狐火の夏
ー/ー「紗菜によろしくな」
放課後の昇降口。照りつける西日を背に受けて、達也は短くそう言った。手にしたサッカーボールを小脇に抱え、視線だけがほんの一瞬、宙を泳ぐように揺れる。その瞳の奥にある罪悪感のようなものに、僕は気づかないふりをした。
「ああ、分かってる」
「悪いな。週末は……週末は絶対行くからって言っといてくれ」
「うん、伝えておくよ」
達也は逃げるように背を向け、グラウンドへと駆けていった。スパイクがアスファルトを蹴る乾いた音が、まとわりつくような湿気の中に響く。
サッカー部でレギュラーを張る達也には、練習を休むという選択肢はほとんどない。だから、放課後のお見舞いは帰宅部である僕の役目だ。それは僕たち三人の間で、いつの間にか決まった暗黙のルールだった。あるいは、達也自身が、日に日に痩せていく紗菜を直視することを恐れているのかもしれない。
僕は自転車の鍵を開け、ペダルに足をかけた。錆びついたチェーンがきしむ音と共に、重たい車輪が回り始める。
七月の半ば。盆地特有の湿った熱気が制服のシャツを肌に張り付かせていた。学校から紗菜が入院している総合病院までは自転車で二十分ほどの道のりだ。
町を流れる川沿いの道を抜け、なだらかな坂を上っていく。視界の先には鬱蒼とした緑に覆われた山々が迫っている。この町は、どこへ行くにも山に見下ろされているような閉塞感があった。
息を切らして坂を上りきると、白くて、巨大で、無機質な建物が現れる。
自動ドアを抜け、エレベーターで四階へ上がる。スタッフステーションの前で軽く会釈をし、突き当たりの個室へと向かった。
ノックを三回――。
「入るよ」
返事を待たずにドアを開けると、窓から差し込む夕日が白いベッドをオレンジ色に染め上げていた。
「……あれ? また来たの?」
ベッドの上で本を読んでいた紗菜が、顔を上げて苦笑する。
「いやー、暑い暑い。今日は三十五度超えてるんじゃないか?」
僕はわざとらしく手で顔を扇ぎながら、パイプ椅子を引き寄せて座った。
「だったら来なくていいのに。この病院、家とは逆方向でしょう?」
「帰宅部は暇なんだよ。家に帰っても親の小言を聞くだけだし、こっちの方が冷房が効いてて天国だ」
「ふふっ、何それ」
紗菜が小さく笑う。その笑顔を見て、僕は胸の奥で安堵の息を吐いた。思ったより元気そうだ。先週見た時よりも顔色は悪くないし、点滴の管も今日は外されている。
「達也は?」
「部活。週末には絶対来るって言ってた」
「そっか。サッカーバカは相変わらずね」
紗菜は窓の外へ視線を移した。そこには、町を取り囲むようにそびえ立つ裏山が見える。稜線が夕日に縁取られ、黒々としたシルエットが空に浮かび上がっていた。
紗菜が入院したのは先月のことだ。最初はただの貧血だと言っていたが、そのまま検査入院という名目で学校を休み始めた。そのまま一週間が経ち、二週間が経っても、彼女は戻ってこなかった。担任の教師も、紗菜の両親も、僕の親も、具体的な病名を口にしようとはしない。
「今は治療に専念すべき時だから」
そんな大人の定型文が繰り返されるたびに、僕と達也の間には重苦しい沈黙が降り積もっていった。僕たちは高校三年生で、もう子供ではない。大人が隠そうとする真実の輪郭くらい、嫌でも想像できてしまう。
「ねぇ、今年の夏祭りと花火大会、いつだっけ?」
唐突に紗菜が言った。
「八月の第一週だよ。再来週の土曜日」
「そっか……花火大会までには退院したいな」
独り言のような呟きに、僕は努めて明るい声を被せた。
「できるって。退院したら三人で行こうよ。屋台の焼きそば食って、達也にカキ氷奢らせてさ。あと、河川敷でバーベキューもしたいね。去年みたいに」
去年は達也が火加減を間違えて、肉を全部黒焦げにしたんだった。そんな思い出話を続けようとした僕を遮るように、紗菜は静かな声で言った。
「そうね……行きたいな。高校生、最後の夏だもんね」
