第1話:黄金郷への招待
ー/ー 西暦2130年、4月。愛媛・松山。
瀬戸内海から吹き上がる湿った風は、百年前の気象庁の記録よりも遥かに重く、人間の肌にねっとりとまとわりつくように生温かった。地球温暖化の果てに変質した地方都市の空気は、熟しすぎた果実のような、どこか腐臭めいた甘さを帯びている。
有賀忠茂は、昼前から安物の合成ウィスキーを紙コップで煽っていた。
三日前から、湾岸のコンテナ集積場での肉体労働(バイト)を無断で飛ばしている。網膜に投影される視覚デバイスの隅では、現場責任者からの罵倒混じりの未読メッセージが、赤く明滅を繰り返していた。読む気はなかった。消去の瞬きを一つ。それで世界は静かになる。
数年前の新型熱病で両親を相次いで亡くし、唯一の肉親だった姉は「この沈みかけの泥舟に付き合う義理はない」と吐き捨てて、軌道エレベーターのある東京メガロポリスへ去った。
二十四歳になった忠茂の手元に残されたのは、水素エンジンの排気バルブがイカれた古びた軽自動車と、電子マネーの口座に残された、数日分の合成食糧カプセルしか買えない端金だけだった。
かつて、自分にも輝かしい未来があった。
強化外骨格(エグゾスケルトン)を纏い、時速百五十キロで激突し合う極限の格闘球技『アイアン・ドライブ』。そのユースリーグで、忠茂は「松山の昇り龍」とまで呼ばれた突撃手(ストライカー)だった。だが、膝の靭帯を断裂し、ナノマシンによる再生医療の費用を払えなかったあの日から、彼の時計は止まっている。
昼下がりの臨海道路は、重金属の霧に包まれて眠たげだった。
忠茂は鈍く疼く右膝をさすりながら、酒で濁った頭を無理やり覚醒させ、古びたステアリングを握った。行く宛などない。ただ、このまま安アパートで孤独死するのを待つくらいなら、どこか景気のいい場所で壁にでも激突した方がマシだという、投げやりな衝動だけが彼を動かしていた。
――行きたくもない終着駅へ向かう、ただそれだけの、退屈な午後のはずだった。
その瞬間、視界の端から滑り込んできた漆黒の影に、忠茂の動体視力が反応した。
だが、安物のブレーキパッドは重い車体を止めきれない。
鈍い破壊音が、湿った空気を引き裂いた。
衝撃。シートベルトが胸骨に食い込み、忠茂は激しく咳き込んだ。フロントガラスの向こう、路肩に不法停車していた流線型の高級セダン――最新型の反重力サスペンションを搭載した、一般人が一生かかっても触れられない代物――の後部バンパーに、自分の軽自動車の角が深く、無惨に食い込んでいた。
「……クソが」
血の気が一気に引いていく。
セダンの、スモークの入った電子偏光ガラスのドアが、音もなく上部へスライドした。
降りてきたのは、仕立てのいい黒い防弾スーツに身を包んだ男だった。
白髪交じりの髪をオールバックに固め、無駄のない洗練された所作で、煙の出ない吸入式煙草を咥えている。男は首筋のサイバー・コネクタを指先でなぞりながら、冷徹な、しかしすべてを見透かすような眼差しで忠茂を値踏みした。
男の胸元、漆黒の生地に映える銀色のバッジには、古めかしいフォントで三文字が刻まれている。
――帝国金融。
忠茂の脊髄を、絶対的な恐怖が駆け抜けた。
国家権力が形骸化したこの時代、四国一帯の不渡り手形と、人間の肉体原価を支配している民間軍事金融組織。それが彼らだった。
「兄ちゃん。ええ度胸しとるのぉ。ワシの車に特攻(ぶっこ)んでくるとは、どんな命知らずかと思えば……」
男の口調には、瀬戸内の古い極道特有の泥臭い響きがあった。だが、その瞳は笑っていない。機械化された左眼の光学レンズが、ウィーンと微音を立てて忠茂の顔をスキャンする。
