①
ー/ー
「ただいま。お母さん、雪は?」
アルバイトを終えて帰宅した航大の問いに、ソファに座ってテレビをみていたらしい涼音が答える。
「航ちゃん、お帰りなさい。雪ちゃんは今日塾だから、もう三十分もすれば帰って来ると思うけど」
「え? 今日だった?」
寝耳に水で驚く航大に、彼女の返答はなんともあっさりしたものだった。
「今月から少し変わったのよ、科目と曜日が」
「曜日だけで時間はそのままなんだよね? 俺、駅まで迎えに行くよ」
話しながら、肩に掛けたバッグから早速スマートフォンを取り出そうとする。
「もう、航ちゃん。迎えなんていいわよ、山奥の一軒家でもあるまいし。家まで駅から歩いて十分もかからないのに」
彼女の呆れたような言葉にも頷けなかった。
「でも、塾の日は雪が帰って来るの十時過ぎるだろ? 駅前通りから逸れたら急に人通りなくなるし、途中大きなマンションが並んでて死角も多いから数分でも安心できないよ」
傍から聞いていれば、まさしくくだらない言い分なのだろうこともわかっている。
「ホントに航ちゃんは雪ちゃんに甘いんだから。もうあの子も高校生よ」
涼音の苦笑いは受け流して、航大は雪音にメッセージを送る。
《今日、塾だったんだな。迎えに行くから着く時間わかったら知らせて。》
いつものことなので、雪音もあっさりと最寄り駅に着く予定時間を送信して来た。
雪音は航大の義理の弟だ。
十二年前、航大が十歳の時に両親が結婚した。
航大の父は所謂「バツイチ」だが、雪音の母は未婚のシングルマザーだったため初婚になる。
五歳で親が離婚して実母が出て行って以来、祖父母の手助けはあったものの父と二人暮らしだった航大には、いきなり『お母さん』と四歳の『弟』ができたのだった。
子連れ同士での結婚ということもあり、双方の親はとにかく「子どもの意志」を尊重しようとしてくれたようだ。
相手の親子との相性を確かめる意図だったのだろうが、半年ほど二家族四人での交流を続けていた。」
あちこち遊びに出掛けたり、食事をしたり。
遊園地に行ったことも何度かあった。
あるとき雪音がメリーゴーラウンドに乗りたいと言い出したため、義母が「じゃあママと一緒に」と促すのに彼は「航ちゃんとがいい!」と航大の手を掴んだ。
「航ちゃん、もう大きいのにメリーゴーラウンドなんて嫌じゃない? 小母さんが行くから無理しないでね」
気遣ってくれた彼女に否を返し、雪音の手を引いて馬ではなく彼の希望で馬車に乗ったのだ。
少し驚きはしたものの、嫌だとは考えもしなかった。
特に幼い子の扱いが上手いわけでもない、自分でも「いいお兄さん役」を演じられていたとも思えない航大に、素直に懐いてくれる雪音をただ可愛いと思った。
それは涼音も同じくだ。ともに過ごす中で、「この人は信用できる」と肌で感じていた。
終わって見守る母の元へと駆け出した雪音を、「走っちゃ危ないよ!」と慌てて追い掛けたのを覚えている。
「雪ちゃんは転んで膝擦りむいたくらいじゃ全然泣かないのよ。保育園でも先生が驚かれるくらい」
捕まえた彼と手を繋いだ航大に、義母がそう言って笑っていた。
明るく感情豊かな雪音は、むしろ「すぐに涙を零すが、気がつくと笑っている」ようなイメージさえ受けるのに。
遠くてどこか甘い、懐かしい記憶。
義母の涼音のみならず、父の隆則にも雪音のことを知る友人たちにも。
周囲の人間に例外なく過保護と言われる航大の行動や考えの元には、過去の後悔があった。
今も耳の奥に残っている気がする、泣き声。
そして、目の奥に焼き付いたかのような、色彩。
◇ ◇ ◇
もう九年も前になる。
「ねー、航ちゃん。あれ見せて」
夕食後子ども部屋で過ごしていた航大に、リビングでテレビアニメを観終わって部屋に入って来た雪音が強請る。
彼のお目当ては、アンモナイトの化石だ。
両親が結婚してすぐ、新しい『家族』で休日に出掛けた博物館。
