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【1】④

ー/ー



「補習はもう今日で終わりにしようか」
 突然の沖の言葉に、怜那は何を言われたのか一瞬意味不明だった。

 ──いま、何……、終わり? なんで、終わり……。

「有坂、本当によく頑張ったよ。この調子で気を緩めずにやっていけば、進級や卒業はそこまで心配しなくていいんじゃないかな」
 ごく普通の声で沖が話す内容が、怜那にはよくわからない。

 日本語の意味はわかるものの、──理解できない。頭が、拒否しているかのように。

「え、で、でも。私まだ全然、先生の作ってくれたプリントだって、自分だけじゃ解けないし、あの──」
「……悪いけど、俺もちょっと忙しくなって来ててさ。授業だけじゃなくて行事も多いし。学外の研修なんかもあるしな」
 忙しい……。そうか、それなら仕方がない。こんな個別補習など、沖には余計な仕事なのだから、──。

 必死で自分を納得させようと努めながらも呆然としている怜那から、沖は目を()らして逃げるように立ち去った。
 ……少なくとも、怜那にはそう感じられたのだ。

 ──しょーがない、じゃん。先生は私の家庭教師じゃない。私だけの先生じゃないんだから。


    ◇  ◇  ◇
 柄にもなく落ち込んでいる怜那を、大翔は放置はできなかったらしい。
 一人っ子同士で兄妹のように育ち、ずっと一緒だった幼馴染み。

「先生が忙しいから、もう終わりなんだって」
 本当に忙しいのかもしれないし、……覚えの悪い怜那に、沖が呆れただけなのかもしれない。
 たとえそうだとしても、沖は生徒には当たり障りのない理由を告げるだろう。訊いても答える筈がない。だから真実は闇の中だ。

 補習のことを訊かれ、一言だけ口にした怜那に、彼は心配そうな顔で何やら考えているようだった。
 学校からの帰りに、話があると半ば強引に家に上がり込んだ大翔を、怜那は断る気力もなく黙って部屋に通す。

 普段なら、大翔は怜那の気持ちを読み取って先回りして行動してくれることも珍しくはない。
 それなのに、彼は引かなかった。怜那が今は話す気分ではないと伝わらなかった筈はないのに。
 大翔のいつにない行動の理由は、すぐにわかった。

「なぁ、怜那。思うんだけど、沖先生ってなんか言われたんじゃないか?」
「……なんかって何?」
「具体的には俺にもわかんねーけど、ひとりの生徒だけ教えるのはズルい! とかじゃないのかって」
 少し躊躇いを見せた末に、彼は思い切ったように話し出した。

「ここだけの話だぞ。生徒会の先生が、チラッとそんなこと言ってたんだ。英語の宮崎先生、怜那は受け持ってもらったことないと思うけどわかるか? ほら、あの若くてイケメンだけどちょっとチャラい感じの先生。──いや、いい先生だけどさ! 顧問なんだよな」
「知ってる、けど。一応。なんかクラスの子が『カワイイ』とか『カッコいい』とか騒いでた、ような」
 大翔は今期の生徒会長をしている。
 もともと成績もよくリーダーシップを発揮するタイプで、常にクラス委員や生徒会役員などを担っているのだ。

「なんかさぁ、ウルサイ親とかいるらしいよ。どーでもいいような細かいことで、いちいち学校に文句つけてくるんだって。だからさ、沖先生に実際にクレーム? なんかが無くても、そういうの気にして続けられないってこともあるのかと思ったんだよな」
 彼の言葉に、怜那は目を見開いた。
 その発想はなかった、けれど確かにそういうことを言い出す人たちがいても不思議ではない。

 ──学園ドラマではよくあるよね、そういうの。まぁドラマはともかく、ネットのニュースでも見たことあるような気がするし。

「ちょっと確認なんだけどさ。怜那は沖先生の補習行きたいのか?」
 大翔に訊かれ、怜那は一瞬の躊躇いの後で思い切って口を開く。

「うん、行きたい」
 行けるか行けないかが真っ先に浮かんだ。けれど、そうではなくて行きたいか行きたくないかなら、答えは考えるまでもなかった。

「怜那が補習行きたいなんてなぁ。しかも数学! 天変地異の前触れかよ」
 怜那の答えに、彼はにかーっと笑う。

 ──大翔ってホントに表情豊かだよね。顔も、……私の趣味じゃないけどカッコいい方だ、と思うし。背も高くて、性格も明るいし頭もいいもんね。男も女も友達いっぱいいて、しかも凄いモテるのに、なんで家が隣ってだけの私といるんだろ。

