春愁
ー/ー 昨日の夜、長岡の家に行った。借りていた漫画を返すためだ。長岡の仕事は普段より早く終わり、真一が行った七時半頃には、すでに家に帰っていた。
門の前でしばらく立ち話をしていたら、大学から帰ってきた岡崎が、スクーターで目の前を通りかかった。岡崎の家は、長岡の家のすぐそばにある。立ち話をしていた道は、岡崎が幼稚園の頃から使っている通学路なのだとか。
「こいつの就職先が地元に決まったら、通勤にもこの道を使いますよ」
「二世帯住宅にしたら、子供も使うな」
「そうなったら、『岡崎通り』 って命名して、役所に申請してやります」
そんなことを言って、岡崎をからかった。
その後、岡崎が駅で中学時代の友人に会ったと言ったのをきっかけに、岡崎と長岡だけの会話になった。地元の人間ではなく、同じ学校に通っていたわけでもない真一に、ふたりの話はわからない。スクーターにまたがりながら、漫然と聞いていた。
岡崎が友人に会ったというのは、四、五日前のこと。大学の講義が終わって家に帰る途中、駅で友人の姿を見かけ、岡崎のほうから声をかけた。雨が降ったその日、岡崎はバスと電車を乗り継いで通学していた。久しぶりに岡崎の顔を見た友人は大いに驚き、改札前のコンコースで立ち話になった。だが、長くなってくると彼のほうから、どこかで座って話そう、と持ちかけ、近くの喫茶店に入った。コーヒーを飲みながら、積もる話に花が咲いたという。
真一が聞いていたのは、どこにでもある話だ。何組の誰それは、いっこ上のなんとかという先輩と結婚したとか、同じ部活だったあいつは、転勤して今地元にいないとか……。真一にとっては大して面白い話ではなかったが、登場人物たちの顔を知っている長岡は、時折驚きの声を上げたり、質問を挟んだりしながら、興味深そうに耳を傾けていた。
強風が止んだ住宅街は、静けさに包まれていた。
どこかの家から漂い出る煮炊きの匂いが、強く印象に残っている。
長岡の家の門灯が煌々と灯っていたので、ふたりの表情はよくわかった。
彼らを包み込んでいたのは、いつもと同じ空気。そこには、いつもと同じ時間が流れ、いつもと同じ温度や感覚に満ちていた。
なんの変哲もない言葉のやり取り。目の前で展開されていたのは、ありふれた日常のひとこまにすぎない。
自分はこの世界をよく知っている。
ずっと慣れ親しんできた。
スクーターにおおいかぶさりながら、ぼんやりそう思った。
ただ、ひとつだけ、いつもと違う点があった。
その世界の中に自分がいない、とはっきり感じた。
どうしてそう感じたのか。
ふたりの会話についていけなかったから、という理由は的外れだ。あのときの自分を捉えていたのは、そんなありきたりな感覚ではなかった。
それは、静かな発作のようなものだった。はっきり違和感を自覚しながら、あたかも他人の身に起こった出来事を観察するように、冷静に自分自身を見つめていた。まるで、感情を一切宿さない監視カメラにでもなったかのように。
――ふたりと自分は決して相容れない。世界を異にする別種の存在同士なのだ。
そんな考えが突然ひらめき、頭に居座った。
彼らがまとっていたある種の雰囲気。その世界に固有の情趣。
そこに、決定的な断絶を感じた。
――水と油を同じ容器に入れても、混ざり合うことはない。
――免疫の仕組みは、自己と非自己を区別する。
――死んだ人間の魂は、この世に留まることを許されない。
わかりやすく例えるなら、こういうことなのだ。
それは、蓬莱公園で感じたこととは、微妙に内容が食い違っていたかもしれない。
だが、表面的な違いがどうあれ、ふたつの体験は同一の淵源に根ざしていると思った。
どこからか虫の羽音が近づいて、トレーナーの袖口に細長い虫がとまった。ハンミョウに似ているが、色が違う。ベニカミキリだ。腕を這い上がろうとしたので指先で弾くと、赤い鞘翅を広げて、どこかへ飛んでいった。
