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第4章 情けは人の為ならず-1

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 7月中旬、私は退勤後新宿から乗った埼京線で、『ひっそりぐらし』の可愛らしいイラストが描かれた吊り広告をたまたま発見した。どうやら千葉の房総半島でひっそりぐらしとコラボした謎解きが開催されるようなのだが、広告から離れたところに立っている事もあって詳細は全く分からない。
 最寄り駅で降りた後、詳細を知るためにチラシを駅構内で探し始めた。それなりに広く、帰宅客で混み合っている駅をかなり歩き回った甲斐あって、お得な切符のチラシと並んで謎解きのチラシを発見できたのだった。
 パステルカラーの優しい色合いのチラシを手に取ると、人通りの少ない片隅に移動してからそれを丹念に読み始めた。どうやら房総半島の内房線と外房線に乗り、謎解きをしながらひっそりぐらしのキャラクター達が欲しがっているアイテムを入手していくという趣向らしい。
 内房線・外房線ともに電車の本数は少なく、ここ埼玉からはえらく遠いので、行こうとするとやたらハードスケジュールが予想されるけど、アナログゲーム研究会の元部長としては謎解き自体に血がたぎるし、駆がひっそりぐらしの大ファンで、なにより7月31日が彼の誕生日と知っている以上、これは参加しろという(私だけの)神からのお告げに違いないと思うことにする。私は小さくガッツポーズをすると、チラシをショルダーバッグにしまい込み駅の外へ出たのだった。

 その翌日、仕事の取引先との打ち合わせの都合でたまたま日本橋まで行く用事があり、そのまま直帰が許される時間だったため、帰宅する前に東京駅隣の地下街に立ち寄ることにする。そこには様々なキャラグッズを扱っている一画『東京キャラクターストリート』があり、ひっそりぐらしも店舗があったのだ。
 いつもは主に親子連れで賑わっているひっそりぐらしの店舗も、平日の夕方だったため思ったよりは客が少なかったため思う存分眺めることができた。店の中の液晶ディスプレイでは、ひっそりぐらしの基本ほのぼの系だけど時折切ない話が容赦なく展開される短編アニメが流されている。
 店の中を三回くらい歩き回りようやくこれだ!とぴんときたものは、ポシェット型のぬいぐるみだった。ぬいぐるみの後頭部がファスナーとなっており小さな物が入れられるようになっていて、ひもは顔の左右に取り付けられている。幸い駆の好きなパステルイエローのはりねずみも、私の好きな水色のてでぃべあも両方あった。まずはこれを買い物かごに入れてから、さらに店内をうろうろする。結局財布のひもが緩み、ポシェット以外にラッピング用の袋に絆創膏、レターセット、ペン、メモ帳など買いまくって専用の可愛い柄のショッパーに入れてもらい、大満足で帰宅の途に就いたのだった。

 とはいえ勝手に謎解きの予定を入れる訳にはいかないので、その日の夕飯が終わった時に、駆に謎解きのチラシを手渡しながら私の計画を説明する。
「君の誕生日幸い土曜日だから、これを解きに房総半島行かない?」
「謎解き?」
駆はきょとんとしつつもチラシを受け取り熟読し始める。
「全問正解すれば、抽選でこのイベント限定のグッズが当たるかもしれないんだよ!」
私はそう付け加えた。
 「…………当たったらいいよね!」
チラシを読み終わった駆は、魅力的な限定グッズの一覧に目を輝かせる。私は駆の反応に好感触を得た。
「だから! 房総半島行こうよ!」
「うん、行こう!」
幸い駆も乗り気になってくれたようだ。
「問題は君のスケジュールだけど、大丈夫そう?」
と私が尋ねると、駆は胸ポケットからスマホを取り出しスケジュールアプリを開く。
「大学の方はその日までには完全に試験が終わってるから問題ない。アルバイトは事前に伝えておけば大丈夫」
「よし、決まりだね! 念のため翌日も予定空けておいて」
「謎解きってそんなに時間かかるの? とりあえず了解。楽しみだな♪」
駆の声が今まで聞いたことがないくらい弾んでいた。

 謎解きに参加するためには、まず専用の有料冊子を入手する必要がある。その冊子を販売しているのは、あいにく千葉駅改札横のコンビニだけなのだ。7月31日当日、私達は物凄く早起きして欠伸をしながら地元の駅で青春18きっぷを入手すると、その足で千葉駅へと向かった。青春18きっぷとはJR全線の普通車自由席が五日間乗り放題なのだが、名前に反して年齢制限はないし、一枚を二人以上で使っても構わない優れモノの切符で、学生時代相当お世話になっていたものである。
 最寄駅から千葉駅へ行くためには、車両にオレンジのラインが入っている武蔵野線に乗り、途中で黄色いラインの総武線各駅停車に乗り換えるのが一番早い。
 朝7時半には千葉駅に到着し、表紙にひっそりぐらしの描きおろしイラストが描かれた小冊子と、その小冊子を挟める同じイラストが描かれたバインダーのセットを二部コンビニで入手する。まずはこれを熟読するところから始めなければならないのだ。

 謎解きのストーリーはいたって単純で、ひっそりぐらしのキャラ達が房総半島のとある海水浴場に遊びに来るのだが、海辺に来てから遊び道具等が足りない事に気が付く。かめ、はりねずみ、てでぃべあ、みにぶた、それぞれが欲しがっているグッズを、プレイヤーが代わりに探して渡してあげるという物語である。
 千葉駅のそばにあったベンチに座って駆は小冊子を早速読み始めた。
「なになに、『てでぃべあはいいました。おねがいだよ、ぼくのためにビーチパラソルをみつけてくれないかな?』」
子どもが国語の教科書を読むように音読している。
「お安い御用さ!」
この台詞はテキストにはなく、駆が勝手にてでぃべあと会話しているだけだ。
 私はくすっと笑ってから、その隣に座ると、東京キャラクターストリートで買ったリボンの付いた巾着型のラッピング袋に入れたポシェット型ぬいぐるみを手渡す。
「ランちゃん、お誕生日おめでとう。ちなみに今日はこれ下げて謎解きしなくちゃダメなんだよ」
駆は目をパチクリさせたが、急いでリボンを解くとぬいぐるみを取り出した。
「うわっ、はりねずみだ。ポシェットタイプは初めて見た!」
年甲斐もなく大喜びしている。
「アルファさん、本当にありがとう! 謎解きに誘ってもらっただけで嬉しかったのに!!!」
私もそれまで隠し持っていたてでぃべあのポシェットを大き目のリュックから取り出し斜めかけにする。本日の私の服装は白いTシャツに淡い青のクロップドジーンズ、白のスニーカーだったが、実は水色のてでぃべあに合わせてきたのだ。
「私はてでぃべあだよ!」
私は得意げに言った。
 紺のポロシャツに黒いスリムジーンズを着ていた駆も同じように斜めかけするが、なまじ上背があるためにぬいぐるみが腰の位置ではなく、サコッシュのようにわき腹で止まってしまっている。
「変じゃない?」
駆ははりねずみと同じような困り顔で尋ねるが、私はとぼけて満面の笑みを浮かべた。
「全然変じゃないよ。とっても可愛い、似合ってる」
 駆は疑り深い表情をして私を見るが、ひっそりぐらしのぬいぐるみを堂々と下げて歩けるという喜びの方が勝ったらしく、ポシェットはそのままにして鼻歌を歌いながら小冊子のテキストの続きを読み始める。私も自分の分の小冊子を開いた。

 第一章はてでぃべあが欲しがっているものを見つける物語だった。てでぃべあは元々ぬいぐるみである。それ故に海水浴ができない。そこで砂浜でのんびり寝そべるために、ちょうどいいビーチパラソルを見つけて欲しいと、プレイヤーに頼んでくるのだ。
「海水浴に来ても寝そべっていたいってアルファさんを彷彿とさせる……」
などと失礼な事を駆が言い出したので、肘で駆をつつく。
「私は日々の労働で疲れてるし、てでぃべあは泳げないんだからしかたないじゃん!」
別に私も本気で怒っている訳ではないので、笑いながら言う。
「いつもお仕事お疲れ様です!」
駆は深々と頭を下げてみせたが、頭を上げた後二人で顔を見合わせて笑い合った。
 駆は我が家にやって来て時間が経つにつれて、本当によく笑うようになった。以前はおずおずと笑うだけだったのに、今では箸が転んでもおかしい年頃の娘のようにちょっとしたことで笑っている。駆を見ていると表情筋はどんどん使っていかないとダメなのだとだとしみじみ感じてしまう。笑う門には福来るとは良く言ったもので、一日一回大笑いすると免疫力がアップすると聞いたことがあるらしいし。
 ひとしきり笑ってから、早速謎を解く事にするが、取り掛かる前に謎解き初心者の駆に簡単な説明をしておく。
「謎解きを作る団体毎に癖があるから必ずこうとは言えないんだけどね、電車での謎解きのパターンとしては小冊子に掲載されている複数の謎をセットで解いて、答えとして導き出された文字を組み合わせたりして、次の行き先を決定する流れかな。謎自体も小冊子を見ただけじゃ解けないように工夫されていて、最初の謎を解いて指定された場所に行くとヒントが提示されるから、そのヒントを元に新たな謎を解き次の場所に行くという流れ。つまり移動してヒントをゲットしないと絶対に謎は解けない構造になってる。どうしても謎が解けない時はLIMEのトーク画面で助けを求めるとヒントがもらえるようになってる訳」
「なるほど」
駆が感心する。
「こういった謎解きって単に謎解きを提供するだけではなく、切符を買ってもらったり、地元で消費してもらったりする事が目的なんだね」
「主催者側の目的は実際そっちだよね。楽しんでもらいつつしっかり消費してもらわないと。実際経済効果はすごいって記事で読んだことあるよ」
と私はミニ知識を披露する。

 最初の謎は小手調べなのか簡単な迷路だけだった。文字が沢山書いてある一筆書きの迷路を解いて、出てきた単語を繋ぎ合わせ出てきた場所に向かって、そこで動物を見つけろという指示だったのだが、指示された場所は千葉駅のすぐ近くだった。目的地へ向かうと、そこの柱にはチラシと同じイラストのひっそりぐらし謎解きの大きな宣伝ポスターが貼ってあったのだが、実はその右下に目立たないように小さくタヌキのイラストも印刷されていた。
 「タヌキ、ね」
私達はそのキーワードを小冊子にメモし、次の行き先を確定させるために二番目の謎に取り掛かる。二番目の謎は暗号だった。これは『たぬき』、すなわち『た』を抜けという意味なのだが、沢山の平仮名が書いてある文章から『た』だけを消して読むと、次行くべき駅名と具体的な行き先がはっきりと現れる。これは初歩的な暗号で、ここでいきなり参加者の心折れるような難問が出てきたら、ライトな層はそれだけで挫折してしまうだろうという製作者側の配慮を感じるものだった。
 暗号が示した行き先は内房線と外房線の合流する駅、蘇我駅の近くにある公園だった。蘇我駅は内房線の起点であり、今回は謎解きの対象ではないが京葉線の終点でもあるターミナル駅だ。内房線とは房総半島のうち、東京湾に面している側の路線であり、外房線は逆に太平洋側に面した路線となっている。
 私達以外にも謎解きをしている人々が歩いているのが見えたので、指定された蘇我駅近くの公園まで急ぎ足で歩いていったのだが、公園の北の片隅には暗号で指定された『休憩するところ』すなわち木製ベンチが設置されており、ベンチの裏側の足には見えないように水色のギフトボックスがしっかりと括りつけられていた。
 私達はギフトボックスの蓋を開けると、QRコードを読み取る事で、無事ビーチパラソル(のデータ)と次なるヒントをゲットすることができた。謎解き仲間達の邪魔にならないようにちょっと移動してから、読み取ったQRコードのリンク先を見る。ビーチパラソルを受け取ったてでぃべあはサングラスをかけると、大喜びでシートを敷いた砂浜に寝転がるというちょっと凝ったミニアニメーションを鑑賞することができたのだった。