 怜那は、一部で自分と大翔の仲が誤解されているらしいのも知っている。
 実際には生まれた時から隣同士の幼馴染みという関係、それ以上でも以下でもないのだが。

 彼も探りを入れられるたびに、あっけらかんと「怜那は妹としか思えないな」と返してはいたが、一緒に居ることが多いせいで疑われることも珍しくないらしかった。

 ──もしかして、モテすぎて鬱陶しいとかで、誤解も都合いいと思ってんのかな。それはそれでどうなんだって感じではあるけど。大翔がいいんなら、私は全然構わないんだけどさ。

 怜那自身、今までに彼氏が欲しいなどとは思ったこともなかった。
 それどころか大翔の存在がある種の牽制(けんせい)になっているとしたら、むしろありがたいくらいなのだ。

 怜那は特別背が低いわけではないが、とにかく細身だ。女性らしい凹凸(おうとつ)に乏しいことは、攻撃の格好の材料だった。
 子どもみたい、幼児体型、いくら顔がよくてもあれじゃね、と聞こえよがしに嘲笑われても、怜那には相手が期待しているだろうダメージなどはない。
 しかし、羽虫のようなもので邪魔なのは間違いなかったからだ。
 大翔に直接(とが)められて、「そんなつもりじゃなかったのに酷い」と被害者面さえできる厚顔さには呆れたものだったが。

 見様によっては、か弱く繊細そうに映るらしい顔立ちや体形。
 謂わばイメージだけで寄って来た男子生徒が、怜那を「キレイ」「カワイイ」と褒めそやし、「守ってあげたい」と口走るに至っては失笑しか出ない。
 しかも辛辣な対応で返り討ちにあって、腹立ち紛れに悪評を振りまくような彼らには辟易していた。

「……怜那さぁ、沖先生が好きなんだよな?」
 唐突な大翔の問いに、一瞬時が止まった気がした。目の前が真っ暗になり、──周囲から少しずつ色が戻って来る。

「何、何言って、大翔──」
 半ば頭に霞がかかったような状態で、怜那は何とか笑い飛ばそうとした。けれど、たぶん上手く笑えていない。

「そんなわけ、ないじゃん。いきなり何なの?」
「怜那。俺に嘘吐かなくていい。……無駄だから」
「嘘、なんかじゃ……。嘘、ってそんな」
 ……笑えない。怜那は今、冗談では済まない事態に陥っている。

 ──男の話なんてどーでもよかった。今まで好きな人なんていなかった。ホントに! ……ホント、に?

「大翔、私。私、──どうしよう」
「何が? お前にとって、好きな人が居るのって困ることなのか?」
 冷静に、怜那の逃げ道を塞いで回るかのような大翔に混乱する。
 なんだかんだ言っても、常に優しく見守って、──甘やかしていてくれていたのだろう幼馴染みの厳しい対応。

「す、好きな、人、なんて」
「怜那、何が怖いんだ? 人を好きになるのは、全然悪いことじゃないだろ。……まあ、相手が相手だけどさぁ」
「だって私。男、なんてどーせ──」
「……沖先生は怜那の顔とかだけ見てる連中とは違うよ。それくらい、お前はわかってる筈だ」
 大翔の、低く抑えた声。

「……私。私は沖先生が、好き──」
 意思とは別の何かに導かれるように、自然に唇から転がり出た声が耳に届いた。呆れるほどありふれたその言葉が、熱を持って身体中を駆け巡る。

 ──好き。……そうだ、私は沖先生が好き、なんだ。

 大翔に追い詰められて、引き摺り出された感情。
 口にして初めて、怜那はようやく気づいた。いや、認めざるを得なくなった、のかもしれない。
 沖への想いは、実はずっと心の中にあったのだということを。

 今まで、全力で見ない振りをして目を背けていた恋心に、怜那は今初めて触った気がする。
 触って確かめて、本物だと、──もう誤魔化すことはできないと悟ったのだ。

「よし、決まり! 補習行こうぜ」
 一息おいて、大翔が明るい声で宣言する。

「……行きたいけど行けないんだよ、沖先生はもう補習しないって。もしホントに、忙しいっていうのがただの言い訳で、他に何か私には言えない理由があったとしてもさぁ。結局は、ひとりじゃ無理だっていうのは変わんないし」
「だからさぁ」
 彼は芝居がかって、少し言葉を溜める。

