表示設定
表示設定
目次 目次




第5章 嘘から出たまこと-1

ー/ー



 秋はどこにいるのかと思うほど残暑厳しい九月半ば、駆の兄、匠からLIMEに連絡がきた。こんにちはという無難なスタンプの後に、
『お久しぶりです。氷室さんにお話ししたい事があるのですが、今度の金曜の夜にでも会えませんか?』
との事である。彼女持ちの男性と夜に二人きりで会うのはさすがに躊躇してしまうのでこう返した。
『彼女さんは了解してるんですか?』
『気にしないで下さい。そういう事全く気にするタイプじゃないんで』
と即答だった。もやもやはするものの積極的に断る理由はないので、承諾する事にした。それにしても私の『彼氏』の事を一切気にしていないあたり、彼氏がいない事を確信しているようで、そういうところが微妙に腹の立つ男だ。

 その週の金曜の夜、霞が関で働いている匠の仕事に配慮して銀座の個室居酒屋で飲む事になった。それが決まった時駆に匠とのサシ飲みの事を告げたのだが、それを聞いた瞬間駆は唇を可愛らしく尖らせる。
「えー、オレだけハブられてるんですけどー」
匠が私だけを誘ったのは恐らく駆に聞かれたくない話をしたかったからなのだろうと推測していたので、誤魔化すためにこう言った。
「お兄さん、彼女の事でこっそり相談があるんだって。女の私にしか相談できないとかで」
「そっか……じゃあ、仕方ないね」
駆は素直に信じてくれたようだ。駆を騙すような形になり罪の意識を感じるものの、やむを得ない。

 午後8時に数寄屋橋交番横にある小さな公園で落ち合う約束をしていたのだが、匠は5分前には颯爽と姿を現した。
 「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません」
公園には待ち合わせの人々が多いためぽつんと立っていた私に、匠は軽く頭を下げた。今度こそスーツ姿が見られると思ったのに、ボタンダウンの紺の半袖シャツに涼しげな素材のグレーのスラックスというノーネクタイのラフな格好で、大き目の始祖鳥のマークの付いた黒っぽい通勤用リュックを背負っている。一見気さくなマッチョ系イケメンサラリーマンという風情である。聞いたところ役所は九月末までクールビズなのだそうだ。庁内はエアコンの温度設定が高めでかなり暑いから、スーツなんてとても着ていられないらしい。
 一方の私は白っぽいフェミニンなブラウスにベージュのマキシスカート、パウダーピンクのショルダーバッグを肩から下げている。私はIT企業に勤めているので、サーバーやパソコンのためオフィスの温度管理にだけは恵まれていると思う。
 数寄屋橋交番はてっぺんに待ち針を刺したような奇抜なデザインなのだが、その建物の前に立っている警察官を離れたところから眺めながら尋ねてみた。
「仕事で制服着る事ってあるんですか?」
「今は本当にただの事務屋なんで全く着る機会はないけど、警察大学校にいる時とか現場に配属された時は着てましたよ。交番勤務も経験しましたし」
と説明してくれる。
「制服着た写真とかないんですか?」
興味津々の私に匠は苦笑する。
「コスプレじゃないんだから」
 そう言いながらも、胸ポケットからスマホを取り出すと写真を見せてくれる。交番勤務をしていた時に指導してくれた先輩が撮ってくれたものらしい。今よりも初々しく多少緊張した面持ちの、無線機・拳銃・警棒・防刃ベストフル装備の制服姿の匠が直立不動で写っていた。ついついにやにやしてしまう。そんな私の横顔に気が付いた匠がこほんと咳払いをした。
「ごめんごめん」
と私は謝ってから、匠にこう提案した。
「私達一学年しか違わないし、これからはタメ口で話さない? いつまでも丁寧語で話してると肩凝っちゃう」
匠は頷いた。
「そうだね、賛成! じゃあ今から氷室さんの事あだ名で呼んでもいい?」
「あだ名!?」
いきなりあだ名ときたので、さすがに驚いた。礼儀正しいと思っていたのに、いきなり距離を詰めてくるタイプだとは思わなかった。
「うん、有葉さんだから『あるる』って呼ぼうかな」
あるるってどこぞのパズルゲーの主人公かーい。匠はほとんどゲームをした事がないと言っていたからたまたま思いついただけだろうけど。さらっと出てきたって事は予め考えていたんじゃないかな。
 私は腕組みをしながら、再度にやにやする。
「いいよ、それで。その代わり私は君の事を『たくみん』って呼ぶから」
それを聞いた匠は愉快そうに大笑いした。
「今までたっくんとか、やまちゃん、ヤマタクとか呼ばれてたけど、たくみんは初めてだ。面白いね、いいよ」
 私達は互いの呼び方を決めた後、金曜の夜らしくそれなりに人の多い明るい銀座の街を、数寄屋橋交差点を渡って新橋方面へ、柳の並木が特徴的な西銀座通りを並んで歩いていった。それにしても横から見た匠は、前回会った時よりもさらに胸板の厚みが増しており、完全にゴリマッチョ化している。とにかく姿勢がいいし、何よりも爽やかなイケメンなので目立つ事この上ない。一緒に歩いていて通行人にちらちら見られるのは駆で慣れてしまったので今更何とも思わないが、こんなに目立つと裏の仕事はできないだろうなって余計な事を密かに考えてしまう。


 匠が予約してくれていた居酒屋は、とある雑居ビルの三階に入っていたが、靴を脱いだ後、料亭の雰囲気を模した廊下を通って掘りごたつ形式の二人用の個室に通される。思っていたよりも個室は広く快適そうだ。海鮮料理と地鶏料理が美味しい店らしい。匠が同期と飲む時よく使っている店だとの事。個室といっても、隣室の話し声を遮るほどの防音性はないものの、皆互いの話に夢中だし酔っているから声も大きいので、こちらの声が筒抜けという事はなさそうだ。
「何飲む? わざわざ来てもらったから今回も自分が奢るよ」
 お互い座った後、匠は飲み物のメニューが表示されているタブレット端末を私に手渡す。
「ゴチになりまーす♪」
そう言いながら私はとりあえず生ビールの中ジョッキを入力して、タブレット端末を匠に返した。匠は辛口の地酒大吟醸を四合瓶で頼んでいる。
 飲み物はすぐに届いたのでまずは互いの仕事をねぎらいながら乾杯し、匠はどんどん料理をオーダーし始めた。
「あるるも好きなの頼んでよ」
はーい、と私も遠慮なく美味しそうな料理を入力していく。
 注文がひと段落したので、私は生ビールを飲みながら、テーブルを挟んで座っている匠を改めて眺める。半袖シャツの肩から胸元にかけて筋肉ではち切れそうだった。それだけ鍛えてしまうと丁度いいサイズのシャツがなかなかないのだろう。
「ジムに通ってるの?」
「うん、寮の近くに24時間営業のジムがあってね、仕事帰りに可能な限り立ち寄ってる。後は週一回剣道は続けてるよ」
そう言いながら匠は初っ端から酒を手酌、かつハイペースで飲んでいる。
「今の自分の取り柄は体力くらいしかないから日々こつこつと鍛錬するしかないんだ。就職してからしみじみそう思うようになった……周囲があり得ないほど優秀すぎる……」
自嘲するかのように笑ってみせた。匠ほどのエリートがそう思わされるなんてどんな環境なのだろう。私には全く想像がつかない。
「そうなんだ……」
私はビールを呑みながら頷く。なんだか天上界のぼやきを聞かされている地上人の気分だ。
 麩の入ったシーザーサラダ、ほっけの塩焼き、刺身や焼き鳥の盛り合わせ、などが次々に届けられテーブルにぎっしりと並べられた。しばらくは気軽な雑談をしながら料理に舌鼓をうつ。この時、匠が弟の駆の事を『かーくん』と呼んでいることを初めて知った。

 料理の皿があらかた空っぽとなり、匠が違う種類の地酒を、一方私は紅茶梅酒という一風変わった梅酒を頼んだ後、ようやく匠は本題を切り出した。
「……実はこの前お盆に帰省した時、親父とじっくり酒を飲んだんだ……」
「二人ともこっちに住んでいるのに東京じゃ飲んだりしないの?」
素朴な疑問であるが、匠は苦笑する。
「親父は気にしないだろうが自分が絶対にイヤだ。否応なしに上下関係を意識しちまう。だから普段は意識して会わないようにしている」
 上下関係の厳しい職場で、親がお偉いさんというのは非常にやりにくそうだ。匠は親の威光を笠に着るタイプではないだろうから特に。
「確かにそうだね」
私は相槌を打ってから、話の続きを促した。匠は一旦チェイサーを口にしてから話し始める。
「まず、前提として親父には自分があるるや弟と連絡を取り合っている事は秘密にしている。あくまで知らない[[rb:体 > てい]]を装った。親父が怒ると話しどころじゃなくなるからさ……」
「了解」
「それと……今から話す話はかなり気が重くなると思うけどその旨ご了承願います……」
匠の眉がひそめられた。私はその表情から覚悟を決める。
「承知しました……」
 匠は覚悟を決めたように頷くと話し始めた。
「……お盆の時本宅でやる行事を全部終わらせてから、実家に戻って二人きりで飲み始めた……お袋は用があるからって出かけてたから丁度いいタイミングだったんだ……。親父にだいぶ酒を飲ませ機嫌のよいところを見計らってから、あくまでさりげなくだけど、弟は成人しているとは言え『未成熟子』なのだから扶養義務はあるんじゃなかろうかって指摘したんだ」
それを聞いて、駆の話をする時はそれ相応の準備が必要なのだろうと思った。
「未成熟子……?」
「ああ、ごめんごめん、法律用語で経済的に自立できていない子って意味」
匠が解説してくれる。
「条文で定義がある訳ではないけど、扶養義務があるとされている」
「そうなんだ……」
法律は門外漢なのでちんぷんかんぷんだが、言いたい事はなんとなく理解できた。
 その時判明した事だが、父親は駆がおばあさんか匠にすぐ助けを求めるだろうと高を括っていたらしかった。『勘当』を言い渡したのは留年した駆にきつくお灸をすえるつもりだったからで、まさか言われるがままに出て行って戻ってこないとは思わなかったそうだ。また私の事を彼女だと思い込んでおり、彼女の家に転がり込んだという認識だったらしい。
「訂正してくれたんだよね?」
私が尋ねると、匠は強く頷いた。
「もちろん。おばあさんからの伝聞でって事にしてきちんと伝えたさ。あるるの好意で弟の生活は成り立っているって言ったんだが、本当に生活が大変なら弟の方から仕送りを請求すればいいだけだって言い張りやがる……確かにそれは正論なんだが、縁を切ると言われた弟からそんな事言い出せる訳ないだろ!」
「……そうだよね……ちなみにお父さんは何故そんなに頑ななの?」
と私が尋ねると、匠は言いにくそうに理由を説明してくれる。
「禁止していたはずのゲームに夢中になって単位を落とした事を、どうしても許せないらしい。それとか部屋が漫画だらけだったりとかも……。禁止されていたからこそ、初めて一人暮らしをして夢中になってしまった弟の心理が、親父には全く分からないんだろうな」
「……なるほどね……」

