

 勇斗はうなだれた。
 

「ただいま」

 ローファーを脱いで玄関を上がると、ダイニングのほうから慌ただしい足音がした。

「おかえり、勇斗」

 エプロン姿の母が、心配そうな顔を向けてくる。

「遅かったけど、なにかあったの?」

「ちょっと、いろいろあって」

「誰かにいじめられてない? 怪我してない?」

 母の顔が曇った。

「だ、大丈夫だよ。いじめもないし、怪我もしてない」

「……ならいいけど。遅くなるときは、ちゃんと連絡しなさいよ」

「う、うん。気をつける」

 勇斗は二階へ上がり、自室でスウェットに着替えた。ベッドに腰を下ろす。

 胸の重さが、どうしても消えなかった。

 ぼんやりしていると、階下から母の声がした。

「勇斗ー! ごはんできてるよー!」

 そうだ。今日は久しぶりに、家族三人で夕飯を囲めるのだ。父の顔を見れば、このもやもやも少しは薄れるかもしれない。

 勇斗は立ち上がり、階段を下りた。

 食卓には、母しかいなかった。

 勇斗は落ち着かないまま視線を巡らせる。

「あれ、お父さんは? 今日帰ってくるんじゃなかったの?」

「お父さんね、急な仕事が入って帰れなくなったって。お昼に電話があったのよ」

 勇斗は立ち尽くした。持ち直しかけていた気持ちが、また静かに沈んでいく。

「せっかくお父さんの好物を作ったのにね。あ、それ父さんの分だから、勇斗食べてね」

 母は苦笑しながらハンバーグの皿を置いた。勇斗の皿には二つのっていた。

 もう一年近く、父の姿を見ていない。このままだと、本当に顔を忘れてしまいそうだった。

 味もよくわからないまま、ただ箸を動かした。結局、ハンバーグは一つ残してしまった。

「ごちそうさまでした」

 片付けを母に任せ、二階へ上がる。階段を上がってすぐ左が勇斗の部屋で、廊下の奥には父の部屋がある。

 このまま自室に戻る気にはなれなかった。何かを確かめるように、勇斗は父の部屋へ向かった。

 電気をつけると、父が海外で集めた品々が目に入った。異国の匂いがする部屋だった。

 机の上に置かれている写真立てに目が留まる。

 写真立てには、小学生のころに撮った家族写真が収まっていた。手に取り、父の顔をじっと見つめる。鼻の奥がつんとした。

 写真立ての隣には、古い本が一冊置かれていた。父の部屋に来るたび、たまに開いていた本だ。いくつもの昔話が収められていて、その中でも、亡くした親友を取り戻すために少年が女神の試練へ向かう話を、勇斗はなぜかよく覚えていた。初めて読んだとき、胸がじんわり熱くなったのを思い出す。

