第2話:エルドラド
ー/ー 4月30日、松山港――。
かつて二十一世紀初頭に、瀬戸内国際クルーズの拠点として観光客の歓声で賑わったその場所は、今や朽ち果てた特殊鋼のクレーンが墓標のように並ぶ、死に体の大地と化していた。重金属を含んだ夜霧が視界を濁らせ、どんよりと淀んだ海面には、不法投棄された産業廃油が毒々しい虹色の皮膜を広げている。
だが、その荒涼たる暗黒の湾岸中央に、物理法則をあざ笑うかのような異形の巨構造物が鎮座していた。
帝国金融所有・電脳超大型客船――『エルドラド』。
十万トンクラスの船体全体が、自己修復機能を持つ黄金のナノマシン・コーティングで覆われている。夜の海を圧するように放たれるその黄金の光は、一定の周期で不気味に明滅し、まるで巨大な深海生物が呼吸しているかのような錯覚を抱かせた。
護送車から吐き出され、黒服の私兵たちに連行されてきた債務者たちの、煤けた作業服や破れた防弾スーツ、そして光を失った瞳――それらすべての「時代の敗北者」たちの惨めな姿が、鏡面のような黄金の船壁に、歪んだ形で醜く反射していた。
忠茂は、タラップを踏み締めた。
潮風が頬を叩き、アルコールの残滓を脳から強制的に吹き飛ばす。周囲の債務者たちは腰を抜かし、泣き叫び、あるいは神に祈りを捧げていたが、忠茂の双眸だけは、冷徹に、そして獰猛に機能し始めていた。
逃げ場などない。そんなことは百も承知だ。
右膝の古傷が、奇妙な歓喜を伴って小さく疼いていた。かつて『アイアン・ドライブ』のバトル・アリーナに足を踏み入れたあの瞬間と同じ、アドレナリンが血管を焼き尽くす感覚が、彼を支配しつつあった。
重厚な気密ハッチをくぐり、船内へ足を踏み入れた瞬間、忠茂の網膜視覚(サイバー・アイ)に鮮烈な警告文字が走った。
『警告:生体IDのペアリング完了。対象の体内ナノマシンを帝国金融の管理下に置きます。貸付残高・金二千万シリングを、生体連動債務プレートに変換――』
黒服の男が、感情の失せた動作で忠茂の胸元に一枚のプレートを叩きつけた。
それは鈍い結晶光を放つ、手のひらサイズの高密度クリスタルだった。
掌に載せた瞬間、脳の髄まで凍りつくような冷痛が走る。このプレートは体内のナノマシンと神経結合しており、物理的に手元から離れるか、あるいは破損すれば、即座に中枢神経へ致死性の電脳ペインがフィードバックされる仕組みだ。
「20枚……」
結晶の表面に刻まれた、血のように赤い数字。
一枚につき、価値は百万円。
これこそが、かつて「松山の昇り龍」と謳われた有賀忠茂の、現在の命の値段。そして、友人である山口が彼に背負わせた、裏切りの重さそのものだった。
案内された中央大広間には、およそ三百人の債務者がひしめき合っていた。
異常気候による農地崩壊で全財産を失った元開拓民、違法電脳化手術のローンを踏み倒したサイバー浮浪者、システムから間引きされた元下級官僚。2130年という「徹底的に効率化されたメガロポリス・システム」から爪弾きにされ、この四国の澱みに流れ着いた、文字通りのバグ(不良品)の集積所だった。
怒号、嗚咽、獣のような罵声、そして絶望の熱気が、広間のドーム状の天井にぶつかって渦巻いている。
その混沌を、冷徹な一筋の閃光が切り裂いた。
ステージのホログラム照明が一斉に点灯し、場を圧するほどの光量が広間を照らし出す。
現れたのは、完璧に統制された白髪と、一分の隙もないスリーピースの最高級防弾スーツを纏った老人だった。
帝国金融・四国総括本部長、及川。