 その時頼んでいた酒が届いたのでそれぞれ受け取る。私はロックの紅茶梅酒を一口含んだ。梅酒の甘さと共に紅茶のほのかな苦みが舌を刺激する。これが実に旨い。
「お父さんはゲームは害悪派なの?」
これはゲーマーとしての質問である。親世代の大人達は未だにそう信じている人々は少なからず存在していたからだ。匠は肩をすくめた。
「心底害悪だと信じているというよりもむしろ、親父が家庭内のルールとして禁止した事を弟が守らなかった事が許せないようだ」
「だとすると説得できないから取り付く島がないね。」
「その通り。親父としては仕送りを再開させる条件として、弟に自分が悪かった、学生の間は二度と家のルールは破りませんからって、漫画やゲーム用のパソコンを放棄させた上で頭を下げさせたいようだ……」
「それって服従させたいって事!?」
正直私はドン引きしてしまった。匠は憂鬱そうにため息をつく。
「親父はオンオフの区別があまりない人なんだろうな。うちの『会社』の上下関係の流儀を家庭内に持ち込んでしまっている。就職してすぐに入学する学校では理不尽なルールでも問答無用で受け入れさせる事で忠誠心を培っていくんだが、それはあくまで組織の秩序を保つための便宜的な手法だ。それに付いていけない者は脱落していく……というかそれは不適格者をふるい落とすための手段でしかない……なのに同じような事を弟に強いようとしている……間違ってるよ……」
私にも匠のため息が感染する。
 私にとって漫画やゲームは楽しむものであると同時に、交通事故で亡くなってしまった両親との大事なコミュニケーション手段でもあった。それを家庭内の秩序を守るためのルールとして使うことに対する嫌悪感をどうしても感じてしまうのだ。
「私ね……以前駆君にイヤな事から逃げてもいいって言ったんだ……。今の話を聞くと間違ってなかったと改めて思ってしまう……。お父さんは駆君をどうしても自分の思い通りにしたいようにしか思えないよ……」
「自分もそう感じる……仕送りを再開して欲しいならとことん従順になれ、それがイヤなら勝手にしろって態度に、我が親ながら情けなくなったよ……」
 匠は目を伏せ日本酒をあおった。私も真似して紅茶梅酒をあおる。
「だから自分は指摘した。勝手にしろと言ってるけど、実際はあるるが弟を扶養している。親父は本来果たすべき扶養義務を放棄し、あるるにフリーライドしているだけじゃないかって」
フリーライドとはよりによって強い言葉を選んだものだが、確かにその通りだ。
「それに対してお父さん、なんて言ったの?」
「氷室さんが好きでしている事だろうって……」
匠の声が更に愁いを帯びる。私も一気に気分が落ち込む。うん、好きでしている。その事は否定しない。だけど駆が家を出ていく羽目になった原因を作った当事者から、それを言われるのはどうにも釈然としない。先日はお母さんと違って駆にきちんと向き合っていたってちょっとお父さん見直したのにな。やっぱりただの頑固親父なのか。
 私は低い声を上げた。
「酷いね……」
「ああ、酷い……親父はあるるの事を、ホストに入れ込むように弟に入れ込んで面倒を見てやっている女性だと解釈したようだった……」
 駆は女から入れ込まれてその世話を当然の権利のように受けるヒモみたいなタイプじゃないし、私だって入れ込んだから甲斐甲斐しく世話をしている訳ではない。もしそうなら、大変なアルバイトなど絶対にさせず学費だって全額出してあげていただろう。
「お父さんは……自分の息子がそういう男だと思っているって事?」
私の声が微かに震える。匠は苦々しそうに答えた。
「弟の事をよく知っていたらそんな風に思うはずはない……親父だってあいつの控えめな性分くらい分かっているはずだ……なのに何故なんだ……さっぱり分からない……」
 匠はワックスできちんと整えた長めの前髪を、忌々しそうに両手でぐちゃぐちゃにかき回した。
「まるで……親父がそう信じたがっているように思えた……事実がどうこうではなく、きっとそうに違いないと……でもそれって全然親父らしくなくて……素人じゃあるまいし……」
 確かに素人ではない。私は匠と駆の父親が警察庁でどんな役職に就いているのかなんて全く知らない――というか絶対に知りたくないので敢えて調べもしていないのだが、相当の地位まで上り詰めている人物である事は容易に推測できる。そんな人物が思い込みだけで適当な事を言ったら息子でなくても驚くだろう。
「酔っていたからって事はない?」
匠は考え込んだ。
「……確かにそれなりに酔ってはいたが、それまではきちんと受け答えしていたし、親父は相当酒は強いはず……なのに弟の事をあるるが扶養していると指摘した辺りから、弟の話ではなくまるで全然違う誰かの話をしているような雰囲気になってきて……」
「なんだか奇妙な話だね……」
私も首をかしげた。

 本音を言えば、私は父親が駆への仕送りを再開する必要を全然感じていなかった。今日の話を聞いて更にその思いをさらに強くしたばかりだ。仕送りと引き換えに、せっかく手にした駆のささやかな心の自由を手放させたくないから。だけど匠は父親を説得して仕送りを再開させようとしていた。そこは今のうちにきちんと話し合って整理しておかないと混乱の原因になりそうだ。実際問題私が駆の事実上の扶養者なのだし、このくらいは言う権利はあると思った。
 そこで私は気合を入れるべく、残った紅茶梅酒を飲み干し頬を両手で叩いてから、口を開いた。
「たくみん、ちょっと私の話を聞いてくれる?」
匠は顔を上げる。私は居住まいを正した。
「あのね、たくみんがお父さんの気持ちを確認してくれた事にはとても感謝している。どんな思いで駆君に『勘当』って言ったのかは理解できたよ」
匠は黙って頷いた。私は続ける。
「お父さんは秩序を重んじるタイプで、前にたくみんが言っていたように、駆君のようなお父さんの定めたルールから逸脱しがちな子どもを持てあましてしまう人だという事はよく分かったけど……」
匠は再び頷く。
「仕送り再開で駆君が再び不自由な生活を強いられるくらいなら、私は現状通り駆君をずっと支援し続けたい」
そう私が言った瞬間、
「だったら自分が独身寮を出て賃貸マンションでも借りて、かーくんと同居しますよ!」
匠がそう口を挟んできた。
「だって本来山城家の問題なのに、あるるを巻き込むなんて絶対におかしいから!」
私は首をゆっくりと振った。
「私の事を気にしてくれるのはとても嬉しいんだけど、負担によるデメリットよりも、駆君が同居してくれている事で私の心が安定するメリットの方がかなり大きいんだ」
「!」
匠ははっとしたように目を見開く。私は力なく笑った。
「君だから白状するけど、両親がいなくなった後、駆君の同居で私の心の隙間――寂しさが埋められたような気がして……。私は駆君を手放したくないんだ……ずるいよね、それは重々分かってる。私はホストに入れ込む女性と大差ないんだよ……だからお父さんが言う事もあながち間違ってはいな……」
そこまで言った時。
「そんな事あなたが口に出しちゃダメです!」
匠が私の言葉を両手を突き出し遮ってから、深々と頭を下げる。
「親父の戯言、自分が迂闊に語ってしまったからあなたを傷つけてしまった。本当にごめんなさい!」
「いや、傍から見れば私と駆君の関係ってそんなものじゃない?」
と私がごにょごにょと口の中で呟いたが、匠は首を振った。
「それもこれも、自分が親父にあなたの事をきちんと話さなかったのが原因なんだ!」
「話したところで印象が変わるもんでもなくない?」
正直匠の激しいリアクションに困惑する。匠は再度首を大きく振った。
「いや、親父の戯言、自分はあの時許しちゃいけなかった。ちゃんと事情を話して発言撤回させるべきだった!」
「そりゃお父さんの発言は相当失礼だと思うけど……私が怒るならともかく君がそこまで怒る事はないよ」
「いや、親父は絶対にあんな事を言っちゃダメなんだ!」
 匠はそう言ってから私の方をじっと見つめると、深く息を吸い呼吸を整えるとゆっくりとこう言った。
「……何故って親父はその長い職業人生の中でもとりわけ交通事故撲滅に尽力してきた人だから!」
「え、そうなの……?」
 私はきょとんとするしかなかった。両親の事故後警察関係者とは大勢関わってはいたが、その中に兄弟の父親『山城氏』がいたかどうかは記憶が定かではない。必死に思い出そうとしたが、酔った頭では難しかった。
 とはいえ、匠が激しく憤り始めた理由は腑に落ちた。私が駆を手助けしている最大のきっかけとなったものが両親の事故である事に改めて気付き、背景を知らない自分の父親が私を蔑んでくるだけではなくフリーライドまでしている事が絶対に許せないのだろう。
 「自分は親父に弟の仕送りを再開させる事ばかり考えていて、あなたの心情まで気が回らなかった……ごめんなさい……」
匠が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、それが当然だよ。私が君の立場に立ったら同じ事を考えるって」
私は大らかに笑ってみせた。すると匠は恐る恐る確認してきた。
「……それで相談なんだけど、親父にあなたの事を話してもいいですか?」
私は多少悩んだ末同意する。
「…………いいよ、構わない」
 私は思うのだ。全然知らない相手に対して憶測で失礼な事を言うのは、両親の事故とか関係なく人としてどうなのだろうと。ただ、先ほど匠が困惑していたように、私が駆に入れ込み、駆はそれを当然の権利として享受していると信じたがっているのだとしたら、それは何故なのだろうと不思議に思ってしまったからなのだ。私は自分の名誉回復なんて本当はどうでも良かった。見知らぬ他人からどう思われようと、今更痛くもかゆくもない。事情を知らない他人が好き勝手言ってくる事なんて、両親の事故後既にイヤと言うほど経験していたのだから。
 「……次地元に帰省するのはお正月になってしまうから、話すのはその時になると思う、遅くなるけどごめんなさい……」
匠はどうしても東京では親子として父親と会いたくないようだ。気持ちは痛いほどよく分かるからその事を咎める気はなかった。
「うん、いいよ、全然急いでないから」
それからこう提案する。
「あのね、仕送りの件は一度駆君の意志を確認してみて。駆君は既に後期の学費は稼いでいて後は大学に入金するだけになってる。来季の前期分だって後もう少しというところまで貯めたらしいよ」
「あいつ、そんなに稼いでいるのか!?」
匠はびっくりしている。元々百万という多額の貯金があった事と、定期的なキッズシッター以外に、母方のおばあさんから時折紹介される単発のアルバイト料も大きいのだけど。本来あれだけ高額の学費を学生の身分で単身稼ぐのはかなり厳しい。普通ならアルバイトに一生懸命になってしまって、肝心の学業が疎かになってしまうだろう。
 おばあさんがアルバイトを頻繁に紹介してくれると事情を説明してから、今後の予定についても触れておく。
「駆君は国立の大学院を目指しているから、再来年からは今ほど学費がかからないと思うよ」
「そっか……かーくんのヤツ頑張ってるんだな。それもこれもあるるがサポートしてくれるお陰だ!」
匠は感心したようにしみじみと呟いた。
「正直理系私大の学費を、奨学金がないのにアルバイトだけで賄うなんて絶対に無理だと思ってた。親父を説得できないなら、自分が手助けするしかないなって覚悟を決めたところだったから……」
「私はマネージャーとしてけっこう優秀でしょ」
私はそう言って両手で親指を立てながら胸を張った。匠も同意する。
「ああ、すごく優秀だ。親父が全然コントロールできなかった弟をちゃんと正しく導けているんだから!」
 駆は実現可能な目標を立ててあげれば、それに向かってコツコツ努力できる頑張り屋だと私は思っている。漫画やゲームだって今は節度を持って嗜んでいるし、精神さえ安定していれば素晴らしいパフォーマンスを発揮できる青年なのだ。本当はこんなに素晴らしい息子さんなんですよ、ちゃんと褒めてあげて下さいって父親にプレゼンしたいくらいだ。今は絶対に顔を合わせたくない人物だけど。

