【7】②
ー/ー
真瀬の母は、七年前に脳梗塞で倒れている。
早期の治療とリハビリテーションの効果で、可能な限り抑えられたものの後遺症が残った。
軽い運動麻痺とはいえ、生活に補助を要する身体になった母を父が冷たく見捨てるのではないか、と危惧していた。そうなった場合、自分はどうすべきなのか。
両親が仲睦まじいと感じたことはなかった。父も母も一人息子の真瀬には、方向性は異なっていても愛情をもって接してくれていたと今も自信を持って言える。
けれど、経営者としては紛れもなく優秀だった父は、家庭では暴君とまでは行かずとも母を明確に下に見て顎で使っていた。少なくとも真瀬の目にはそう映っていた。
……ただ黙って父に従う母の姿に、歯痒いものを感じていたのも事実だ。
所謂家事については手伝いの女性を頼んではいたが、『奥様』はただ世話をされて遊んでいればいいだけの存在ではない。少なくとも、真瀬の家「程度」では。
奥様には奥様なりの役割がある。父が仕事のみに没頭できたのも、母が影できちんと支えていたからこそだ。
それなのにたった一人、自由の利かない身で放り出される母から目を逸らすことなどできない。
心がわからないと散々罵られた真瀬にも、人間としての情がまったくないわけではないのだ。
とはいえ、父の会社で後継者として修行中の身で、父と決別して母を取るのは現実的ではない。
しかし、真瀬のそんな悩みはただの杞憂に終わった。プライベートに関しては。
「和歌山に帰ろうと思う。会社はお前に任せるから。もちろんすぐじゃないが、そのつもりで覚悟しておけ」
真瀬にとって父の言葉は衝撃でしかなかった。そもそも父の出身は和歌山ではない。母は東京育ちだ。
「わ、和歌山? 帰る、って。父さん群馬だろ?」
祖父母が健在だった幼い頃は、何度も訪れた『田舎』。今はもう墓参りで行くかどうかだ。
「和代が帰りたいって言うんだよ。お前は知らないかもしれんが、和代は和歌山生まれなんだ。親の仕事の都合で赴任しただけで小学校に入る前に東京に戻ったから、五年ほどしかいなかったらしい」
父の静かな声。
「最期はあの懐かしい場所で過ごしたい、って。思い出の中の『故郷』なんて、現実とは全然違うかもしれん。でも和代の望みなら、せめてそれくらいは叶えてやりたい。まだまだ先は長いと信じてはいるが、だからこそ少しでも意に沿うようにしてやりたいんだ。俺はずっと仕事仕事で、何もしてやれなかったから。和代には」
父が母を「和代」と名で呼ぶのはいつ以来だろう。いや、聞いた覚えなどあっただろうか。いつも、「おい」「お前」でしかなかった。
あの母が父に己の希望を伝えられることも、父がそれに応えようとしていることも。
どちらも真瀬には信じられない。両親には、夫婦として息子には窺い知れない関係が、……絆があったということなのだろうか。
結局、二人はその後まもなく和歌山に生活拠点を移した。母の生まれ故郷に近い土地に。
数年間は父が頻繁に遠距離を行き来していたが、母が倒れた三年後、今から四年前に真瀬に社長の地位を譲り会長として完全に現場からは引いた。
準備期間に根回しにも腐心したのか、自分のみならず一倉の父をはじめとする起業初期のメンバーを一掃する形で。
真瀬がやりやすいように考えたからか、単に世代交代が経営上必須だと思ったからか。
父はそこまで明かさなかったため、実際のところはわからなかった。
その父はたまに連絡は寄越すものの、母と二人で悠々と楽しく向こうで暮らしている、らしい。当然、身の回りの世話を任せる人間はいたけれど。
「彰洋さん、ずっとひとりなの? あなたがいいのなら構わないけど、もし特別な方ができたらお母さんに紹介してくれるかしら。それが最後の夢だわ」
母からは二、三ヶ月に一度は電話が入る。もともと控えめな性格で、要望を口にはしてもしつこくすることはなかった。
彼女の夢を叶える日が来るのかは、真瀬には定かではないのだが。
同じ家で暮らしてずっと接していたのに、両親の真の関係に気付かなかった。
上辺しか見ていなかったからだ。阿部のときと同じく。単に金や力だけで繋がっているのか、そこに血の通った愛情があるのか。真瀬にはそれを判別する目がなかった。いや、持とうともしなかった。
有紗は『人形』を演じているだけの人間だ。心を斟酌する必要もない物体ではなく。そのことは真瀬自身、彼女と過ごす中で何度も認識していた。
