蝉時雨の鎮魂歌
ー/ー むせ返るような緑の匂いが、鼻腔を刺激した。
七月の陽射しは容赦なく肌を焼き、視界の端で陽炎が揺らめいている。私は額の汗を手の甲でぬぐい、目の前に広がる光景に息を飲んだ。
かつて、ここには「未来」があったはずだった。
私の背丈ほどにも伸びた夏草が、辺り一面を覆い尽くしている。その緑の波の間にまばらに突き出ているのは、錆びついた鉄骨とひび割れたコンクリートの塊だ。
ここは二十年前、私が心血を注いで働いた工場の跡地である。この辺一帯で、最も大きな工場だった。
草をかき分けて進む。足元に絡みつく蔓が、ここから先へは行くな、と拒んでいるようだ。
七月の陽射しは容赦なく肌を焼き、視界の端で陽炎が揺らめいている。私は額の汗を手の甲でぬぐい、目の前に広がる光景に息を飲んだ。
かつて、ここには「未来」があったはずだった。
私の背丈ほどにも伸びた夏草が、辺り一面を覆い尽くしている。その緑の波の間にまばらに突き出ているのは、錆びついた鉄骨とひび割れたコンクリートの塊だ。
ここは二十年前、私が心血を注いで働いた工場の跡地である。この辺一帯で、最も大きな工場だった。
草をかき分けて進む。足元に絡みつく蔓が、ここから先へは行くな、と拒んでいるようだ。
「ここか……」
私はある一点で立ち止まった。コンクリートの土台だけが残るその場所は、かつて第一製造ラインがあった場所だ。
目を閉じると、鼓膜の奥で当時の音が蘇る。
ベルトコンベアの駆動音、金属がぶつかり合う甲高い音、怒号のような指示出し、そして、納期に追われる焦燥感。
私たちは間違いなく「兵」だった。二十四時間戦い続けることが美徳とされ、この工場から世界へ製品を送り出すことこそが、人生の全てだと信じて疑わなかった。
徹夜明けの充血した目で笑い合い、缶コーヒーで乾杯したあの朝焼け。数字という名の戦果を挙げるために、私たちは家庭を顧みず、健康を削り、ただひたすらに走った。
だが、時代の風向きは変わった。物価高、海外移転、コスト競争……。私たちの「城」はあっけなく陥落し、閉鎖が決まった。最後の日の、あの静まり返った工場の寒々しさを、私は一生忘れないだろう。
目を開ける。
そこに喧騒はない。あるのは圧倒的な「緑」と、耳をつんざくような蝉時雨だけだ。
目を開ける。
そこに喧騒はない。あるのは圧倒的な「緑」と、耳をつんざくような蝉時雨だけだ。
私たちが命を削って守ろうとしたラインの跡には、名も知らぬ黄色い花が咲き乱れている。私たちが必死に組み上げた夢の残骸を、自然はわずか二十年で飲み込み、美しい風景の一部へと変えてしまった。
ふと、足元に何か光るものを見つけた。錆びたボルトだ。拾い上げると、指先にざらりとした感触と熱が伝わる。かつてこの場所を支えていた小さな部品は、まるで敗残兵の遺品のように見えた。
「夏草や、か」
口をついて出た言葉は、熱風にさらわれて消えた。
不思議と、悲壮感はなかった。むしろ、肩の荷が下りたような安堵感さえある。私たちの欲望も、野心も、悔しさも、全てはこの強烈な生命力を持つ夏草の下に埋葬されたのだ。
人間がどんなに足掻いても、最後はこうして土へ、そして草へと還っていく。
ふと、足元に何か光るものを見つけた。錆びたボルトだ。拾い上げると、指先にざらりとした感触と熱が伝わる。かつてこの場所を支えていた小さな部品は、まるで敗残兵の遺品のように見えた。
「夏草や、か」
口をついて出た言葉は、熱風にさらわれて消えた。
不思議と、悲壮感はなかった。むしろ、肩の荷が下りたような安堵感さえある。私たちの欲望も、野心も、悔しさも、全てはこの強烈な生命力を持つ夏草の下に埋葬されたのだ。
人間がどんなに足掻いても、最後はこうして土へ、そして草へと還っていく。
松尾芭蕉が平泉で感じた無常観も、きっとこれに近いものだったのだろうか。
違うのは、ここに眠るのは武士たちの栄華ではなく、高度経済成長の夢の跡だということだけだ。
「行くか……」
私はボルトを元の場所へそっと戻した。ポケットに入れて持ち帰ろうかとも思ったが、それはこの場所にこそあるべきだと思ったからだ。
踵を返すと、背中で蝉の声が一層激しくなった気がした。それは、かつてここで戦った私たちへの鎮魂歌のようにも、あるいは、愚かな夢を見た人間たちへの嘲笑のようにも聞こえた。
違うのは、ここに眠るのは武士たちの栄華ではなく、高度経済成長の夢の跡だということだけだ。
「行くか……」
私はボルトを元の場所へそっと戻した。ポケットに入れて持ち帰ろうかとも思ったが、それはこの場所にこそあるべきだと思ったからだ。
踵を返すと、背中で蝉の声が一層激しくなった気がした。それは、かつてここで戦った私たちへの鎮魂歌のようにも、あるいは、愚かな夢を見た人間たちへの嘲笑のようにも聞こえた。
私は一度も振り返ることなく、緑の海を後にした。
アスファルトの道路に出ると、自分の靴がひどく汚れていることに気づく。だが、その土の汚れは、今の私にはなぜか誇らしく思えた。
(了)
アスファルトの道路に出ると、自分の靴がひどく汚れていることに気づく。だが、その土の汚れは、今の私にはなぜか誇らしく思えた。
(了)
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