 「……それにしても駆君、本来は愛されキャラのはずなのに、どうして山城家ではこうなっちゃったんだろうね」
と私がずっと思っていた疑問を投げかけると
「自分が知りたいくらいだ……」
と匠が腕組みをしてぼやく。
「本当だったら男子にしては穏やかで優しいから、家族から可愛がられる存在のはずだよな……実際おばあさんは五人いる孫の中で一番可愛がってる。かーくんが死んだおじいさんに似ている事も当然あるんだろうけど、それだけじゃない、おばあさんはお袋があんなだから一生懸命フォローしてくれているんだ……」
 私は以前駆から聞いた授業参観に来てくれなかった話を匠に確認すると、匠は陰鬱そうな表情で頷いた。
「そうそう、小学校の時お袋は必ず自分の方に来てたよ。あれが本当にイヤでイヤで……かーくんの方へ行ってやれよ!って直接文句を言った事もあったくらいだ」
「そうなんだ……」
「そしたらアイツはおばあさんが行くからいいでしょって言いやがって」
ふくれっ面をし、まるで反抗期の中学生のような乱暴な口調である。
「アイツ、自分の大学とかーくんの高校の合格発表が重なった合格祝いで家族全員で盛岡市内のレストランまでわざわざ食事しに行った時も、自分の事ばかり話題にしやがってかーくんの事なんてガン無視で……空気みたいな扱いを受けたかーくんが本当に可哀そうだった……」
匠の瞳が昏い光を湛えた。
「自分は本当に居たたまれなかった……あの場から逃げ出したくなったくらいだ……でもそんな母親を諫められなかったんだから自分も同罪なんだ……」
 駆は母親が授業参観や試合の観戦に来てくれなかった事に怒ってはいたけど、むしろ諦めの気持ち方が強かったように思う。何故か愛されていたはずの匠の方が母親を嫌っているような印象を受ける。弟よりも優秀だからと与えられる条件付きの愛なんてきっと嬉しくないって事か。
 「ごめん、おかしな事を愚痴ってしまって……。最近こういう負の感情がいきなり噴出してくるんだ。彼女から山城家はおかしいって指摘を受けて以来、忘れていたはずのイヤな記憶がちょっとしたきっかけで溢れ出してくる……」
匠は途方に暮れたようなしょんぼり顔になった。自分の感情を持て余しているようにも見える。
「……仕方ないよ……たくみんがそうなるのも当然だって……」
私は精一杯肯定する。駆の留年をきっかけに、山城家の封印されていた家族の問題が一気に吹き出しているように思えてならなかった。
 そうだね……と匠は小さく頷くと、タブレット端末に手を伸ばしさらに日本酒を注文する。既に四合瓶を二本開けているのに顔色が全然変わらないのだから、父親と同様酒には相当強いのだろう。それだけ飲んでいて顔色も話し方も一切変わっていないのだから。ただし、酔うとやたらと饒舌になるようだ。酒を飲んでいない時はひっきりなしにしゃべっている。思考がアルコールで全く阻害されないのはすごいと素直に感心してしまう。私は一緒に冷たい緑茶を注文してもらった。

 注文した酒や茶が届くなり、どんどん飲みながら匠は今後の計画を私に明かしてくれた。
「さっきのお袋の話だけど、自分もずっと心に引っかかっていたんだ……。子ども心におかしいと思っていても聞ける雰囲気でもなかったしね……。実は両親に気づかれないように身内から密かに情報収集しようかと思ってる……」
「本当に?」
私は正直驚いた。
「まあ、職業柄、君そういうのって得意そうだよね」
「今はただの事務屋だって……」
匠は鼻をこすったが、先ほど現場経験があると言っていたので素人と同じはずはない。
「親父にバレるとやっかいだけど、基本母方の親戚達から話を聞く予定だからその点は大丈夫のはず」
「どうして?」
不思議に思った私が尋ねると匠はちょっと笑った。
「おばあさんはもとより、叔母さん達も皆かーくんの味方だから」

 ここで匠は私に山城一族の事情を詳細に説明してくれた。現在盛岡近郊の町で不動産業を営んでいる山城一族は元々は地元の豪商だったようだ。跡取り娘だったおばあさんが進学のため上京した時たまたま東京の旧華族の三男坊を射止めた事からハイソな人々とのコネクションが出来て、地元だけではなく東京にも不動産を所有するに至ったらしい。おばあさんは、若くして亡くなったおじいさんとの間に三人の娘に恵まれた。兄弟の母親が長女で跡継ぎとして社長のおばあさんの元で経営に携わり、次女は盛岡で子会社の経営、三女だけは銀行マンと結婚して、今は東京でのんびりと専業主婦をしているらしい。
 そのおばあさんはバブル崩壊時にうまく立ち回ったようで、会社もさほどダメージも受ける事なく、今は地元の町と協力しながら駅前開発に尽力しその発展に大きく寄与しているようだ。
 「え、山城家の家業ってディベロッパーだったの!?」
私は衝撃を受けた。駆が家業の事を不動産業と言うからずっと小規模な不動産屋を想像していたのだ。その割にはおばあさんの金回りがいいとは思っていたけど。
「かーくんの家業に関する説明は基本適当だから。全然興味がないんだ、端から家を継ぐとは思ってなかったからなんだろうな」
匠が苦笑する。私が手を挙げて質問した。
「それにしても色々謎が多いんだけど。まず国家公務員のお父さんは副業禁止でしょ。よくおばあさんが結婚を許したね。おじいさんみたいによほどいい家の出身だったとか?」
 国家公務員は基本副業が禁止されているから、家業の手伝いは絶対にできない。匠は再び苦笑いを浮かべた。
「親父とお袋の結婚……それが実は我が家の最大の謎かもしれないな……」