 「よく出来てるよねー」
駆が人目につかないように上手に隠されたギフトボックスに感心したようだった。
「これ見よがしに置いてあったら、心無い人間に壊されちゃうかもしれないし」
と私がため息をつくと、「そんなー」と駆の形の良い眉が八の字になる。
「だって、謎解き期間三か月もあるんだよ。終わるまで無事でないと……」
「確かに。せっかく来たのに、壊されてたり盗まれたりしたら残念だよね……」
駆がしみじみと言う。私が観測する限り謎解き民は概してモラルが高い。ネットで謎解きのタイトルを検索してもルールに従っており、ネタバレをアップするようなつまらない事をする輩はほぼいないのだ。しかし公共の場所に置いてある以上破壊される危険は常に付きまとう。
 小冊子を持っている私達が長く公園に立っているだけでネタバレの恐れがあるため、急いで蘇我駅に戻りながら私は駆に話しかけた。
「この謎解きはずっとこんな流れで進むみたいだね。四キャラ全員こんな感じで欲しいアイテムを見つけてあげたら、最終章がウェブで開示され、これを解くことでようやく謎解きが完了しキーワードが入手できるから、これをアンケートフォームに投稿することで抽選で限定グッズをもらえるという流れみたい。先は長いぞ、頑張ろう!」
「まだ始まったばかりだけど、ワクワクする!」
駆が無邪気な笑みを浮かべる。
「今までこんなイベントがあるなんて全然知らなかった」
「存在を知らないと、ポスターが貼ってあっても案外目に入らないものじゃない?」
実際謎解きイベントは頻繁に行われているのだが、それが何か知らなければポスターを見ても通り過ぎてしまうだけだろう。
「そんなものかもね……」
駆は納得したように頷いた。

 蘇我駅まで到着した後、私達はいったん駅ナカのカフェに入った。実はここで小冊子は二つのルートに分岐する。内房線メインコースと外房線メインコースだ。そのまま読み進めると内房線コース。外房線コースはページが飛ぶようになっている。それぞれのページがシールで袋とじになっているので、内房線を選ぶ場合は手前のシールを剥がす仕組みだ。どちらでも同じように楽しめますと書いてあるが、事前に駆のためにとあるサプライズを準備していた私はさりげなく内房線コースに誘導する。
「君は太平洋は見飽きているだろうから、東京湾を先に見る内房線メインコースにしよう!」
 岩手県出身で東京周辺の地理に疎い駆は、深く考える事なく同意してくれた。上京してからというもの、遠くに遊びに出かけるのはテニスサークルの付き合いくらいだったそうだ。そうやって出かける時は駆が必ずレンタカーの運転手になっていたという話が泣ける。頼まれたら断れない性格をとことん利用されていたのだろう。
 そのサークルを辞めた今となっては、移動がうちと大学とバイト先の往復だけになっている。私が連れ回さない限りどこにも行かなそうである。それを寂しいと感じるのは私のエゴでしかないのは重々承知しているが、それでも駆には楽しんでもらいたかった。

 カフェでブレンドコーヒーを飲みながら小冊子の第二章を読む。今度は『かめ』の探してもらいたいもののようだ。リクガメであるかめは泳げない。でも海で泳いでみたい。だから身体のサイズにあった浮き輪が欲しいのだそうだ。
 続けて提示された謎を解き始める。迷路、暗号と続いて今度はクロスワードパズルだ。解いた単語の指定された箇所の文字を繋ぎ合わせて行き先を確定するというタイプの謎解きである。
 千葉県にまつわる単語が沢山出てくるので、私達はスマホを活用しながらクロスワードを解き始めた。これは一旦カフェに入って正解だった。
「なになに、千葉県で一番高い山は?」
埼玉県人の私が知るはずがない。駆が調べてくれる。
「[[rb:愛宕山 > あたごやま]]だって。えっ、たったの408メートル!?」
駆が絶句した。私も驚くしかない。埼玉県で一番高い山、三方山(さんぽうざん)は2483メートルだというのに。とりあえず小冊子に『あたごやま』と記入する。続けて、千葉県が生産量全国一位を誇る果物とはという問いである。答えは梨だそうだ。
 千葉県の事を全然知らない人間二人が解いていったため、クロスワードはやたら時間がかかってしまったが、スマホという文明の利器があったおかげで何とかクリアできた。次のヒントのある場所は木更津駅近くの神社という事が判明したのである。
 内房線・君津行きの電車を待つために私達はホームに立った。少し離れたところには同じ小冊子を持った親子連れが何組かいて、皆楽しそうにおしゃべりをしている。
「クロスワード意外に難しいね」
駆がぼやいた。私も笑うしかなかった。
「仕方ないよ、私達は千葉県民じゃないし」
その時駆が親子連れを見つめながらつぶやく。
「夏休みだからやっぱり親子連れが多いんだね……いいな……」
「おう、そうだね」
その時の私は深く考えることなく相槌を打ってしまった。

 千葉方面から、横須賀線に乗り入れている青とクリーム色のラインの車両がやって来た。下り方面なのでさほど混んではいない。後発の謎解きの同志達が降りていき、代わりに私達が乗り込んだ。ロングシートに腰かけると、駆が話しかけてきた。
「アルファさん、謎解き詳しいね」
「そりゃー、アナログゲーム研究会の元部長だもの。けっこうあちこちの謎解きやり込んだよ」
 謎解きと一言で言っても色々なタイプがある。観光客目的の自治体主催型もあれば、今回のように鉄道会社主催型もある。規模が大きいものになると県主催で一つの県丸ごと動き回らないと全問正解できない恐ろしい謎解きもあるのだが。
「学生時代、サークルの同志でとある県主催の謎解きにチャレンジしたことがあるんだけど本当に大変だった。レンタカー借りて指定場所に行くんだけど、全く人がいなさそうな山だったり、ものすごい坂道だったり、途中でいきなり大雨が降ってきて親切な地元の人に雨宿りさせてもらったこともあるし、遭難する~って真剣に思った時もあったくらい」
私は当時のことを思い出し苦笑する。
「謎解きってけっこう脳みそ使うのに身体も使うんだね」
初めて謎解きを経験する駆は、この謎解きが子ども向けのはずなのに内容がけっこう難しいことに驚いていた。単なる知識だけではなく時には一種のひらめきも必要な事もある。
「そうなんだよ。君の大学が落ち着いたら一度謎解きの旅に行きたいね。全国各地で開催されているから」
「え、本当に?」
駆は驚いたように目を瞬かせた。
「私も色々あったからしばらく旅に行ってなかったけど、君が旅行嫌いでなければどこか行きたいなあって常々思ってたんだけど、ダメ?」
「いいね!」
右手を握りしめた。
「オレはどこでもかまわないよ。レンタカーなら喜んで運転するし。アルファさんがイヤでなければ、だけど」
「やったー!」
 私は座ったまま小躍りした。駆が交通事故で両親を失った私に気を遣ってくれるのは承知している。でも幸い、と言うべきなのか、私は自動車自体にトラウマはなかった。下手な運転だけは絶対に乗りたくないけど。駆はキッズシッターでほぼ毎日送迎もしているし、安全運転は信頼できると思っている。車でないと行きにくいけど行ってみたいところは山のようにある。旅行が趣味なのに運転免許を持っていないと本当に不便なのだ。
「君が進級出来たらまずは春休みにどこか行こうよ」
「うん、そうだね! そのためにも勉強頑張らなくては!」
駆が嬉しそうに微笑んだのだった。

 蘇我から30分ほどで木更津駅である。木更津は東京湾アクアラインやアウトレットで有名な場所だが、我が家には自動車がなかったためこれまでは無縁の場所だった。
 地図を見ながら指定された神社へ向かう。ここで探すのはあくまで浮き輪の在り処を示すヒントなのだが、そのヒントはひっそりと神社の掲示板に紛れていた。ひっそりぐらしなだけに。
 神社にあったベンチに座って新たな謎解きをする。今度の謎解きは点つなぎのバリエーションだった。ヒントを頼りに小冊子に印刷されている文字と文字をつないで浮き輪の在り処が浮かび上がってくる。結果、浜金谷駅の周辺にある商業施設だという事が判明した。
 木更津駅やその隣の君津駅までは比較的電車の本数は多いのだが、ここから先は時間との勝負になってくる。昼間の普通列車は一時間に一本しかなくなってしまうのだ。幸い今10時過ぎだが、10時台の下りには十分間に合いそうである。私は自分のリュックから折り畳みの日傘を取り出した。真夏だけあって気温は上昇し歩くだけで汗が吹き出してくる。これだけで疲れてしまいそうだ。一方駆は汗こそかいてはいるものの、暑さなど全く平気そうだった。
「君、寒いところの出身なのに暑いの平気なんだね」
私が少し前を歩いている駆に話しかけると、駆は振り向いた。
「意識して暑熱順化してるから。インドア派のアルファさんは絶対してないよね?」
考えてみればこの男、真夏の炎天下、テニスコートで三時間以上にわたってプレイできる体力おばけだった。
「あのー、山城先生、暑熱順化ってどうやるんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。駆は暑くなる前にウォーキング、ジョギングしたりストレッチして汗をかいて身体を暑さに慣れさせる事と説明してくれたが、生来怠け者の私は耳を塞ぎたくなることばかりだった。
「今日は丸一日天気がいいみたいだし、無理するとアルファさん簡単に熱中症になりそうだ」
「そうかも……」
「こまめに休んでいった方が良さそうだね」
「ごめん……」
恥ずかしさのあまり顔から火が出る思いだった。だが駆は笑顔で首を振った。
「気にしないで。アルファさんみたいにデスクワークに追われてたらそうなるって。これからも忘れずに水分摂っていこう!」
「はーい、先生」
駆先生は優しい。私は素直に事前に買っておいたスポーツドリンクを飲む。熱中症になってこの旅を台無しにしたくなかった。

 浜金谷駅のある金谷自体は小さな町だが、観光スポットの多いところだった。ロープウェイがある鋸山や、対岸の横須賀と繋がっている東京湾フェリーがあったり、さらには海鮮料理が売りの飲食店もあちこちにあるようだ。
 浜金谷駅に到着した後、指し示された大き目の商業施設へと急いで向かった。そこの無料休憩所の片隅に置いてある観葉植物の鉢に、目立たぬようペパーミントグリーンのギフトボックスが括りつけてあった。急いでQRコードを読み取りそそくさとその場を離れてから、近くにあったベンチに座りミニアニメを鑑賞する。
 かめに大きな浮き輪を渡してあげると、かめはのんびりマイペースで砂浜を歩いてから、大喜びで念願の海水浴を始めたのだった。
「良かったね~」
私達は我が事のように喜んだ。それから今度はみにぶたの欲しいものを入手するために第三章の新たな謎を解き始める。
 みにぶたの欲しいものはビーチボールだった。仲間達と砂浜でビーチバレーをしたいようだ。LIMEで入手したヒントを元に新たな謎、漢字の『へん』と『つくり』を分解して別な漢字を作るというものなのだが、私達は入手したヒントを誤読してしまったらしく、意味が通じる漢字が出来なくてしばらく四苦八苦してしまった。駆が自分達の間違いに気が付き、なんとか正解にたどり着いて、ようやく正解の館山駅の近くにある海岸という答えに辿り着いた時には、浜金谷駅の次の電車が到着する時間が迫っていた。ここで早めのランチにするという選択肢もあったのだが、気持ち的に先を急ぎたかった私達は館山でランチにすることに決め、急いで浜金谷駅に向かう。

