ひまわりの夜に帰る声
ー/ー夜のひまわり畑に向かう道は、 昼間とはまるで別の世界のように静かだった。 街灯の届かない場所では、 闇がゆっくりと地面から立ち上がってくるように見える。
私は歩きながら、 胸の奥に沈んでいる“決意”と“迷い”の重さを 何度も確かめていた。
前に進むために来た。 あの人を忘れるためじゃない。 忘れられないままでも、 それでも歩き出すために。
そう思って家を出たはずなのに、 ひまわり畑が近づくほど、 足取りは重くなっていった。
あの人と過ごした夏の記憶は、 いまでも胸の奥で静かに光っている。 その光に触れるたび、 前へ進む勇気が揺らいでしまう。
――本当に、来てよかったのかな。
そんな思いが胸をかすめた頃、 ひまわり畑の入口にたどり着いた。
夜のひまわりたちは、 昼のように太陽を追いかけることもなく、 ただ静かにうつむいていた。 その姿が、 まるで私の迷いを映しているように見えた。
一歩、畑に足を踏み入れた瞬間、 胸の奥がざわりと揺れた。
風が通り抜け、 ひまわりの影が足元で揺れる。 その影の揺らぎが、 心の奥に沈めてきた迷いを そっと掘り起こしていく。
蛍の光がひとつ、ふわりと灯った。
その淡い光を見た瞬間、 胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――また、思い出してしまう。
忘れたいわけじゃない。 忘れられるはずもない。 けれど、思い出すたびに 前へ進もうとした足が止まってしまう。
蛍がもうひとつ、またひとつ増えていく。 光が増えるほど、 あの人と過ごした夏の断片が 次々と浮かび上がってくる。
笑い声。 触れた指先。 夕暮れの帰り道。 言えなかった言葉。 言えたはずの言葉。
光は優しいのに、 胸の奥は痛い。 その痛みが、まだ私をつなぎ止めている。
私は立ち止まったまま、 しばらく動けなかった。
ひまわりの影が足元で揺れる。 蛍の光がその影を淡く照らす。 その揺らぎを見ていると、 自分の心がどこに向かっているのか 分からなくなっていく。
「……どうしたらいいんだろう」
声に出した途端、 夜の空気が少しだけ震えた気がした。
そのときだった。
風がひとすじ通り抜け、 遠くで風鈴が鳴った。
澄んだ音が、 ひまわり畑の静けさに溶けていく。 その響きが胸の奥に触れた瞬間、 ふっと、誰かの気配が近づいたような気がした。
そして―― 声がしたような気がした。
「……だいじょうぶ……」
本当に聞こえたのか、 風鈴の余韻がそう聞こえただけなのか、 自分でも分からなかった。
耳を澄ませても、 もう何も聞こえない。 ただ、風鈴の音が 夜のどこかで揺れているだけ。
でも、胸の奥に かすかな温度だけが残っていた。
蛍の光がふわりと強くなる。 その光が、 “迷ってもいい”と
そっと告げているように見えた。
私は目を閉じた。
あの声は、 本当にあの人だったのかもしれないし、 ただの記憶の残響だったのかもしれない。
どちらでもいい。 どちらでも、きっと間違いじゃない。
ふいに、 蛍の光がひときわ強く瞬いた。
その光の揺らぎの中に、 あの人の横顔が浮かんだ気がした。
最後の夏の日。 ひまわり畑の端で、 あの人は風に髪を揺らしながら言った。
「来年も、また一緒に来ような」
その声は、 どこまでも穏やかで、 未来を疑わない響きをしていた。
私はうなずいた。 その約束が、 永遠に続くものだと信じていた。
けれど、 その“来年”は訪れなかった。
思い出すたびに胸が痛むのに、 それでも忘れたくない景色だった。
蛍の光が、 その記憶をそっと照らし出しては、 また闇に溶けていく。
まるで、 「もういいよ」と 「まだここにいるよ」が 同時に聞こえてくるようだった。
風鈴がもう一度鳴った。 その音は、 背中を押したのか、 ただ風が吹いただけなのか―― それも分からなかった。
けれど、 私はゆっくりと歩き出した。
迷いを抱えたまま、 それでも前へ。
ひまわりの影が揺れ、 蛍の光がその影を淡く照らす。 その光は、 道しるべというより、 “見守り”に近いものに思えた。
畑を抜ける頃、 振り返ると、 蛍の光がまだ揺れていた。
まるで、 「ここにいたこと」を そっと残していくように。
その光景が、 なぜだか少しだけ あたたかく見えた。
夜の向こうに何があるのかは分からない。 でも、 その“分からなさ”が
少しだけ優しく感じられた。
夏の夜の風が、 静かに頬を撫でていった。
ひまわり畑を抜けると、 夜の道は思っていたよりも暗かった。
街灯のない細い道が、 ゆるやかに続いている。 足元だけがぼんやりと見える程度で、 先の景色は闇に溶けていた。
それでも、 さっきまで胸を締めつけていた痛みは、 ほんの少しだけ形を変えていた。
風が頬を撫でる。 ひまわり畑の匂いがまだ残っている。 その匂いが、 あの人と歩いた夏の夜を ふっと思い出させた。
けれど、 さっきまでのように胸が苦しくなることはなかった。
蛍の光はもう見えない。 風鈴の音も聞こえない。 ただ、夜の静けさだけが ゆっくりと私の周りに降りてくる。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉でもなく、 ただ、夜に溶けていくように呟いた。
その声が、 自分のものなのに、 どこか遠くから返ってきたように感じた。
道の先は見えない。 明日どうなるかも分からない。 また迷うかもしれないし、 また立ち止まるかもしれない。
でも、 今夜だけは、 この暗さが怖くなかった。
ひまわり畑で聞いた“あの声”が、 本物だったのか、 記憶の残響だったのかは分からない。
ただ、 その曖昧さごと抱えて歩いていける気がした。
夜の道を進むたび、 足音が静かに響く。 その音が、 少しずつ、少しずつ、 私の中の空白を埋めていく。
遠くで、 小さな光がひとつ瞬いた気がした。 蛍ではない。 街の灯りかもしれないし、 ただの錯覚かもしれない。
でも、 その“かもしれない”が、 なぜだか少しだけ心を軽くした。
私は歩き続ける。 暗い夜の道を、 ひとりで、 でもひとりじゃないような気持ちで。
夏の夜は、 まだ終わっていなかった。
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