 意外な事に、兄弟の父親、(つよし)は、まさに我が氷室家のような普通の庶民の家出身だそうだ。父親が県職員、母親が薬剤師の三人兄弟、全員が大卒。大学進学率が都会に比べて低い地方においては、庶民とはいえかなりインテリな家庭ではある。剛はその兄弟の中でも才能が突出していて、ある意味突然変異的な存在だったようだ。
「剣道を中高ずっと続けていて、塾にも行かずT大に入ったそうだ。やったのは通信教育だけだってさ、よく自慢される」
と匠が父親について説明したので、私は口元を手で押さえ、ひょえーっと変な声を上げてしまった。
「お父さんって年齢的に受験戦争の真っ只中だった頃だよね?」
 話を聞く限り私の両親とほぼ同世代のはずだ。その当時の話は大学受験を経験していた両親からよく聞かされていた。
「よくご存じで。その通り! 今よりも同級生の数がずっと多かった時代らしいね。年子の兄貴が我儘で東京の私大に無理して行ってしまったから、俺はろくに仕送りしてもらえずおんぼろ寮に住む羽目になってしまった、それに比べてお前らはどれだけ恵まれている事か、境遇に感謝しろってよく説教されたもんだ。それはさておき、親父がとてつもなく優秀である事に疑問の余地はない」
そう言う匠は瞬間羨望とも嫉妬ともつかないような表情を浮かべたが、すぐにその表情を消した。
 「一方お袋はかーくんと同じK大に進学している。親父とお袋は高校時代の同級生だったが、その頃交際していたような事実はないようだ。それに関しては両親の話が一致しているから間違いない。親父が言うには、学生時代二人の住む世界はあまりに違っていたってさ。大学時代は特に、だそうだ」
 剛が東京で渋々苦学生をしていた頃、母、加奈子はそれは派手な学生時代を送ったようだ。時代は折しもバブル全盛期、今とは違って非常に緩い大学生活をとことん謳歌していたらしい。
「お袋って息子の自分が言うのも何なんだが、二枚目のおじいさんに似たのかものすごく綺麗なんだ。今も美魔女なんて言われてるくらいだ。若い頃はさぞかしモテたんじゃないかな。当時の写真見た事あるけど、ワンレンっていうの? あれ……にど派手なメイクとファッションで……物凄い肩パッドが入っててさ……笑っちゃったよ……」
 イケメン兄弟、匠と駆の母親なのだから綺麗で当然なのだろうし、さぞかしちやほやされたのだろう。取り巻きの男性の事アッシーとかメッシーって言ったんだよね、確か。私は首を傾げた。
「そんなお父さんとお母さんの交際のきっかけが謎だよね……」
「そう、それ!」
匠が人差し指を立てた。
「二人ともどうやって付き合い始めたのか絶対に言わないからさっぱり分からないんだが、二人が再会するなんて同級会くらいしかないよな。自分もそう思って親父の経歴をこっそり調べてみたんだが、公務員になった後二十代半ばで一年間イギリスに公費留学していた。一方お袋は大学卒業後、即地元に戻って家業の手伝いを始めている。そんな二人が結婚したのはアラサーになってからだ」
「当時としては早くはないんだね。確かお父さんって基本東京か地方勤務だったんでしょ?」
「そう、二十代に岩手周辺に赴任したという事実はなかった」
「そうすると地元の同級会か、お父さんが実家に帰省した時にたまたま再会したくらいしか考えられないよね」
私が推測してみる。匠も同意する。
「そうなんだよな。その辺りを親戚に聞いてみようと思っている。二人の結婚って山城家的にはメリットが全くなかった上に、親父の古い教育方針は叔母さん達から総スカンだった。親父はお袋以外の山城家の女性たちからすると招かれざる婿って印象だ」
「そうすると、ご両親の結婚は家の都合とか全く関係なく、互いの同意のみで進められた恋愛結婚っぽいよね?」
「だと思う。おばあさんがおじいさんと結婚した時はハイソな人達との強力なコネが出来たから、おじいさんが一切働かなくても山城家的には全く問題がなかった。だけど両親の結婚は謎だらけだ。親父が婿入りした結果、見えないところで『反社』に対する抑止力はあったのかもしれないけど……。不動産業が反社と関わったら免許の更新に関わるからね……。とはいえ家業を手伝えないだけならともかく、基本同居すらしてないんだぜ。まあ、憲法第二十四条にある通り『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し』なんだからそこは両親の自由というか勝手なんだけど」
 匠は一気に喋った。さらりと憲法の条文を引用するあたり、さすが法学部卒である。
「私はお父さんが優秀だから望まれて婿に迎えられたと勝手に思い込んでたよ」
私が思った事を述べると匠は首を振った。
「おばあさんはお袋の結婚の意向を渋々受け入れたと噂では聞いている。それこそ反対した結果、跡継ぎである長女に駆け落ちでもされたら面倒だとおばあさんは思ったのかもしれない」
「確かにそれはあるだろうね……でも本当は駆け落ちした方が家族的には幸せだったのかもしれない……」
私は呟いた。匠は深く頷く。
「そうだな……あちこち点々とはしただろうが、家族がバラバラって事はなかっただろうから……」
 匠は酒を飲みながら愚痴をこぼす。
「自分、子どもの頃イヤだったんだよね。親父がいつもお客さんみたいでさ。仕事柄毎週帰って来れる訳でもないのに、やたら厳しいし。よそんちみたいにお父さんには家にいて欲しかったな……」
「そっか……」
私は相槌を打った。なるほど匠は駆ほど父親に苦手意識はないらしい。そうでなければ父親と同じ職業を目指したりはしない、か。
 私は緑茶を飲み一呼吸ついてから尋ねた。
「それで……たくみんは両親の結婚の謎に迫れたら、その後どうするの?」
そこが肝心なところだからだ。匠は困り顔を浮かべた。
「正直、自分の自己満足に終わるかもしれないとは思ってる……。でも、二人は明らかに結婚に至るまでのエピソードについては固く口を閉ざしているんだ。何か隠してるって思うだろ? 普通、恋愛結婚の場合って嬉しそうに子どもに披露したりしない?」
「まあ、そうだね……例えばうちの両親の場合、ゲームのオフ会が出会いのきっかけだったみたいだよ」
私はくすっと笑った。匠が目をまん丸にする。
「ゲームのオフ会!? 今から三十年くらい前に!?」
「そんなに意外かな? 当時はスーファミが既に発売されていたんだよ」
「そっか……ゲームに疎くてごめん」
 匠は申し訳なさそうに謝った後、続けた。
「ここだけの話だけど、うちの両親は共依存の関係にあるんじゃないかってにらんでいる……。我が家が機能不全家族なのはそれが根本原因なんじゃないかってね……。彼女に指摘された後、素人なりに心理学についてはあれこれ調べていたんだ。その結果、何かしらの問題を密かに抱えたお袋と、それを全力で庇っている親父の姿が浮かび上がってきたって訳だ……」
「なるほどね……」
 私は顎に手を当てた。そう考えると色々と腑に落ちる。文学部卒の私は心理学に関しては大学でかじっただけだけど、駆が母親のトラウマのトリガーなのかもしれない。そうでなければ駆に冷淡な母親と、それを諫めるどころか駆を殊更に厳しく躾けようとする父親の説明がつかない。
「でも……どうしても気になるんだけど、色々知ってしまったら、たくみんが大きく傷つくかもしれないよ?」
私は自分の感じた不安を口にする。匠は肩をすくめた。
「それは彼女にも言われた。両親がひたすら隠してきた事を暴く事がいい事とは限らない、かーくんと同じように両親から一歩退いた方が自分のためだってね……。だけどかーくんは我が家の問題の被害者だけど、自分は意図したわけではないけど親に加担し続けていた……その事を考えると胸が苦しくなって眠れなくなる……この問題から逃げてはいけないと思ってしまうんだ……」
 子どもだった匠がそこまで罪の意識を感じる必要はないと思うけど、きっと何かしら動かなければずっと苦しいままなのだろう。匠は人一倍正義感の強い青年だ。おかしいと思ってしまった以上見て見ぬ振りなど出来ないに違いない。
「自分はかーくんには自由に生きて欲しいと心から願っている……だけど残った自分はいずれ年老いた両親と向き合わなければならない……その時にこの問題を抱えたままにしておきたくないんだ……」
 私は駆に家から逃げていいとは言ったが、とり残された匠の事は全く考えていなかった。確かに匠は一人で両親と立ち向かわなければならないのだ。
「うん……その通りだね……」
私は頷く事しかできなかった。心の中で匠に謝りながら。
「たくみんの覚悟ができているなら、もう後悔しないように行動するしかないね……」
「うん……もし……動いた事で何かしら判明したら……」
匠は多少躊躇しながらこう言った。
「……まず親父としっかり話し合うつもりだ……本来はお袋の問題だったとしても、お袋を守ろうとする親父が自分の前にどんと立ち塞がるはずだから……」
「……巨大な壁だ……」
私はぽつりと呟いた。匠は遠い目をする。
「まさに巨大だ……正直怖いよ……」
そう呟き身震いをする。
 それから目の前のテーブルに視線を落としこう語った。
「親父って自分達兄弟には物凄く厳しかったけど、お袋には甘々でさ。大切なお姫様を守る忠実な騎士って雰囲気なんだ。仕事が許す限りは帰省してたけど……あれ、体力的にはかなりきつかったんじゃないかな……。一方お袋はそんな親父にどっぷり依存してて、親父が帰って来れない時は自分達をおばあさんに任せてでも頻繁に会いに行って……。うちの些細な事を決める時でも必ず親父の意見を仰いで……かーくんの『勘当』の件だってお父さんがそう決めた事だからとしか言わなかった……」
「お母さんって会社役員なんでしょ。なのにそんなにお父さんに依存しまくっているっていうのが違和感があるな……」
私が疑問を口にすると、匠は苦笑する。
「仕事はしっかりやってるらしい。あと数年でおばあさんが引退するから、お袋が次期社長になる事は決定事項だ……。なのに、家だと二言目には『お父さんはこう言った』『お父さんならこうする』って、自分がないのかよって突っ込みたくなるくらいだった……」
「子どもがいなくて二人っきりならご勝手にどうぞ、なんだろうけどね……」
「そう……お袋は正に『母親』じゃないんだよな……」
そう言ってから匠は深くため息を吐いた。
「過干渉の親はそれはそれでうざいだろうけど、アイツは逆に子どもにあまり感心がない……自分は親父に似てるから親父のミニチュア的な扱いされてたけど、正直うんざりだった……」
 先ほどから匠の言葉の端々に現れている母親に対する嫌悪感が何となく分かった気がした。優秀だから大事にされるという背景には、優秀な父親に似ているからという理由があったのか。大事にはされているけど、自分自身を見てくれている訳ではないという事実は、当事者としてはなかなかに受け入れがたい事だろう。
「それは辛いね……」
私はそうとだけ相槌を打った。酔っているからこそ警戒心が薄れ私にこんな事まで話しているのだろうけど、何だか母親に蔑ろにされていた駆より匠の方が実はしんどそうに思える。
 それは置いておいても、匠が両親の事を共依存の関係と感じたのはとてもよく理解できる。先日駆から聞いていた両親のエピソードも合わせると、非常に濃密で歪な関係のように感じてしまった。
「くれぐれも無理はしないでね……」
私がそう言うと、匠は片頬で笑ってみせた。
「さすがに親父と徒手空拳で戦うつもりはないよ。そのための聞き込みだ。親父が自分の言う事に耳を傾けてくれるくらい説得力のある情報を集めないと……」

 ここで私は敢えて突っ込む。もちろん既に気が付いてはいたのだけど。
「今気が付いたんだけど、どうしてたくみんは赤の他人である私にこんな話をしているの?」
私が疑問を投げかけると、匠は声をたてて笑った。
「どうしてだろう? あるるなら心底から信頼できるって感じたからかな。かーくんもお世話になっているし、我が家の事情にはもうそこそこ詳しいでしょ? もう全然他人って気がしないよ……」
「なに、それー」
 私は笑ってみせた。昔から私はやたら人から悩みや秘密を打ち明けられる傾向はあったんだけど、ここでもか。
「信頼してくれるのは嬉しいけど、私はこうして話を聞くくらいしかできないよ」
「それで十分。あるると話をしていると自分も頭が整理できるんだ。何か重要な情報が得られたら逐次報告するから」
 匠に上手く丸め込まれ、山城家の問題に巻き込まれた気がしないでもなかったが、ええい、ままよ、乗り掛かった舟だ。私も覚悟を決めた。駆はもちろんの事、匠も何だか放ってはおけない。
「分かったよ。私も駆君を受け入れた時から、山城さんちの問題は何となく気になっていたし」
「あるるに迷惑をかけるつもりはないよ。あくまでアドバイザー的な立場で自由に言ってもらえると嬉しい」
「駆君には……?」
「あいつにはしばらく秘密にしておいて。せっかく両親から離れられたのに、今更その事で煩わせたくないから」
うん、分かったと私は頷いた。
 その時匠がぽんと手を叩く。
「気の重い話はこれにて終了。自分は食べ足りないからもう少し料理を追加するけど、あるるはどうする?」」
そう言いながらタブレット端末を手に取ると、焼きおにぎりと焼き鳥盛り合わせをさっさと入力し私に手渡してくる。
「私は食後のデザートが食べたいでーす!」
私は明るくそう言ってデザートの画面を開くと、抹茶アイスと温かいほうじ茶を選択し注文したのだった。