彼が壇上に立った瞬間、その身体から放たれる、数百人の命を紙切れのように扱ってきた者特有の傲岸なオーラによって、広間の空気が物理的に一段階重くなった。
「おい! 説明しろ! 俺たちはただの借金だろ! なんでこんな監獄船に連れてこられなきゃいけないんだ!」
最前列にいた、全身を無骨なサイバーパーツで不格好に拡張した男が、ステージの縁に手をかけて怒鳴り散らした。
だが、及川は眉一つ動かさない。ただ、仕立ての良い袖口から覗く人差し指を、鬱陶しい羽虫でも払うかのように軽く横に振った。
パチ、と天井の自動迎撃レーザーが微音を立てた。
次の瞬間、抗議した男の巨体が、まるで内部の電子回路をすべて焼き切られたかのように、白目を剥いて床へ硬直したまま崩れ落ちた。
超高周波スタン・ビーム。一般のサイバネティクスを一撃で機能停止させる兵器。三百人の債務者のうち、その光条を視認できた者は誰もいなかった――ただ一人、かつて時速百五十キロの世界で弾丸のような鉄球を追いかけ続けた、忠茂の動体視力を除いては。
(天井の死角、4本の自動銃座。及川の音声、もしくは指のジェスチャーによる生体認証トリガーか……)
忠茂は呼吸のテンポを一切乱さず、冷徹にその脅威の出処を脳内マップに記録した。
広間は、完全な氷の静寂に包まれる。
「――Fuck you.」
及川の端正な老顔から漏れ出たその英語の罵倒は、あまりにも紳士的な外見と、そしてあまりにも冷酷な暴力の現実と噛み合わず、居並ぶ者たちの背筋に死の予感を刻み込んだ。
「騒ぐなや、社会のゴミ共。耳ぁ塞いで、その足りん脳みそに叩き込め」
及川の声は低く、しかし室内の音響マトリクスを通じて、全員の聴覚神経に直接響くような絶対的な圧を持っていた。
「お前らはな、2130年という完成された美しい世界において、システムから弾き出された最悪のバグじゃ。時代の敗北者、価値なき家畜よ。普通なら、湾岸のドナドナ船に載せられて、パーツごとに分解されて終わりじゃ」
言葉の一つ一つが、凍りついたナイフのように債務者たちの尊厳を削りとっていく。
「……だが、我が帝国金融は慈悲深い。バグにも一度だけ、再起動(リブート)のチャンスを与えてやる」
及川は、三日月の形に口角を釣り上げ、悪魔の笑みを浮かべた。
「ルールは至ってシンプルじゃ。他人のプレートを奪え。力で奪うか、謀略で奪うか、あるいはその命ごと毟り取るか。プレートは命の灯火じゃ。他人の命を喰らって200枚――計2億シリングに達した者だけが、もう一度、市民という名の“人間”に戻ることを許される」
老人は両手を広げ、地獄の門を開帳するように宣告した。
「――その気高き弱肉強食の権利を、貴様らに与えてやる」
次の瞬間、及川の言葉と完全に同期して、大広間の鋼鉄の床が地響きを立てて駆動を始めた。
中央の床が左右に割れ、底なしの暗黒から、凄まじい油臭さと硝煙の臭気が噴き上がる。
ウィィィィィン――!!
鼓膜を震わせる重低音とともにせり上がってきたのは、全身に歪な装甲を溶接された、数十機の旧式・戦闘用強化外骨格(エグゾスケルトン)――そして、血に汚れた鋼鉄の闘技場(コロシアム)だった。
周囲が恐怖の絶叫に包まれる中、忠茂は割れた床の底を見つめ、不敵に笑った。
「……へえ。やっぱりな」
そこにあるのは、かつて彼がすべてを賭け、そしてすべてを失った戦場の、最も薄汚く、最も獰猛な変種だった。
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