⑤
ー/ー
「航ちゃん! 久しぶり」
駅まで迎えに来てくれた義兄の姿に、雪音は涙が滲みそうになって、慌てて笑って誤魔化した。
「……ああ、そうだな。ここからちょっと歩くんだ。駅から近いと高いからさ。大学へは自転車で通えるから、駅からの距離はあんまり関係ないし。買い物も自転車で行けるしな」
故意にだろうか雪音のことは何も訊かず、航大は間を持たせるように新しい生活についてあれこれ話していた。
「意外と広いんだね。あーでも、家具が少ないからそう感じるだけ?」
ゆっくり歩いて到着した彼の部屋に通されて、雪音は部屋の印象を口にする。
「六畳大の1Kだから学生としてはごく普通だと思うけど、確かに物は少ないかもな。部屋に置いてるのベッドと机と本入れるボックスくらいだし。一応クローゼット、ってほど大したもんじゃないけど収納あるから、服は全部そこに入れてる。もともとあんまり数持ってないから、箪笥とかなくてもそれで十分だな」
「そう、だよね。家の部屋だっておんなじくらいの広さだし」
中身のない話。
それでも、久しぶりに航大と交わす会話だ。
もっと何かないだろうか。ただ声を聴くだけでもいい。航大と、話したい。
「そもそもこの部屋で過ごす時間ってそんなにないんだ。家出る前もそうだったけど、大学が忙しくてさ」
「そっか。……航ちゃん、俺が来て迷惑だと思ってる? ゴメンね、無理言って」
「……いや。いや、違う。そうじゃ、なくて──」
謝る雪音に、義兄は何をどう言っていいのかわからないといった様子で何やら呟いている。
「航ちゃん。俺、航ちゃんのこと好きなんだ。普通に『お兄ちゃん』としてももちろん好きだけど、それだけじゃなくて──」
これが最後かもしれないという心持ちでやって来た。
だから一番大切なことをまずは告げてしまいたい、と雪音が話し出すのを航大が止める。
「雪! その前に、……俺の話聞いてくれないか?」
黙らせるかのような勢いで声を発する彼の怖いくらい真剣な顔に、雪音は黙って頷いた。
「母親、……今の雪とのお母さんじゃなくて、俺を産んだ本当の母親な。俺が五歳の時に父さんと離婚してそれきり会ってないんだけど。もしかしたら、あんまり子ども好きじゃなかったのかもしれないなって」
航大の話は、予想もしなかった内容から始まる。
「あ、だからって別に殴られたりしたことないし、ちゃんと世話してくれてたと思うし、何か目立った問題があったわけじゃないんだ」
言い難いのか、言いたくないのか。
義兄は少し迷うように口を噤んだ。
「ただ、……俺さ、夜二人が離婚の話し合いしてるらしいのを、トイレに起きたかなんかで聞いちゃったことがあったんだよ。母親が『航大なんか要らない!』って叫んで、俺その言葉だけは今もはっきり覚えてるんだ。──ああ、お母さんに捨てられたんだ、って、その時の感情なのか、あとから思ったことなのか、今となってはもうわからないんだけどな」
「……酷いよ」
彼が敢えて淡々と話すのを神妙な顔で黙って聞いていた雪音は、思わず苦しそうな声で呟いてしまった。
「そう、だな。でもそれは、父さんの方にも問題あったと今は思う」
「お父さん?」
雪音が訊くのに航大は首肯して話を続ける。
「仕事人間で、家のことは何もかも母親に任せっきりで知らん顔してさ。俺が覚えてる限り、家族三人で出掛けたことってほとんどなかったんじゃないかな。写真もないし。……冗談じゃなく一枚もないんだ」
「え!?」
信じられない。
いや義兄が嘘をついているとは一切考えていないが、それくらいあり得ない話だとしか感じなかった。
「それ以前に、平日に父さんと顔合わせること自体あったかどうかって感じだった気がする」
「あの、お父さんのそういうところ、全然想像つかないんだけど!」
隆則は、再婚後は涼音もフルタイムで共働きということもあるが、ごく当然のように家事も分担して二人でやりくりして交代で夕食も作っている。
基本的に早く帰って夕食を作る方が雪音の保育園の迎えを担当していたし、小学校の運動会も、入学式や卒業式にも必ず両親揃って来てくれていたのだ。
「だよな。父さんも離婚して、引き取った俺の面倒みるために会社も残業ない部署に変わったんだよ。じいちゃんやばあちゃんに多少手伝ってもらってたとはいえ別居だったしな。俺も幼稚園から保育園に行くようになって、その送り迎えとか家事とか自分がやるしかなくなったからな」