次のエピソードへ進む 第5章 嘘から出たまこと-2


みんなのリアクション

 秋はどこにいるのかと思うほど残暑厳しい九月半ば、駆の兄、匠からLIMEに連絡がきた。こんにちはという無難なスタンプの後に、
『お久しぶりです。氷室さんにお話ししたい事があるのですが、今度の金曜の夜にでも会えませんか?』
との事である。彼女持ちの男性と夜に二人きりで会うのはさすがに躊躇してしまうのでこう返した。
『彼女さんは了解してるんですか?』
『気にしないで下さい。そういう事全く気にするタイプじゃないんで』
と即答だった。もやもやはするものの積極的に断る理由はないので、承諾する事にした。それにしても私の『彼氏』の事を一切気にしていないあたり、彼氏がいない事を確信しているようで、そういうところが微妙に腹の立つ男だ。
 その週の金曜の夜、霞が関で働いている匠の仕事に配慮して銀座の個室居酒屋で飲む事になった。それが決まった時駆に匠とのサシ飲みの事を告げたのだが、それを聞いた瞬間駆は唇を可愛らしく尖らせる。
「えー、オレだけハブられてるんですけどー」
匠が私だけを誘ったのは恐らく駆に聞かれたくない話をしたかったからなのだろうと推測していたので、誤魔化すためにこう言った。
「お兄さん、彼女の事でこっそり相談があるんだって。女の私にしか相談できないとかで」
「そっか……じゃあ、仕方ないね」
駆は素直に信じてくれたようだ。駆を騙すような形になり罪の意識を感じるものの、やむを得ない。
 午後8時に数寄屋橋交番横にある小さな公園で落ち合う約束をしていたのだが、匠は5分前には颯爽と姿を現した。
 「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません」
公園には待ち合わせの人々が多いためぽつんと立っていた私に、匠は軽く頭を下げた。今度こそスーツ姿が見られると思ったのに、ボタンダウンの紺の半袖シャツに涼しげな素材のグレーのスラックスというノーネクタイのラフな格好で、大き目の始祖鳥のマークの付いた黒っぽい通勤用リュックを背負っている。一見気さくなマッチョ系イケメンサラリーマンという風情である。聞いたところ役所は九月末までクールビズなのだそうだ。庁内はエアコンの温度設定が高めでかなり暑いから、スーツなんてとても着ていられないらしい。
 一方の私は白っぽいフェミニンなブラウスにベージュのマキシスカート、パウダーピンクのショルダーバッグを肩から下げている。私はIT企業に勤めているので、サーバーやパソコンのためオフィスの温度管理にだけは恵まれていると思う。
 数寄屋橋交番はてっぺんに待ち針を刺したような奇抜なデザインなのだが、その建物の前に立っている警察官を離れたところから眺めながら尋ねてみた。
「仕事で制服着る事ってあるんですか?」
「今は本当にただの事務屋なんで全く着る機会はないけど、警察大学校にいる時とか現場に配属された時は着てましたよ。交番勤務も経験しましたし」
と説明してくれる。
「制服着た写真とかないんですか?」
興味津々の私に匠は苦笑する。
「コスプレじゃないんだから」
 そう言いながらも、胸ポケットからスマホを取り出すと写真を見せてくれる。交番勤務をしていた時に指導してくれた先輩が撮ってくれたものらしい。今よりも初々しく多少緊張した面持ちの、無線機・拳銃・警棒・防刃ベストフル装備の制服姿の匠が直立不動で写っていた。ついついにやにやしてしまう。そんな私の横顔に気が付いた匠がこほんと咳払いをした。
「ごめんごめん」
と私は謝ってから、匠にこう提案した。
「私達一学年しか違わないし、これからはタメ口で話さない? いつまでも丁寧語で話してると肩凝っちゃう」
匠は頷いた。
「そうだね、賛成! じゃあ今から氷室さんの事あだ名で呼んでもいい?」
「あだ名!?」
いきなりあだ名ときたので、さすがに驚いた。礼儀正しいと思っていたのに、いきなり距離を詰めてくるタイプだとは思わなかった。
「うん、有葉さんだから『あるる』って呼ぼうかな」
あるるってどこぞのパズルゲーの主人公かーい。匠はほとんどゲームをした事がないと言っていたからたまたま思いついただけだろうけど。さらっと出てきたって事は予め考えていたんじゃないかな。
 私は腕組みをしながら、再度にやにやする。
「いいよ、それで。その代わり私は君の事を『たくみん』って呼ぶから」
それを聞いた匠は愉快そうに大笑いした。
「今までたっくんとか、やまちゃん、ヤマタクとか呼ばれてたけど、たくみんは初めてだ。面白いね、いいよ」
 私達は互いの呼び方を決めた後、金曜の夜らしくそれなりに人の多い明るい銀座の街を、数寄屋橋交差点を渡って新橋方面へ、柳の並木が特徴的な西銀座通りを並んで歩いていった。それにしても横から見た匠は、前回会った時よりもさらに胸板の厚みが増しており、完全にゴリマッチョ化している。とにかく姿勢がいいし、何よりも爽やかなイケメンなので目立つ事この上ない。一緒に歩いていて通行人にちらちら見られるのは駆で慣れてしまったので今更何とも思わないが、こんなに目立つと裏の仕事はできないだろうなって余計な事を密かに考えてしまう。
 匠が予約してくれていた居酒屋は、とある雑居ビルの三階に入っていたが、靴を脱いだ後、料亭の雰囲気を模した廊下を通って掘りごたつ形式の二人用の個室に通される。思っていたよりも個室は広く快適そうだ。海鮮料理と地鶏料理が美味しい店らしい。匠が同期と飲む時よく使っている店だとの事。個室といっても、隣室の話し声を遮るほどの防音性はないものの、皆互いの話に夢中だし酔っているから声も大きいので、こちらの声が筒抜けという事はなさそうだ。
「何飲む? わざわざ来てもらったから今回も自分が奢るよ」
 お互い座った後、匠は飲み物のメニューが表示されているタブレット端末を私に手渡す。
「ゴチになりまーす♪」
そう言いながら私はとりあえず生ビールの中ジョッキを入力して、タブレット端末を匠に返した。匠は辛口の地酒大吟醸を四合瓶で頼んでいる。
 飲み物はすぐに届いたのでまずは互いの仕事をねぎらいながら乾杯し、匠はどんどん料理をオーダーし始めた。
「あるるも好きなの頼んでよ」
はーい、と私も遠慮なく美味しそうな料理を入力していく。
 注文がひと段落したので、私は生ビールを飲みながら、テーブルを挟んで座っている匠を改めて眺める。半袖シャツの肩から胸元にかけて筋肉ではち切れそうだった。それだけ鍛えてしまうと丁度いいサイズのシャツがなかなかないのだろう。
「ジムに通ってるの?」
「うん、寮の近くに24時間営業のジムがあってね、仕事帰りに可能な限り立ち寄ってる。後は週一回剣道は続けてるよ」
そう言いながら匠は初っ端から酒を手酌、かつハイペースで飲んでいる。
「今の自分の取り柄は体力くらいしかないから日々こつこつと鍛錬するしかないんだ。就職してからしみじみそう思うようになった……周囲があり得ないほど優秀すぎる……」
自嘲するかのように笑ってみせた。匠ほどのエリートがそう思わされるなんてどんな環境なのだろう。私には全く想像がつかない。
「そうなんだ……」
私はビールを呑みながら頷く。なんだか天上界のぼやきを聞かされている地上人の気分だ。
 麩の入ったシーザーサラダ、ほっけの塩焼き、刺身や焼き鳥の盛り合わせ、などが次々に届けられテーブルにぎっしりと並べられた。しばらくは気軽な雑談をしながら料理に舌鼓をうつ。この時、匠が弟の駆の事を『かーくん』と呼んでいることを初めて知った。
 料理の皿があらかた空っぽとなり、匠が違う種類の地酒を、一方私は紅茶梅酒という一風変わった梅酒を頼んだ後、ようやく匠は本題を切り出した。
「……実はこの前お盆に帰省した時、親父とじっくり酒を飲んだんだ……」
「二人ともこっちに住んでいるのに東京じゃ飲んだりしないの?」
素朴な疑問であるが、匠は苦笑する。
「親父は気にしないだろうが自分が絶対にイヤだ。否応なしに上下関係を意識しちまう。だから普段は意識して会わないようにしている」
 上下関係の厳しい職場で、親がお偉いさんというのは非常にやりにくそうだ。匠は親の威光を笠に着るタイプではないだろうから特に。
「確かにそうだね」
私は相槌を打ってから、話の続きを促した。匠は一旦チェイサーを口にしてから話し始める。
「まず、前提として親父には自分があるるや弟と連絡を取り合っている事は秘密にしている。あくまで知らない[[rb:体 > てい]]を装った。親父が怒ると話しどころじゃなくなるからさ……」
「了解」
「それと……今から話す話はかなり気が重くなると思うけどその旨ご了承願います……」
匠の眉がひそめられた。私はその表情から覚悟を決める。
「承知しました……」
 匠は覚悟を決めたように頷くと話し始めた。
「……お盆の時本宅でやる行事を全部終わらせてから、実家に戻って二人きりで飲み始めた……お袋は用があるからって出かけてたから丁度いいタイミングだったんだ……。親父にだいぶ酒を飲ませ機嫌のよいところを見計らってから、あくまでさりげなくだけど、弟は成人しているとは言え『未成熟子』なのだから扶養義務はあるんじゃなかろうかって指摘したんだ」
それを聞いて、駆の話をする時はそれ相応の準備が必要なのだろうと思った。
「未成熟子……?」
「ああ、ごめんごめん、法律用語で経済的に自立できていない子って意味」
匠が解説してくれる。
「条文で定義がある訳ではないけど、扶養義務があるとされている」
「そうなんだ……」
法律は門外漢なのでちんぷんかんぷんだが、言いたい事はなんとなく理解できた。
 その時判明した事だが、父親は駆がおばあさんか匠にすぐ助けを求めるだろうと高を括っていたらしかった。『勘当』を言い渡したのは留年した駆にきつくお灸をすえるつもりだったからで、まさか言われるがままに出て行って戻ってこないとは思わなかったそうだ。また私の事を彼女だと思い込んでおり、彼女の家に転がり込んだという認識だったらしい。
「訂正してくれたんだよね?」
私が尋ねると、匠は強く頷いた。
「もちろん。おばあさんからの伝聞でって事にしてきちんと伝えたさ。あるるの好意で弟の生活は成り立っているって言ったんだが、本当に生活が大変なら弟の方から仕送りを請求すればいいだけだって言い張りやがる……確かにそれは正論なんだが、縁を切ると言われた弟からそんな事言い出せる訳ないだろ!」
「……そうだよね……ちなみにお父さんは何故そんなに頑ななの?」
