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入道雲

ー/ー



 少年が入道雲を連れてきた。昼下がりだった。
 
「逃げろ逃げろ、雨が来るぞ」
 
 黒く焼けた細い腕を大袈裟に振って、坂を駆け降りる。麦わら帽子の下で、真っ白な歯が光った。
 坂の向こう、青空の端から、雲が頭をもたげた。みるみる大きくなって、日向を呑み込んでいく。
 
「おうい、こっちこっち」
 
 茫然と立ち尽くす少女に向かって、坂の下から少年が声を張り上げる。少女はその声に引っ張られるように坂を下っていく。礫を敷き詰めた道は走りにくくて、何度もつんのめりそうになる。影が追ってくる。
 少女は必死に走った。けれど、雲は少女を悠々と追い越して、その黒い腹の中に納めていった。
 入道雲がゴロゴロと唸り声を上げた。
 
「ほらほら早く、逃げろ逃げろ」
 
 いよいよ麓という時、つま先が礫に引っかかった。少女はあっと声を上げた。視界がぐわんと揺れて、地面が近づいてくる。ぎゅっと目を瞑った。
 目を開くと、視界はぴたりと止まっていた。細い腕が、小さな肩を支えている。
 顔を上げると、少年と目が合った。少年はにっこり笑い、少女の手首を握ってぐいぐい引っ張っていった。
 少女は前のめりになりながら、必死に走った。つばの広い麦わら帽子が、少年の頭をすっぽりと包み込んでいる。少し大きなサンダルが、かかとから離れる度にかぱかぱ鳴った。

 唸り声。辺りが昼間より明るくなった。たちまち、道は真っ黒に染まった。
 少年は飛沫を上げながら、一層軽やかに駆けていく。
 少年が指差す。その先に、緑色の雨除け屋根が道に突き出しているのが見えた。

 二人は屋根の下に滑り込んだ。赤錆の浮いたシャッターを横目に、少女は顔に張り付いた髪を掻き上げた。
 少年はぶるぶると身体を震わせて雨粒を飛び散らせた。それがおかしくて、少女はお腹を押さえて笑った。

「あなた犬みたい」
「犬なんかじゃないよ」

 少年はぶっきらぼうに言った。二人は顔を見合わせて、目一杯笑った。屋根から滝のように水が溢れている。

「あ」

 少女の白いスカートに一点。泥が跳ねていた。少年は申し訳なさそうに眉を寄せ、黒い染みをじっと見ていた。
 不意に、少女が麦わら帽子を取り上げて屋根の外へ躍り出た。
 帽子をかぶりながら、振り向いて言った。

「逃げるぞ逃げるぞ、入道雲が逃げちゃうぞ」

 雨が少女の輪郭を白く浮き上がらせていた。
 どんどん小さくなっていく少女を、少年は追いかけた。
 二人の笑い声が、雨の中に溶けていく。
 坂の上から、柔らかい日差しが滑り落ちていった。


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 少年が入道雲を連れてきた。昼下がりだった。
「逃げろ逃げろ、雨が来るぞ」
 黒く焼けた細い腕を大袈裟に振って、坂を駆け降りる。麦わら帽子の下で、真っ白な歯が光った。
 坂の向こう、青空の端から、雲が頭をもたげた。みるみる大きくなって、日向を呑み込んでいく。
「おうい、こっちこっち」
 茫然と立ち尽くす少女に向かって、坂の下から少年が声を張り上げる。少女はその声に引っ張られるように坂を下っていく。礫を敷き詰めた道は走りにくくて、何度もつんのめりそうになる。影が追ってくる。
 少女は必死に走った。けれど、雲は少女を悠々と追い越して、その黒い腹の中に納めていった。
 入道雲がゴロゴロと唸り声を上げた。
「ほらほら早く、逃げろ逃げろ」
 いよいよ麓という時、つま先が礫に引っかかった。少女はあっと声を上げた。視界がぐわんと揺れて、地面が近づいてくる。ぎゅっと目を瞑った。
 目を開くと、視界はぴたりと止まっていた。細い腕が、小さな肩を支えている。
 顔を上げると、少年と目が合った。少年はにっこり笑い、少女の手首を握ってぐいぐい引っ張っていった。
 少女は前のめりになりながら、必死に走った。つばの広い麦わら帽子が、少年の頭をすっぽりと包み込んでいる。少し大きなサンダルが、かかとから離れる度にかぱかぱ鳴った。
 唸り声。辺りが昼間より明るくなった。たちまち、道は真っ黒に染まった。
 少年は飛沫を上げながら、一層軽やかに駆けていく。
 少年が指差す。その先に、緑色の雨除け屋根が道に突き出しているのが見えた。
 二人は屋根の下に滑り込んだ。赤錆の浮いたシャッターを横目に、少女は顔に張り付いた髪を掻き上げた。
 少年はぶるぶると身体を震わせて雨粒を飛び散らせた。それがおかしくて、少女はお腹を押さえて笑った。
「あなた犬みたい」
「犬なんかじゃないよ」
 少年はぶっきらぼうに言った。二人は顔を見合わせて、目一杯笑った。屋根から滝のように水が溢れている。
「あ」
 少女の白いスカートに一点。泥が跳ねていた。少年は申し訳なさそうに眉を寄せ、黒い染みをじっと見ていた。
 不意に、少女が麦わら帽子を取り上げて屋根の外へ躍り出た。
 帽子をかぶりながら、振り向いて言った。
「逃げるぞ逃げるぞ、入道雲が逃げちゃうぞ」
 雨が少女の輪郭を白く浮き上がらせていた。
 どんどん小さくなっていく少女を、少年は追いかけた。
 二人の笑い声が、雨の中に溶けていく。
 坂の上から、柔らかい日差しが滑り落ちていった。