「ひとりじゃなきゃいいんだよな? ──俺に任せろ」
 大翔は如何にも何か企んでいるようなわざとらしい笑顔で、怜那に告げたのだ。


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 突然の沖の言葉に、怜那は何を言われたのか一瞬意味不明だった。
 ──いま、何……、終わり? なんで、終わり……。
「有坂、本当によく頑張ったよ。この調子で気を緩めずにやっていけば、進級や卒業はそこまで心配しなくていいんじゃないかな」
 ごく普通の声で沖が話す内容が、怜那にはよくわからない。
 日本語の意味はわかるものの、──理解できない。頭が、拒否しているかのように。
「え、で、でも。私まだ全然、先生の作ってくれたプリントだって、自分だけじゃ解けないし、あの──」
「……悪いけど、俺もちょっと忙しくなって来ててさ。授業だけじゃなくて行事も多いし。学外の研修なんかもあるしな」
 忙しい……。そうか、それなら仕方がない。こんな個別補習など、沖には余計な仕事なのだから、──。
 必死で自分を納得させようと努めながらも呆然としている怜那から、沖は目を|逸《そ》らして逃げるように立ち去った。
 ……少なくとも、怜那にはそう感じられたのだ。
 ──しょーがない、じゃん。先生は私の家庭教師じゃない。私だけの先生じゃないんだから。
    ◇  ◇  ◇
 柄にもなく落ち込んでいる怜那を、大翔は放置はできなかったらしい。
 一人っ子同士で兄妹のように育ち、ずっと一緒だった幼馴染み。
「先生が忙しいから、もう終わりなんだって」
 本当に忙しいのかもしれないし、……覚えの悪い怜那に、沖が呆れただけなのかもしれない。
 たとえそうだとしても、沖は生徒には当たり障りのない理由を告げるだろう。訊いても答える筈がない。だから真実は闇の中だ。
 補習のことを訊かれ、一言だけ口にした怜那に、彼は心配そうな顔で何やら考えているようだった。
 学校からの帰りに、話があると半ば強引に家に上がり込んだ大翔を、怜那は断る気力もなく黙って部屋に通す。
 普段なら、大翔は怜那の気持ちを読み取って先回りして行動してくれることも珍しくはない。
 それなのに、彼は引かなかった。怜那が今は話す気分ではないと伝わらなかった筈はないのに。
 大翔のいつにない行動の理由は、すぐにわかった。
「なぁ、怜那。思うんだけど、沖先生ってなんか言われたんじゃないか?」
「……なんかって何?」
「具体的には俺にもわかんねーけど、ひとりの生徒だけ教えるのはズルい! とかじゃないのかって」
 少し躊躇いを見せた末に、彼は思い切ったように話し出した。
「ここだけの話だぞ。生徒会の先生が、チラッとそんなこと言ってたんだ。英語の宮崎先生、怜那は受け持ってもらったことないと思うけどわかるか? ほら、あの若くてイケメンだけどちょっとチャラい感じの先生。──いや、いい先生だけどさ! 顧問なんだよな」
「知ってる、けど。一応。なんかクラスの子が『カワイイ』とか『カッコいい』とか騒いでた、ような」
 大翔は今期の生徒会長をしている。
 もともと成績もよくリーダーシップを発揮するタイプで、常にクラス委員や生徒会役員などを担っているのだ。
「なんかさぁ、ウルサイ親とかいるらしいよ。どーでもいいような細かいことで、いちいち学校に文句つけてくるんだって。だからさ、沖先生に実際にクレーム? なんかが無くても、そういうの気にして続けられないってこともあるのかと思ったんだよな」
 彼の言葉に、怜那は目を見開いた。
 その発想はなかった、けれど確かにそういうことを言い出す人たちがいても不思議ではない。
 ──学園ドラマではよくあるよね、そういうの。まぁドラマはともかく、ネットのニュースでも見たことあるような気がするし。
「ちょっと確認なんだけどさ。怜那は沖先生の補習行きたいのか?」
 大翔に訊かれ、怜那は一瞬の躊躇いの後で思い切って口を開く。
「うん、行きたい」
 行けるか行けないかが真っ先に浮かんだ。けれど、そうではなくて行きたいか行きたくないかなら、答えは考えるまでもなかった。
「怜那が補習行きたいなんてなぁ。しかも数学! 天変地異の前触れかよ」
 怜那の答えに、彼はにかーっと笑う。