と私が尋ねると、匠は言いにくそうに理由を説明してくれる。
「禁止していたはずのゲームに夢中になって単位を落とした事を、どうしても許せないらしい。それとか部屋が漫画だらけだったりとかも……。禁止されていたからこそ、初めて一人暮らしをして夢中になってしまった弟の心理が、親父には全く分からないんだろうな」
「……なるほどね……」
 その時頼んでいた酒が届いたのでそれぞれ受け取る。私はロックの紅茶梅酒を一口含んだ。梅酒の甘さと共に紅茶のほのかな苦みが舌を刺激する。これが実に旨い。
「お父さんはゲームは害悪派なの?」
これはゲーマーとしての質問である。親世代の大人達は未だにそう信じている人々は少なからず存在していたからだ。匠は肩をすくめた。
「心底害悪だと信じているというよりもむしろ、親父が家庭内のルールとして禁止した事を弟が守らなかった事が許せないようだ」
「だとすると説得できないから取り付く島がないね。」
「その通り。親父としては仕送りを再開させる条件として、弟に自分が悪かった、学生の間は二度と家のルールは破りませんからって、漫画やゲーム用のパソコンを放棄させた上で頭を下げさせたいようだ……」
「それって服従させたいって事!?」
正直私はドン引きしてしまった。匠は憂鬱そうにため息をつく。
「親父はオンオフの区別があまりない人なんだろうな。うちの『会社』の上下関係の流儀を家庭内に持ち込んでしまっている。就職してすぐに入学する学校では理不尽なルールでも問答無用で受け入れさせる事で忠誠心を培っていくんだが、それはあくまで組織の秩序を保つための便宜的な手法だ。それに付いていけない者は脱落していく……というかそれは不適格者をふるい落とすための手段でしかない……なのに同じような事を弟に強いようとしている……間違ってるよ……」
私にも匠のため息が感染する。
 私にとって漫画やゲームは楽しむものであると同時に、交通事故で亡くなってしまった両親との大事なコミュニケーション手段でもあった。それを家庭内の秩序を守るためのルールとして使うことに対する嫌悪感をどうしても感じてしまうのだ。
「私ね……以前駆君にイヤな事から逃げてもいいって言ったんだ……。今の話を聞くと間違ってなかったと改めて思ってしまう……。お父さんは駆君をどうしても自分の思い通りにしたいようにしか思えないよ……」
「自分もそう感じる……仕送りを再開して欲しいならとことん従順になれ、それがイヤなら勝手にしろって態度に、我が親ながら情けなくなったよ……」
 匠は目を伏せ日本酒をあおった。私も真似して紅茶梅酒をあおる。
「だから自分は指摘した。勝手にしろと言ってるけど、実際はあるるが弟を扶養している。親父は本来果たすべき扶養義務を放棄し、あるるにフリーライドしているだけじゃないかって」
フリーライドとはよりによって強い言葉を選んだものだが、確かにその通りだ。
「それに対してお父さん、なんて言ったの?」
「氷室さんが好きでしている事だろうって……」
匠の声が更に愁いを帯びる。私も一気に気分が落ち込む。うん、好きでしている。その事は否定しない。だけど駆が家を出ていく羽目になった原因を作った当事者から、それを言われるのはどうにも釈然としない。先日はお母さんと違って駆にきちんと向き合っていたってちょっとお父さん見直したのにな。やっぱりただの頑固親父なのか。
 私は低い声を上げた。
「酷いね……」
「ああ、酷い……親父はあるるの事を、ホストに入れ込むように弟に入れ込んで面倒を見てやっている女性だと解釈したようだった……」
 駆は女から入れ込まれてその世話を当然の権利のように受けるヒモみたいなタイプじゃないし、私だって入れ込んだから甲斐甲斐しく世話をしている訳ではない。もしそうなら、大変なアルバイトなど絶対にさせず学費だって全額出してあげていただろう。
「お父さんは……自分の息子がそういう男だと思っているって事?」
私の声が微かに震える。匠は苦々しそうに答えた。
「弟の事をよく知っていたらそんな風に思うはずはない……親父だってあいつの控えめな性分くらい分かっているはずだ……なのに何故なんだ……さっぱり分からない……」
 匠はワックスできちんと整えた長めの前髪を、忌々しそうに両手でぐちゃぐちゃにかき回した。
「まるで……親父がそう信じたがっているように思えた……事実がどうこうではなく、きっとそうに違いないと……でもそれって全然親父らしくなくて……素人じゃあるまいし……」
 確かに素人ではない。私は匠と駆の父親が警察庁でどんな役職に就いているのかなんて全く知らない――というか絶対に知りたくないので敢えて調べもしていないのだが、相当の地位まで上り詰めている人物である事は容易に推測できる。そんな人物が思い込みだけで適当な事を言ったら息子でなくても驚くだろう。
「酔っていたからって事はない?」
匠は考え込んだ。
「……確かにそれなりに酔ってはいたが、それまではきちんと受け答えしていたし、親父は相当酒は強いはず……なのに弟の事をあるるが扶養していると指摘した辺りから、弟の話ではなくまるで全然違う誰かの話をしているような雰囲気になってきて……」
「なんだか奇妙な話だね……」
私も首をかしげた。
 本音を言えば、私は父親が駆への仕送りを再開する必要を全然感じていなかった。今日の話を聞いて更にその思いをさらに強くしたばかりだ。仕送りと引き換えに、せっかく手にした駆のささやかな心の自由を手放させたくないから。だけど匠は父親を説得して仕送りを再開させようとしていた。そこは今のうちにきちんと話し合って整理しておかないと混乱の原因になりそうだ。実際問題私が駆の事実上の扶養者なのだし、このくらいは言う権利はあると思った。
 そこで私は気合を入れるべく、残った紅茶梅酒を飲み干し頬を両手で叩いてから、口を開いた。
「たくみん、ちょっと私の話を聞いてくれる?」
匠は顔を上げる。私は居住まいを正した。
「あのね、たくみんがお父さんの気持ちを確認してくれた事にはとても感謝している。どんな思いで駆君に『勘当』って言ったのかは理解できたよ」
匠は黙って頷いた。私は続ける。
「お父さんは秩序を重んじるタイプで、前にたくみんが言っていたように、駆君のようなお父さんの定めたルールから逸脱しがちな子どもを持てあましてしまう人だという事はよく分かったけど……」
匠は再び頷く。
「仕送り再開で駆君が再び不自由な生活を強いられるくらいなら、私は現状通り駆君をずっと支援し続けたい」
そう私が言った瞬間、
「だったら自分が独身寮を出て賃貸マンションでも借りて、かーくんと同居しますよ!」
匠がそう口を挟んできた。
「だって本来山城家の問題なのに、あるるを巻き込むなんて絶対におかしいから!」
私は首をゆっくりと振った。
「私の事を気にしてくれるのはとても嬉しいんだけど、負担によるデメリットよりも、駆君が同居してくれている事で私の心が安定するメリットの方がかなり大きいんだ」
「!」
匠ははっとしたように目を見開く。私は力なく笑った。
「君だから白状するけど、両親がいなくなった後、駆君の同居で私の心の隙間――寂しさが埋められたような気がして……。私は駆君を手放したくないんだ……ずるいよね、それは重々分かってる。私はホストに入れ込む女性と大差ないんだよ……だからお父さんが言う事もあながち間違ってはいな……」
そこまで言った時。
「そんな事あなたが口に出しちゃダメです!」
匠が私の言葉を両手を突き出し遮ってから、深々と頭を下げる。
「親父の戯言、自分が迂闊に語ってしまったからあなたを傷つけてしまった。本当にごめんなさい!」
「いや、傍から見れば私と駆君の関係ってそんなものじゃない?」
と私がごにょごにょと口の中で呟いたが、匠は首を振った。
「それもこれも、自分が親父にあなたの事をきちんと話さなかったのが原因なんだ!」
「話したところで印象が変わるもんでもなくない?」
正直匠の激しいリアクションに困惑する。匠は再度首を大きく振った。
「いや、親父の戯言、自分はあの時許しちゃいけなかった。ちゃんと事情を話して発言撤回させるべきだった!」
「そりゃお父さんの発言は相当失礼だと思うけど……私が怒るならともかく君がそこまで怒る事はないよ」
「いや、親父は絶対にあんな事を言っちゃダメなんだ!」
 匠はそう言ってから私の方をじっと見つめると、深く息を吸い呼吸を整えるとゆっくりとこう言った。
「……何故って親父はその長い職業人生の中でもとりわけ交通事故撲滅に尽力してきた人だから!」
「え、そうなの……?」
 私はきょとんとするしかなかった。両親の事故後警察関係者とは大勢関わってはいたが、その中に兄弟の父親『山城氏』がいたかどうかは記憶が定かではない。必死に思い出そうとしたが、酔った頭では難しかった。
 とはいえ、匠が激しく憤り始めた理由は腑に落ちた。私が駆を手助けしている最大のきっかけとなったものが両親の事故である事に改めて気付き、背景を知らない自分の父親が私を蔑んでくるだけではなくフリーライドまでしている事が絶対に許せないのだろう。
 「自分は親父に弟の仕送りを再開させる事ばかり考えていて、あなたの心情まで気が回らなかった……ごめんなさい……」
匠が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、それが当然だよ。私が君の立場に立ったら同じ事を考えるって」
私は大らかに笑ってみせた。すると匠は恐る恐る確認してきた。
「……それで相談なんだけど、親父にあなたの事を話してもいいですか?」
私は多少悩んだ末同意する。
「…………いいよ、構わない」
 私は思うのだ。全然知らない相手に対して憶測で失礼な事を言うのは、両親の事故とか関係なく人としてどうなのだろうと。ただ、先ほど匠が困惑していたように、私が駆に入れ込み、駆はそれを当然の権利として享受していると信じたがっているのだとしたら、それは何故なのだろうと不思議に思ってしまったからなのだ。私は自分の名誉回復なんて本当はどうでも良かった。見知らぬ他人からどう思われようと、今更痛くもかゆくもない。事情を知らない他人が好き勝手言ってくる事なんて、両親の事故後既にイヤと言うほど経験していたのだから。
 「……次地元に帰省するのはお正月になってしまうから、話すのはその時になると思う、遅くなるけどごめんなさい……」
匠はどうしても東京では親子として父親と会いたくないようだ。気持ちは痛いほどよく分かるからその事を咎める気はなかった。