普段は何か買ってと口にすることさえほとんどない航大が珍しく欲しくて、しかし結構高価だったため言い出せなかったのを義母が気づいて買ってくれたものだった。
あれから三年が経ち、航大は中学生になっていた。
今は化石そのものにはそれほど興味はなくなったものの、航大の『宝物』には変わりがない。
本棚の一番上段を空けて、そこに博物館で買った時のケースのまま大切に飾ってあった。
「……あー、うん。あとで、な」
二段ベッドの上段の自分の陣地でゲームに夢中だった航大は、雪音の問いにも画面から目を離すこともなくおざなりに答える。
「じゃあ、自分で取ってもいい?」
「んー、いいよ」
義弟の言葉に、航大は相変わらず上の空で適当に返した。
航大がそれを大事にしていることをよく知っている雪音は、見せてもらっても決して雑に扱うことはないのでその点では心配などしていなかったからだ。
直後、何かが倒れる大きな音と同時に、雪音の激しい泣き声が聞こえて、航大は驚いてそちらに目を向けた。
彼は可愛らしい見た目と、その身に纏う柔らかな雰囲気に反して滅多に泣くことはない。
そう、「兄弟」になる前に義母に聞かされたそのままに。
何かが上手く行かなくて悔しさに目を潤ませる程度はあっても、こんな泣き声は航大にとっては初めての経験だった。
見下ろした床には引っ繰り返った勉強机の椅子と、顔に深紅の血の筋をつたわせて泣いている、雪音。
──血。血が、あんな。雪ちゃん、が──。
助けなければ、と思うが身体が固まったように動かない。
そこへ、物音を聞きつけたらしい涼音が駆け込んで来た。
「どうしたの? ……雪ちゃん!」
「ママぁ、いたいー」
義母の顔を見て安心したのか、甘えが出たのか。
縋りつくように訴える雪音。
「航ちゃん、タオル持って来てくれる?」
「あ、わ、わかった!」
焦った様子の彼女の言葉に、航大はようやく手足を動かして二段ベッドの梯子を下りた。
洗面所に走り、棚のタオルの束を掴んで部屋に戻る。
タオルを受け取った義母は、丁寧に雪音の顔の血を拭いているようだった。
「どうしよう、止まらない。……航ちゃん、病院行くから一緒に来て」
「う、うん」
マンション地下の駐車場まで、母親に抱き着くように何とか歩いている雪音を二人の後ろを見守るように追う。
義母が運転する車の後部座席で、航大は義弟を抱き抱えていた。
額の傷に押し当てたタオルがじわじわと赤く染まっていく。
──血が、全然止まんない。雪ちゃん、死んじゃう、かも。
己の愚かな行動の結果に、身体の震えが止まらなかった。
夜診もやっている外科病院に駆け込んで、涼音が受付を済ませたあと。
雪音を両側から支えるように、三人は待合室のベンチに腰掛ける。
待つまでもなく呼ばれて診察室に入ると、まだ若い担当医は治療しながら安心させる意図もあるのか優しく話し出した。
「傷自体はそんなに深くないですよ。頭部はちょっとした傷でも出血が凄いからびっくりされましたよね。少し痕が残るかもしれませんがよく見ないとわからないくらいだと思いますし、額だから前髪で隠せますから」
「そうなんですね。ありがとうございます」
義母が安堵の溜息を吐くのに、航大も同じ想いだった。
「……それよりも、椅子から落ちて頭を打ったのならその方が心配です」
いろいろ検査もしたあとで、とりあえず雪音は帰宅を許された。
「二十四時間は注意して見てあげて、頭痛や吐き気があったら夜中でも迷わず来てください。まずは電話を。遠慮は要りませんから!」
担当医にそれだけは! と念押しされて、礼を述べて病院を出る。
実際に傷の痛みは大したことがないらしく、雪音は診察の途中からけろりとしていた。
ただ、額から後頭部にぐるりと巻かれた包帯が痛々しい。
──よかった、雪ちゃんがとりあえず無事で。でも、まだ安心できない、んだよね?