その声の響きがあまりにも頼りなくて、僕は言葉を詰まらせた。
紗菜は窓の外、裏山の中腹あたりをじっと見つめている。
「……昨日の夜、見ちゃったの」
「何を?」
「狐火」
「ああ、分かってる」
「悪いな。週末は……週末は絶対行くからって言っといてくれ」
「うん、伝えておくよ」
達也は逃げるように背を向け、グラウンドへと駆けていった。スパイクがアスファルトを蹴る乾いた音が、まとわりつくような湿気の中に響く。
サッカー部でレギュラーを張る達也には、練習を休むという選択肢はほとんどない。だから、放課後のお見舞いは帰宅部である僕の役目だ。それは僕たち三人の間で、いつの間にか決まった暗黙のルールだった。あるいは、達也自身が、日に日に痩せていく紗菜を直視することを恐れているのかもしれない。
僕は自転車の鍵を開け、ペダルに足をかけた。錆びついたチェーンがきしむ音と共に、重たい車輪が回り始める。
七月の半ば。盆地特有の湿った熱気が制服のシャツを肌に張り付かせていた。学校から紗菜が入院している総合病院までは自転車で二十分ほどの道のりだ。
町を流れる川沿いの道を抜け、なだらかな坂を上っていく。視界の先には鬱蒼とした緑に覆われた山々が迫っている。この町は、どこへ行くにも山に見下ろされているような閉塞感があった。
息を切らして坂を上りきると、白くて、巨大で、無機質な建物が現れる。
自動ドアを抜け、エレベーターで四階へ上がる。スタッフステーションの前で軽く会釈をし、突き当たりの個室へと向かった。
ノックを三回――。
「入るよ」
返事を待たずにドアを開けると、窓から差し込む夕日が白いベッドをオレンジ色に染め上げていた。
「……あれ? また来たの?」
ベッドの上で本を読んでいた紗菜が、顔を上げて苦笑する。
「いやー、暑い暑い。今日は三十五度超えてるんじゃないか?」
僕はわざとらしく手で顔を扇ぎながら、パイプ椅子を引き寄せて座った。
「だったら来なくていいのに。この病院、家とは逆方向でしょう?」
「帰宅部は暇なんだよ。家に帰っても親の小言を聞くだけだし、こっちの方が冷房が効いてて天国だ」
「ふふっ、何それ」
紗菜が小さく笑う。その笑顔を見て、僕は胸の奥で安堵の息を吐いた。思ったより元気そうだ。先週見た時よりも顔色は悪くないし、点滴の管も今日は外されている。
「達也は?」
「部活。週末には絶対来るって言ってた」
「そっか。サッカーバカは相変わらずね」
紗菜は窓の外へ視線を移した。そこには、町を取り囲むようにそびえ立つ裏山が見える。稜線が夕日に縁取られ、黒々としたシルエットが空に浮かび上がっていた。
紗菜が入院したのは先月のことだ。最初はただの貧血だと言っていたが、そのまま検査入院という名目で学校を休み始めた。そのまま一週間が経ち、二週間が経っても、彼女は戻ってこなかった。担任の教師も、紗菜の両親も、僕の親も、具体的な病名を口にしようとはしない。
「今は治療に専念すべき時だから」
そんな大人の定型文が繰り返されるたびに、僕と達也の間には重苦しい沈黙が降り積もっていった。僕たちは高校三年生で、もう子供ではない。大人が隠そうとする真実の輪郭くらい、嫌でも想像できてしまう。
「ねぇ、今年の夏祭りと花火大会、いつだっけ?」
唐突に紗菜が言った。
「八月の第一週だよ。再来週の土曜日」
「そっか……花火大会までには退院したいな」
独り言のような呟きに、僕は努めて明るい声を被せた。
「できるって。退院したら三人で行こうよ。屋台の焼きそば食って、達也にカキ氷奢らせてさ。あと、河川敷でバーベキューもしたいね。去年みたいに」
去年は達也が火加減を間違えて、肉を全部黒焦げにしたんだった。そんな思い出話を続けようとした僕を遮るように、紗菜は静かな声で言った。
「そうね……行きたいな。高校生、最後の夏だもんね」
その声の響きがあまりにも頼りなくて、僕は言葉を詰まらせた。
紗菜は窓の外、裏山の中腹あたりをじっと見つめている。
「……昨日の夜、見ちゃったの」
