第1話
ー/ー 雨が降る前の空気には、独特の重さがある。
気象の雨の話ではない。感情の雨の話だ。
橘日和が初めてそれを感じたのは、二十四歳の秋だった。祖母が亡くなった日の朝、日和は遠く離れたアパートの窓から、雲一つない空を見上げていた。
快晴だった。なのに、どこかから雨の匂いがした。土と草が濡れるときの、あの匂い。窓を閉めても消えなかった。
夕方、母から電話がきた。
祖母が朝方に逝った、と。
朝から降っていたのだ、と日和は思った。雨が。見えない雨が、ずっと降っていた。誰も傘を持っていなかった。
あの朝のことを、日和はまだ時々思い出す。今の仕事を始めてから四年が経つが、あの朝の匂いだけは、薄れない。
ー*ー
十一月の火曜日、日和は朝の予報データを眺めながら、冷めかけたコーヒーを飲んでいた。
画面には町の地図が広がっていた。感情の気象は色で示される。濃い青は深い悲しみ、薄い青は寂しさ、灰色は倦怠、橙色は怒り。
今日の予報では、昼過ぎに駅の東側、古い商店街のあたりに、濃い青の塊が出る見込みだった。
誰かが、泣く。
誰が、なぜ、どんな顔で。それは、わからない。データは輪郭だけを教えてくれる。感情の形を、そっとなぞるだけで、中身には触れない。
日和はその限界を、この仕事の性質として受け入れていた。受け入れた上で、できることをする。
三本の傘を選んで、リュックにいれた。持ち出す傘は、いつも複数、折りたたみ傘だ。
予報は外れることもある。あるいは予報にない場所で、誰かが思いがけず雨の中に立つこともある。そういうとき、傘が一本しかなければ、誰かの雨を見過ごすことになる。
外に出ると、昨夜の雨の名残で、アスファルトが光っていた。街路樹の銀杏はすっかり葉を落とし、枝だけになった梢が、冷たい青空に細い線を引いていた。日和は、商店街の方向に向かった。
ー*ー
商店街に来るのは、仕事のためだけではなかった。
この通りが、日和は好きだった。
半分ほどはシャッターが下りているが、残った店が、それぞれの時間を静かに生きている。朝は魚屋から水の音がして、昼はパン屋の匂いが漂い、夕方になると豆腐屋の老婦人が店先を掃く。
前任地の北の工業都市では、感情の雨が毎日のように降っていた。工場の閉鎖が続き、町全体に重い灰色が垂れこめていた。一年でくたびれて、異動を願い出た。
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