家に帰ると、義母はとりあえず雪音の血で汚れた服を脱がせて、濡れタオルで顔や体を拭いてやっていた。
今日は入浴はしないよう指示されたのだ。
両親の寝室のベッドに寝かせると、雪音は疲れからかあっという間に寝息を立て始める。
一息ついたかと思ったところで玄関ドアが開く音がした。
航大が義母と一緒に寝室を出た途端、慌てふためいた様子で帰宅した父と顔を合わせる。
義弟が眠るすぐ傍の廊下で騒ぐわけには行かないので、涼音が無言で合図するのに従い三人でリビングに移動した。
「ママ、雪ちゃんは?」
「今、ちょうど寝かせたところ。狭くて悪いけど、パパ今日は雪ちゃんの二段ベッドで寝てくれる? 二十四時間は気をつけるように言われてるから、今夜は私がずっと起きて見てることにする」
連絡を受けていたのだろう父が訊くのに、義母が落ち着いて答えた。
「それは構わないけど。……航大、お前が一緒に居たんだろ? なんでこんな──」
父の怒りを理不尽だとは感じなかった。
そう、自分のせいだ。もう少し、本当に僅かにでも気を配っていれば……。
「大声出さないで! 雪ちゃんが起きるでしょ」
けれど、思わずといった調子で声を荒げた父を義母が制する。
「あ、ごめん。でも、航大は」
「航ちゃんのせいじゃないわ。キャスター付きの椅子に立って乗る雪ちゃんが悪いのよ」
涼音は航大に気を遣って庇っているわけではなく、本心からそう思っているのだろう。
彼女は普段から、もちろん努力してそうしている部分もあるのだろうが、航大にも実の子である雪音と同じように接してくれていた。
そして父の方も、妻へのポーズで航大を責める素振りをしているわけではなく心から雪音を心配している。
彼は本当に雪音を可愛がっているのだ。
──お母さんはそう言うけど、やっぱり俺が悪いんだ。俺がゲームしててあんないい加減な返事しなきゃ、雪ちゃんだって椅子に乗ったりしなかったんだから。
翌日は、大事を取って雪音は学校を休み、義母も仕事を休んで傍についていた。
航大も義弟が心配で堪らず休むと言ったが、その申し出は当然却下され仕方なく登校したのだ。
「航ちゃん、おかえり! ねー、化石。化石こわれてなかった?」
何よりもそれが気になっていたらしく、航大の帰りを待ち構えていた雪音が飛びつくようにして訊いて来る。
彼の身長では定位置のアンモナイトの存在はどうにか窺えても、欠けたりしていないかまで確かめることはできないだろう。
だからと言って、昨日の今日で椅子に乗って覗いてみようとするほど雪音は考えなしではない。
もし壊れていたら、と不安で母に問うこともできなかったのではないか。
「壊れてないよ。ちゃんとケースに入ってるから、落ちてもそれだけで壊れたりしないって」
もし壊れていたとしても、いくら「宝物」とはいえ雪音を思えばどうでもいいというのが偽りのない気持ちだった。
しかしそのまま口にすれば義弟は気に病むだろう。実際に重量も軽く丈夫なため、化石にはなんのダメージもなかった。
「ホント? よかった~」
航大の言葉を聞いて安堵の溜め息を吐く彼に、思い切って切り出した。
「雪ちゃん、あのアンモナイト、欲しかったらあげようか?」
「いい! いらない! だって、航ちゃんの大事な化石でしょ? たまに見せてもらったらそれでいい。もう絶対、勝手にさわろうなんてしないから、ごめんなさい」
ぶんぶんと音が鳴るほどに首を左右に振って、雪音は全身で否定する。
「雪ちゃん、頭振っちゃダメだよ! ……わかった。でも、もし欲しくなったら言って」
航大の言葉に、今度は義弟も静かに頷いた。
様子を見ていて特に変わったこともなかったため、雪音は一日休んだだけで登校するようになっていた。