「何を?」
「狐火」
一瞬、室内の空気が凍りついたような気がした。クーラーの稼働音だけが低く響く。
「いやまさか。気のせいだって。車のライトか何かだろ?」
「ううん、違う。青白くて、ゆらゆら揺れてて……一列になって山を登っていくの。おじいちゃんが生前に言ってた通りだった。本当に綺麗だった……」
冗談を言っている雰囲気ではなかった。紗菜の横顔には恐怖よりも、どこか恍惚としたような色が滲んでいたからだ。それが余計に僕の不安を煽った。
――狐火。
山に囲まれたこの古い町には、いくつかの迷信が今も息づいている。その一つが、「山には神の使いである狐が住んでいる」というものだ。実際に裏山の中腹には、朱色の鳥居が連なる大きな稲荷神社がある。そして、子供の頃から大人たちに言い聞かされてきた禁忌があった。
――病人が狐火を見ると、お迎えが来る。
――狐火を見た人には、災いが降りかかる。
それはただの迷信だ。科学的根拠なんて何もない。何かの発光現象か、あるいは光の屈折か何かだろう。でも、この薄暗くなりかけた病室で聞くその言葉には、否定しきれない重みがあった。
「心配ないって。ずっと入院してるせいで気が滅入ってるだけだよ。とにかく、病気を治すことだけ考えた方がいいよ。ね?」
僕の必死の慰めに、紗菜はようやくこちらを向き、力なく微笑んだ。
「うん、そうだね。ごめん、変なこと言って……」
帰り道の自転車は、行きよりもずっと重く感じられた。
背後の山から視線を感じるような気がして、僕は一度も振り返らずにペダルを漕いだ。
その夜、僕はたまらず達也に電話をかけた。
『……もしもし』
不機嫌そうな声。おそらく、風呂上がりにゲームでもしていたのだろう。
「紗菜のこと……なんだけど」
『なんだ? 急変したとかじゃないだろうな』
達也の声色が瞬時に変わる。
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだけど……」
僕は言葉を選びながら、今日病室で聞いたことを話した。狐火を見たと言っていたこと。その様子が、どこか普通じゃなかったこと。
『はぁ? 狐火だぁ?』
案の定、達也は素っ頓狂な声を上げた。
『お前、そんな年寄りの昔話みたいなこと、真に受けてんのかよ』
「でも、紗菜の様子がおかしかったんだよ。本気で信じてるみたいだった」
『バカが! 見間違いに決まってんだろ! ずっと白い天井ばっか見てるから、メンタルが弱ってんだよ!』
電話越しに、何かが壁にぶつかる鈍い音がした。達也が苛立ちに任せて何かを蹴飛ばしたのだろう。
「分かってるよ。大きな声出すなって……」
『……クソッ』
達也の荒い息遣いが聞こえる。彼の怒りの矛先が僕ではないことは分かっている。彼もまた、得体の知れない不安に押しつぶされそうになっているのだ。
『明日は俺も見舞いに行く』
「え? 部活は?」
『うっせーな! そんなもんサボるに決まってんだろ!』
吐き捨てるように言って、通話は一方的に切られた。携帯電話の画面が暗くなるのを見つめながら、僕は深い溜息をついた。
――不安なんだ。
僕も、達也も。
幼馴染の三人組。いつまでもこの関係が続くと信じていた。紗菜がいなくなってしまったら、僕たちのバランスは崩れてしまう。三角形の一角が欠けたら、それはもう元の図形を保てない。
翌日の朝、ホームルームでのことだった。沈痛な面持ちで教室に入ってきた担任の先生から、紗菜の病状が悪化したことが告げられた。そして当面の間、面会謝絶になったと。
「なんでだよ! なんで急に会えなくなるんだよ!」
放課後の屋上で、達也は怒りに任せて壁を蹴った。
「落ち着けって。今は治療に専念させてやりたいっていう家族の意向らしいんだから」
「関係ねぇよ! 俺らが行って励ました方が元気になるに決まってんだろ!」
「僕らが行ったところで迷惑になるだけだよ。できることは何もないんだ」