 私達――より正確に言うなら私だけが息を切らしながら必死に走っていたのだが、同様に駅に駆け込んだ四人の家族連れが私達の前を走っていた。お父さんが手にひっそりぐらしの小冊子を持っていたから、私達と同じように謎解きの御一行様だった。
 浜金谷駅のホームは線路に挟まれた島タイプで、列車が下りホームに到着したため、ホームへと続く連絡階段を慌てて下っていたその家族連れが私達より先に列車に殺到していったのだが、階段をちょうど下りきったところで、何と幼稚園生くらいの小さい男の子が私の目の前ですてんと転んでしまった。私は慌ててその子を助け起こしたのだが、その隙に列車の扉がすっと閉まり発車してしまったのだ。運転士さんは私達が目視できなかったのだろうし、駆け込み乗車した残りの家族も男の子が転んだことに気が付かなかったのだろう。
 目の前でさーっと走り去っていく列車を目の当たりにしたことと、転んだ痛みから男の子がわんわん泣き始めた。そりゃそうだろう。私と駆は顔を見合せる。
「とりあえず傷の治療をしよう」
駆が提案した。
「駅舎側にトイレがあるからこの子の傷を洗ってくる」
駆はしゃがみ込み目の高さを合わせると男の子に話しかけた。
「君、大丈夫? 名前は?」
男の子はしゃくりあげながらも何とか頑張って答えた。
「痛いよう……名前は蓮……」
「じゃ、蓮君、君の家族は待っていれば必ず戻って来るから安心して。お兄ちゃんがおんぶしてあげるから傷を洗ってしまおう。バイキンが入ると大変だからね」
蓮君はうんと頷く。
 駆は私に背負っていた重たい黒いリュックを「持っててもらえますか」と言いながら手渡すと、蓮君を背負い階段を上っていく。その後ろを追いかけてからトイレの前で待機しつつスマホで蓮君の家族が戻ってくる時間を確認する。ありゃりゃ、一時間後だ。お昼時は一時間に一本しか走っていないのだから仕方がない。とりあえず駅の待合室で待っていれば一時間後には家族と再会できるだろう。
 駆は蓮君の傷を丁寧に洗ってくれたらしい。膝と肘に擦り傷が出来ていて痛々しい。私はたまたま買ってあったひっそりぐらしの絆創膏を自分のリュックから取り出すと、蓮君に見せた。
「どれ貼って欲しい?」
蓮君はちょっと考えてから、はりねずみとてでぃべあを指差した。「好きなの?」と尋ねると、お兄ちゃんとお姉ちゃんのポシェットと同じだからと答えた。私は嬉しくなってにこにこしながら絆創膏を蓮君に貼ってあげる。
 しばらく列車は来ないので駅の待合室で待つことにするが、さすがに7月末だ。走ったこともあって暑くて仕方ない。私は携帯型扇風機を取り出し蓮君に貸してあげる。駆は駅の外にあった自販機で蓮君のためにオレンジジュースのペットボトルを買って戻ってきた。
「しばらくここで待ってようね」
オレンジジュースを渡しながら駆が蓮君に言う。蓮君は気丈にこくりと頷いた。
 この時駅員さんが私達に話しかけてきた。どうやら蓮君の親御さんが駅に電話を掛けてきて、次の上り列車でご家族が戻って来ると伝えたらしい。それを聞いた蓮君はようやくほっとしたようだ。初めて笑顔を見せる。
 駅員さんが駅員室で蓮君を預かろうと言ってくれたが、駅員さんも仕事があるだろう。私達は顔を見合わせ互いに頷くと、ご家族と合流できるまで蓮君の相手をすることを伝えた。駅員さんは申し訳なさそうに頭を下げると、何かあったら遠慮なく声をかけて下さいと言って駅員室の方へ戻って行った。駅員室からは待合室が見えるようになっており、駅員さんは時折私達の様子を確認しているようだった。

 家族とはぐれ心細いであろう子どもと一緒にいるのに無言という訳にもいかないので、退屈させないように待合室の椅子に蓮君を挟んで腰かけると、私達は代わる代わる蓮君に話しかけた。
「蓮君はいくつ?」と私。
「むっつ」
幼稚園年長のようだ。
「どこに住んでいるの?」と駆。
「千葉」
きっと千葉市のことを指しているのだろう。
「ひっそりぐらし、好き?」
と私が尋ねると、蓮君は正直に答えた。
「ひっそりが好きなのはお姉ちゃんとママ。オレとパパは付いて来ただけ」
その年齢で自分の事を『オレ』って呼ぶんだと感心してしまう。
「だけど映画は映画館まで見に行ったよ。お姉ちゃん達映画見た?」
ごめん、私は見てなかった。しかし駆は力強く頷く。
「見たよ。お兄ちゃん、最後泣いちゃったな」
「え、そんなおっきいのに泣くの?」
蓮君にびっくりされ、駆は苦笑した。
「感動したら大人だって泣くんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「じゃあ、蓮君は本当は何が好きなの?」
蓮君はサッカー!とすかさず答えた。
「サッカー教室に通ってるんだ」
どこか誇らしげだ。
「お兄ちゃんはサッカーやってる?」
駆は首を振った。
「サッカーは体育の授業でやっただけだよ」
「じゃ、スポーツ何やってんの?」
「テニスをちょっとね……」
ちょっとどころじゃないだろうと突っ込みたかったが、私は黙っていることにした。
「サッカーやろうぜ」
蓮君は何故か駆を勧誘してくる。駆は笑った。
「うん、今度やってみるよ」
「お兄ちゃん、他に何かやってないの?」
駆の背が高いので気になって仕方ないのだろう。駆は少し考えてから答えた。
「小学生の頃は剣道やってたよ」
「マジ? かっこいいじゃん」
 今子供たちの間で流行っている漫画のタイトルを挙げながら、やってみせてよとねだってくる。駆は困ったような表情になったが、自分のリュックから折り畳みの傘を取り出すと柄だけを伸ばした。上段や中段の構えを説明してみせてから、軽く素振りの真似をする。
「こんな感じだよ」
駆が剣道の動きをするのを見るのは初めてだったので、私も感心してしまう。動きに切れがあって、中学に入学する前に止めたとはとても思えなかった。
「どうしてやめたのさー」
子どもの無邪気な質問は駆にぐさぐさと刺さったようだが、駆は笑いながら流した。
「あの頃テニスのアニメが流行ってたんだよ」
「ちなみに剣道何段なの?」
剣道のことなど何も知らない私が口を挟むと、駆が首を振ってみせた。
「オレ段位なんて持ってないよ。だって初段取れるの十三歳からだから。つまり1級で終了」
「えー、そうだったの?」
「それじゃ履歴書にも恥ずかしくて書けないし、なんか中途半端だよね……」
そう言って駆が苦笑した。駆の兄、匠が自分よりも上手だったと惜しんでいたが、確かに1級で終わらせるのはもったいなかっただろう。
 その後、蓮君は今遊んでいるゲームの話を振ってきた。駆は小二の双子男児のキッズシッターをしている関係から最近の子ども達の間で流行っているゲームにも詳しく、蓮君と話がちゃんと通じている。
 そうこうしているうちに上り列車がやってくる時間となり、駅員さんが私達に声をかけてくれたので、私達はそろってホームに移動したのだった。その駅員さんは他の乗客対応をした後、私達の傍に近づき蓮君の家族が来るのを私達と一緒に待ってくれた。

 蓮君の両親とお姉ちゃんは列車が到着し扉が開くなり、蓮君めがけて飛び出して来て、一時間ぶりの感動の対面となった。蓮君一人取り残されていたら色々大変だっただろうから私達が後ろにいて結果的に良かったのだろう。
 両親は私達に何度も礼を言った。それから小学二、三年くらいの蓮君のお姉ちゃんが、少女雑誌の付録なのだろうか、私達にお礼と言ってひっそりぐらしのシールをくれた。
 一家は浜金谷駅周辺で食事をすることにしたようで、飲食店のある海の方へ向かう事を蓮君に説明していた。蓮君はお母さんと手を繋ぐと、私達の事を「はりねずみのお兄ちゃんとてでぃべあのお姉ちゃん」と呼んでから大きく手を振り「バイバーイ」と言いながら別れたのだった。
 私達は蓮君たちの姿が見えなくなるまで手を振ったが、実は私達も浜金谷駅周辺で食事しなければいけない。というのも上りの列車が来る前に下りの列車が行ってしまい、次は更に一時間後だったからだ。予定は未定、とはよく言ったものだ。
 蓮君の前では言えなかったが非常に空腹を抱えていた私達は、予めスマホで情報を調べていた駅近のピザが美味しいと評判の店に急いで向かったのだった。
 絶品のマルゲリータとシーフードピザで満腹になった私達が浜金谷駅へと戻ると、再び蓮君一家と遭遇する。互いに軽く頭を下げ合うと、上総一ノ宮行きの同じ列車に乗り込んだ。私達とは少し離れたところに座っている蓮君は、とても楽しそうにお父さんとおしゃべりをしていた。
 「無事落ち合えて本当に良かった」
駆がしみじみと言う。私も同意する。あの時駆は何のためらいもなく蓮君に手を差し伸べていたが、その一連の行動は私にはとても好ましく見えた。あの時駆が蓮君を駅員さんに任せて先を急いでいたら、駆に対する気持ちは少し冷めてしまったかもしれない。だが蓮君を家族に会わせるまで、駆はイヤな顔一つせずに話し相手をしてくれた。そして今も心から再会できたことを喜んでいる。なんて気持ちのいい青年なのだろう。私はその端正な横顔を見つめながら思わず胸がときめくのを覚えたのだった。

 列車は乗車25分ほどで館山駅に到着した。オレンジ色の屋根と白い壁が印象的な館山駅はもちろんの事、その周辺も南ヨーロッパを思い起こさせるような建物が並んでおり、通りにはヤシの木が植えられている。館山は房総半島の中でも南国気分を味わえる一大観光スポットであり、駆もかつてテニス合宿で来たことがあったらしい。
 当然蓮君一家もここで降りたのだが、私達は敢えてヒントがあるはずの海岸にはすぐに向かわなかった。向かってしまうと足が早い上に人並み以上にでかくて目立つ私達がネタバレになってしまう事は明らかだったからだ。代わりに海岸とは逆方向の出口から出てお土産屋に入る。
 「前にサークルで謎解きしに行った時経験した話なんだけどね、どこに行っても同じ親子連れと出会っちゃって、それは謎解きの仕様上仕方のない事なんだけど、終いには私達の後を追えば大丈夫とか言われちゃって、それも何だかなーって」
私は自分達で食べるためのお土産を吟味しながら駆に説明した。
「それって既に謎解きじゃないじゃん。謎解きは自力で解かなくちゃ。そのためのヒントもあるんだし」
「そうだね。せっかく家族で楽しく謎解きしてるんだものね」
びわゼリーを眺めていた駆も相槌を打った。
「でもいいなあ、家族でわいわい謎解きするの。夏休みのいい思い出になりそう」
その声には隠しきれない羨望が混じっている。
「そうだね……」
私は大人になってもそう言わずにはいられなかった駆の気持ちに切なくなりつつ、気を紛らわすように自家用にびわはちみつを購入するため手に取ったのだった。