義父の現状については、二人の見解は一致しているらしい。
子煩悩で優しい『父』。雪音はそれ以外の彼を知らなかった。
「はっきり言って、その時点では出世コースからは外れたってことだったんだろうし。大袈裟かもしれないけど、あれで父さんの人生も変わったんじゃないかな」
「……なんか、まるで別人みたいになったんだね」
正直な思いで告げた雪音に、義兄は少し考えて話し出す。
「まぁ、そうなるのかな。誰でも同じ立場になったら変わるとは限らないだろうけど。でも、俺がずっと見て来て、父さんはもともと仕事ばっかりやりたかったタイプじゃなかったんじゃないかと思うようになったんだ。なんかみんながそうしてるからそういうものなんだと思い込んでた、っていうかそんなこと考える余裕もないくらい忙しかったんじゃないかな」
「そっか」
雪音の想像も及ばない、義父の姿、航大が育った家庭。
「そのあと俺も大きくなったし、また少し忙しい部署に移ったけど、もう以前とは違って家庭を顧みずって感じは全然なくなったな」
わずかに頬を緩めた義兄に少し安心した。
「残業するときもお母さんと調整して、どっちかは必ず早く帰れるようにしてただろ?」
「……お父さんてそんなだったんだ。俺、全然知らなかった」
驚きのあまり、それ以外何も出てこない。
「俺の知ってるお父さんは、見栄えはあんまりよくなくても美味しいごはん作ってくれて、休みの日は家族みんなで遊びに行って俺たちより楽しそうにはしゃいでて、悪い事したら叱られるけど褒めてくれる方がずっと多くて」
「それもホントの父さんだよ」
そうだ。どちらも義父の現実なのだ。
それでも今聞いた話の限りでは、過去と向き合って自分を見つめ直したということなのだろう。
「俺には『お父さん』って今のお父さんしかいないじゃん? 友達のお父さんとは話聞いてるだけで違い過ぎてびっくりしたけど、でも俺の自慢で大好きだった。ううん、今も大好き」
「そうか。……俺にとってはそれがお母さんだったってことになるのかな」
航大はそう呟いて、雪音の目を見つめた。
「あのアンモナイト」
「アンモナイト……?」
想定外の突飛な単語に、何も考えられずに鸚鵡返しした雪音に、彼が説明してくれる。
「そう、アンモナイト。俺の『宝物』の。忘れた?」
「あ、ううん。覚えてるよ、もちろん。いきなりすぎてびっくりしちゃっただけ。航ちゃんが大事にしてるあの化石だよね?」
義兄が頷いて、ちらりと机の上に置かれたアンモナイトのケースに目をやり、言葉を継いだ。
「博物館で、きちんと専門家が見た上で数千円で売ってたようなものだし、現実にはありえないのはわかってる。だけどもし、あのアンモナイトが物凄い貴重なレア品だったので数十万、数百万で買い取ります! って言われても俺は絶対手放さない。金の問題じゃないんだ。あれは俺にとっては、なんていうか家族の象徴なんだよ」
「航ちゃん、お母さんに買ってもらったって──」
幼いころから、義兄がこの化石を大切にしていたのはよく知っていた。「お母さんが買ってくれた」と嬉しそうに教えられたのも覚えている。
「ずっと一緒に居て、俺のことよく知ってる筈の父さんでさえ見逃した俺の気持ちに、まだ一緒に暮らし始めたばっかりのお母さんが気づいてくれた、その証なんだ。譲ってもいいと思えたのは雪だけだよ」
「あの、俺が怪我した時? この傷の」
雪音が思い出しながら額に手を当てるのに、航大はほんの少し顔を歪めた。
「そう。あげようか? って言ったら、雪は『航ちゃんの大事なものだからいい』って断ったよな」
「そうだったね。でも俺、欲しくなかったわけじゃなくて、それどころかすっごく欲しかったんだよ。でもやっぱり航ちゃんの大切にしてるものだから、もらうわけにいかないなって」
それも雪音の記憶にくっきりと残っている。
己の怪我の詳細さえもう曖昧なのに、なぜかアンモナイトに関することは鮮やかなほど明確なのだ。
「雪は凄いな。まだ小さかったのに、ちゃんとわかってたんだ」
「えー、それくらい傍で見てたら誰だってわかるよ。お父さんとお母さんもきっと知ってるって! なんかあの本棚の一番上、小学生の俺には凄く特別なスペースに見えた」
懐かしさを覚えながらもきっぱりと言い切った雪音に、彼は一瞬目を泳がせた。
