③
ー/ー
金曜日の今日は、両親は二人で結婚記念日のディナーに都心のホテルにお出掛けだ。
仕事帰りに待ち合わせて直接向かい、そのまま泊まって来るらしい。
正確には記念日は今日ではないのだが、二人とも働いているため当日は無理だったのでずらしたそうだ。
再婚家庭の事情などそれこそ千差万別だろうが、航大と雪音の親の場合はどちらも子連れということを勘案したのか結婚式もしていない。
一応は四人でお洒落して写真館で家族写真を撮り、その帰り道に小さな子が一緒でも行けるごく庶民的なレストランで食事しただけだった。
その時の写真は、今も両親の寝室の壁に飾られている。
結婚して数年は雪音がまだ保育園で送り迎え必須のため、時間に追われる慌ただしい日々を送っていた。
小学校に上がってからも、両親ともが子どもだけで留守番をさせるのに抵抗があると言って結婚記念日といえどせいぜい家で少し豪華な夕食を取るくらいだったのだ。
雪音が中学生になりこの家に越してきてから、ようやく二人で夜出かける心の余裕もできたようだ。
以来毎年この時期になると記念の食事には出掛けていたが、両親が二人だけで外泊するのは初めてのことだ。
義母が職場で宿泊補助券をもらったのだとか。
「パパとママだけご馳走じゃ申し訳ないから、航ちゃんと雪ちゃんも何でも好きなもの食べていいわよ~」
彼女がそう言って、お金を置いて行ってくれた。
航大と雪音は二人で話した結果、高級というほどではないが普段自腹ではなかなか行けない近所のイタリアンの店を選んだ。
「コース頼んでいい!?」
「夜はコースが基本だろ。アラカルトの方がイレギュラーじゃないか? コースに一品足すとかって感じでさ」
店に向かう道中から嬉しそうな雪音を微笑ましく見やり、航大も笑顔で告げた。
店内の黒板には、仕入れ状況などから日毎に変わる「おすすめメニュー」が記載されている。
「航ちゃん、なんか飲む? フェアでグラスワインお得だって!」
「いや。一人で飲んだって美味くもなんともないだろ」
コースの中で選択肢のあるパスタや魚、肉料理から頼むものを決めた後、他のメニューに目を走らせていた雪音が問うのに当然のように返す。
「ああ、でもそうだな。お前が二十歳になったらこういう店で乾杯しようか」
「えー! それ楽しみ! まあまだだいぶ先だけどさあ」
ささやかで温かい「家族」の時間。
航大が幸せを感じる、何に変えても守りたい大切なもの。
「美味しかったね! あのお店、夜に行ったの久し振りじゃない? お昼のランチはみんなでたまに行くけどさ」
食事を済ませて店をあとにする。
義弟が跳ねるように歩きながら話すのを、すぐ傍らで見守った。
「そうだな、やっぱあの店美味いよな」
「しょっちゅう行けないから余計に美味しく感じるのかもね」
それはそうかもな、と同調する航大に雪音が笑う。
「ランチはリーズナブルだけど、夜は価格的にもちょっと学生が気軽に行く感じじゃないし、どうしても家族で行くことになるからな。そんな格式張った店じゃないから、俺たちだけで行っても今日みたいに普通に受け入れてくれるけどさ」
「そこがいいんだよ。いいお店なのに偉ぶってないっていうか」
航大が話すのにも、義弟は嬉しそうに頷いて答えた。
「ここに引っ越してきて開拓した中で、近場では一番美味いんじゃないか? あ、ご馳走的な意味で」
「俺もそう思う。普段のラーメンとか定食の美味しいとこもいっぱいあるけど、ちょっと特別って時はやっぱりあのお店かな」
味覚が合ってよかった、と二人で顔を見合わせる。
「お父さんとお母さんの結婚記念日で、なんで俺たちが特別なんだよってのはあるけど」
雪音の言葉の意味はわかるが、同意はできない。
「いや、でも結婚記念日と誕生日は個人より家族で祝うのでもいいんじゃないか? 子どもだけで、ってのは確かにヘンかもしれないけどさ」
特に緒方家は、互いに子連れで始まった家庭だ。両親の「結婚記念日」は、即ち「家族になった記念日」でもあった。