 遅れて館山駅近くの海岸にある石碑まで歩いて行ったため、既に謎解き仲間達は誰もいなかった。無事石碑の下辺りにヒントの書いてあるパネルを見つけたのだが、今度は数字に変換されている単語を解読し、次の行き先を解明する謎解きだった。例えば、五十音のあいうえおが1112131415、かきくけこが212223222425といった具合に設定されており、そのルールで数字が大量に小冊子に記載されているので、一字一字変換していくというものだ。時間さえあれば確実に解けるのだが、数字の数が単純に多く二人で協力しながら小冊子にメモしていくしかなかった。
 この変換の結果、みにぶたの欲しがっているビーチボールの在り処が安房鴨川駅の周辺にある公園だという事が判明した。そのため15時半の上総一ノ宮行きの列車に乗車する。安房鴨川駅は内房線と外房線が交差する駅であり、近くにはシャチがいることで有名な大型水族館もある。
 車窓から時折見えるきらきらと輝く美しく青い海を眺めながら、私はふと思い出してこう言った。
「君のさっきの剣道の仕草かっこよかったよ。君は姿勢もいいし正座も様になっているし、途中で止めたとはいえ日常の所作がけっこう剣道に影響されてるよね?」
「その件に関しては確かにそうなんだろうな。オレも別に止めなくても良かったのかななんて今なら思ったりもするけど、あの頃は毎日止めたくて止めたくて仕方なかったから」
「防具が臭かったって話?」
「あれは嘘も方便だよ。 確かに臭いのは気になってたけど」
何だってー!? 私は目をむいた。どういうこと?と問い詰めると、駆は説明してくれた。
「小三までは兄さんと一緒に道場に通っていたからとても楽しかったんだ。だけど兄さんが中学生になって道場から離れたらとたんに一つ上の上級生からのいじめが始まって……」
 誰もいないところでつねってきたり蹴られたりと執拗ないじめはその上級生が中学生になるまで続いたそうだ。駆が小六になった時いじめから解放されたものの、自分が中学生になって剣道部に入部すれば、その上級生からのいじめが再開するのではと恐れおののいたのだという。
「周囲には相談できなかったの?」
「しても信じてもらえなかったと思う。その上級生は大人の受けが良かったし、親に言ったところでやり返せばいいだけだとか言われちゃうだけな気がしたから」
 いじめを大人に相談することの無力感は私もよく知っている。だから大抵の子は我慢してしまうのだ。ましてや駆のように親から厳しくされている子だったら相談などできるはずがない。
「そっか……」
「実際その上級生はオレが中二の時剣道部の部長になっていたから、続けなくて正解だったと思ってる。年上の兄さんに対してはへこへこしていたくせに、オレにはやたら強気で本当にイヤなヤツだった……」
「いるいる、そういうヤツ」
「オレの性格が相手を苛つかせるのかな……」
 駆は遠い目をした。だけど私は違うと思った。駆は本人が思っている以上に優れているから妬ましかったのだろう。恵まれた身体に加えて運動神経が良く、おまけに整った顔立ちまで兼ね備えているのだから。いじめてくる理由は手に取るようにわかるが、私は敢えて何も言わなかった。
 その代わりに尋ねる。
「テニスを選んだ理由はさっき言ったように本当にアニメなの?」
「アルファさん……オレ家じゃ漫画と同じようにアニメもろくに見せてもらえなかったんだよ……」
「ああ……アニメもか……」
今度は私が遠い目をした。すると駆がテニスを選んだ理由を説明してくれる。
「中学の部活で球技をしたかったけど、オレって団体競技はとことん向いてなくて。それこそサッカーとか野球とか大勢でやる競技はまるでダメだった。理由は自分じゃよく分からないけど、オレと組むとプレイがやりにくいって同級生達から文句言われて。ラケットを使う個人競技で中学で部活があったのが硬式テニスと卓球しかなかったんだ」
一人だけ運動神経がずば抜けていたら、周囲は合わせにくかっただろうなと思ってしまう。
「卓球にしなかった理由は?」
「卓球は卓球台が狭いじゃない? 広いところで存分に走り回りたかったんだよね」
「なるほど」
駆なりに一生懸命考えてテニスを選んだのだろうと納得する。
 この後、私は素朴な疑問を口にした。。
「ねえ、山城家ではアニメもゲームも漫画も禁止だったんでしょ。皆さん夕食後何をやっていたの?」
私には全く山城家の様子が想像できなかったのだ。
 駆は肩をすくめた。
「母さんは大抵自分の書斎で持ち帰った仕事をしていたし、父さんはまれに帰ってきた時はリビングで新聞か本を読んでいて、場合によっては別室で仕事の電話対応。兄さんはよくダイニングテーブルで勉強してた。広々していていいからだって……。オレは……居心地が悪いから速攻で自分の部屋に戻って勉強やるか、本読んだりバレないようにスマホでこっそりゲーム動画見たりしていた……」
「何て真面目なご家庭なんだ……」
私は嘆息する。
「うちなんて……うちなんて、三人で録画したアニメやドラマ見てるか、誰かがテレビでゲームしてるのを眺めているか、マンガや本読んだりして好き勝手してた……手の空いた人が飲み物を代表で淹れたりして……」
「アルファさんと同居始めた時、アルファさんがリビングで自由にふるまっているのを見て正直驚いた」
私は恥ずかしさのあまり頭に両手をやった。
「穴があったら入りたい……」
「いや、なんかいいなあって思ってた。実家じゃソファに寝転がってテレビ見るとか絶対にできなかったから」
ひゃー、耳が痛い。しかし今更生活態度を改める事なんてできない。
 「しかしオレの実家って本当に変わってるよね。皆バラバラなことしていて、今となっては住んでるところも皆バラバラで……」
駆が呟いた。確かに駆がうちに住む前から、両親息子二人全員違うところに住んでいる訳だし。考えてみれば、男三人全員東京周辺に住んでいるのに別居だったはず。それを指摘したら駆が苦笑した。
「父さんは今はたまたま霞が関勤務だけど、地方勤務もけっこう多くて。兄さんやオレが上京した時はまだ地方にいたんだ。父さんが霞が関に異動になったのが二年前で今は官舎住まい。兄さんは就職後ずっと独身寮生活だから結果皆バラバラ」
「そっか……お父さん、ずっと単身赴任生活なんだね……単身赴任というよりむしろ昔で言うところの通い婚的な感じじゃない? 一人暮らしが常態化していて寂しくないのかな」
私がふとそう言うと、駆は首を傾げた。
「……考えてみると、父さんは仕事が許す限りは帰ってきてたな……。一番遠い時で九州に赴任していたんだけど……」
 九州から岩手に帰るのは飛行機を使っても大変そうだ。そう指摘すると駆は、お母さんが金曜夜になると車で仙台空港まで迎えに行っていたのだと説明してくれる。ちなみにその飛行機代は全て会社役員のお母さんの財布から出ていたそうだ。確かに公務員の給料で毎週往復の航空券代を賄っていたら大変だっただろう。我が家は母親が地方公務員で管理職だったから国家公務員の給料は概ね想像できる。
「仙台空港って実家から遠くない?」
「遠いよ。それでも毎回いそいそと迎えに行ってたっけ。だから帰ってくるのは必ず夜中で。日曜の夕方には空港まで車で送って行って……」
「なんだ、両親ラブラブなんじゃん」
私がそう言うと、駆は何故か驚愕している。
「ラブラブ!?」
「うん。赴任先が新幹線で通えるところならともかく、そんな不便な場所からわざわざ帰ってくるってあまり聞かないよ。普通は金銭的な問題で厳しいだろうし、肉体的にもきついじゃない?」
「言われてみれば……」
駆は頬に手を当て考え込んでしまう。私はこの時まで駆の両親の仲が円満だとは全然思っていなかった。何故そう思い込んでいたのだろう。仲の良い夫婦なら子どもにも当然たっぷりと愛情を注ぐものだと思い込んでいたからだろうか。
 それからしばらくむっつりと黙りこくっていた駆だったが、いきなり怒気を含んだ小さな声を発した。
「父さんを送迎する暇があるんだったら、オレの試合一度くらい見に来てくれたって良かったじゃないか!」
いきなり脈絡もなく怒り始めたので私の方が驚いてしまった。
「ランちゃん……?」
「母さんは仕事が忙しいからって、中学高校と一度だって来てくれたことはなかったのに!」
駆はずっと怒りを心に封じてきたのかもしれない。それがちょっとしたきっかけで、いきなり噴出してしまったようだった。
「学校の参観だってそうだ。忙しい忙しいって言いながら、いつも来てくれたのは母さん以上に忙しいはずのおばあさんだった! なのに実は母さんが兄さんの学級には顔を出していた事をオレは知ってた!」
 いきなり駆の怒りのスイッチが入ってしまった原因は私にあると感じる。迂闊に立ち入ったことを聞いてしまったからだ。でもごめんと謝るのも違う気がして、私は膝の上に置かれていた駆の大きな手にそっと手を伸ばした。
「そうだね、本当に酷いね……」
「アルファ……さん?」
私が触れた事で、駆が我に返ったようだった。
「すみません……ついかっとなってしまって……」
「全然構わない。もっと怒っていいんだよ……」
 私は手を重ねたまま駆の横顔を見つめた。いつもとは全然違う険しい表情に私は泣きたくなる。
「いや、その……」
 駆は周囲をきょろきょろと見渡した。夏休みらしく乗客はそれなりにいたが、皆自分達のおしゃべりに夢中で駆に注目した人は誰もいない。
「……ごめん、オレ、子どもっぽいね……」
恥ずかしそうに目を伏せる。
「いいんじゃない、子どもの時の怒りなんだから子どもっぽくて当然だよ」
うん、そうかも、と駆は俯いたまま小さく頷いた。自分の怒りに戸惑っているようにも見える。
 それにしても仕事を言い訳にして駆だけを蔑ろにするなんて許せなかった。おばあさんはそれを知った上で駆の心の防波堤になってくれていたのだろう。
「君のおばあさんって本当に良い人だね」
 最初におばあさんの話を聞いた時は、イケメン孫にブランド物を買い与え着せ替え人形のように扱っているお金持ちの道楽おばあさんという印象だったのだが、頻繁にスマホに連絡をくれたり、アルバイトを紹介したりと駆のことをとても気に掛けてくれている事を知り、更に今の話を聞いたことで、誰よりも駆の事を大切に思ってくれている大人なのだということを理解した。
「……うん……本当にそう……」
駆は同意した。
「……今思うと母さんがいつもそんな調子でオレを避け続けていたから、学校行事とかではおばあさんがいつも代理をしてくれていた気がする……」
 そんな優しいおばあさんが駆の傍にいてくれて本当に良かったと思う。お母さんが駆を避け続ける理由など私に分かるはずもないが、それでも駆を気に掛けてくれる人が間違いなくいたという事実にほっとする。
「……オレも最近になってようやく気が付いたんだけど……父さんはやたら厳しかったけどオレを避けたりはしなかったんだなって……。休日の学校行事の時は来れる時には欠かさず来てくれていたし……留年の件も大学から実家に連絡が行っていたはずなのに、実際来たのは忙しいはずの父さんだった……考えてみればあの日は平日で、父さんは仕事があったはずなんだ……」
 駆がぽつりぽつりと語ったので私も思い返してみる。確かに駆がLIMEでゲーム仲間に助けを求めてきたあの日は金曜だった。私が代休を取って三連休にした週だったから間違いない。
「言われてみればそうだね……」
 駆の父親は勘当を言い渡すなんてもちろん論外なんだけど、自分なりのやり方で駆と向き合ってはいたんだ。私の中の駆の父親の印象も多少変化する。もちろんテニスの件で決して褒めなかった件に関しては、私は絶対に許していないんだけど。
「……ずっと父さんの事が苦手だったし今でも怖いけど……それでも幼い頃、たまに帰ってきた時は必ず手を繋いで歩いてくれたことが嬉しかったのは覚えている……父さんいつも早足だからこっちは小走りになっちゃってたけど……」
「不器用な人なのかもね……」
 私は幼い頃の父親と駆の姿を想像した。親なのだから本来は子どもに歩みを合わせなければならないのに、それが出来ずに大股ですたすた歩く父親と遅れまいと必死に小走りする幼い駆の姿を。
「……そうなのかもしれない……。子どもの扱い方がよく分からなくて、基準が常に自分で……」
そう言ってから駆がふふっと笑った。
「そう考えたら、今まで全然理解できなかった父さんの事がちょっとだけ分かった気がする……」
 それからふと私の手が載ったままの自分の手に目を落とすと、微かに頬を赤らめた。私はその手を今更引っ込めることもできず、安房鴨川駅に到着するまで手を重ねたままだった。