僕の言葉に、達也は睨みつけるような目を向けたが、やがて力が抜けたように椅子に崩れ落ちた。
そう。僕らには何もできない。神頼みも、千羽鶴も、医学の前では無力だ。
――ただ待つこと。
最悪の知らせが来ないことを祈りながら、携帯電話を握りしめて眠る夜が続いた。
◇◇◇
セミの鳴き声が、より一層激しさを増した八月の初旬。
奇跡は起きた。
「なーんで二人とも浴衣着て来ないのよ!」
病院の正門前。照りつける太陽の下で、紗菜は腰に手を当てて頬を膨らませていた。その姿は、一か月前まで点滴の管に繋がれていた病人とは到底思えない。
肌には血の気が戻り――いや、透き通るような白さは変わらないが、その頬には紅が差したような艶があった。紺色の生地に金魚があしらわれた浴衣が彼女の華奢な体を包んでいる。
「俺は部活帰りなんだから、着替える暇なんてねぇよ」
達也が気まずそうに頭を掻く。
「僕はほら……浴衣とか似合わないからさ」
「もう、つまんなーい。せっかく退院できたのに」
紗菜はぴょんぴょん飛び跳ねて、下駄をカランコロンと鳴らした。
面会謝絶から一か月。誰もが覚悟を決めていた矢先の、突然の退院だった。医師も「驚異的な回復力だ」と首をかしげていたという噂を聞いた。
――狐につままれたような話。
誰もがそう言った。
人混みでごった返す神社の参道を、僕たちは並んで歩いた。
リンゴ飴、焼きイカ、カキ氷。屋台の明かりが紗菜の横顔を照らす。彼女はこれまでの鬱憤を晴らすかのように、よく笑い、よく食べた。
「あ、そろそろ時間だ」
人々の視線が夜空に向けられる。
ヒュルルル……という笛のような音の後、ドーンという重低音と共に、夜空に大輪の花が咲いた。歓声が上がる。光の粒子が降り注ぎ、僕たちの影を地面に焼き付ける。
「綺麗……」
紗菜が空を見上げて呟く。
次々と打ち上がる花火。赤、緑、黄金色。様々な光が空に散るたびに、紗菜の表情が浮かび上がっては消える。
「ねぇ、もうちょっと静かなところに行かない?」
紗菜の提案で、僕たちは人混みを離れ、神社の裏手にある石段へと向かった。そこは木々に囲まれていて、祭りの喧騒が遠くに聞こえる。
石段に三人で腰を下ろした。冷たい石の感触がお尻に伝わる。達也が自販機で買ってきたジュースを開ける音だけが響いた。
「……なあ、本当に大丈夫なのか? 退院、早すぎたんじゃねぇのか?」
達也が意を決したように聞いた。
「うん。すっごく元気だよ。体が軽いの」
「そっか。ならいいけどよ」
僕と達也も、その違和感について深く考えないようにしていた。考えたくなかった。
紗菜が元気な姿で目の前にいる。約束通り、三人揃って花火大会に来ることができた。それでいいじゃないか。
「ねぇ、気づいてるんでしょ?」
紗菜の声色が、ふっと変わった。祭りの熱気が届かないこの場所で、その声だけがひどく澄んで聞こえた。
「ホント、分かりやすいんだから……」
紗菜は背中を向けたまま言った。
僕と達也は顔を見合わせる。何も言えない。喉に何かがつかえたように言葉が出てこない。
紗菜がゆっくりと振り向いた。
遠くで花火が炸裂し、その光が彼女の顔を照らす。紗菜の両目が、うっすらと青白く光っていた。
――やっぱり。
胸の奥底に沈めていた疑念が、氷のように冷たく広がっていく。
紗菜が退院してすぐに、町である噂が立った。
――紗菜の中に狐が入った、と。
退院直後の彼女を見た近所の老婆が、腰を抜かして拝んだという話も聞いた。
バカバカしい。そんなことあるわけがない。そう思いながらも、僕も達也も気づいていたのだ。彼女の影が、時折歪んで見えることに。彼女の肌に、汗ひとつ浮かんでいないことに。
「お狐様にお願いしたの」
紗菜は内緒話をするような口調で言った。
「もう一度だけ、みんなと花火大会に行かせてくださいって。それ以外は何もいりませんって」
――命と引き換えの契約。
その言葉の意味を理解した瞬間、僕の全身の血が引いていった。
「そしたらね、いいよって。でも、その代わり……」