他所の家がどうしているのかは知らないし、知りたいとも感じない。
これが自分たちの、「緒方家」の習慣だ。
「あー、そういえばお父さんとお母さんが外に行くようになる前は結婚記念日は必ず四人でお祝いしてたけど、何故か俺たちの好きなもの作ってもらったりケーキ食べたりしてたもんね」
並んで歩きながら取り留めない話を続ける、こんな時間が楽しい。今日は何度、こういう気分を味わっただろう。
……そんな風に感じる己は、果たして「普通」なのだろうか。
「俺『たち』っていうより雪のな。俺は訊かれてもリクエストしたことないから。さらっと巻き込むなよ」
「えー、航ちゃん細かい!」
お喋りは途切れることなく、寄り道もせずに家まで帰って来て二人は順に入浴も済ませた。
まだ寝るには早い時間なので、それぞれ好きに過ごすことにする。雪音は試験に向けて勉強する、と自室に消えた。
◇ ◇ ◇
「ねー、航ちゃん。これ、ちょっとわかんないんだけど。教えてもらえる?」
義兄の部屋を訪ねた雪音は、テキストを開いて質問する。
「どれ? あー、これ確かにパッと見はややこしく感じるんだよな。でも、一つ一つ丁寧に考えて行けば大丈夫、絶対解けるから」
「んー、こう、かな?」
航大の説明に、首を捻りながらもどうにか問題を解いた。
「そうそう、以前よりかなり飲み込みよくなったな。雪は来年受験だろ? もうちょっとだから頑張れよ」
励ましてくれる彼にも、自信なさ気な声が漏れた。
「そうなんだよ。もう高二だし、あと一年ちょっとしかないんだよね。……俺、ホントに大丈夫なのかな」
「気を抜かずに真面目にやってれば、雪なら大丈夫だって」
雪音は実のところ結構勉強ができる方ではあるのだが、航大は特別優秀なので比べる気にもならない。
何もわかっていなかった幼い頃は「航ちゃんとおんなじ学校行く!」と無邪気に口にできていた。
しかし航大と同じレベルを目指すのは到底無理だと中学の頃にはもう理解していた。
義兄の在籍する大学を知る教師も、そんな無謀なことは口にもしない。
そもそも両親は、航大にも雪音にも進路に関して本人の意思をまず尊重してくれていた。「いい大学へ行け」と強要するようなことは一切ないのだ。
雪音なりに自分に合った志望校を定めて合格できるよう努力はしているが、模試の判定などを見ても余裕と言えるほどの状況ではない。
そのため、どうしても不安が拭えなかった。
とりあえず引っ掛かっていた問題をすべて片付けて、一気に脱力した雪音は義兄のベッドに身体を投げ出す。
「こら、寝るなら自分の部屋で寝ろよ」
彼の咎める声にも、すぐには起き上がれなかった。
倦怠感もあるが、何より本気で怒っているわけではないくらいわかるので聞く気がないのもある。義兄に甘えている自覚はもちろんあったが、「兄弟」なのだから他人行儀な遠慮など不要のはず。
都合のいい言い訳で誤魔化して、雪音はそのまま彼のベッドから動く気はなかった。
「わかってる~」
「そんなこと言ってこの間もそのまま寝ただろ。俺が雪の部屋で寝る羽目になったんだからな」
つかつかと歩いて来た航大がベッドに手をついて、雪音に覆い被さるようにして文句をつける。
「あー、ごめーん。でも今日は大丈夫だから、ちょっとだけ。頭使って疲れちゃったんだよ」
「……」
無言の義兄。もしかして今日は本気で怒らせてしまったのか。
少し調子に乗り過ぎたかもしれない。起き上がろうとしたが、今度は逆に航大の身体に阻まれる形になってしまう。
「航ちゃん?」
きょとんとした表情で見上げる雪音に、航大は一瞬目を泳がせ躊躇ったように見えた。
……しかし止まることなく、そのまま見下ろしていた雪音の上に乗り上げながら抱き締めて来る。
「こ、ちゃ、……!」
何か言いかけたその口元を唇で塞がれた。
雪音の後頭部を抱えるように回した掌に力が入る。
突然のキスに驚き過ぎて硬直していた雪音が、そろそろと両手を義兄の背中に回した瞬間、彼がまるで雪音を突き放すかのように身を離した。
──何!? いまのは、いったいなんだった?