 ──大翔ってホントに表情豊かだよね。顔も、……私の趣味じゃないけどカッコいい方だ、と思うし。背も高くて、性格も明るいし頭もいいもんね。男も女も友達いっぱいいて、しかも凄いモテるのに、なんで家が隣ってだけの私といるんだろ。
 怜那は、一部で自分と大翔の仲が誤解されているらしいのも知っている。
 実際には生まれた時から隣同士の幼馴染みという関係、それ以上でも以下でもないのだが。
 彼も探りを入れられるたびに、あっけらかんと「怜那は妹としか思えないな」と返してはいたが、一緒に居ることが多いせいで疑われることも珍しくないらしかった。
 ──もしかして、モテすぎて鬱陶しいとかで、誤解も都合いいと思ってんのかな。それはそれでどうなんだって感じではあるけど。大翔がいいんなら、私は全然構わないんだけどさ。
 怜那自身、今までに彼氏が欲しいなどとは思ったこともなかった。
 それどころか大翔の存在がある種の|牽制《けんせい》になっているとしたら、むしろありがたいくらいなのだ。
 怜那は特別背が低いわけではないが、とにかく細身だ。女性らしい|凹凸《おうとつ》に乏しいことは、攻撃の格好の材料だった。
 子どもみたい、幼児体型、いくら顔がよくてもあれじゃね、と聞こえよがしに嘲笑われても、怜那には相手が期待しているだろうダメージなどはない。
 しかし、羽虫のようなもので邪魔なのは間違いなかったからだ。
 大翔に直接|咎《とが》められて、「そんなつもりじゃなかったのに酷い」と被害者面さえできる厚顔さには呆れたものだったが。
 見様によっては、か弱く繊細そうに映るらしい顔立ちや体形。
 謂わばイメージだけで寄って来た男子生徒が、怜那を「キレイ」「カワイイ」と褒めそやし、「守ってあげたい」と口走るに至っては失笑しか出ない。
 しかも辛辣な対応で返り討ちにあって、腹立ち紛れに悪評を振りまくような彼らには辟易していた。
「……怜那さぁ、沖先生が好きなんだよな?」
 唐突な大翔の問いに、一瞬時が止まった気がした。目の前が真っ暗になり、──周囲から少しずつ色が戻って来る。
「何、何言って、大翔──」
 半ば頭に霞がかかったような状態で、怜那は何とか笑い飛ばそうとした。けれど、たぶん上手く笑えていない。
「そんなわけ、ないじゃん。いきなり何なの?」
「怜那。俺に嘘吐かなくていい。……無駄だから」
「嘘、なんかじゃ……。嘘、ってそんな」
 ……笑えない。怜那は今、冗談では済まない事態に陥っている。
 ──男の話なんてどーでもよかった。今まで好きな人なんていなかった。ホントに! ……ホント、に?
「大翔、私。私、──どうしよう」
「何が? お前にとって、好きな人が居るのって困ることなのか?」
 冷静に、怜那の逃げ道を塞いで回るかのような大翔に混乱する。
 なんだかんだ言っても、常に優しく見守って、──甘やかしていてくれていたのだろう幼馴染みの厳しい対応。
「す、好きな、人、なんて」
「怜那、何が怖いんだ? 人を好きになるのは、全然悪いことじゃないだろ。……まあ、相手が相手だけどさぁ」
「だって私。男、なんてどーせ──」
「……沖先生は怜那の顔とかだけ見てる連中とは違うよ。それくらい、お前はわかってる筈だ」
 大翔の、低く抑えた声。
「……私。私は沖先生が、好き──」
 意思とは別の何かに導かれるように、自然に唇から転がり出た声が耳に届いた。呆れるほどありふれたその言葉が、熱を持って身体中を駆け巡る。
 ──好き。……そうだ、私は沖先生が好き、なんだ。
 大翔に追い詰められて、引き摺り出された感情。
 口にして初めて、怜那はようやく気づいた。いや、認めざるを得なくなった、のかもしれない。
 沖への想いは、実はずっと心の中にあったのだということを。
 今まで、全力で見ない振りをして目を背けていた恋心に、怜那は今初めて触った気がする。
 触って確かめて、本物だと、──もう誤魔化すことはできないと悟ったのだ。
「よし、決まり! 補習行こうぜ」
 一息おいて、大翔が明るい声で宣言する。
「……行きたいけど行けないんだよ、沖先生はもう補習しないって。もしホントに、忙しいっていうのがただの言い訳で、他に何か私には言えない理由があったとしてもさぁ。結局は、ひとりじゃ無理だっていうのは変わんないし」
「だからさぁ」
 彼は芝居がかって、少し言葉を溜める。
「ひとりじゃなきゃいいんだよな? ──俺に任せろ」
 大翔は如何にも何か企んでいるようなわざとらしい笑顔で、怜那に告げたのだ。