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「……ああ、そうだな。ここからちょっと歩くんだ。駅から近いと高いからさ。大学へは自転車で通えるから、駅からの距離はあんまり関係ないし。買い物も自転車で行けるしな」
故意にだろうか雪音のことは何も訊かず、航大は間を持たせるように新しい生活についてあれこれ話していた。
「意外と広いんだね。あーでも、家具が少ないからそう感じるだけ?」
ゆっくり歩いて到着した彼の部屋に通されて、雪音は部屋の印象を口にする。
「六畳大の1Kだから学生としてはごく普通だと思うけど、確かに物は少ないかもな。部屋に置いてるのベッドと机と本入れるボックスくらいだし。一応クローゼット、ってほど大したもんじゃないけど収納あるから、服は全部そこに入れてる。もともとあんまり数持ってないから、箪笥とかなくてもそれで十分だな」
「そう、だよね。家の部屋だっておんなじくらいの広さだし」
中身のない話。
それでも、久しぶりに航大と交わす会話だ。
もっと何かないだろうか。ただ声を聴くだけでもいい。航大と、話したい。
「そもそもこの部屋で過ごす時間ってそんなにないんだ。家出る前もそうだったけど、大学が忙しくてさ」
「そっか。……航ちゃん、俺が来て迷惑だと思ってる? ゴメンね、無理言って」
「……いや。いや、違う。そうじゃ、なくて──」
謝る雪音に、義兄は何をどう言っていいのかわからないといった様子で何やら呟いている。
「航ちゃん。俺、航ちゃんのこと好きなんだ。普通に『お兄ちゃん』としてももちろん好きだけど、それだけじゃなくて──」
これが最後かもしれないという心持ちでやって来た。
だから一番大切なことをまずは告げてしまいたい、と雪音が話し出すのを航大が止める。
「雪! その前に、……俺の話聞いてくれないか?」
黙らせるかのような勢いで声を発する彼の怖いくらい真剣な顔に、雪音は黙って頷いた。
「母親、……今の雪とのお母さんじゃなくて、俺を産んだ本当の母親な。俺が五歳の時に父さんと離婚してそれきり会ってないんだけど。もしかしたら、あんまり子ども好きじゃなかったのかもしれないなって」
航大の話は、予想もしなかった内容から始まる。
「あ、だからって別に殴られたりしたことないし、ちゃんと世話してくれてたと思うし、何か目立った問題があったわけじゃないんだ」
言い難いのか、言いたくないのか。
義兄は少し迷うように口を噤んだ。
「ただ、……俺さ、夜二人が離婚の話し合いしてるらしいのを、トイレに起きたかなんかで聞いちゃったことがあったんだよ。母親が『航大なんか要らない!』って叫んで、俺その言葉だけは今もはっきり覚えてるんだ。──ああ、お母さんに捨てられたんだ、って、その時の感情なのか、あとから思ったことなのか、今となってはもうわからないんだけどな」
「……酷いよ」
彼が敢えて淡々と話すのを神妙な顔で黙って聞いていた雪音は、思わず苦しそうな声で呟いてしまった。
「そう、だな。でもそれは、父さんの方にも問題あったと今は思う」
「お父さん?」
雪音が訊くのに航大は首肯して話を続ける。
「仕事人間で、家のことは何もかも母親に任せっきりで知らん顔してさ。俺が覚えてる限り、家族三人で出掛けたことってほとんどなかったんじゃないかな。写真もないし。……冗談じゃなく一枚もないんだ」
「え!?」
信じられない。
いや義兄が嘘をついているとは一切考えていないが、それくらいあり得ない話だとしか感じなかった。
「それ以前に、平日に父さんと顔合わせること自体あったかどうかって感じだった気がする」
「あの、お父さんのそういうところ、全然想像つかないんだけど!」
隆則は、再婚後は涼音もフルタイムで共働きということもあるが、ごく当然のように家事も分担して二人でやりくりして交代で夕食も作っている。
基本的に早く帰って夕食を作る方が雪音の保育園の迎えを担当していたし、小学校の運動会も、入学式や卒業式にも必ず両親揃って来てくれていたのだ。
「だよな。父さんも離婚して、引き取った俺の面倒みるために会社も残業ない部署に変わったんだよ。じいちゃんやばあちゃんに多少手伝ってもらってたとはいえ別居だったしな。俺も幼稚園から保育園に行くようになって、その送り迎えとか家事とか自分がやるしかなくなったからな」