特別やんちゃというわけではなく、雪音はむしろ周りの子を見ていてもおとなしい方に分類されるのかもしれない。
それでも元気な小学生男子にはやはり頭の包帯は邪魔らしかった。
もう出血もなく、痛みも感じないなら余計にそうだろう。
「雪ちゃん、包帯解けてる。巻き直そう」
「えー、もういいよ。取っちゃダメかな」
学校から帰って来た航大の声掛けに、彼は煩わしそうに答える。
「ダメに決まってるだろ! 一週間後にまた来なさい、って先生言ってたじゃん。だからそれまでは巻いてないと。ばい菌入ったら大変だからさ」
諭すような航大に、渋々ながらも義弟は頷いた。
「めんどくさいなー、じゃあ航ちゃんお願い。……早く治らないかなぁ」
包帯を巻き直しながら、航大は雪音の世話を焼くのが嫌ではない、それどころかもっと構ってやりたいと感じている自分に気づいた。
可愛い義弟。
普段の笑顔も、今の少し不貞腐れた表情も変わらず愛しい。
「本当に航ちゃんが気にすることなんてなにもないのよ。もし誰かが悪い、って言うならママだわ。同じ家の中にいたんだし、母親なんだから」
義母の主張は、世間一般的にはきっと正しい。いや、それでも彼女に責任などないと思ってはいるけれども。
万が一逆の立場なら、航大は誰も恨んだりはしないだろう。自分を恥じて家族に申し訳ないと考えることはあっても。
しかし、理屈で割り切れることではないのだ。航大がきちんと向き合ってさえいれば、あんなことにはならなかった。
如何にも「泣き虫」のようでいて、まず涙など見せることはない雪音。あの涙も、血も、傷跡も、何もかも自分の安易な選択の結果でしかないと悔いている。
もう二度と彼を泣かせたくはなかった。
ましてや航大のための涙など、決して流させはしない。
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「ただいま。お母さん、|雪《ゆき》は?」
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「え? 今日だった?」
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「でも、塾の日は雪が帰って来るの十時過ぎるだろ? 駅前通りから逸れたら急に人通りなくなるし、途中大きなマンションが並んでて死角も多いから数分でも安心できないよ」
傍から聞いていれば、まさしくくだらない言い分なのだろうこともわかっている。
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いつものことなので、雪音もあっさりと最寄り駅に着く予定時間を送信して来た。
雪音は航大の義理の弟だ。
十二年前、航大が十歳の時に両親が結婚した。
航大の父は所謂「バツイチ」だが、雪音の母は未婚のシングルマザーだったため初婚になる。
五歳で親が離婚して実母が出て行って以来、祖父母の手助けはあったものの父と二人暮らしだった航大には、いきなり『お母さん』と四歳の『弟』ができたのだった。
子連れ同士での結婚ということもあり、双方の親はとにかく「子どもの意志」を尊重しようとしてくれたようだ。
相手の親子との相性を確かめる意図だったのだろうが、半年ほど二家族四人での交流を続けていた。」
あちこち遊びに出掛けたり、食事をしたり。
遊園地に行ったことも何度かあった。
あるとき雪音がメリーゴーラウンドに乗りたいと言い出したため、義母が「じゃあママと一緒に」と促すのに彼は「航ちゃんとがいい!」と航大の手を掴んだ。