 机の奥には、木製の箱が置かれていた。ヒュミドール――父が大切にしている、葉巻用の木箱だった。

 ヒュミドールを開くと、葉巻がぎっしりと詰まっていた。乾いた木の香りと深い葉の匂いが混じり合い、ふわりと漂った。

 勇斗は父の話を聞くのが好きだった。海外で出会った面白い人の話。絶景の話。食べ物の話。

 そして、葉巻の話。

 父は葉巻の世界を教えてくれた。種類、産地、保管方法、カットの仕方、上手な吸い方、味と香り。葉巻について熱く語る父の顔は、いつも輝いていた。憧れだった。

 いつか、父と同じ世界を見てみたい。

 勇斗はヒュミドールから葉巻を一本取り出し、眺めた。太く長い一本は、堂々としていて、勇ましく見えた。

「僕には似合わないな」

 葉巻を戻そうとした、そのときだった。

 視界がぶれた。

 淡い緑の煙がよぎる。その向こうに、黄金色の鎧が見えた。

 次のまばたきでは、もう消えていた。

 しばらくその場を動けずにいたあと、勇斗はそっと葉巻を箱に戻した。

 自室に戻っても、気分は晴れなかった。
 

 ――その性格、どうにかしたほうがいいよ。

 暗い部屋の中で、美咲の言葉が何度もよみがえる。耳の奥に貼りついたみたいに離れない。

 布団を頭までかぶっても駄目だった。

 散らばった教科書が、頭に浮かんだ。せめて、拾うくらいはできたはずだった。それすらできなかった自分が、どうしようもなく嫌だった。

 耐えきれず、勇斗は布団から顔を出した。

 静まり返った部屋の中で、ふいに床がかたんと鳴った。小さな地震かと思った。

 だが、おかしい。

 本棚も机もほとんど揺れていない。なのに、目の前の空間だけが水面のように揺らいでいた。

 勇斗は息を呑んだ。

 耳の奥できいん、と高い音が鳴る。

 直後、左手首に焼けるような痛みが走った。

 袖をまくる。生まれつきある四芒星の痣が、淡く光っていた。反射的に右手で押さえつける。

 しばらくして、空間の揺らぎはすっと消えた。

 勇斗はおそるおそる右手を離した。

 痣の光は、消えていた。

 部屋を見回す。いつもの部屋のはずなのに、妙に息が詰まった。

 勇斗は自らの体をぎゅっと両腕で抱え込んだ。

 その晩は、なかなか眠れなかった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 胎動


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 よく晴れた秋の日だった。
 |日向勇斗《ひなたゆうと》は鼻歌まじりに歩いていた。小柄であどけない顔立ちのせいで小学生に間違われることもあるが、胸のネームプレートには|高日《たかび》中学校の名が記され、一年生を示す緑色が黒い学ランに映えている。
 今日は父が帰国する日だ。どんな土産話が聞けるだろう。
 勇斗の足取りが軽くなる。茶色の髪がさらさらと揺れた。
「おいガキ! てめえどこ見て歩いてやがる!」
 角を曲がろうとしたとき、怒鳴り声が聞こえた。勇斗は肩を跳ねさせ、足を止めた。
 その先には、三年生の男子生徒が二人立っていた。向かいには、ランドセルを背負った小柄な少年がいる。ただ事ではないとわかり、勇斗はとっさに電柱の影へ身を隠した。
「ご、ごめんなさい」
 ぼそぼそとした声が聞こえた。そっと覗く。
「真弘くん?」
 囲まれていたのは、知り合いの小学五年生、|夏野真弘《なつのまひろ》だった。黒いパーカーのフードを深く被り、必死に頭を下げている。
「慰謝料よこせよ。ぶつけられたとこが痛ぇんだよ」
「あの、ほんとに、通してください」
 真弘の声は震えていた。
「スマホ出せ。動画撮ろうぜ」
「や、やめて」
 真弘が手を伸ばした瞬間、男子生徒に腕を振り払われた。尻もちをつき、ランドセルから教科書が散らばる。
 勇斗の鼓動が一気に速くなった。
 助けないと。
 行ったら自分まで目をつけられるかもしれない。それでも、このまま見ているのは嫌だった。