阿部の玩具が羨ましかった。嫉妬していた、のかもしれない。
人間の女性とごく普通の健全な関係が築けない真瀬にとって、阿部とあの『人形』の姿が至高に見えた。
しかし、そのすべてが誤りだったことにようやく気付く。彼らは「ご主人様と人形」ではない。ただの恋人同士のごっこ遊び。
二人の間に確固とした愛が、信頼があるからこそ、百合絵も口にしていたように非常識は承知であんな真似までした。
傍から見たら悪趣味にしか見えなくても、ごく限られた親友の前だからこそ素を晒せた。
子どもが玩具を自慢するかのように。
それを表面的に真に受けて、真瀬は有紗を利用したのだ。「阿部に勝った」と優越感に浸って、玩具自慢に成り下がっていた。
同じ自慢でも決定的に違うのは、相手の意向であり互いの意思疎通だったのだろう。
今度こそ、彼らのようになりたい。『人形』ではない有紗と、人間同士として仕切り直したい。
──愛、情、こころ。真瀬には遠かったもの。
どこか己と共鳴する美しい少女。似たところなど何もないと思っていた。今も具体的には挙げられない。
冷たいガラスのような、……本物のガラスでさえなく傷つくこともないアクリル製とまで例えられ、しかも否定できなかった自分。
温かく柔らかで今にも壊れそうなほどの、それこそ薄いガラスのような、しかし温もりを保つ心を持つ彼女と真瀬はまさに正反対だ。
裏の裏は表、と何かで聞いた。まさしく真理だ。しかしガラスは、何度裏返しても透明なまま。
仕事のテクニックはともかく、本来裏読みできない真瀬は、透明な心を持つ有紗と過ごすのが心地よかった。それでも見えないものがある。透明なのに隠れているのは何故なのか。
心を探ることなど面倒で、不要だとしか思えなかった。それでも今、真瀬は有紗の心を知りたいと考えている。彼女のことが知りたい。履歴書や調査書に並ぶ文字では表せない、心を『察し』たい。
あれほど疎んだ『察する』という行為を求めている自分が、愚かだとは思っても嫌いではない。その事実が、真瀬にとっては最大の驚きだった。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。
真瀬の母は、七年前に脳梗塞で倒れている。
早期の治療とリハビリテーションの効果で、可能な限り抑えられたものの後遺症が残った。
軽い運動麻痺とはいえ、生活に補助を要する身体になった母を父が冷たく見捨てるのではないか、と危惧していた。そうなった場合、自分はどうすべきなのか。
両親が仲睦まじいと感じたことはなかった。父も母も一人息子の真瀬には、方向性は異なっていても愛情をもって接してくれていたと今も自信を持って言える。
けれど、経営者としては紛れもなく優秀だった父は、家庭では暴君とまでは行かずとも母を明確に下に見て顎で使っていた。少なくとも真瀬の目にはそう映っていた。
……ただ黙って父に従う母の姿に、歯痒いものを感じていたのも事実だ。
所謂家事については手伝いの女性を頼んではいたが、『奥様』はただ世話をされて遊んでいればいいだけの存在ではない。少なくとも、真瀬の家「程度」では。
奥様には奥様なりの役割がある。父が仕事のみに没頭できたのも、母が影できちんと支えていたからこそだ。
それなのにたった一人、自由の利かない身で放り出される母から目を逸らすことなどできない。
心がわからないと散々罵られた真瀬にも、|人間《ひと》としての情がまったくないわけではないのだ。
とはいえ、父の会社で後継者として修行中の身で、父と決別して母を取るのは現実的ではない。
しかし、真瀬のそんな悩みはただの杞憂に終わった。プライベートに関しては。
「和歌山に帰ろうと思う。会社はお前に任せるから。もちろんすぐじゃないが、そのつもりで覚悟しておけ」
真瀬にとって父の言葉は衝撃でしかなかった。そもそも父の出身は和歌山ではない。母は東京育ちだ。
「わ、和歌山? 帰る、って。父さん群馬だろ?」
祖父母が健在だった幼い頃は、何度も訪れた『田舎』。今はもう墓参りで行くかどうかだ。
「|和代《かずよ》が帰りたいって言うんだよ。お前は知らないかもしれんが、和代は和歌山生まれなんだ。親の仕事の都合で赴任しただけで小学校に入る前に東京に戻ったから、五年ほどしかいなかったらしい」
父の静かな声。