「うん、いいよ、全然急いでないから」
それからこう提案する。
「あのね、仕送りの件は一度駆君の意志を確認してみて。駆君は既に後期の学費は稼いでいて後は大学に入金するだけになってる。来季の前期分だって後もう少しというところまで貯めたらしいよ」
「あいつ、そんなに稼いでいるのか!?」
匠はびっくりしている。元々百万という多額の貯金があった事と、定期的なキッズシッター以外に、母方のおばあさんから時折紹介される単発のアルバイト料も大きいのだけど。本来あれだけ高額の学費を学生の身分で単身稼ぐのはかなり厳しい。普通ならアルバイトに一生懸命になってしまって、肝心の学業が疎かになってしまうだろう。
 おばあさんがアルバイトを頻繁に紹介してくれると事情を説明してから、今後の予定についても触れておく。
「駆君は国立の大学院を目指しているから、再来年からは今ほど学費がかからないと思うよ」
「そっか……かーくんのヤツ頑張ってるんだな。それもこれもあるるがサポートしてくれるお陰だ!」
匠は感心したようにしみじみと呟いた。
「正直理系私大の学費を、奨学金がないのにアルバイトだけで賄うなんて絶対に無理だと思ってた。親父を説得できないなら、自分が手助けするしかないなって覚悟を決めたところだったから……」
「私はマネージャーとしてけっこう優秀でしょ」
私はそう言って両手で親指を立てながら胸を張った。匠も同意する。
「ああ、すごく優秀だ。親父が全然コントロールできなかった弟をちゃんと正しく導けているんだから!」
 駆は実現可能な目標を立ててあげれば、それに向かってコツコツ努力できる頑張り屋だと私は思っている。漫画やゲームだって今は節度を持って嗜んでいるし、精神さえ安定していれば素晴らしいパフォーマンスを発揮できる青年なのだ。本当はこんなに素晴らしい息子さんなんですよ、ちゃんと褒めてあげて下さいって父親にプレゼンしたいくらいだ。今は絶対に顔を合わせたくない人物だけど。
 「……それにしても駆君、本来は愛されキャラのはずなのに、どうして山城家ではこうなっちゃったんだろうね」
と私がずっと思っていた疑問を投げかけると
「自分が知りたいくらいだ……」
と匠が腕組みをしてぼやく。
「本当だったら男子にしては穏やかで優しいから、家族から可愛がられる存在のはずだよな……実際おばあさんは五人いる孫の中で一番可愛がってる。かーくんが死んだおじいさんに似ている事も当然あるんだろうけど、それだけじゃない、おばあさんはお袋があんなだから一生懸命フォローしてくれているんだ……」
 私は以前駆から聞いた授業参観に来てくれなかった話を匠に確認すると、匠は陰鬱そうな表情で頷いた。
「そうそう、小学校の時お袋は必ず自分の方に来てたよ。あれが本当にイヤでイヤで……かーくんの方へ行ってやれよ!って直接文句を言った事もあったくらいだ」
「そうなんだ……」
「そしたらアイツはおばあさんが行くからいいでしょって言いやがって」
ふくれっ面をし、まるで反抗期の中学生のような乱暴な口調である。
「アイツ、自分の大学とかーくんの高校の合格発表が重なった合格祝いで家族全員で盛岡市内のレストランまでわざわざ食事しに行った時も、自分の事ばかり話題にしやがってかーくんの事なんてガン無視で……空気みたいな扱いを受けたかーくんが本当に可哀そうだった……」
匠の瞳が昏い光を湛えた。
「自分は本当に居たたまれなかった……あの場から逃げ出したくなったくらいだ……でもそんな母親を諫められなかったんだから自分も同罪なんだ……」
 駆は母親が授業参観や試合の観戦に来てくれなかった事に怒ってはいたけど、むしろ諦めの気持ち方が強かったように思う。何故か愛されていたはずの匠の方が母親を嫌っているような印象を受ける。弟よりも優秀だからと与えられる条件付きの愛なんてきっと嬉しくないって事か。
 「ごめん、おかしな事を愚痴ってしまって……。最近こういう負の感情がいきなり噴出してくるんだ。彼女から山城家はおかしいって指摘を受けて以来、忘れていたはずのイヤな記憶がちょっとしたきっかけで溢れ出してくる……」
匠は途方に暮れたようなしょんぼり顔になった。自分の感情を持て余しているようにも見える。
「……仕方ないよ……たくみんがそうなるのも当然だって……」
私は精一杯肯定する。駆の留年をきっかけに、山城家の封印されていた家族の問題が一気に吹き出しているように思えてならなかった。
 そうだね……と匠は小さく頷くと、タブレット端末に手を伸ばしさらに日本酒を注文する。既に四合瓶を二本開けているのに顔色が全然変わらないのだから、父親と同様酒には相当強いのだろう。それだけ飲んでいて顔色も話し方も一切変わっていないのだから。ただし、酔うとやたらと饒舌になるようだ。酒を飲んでいない時はひっきりなしにしゃべっている。思考がアルコールで全く阻害されないのはすごいと素直に感心してしまう。私は一緒に冷たい緑茶を注文してもらった。
 注文した酒や茶が届くなり、どんどん飲みながら匠は今後の計画を私に明かしてくれた。
「さっきのお袋の話だけど、自分もずっと心に引っかかっていたんだ……。子ども心におかしいと思っていても聞ける雰囲気でもなかったしね……。実は両親に気づかれないように身内から密かに情報収集しようかと思ってる……」
「本当に?」
私は正直驚いた。
「まあ、職業柄、君そういうのって得意そうだよね」
「今はただの事務屋だって……」
匠は鼻をこすったが、先ほど現場経験があると言っていたので素人と同じはずはない。
「親父にバレるとやっかいだけど、基本母方の親戚達から話を聞く予定だからその点は大丈夫のはず」
「どうして?」
不思議に思った私が尋ねると匠はちょっと笑った。
「おばあさんはもとより、叔母さん達も皆かーくんの味方だから」
 ここで匠は私に山城一族の事情を詳細に説明してくれた。現在盛岡近郊の町で不動産業を営んでいる山城一族は元々は地元の豪商だったようだ。跡取り娘だったおばあさんが進学のため上京した時たまたま東京の旧華族の三男坊を射止めた事からハイソな人々とのコネクションが出来て、地元だけではなく東京にも不動産を所有するに至ったらしい。おばあさんは、若くして亡くなったおじいさんとの間に三人の娘に恵まれた。兄弟の母親が長女で跡継ぎとして社長のおばあさんの元で経営に携わり、次女は盛岡で子会社の経営、三女だけは銀行マンと結婚して、今は東京でのんびりと専業主婦をしているらしい。
 そのおばあさんはバブル崩壊時にうまく立ち回ったようで、会社もさほどダメージも受ける事なく、今は地元の町と協力しながら駅前開発に尽力しその発展に大きく寄与しているようだ。
 「え、山城家の家業ってディベロッパーだったの!?」
私は衝撃を受けた。駆が家業の事を不動産業と言うからずっと小規模な不動産屋を想像していたのだ。その割にはおばあさんの金回りがいいとは思っていたけど。
「かーくんの家業に関する説明は基本適当だから。全然興味がないんだ、端から家を継ぐとは思ってなかったからなんだろうな」
匠が苦笑する。私が手を挙げて質問した。
「それにしても色々謎が多いんだけど。まず国家公務員のお父さんは副業禁止でしょ。よくおばあさんが結婚を許したね。おじいさんみたいによほどいい家の出身だったとか?」
 国家公務員は基本副業が禁止されているから、家業の手伝いは絶対にできない。匠は再び苦笑いを浮かべた。
「親父とお袋の結婚……それが実は我が家の最大の謎かもしれないな……」
 意外な事に、兄弟の父親、|剛《つよし》は、まさに我が氷室家のような普通の庶民の家出身だそうだ。父親が県職員、母親が薬剤師の三人兄弟、全員が大卒。大学進学率が都会に比べて低い地方においては、庶民とはいえかなりインテリな家庭ではある。剛はその兄弟の中でも才能が突出していて、ある意味突然変異的な存在だったようだ。
「剣道を中高ずっと続けていて、塾にも行かずT大に入ったそうだ。やったのは通信教育だけだってさ、よく自慢される」
と匠が父親について説明したので、私は口元を手で押さえ、ひょえーっと変な声を上げてしまった。
「お父さんって年齢的に受験戦争の真っ只中だった頃だよね?」
 話を聞く限り私の両親とほぼ同世代のはずだ。その当時の話は大学受験を経験していた両親からよく聞かされていた。
「よくご存じで。その通り! 今よりも同級生の数がずっと多かった時代らしいね。年子の兄貴が我儘で東京の私大に無理して行ってしまったから、俺はろくに仕送りしてもらえずおんぼろ寮に住む羽目になってしまった、それに比べてお前らはどれだけ恵まれている事か、境遇に感謝しろってよく説教されたもんだ。それはさておき、親父がとてつもなく優秀である事に疑問の余地はない」
そう言う匠は瞬間羨望とも嫉妬ともつかないような表情を浮かべたが、すぐにその表情を消した。
 「一方お袋はかーくんと同じK大に進学している。親父とお袋は高校時代の同級生だったが、その頃交際していたような事実はないようだ。それに関しては両親の話が一致しているから間違いない。親父が言うには、学生時代二人の住む世界はあまりに違っていたってさ。大学時代は特に、だそうだ」
 剛が東京で渋々苦学生をしていた頃、母、加奈子はそれは派手な学生時代を送ったようだ。時代は折しもバブル全盛期、今とは違って非常に緩い大学生活をとことん謳歌していたらしい。
「お袋って息子の自分が言うのも何なんだが、二枚目のおじいさんに似たのかものすごく綺麗なんだ。今も美魔女なんて言われてるくらいだ。若い頃はさぞかしモテたんじゃないかな。当時の写真見た事あるけど、ワンレンっていうの? あれ……にど派手なメイクとファッションで……物凄い肩パッドが入っててさ……笑っちゃったよ……」
 イケメン兄弟、匠と駆の母親なのだから綺麗で当然なのだろうし、さぞかしちやほやされたのだろう。取り巻きの男性の事アッシーとかメッシーって言ったんだよね、確か。私は首を傾げた。
「そんなお父さんとお母さんの交際のきっかけが謎だよね……」
「そう、それ!」
匠が人差し指を立てた。
「二人ともどうやって付き合い始めたのか絶対に言わないからさっぱり分からないんだが、二人が再会するなんて同級会くらいしかないよな。自分もそう思って親父の経歴をこっそり調べてみたんだが、公務員になった後二十代半ばで一年間イギリスに公費留学していた。一方お袋は大学卒業後、即地元に戻って家業の手伝いを始めている。そんな二人が結婚したのはアラサーになってからだ」