「……こう、ちゃ」
「ゴメン!」
雪音に何も言わせまいとするように、航大が目を逸らしたまま謝罪の言葉を繰り返す。
「ゴメン、雪。俺、……俺、どうか、してた」
「航ちゃん、俺は──」
ようやく口を開いた雪音に、義兄は言葉を被せた。
「雪、出てってくれるか? 部屋に戻って」
ベッドの端に腰掛けて雪音に背中を向けたままの姿勢で、航大は全身で拒絶する空気を醸し出している。
雪音はそれ以上何も言えずにのろのろと起き上がり、ベッドを降りてドアを開け部屋の外に出た。
自分の部屋のドアを開けて中に滑り込むのがやっとで、ベッドまで辿り着くこともできずに雪音はその場に座り込む。
頭の中では、航大の抱擁とキスと、そのあとの冷たい彼の声と背中の残像がぐるぐると回っていた。
ごく間近で見た義兄の顔。まっすぐ見据えてくるその瞳は、近すぎて焦点が合わなかった。
航大の力強い腕の感触が、今も雪音の身体から立ち去ってくれない。
……いや、きっと忘れたくないと感じているからではないのか。他の誰でもない、雪音自身が。
「──航、ちゃん」
ようやく零れた声に時間が動き出し、雪音は何とか立ち上がってベッドに倒れ込んだ。
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再婚家庭の事情などそれこそ千差万別だろうが、航大と雪音の親の場合はどちらも子連れということを勘案したのか結婚式もしていない。
一応は四人でお洒落して写真館で家族写真を撮り、その帰り道に小さな子が一緒でも行けるごく庶民的なレストランで食事しただけだった。
その時の写真は、今も両親の寝室の壁に飾られている。
結婚して数年は雪音がまだ保育園で送り迎え必須のため、時間に追われる慌ただしい日々を送っていた。
小学校に上がってからも、両親ともが子どもだけで留守番をさせるのに抵抗があると言って結婚記念日といえどせいぜい家で少し豪華な夕食を取るくらいだったのだ。
雪音が中学生になりこの家に越してきてから、ようやく二人で夜出かける心の余裕もできたようだ。
以来毎年この時期になると記念の食事には出掛けていたが、両親が二人だけで外泊するのは初めてのことだ。
義母が職場で宿泊補助券をもらったのだとか。
「パパとママだけご馳走じゃ申し訳ないから、航ちゃんと雪ちゃんも何でも好きなもの食べていいわよ~」
彼女がそう言って、お金を置いて行ってくれた。
航大と雪音は二人で話した結果、高級というほどではないが普段自腹ではなかなか行けない近所のイタリアンの店を選んだ。
「コース頼んでいい!?」
「夜はコースが基本だろ。|アラカルト《単品》の方がイレギュラーじゃないか? コースに一品足すとかって感じでさ」
店に向かう道中から嬉しそうな雪音を微笑ましく見やり、航大も笑顔で告げた。
店内の黒板には、仕入れ状況などから日毎に変わる「おすすめメニュー」が記載されている。
「航ちゃん、なんか飲む? フェアでグラスワインお得だって!」
「いや。一人で飲んだって美味くもなんともないだろ」
コースの中で選択肢のあるパスタや魚、肉料理から頼むものを決めた後、他のメニューに目を走らせていた雪音が問うのに当然のように返す。
「ああ、でもそうだな。お前が二十歳になったらこういう店で乾杯しようか」
「えー! それ楽しみ! まあまだだいぶ先だけどさあ」
ささやかで温かい「家族」の時間。