「最期はあの懐かしい場所で過ごしたい、って。思い出の中の『故郷』なんて、現実とは全然違うかもしれん。でも和代の望みなら、せめてそれくらいは叶えてやりたい。まだまだ先は長いと信じてはいるが、だからこそ少しでも意に沿うようにしてやりたいんだ。俺はずっと仕事仕事で、何もしてやれなかったから。和代には」
父が母を「和代」と名で呼ぶのはいつ以来だろう。いや、聞いた覚えなどあっただろうか。いつも、「おい」「お前」でしかなかった。
あの母が父に己の希望を伝えられることも、父がそれに応えようとしていることも。
どちらも真瀬には信じられない。両親には、夫婦として息子には窺い知れない関係が、……絆があったということなのだろうか。
結局、二人はその後まもなく和歌山に生活拠点を移した。母の生まれ故郷に近い土地に。
数年間は父が頻繁に遠距離を行き来していたが、母が倒れた三年後、今から四年前に真瀬に社長の地位を譲り会長として完全に現場からは引いた。
準備期間に根回しにも腐心したのか、自分のみならず一倉の父をはじめとする起業初期のメンバーを一掃する形で。
真瀬がやりやすいように考えたからか、単に世代交代が経営上必須だと思ったからか。
父はそこまで明かさなかったため、実際のところはわからなかった。
その父はたまに連絡は寄越すものの、母と二人で悠々と楽しく向こうで暮らしている、らしい。当然、身の回りの世話を任せる人間はいたけれど。
「彰洋さん、ずっとひとりなの? あなたがいいのなら構わないけど、もし特別な方ができたらお母さんに紹介してくれるかしら。それが最後の夢だわ」
母からは二、三ヶ月に一度は電話が入る。もともと控えめな性格で、要望を口にはしてもしつこくすることはなかった。
彼女の夢を叶える日が来るのかは、真瀬には定かではないのだが。
同じ家で暮らしてずっと接していたのに、両親の真の関係に気付かなかった。
|上辺《うわべ》しか見ていなかったからだ。阿部のときと同じく。単に金や力だけで繋がっているのか、そこに血の通った愛情があるのか。真瀬にはそれを判別する目がなかった。いや、持とうともしなかった。
有紗は『人形』を演じているだけの人間だ。心を斟酌する必要もない|物体《モノ》ではなく。そのことは真瀬自身、彼女と過ごす中で何度も認識していた。
阿部の玩具が羨ましかった。嫉妬していた、のかもしれない。
人間の女性とごく普通の健全な関係が築けない真瀬にとって、阿部とあの『人形』の姿が至高に見えた。
しかし、そのすべてが誤りだったことにようやく気付く。彼らは「ご主人様と人形」ではない。ただの恋人同士のごっこ遊び。
二人の間に確固とした愛が、信頼があるからこそ、百合絵も口にしていたように非常識は承知であんな真似までした。
傍から見たら悪趣味にしか見えなくても、ごく限られた親友の前だからこそ素を晒せた。
子どもが玩具を自慢するかのように。
それを表面的に真に受けて、真瀬は有紗を利用したのだ。「阿部に勝った」と優越感に浸って、玩具自慢に成り下がっていた。
同じ自慢でも決定的に違うのは、相手の意向であり互いの意思疎通だったのだろう。
今度こそ、彼らのようになりたい。『人形』ではない有紗と、人間同士として仕切り直したい。
──愛、情、こころ。真瀬には遠かったもの。
どこか己と共鳴する美しい少女。似たところなど何もないと思っていた。今も具体的には挙げられない。
冷たいガラスのような、……本物のガラスでさえなく傷つくこともないアクリル製とまで例えられ、しかも否定できなかった自分。
温かく柔らかで今にも壊れそうなほどの、それこそ薄いガラスのような、しかし温もりを保つ心を持つ彼女と真瀬はまさに正反対だ。
裏の裏は表、と何かで聞いた。まさしく真理だ。しかしガラスは、何度裏返しても透明なまま。
|仕事《ビジネス》のテクニックはともかく、本来裏読みできない真瀬は、透明な心を持つ有紗と過ごすのが心地よかった。それでも見えないものがある。透明なのに隠れているのは何故なのか。
心を探ることなど面倒で、不要だとしか思えなかった。それでも今、真瀬は有紗の心を知りたいと考えている。彼女のことが知りたい。履歴書や調査書に並ぶ文字では表せない、心を『察し』たい。
あれほど疎んだ『察する』という行為を求めている自分が、愚かだとは思っても嫌いではない。その事実が、真瀬にとっては最大の驚きだった。