 気づけば、足がほんの少しだけ前に出ていた。
 だが、次の一歩はどうしても出なかった。
「お前ら、何やってんだ」
 聞き慣れた声が飛んできた。
 ツンツンした黒髪の少年が駆けてくる。幼なじみの|夏野光太《なつのこうた》だった。学ランの裾からのぞく白シャツが、風ではためいている。
「に、にいちゃん」
「なんだてめー、こいつの兄貴か?」
「そうだけど?」
 光太は二人を睨みつけた。両手を広げ、「今のうちに逃げろ」と小声で言う。だが真弘はその場に座り込み、頭を抱えて震えていた。
「おいおい、まだ震えてるぜ」
「可愛いじゃん。脱がしてみる?」
 下品な笑い声が響く。
 そのときだった。真弘がふらりと立ち上がり、ジーンズのポケットに手を入れた。
 真弘の瞳は、暗く濁っていた。
 勇斗の脳裏に紅い光が走った。理由もなく、嫌な予感がした。
「お前ら、いい加減にしろっ!」
 光太が叫んだ。
 次の瞬間、男子生徒の拳が光太のみぞおちにめり込んだ。
「なんか言ったか?」
 もう一人も加わり、光太の脇腹を何度も蹴りつけた。
 血の気が引いた。勇斗は今すぐ逃げ出したくなった。
「下級生が上級生に逆らうからこうなるんだよ」
「にいちゃん!」
 真弘が駆け寄る。仰向けに倒れた兄の体を必死にゆする。その様子を見ながら、男子生徒たちは笑っていた。
 勇斗は震える手でポケットに手を入れた。せめて誰かを呼ばないと。だが、スマートフォンを取り出した指先はうまく動かなかった。画面を開くことすらできない。
「アンタら、ほんとしょーもないことしてるね。バッカじゃないの?」
 鋭い声が飛んだ。
 背の高い少女が、男子生徒二人の前に立った。
「なんだ女かよ」
「しかも一年だし」
「み、美咲さん?」
 真弘に名前を呼ばれた少女、|白鳥美咲《しらとりみさき》はため息をついた。ローズピンクの髪をかきあげ、男子生徒二人を交互に見る。
「あなた達、三年生ですよね? いいんですか、こんなことしていて」
「なにぃ?」
 男子生徒のひとりが眉間にしわを寄せて近づく。だが、美咲はまったく動じなかった。
「このことは生徒会で話しておきます。それと、さっき警察に電話しましたので。もうすぐ来るんじゃないですか?」
 美咲はにっこり笑い、スマートフォンを見せた。
「マジかよ。おい、逃げるぞ」
 男子生徒二人の顔色が変わる。やがて二人は路地の奥へ消えていった。
「ほんと、バカな連中」
「美咲ねぇちゃん!」
「真弘くん、泣かなかったね。えらいね」
 真弘は頬を赤くし、俯いた。うまく言葉が出てこないようだった。
「いやー、さすが生徒会副会長! 助かった!」
 光太が、倒れたまま明るい声を出す。
「アンタ、喧嘩弱いのに無茶しすぎ」
「うるせーな。で、警察呼んだのかよ」
「ハッタリよ」
 美咲はスマートフォンをしまった。
 終わった。勇斗はそっと背を向けた。
「ところで勇斗、アンタはいつまでコソコソ隠れてるの?」
 肩がびくりと跳ねた。
 振り向くと、美咲が腕を組んで立っていた。
「ちょっと来なさい」
 勇斗の手が強引に引かれる。
「あれ、勇斗?」
「勇斗にいちゃん?」
 光太と真弘の視線が向く。
「これは、その……」
「あんたも変わらないね。その性格、どうにかしたほうがいいよ」
 美咲は冷ややかに言い、その場を去っていった。
 反論したかった。違う、と言いたかった。けれど、一つも言葉が出てこない。
 勇斗はうなだれた。
「ただいま」
 ローファーを脱いで玄関を上がると、ダイニングのほうから慌ただしい足音がした。
「おかえり、勇斗」
 エプロン姿の母が、心配そうな顔を向けてくる。
「遅かったけど、なにかあったの?」
「ちょっと、いろいろあって」
「誰かにいじめられてない? 怪我してない?」
 母の顔が曇った。
「だ、大丈夫だよ。いじめもないし、怪我もしてない」
「……ならいいけど。遅くなるときは、ちゃんと連絡しなさいよ」
「う、うん。気をつける」
 勇斗は二階へ上がり、自室でスウェットに着替えた。ベッドに腰を下ろす。
 胸の重さが、どうしても消えなかった。
