電車の時間を聞かされているにも関わらずあのあとすぐに家を出て駅に着いた航大は、そこで二十分近く待つことになった。
しかし、それぐらい大したことではない。
もし時間があるからと何か別のことを始めて、ついそちらに気を取られて雪音の帰りに間に合わなかったら。
そう思うと、いっそ家を出てしまおうという結論に達したのだ。
ただ待つだけなら家でぼんやりしていても駅で立っていても変わらない。
そもそも今日が義弟の遅くなる日だと認識していたら、自分の帰宅時間そのものを調整して駅で落ち合えるようにしたのに、とそちらの方が残念だったくらいだ。
雪音の塾の予定は、迎えを忘れないようにきちんとスケジュールに入れている。
まさか曜日が変わることがあるなどと考えもしなかった。
新しい時間割を確認して入れ直さないと、と航大は頭の片隅にメモをする。
大学もアルバイトも、それ以外のプライベートも、航大は暇を持て余しているとは程遠かった。
それでも、一番は常に雪音だった。義弟以上に大切なものなどなにもない。彼のためにどうにか時間を空けるのは当然で、楽しみですらあった。
先ほどの反応からも明白だが、義母は航大が義弟を迎えに行くのを反対したりはしないが推奨もしていない。
雪音が遅くなる日に航大が気づかず家にいても、向こうから声掛けしてくれることはないだろう。
だから自分で管理するしかないのだ。
「あ、航ちゃん!」
改札を出て来た雪音が、航大の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄って来た。
「おかえり。塾の予定変わったんだって? そういうのはちゃんと教えてくれよ」
「あ! そうか、言ってなかったっけ。ゴメン」
航大の苦言に、彼ははっとしたように返して来る。
「……でもさぁ、毎回迎えに来てくれなくていいよ。家まで近いし、航ちゃんだって大変じゃない?」
内容としては義母と同じ台詞だ。
一般的にはごく普通の思考だろう。
移動に支障を伴うわけでもない健康な男子高校生が、多少帰宅が遅くなるからといちいち駅まで迎えに出向くなど、失笑の対象であっても不思議はない。
けれど今までにも繰り返された問答に、航大の答えは変わることはなかった。
「いや、別に。週に三回か四回だろ? どうってことないよ。それこそ近いんだし」
「そうかなあ。でも、ありがとう」
何でもないように告げる航大に、雪音は申し訳なさそうな様子で礼を述べる。
航大が少し低い位置にある義弟の顔に目をやると、歩く拍子に前髪が揺れて額に横一本に走る微かな痕が見えた。
……傷痕があまり目立たなくてよかった、と思うべきだろうか。
雪音には前髪を下ろしたスタイルの方が似合うとは思うけれど、もししたくても上げたり分けたりはできないのだ。
小学生のころ、プール授業で帽子を被ると完全に額を出すことになり、悪気無く傷のことを訊かれることもよくあったらしい。
二年生の時に包帯を巻いていたのを知っている子も多いので、本当に純粋な興味だったのだろう。
子どもは素直で、ある意味残酷だ。見たまま、感じたままを平然と口に出す。
それは必ずしも悪いとは言えない。訊かれなければ説明することも、必要があれば否定することもできない場合もあるからだ。
雪音が特に気にしているようでもなかったのが救いではあるものの、もしかしたら心の中は違ったのかもしれない。
それについては、本人が言わない限り航大も両親も触れることはできなかった。
強引に訊き出して「本当は辛い、嫌だ」と感じているとわかったとしても、完全に痕を消してやることは不可能だからだ。
その場合、ただ悪戯に雪音を苦しめることになってしまいかねない。
帰りが遅くなったら迎えに行くのも、義弟に告げた通り航大はまったく負担に感じてなどいなかった。
帰宅途中に前を通るマンションの敷地内の植栽に隠れて、雪音を狙う人間がいるかもしれない。
実際に、しばらく前にも近所で子どもに声を掛けたり中学生や高校生を追いかけたりする不審者が出たそうだ。
地域コミュニティを通じて注意喚起する知らせが回って来たと義母が顔を顰めていた。
雪音に万が一のことがあったら悔やんでも悔やみきれない。
「なぜあの時少しの手間を惜しんだのか」と一生苦しむことになるくらいなら、往復二十分足らずの道程などなんということもないのだ。
身体の傷もだが、それ以上に心の傷も心配だった。
──もう二度と、雪が泣くような羽目にはならないように。どんなことでも。
緒方家が以前に住んでいたマンションは2LDKだったので、一部屋は両親の寝室、もう一部屋を子ども二人の部屋として使っていたのだ。
ごく一般的な広さの洋室に二段ベッドと勉強机を二つ入れて本棚を置くと床にはほとんど空きスペースがないような状態だった。
しかし物理的にも他の方法はなかったので仕方がない。
ただ航大も雪音も小さい頃は特に、二段ベッドが秘密基地のようで結構楽しかった覚えがある。
それをわかっている親がそれぞれのベッドにライトをつけてくれたので、勉強以外はわざわざ二段ベッドの自分のスペースにいることも多かった。
そう、
あのときも。
雪音の『事故』は、家庭内では今は一種の笑い話として話せるくらいにはなっていた。深刻な後遺症なり、目立つ傷が残らなかったからこそではあるものの、航大には今でもただの悔恨を伴う痛みでしかない。
表面的に合わせてはいても、どうしても笑い飛ばせなかった。
あの雪音の血、涙。
生々しい暗い赤と、透明な雫のコントラストが、航大の脳裏から消える日はきっと来ない。
哀しく、痛々しい、……どこか背徳的で美しいあの光景が。
その後、一家は雪音が中学に上がるのに合わせて転居した。
両親の通勤と子ども二人の通学も考えて、義弟が入学する予定だった中学校の学区内である今の3LDKのマンションへと。
部屋数も増えたので、航大と雪音はそれぞれ個室を与えられることになった。
航大にとっては高校三年生でようやく得た個室、ということになるが、それまでも義弟との同室生活を不満に思ったこともなかった。
むしろ常に雪音の動向に気を配れる環境がありがたかったくらいだ。
口に出したら少し、いやかなり危ないので、さすがに表に出さないだけの分別はある。
義弟の方も航大と一緒が嫌だったわけではなさそうとはいえ、やはり初めての自分だけの部屋は嬉しいようだった。
ただ、雪音はそれまで一人きりの部屋で寝たことがない。
中学生男子として恥ずかしく思うのか決して言葉にはしないものの、少し寂しいと感じる日もあるらしく用もないのに口実を並べては航大の部屋に居たがったりもした。
おそらく世間一般の男兄弟と比べれば少し異質な関係だったのかもしれないが、二人ともそれを変えたいとも変えようとも思ってはいなかった。