「よせ! 言うな!」
達也が叫んだ。
「関係ねぇよ! 今のままでいい! ずっとこのままでいいじゃねえか! 誰にも言わないから! なぁ!」
達也が紗菜の手を掴もうとする。しかし、その手は空を切った。触れることができなかったのではない。まるで陽炎を掴んだように、達也の手が紗菜の腕をすり抜けたのだ。
「え……?」
達也が呆然と自分の手を見る。
その時、辺りがぼうっと明るくなった。電灯の明かりではない。青白い、冷たい炎が、僕たちの周囲を取り囲むように現れたのだ。
――狐火。
一つ、また一つと増えていく。そして、石段の上から白い霧と共に二匹の狐が姿を現した。普通の狐ではない。全身が白く、尾が長く、どこか神々しい雰囲気を纏っている。
狐たちは音もなく石段を下り、紗菜の両脇に、着き従うように座った。
「もう、時間みたい」
紗菜が困ったように笑う。
「もっと一緒にいたかったな。高校を卒業しても、おばあちゃんになっても……」
「紗菜……」
僕の声は震えていた。涙が溢れて止まらなかった。
「泣かないでよ。私、幸せだったよ。最後にこうして三人で花火大会に来られたんだもん」
紗菜が立ち上がる。浴衣の裾がふわりと揺れ、その体が徐々に淡い光の粒子へと変わっていくようだった。
「ありがとう。これからは稲荷神社にいるから」
「嫌だ! 行くな! 俺たちを置いていくなよ!」
達也が泣きじゃくりながら叫ぶ。
「ごめんね、さよなら」
紗菜は白い狐たちに促されるように、ゆっくりと石段を上り始めた。その背中は、二度と振り返らなかった。
一歩上るごとに彼女の姿は透明になり、青白い炎と同化していく。
――元気でね。
最後に鈴を転がすような声が聞こえた瞬間、夜空でこの日一番大きな花火が炸裂した。
黄金色の光が世界を埋め尽くす。あまりの眩しさに、僕たちは目を閉じた。次に目を開けた時には、そこにはもう誰もいなかった。静まり返った石段と、遠くで聞こえる祭りの喧騒だけが残されていた。僕も達也も、長いことその場から動けなかった。
狐火が消え、完全な闇が訪れても、僕たちは紗菜が消えた石段の上を見つめ続けていた。
あれから五年が経った。
高校卒業後、僕は地元の町役場に就職した。観光課に配属され、この町の魅力を発信する仕事をしている。
達也は東京の大学からのサッカー推薦を断り、地元の大学に進学した。今は教師を目指して勉強中だ。「この町でサッカーを教えるんだ」と、彼は張り切っていた。
僕たちはこの町を離れなかった。離れることができなかったのだ。
夏の盛り。夕暮れ時。
僕と達也は、コンビニの袋を提げて稲荷神社の長い石段を上っていた。袋の中身はミネラルウォーターとワンカップ酒、そして、地元の豆腐屋で買ってきた分厚い油揚げだ。
「いやー、今年も暑いな」
「まったくだ。温暖化ってやつか?」
他愛のない会話をしながら汗を拭う。
朱色の鳥居をくぐり、本殿の前で手を合わせる。そして、油揚げを供えた。
「おーい! 紗菜ー! 来てやったぞー!」
達也が本殿に向かって大声を張り上げる。
「暑くてかなわん! ちょっとは涼しくしてくれよ! 神様なんだろ!」
「おいおい、罰当たりなこと言うなよ」
僕は苦笑しながら達也をたしなめるが、彼は構わずに続ける。
「姿見せろよー! 隠れてないで出てこいって!」
境内の木々がざわざわと風に揺れた。どこからか、コン、という乾いた鳴き声が聞こえたような気がした。
達也も僕も、顔を見合わせて笑った。きっと紗菜も、向こう側で呆れながら笑っているに違いない。
帰り道、石段を下りながら、ふと振り返る。本殿の奥、鬱蒼とした森の中に、青白い光がゆらりと揺れたのが見えた。
僕たちは足を止めず、けれど確かな温もりを胸に歩き出す。
――会えなくても、そこにいる。
この町のどこかで、彼女はずっと僕らを見守っている。その事実だけで、僕たちは生きていける気がした。
見上げれば、今年もまた、あの夏と同じような満天の星空が広がっていた。
(了)