「航ちゃん、もう大きいのにメリーゴーラウンドなんて嫌じゃない? 小母さんが行くから無理しないでね」
気遣ってくれた彼女に否を返し、雪音の手を引いて馬ではなく彼の希望で馬車に乗ったのだ。
少し驚きはしたものの、嫌だとは考えもしなかった。
特に幼い子の扱いが上手いわけでもない、自分でも「いいお兄さん役」を演じられていたとも思えない航大に、素直に懐いてくれる雪音をただ可愛いと思った。
それは涼音も同じくだ。ともに過ごす中で、「この人は信用できる」と肌で感じていた。
終わって見守る母の元へと駆け出した雪音を、「走っちゃ危ないよ!」と慌てて追い掛けたのを覚えている。
「雪ちゃんは転んで膝擦りむいたくらいじゃ全然泣かないのよ。保育園でも先生が驚かれるくらい」
捕まえた彼と手を繋いだ航大に、義母がそう言って笑っていた。
明るく感情豊かな雪音は、むしろ「すぐに涙を零すが、気がつくと笑っている」ようなイメージさえ受けるのに。
遠くてどこか甘い、懐かしい記憶。
義母の涼音のみならず、父の|隆則《たかのり》にも雪音のことを知る友人たちにも。
周囲の人間に例外なく過保護と言われる航大の行動や考えの元には、過去の後悔があった。
今も耳の奥に残っている気がする、泣き声。
そして、目の奥に焼き付いたかのような、色彩。
◇ ◇ ◇
もう九年も前になる。
「ねー、航ちゃん。あれ見せて」
夕食後子ども部屋で過ごしていた航大に、リビングでテレビアニメを観終わって部屋に入って来た雪音が|強請《ねだ》る。
彼のお目当ては、アンモナイトの化石だ。
両親が結婚してすぐ、新しい『家族』で休日に出掛けた博物館。
普段は何か買ってと口にすることさえほとんどない航大が珍しく欲しくて、しかし結構高価だったため言い出せなかったのを義母が気づいて買ってくれたものだった。
あれから三年が経ち、航大は中学生になっていた。
今は化石そのものにはそれほど興味はなくなったものの、航大の『宝物』には変わりがない。
本棚の一番上段を空けて、そこに博物館で買った時のケースのまま大切に飾ってあった。
「……あー、うん。あとで、な」
二段ベッドの上段の自分の陣地でゲームに夢中だった航大は、雪音の問いにも画面から目を離すこともなくおざなりに答える。
「じゃあ、自分で取ってもいい?」
「んー、いいよ」
義弟の言葉に、航大は相変わらず上の空で適当に返した。
航大がそれを大事にしていることをよく知っている雪音は、見せてもらっても決して雑に扱うことはないのでその点では心配などしていなかったからだ。
直後、何かが倒れる大きな音と同時に、雪音の激しい泣き声が聞こえて、航大は驚いてそちらに目を向けた。
彼は可愛らしい見た目と、その身に纏う柔らかな雰囲気に反して滅多に泣くことはない。
そう、「兄弟」になる前に義母に聞かされたそのままに。
何かが上手く行かなくて悔しさに目を潤ませる程度はあっても、こんな泣き声は航大にとっては初めての経験だった。
見下ろした床には引っ繰り返った勉強机の椅子と、顔に深紅の血の筋をつたわせて泣いている、雪音。
──血。血が、あんな。雪ちゃん、が──。
助けなければ、と思うが身体が固まったように動かない。
そこへ、物音を聞きつけたらしい涼音が駆け込んで来た。
「どうしたの? ……雪ちゃん!」
「ママぁ、いたいー」
義母の顔を見て安心したのか、甘えが出たのか。
縋りつくように訴える雪音。
「航ちゃん、タオル持って来てくれる?」
「あ、わ、わかった!」
焦った様子の彼女の言葉に、航大はようやく手足を動かして二段ベッドの梯子を下りた。
洗面所に走り、棚のタオルの束を掴んで部屋に戻る。