「当時としては早くはないんだね。確かお父さんって基本東京か地方勤務だったんでしょ?」
「そう、二十代に岩手周辺に赴任したという事実はなかった」
「そうすると地元の同級会か、お父さんが実家に帰省した時にたまたま再会したくらいしか考えられないよね」
私が推測してみる。匠も同意する。
「そうなんだよな。その辺りを親戚に聞いてみようと思っている。二人の結婚って山城家的にはメリットが全くなかった上に、親父の古い教育方針は叔母さん達から総スカンだった。親父はお袋以外の山城家の女性たちからすると招かれざる婿って印象だ」
「そうすると、ご両親の結婚は家の都合とか全く関係なく、互いの同意のみで進められた恋愛結婚っぽいよね?」
「だと思う。おばあさんがおじいさんと結婚した時はハイソな人達との強力なコネが出来たから、おじいさんが一切働かなくても山城家的には全く問題がなかった。だけど両親の結婚は謎だらけだ。親父が婿入りした結果、見えないところで『反社』に対する抑止力はあったのかもしれないけど……。不動産業が反社と関わったら免許の更新に関わるからね……。とはいえ家業を手伝えないだけならともかく、基本同居すらしてないんだぜ。まあ、憲法第二十四条にある通り『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し』なんだからそこは両親の自由というか勝手なんだけど」
 匠は一気に喋った。さらりと憲法の条文を引用するあたり、さすが法学部卒である。
「私はお父さんが優秀だから望まれて婿に迎えられたと勝手に思い込んでたよ」
私が思った事を述べると匠は首を振った。
「おばあさんはお袋の結婚の意向を渋々受け入れたと噂では聞いている。それこそ反対した結果、跡継ぎである長女に駆け落ちでもされたら面倒だとおばあさんは思ったのかもしれない」
「確かにそれはあるだろうね……でも本当は駆け落ちした方が家族的には幸せだったのかもしれない……」
私は呟いた。匠は深く頷く。
「そうだな……あちこち点々とはしただろうが、家族がバラバラって事はなかっただろうから……」
 匠は酒を飲みながら愚痴をこぼす。
「自分、子どもの頃イヤだったんだよね。親父がいつもお客さんみたいでさ。仕事柄毎週帰って来れる訳でもないのに、やたら厳しいし。よそんちみたいにお父さんには家にいて欲しかったな……」
「そっか……」
私は相槌を打った。なるほど匠は駆ほど父親に苦手意識はないらしい。そうでなければ父親と同じ職業を目指したりはしない、か。
 私は緑茶を飲み一呼吸ついてから尋ねた。
「それで……たくみんは両親の結婚の謎に迫れたら、その後どうするの?」
そこが肝心なところだからだ。匠は困り顔を浮かべた。
「正直、自分の自己満足に終わるかもしれないとは思ってる……。でも、二人は明らかに結婚に至るまでのエピソードについては固く口を閉ざしているんだ。何か隠してるって思うだろ? 普通、恋愛結婚の場合って嬉しそうに子どもに披露したりしない?」
「まあ、そうだね……例えばうちの両親の場合、ゲームのオフ会が出会いのきっかけだったみたいだよ」
私はくすっと笑った。匠が目をまん丸にする。
「ゲームのオフ会!? 今から三十年くらい前に!?」
「そんなに意外かな? 当時はスーファミが既に発売されていたんだよ」
「そっか……ゲームに疎くてごめん」
 匠は申し訳なさそうに謝った後、続けた。
「ここだけの話だけど、うちの両親は共依存の関係にあるんじゃないかってにらんでいる……。我が家が機能不全家族なのはそれが根本原因なんじゃないかってね……。彼女に指摘された後、素人なりに心理学についてはあれこれ調べていたんだ。その結果、何かしらの問題を密かに抱えたお袋と、それを全力で庇っている親父の姿が浮かび上がってきたって訳だ……」
「なるほどね……」
 私は顎に手を当てた。そう考えると色々と腑に落ちる。文学部卒の私は心理学に関しては大学でかじっただけだけど、駆が母親のトラウマのトリガーなのかもしれない。そうでなければ駆に冷淡な母親と、それを諫めるどころか駆を殊更に厳しく躾けようとする父親の説明がつかない。
「でも……どうしても気になるんだけど、色々知ってしまったら、たくみんが大きく傷つくかもしれないよ?」
私は自分の感じた不安を口にする。匠は肩をすくめた。
「それは彼女にも言われた。両親がひたすら隠してきた事を暴く事がいい事とは限らない、かーくんと同じように両親から一歩退いた方が自分のためだってね……。だけどかーくんは我が家の問題の被害者だけど、自分は意図したわけではないけど親に加担し続けていた……その事を考えると胸が苦しくなって眠れなくなる……この問題から逃げてはいけないと思ってしまうんだ……」
 子どもだった匠がそこまで罪の意識を感じる必要はないと思うけど、きっと何かしら動かなければずっと苦しいままなのだろう。匠は人一倍正義感の強い青年だ。おかしいと思ってしまった以上見て見ぬ振りなど出来ないに違いない。
「自分はかーくんには自由に生きて欲しいと心から願っている……だけど残った自分はいずれ年老いた両親と向き合わなければならない……その時にこの問題を抱えたままにしておきたくないんだ……」
 私は駆に家から逃げていいとは言ったが、とり残された匠の事は全く考えていなかった。確かに匠は一人で両親と立ち向かわなければならないのだ。
「うん……その通りだね……」
私は頷く事しかできなかった。心の中で匠に謝りながら。
「たくみんの覚悟ができているなら、もう後悔しないように行動するしかないね……」
「うん……もし……動いた事で何かしら判明したら……」
匠は多少躊躇しながらこう言った。
「……まず親父としっかり話し合うつもりだ……本来はお袋の問題だったとしても、お袋を守ろうとする親父が自分の前にどんと立ち塞がるはずだから……」
「……巨大な壁だ……」
私はぽつりと呟いた。匠は遠い目をする。
「まさに巨大だ……正直怖いよ……」
そう呟き身震いをする。
 それから目の前のテーブルに視線を落としこう語った。
「親父って自分達兄弟には物凄く厳しかったけど、お袋には甘々でさ。大切なお姫様を守る忠実な騎士って雰囲気なんだ。仕事が許す限りは帰省してたけど……あれ、体力的にはかなりきつかったんじゃないかな……。一方お袋はそんな親父にどっぷり依存してて、親父が帰って来れない時は自分達をおばあさんに任せてでも頻繁に会いに行って……。うちの些細な事を決める時でも必ず親父の意見を仰いで……かーくんの『勘当』の件だってお父さんがそう決めた事だからとしか言わなかった……」
「お母さんって会社役員なんでしょ。なのにそんなにお父さんに依存しまくっているっていうのが違和感があるな……」
私が疑問を口にすると、匠は苦笑する。
「仕事はしっかりやってるらしい。あと数年でおばあさんが引退するから、お袋が次期社長になる事は決定事項だ……。なのに、家だと二言目には『お父さんはこう言った』『お父さんならこうする』って、自分がないのかよって突っ込みたくなるくらいだった……」
「子どもがいなくて二人っきりならご勝手にどうぞ、なんだろうけどね……」
「そう……お袋は正に『母親』じゃないんだよな……」
そう言ってから匠は深くため息を吐いた。
「過干渉の親はそれはそれでうざいだろうけど、アイツは逆に子どもにあまり感心がない……自分は親父に似てるから親父のミニチュア的な扱いされてたけど、正直うんざりだった……」
 先ほどから匠の言葉の端々に現れている母親に対する嫌悪感が何となく分かった気がした。優秀だから大事にされるという背景には、優秀な父親に似ているからという理由があったのか。大事にはされているけど、自分自身を見てくれている訳ではないという事実は、当事者としてはなかなかに受け入れがたい事だろう。
「それは辛いね……」
私はそうとだけ相槌を打った。酔っているからこそ警戒心が薄れ私にこんな事まで話しているのだろうけど、何だか母親に蔑ろにされていた駆より匠の方が実はしんどそうに思える。
 それは置いておいても、匠が両親の事を共依存の関係と感じたのはとてもよく理解できる。先日駆から聞いていた両親のエピソードも合わせると、非常に濃密で歪な関係のように感じてしまった。
「くれぐれも無理はしないでね……」
私がそう言うと、匠は片頬で笑ってみせた。
「さすがに親父と徒手空拳で戦うつもりはないよ。そのための聞き込みだ。親父が自分の言う事に耳を傾けてくれるくらい説得力のある情報を集めないと……」
 ここで私は敢えて突っ込む。もちろん既に気が付いてはいたのだけど。
「今気が付いたんだけど、どうしてたくみんは赤の他人である私にこんな話をしているの?」
私が疑問を投げかけると、匠は声をたてて笑った。
「どうしてだろう? あるるなら心底から信頼できるって感じたからかな。かーくんもお世話になっているし、我が家の事情にはもうそこそこ詳しいでしょ? もう全然他人って気がしないよ……」
「なに、それー」
 私は笑ってみせた。昔から私はやたら人から悩みや秘密を打ち明けられる傾向はあったんだけど、ここでもか。
「信頼してくれるのは嬉しいけど、私はこうして話を聞くくらいしかできないよ」
「それで十分。あるると話をしていると自分も頭が整理できるんだ。何か重要な情報が得られたら逐次報告するから」
 匠に上手く丸め込まれ、山城家の問題に巻き込まれた気がしないでもなかったが、ええい、ままよ、乗り掛かった舟だ。私も覚悟を決めた。駆はもちろんの事、匠も何だか放ってはおけない。
「分かったよ。私も駆君を受け入れた時から、山城さんちの問題は何となく気になっていたし」
「あるるに迷惑をかけるつもりはないよ。あくまでアドバイザー的な立場で自由に言ってもらえると嬉しい」
「駆君には……?」
「あいつにはしばらく秘密にしておいて。せっかく両親から離れられたのに、今更その事で煩わせたくないから」
うん、分かったと私は頷いた。
 その時匠がぽんと手を叩く。
「気の重い話はこれにて終了。自分は食べ足りないからもう少し料理を追加するけど、あるるはどうする?」」
そう言いながらタブレット端末を手に取ると、焼きおにぎりと焼き鳥盛り合わせをさっさと入力し私に手渡してくる。
「私は食後のデザートが食べたいでーす!」
私は明るくそう言ってデザートの画面を開くと、抹茶アイスと温かいほうじ茶を選択し注文したのだった。