「いやまさか。気のせいだって。車のライトか何かだろ?」
「ううん、違う。青白くて、ゆらゆら揺れてて……一列になって山を登っていくの。おじいちゃんが生前に言ってた通りだった。本当に綺麗だった……」
冗談を言っている雰囲気ではなかった。紗菜の横顔には恐怖よりも、どこか恍惚としたような色が滲んでいたからだ。それが余計に僕の不安を煽った。
――狐火。
山に囲まれたこの古い町には、いくつかの迷信が今も息づいている。その一つが、「山には神の使いである狐が住んでいる」というものだ。実際に裏山の中腹には、朱色の鳥居が連なる大きな稲荷神社がある。そして、子供の頃から大人たちに言い聞かされてきた禁忌があった。
――病人が狐火を見ると、お迎えが来る。
――狐火を見た人には、災いが降りかかる。
それはただの迷信だ。科学的根拠なんて何もない。何かの発光現象か、あるいは光の屈折か何かだろう。でも、この薄暗くなりかけた病室で聞くその言葉には、否定しきれない重みがあった。
「心配ないって。ずっと入院してるせいで気が滅入ってるだけだよ。とにかく、病気を治すことだけ考えた方がいいよ。ね?」
僕の必死の慰めに、紗菜はようやくこちらを向き、力なく微笑んだ。
「うん、そうだね。ごめん、変なこと言って……」
帰り道の自転車は、行きよりもずっと重く感じられた。
背後の山から視線を感じるような気がして、僕は一度も振り返らずにペダルを漕いだ。
その夜、僕はたまらず達也に電話をかけた。
『……もしもし』
不機嫌そうな声。おそらく、風呂上がりにゲームでもしていたのだろう。
「紗菜のこと……なんだけど」
『なんだ? 急変したとかじゃないだろうな』
達也の声色が瞬時に変わる。
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだけど……」
僕は言葉を選びながら、今日病室で聞いたことを話した。狐火を見たと言っていたこと。その様子が、どこか普通じゃなかったこと。
『はぁ? 狐火だぁ?』
案の定、達也は素っ頓狂な声を上げた。
『お前、そんな年寄りの昔話みたいなこと、真に受けてんのかよ』
「でも、紗菜の様子がおかしかったんだよ。本気で信じてるみたいだった」
『バカが! 見間違いに決まってんだろ! ずっと白い天井ばっか見てるから、メンタルが弱ってんだよ!』
電話越しに、何かが壁にぶつかる鈍い音がした。達也が苛立ちに任せて何かを蹴飛ばしたのだろう。
「分かってるよ。大きな声出すなって……」
『……クソッ』
達也の荒い息遣いが聞こえる。彼の怒りの矛先が僕ではないことは分かっている。彼もまた、得体の知れない不安に押しつぶされそうになっているのだ。
『明日は俺も見舞いに行く』
「え? 部活は?」
『うっせーな! そんなもんサボるに決まってんだろ!』
吐き捨てるように言って、通話は一方的に切られた。携帯電話の画面が暗くなるのを見つめながら、僕は深い溜息をついた。
――不安なんだ。
僕も、達也も。
幼馴染の三人組。いつまでもこの関係が続くと信じていた。紗菜がいなくなってしまったら、僕たちのバランスは崩れてしまう。三角形の一角が欠けたら、それはもう元の図形を保てない。
翌日の朝、ホームルームでのことだった。沈痛な面持ちで教室に入ってきた担任の先生から、紗菜の病状が悪化したことが告げられた。そして当面の間、面会謝絶になったと。
「なんでだよ! なんで急に会えなくなるんだよ!」
放課後の屋上で、達也は怒りに任せて壁を蹴った。
「落ち着けって。今は治療に専念させてやりたいっていう家族の意向らしいんだから」
「関係ねぇよ! 俺らが行って励ました方が元気になるに決まってんだろ!」
「僕らが行ったところで迷惑になるだけだよ。できることは何もないんだ」
僕の言葉に、達也は睨みつけるような目を向けたが、やがて力が抜けたように椅子に崩れ落ちた。
そう。僕らには何もできない。神頼みも、千羽鶴も、医学の前では無力だ。