次のエピソードへ進む 第4章 情けは人の為ならず-2


みんなのリアクション

 7月中旬、私は退勤後新宿から乗った埼京線で、『ひっそりぐらし』の可愛らしいイラストが描かれた吊り広告をたまたま発見した。どうやら千葉の房総半島でひっそりぐらしとコラボした謎解きが開催されるようなのだが、広告から離れたところに立っている事もあって詳細は全く分からない。
 最寄り駅で降りた後、詳細を知るためにチラシを駅構内で探し始めた。それなりに広く、帰宅客で混み合っている駅をかなり歩き回った甲斐あって、お得な切符のチラシと並んで謎解きのチラシを発見できたのだった。
 パステルカラーの優しい色合いのチラシを手に取ると、人通りの少ない片隅に移動してからそれを丹念に読み始めた。どうやら房総半島の内房線と外房線に乗り、謎解きをしながらひっそりぐらしのキャラクター達が欲しがっているアイテムを入手していくという趣向らしい。
 内房線・外房線ともに電車の本数は少なく、ここ埼玉からはえらく遠いので、行こうとするとやたらハードスケジュールが予想されるけど、アナログゲーム研究会の元部長としては謎解き自体に血がたぎるし、駆がひっそりぐらしの大ファンで、なにより7月31日が彼の誕生日と知っている以上、これは参加しろという(私だけの)神からのお告げに違いないと思うことにする。私は小さくガッツポーズをすると、チラシをショルダーバッグにしまい込み駅の外へ出たのだった。
 その翌日、仕事の取引先との打ち合わせの都合でたまたま日本橋まで行く用事があり、そのまま直帰が許される時間だったため、帰宅する前に東京駅隣の地下街に立ち寄ることにする。そこには様々なキャラグッズを扱っている一画『東京キャラクターストリート』があり、ひっそりぐらしも店舗があったのだ。
 いつもは主に親子連れで賑わっているひっそりぐらしの店舗も、平日の夕方だったため思ったよりは客が少なかったため思う存分眺めることができた。店の中の液晶ディスプレイでは、ひっそりぐらしの基本ほのぼの系だけど時折切ない話が容赦なく展開される短編アニメが流されている。
 店の中を三回くらい歩き回りようやくこれだ!とぴんときたものは、ポシェット型のぬいぐるみだった。ぬいぐるみの後頭部がファスナーとなっており小さな物が入れられるようになっていて、ひもは顔の左右に取り付けられている。幸い駆の好きなパステルイエローのはりねずみも、私の好きな水色のてでぃべあも両方あった。まずはこれを買い物かごに入れてから、さらに店内をうろうろする。結局財布のひもが緩み、ポシェット以外にラッピング用の袋に絆創膏、レターセット、ペン、メモ帳など買いまくって専用の可愛い柄のショッパーに入れてもらい、大満足で帰宅の途に就いたのだった。
 とはいえ勝手に謎解きの予定を入れる訳にはいかないので、その日の夕飯が終わった時に、駆に謎解きのチラシを手渡しながら私の計画を説明する。
「君の誕生日幸い土曜日だから、これを解きに房総半島行かない?」
「謎解き?」
駆はきょとんとしつつもチラシを受け取り熟読し始める。
「全問正解すれば、抽選でこのイベント限定のグッズが当たるかもしれないんだよ!」
私はそう付け加えた。
 「…………当たったらいいよね!」
チラシを読み終わった駆は、魅力的な限定グッズの一覧に目を輝かせる。私は駆の反応に好感触を得た。
「だから! 房総半島行こうよ!」
「うん、行こう!」
幸い駆も乗り気になってくれたようだ。
「問題は君のスケジュールだけど、大丈夫そう?」
と私が尋ねると、駆は胸ポケットからスマホを取り出しスケジュールアプリを開く。
「大学の方はその日までには完全に試験が終わってるから問題ない。アルバイトは事前に伝えておけば大丈夫」
「よし、決まりだね! 念のため翌日も予定空けておいて」
「謎解きってそんなに時間かかるの? とりあえず了解。楽しみだな♪」
駆の声が今まで聞いたことがないくらい弾んでいた。
 謎解きに参加するためには、まず専用の有料冊子を入手する必要がある。その冊子を販売しているのは、あいにく千葉駅改札横のコンビニだけなのだ。7月31日当日、私達は物凄く早起きして欠伸をしながら地元の駅で青春18きっぷを入手すると、その足で千葉駅へと向かった。青春18きっぷとはJR全線の普通車自由席が五日間乗り放題なのだが、名前に反して年齢制限はないし、一枚を二人以上で使っても構わない優れモノの切符で、学生時代相当お世話になっていたものである。
 最寄駅から千葉駅へ行くためには、車両にオレンジのラインが入っている武蔵野線に乗り、途中で黄色いラインの総武線各駅停車に乗り換えるのが一番早い。
 朝7時半には千葉駅に到着し、表紙にひっそりぐらしの描きおろしイラストが描かれた小冊子と、その小冊子を挟める同じイラストが描かれたバインダーのセットを二部コンビニで入手する。まずはこれを熟読するところから始めなければならないのだ。
 謎解きのストーリーはいたって単純で、ひっそりぐらしのキャラ達が房総半島のとある海水浴場に遊びに来るのだが、海辺に来てから遊び道具等が足りない事に気が付く。かめ、はりねずみ、てでぃべあ、みにぶた、それぞれが欲しがっているグッズを、プレイヤーが代わりに探して渡してあげるという物語である。
 千葉駅のそばにあったベンチに座って駆は小冊子を早速読み始めた。
「なになに、『てでぃべあはいいました。おねがいだよ、ぼくのためにビーチパラソルをみつけてくれないかな?』」
子どもが国語の教科書を読むように音読している。
「お安い御用さ!」
この台詞はテキストにはなく、駆が勝手にてでぃべあと会話しているだけだ。
 私はくすっと笑ってから、その隣に座ると、東京キャラクターストリートで買ったリボンの付いた巾着型のラッピング袋に入れたポシェット型ぬいぐるみを手渡す。
「ランちゃん、お誕生日おめでとう。ちなみに今日はこれ下げて謎解きしなくちゃダメなんだよ」
駆は目をパチクリさせたが、急いでリボンを解くとぬいぐるみを取り出した。
「うわっ、はりねずみだ。ポシェットタイプは初めて見た!」
年甲斐もなく大喜びしている。
「アルファさん、本当にありがとう! 謎解きに誘ってもらっただけで嬉しかったのに!!!」
私もそれまで隠し持っていたてでぃべあのポシェットを大き目のリュックから取り出し斜めかけにする。本日の私の服装は白いTシャツに淡い青のクロップドジーンズ、白のスニーカーだったが、実は水色のてでぃべあに合わせてきたのだ。
「私はてでぃべあだよ!」
私は得意げに言った。
 紺のポロシャツに黒いスリムジーンズを着ていた駆も同じように斜めかけするが、なまじ上背があるためにぬいぐるみが腰の位置ではなく、サコッシュのようにわき腹で止まってしまっている。
「変じゃない?」
駆ははりねずみと同じような困り顔で尋ねるが、私はとぼけて満面の笑みを浮かべた。
「全然変じゃないよ。とっても可愛い、似合ってる」
 駆は疑り深い表情をして私を見るが、ひっそりぐらしのぬいぐるみを堂々と下げて歩けるという喜びの方が勝ったらしく、ポシェットはそのままにして鼻歌を歌いながら小冊子のテキストの続きを読み始める。私も自分の分の小冊子を開いた。
 第一章はてでぃべあが欲しがっているものを見つける物語だった。てでぃべあは元々ぬいぐるみである。それ故に海水浴ができない。そこで砂浜でのんびり寝そべるために、ちょうどいいビーチパラソルを見つけて欲しいと、プレイヤーに頼んでくるのだ。
「海水浴に来ても寝そべっていたいってアルファさんを彷彿とさせる……」
などと失礼な事を駆が言い出したので、肘で駆をつつく。
「私は日々の労働で疲れてるし、てでぃべあは泳げないんだからしかたないじゃん!」
別に私も本気で怒っている訳ではないので、笑いながら言う。
「いつもお仕事お疲れ様です!」
駆は深々と頭を下げてみせたが、頭を上げた後二人で顔を見合わせて笑い合った。
 駆は我が家にやって来て時間が経つにつれて、本当によく笑うようになった。以前はおずおずと笑うだけだったのに、今では箸が転んでもおかしい年頃の娘のようにちょっとしたことで笑っている。駆を見ていると表情筋はどんどん使っていかないとダメなのだとだとしみじみ感じてしまう。笑う門には福来るとは良く言ったもので、一日一回大笑いすると免疫力がアップすると聞いたことがあるらしいし。
 ひとしきり笑ってから、早速謎を解く事にするが、取り掛かる前に謎解き初心者の駆に簡単な説明をしておく。
「謎解きを作る団体毎に癖があるから必ずこうとは言えないんだけどね、電車での謎解きのパターンとしては小冊子に掲載されている複数の謎をセットで解いて、答えとして導き出された文字を組み合わせたりして、次の行き先を決定する流れかな。謎自体も小冊子を見ただけじゃ解けないように工夫されていて、最初の謎を解いて指定された場所に行くとヒントが提示されるから、そのヒントを元に新たな謎を解き次の場所に行くという流れ。つまり移動してヒントをゲットしないと絶対に謎は解けない構造になってる。どうしても謎が解けない時はLIMEのトーク画面で助けを求めるとヒントがもらえるようになってる訳」
「なるほど」
駆が感心する。
「こういった謎解きって単に謎解きを提供するだけではなく、切符を買ってもらったり、地元で消費してもらったりする事が目的なんだね」
「主催者側の目的は実際そっちだよね。楽しんでもらいつつしっかり消費してもらわないと。実際経済効果はすごいって記事で読んだことあるよ」
と私はミニ知識を披露する。
 最初の謎は小手調べなのか簡単な迷路だけだった。文字が沢山書いてある一筆書きの迷路を解いて、出てきた単語を繋ぎ合わせ出てきた場所に向かって、そこで動物を見つけろという指示だったのだが、指示された場所は千葉駅のすぐ近くだった。目的地へ向かうと、そこの柱にはチラシと同じイラストのひっそりぐらし謎解きの大きな宣伝ポスターが貼ってあったのだが、実はその右下に目立たないように小さくタヌキのイラストも印刷されていた。
 「タヌキ、ね」
私達はそのキーワードを小冊子にメモし、次の行き先を確定させるために二番目の謎に取り掛かる。二番目の謎は暗号だった。これは『たぬき』、すなわち『た』を抜けという意味なのだが、沢山の平仮名が書いてある文章から『た』だけを消して読むと、次行くべき駅名と具体的な行き先がはっきりと現れる。これは初歩的な暗号で、ここでいきなり参加者の心折れるような難問が出てきたら、ライトな層はそれだけで挫折してしまうだろうという製作者側の配慮を感じるものだった。
 暗号が示した行き先は内房線と外房線の合流する駅、蘇我駅の近くにある公園だった。蘇我駅は内房線の起点であり、今回は謎解きの対象ではないが京葉線の終点でもあるターミナル駅だ。内房線とは房総半島のうち、東京湾に面している側の路線であり、外房線は逆に太平洋側に面した路線となっている。
 私達以外にも謎解きをしている人々が歩いているのが見えたので、指定された蘇我駅近くの公園まで急ぎ足で歩いていったのだが、公園の北の片隅には暗号で指定された『休憩するところ』すなわち木製ベンチが設置されており、ベンチの裏側の足には見えないように水色のギフトボックスがしっかりと括りつけられていた。
 私達はギフトボックスの蓋を開けると、QRコードを読み取る事で、無事ビーチパラソル(のデータ)と次なるヒントをゲットすることができた。謎解き仲間達の邪魔にならないようにちょっと移動してから、読み取ったQRコードのリンク先を見る。ビーチパラソルを受け取ったてでぃべあはサングラスをかけると、大喜びでシートを敷いた砂浜に寝転がるというちょっと凝ったミニアニメーションを鑑賞することができたのだった。