義父の現状については、二人の見解は一致しているらしい。
子煩悩で優しい『父』。雪音はそれ以外の彼を知らなかった。
「はっきり言って、その時点では出世コースからは外れたってことだったんだろうし。大袈裟かもしれないけど、あれで父さんの人生も変わったんじゃないかな」
「……なんか、まるで別人みたいになったんだね」
正直な思いで告げた雪音に、義兄は少し考えて話し出す。
「まぁ、そうなるのかな。誰でも同じ立場になったら変わるとは限らないだろうけど。でも、俺がずっと見て来て、父さんはもともと仕事ばっかりやりたかったタイプじゃなかったんじゃないかと思うようになったんだ。なんかみんながそうしてるからそういうものなんだと思い込んでた、っていうかそんなこと考える余裕もないくらい忙しかったんじゃないかな」
「そっか」
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「そのあと俺も大きくなったし、また少し忙しい部署に移ったけど、もう以前とは違って家庭を顧みずって感じは全然なくなったな」
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驚きのあまり、それ以外何も出てこない。
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そうだ。どちらも義父の現実なのだ。
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「俺には『お父さん』って今のお父さんしかいないじゃん? 友達のお父さんとは話聞いてるだけで違い過ぎてびっくりしたけど、でも俺の自慢で大好きだった。ううん、今も大好き」
「そうか。……俺にとってはそれがお母さんだったってことになるのかな」
航大はそう呟いて、雪音の目を見つめた。
「あのアンモナイト」
「アンモナイト……?」
想定外の突飛な単語に、何も考えられずに|鸚鵡《おうむ》返しした雪音に、彼が説明してくれる。
「そう、アンモナイト。俺の『宝物』の。忘れた?」
「あ、ううん。覚えてるよ、もちろん。いきなりすぎてびっくりしちゃっただけ。航ちゃんが大事にしてるあの化石だよね?」
義兄が頷いて、ちらりと机の上に置かれたアンモナイトのケースに目をやり、言葉を継いだ。
「博物館で、きちんと専門家が見た上で数千円で売ってたようなものだし、現実にはありえないのはわかってる。だけどもし、あのアンモナイトが物凄い貴重なレア品だったので数十万、数百万で買い取ります! って言われても俺は絶対手放さない。金の問題じゃないんだ。あれは俺にとっては、なんていうか家族の象徴なんだよ」
「航ちゃん、お母さんに買ってもらったって──」
幼いころから、義兄がこの化石を大切にしていたのはよく知っていた。「お母さんが買ってくれた」と嬉しそうに教えられたのも覚えている。
「ずっと一緒に居て、俺のことよく知ってる筈の父さんでさえ見逃した俺の気持ちに、まだ一緒に暮らし始めたばっかりのお母さんが気づいてくれた、その|証《あかし》なんだ。譲ってもいいと思えたのは雪だけだよ」
「あの、俺が怪我した時? この傷の」
雪音が思い出しながら額に手を当てるのに、航大はほんの少し顔を歪めた。
「そう。あげようか? って言ったら、雪は『航ちゃんの大事なものだからいい』って断ったよな」
「そうだったね。でも俺、欲しくなかったわけじゃなくて、それどころかすっごく欲しかったんだよ。でもやっぱり航ちゃんの大切にしてるものだから、もらうわけにいかないなって」
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己の怪我の詳細さえもう曖昧なのに、なぜかアンモナイトに関することは鮮やかなほど明確なのだ。
「雪は凄いな。まだ小さかったのに、ちゃんとわかってたんだ」
「えー、それくらい傍で見てたら誰だってわかるよ。お父さんとお母さんもきっと知ってるって! なんかあの本棚の一番上、小学生の俺には凄く特別なスペースに見えた」
懐かしさを覚えながらもきっぱりと言い切った雪音に、彼は一瞬目を泳がせた。