――ただ待つこと。
最悪の知らせが来ないことを祈りながら、携帯電話を握りしめて眠る夜が続いた。
◇◇◇
セミの鳴き声が、より一層激しさを増した八月の初旬。
奇跡は起きた。
「なーんで二人とも浴衣着て来ないのよ!」
病院の正門前。照りつける太陽の下で、紗菜は腰に手を当てて頬を膨らませていた。その姿は、一か月前まで点滴の管に繋がれていた病人とは到底思えない。
肌には血の気が戻り――いや、透き通るような白さは変わらないが、その頬には紅が差したような艶があった。紺色の生地に金魚があしらわれた浴衣が彼女の華奢な体を包んでいる。
「俺は部活帰りなんだから、着替える暇なんてねぇよ」
達也が気まずそうに頭を掻く。
「僕はほら……浴衣とか似合わないからさ」
「もう、つまんなーい。せっかく退院できたのに」
紗菜はぴょんぴょん飛び跳ねて、下駄をカランコロンと鳴らした。
面会謝絶から一か月。誰もが覚悟を決めていた矢先の、突然の退院だった。医師も「驚異的な回復力だ」と首をかしげていたという噂を聞いた。
――狐につままれたような話。
誰もがそう言った。
人混みでごった返す神社の参道を、僕たちは並んで歩いた。
リンゴ飴、焼きイカ、カキ氷。屋台の明かりが紗菜の横顔を照らす。彼女はこれまでの鬱憤を晴らすかのように、よく笑い、よく食べた。
「あ、そろそろ時間だ」
人々の視線が夜空に向けられる。
ヒュルルル……という笛のような音の後、ドーンという重低音と共に、夜空に大輪の花が咲いた。歓声が上がる。光の粒子が降り注ぎ、僕たちの影を地面に焼き付ける。
「綺麗……」
紗菜が空を見上げて呟く。
次々と打ち上がる花火。赤、緑、黄金色。様々な光が空に散るたびに、紗菜の表情が浮かび上がっては消える。
「ねぇ、もうちょっと静かなところに行かない?」
紗菜の提案で、僕たちは人混みを離れ、神社の裏手にある石段へと向かった。そこは木々に囲まれていて、祭りの喧騒が遠くに聞こえる。
石段に三人で腰を下ろした。冷たい石の感触がお尻に伝わる。達也が自販機で買ってきたジュースを開ける音だけが響いた。
「……なあ、本当に大丈夫なのか? 退院、早すぎたんじゃねぇのか?」
達也が意を決したように聞いた。
「うん。すっごく元気だよ。体が軽いの」
「そっか。ならいいけどよ」
僕と達也も、その違和感について深く考えないようにしていた。考えたくなかった。
紗菜が元気な姿で目の前にいる。約束通り、三人揃って花火大会に来ることができた。それでいいじゃないか。
「ねぇ、気づいてるんでしょ?」
紗菜の声色が、ふっと変わった。祭りの熱気が届かないこの場所で、その声だけがひどく澄んで聞こえた。
「ホント、分かりやすいんだから……」
紗菜は背中を向けたまま言った。
僕と達也は顔を見合わせる。何も言えない。喉に何かがつかえたように言葉が出てこない。
紗菜がゆっくりと振り向いた。
遠くで花火が炸裂し、その光が彼女の顔を照らす。紗菜の両目が、うっすらと青白く光っていた。
――やっぱり。
胸の奥底に沈めていた疑念が、氷のように冷たく広がっていく。
紗菜が退院してすぐに、町である噂が立った。
――紗菜の中に狐が入った、と。
退院直後の彼女を見た近所の老婆が、腰を抜かして拝んだという話も聞いた。
バカバカしい。そんなことあるわけがない。そう思いながらも、僕も達也も気づいていたのだ。彼女の影が、時折歪んで見えることに。彼女の肌に、汗ひとつ浮かんでいないことに。
「お狐様にお願いしたの」
紗菜は内緒話をするような口調で言った。
「もう一度だけ、みんなと花火大会に行かせてくださいって。それ以外は何もいりませんって」
――命と引き換えの契約。
その言葉の意味を理解した瞬間、僕の全身の血が引いていった。
「そしたらね、いいよって。でも、その代わり……」
「よせ! 言うな!」
達也が叫んだ。
「関係ねぇよ! 今のままでいい! ずっとこのままでいいじゃねえか! 誰にも言わないから! なぁ!」