 「よく出来てるよねー」
駆が人目につかないように上手に隠されたギフトボックスに感心したようだった。
「これ見よがしに置いてあったら、心無い人間に壊されちゃうかもしれないし」
と私がため息をつくと、「そんなー」と駆の形の良い眉が八の字になる。
「だって、謎解き期間三か月もあるんだよ。終わるまで無事でないと……」
「確かに。せっかく来たのに、壊されてたり盗まれたりしたら残念だよね……」
駆がしみじみと言う。私が観測する限り謎解き民は概してモラルが高い。ネットで謎解きのタイトルを検索してもルールに従っており、ネタバレをアップするようなつまらない事をする輩はほぼいないのだ。しかし公共の場所に置いてある以上破壊される危険は常に付きまとう。
 小冊子を持っている私達が長く公園に立っているだけでネタバレの恐れがあるため、急いで蘇我駅に戻りながら私は駆に話しかけた。
「この謎解きはずっとこんな流れで進むみたいだね。四キャラ全員こんな感じで欲しいアイテムを見つけてあげたら、最終章がウェブで開示され、これを解くことでようやく謎解きが完了しキーワードが入手できるから、これをアンケートフォームに投稿することで抽選で限定グッズをもらえるという流れみたい。先は長いぞ、頑張ろう!」
「まだ始まったばかりだけど、ワクワクする!」
駆が無邪気な笑みを浮かべる。
「今までこんなイベントがあるなんて全然知らなかった」
「存在を知らないと、ポスターが貼ってあっても案外目に入らないものじゃない?」
実際謎解きイベントは頻繁に行われているのだが、それが何か知らなければポスターを見ても通り過ぎてしまうだけだろう。
「そんなものかもね……」
駆は納得したように頷いた。
 蘇我駅まで到着した後、私達はいったん駅ナカのカフェに入った。実はここで小冊子は二つのルートに分岐する。内房線メインコースと外房線メインコースだ。そのまま読み進めると内房線コース。外房線コースはページが飛ぶようになっている。それぞれのページがシールで袋とじになっているので、内房線を選ぶ場合は手前のシールを剥がす仕組みだ。どちらでも同じように楽しめますと書いてあるが、事前に駆のためにとあるサプライズを準備していた私はさりげなく内房線コースに誘導する。
「君は太平洋は見飽きているだろうから、東京湾を先に見る内房線メインコースにしよう!」
 岩手県出身で東京周辺の地理に疎い駆は、深く考える事なく同意してくれた。上京してからというもの、遠くに遊びに出かけるのはテニスサークルの付き合いくらいだったそうだ。そうやって出かける時は駆が必ずレンタカーの運転手になっていたという話が泣ける。頼まれたら断れない性格をとことん利用されていたのだろう。
 そのサークルを辞めた今となっては、移動がうちと大学とバイト先の往復だけになっている。私が連れ回さない限りどこにも行かなそうである。それを寂しいと感じるのは私のエゴでしかないのは重々承知しているが、それでも駆には楽しんでもらいたかった。
 カフェでブレンドコーヒーを飲みながら小冊子の第二章を読む。今度は『かめ』の探してもらいたいもののようだ。リクガメであるかめは泳げない。でも海で泳いでみたい。だから身体のサイズにあった浮き輪が欲しいのだそうだ。
 続けて提示された謎を解き始める。迷路、暗号と続いて今度はクロスワードパズルだ。解いた単語の指定された箇所の文字を繋ぎ合わせて行き先を確定するというタイプの謎解きである。
 千葉県にまつわる単語が沢山出てくるので、私達はスマホを活用しながらクロスワードを解き始めた。これは一旦カフェに入って正解だった。
「なになに、千葉県で一番高い山は?」
埼玉県人の私が知るはずがない。駆が調べてくれる。
「[[rb:愛宕山 > あたごやま]]だって。えっ、たったの408メートル!?」
駆が絶句した。私も驚くしかない。埼玉県で一番高い山、|三方山《さんぽうざん》は2483メートルだというのに。とりあえず小冊子に『あたごやま』と記入する。続けて、千葉県が生産量全国一位を誇る果物とはという問いである。答えは梨だそうだ。
 千葉県の事を全然知らない人間二人が解いていったため、クロスワードはやたら時間がかかってしまったが、スマホという文明の利器があったおかげで何とかクリアできた。次のヒントのある場所は木更津駅近くの神社という事が判明したのである。
 内房線・君津行きの電車を待つために私達はホームに立った。少し離れたところには同じ小冊子を持った親子連れが何組かいて、皆楽しそうにおしゃべりをしている。
「クロスワード意外に難しいね」
駆がぼやいた。私も笑うしかなかった。
「仕方ないよ、私達は千葉県民じゃないし」
その時駆が親子連れを見つめながらつぶやく。
「夏休みだからやっぱり親子連れが多いんだね……いいな……」
「おう、そうだね」
その時の私は深く考えることなく相槌を打ってしまった。
 千葉方面から、横須賀線に乗り入れている青とクリーム色のラインの車両がやって来た。下り方面なのでさほど混んではいない。後発の謎解きの同志達が降りていき、代わりに私達が乗り込んだ。ロングシートに腰かけると、駆が話しかけてきた。
「アルファさん、謎解き詳しいね」
「そりゃー、アナログゲーム研究会の元部長だもの。けっこうあちこちの謎解きやり込んだよ」
 謎解きと一言で言っても色々なタイプがある。観光客目的の自治体主催型もあれば、今回のように鉄道会社主催型もある。規模が大きいものになると県主催で一つの県丸ごと動き回らないと全問正解できない恐ろしい謎解きもあるのだが。
「学生時代、サークルの同志でとある県主催の謎解きにチャレンジしたことがあるんだけど本当に大変だった。レンタカー借りて指定場所に行くんだけど、全く人がいなさそうな山だったり、ものすごい坂道だったり、途中でいきなり大雨が降ってきて親切な地元の人に雨宿りさせてもらったこともあるし、遭難する~って真剣に思った時もあったくらい」
私は当時のことを思い出し苦笑する。
「謎解きってけっこう脳みそ使うのに身体も使うんだね」
初めて謎解きを経験する駆は、この謎解きが子ども向けのはずなのに内容がけっこう難しいことに驚いていた。単なる知識だけではなく時には一種のひらめきも必要な事もある。
「そうなんだよ。君の大学が落ち着いたら一度謎解きの旅に行きたいね。全国各地で開催されているから」
「え、本当に?」
駆は驚いたように目を瞬かせた。
「私も色々あったからしばらく旅に行ってなかったけど、君が旅行嫌いでなければどこか行きたいなあって常々思ってたんだけど、ダメ?」
「いいね!」
右手を握りしめた。
「オレはどこでもかまわないよ。レンタカーなら喜んで運転するし。アルファさんがイヤでなければ、だけど」
「やったー!」
 私は座ったまま小躍りした。駆が交通事故で両親を失った私に気を遣ってくれるのは承知している。でも幸い、と言うべきなのか、私は自動車自体にトラウマはなかった。下手な運転だけは絶対に乗りたくないけど。駆はキッズシッターでほぼ毎日送迎もしているし、安全運転は信頼できると思っている。車でないと行きにくいけど行ってみたいところは山のようにある。旅行が趣味なのに運転免許を持っていないと本当に不便なのだ。
「君が進級出来たらまずは春休みにどこか行こうよ」
「うん、そうだね! そのためにも勉強頑張らなくては!」
駆が嬉しそうに微笑んだのだった。
 蘇我から30分ほどで木更津駅である。木更津は東京湾アクアラインやアウトレットで有名な場所だが、我が家には自動車がなかったためこれまでは無縁の場所だった。
 地図を見ながら指定された神社へ向かう。ここで探すのはあくまで浮き輪の在り処を示すヒントなのだが、そのヒントはひっそりと神社の掲示板に紛れていた。ひっそりぐらしなだけに。
 神社にあったベンチに座って新たな謎解きをする。今度の謎解きは点つなぎのバリエーションだった。ヒントを頼りに小冊子に印刷されている文字と文字をつないで浮き輪の在り処が浮かび上がってくる。結果、浜金谷駅の周辺にある商業施設だという事が判明した。
 木更津駅やその隣の君津駅までは比較的電車の本数は多いのだが、ここから先は時間との勝負になってくる。昼間の普通列車は一時間に一本しかなくなってしまうのだ。幸い今10時過ぎだが、10時台の下りには十分間に合いそうである。私は自分のリュックから折り畳みの日傘を取り出した。真夏だけあって気温は上昇し歩くだけで汗が吹き出してくる。これだけで疲れてしまいそうだ。一方駆は汗こそかいてはいるものの、暑さなど全く平気そうだった。
「君、寒いところの出身なのに暑いの平気なんだね」
私が少し前を歩いている駆に話しかけると、駆は振り向いた。
「意識して暑熱順化してるから。インドア派のアルファさんは絶対してないよね?」
考えてみればこの男、真夏の炎天下、テニスコートで三時間以上にわたってプレイできる体力おばけだった。
「あのー、山城先生、暑熱順化ってどうやるんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。駆は暑くなる前にウォーキング、ジョギングしたりストレッチして汗をかいて身体を暑さに慣れさせる事と説明してくれたが、生来怠け者の私は耳を塞ぎたくなることばかりだった。
「今日は丸一日天気がいいみたいだし、無理するとアルファさん簡単に熱中症になりそうだ」
「そうかも……」
「こまめに休んでいった方が良さそうだね」
「ごめん……」
恥ずかしさのあまり顔から火が出る思いだった。だが駆は笑顔で首を振った。
「気にしないで。アルファさんみたいにデスクワークに追われてたらそうなるって。これからも忘れずに水分摂っていこう!」
「はーい、先生」
駆先生は優しい。私は素直に事前に買っておいたスポーツドリンクを飲む。熱中症になってこの旅を台無しにしたくなかった。
 浜金谷駅のある金谷自体は小さな町だが、観光スポットの多いところだった。ロープウェイがある鋸山や、対岸の横須賀と繋がっている東京湾フェリーがあったり、さらには海鮮料理が売りの飲食店もあちこちにあるようだ。
 浜金谷駅に到着した後、指し示された大き目の商業施設へと急いで向かった。そこの無料休憩所の片隅に置いてある観葉植物の鉢に、目立たぬようペパーミントグリーンのギフトボックスが括りつけてあった。急いでQRコードを読み取りそそくさとその場を離れてから、近くにあったベンチに座りミニアニメを鑑賞する。
 かめに大きな浮き輪を渡してあげると、かめはのんびりマイペースで砂浜を歩いてから、大喜びで念願の海水浴を始めたのだった。
「良かったね~」
私達は我が事のように喜んだ。それから今度はみにぶたの欲しいものを入手するために第三章の新たな謎を解き始める。
 みにぶたの欲しいものはビーチボールだった。仲間達と砂浜でビーチバレーをしたいようだ。LIMEで入手したヒントを元に新たな謎、漢字の『へん』と『つくり』を分解して別な漢字を作るというものなのだが、私達は入手したヒントを誤読してしまったらしく、意味が通じる漢字が出来なくてしばらく四苦八苦してしまった。駆が自分達の間違いに気が付き、なんとか正解にたどり着いて、ようやく正解の館山駅の近くにある海岸という答えに辿り着いた時には、浜金谷駅の次の電車が到着する時間が迫っていた。ここで早めのランチにするという選択肢もあったのだが、気持ち的に先を急ぎたかった私達は館山でランチにすることに決め、急いで浜金谷駅に向かう。