 ぼんやりしていると、階下から母の声がした。
「勇斗ー! ごはんできてるよー!」
 そうだ。今日は久しぶりに、家族三人で夕飯を囲めるのだ。父の顔を見れば、このもやもやも少しは薄れるかもしれない。
 勇斗は立ち上がり、階段を下りた。
 食卓には、母しかいなかった。
 勇斗は落ち着かないまま視線を巡らせる。
「あれ、お父さんは? 今日帰ってくるんじゃなかったの?」
「お父さんね、急な仕事が入って帰れなくなったって。お昼に電話があったのよ」
 勇斗は立ち尽くした。持ち直しかけていた気持ちが、また静かに沈んでいく。
「せっかくお父さんの好物を作ったのにね。あ、それ父さんの分だから、勇斗食べてね」
 母は苦笑しながらハンバーグの皿を置いた。勇斗の皿には二つのっていた。
 もう一年近く、父の姿を見ていない。このままだと、本当に顔を忘れてしまいそうだった。
 味もよくわからないまま、ただ箸を動かした。結局、ハンバーグは一つ残してしまった。
「ごちそうさまでした」
 片付けを母に任せ、二階へ上がる。階段を上がってすぐ左が勇斗の部屋で、廊下の奥には父の部屋がある。
 このまま自室に戻る気にはなれなかった。何かを確かめるように、勇斗は父の部屋へ向かった。
 電気をつけると、父が海外で集めた品々が目に入った。異国の匂いがする部屋だった。
 机の上に置かれている写真立てに目が留まる。
 写真立てには、小学生のころに撮った家族写真が収まっていた。手に取り、父の顔をじっと見つめる。鼻の奥がつんとした。
 写真立ての隣には、古い本が一冊置かれていた。父の部屋に来るたび、たまに開いていた本だ。いくつもの昔話が収められていて、その中でも、亡くした親友を取り戻すために少年が女神の試練へ向かう話を、勇斗はなぜかよく覚えていた。初めて読んだとき、胸がじんわり熱くなったのを思い出す。
 机の奥には、木製の箱が置かれていた。ヒュミドール――父が大切にしている、葉巻用の木箱だった。
 ヒュミドールを開くと、葉巻がぎっしりと詰まっていた。乾いた木の香りと深い葉の匂いが混じり合い、ふわりと漂った。
 勇斗は父の話を聞くのが好きだった。海外で出会った面白い人の話。絶景の話。食べ物の話。
 そして、葉巻の話。
 父は葉巻の世界を教えてくれた。種類、産地、保管方法、カットの仕方、上手な吸い方、味と香り。葉巻について熱く語る父の顔は、いつも輝いていた。憧れだった。
 いつか、父と同じ世界を見てみたい。
 勇斗はヒュミドールから葉巻を一本取り出し、眺めた。太く長い一本は、堂々としていて、勇ましく見えた。
「僕には似合わないな」
 葉巻を戻そうとした、そのときだった。
 視界がぶれた。
 淡い緑の煙がよぎる。その向こうに、黄金色の鎧が見えた。
 次のまばたきでは、もう消えていた。
 しばらくその場を動けずにいたあと、勇斗はそっと葉巻を箱に戻した。
 自室に戻っても、気分は晴れなかった。
 ――その性格、どうにかしたほうがいいよ。
 暗い部屋の中で、美咲の言葉が何度もよみがえる。耳の奥に貼りついたみたいに離れない。
 布団を頭までかぶっても駄目だった。
 散らばった教科書が、頭に浮かんだ。せめて、拾うくらいはできたはずだった。それすらできなかった自分が、どうしようもなく嫌だった。
 耐えきれず、勇斗は布団から顔を出した。
 静まり返った部屋の中で、ふいに床がかたんと鳴った。小さな地震かと思った。
 だが、おかしい。
 本棚も机もほとんど揺れていない。なのに、目の前の空間だけが水面のように揺らいでいた。
 勇斗は息を呑んだ。
 耳の奥できいん、と高い音が鳴る。
 直後、左手首に焼けるような痛みが走った。
 袖をまくる。生まれつきある四芒星の痣が、淡く光っていた。反射的に右手で押さえつける。
 しばらくして、空間の揺らぎはすっと消えた。
 勇斗はおそるおそる右手を離した。
 痣の光は、消えていた。
 部屋を見回す。いつもの部屋のはずなのに、妙に息が詰まった。
 勇斗は自らの体をぎゅっと両腕で抱え込んだ。
 その晩は、なかなか眠れなかった。