タオルを受け取った義母は、丁寧に雪音の顔の血を拭いているようだった。
「どうしよう、止まらない。……航ちゃん、病院行くから一緒に来て」
「う、うん」
マンション地下の駐車場まで、母親に抱き着くように何とか歩いている雪音を二人の後ろを見守るように追う。
義母が運転する車の後部座席で、航大は義弟を抱き抱えていた。
額の傷に押し当てたタオルがじわじわと赤く染まっていく。
──血が、全然止まんない。雪ちゃん、死んじゃう、かも。
己の愚かな行動の結果に、身体の震えが止まらなかった。
夜診もやっている外科病院に駆け込んで、涼音が受付を済ませたあと。
雪音を両側から支えるように、三人は待合室のベンチに腰掛ける。
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「傷自体はそんなに深くないですよ。頭部はちょっとした傷でも出血が凄いからびっくりされましたよね。少し痕が残るかもしれませんがよく見ないとわからないくらいだと思いますし、額だから前髪で隠せますから」
「そうなんですね。ありがとうございます」
義母が安堵の溜息を吐くのに、航大も同じ想いだった。
「……それよりも、椅子から落ちて頭を打ったのならその方が心配です」
いろいろ検査もしたあとで、とりあえず雪音は帰宅を許された。
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担当医にそれだけは! と念押しされて、礼を述べて病院を出る。
実際に傷の痛みは大したことがないらしく、雪音は診察の途中からけろりとしていた。
ただ、額から後頭部にぐるりと巻かれた包帯が痛々しい。
──よかった、雪ちゃんがとりあえず無事で。でも、まだ安心できない、んだよね?
家に帰ると、義母はとりあえず雪音の血で汚れた服を脱がせて、濡れタオルで顔や体を拭いてやっていた。
今日は入浴はしないよう指示されたのだ。
両親の寝室のベッドに寝かせると、雪音は疲れからかあっという間に寝息を立て始める。
一息ついたかと思ったところで玄関ドアが開く音がした。
航大が義母と一緒に寝室を出た途端、慌てふためいた様子で帰宅した父と顔を合わせる。
義弟が眠るすぐ傍の廊下で騒ぐわけには行かないので、涼音が無言で合図するのに従い三人でリビングに移動した。
「ママ、雪ちゃんは?」
「今、ちょうど寝かせたところ。狭くて悪いけど、パパ今日は雪ちゃんの二段ベッドで寝てくれる? 二十四時間は気をつけるように言われてるから、今夜は私がずっと起きて見てることにする」
連絡を受けていたのだろう父が訊くのに、義母が落ち着いて答えた。
「それは構わないけど。……航大、お前が一緒に居たんだろ? なんでこんな──」
父の怒りを理不尽だとは感じなかった。
そう、自分のせいだ。もう少し、本当に僅かにでも気を配っていれば……。
「大声出さないで! 雪ちゃんが起きるでしょ」
けれど、思わずといった調子で声を荒げた父を義母が制する。
「あ、ごめん。でも、航大は」
「航ちゃんのせいじゃないわ。キャスター付きの椅子に立って乗る雪ちゃんが悪いのよ」
涼音は航大に気を遣って|庇《かば》っているわけではなく、本心からそう思っているのだろう。
彼女は普段から、もちろん努力してそうしている部分もあるのだろうが、航大にも実の子である雪音と同じように接してくれていた。
そして父の方も、妻へのポーズで航大を責める素振りをしているわけではなく心から雪音を心配している。
彼は本当に雪音を可愛がっているのだ。