航大が幸せを感じる、何に変えても守りたい大切なもの。
「美味しかったね! あのお店、夜に行ったの久し振りじゃない? お昼のランチはみんなでたまに行くけどさ」
食事を済ませて店をあとにする。
義弟が跳ねるように歩きながら話すのを、すぐ傍らで見守った。
「そうだな、やっぱあの店美味いよな」
「しょっちゅう行けないから余計に美味しく感じるのかもね」
それはそうかもな、と同調する航大に雪音が笑う。
「ランチはリーズナブルだけど、夜は価格的にもちょっと学生が気軽に行く感じじゃないし、どうしても家族で行くことになるからな。そんな格式張った店じゃないから、俺たちだけで行っても今日みたいに普通に受け入れてくれるけどさ」
「そこがいいんだよ。いいお店なのに偉ぶってないっていうか」
航大が話すのにも、義弟は嬉しそうに頷いて答えた。
「ここに引っ越してきて開拓した中で、近場では一番美味いんじゃないか? あ、ご馳走的な意味で」
「俺もそう思う。普段のラーメンとか定食の美味しいとこもいっぱいあるけど、ちょっと特別って時はやっぱりあのお店かな」
味覚が合ってよかった、と二人で顔を見合わせる。
「お父さんとお母さんの結婚記念日で、なんで俺たちが特別なんだよってのはあるけど」
雪音の言葉の意味はわかるが、同意はできない。
「いや、でも結婚記念日と誕生日は個人より家族で祝うのでもいいんじゃないか? 子どもだけで、ってのは確かにヘンかもしれないけどさ」
特に緒方家は、互いに子連れで始まった家庭だ。両親の「結婚記念日」は、即ち「家族になった記念日」でもあった。
他所の家がどうしているのかは知らないし、知りたいとも感じない。
これが自分たちの、「緒方家」の習慣だ。
「あー、そういえばお父さんとお母さんが外に行くようになる前は結婚記念日は必ず四人でお祝いしてたけど、何故か俺たちの好きなもの作ってもらったりケーキ食べたりしてたもんね」
並んで歩きながら取り留めない話を続ける、こんな時間が楽しい。今日は何度、こういう気分を味わっただろう。
……そんな風に感じる己は、果たして「普通」なのだろうか。
「俺『たち』っていうより雪のな。俺は訊かれてもリクエストしたことないから。さらっと巻き込むなよ」
「えー、航ちゃん細かい!」
お喋りは途切れることなく、寄り道もせずに家まで帰って来て二人は順に入浴も済ませた。
まだ寝るには早い時間なので、それぞれ好きに過ごすことにする。雪音は試験に向けて勉強する、と自室に消えた。
◇ ◇ ◇
「ねー、航ちゃん。これ、ちょっとわかんないんだけど。教えてもらえる?」
義兄の部屋を訪ねた雪音は、テキストを開いて質問する。
「どれ? あー、これ確かにパッと見はややこしく感じるんだよな。でも、一つ一つ丁寧に考えて行けば大丈夫、絶対解けるから」
「んー、こう、かな?」
航大の説明に、首を捻りながらもどうにか問題を解いた。
「そうそう、以前よりかなり飲み込みよくなったな。雪は来年受験だろ? もうちょっとだから頑張れよ」
励ましてくれる彼にも、自信なさ気な声が漏れた。
「そうなんだよ。もう高二だし、あと一年ちょっとしかないんだよね。……俺、ホントに大丈夫なのかな」
「気を抜かずに真面目にやってれば、雪なら大丈夫だって」
雪音は実のところ結構勉強ができる方ではあるのだが、航大は特別優秀なので比べる気にもならない。