「ほう。有賀忠茂じゃな。わざわざ網を広げるまでもなく、向こうから飛び込んできたわ」
「……なぜ、俺の名を」
「とりあえず、どこぞ入ろうや。この街の空気は、年寄りにはちと堪えるけぇ」
男の放つ圧倒的な威圧感に抗えず、忠茂は近くの自動化喫茶店(オート・カフェ)へと連行された。
店内に流れる場違いに軽快な20世紀のポップスが、ガラス一枚隔てた外の世界の地獄を遮断している。ドローンが運んできた人工コーヒーを一口すすり、男は前置きもなく、網膜ディスプレイに一枚の電子契約書を展開した。
「ワシは黒川。――直球で言おうや。山口って名に聞き覚えはあるか?」
「……中学からの同郷だ。一番、信用していた」
「そいつが三日前、軌道エレベーターの密航船で国外へ蒸発した。あんたの生体認証(サイン)が入った、この連帯保証人承諾書を残してな」
忠茂の指先が、合成樹脂のテーブルの上で凍りついた。
山口。あいつ、俺を売りやがったのか。あの『アイアン・ドライブ』のユース時代、共にプロを目指そうと誓い合った唯一の戦友が。
「元金は三百万。うちの利息はトイチ――10日で1割じゃ。電子通貨の自動複利計算を舐めたらいかん。先月飛ばれてから、雪だるま式よ。今や、二千万に届こうかという額になっとる」
「に……二千万……!?」
自分の声が、遠い世界の出来事のように聞こえた。
二千万シリング。湾岸のドックで一生爪を血に染めて働いても、利息の返済にすら届かない。それは文字通り、この令和の世における「死刑宣告」だった。
「あんたの現在の市場価値じゃ、臓器をすべてサイバーパーツに置換して売り払っても、せいぜい五百万にしかならん。一生かけても返せん額じゃ。……普通ならな」
黒川はゆっくりと口角を上げた。その顔は、罠にかかった獲物の肉をどう料理するか吟味する、老いた虎のそれだった。
「だがな、有賀。その絶望的な数字を、一晩で『ゼロ』にできる、極上のエンターテインメントがある」
喉の奥がカラカラに乾き、肺が酸素を拒絶する。
逃げなければならない。だが、かつてストライカーとして培った野生の直感が、黒川の言葉の背後にある「巨大な血の匂い」と、同時に「圧倒的な黄金の輝き」を察知していた。
「……イベント、だと?」
「そうよ。我が帝国金融が筆頭株主を務める、合法・非合法混じりの超極限重機競技――『煉獄ドライブ』。来週、松山臨海コンテナ特区の特設クローズド・コースで、一晩限りの裏レースが開催される。ルールは簡単、旧式の強化外骨格を駆り、死なさずに荷物をゴールへ届けるか、敵をすべてスクラップにするかだ」
黒川は身を乗り出し、機械の左眼を妖しく発光させながら、悪魔の囁きを忠茂の鼓膜に叩き込んだ。
「お前がかつて『松山の昇り龍』と呼ばれた男じゃからこそ、ワシはこうして話をしとるんじゃ。命の保証はせん。だが、生き残れば借金は帳消し、それどころか、お前が欲しくてたまらん『プロリーグへの復帰切符』すら手に入る。……どうする? 乗ってみるか、有賀」
その問いは、極上の毒のように忠茂の脳髄に染み渡った。
裏切った友への怒り、理不尽な現実への絶望、そして何よりも――もう一度、あの時速百五十キロの、命が爆発するような金属の戦場へ戻れるという、狂気的な歓喜。
忠茂は、震える右手で、黒川が提示した電子契約書のホログラムを掴み取った。
「……その、地獄行きのシート。俺が買うわ」
濁っていた彼の瞳に、かつて多くの観客を魅了した、獰猛なストライカーの光が蘇っていた。
この瞬間、2130年の愛媛・松山の澱んだ空気の中で、一人の男の運命の歯車が、血と硝煙の音を立てて回転を始めた。
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