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【1】②

ー/ー



 結婚していた頃。
 仕事一筋で、それが自分の役割だと信じていた。自宅での自分の姿を思い出せないほどに。当時の妻の気持ちなど、考えてみたこともなかった。我が子である航大のことも。

 妻が去り、まだ五歳だった一人息子と残されて、何もかも自分が取り仕切る羽目になって初めて彼女の苦悩が……、寂しさややりきれなさが真の意味で理解できたのだ。
 離婚歴のある先輩に聞かされて一番印象に残っている台詞は、五年以上経つが少しも色褪せることはない。

「家事は相手が専業なら任せきりでもいいと思うよ。うちは共働きだったけど。──『育児』は違うんだ。偉そうに言ってる俺も、嫁に出て行かれるまで、……出て行かれてもわからんかった。恨みしかなかった。でも子どもって本当に次何するか予測つかねえんだよ。あいつがどんなに辛かったか、限界だったか、俺は知ろうともしなかった。『かわいい子どもと過ごして何が大変なんだ』って言っちまってた。……親失格のただのクズだった」
 あれはまさしく、真理だった。
 聞かせてくれた先輩の元妻は、離婚の話し合いに設けた席上で「あんたに似たあの子が憎い」と吐き捨てたという。
 その時のあまりの形相に、自分が拒んで向こうに委ねたら殺されるのではないか、と恐怖を覚えて自分が引き取ると言うしかなかった、とまで吐露した彼。

「離婚して航大を引き取って、定時で帰れる部署に異動させてもらったから何とかやって来られたよ。でなきゃもう辞めるしかなかったな」
「それでも、誰もができることじゃないでしょ」
 父と母、そして離婚か未婚かの差はあれ、涼音は「ひとり親でフルタイム勤務を継続しつつ子育てをする苦労」を身に沁みて知っている同志だった。

「そうかもしれない。だけど、できるできないじゃなくてやるしかなかったからさ。航大には俺しかいないんだから」
「……そうよね。私も仕事終わって、保育園についたら即母親になるわ。その間の、ほぼ電車の中になるけど、それだけが『三枝(さえぐさ) 涼音』個人に戻れる時間なのよ」
 薄っすらと笑みを浮かべながら、子どもたちから完全に目を離さないよう気をつけつつも彼女が静かに話す。

「わかるな。子どもといる時は完全に『親』になっちゃうっていうの」
「うん。でもね、ずっとただの自分でいたいかっていうと違うの。ひとりの時間が欲しくないって言ったら嘘になるけど、雪ちゃんと引き換えにする気は絶対にないから」
 斜め下から一瞬見上げるようにして、見蕩れるほどの綺麗な笑顔できっぱりと言い切る涼音に、隆則は思わず息を飲んだ。
 そして万が一にも子どもたちから見えないように、涼音の背中越しにそっと手を握る。
 明るい陽光の下で微笑む愛しい人は、馬車に乗る我が子たちに目を向けたまま甲から握り込んだ隆則の手を解かせて、掌を合わせるようにして指を絡めて来た。



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 結婚していた頃。
 仕事一筋で、それが自分の役割だと信じていた。自宅での自分の姿を思い出せないほどに。当時の妻の気持ちなど、考えてみたこともなかった。我が子である航大のことも。
 妻が去り、まだ五歳だった一人息子と残されて、何もかも自分が取り仕切る羽目になって初めて彼女の苦悩が……、寂しさややりきれなさが真の意味で理解できたのだ。
 離婚歴のある先輩に聞かされて一番印象に残っている台詞は、五年以上経つが少しも色褪せることはない。
「家事は相手が専業なら任せきりでもいいと思うよ。うちは共働きだったけど。──『育児』は違うんだ。偉そうに言ってる俺も、嫁に出て行かれるまで、……出て行かれてもわからんかった。恨みしかなかった。でも子どもって本当に次何するか予測つかねえんだよ。あいつがどんなに辛かったか、限界だったか、俺は知ろうともしなかった。『かわいい子どもと過ごして何が大変なんだ』って言っちまってた。……親失格のただのクズだった」
 あれはまさしく、真理だった。
 聞かせてくれた先輩の元妻は、離婚の話し合いに設けた席上で「あんたに似たあの子が憎い」と吐き捨てたという。
 その時のあまりの形相に、自分が拒んで向こうに委ねたら殺されるのではないか、と恐怖を覚えて自分が引き取ると言うしかなかった、とまで吐露した彼。
「離婚して航大を引き取って、定時で帰れる部署に異動させてもらったから何とかやって来られたよ。でなきゃもう辞めるしかなかったな」
「それでも、誰もができることじゃないでしょ」
 父と母、そして離婚か未婚かの差はあれ、涼音は「ひとり親でフルタイム勤務を継続しつつ子育てをする苦労」を身に沁みて知っている同志だった。
「そうかもしれない。だけど、できるできないじゃなくてやるしかなかったからさ。航大には俺しかいないんだから」
「……そうよね。私も仕事終わって、保育園についたら即母親になるわ。その間の、ほぼ電車の中になるけど、それだけが『|三枝《さえぐさ》 涼音』個人に戻れる時間なのよ」
 薄っすらと笑みを浮かべながら、子どもたちから完全に目を離さないよう気をつけつつも彼女が静かに話す。
「わかるな。子どもといる時は完全に『親』になっちゃうっていうの」
「うん。でもね、ずっとただの自分でいたいかっていうと違うの。ひとりの時間が欲しくないって言ったら嘘になるけど、雪ちゃんと引き換えにする気は絶対にないから」
 斜め下から一瞬見上げるようにして、見蕩れるほどの綺麗な笑顔できっぱりと言い切る涼音に、隆則は思わず息を飲んだ。
 そして万が一にも子どもたちから見えないように、涼音の背中越しにそっと手を握る。
 明るい陽光の下で微笑む愛しい人は、馬車に乗る我が子たちに目を向けたまま甲から握り込んだ隆則の手を解かせて、掌を合わせるようにして指を絡めて来た。