何もわかっていなかった幼い頃は「航ちゃんとおんなじ学校行く!」と無邪気に口にできていた。
しかし航大と同じレベルを目指すのは到底無理だと中学の頃にはもう理解していた。
義兄の在籍する大学を知る教師も、そんな無謀なことは口にもしない。
そもそも両親は、航大にも雪音にも進路に関して本人の意思をまず尊重してくれていた。「いい大学へ行け」と強要するようなことは一切ないのだ。
雪音なりに自分に合った志望校を定めて合格できるよう努力はしているが、模試の判定などを見ても余裕と言えるほどの状況ではない。
そのため、どうしても不安が拭えなかった。
とりあえず引っ掛かっていた問題をすべて片付けて、一気に脱力した雪音は義兄のベッドに身体を投げ出す。
「こら、寝るなら自分の部屋で寝ろよ」
彼の咎める声にも、すぐには起き上がれなかった。
倦怠感もあるが、何より本気で怒っているわけではないくらいわかるので聞く気がないのもある。義兄に甘えている自覚はもちろんあったが、「兄弟」なのだから他人行儀な遠慮など不要のはず。
都合のいい言い訳で誤魔化して、雪音はそのまま彼のベッドから動く気はなかった。
「わかってる~」
「そんなこと言ってこの間もそのまま寝ただろ。俺が雪の部屋で寝る羽目になったんだからな」
つかつかと歩いて来た航大がベッドに手をついて、雪音に覆い被さるようにして文句をつける。
「あー、ごめーん。でも今日は大丈夫だから、ちょっとだけ。頭使って疲れちゃったんだよ」
「……」
無言の義兄。もしかして今日は本気で怒らせてしまったのか。
少し調子に乗り過ぎたかもしれない。起き上がろうとしたが、今度は逆に航大の身体に阻まれる形になってしまう。
「航ちゃん?」
きょとんとした表情で見上げる雪音に、航大は一瞬目を泳がせ躊躇ったように見えた。
……しかし止まることなく、そのまま見下ろしていた雪音の上に乗り上げながら抱き締めて来る。
「こ、ちゃ、……!」
何か言いかけたその口元を唇で塞がれた。
雪音の後頭部を抱えるように回した掌に力が入る。
突然のキスに驚き過ぎて硬直していた雪音が、そろそろと両手を義兄の背中に回した瞬間、彼がまるで雪音を突き放すかのように身を離した。
──何!? いまのは、いったいなんだった?
「……こう、ちゃ」
「ゴメン!」
雪音に何も言わせまいとするように、航大が目を逸らしたまま謝罪の言葉を繰り返す。
「ゴメン、雪。俺、……俺、どうか、してた」
「航ちゃん、俺は──」
ようやく口を開いた雪音に、義兄は言葉を被せた。
「雪、出てってくれるか? 部屋に戻って」
ベッドの端に腰掛けて雪音に背中を向けたままの姿勢で、航大は全身で拒絶する空気を醸し出している。
雪音はそれ以上何も言えずにのろのろと起き上がり、ベッドを降りてドアを開け部屋の外に出た。
自分の部屋のドアを開けて中に滑り込むのがやっとで、ベッドまで辿り着くこともできずに雪音はその場に座り込む。
頭の中では、航大の抱擁とキスと、そのあとの冷たい彼の声と背中の残像がぐるぐると回っていた。
ごく間近で見た義兄の顔。まっすぐ見据えてくるその瞳は、近すぎて焦点が合わなかった。
航大の力強い腕の感触が、今も雪音の身体から立ち去ってくれない。
……いや、きっと忘れたくないと感じているからではないのか。他の誰でもない、雪音自身が。
「──航、ちゃん」
ようやく零れた声に時間が動き出し、雪音は何とか立ち上がってベッドに倒れ込んだ。