 私達――より正確に言うなら私だけが息を切らしながら必死に走っていたのだが、同様に駅に駆け込んだ四人の家族連れが私達の前を走っていた。お父さんが手にひっそりぐらしの小冊子を持っていたから、私達と同じように謎解きの御一行様だった。
 浜金谷駅のホームは線路に挟まれた島タイプで、列車が下りホームに到着したため、ホームへと続く連絡階段を慌てて下っていたその家族連れが私達より先に列車に殺到していったのだが、階段をちょうど下りきったところで、何と幼稚園生くらいの小さい男の子が私の目の前ですてんと転んでしまった。私は慌ててその子を助け起こしたのだが、その隙に列車の扉がすっと閉まり発車してしまったのだ。運転士さんは私達が目視できなかったのだろうし、駆け込み乗車した残りの家族も男の子が転んだことに気が付かなかったのだろう。
 目の前でさーっと走り去っていく列車を目の当たりにしたことと、転んだ痛みから男の子がわんわん泣き始めた。そりゃそうだろう。私と駆は顔を見合せる。
「とりあえず傷の治療をしよう」
駆が提案した。
「駅舎側にトイレがあるからこの子の傷を洗ってくる」
駆はしゃがみ込み目の高さを合わせると男の子に話しかけた。
「君、大丈夫? 名前は?」
男の子はしゃくりあげながらも何とか頑張って答えた。
「痛いよう……名前は蓮……」
「じゃ、蓮君、君の家族は待っていれば必ず戻って来るから安心して。お兄ちゃんがおんぶしてあげるから傷を洗ってしまおう。バイキンが入ると大変だからね」
蓮君はうんと頷く。
 駆は私に背負っていた重たい黒いリュックを「持っててもらえますか」と言いながら手渡すと、蓮君を背負い階段を上っていく。その後ろを追いかけてからトイレの前で待機しつつスマホで蓮君の家族が戻ってくる時間を確認する。ありゃりゃ、一時間後だ。お昼時は一時間に一本しか走っていないのだから仕方がない。とりあえず駅の待合室で待っていれば一時間後には家族と再会できるだろう。
 駆は蓮君の傷を丁寧に洗ってくれたらしい。膝と肘に擦り傷が出来ていて痛々しい。私はたまたま買ってあったひっそりぐらしの絆創膏を自分のリュックから取り出すと、蓮君に見せた。
「どれ貼って欲しい?」
蓮君はちょっと考えてから、はりねずみとてでぃべあを指差した。「好きなの?」と尋ねると、お兄ちゃんとお姉ちゃんのポシェットと同じだからと答えた。私は嬉しくなってにこにこしながら絆創膏を蓮君に貼ってあげる。
 しばらく列車は来ないので駅の待合室で待つことにするが、さすがに7月末だ。走ったこともあって暑くて仕方ない。私は携帯型扇風機を取り出し蓮君に貸してあげる。駆は駅の外にあった自販機で蓮君のためにオレンジジュースのペットボトルを買って戻ってきた。
「しばらくここで待ってようね」
オレンジジュースを渡しながら駆が蓮君に言う。蓮君は気丈にこくりと頷いた。
 この時駅員さんが私達に話しかけてきた。どうやら蓮君の親御さんが駅に電話を掛けてきて、次の上り列車でご家族が戻って来ると伝えたらしい。それを聞いた蓮君はようやくほっとしたようだ。初めて笑顔を見せる。
 駅員さんが駅員室で蓮君を預かろうと言ってくれたが、駅員さんも仕事があるだろう。私達は顔を見合わせ互いに頷くと、ご家族と合流できるまで蓮君の相手をすることを伝えた。駅員さんは申し訳なさそうに頭を下げると、何かあったら遠慮なく声をかけて下さいと言って駅員室の方へ戻って行った。駅員室からは待合室が見えるようになっており、駅員さんは時折私達の様子を確認しているようだった。
 家族とはぐれ心細いであろう子どもと一緒にいるのに無言という訳にもいかないので、退屈させないように待合室の椅子に蓮君を挟んで腰かけると、私達は代わる代わる蓮君に話しかけた。
「蓮君はいくつ?」と私。
「むっつ」
幼稚園年長のようだ。
「どこに住んでいるの?」と駆。
「千葉」
きっと千葉市のことを指しているのだろう。
「ひっそりぐらし、好き?」
と私が尋ねると、蓮君は正直に答えた。
「ひっそりが好きなのはお姉ちゃんとママ。オレとパパは付いて来ただけ」
その年齢で自分の事を『オレ』って呼ぶんだと感心してしまう。
「だけど映画は映画館まで見に行ったよ。お姉ちゃん達映画見た?」
ごめん、私は見てなかった。しかし駆は力強く頷く。
「見たよ。お兄ちゃん、最後泣いちゃったな」
「え、そんなおっきいのに泣くの?」
蓮君にびっくりされ、駆は苦笑した。
「感動したら大人だって泣くんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「じゃあ、蓮君は本当は何が好きなの?」
蓮君はサッカー!とすかさず答えた。
「サッカー教室に通ってるんだ」
どこか誇らしげだ。
「お兄ちゃんはサッカーやってる?」
駆は首を振った。
「サッカーは体育の授業でやっただけだよ」
「じゃ、スポーツ何やってんの?」
「テニスをちょっとね……」
ちょっとどころじゃないだろうと突っ込みたかったが、私は黙っていることにした。
「サッカーやろうぜ」
蓮君は何故か駆を勧誘してくる。駆は笑った。
「うん、今度やってみるよ」
「お兄ちゃん、他に何かやってないの?」
駆の背が高いので気になって仕方ないのだろう。駆は少し考えてから答えた。
「小学生の頃は剣道やってたよ」
「マジ? かっこいいじゃん」
 今子供たちの間で流行っている漫画のタイトルを挙げながら、やってみせてよとねだってくる。駆は困ったような表情になったが、自分のリュックから折り畳みの傘を取り出すと柄だけを伸ばした。上段や中段の構えを説明してみせてから、軽く素振りの真似をする。
「こんな感じだよ」
駆が剣道の動きをするのを見るのは初めてだったので、私も感心してしまう。動きに切れがあって、中学に入学する前に止めたとはとても思えなかった。
「どうしてやめたのさー」
子どもの無邪気な質問は駆にぐさぐさと刺さったようだが、駆は笑いながら流した。
「あの頃テニスのアニメが流行ってたんだよ」
「ちなみに剣道何段なの?」
剣道のことなど何も知らない私が口を挟むと、駆が首を振ってみせた。
「オレ段位なんて持ってないよ。だって初段取れるの十三歳からだから。つまり1級で終了」
「えー、そうだったの?」
「それじゃ履歴書にも恥ずかしくて書けないし、なんか中途半端だよね……」
そう言って駆が苦笑した。駆の兄、匠が自分よりも上手だったと惜しんでいたが、確かに1級で終わらせるのはもったいなかっただろう。
 その後、蓮君は今遊んでいるゲームの話を振ってきた。駆は小二の双子男児のキッズシッターをしている関係から最近の子ども達の間で流行っているゲームにも詳しく、蓮君と話がちゃんと通じている。
 そうこうしているうちに上り列車がやってくる時間となり、駅員さんが私達に声をかけてくれたので、私達はそろってホームに移動したのだった。その駅員さんは他の乗客対応をした後、私達の傍に近づき蓮君の家族が来るのを私達と一緒に待ってくれた。
 蓮君の両親とお姉ちゃんは列車が到着し扉が開くなり、蓮君めがけて飛び出して来て、一時間ぶりの感動の対面となった。蓮君一人取り残されていたら色々大変だっただろうから私達が後ろにいて結果的に良かったのだろう。
 両親は私達に何度も礼を言った。それから小学二、三年くらいの蓮君のお姉ちゃんが、少女雑誌の付録なのだろうか、私達にお礼と言ってひっそりぐらしのシールをくれた。
 一家は浜金谷駅周辺で食事をすることにしたようで、飲食店のある海の方へ向かう事を蓮君に説明していた。蓮君はお母さんと手を繋ぐと、私達の事を「はりねずみのお兄ちゃんとてでぃべあのお姉ちゃん」と呼んでから大きく手を振り「バイバーイ」と言いながら別れたのだった。
 私達は蓮君たちの姿が見えなくなるまで手を振ったが、実は私達も浜金谷駅周辺で食事しなければいけない。というのも上りの列車が来る前に下りの列車が行ってしまい、次は更に一時間後だったからだ。予定は未定、とはよく言ったものだ。
 蓮君の前では言えなかったが非常に空腹を抱えていた私達は、予めスマホで情報を調べていた駅近のピザが美味しいと評判の店に急いで向かったのだった。
 絶品のマルゲリータとシーフードピザで満腹になった私達が浜金谷駅へと戻ると、再び蓮君一家と遭遇する。互いに軽く頭を下げ合うと、上総一ノ宮行きの同じ列車に乗り込んだ。私達とは少し離れたところに座っている蓮君は、とても楽しそうにお父さんとおしゃべりをしていた。
 「無事落ち合えて本当に良かった」
駆がしみじみと言う。私も同意する。あの時駆は何のためらいもなく蓮君に手を差し伸べていたが、その一連の行動は私にはとても好ましく見えた。あの時駆が蓮君を駅員さんに任せて先を急いでいたら、駆に対する気持ちは少し冷めてしまったかもしれない。だが蓮君を家族に会わせるまで、駆はイヤな顔一つせずに話し相手をしてくれた。そして今も心から再会できたことを喜んでいる。なんて気持ちのいい青年なのだろう。私はその端正な横顔を見つめながら思わず胸がときめくのを覚えたのだった。
 列車は乗車25分ほどで館山駅に到着した。オレンジ色の屋根と白い壁が印象的な館山駅はもちろんの事、その周辺も南ヨーロッパを思い起こさせるような建物が並んでおり、通りにはヤシの木が植えられている。館山は房総半島の中でも南国気分を味わえる一大観光スポットであり、駆もかつてテニス合宿で来たことがあったらしい。
 当然蓮君一家もここで降りたのだが、私達は敢えてヒントがあるはずの海岸にはすぐに向かわなかった。向かってしまうと足が早い上に人並み以上にでかくて目立つ私達がネタバレになってしまう事は明らかだったからだ。代わりに海岸とは逆方向の出口から出てお土産屋に入る。
 「前にサークルで謎解きしに行った時経験した話なんだけどね、どこに行っても同じ親子連れと出会っちゃって、それは謎解きの仕様上仕方のない事なんだけど、終いには私達の後を追えば大丈夫とか言われちゃって、それも何だかなーって」
私は自分達で食べるためのお土産を吟味しながら駆に説明した。
「それって既に謎解きじゃないじゃん。謎解きは自力で解かなくちゃ。そのためのヒントもあるんだし」
「そうだね。せっかく家族で楽しく謎解きしてるんだものね」
びわゼリーを眺めていた駆も相槌を打った。
「でもいいなあ、家族でわいわい謎解きするの。夏休みのいい思い出になりそう」
その声には隠しきれない羨望が混じっている。
「そうだね……」
私は大人になってもそう言わずにはいられなかった駆の気持ちに切なくなりつつ、気を紛らわすように自家用にびわはちみつを購入するため手に取ったのだった。
 遅れて館山駅近くの海岸にある石碑まで歩いて行ったため、既に謎解き仲間達は誰もいなかった。無事石碑の下辺りにヒントの書いてあるパネルを見つけたのだが、今度は数字に変換されている単語を解読し、次の行き先を解明する謎解きだった。例えば、五十音のあいうえおが1112131415、かきくけこが212223222425といった具合に設定されており、そのルールで数字が大量に小冊子に記載されているので、一字一字変換していくというものだ。時間さえあれば確実に解けるのだが、数字の数が単純に多く二人で協力しながら小冊子にメモしていくしかなかった。
 この変換の結果、みにぶたの欲しがっているビーチボールの在り処が安房鴨川駅の周辺にある公園だという事が判明した。そのため15時半の上総一ノ宮行きの列車に乗車する。安房鴨川駅は内房線と外房線が交差する駅であり、近くにはシャチがいることで有名な大型水族館もある。