達也が紗菜の手を掴もうとする。しかし、その手は空を切った。触れることができなかったのではない。まるで陽炎を掴んだように、達也の手が紗菜の腕をすり抜けたのだ。
「え……?」
達也が呆然と自分の手を見る。
その時、辺りがぼうっと明るくなった。電灯の明かりではない。青白い、冷たい炎が、僕たちの周囲を取り囲むように現れたのだ。
――狐火。
一つ、また一つと増えていく。そして、石段の上から白い霧と共に二匹の狐が姿を現した。普通の狐ではない。全身が白く、尾が長く、どこか神々しい雰囲気を纏っている。
狐たちは音もなく石段を下り、紗菜の両脇に、着き従うように座った。
「もう、時間みたい」
紗菜が困ったように笑う。
「もっと一緒にいたかったな。高校を卒業しても、おばあちゃんになっても……」
「紗菜……」
僕の声は震えていた。涙が溢れて止まらなかった。
「泣かないでよ。私、幸せだったよ。最後にこうして三人で花火大会に来られたんだもん」
紗菜が立ち上がる。浴衣の裾がふわりと揺れ、その体が徐々に淡い光の粒子へと変わっていくようだった。
「ありがとう。これからは稲荷神社にいるから」
「嫌だ! 行くな! 俺たちを置いていくなよ!」
達也が泣きじゃくりながら叫ぶ。
「ごめんね、さよなら」
紗菜は白い狐たちに促されるように、ゆっくりと石段を上り始めた。その背中は、二度と振り返らなかった。
一歩上るごとに彼女の姿は透明になり、青白い炎と同化していく。
――元気でね。
最後に鈴を転がすような声が聞こえた瞬間、夜空でこの日一番大きな花火が炸裂した。
黄金色の光が世界を埋め尽くす。あまりの眩しさに、僕たちは目を閉じた。次に目を開けた時には、そこにはもう誰もいなかった。静まり返った石段と、遠くで聞こえる祭りの喧騒だけが残されていた。僕も達也も、長いことその場から動けなかった。
狐火が消え、完全な闇が訪れても、僕たちは紗菜が消えた石段の上を見つめ続けていた。
あれから五年が経った。
高校卒業後、僕は地元の町役場に就職した。観光課に配属され、この町の魅力を発信する仕事をしている。
達也は東京の大学からのサッカー推薦を断り、地元の大学に進学した。今は教師を目指して勉強中だ。「この町でサッカーを教えるんだ」と、彼は張り切っていた。
僕たちはこの町を離れなかった。離れることができなかったのだ。
夏の盛り。夕暮れ時。
僕と達也は、コンビニの袋を提げて稲荷神社の長い石段を上っていた。袋の中身はミネラルウォーターとワンカップ酒、そして、地元の豆腐屋で買ってきた分厚い油揚げだ。
「いやー、今年も暑いな」
「まったくだ。温暖化ってやつか?」
他愛のない会話をしながら汗を拭う。
朱色の鳥居をくぐり、本殿の前で手を合わせる。そして、油揚げを供えた。
「おーい! 紗菜ー! 来てやったぞー!」
達也が本殿に向かって大声を張り上げる。
「暑くてかなわん! ちょっとは涼しくしてくれよ! 神様なんだろ!」
「おいおい、罰当たりなこと言うなよ」
僕は苦笑しながら達也をたしなめるが、彼は構わずに続ける。
「姿見せろよー! 隠れてないで出てこいって!」
境内の木々がざわざわと風に揺れた。どこからか、コン、という乾いた鳴き声が聞こえたような気がした。
達也も僕も、顔を見合わせて笑った。きっと紗菜も、向こう側で呆れながら笑っているに違いない。
帰り道、石段を下りながら、ふと振り返る。本殿の奥、鬱蒼とした森の中に、青白い光がゆらりと揺れたのが見えた。
僕たちは足を止めず、けれど確かな温もりを胸に歩き出す。
――会えなくても、そこにいる。
この町のどこかで、彼女はずっと僕らを見守っている。その事実だけで、僕たちは生きていける気がした。
見上げれば、今年もまた、あの夏と同じような満天の星空が広がっていた。
(了)
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