──お母さんはそう言うけど、やっぱり俺が悪いんだ。俺がゲームしててあんないい加減な返事しなきゃ、雪ちゃんだって椅子に乗ったりしなかったんだから。
翌日は、大事を取って雪音は学校を休み、義母も仕事を休んで傍についていた。
航大も義弟が心配で堪らず休むと言ったが、その申し出は当然却下され仕方なく登校したのだ。
「航ちゃん、おかえり! ねー、化石。化石こわれてなかった?」
何よりもそれが気になっていたらしく、航大の帰りを待ち構えていた雪音が飛びつくようにして訊いて来る。
彼の身長では定位置のアンモナイトの存在はどうにか窺えても、欠けたりしていないかまで確かめることはできないだろう。
だからと言って、昨日の今日で椅子に乗って覗いてみようとするほど雪音は考えなしではない。
もし壊れていたら、と不安で母に問うこともできなかったのではないか。
「壊れてないよ。ちゃんとケースに入ってるから、落ちてもそれだけで壊れたりしないって」
もし壊れていたとしても、いくら「宝物」とはいえ雪音を思えばどうでもいいというのが偽りのない気持ちだった。
しかしそのまま口にすれば義弟は気に病むだろう。実際に重量も軽く丈夫なため、化石にはなんのダメージもなかった。
「ホント? よかった~」
航大の言葉を聞いて安堵の溜め息を吐く彼に、思い切って切り出した。
「雪ちゃん、あのアンモナイト、欲しかったらあげようか?」
「いい! いらない! だって、航ちゃんの大事な化石でしょ? たまに見せてもらったらそれでいい。もう絶対、勝手にさわろうなんてしないから、ごめんなさい」
ぶんぶんと音が鳴るほどに首を左右に振って、雪音は全身で否定する。
「雪ちゃん、頭振っちゃダメだよ! ……わかった。でも、もし欲しくなったら言って」
航大の言葉に、今度は義弟も静かに頷いた。
様子を見ていて特に変わったこともなかったため、雪音は一日休んだだけで登校するようになっていた。
特別やんちゃというわけではなく、雪音はむしろ周りの子を見ていてもおとなしい方に分類されるのかもしれない。
それでも元気な小学生男子にはやはり頭の包帯は邪魔らしかった。
もう出血もなく、痛みも感じないなら余計にそうだろう。
「雪ちゃん、包帯解けてる。巻き直そう」
「えー、もういいよ。取っちゃダメかな」
学校から帰って来た航大の声掛けに、彼は煩わしそうに答える。
「ダメに決まってるだろ! 一週間後にまた来なさい、って先生言ってたじゃん。だからそれまでは巻いてないと。ばい菌入ったら大変だからさ」
諭すような航大に、渋々ながらも義弟は頷いた。
「めんどくさいなー、じゃあ航ちゃんお願い。……早く治らないかなぁ」
包帯を巻き直しながら、航大は雪音の世話を焼くのが嫌ではない、それどころかもっと構ってやりたいと感じている自分に気づいた。
可愛い義弟。
普段の笑顔も、今の少し不貞腐れた表情も変わらず愛しい。
「本当に航ちゃんが気にすることなんてなにもないのよ。もし誰かが悪い、って言うなら|ママ《私》だわ。同じ家の中にいたんだし、母親なんだから」
義母の主張は、世間一般的にはきっと正しい。いや、それでも彼女に責任などないと思ってはいるけれども。
万が一逆の立場なら、航大は誰も恨んだりはしないだろう。自分を恥じて家族に申し訳ないと考えることはあっても。
しかし、理屈で割り切れることではないのだ。航大がきちんと向き合ってさえいれば、あんなことにはならなかった。
如何にも「泣き虫」のようでいて、まず涙など見せることはない雪音。あの涙も、血も、傷跡も、何もかも自分の安易な選択の結果でしかないと悔いている。
もう二度と彼を泣かせたくはなかった。
ましてや航大のための涙など、決して流させはしない。