 車窓から時折見えるきらきらと輝く美しく青い海を眺めながら、私はふと思い出してこう言った。
「君のさっきの剣道の仕草かっこよかったよ。君は姿勢もいいし正座も様になっているし、途中で止めたとはいえ日常の所作がけっこう剣道に影響されてるよね?」
「その件に関しては確かにそうなんだろうな。オレも別に止めなくても良かったのかななんて今なら思ったりもするけど、あの頃は毎日止めたくて止めたくて仕方なかったから」
「防具が臭かったって話?」
「あれは嘘も方便だよ。 確かに臭いのは気になってたけど」
何だってー!? 私は目をむいた。どういうこと?と問い詰めると、駆は説明してくれた。
「小三までは兄さんと一緒に道場に通っていたからとても楽しかったんだ。だけど兄さんが中学生になって道場から離れたらとたんに一つ上の上級生からのいじめが始まって……」
 誰もいないところでつねってきたり蹴られたりと執拗ないじめはその上級生が中学生になるまで続いたそうだ。駆が小六になった時いじめから解放されたものの、自分が中学生になって剣道部に入部すれば、その上級生からのいじめが再開するのではと恐れおののいたのだという。
「周囲には相談できなかったの?」
「しても信じてもらえなかったと思う。その上級生は大人の受けが良かったし、親に言ったところでやり返せばいいだけだとか言われちゃうだけな気がしたから」
 いじめを大人に相談することの無力感は私もよく知っている。だから大抵の子は我慢してしまうのだ。ましてや駆のように親から厳しくされている子だったら相談などできるはずがない。
「そっか……」
「実際その上級生はオレが中二の時剣道部の部長になっていたから、続けなくて正解だったと思ってる。年上の兄さんに対してはへこへこしていたくせに、オレにはやたら強気で本当にイヤなヤツだった……」
「いるいる、そういうヤツ」
「オレの性格が相手を苛つかせるのかな……」
 駆は遠い目をした。だけど私は違うと思った。駆は本人が思っている以上に優れているから妬ましかったのだろう。恵まれた身体に加えて運動神経が良く、おまけに整った顔立ちまで兼ね備えているのだから。いじめてくる理由は手に取るようにわかるが、私は敢えて何も言わなかった。
 その代わりに尋ねる。
「テニスを選んだ理由はさっき言ったように本当にアニメなの?」
「アルファさん……オレ家じゃ漫画と同じようにアニメもろくに見せてもらえなかったんだよ……」
「ああ……アニメもか……」
今度は私が遠い目をした。すると駆がテニスを選んだ理由を説明してくれる。
「中学の部活で球技をしたかったけど、オレって団体競技はとことん向いてなくて。それこそサッカーとか野球とか大勢でやる競技はまるでダメだった。理由は自分じゃよく分からないけど、オレと組むとプレイがやりにくいって同級生達から文句言われて。ラケットを使う個人競技で中学で部活があったのが硬式テニスと卓球しかなかったんだ」
一人だけ運動神経がずば抜けていたら、周囲は合わせにくかっただろうなと思ってしまう。
「卓球にしなかった理由は?」
「卓球は卓球台が狭いじゃない? 広いところで存分に走り回りたかったんだよね」
「なるほど」
駆なりに一生懸命考えてテニスを選んだのだろうと納得する。
 この後、私は素朴な疑問を口にした。。
「ねえ、山城家ではアニメもゲームも漫画も禁止だったんでしょ。皆さん夕食後何をやっていたの?」
私には全く山城家の様子が想像できなかったのだ。
 駆は肩をすくめた。
「母さんは大抵自分の書斎で持ち帰った仕事をしていたし、父さんはまれに帰ってきた時はリビングで新聞か本を読んでいて、場合によっては別室で仕事の電話対応。兄さんはよくダイニングテーブルで勉強してた。広々していていいからだって……。オレは……居心地が悪いから速攻で自分の部屋に戻って勉強やるか、本読んだりバレないようにスマホでこっそりゲーム動画見たりしていた……」
「何て真面目なご家庭なんだ……」
私は嘆息する。
「うちなんて……うちなんて、三人で録画したアニメやドラマ見てるか、誰かがテレビでゲームしてるのを眺めているか、マンガや本読んだりして好き勝手してた……手の空いた人が飲み物を代表で淹れたりして……」
「アルファさんと同居始めた時、アルファさんがリビングで自由にふるまっているのを見て正直驚いた」
私は恥ずかしさのあまり頭に両手をやった。
「穴があったら入りたい……」
「いや、なんかいいなあって思ってた。実家じゃソファに寝転がってテレビ見るとか絶対にできなかったから」
ひゃー、耳が痛い。しかし今更生活態度を改める事なんてできない。
 「しかしオレの実家って本当に変わってるよね。皆バラバラなことしていて、今となっては住んでるところも皆バラバラで……」
駆が呟いた。確かに駆がうちに住む前から、両親息子二人全員違うところに住んでいる訳だし。考えてみれば、男三人全員東京周辺に住んでいるのに別居だったはず。それを指摘したら駆が苦笑した。
「父さんは今はたまたま霞が関勤務だけど、地方勤務もけっこう多くて。兄さんやオレが上京した時はまだ地方にいたんだ。父さんが霞が関に異動になったのが二年前で今は官舎住まい。兄さんは就職後ずっと独身寮生活だから結果皆バラバラ」
「そっか……お父さん、ずっと単身赴任生活なんだね……単身赴任というよりむしろ昔で言うところの通い婚的な感じじゃない? 一人暮らしが常態化していて寂しくないのかな」
私がふとそう言うと、駆は首を傾げた。
「……考えてみると、父さんは仕事が許す限りは帰ってきてたな……。一番遠い時で九州に赴任していたんだけど……」
 九州から岩手に帰るのは飛行機を使っても大変そうだ。そう指摘すると駆は、お母さんが金曜夜になると車で仙台空港まで迎えに行っていたのだと説明してくれる。ちなみにその飛行機代は全て会社役員のお母さんの財布から出ていたそうだ。確かに公務員の給料で毎週往復の航空券代を賄っていたら大変だっただろう。我が家は母親が地方公務員で管理職だったから国家公務員の給料は概ね想像できる。
「仙台空港って実家から遠くない?」
「遠いよ。それでも毎回いそいそと迎えに行ってたっけ。だから帰ってくるのは必ず夜中で。日曜の夕方には空港まで車で送って行って……」
「なんだ、両親ラブラブなんじゃん」
私がそう言うと、駆は何故か驚愕している。
「ラブラブ!?」
「うん。赴任先が新幹線で通えるところならともかく、そんな不便な場所からわざわざ帰ってくるってあまり聞かないよ。普通は金銭的な問題で厳しいだろうし、肉体的にもきついじゃない?」
「言われてみれば……」
駆は頬に手を当て考え込んでしまう。私はこの時まで駆の両親の仲が円満だとは全然思っていなかった。何故そう思い込んでいたのだろう。仲の良い夫婦なら子どもにも当然たっぷりと愛情を注ぐものだと思い込んでいたからだろうか。
 それからしばらくむっつりと黙りこくっていた駆だったが、いきなり怒気を含んだ小さな声を発した。
「父さんを送迎する暇があるんだったら、オレの試合一度くらい見に来てくれたって良かったじゃないか!」
いきなり脈絡もなく怒り始めたので私の方が驚いてしまった。
「ランちゃん……?」
「母さんは仕事が忙しいからって、中学高校と一度だって来てくれたことはなかったのに!」
駆はずっと怒りを心に封じてきたのかもしれない。それがちょっとしたきっかけで、いきなり噴出してしまったようだった。
「学校の参観だってそうだ。忙しい忙しいって言いながら、いつも来てくれたのは母さん以上に忙しいはずのおばあさんだった! なのに実は母さんが兄さんの学級には顔を出していた事をオレは知ってた!」
 いきなり駆の怒りのスイッチが入ってしまった原因は私にあると感じる。迂闊に立ち入ったことを聞いてしまったからだ。でもごめんと謝るのも違う気がして、私は膝の上に置かれていた駆の大きな手にそっと手を伸ばした。
「そうだね、本当に酷いね……」
「アルファ……さん?」
私が触れた事で、駆が我に返ったようだった。
「すみません……ついかっとなってしまって……」
「全然構わない。もっと怒っていいんだよ……」
 私は手を重ねたまま駆の横顔を見つめた。いつもとは全然違う険しい表情に私は泣きたくなる。
「いや、その……」
 駆は周囲をきょろきょろと見渡した。夏休みらしく乗客はそれなりにいたが、皆自分達のおしゃべりに夢中で駆に注目した人は誰もいない。
「……ごめん、オレ、子どもっぽいね……」
恥ずかしそうに目を伏せる。
「いいんじゃない、子どもの時の怒りなんだから子どもっぽくて当然だよ」
うん、そうかも、と駆は俯いたまま小さく頷いた。自分の怒りに戸惑っているようにも見える。
 それにしても仕事を言い訳にして駆だけを蔑ろにするなんて許せなかった。おばあさんはそれを知った上で駆の心の防波堤になってくれていたのだろう。
「君のおばあさんって本当に良い人だね」
 最初におばあさんの話を聞いた時は、イケメン孫にブランド物を買い与え着せ替え人形のように扱っているお金持ちの道楽おばあさんという印象だったのだが、頻繁にスマホに連絡をくれたり、アルバイトを紹介したりと駆のことをとても気に掛けてくれている事を知り、更に今の話を聞いたことで、誰よりも駆の事を大切に思ってくれている大人なのだということを理解した。
「……うん……本当にそう……」
駆は同意した。
「……今思うと母さんがいつもそんな調子でオレを避け続けていたから、学校行事とかではおばあさんがいつも代理をしてくれていた気がする……」
 そんな優しいおばあさんが駆の傍にいてくれて本当に良かったと思う。お母さんが駆を避け続ける理由など私に分かるはずもないが、それでも駆を気に掛けてくれる人が間違いなくいたという事実にほっとする。
「……オレも最近になってようやく気が付いたんだけど……父さんはやたら厳しかったけどオレを避けたりはしなかったんだなって……。休日の学校行事の時は来れる時には欠かさず来てくれていたし……留年の件も大学から実家に連絡が行っていたはずなのに、実際来たのは忙しいはずの父さんだった……考えてみればあの日は平日で、父さんは仕事があったはずなんだ……」
 駆がぽつりぽつりと語ったので私も思い返してみる。確かに駆がLIMEでゲーム仲間に助けを求めてきたあの日は金曜だった。私が代休を取って三連休にした週だったから間違いない。
「言われてみればそうだね……」
 駆の父親は勘当を言い渡すなんてもちろん論外なんだけど、自分なりのやり方で駆と向き合ってはいたんだ。私の中の駆の父親の印象も多少変化する。もちろんテニスの件で決して褒めなかった件に関しては、私は絶対に許していないんだけど。
「……ずっと父さんの事が苦手だったし今でも怖いけど……それでも幼い頃、たまに帰ってきた時は必ず手を繋いで歩いてくれたことが嬉しかったのは覚えている……父さんいつも早足だからこっちは小走りになっちゃってたけど……」
「不器用な人なのかもね……」
 私は幼い頃の父親と駆の姿を想像した。親なのだから本来は子どもに歩みを合わせなければならないのに、それが出来ずに大股ですたすた歩く父親と遅れまいと必死に小走りする幼い駆の姿を。
「……そうなのかもしれない……。子どもの扱い方がよく分からなくて、基準が常に自分で……」
そう言ってから駆がふふっと笑った。
「そう考えたら、今まで全然理解できなかった父さんの事がちょっとだけ分かった気がする……」
 それからふと私の手が載ったままの自分の手に目を落とすと、微かに頬を赤らめた。私はその手を今更引っ込めることもできず、安房鴨川駅に到着するまで手を重ねたままだった。