風に乗って、小林たちの笑い声が届けられる。振り返ると、菜の花の花むらの合間に、談笑する三人の顔が見えた。ベンチ中央の岡崎が煙草を吸っていないところをみると、そろそろ出発の時間だ。
U字ブロックから腰を上げ、ペットボトルのキャップをしめた。お茶はあまり減らなかった。
ズボンの後ろをはたいたとき、足元に一輪の白いタンポポを見つけた。関東地方では珍しい。鎮守の森へ向かう道に咲いているのは、すべて黄色いタンポポだ。
青草の合間にひっそり咲く花を見つめていたら、またふつふつと思考がわき出してきた。が、ちょうど真一を呼ぶ声がし、三人のところへ戻っていった。
門の前でしばらく立ち話をしていたら、大学から帰ってきた岡崎が、スクーターで目の前を通りかかった。岡崎の家は、長岡の家のすぐそばにある。立ち話をしていた道は、岡崎が幼稚園の頃から使っている通学路なのだとか。
「こいつの就職先が地元に決まったら、通勤にもこの道を使いますよ」
「二世帯住宅にしたら、子供も使うな」
「そうなったら、『岡崎通り』 って命名して、役所に申請してやります」
そんなことを言って、岡崎をからかった。
その後、岡崎が駅で中学時代の友人に会ったと言ったのをきっかけに、岡崎と長岡だけの会話になった。地元の人間ではなく、同じ学校に通っていたわけでもない真一に、ふたりの話はわからない。スクーターにまたがりながら、漫然と聞いていた。
岡崎が友人に会ったというのは、四、五日前のこと。大学の講義が終わって家に帰る途中、駅で友人の姿を見かけ、岡崎のほうから声をかけた。雨が降ったその日、岡崎はバスと電車を乗り継いで通学していた。久しぶりに岡崎の顔を見た友人は大いに驚き、改札前のコンコースで立ち話になった。だが、長くなってくると彼のほうから、どこかで座って話そう、と持ちかけ、近くの喫茶店に入った。コーヒーを飲みながら、積もる話に花が咲いたという。
真一が聞いていたのは、どこにでもある話だ。何組の誰それは、いっこ上のなんとかという先輩と結婚したとか、同じ部活だったあいつは、転勤して今地元にいないとか……。真一にとっては大して面白い話ではなかったが、登場人物たちの顔を知っている長岡は、時折驚きの声を上げたり、質問を挟んだりしながら、興味深そうに耳を傾けていた。
強風が止んだ住宅街は、静けさに包まれていた。
どこかの家から漂い出る煮炊きの匂いが、強く印象に残っている。
長岡の家の門灯が煌々と灯っていたので、ふたりの表情はよくわかった。
彼らを包み込んでいたのは、いつもと同じ空気。そこには、いつもと同じ時間が流れ、いつもと同じ温度や感覚に満ちていた。
なんの変哲もない言葉のやり取り。目の前で展開されていたのは、ありふれた日常のひとこまにすぎない。
自分はこの世界をよく知っている。
ずっと慣れ親しんできた。
スクーターにおおいかぶさりながら、ぼんやりそう思った。
ただ、ひとつだけ、いつもと違う点があった。
その世界の中に自分がいない、とはっきり感じた。
どうしてそう感じたのか。
ふたりの会話についていけなかったから、という理由は的外れだ。あのときの自分を捉えていたのは、そんなありきたりな感覚ではなかった。
それは、静かな発作のようなものだった。はっきり違和感を自覚しながら、あたかも他人の身に起こった出来事を観察するように、冷静に自分自身を見つめていた。まるで、感情を一切宿さない監視カメラにでもなったかのように。
――ふたりと自分は決して相容れない。世界を異にする別種の存在同士なのだ。
そんな考えが突然ひらめき、頭に居座った。
彼らがまとっていたある種の雰囲気。その世界に固有の情趣。
そこに、決定的な断絶を感じた。
――水と油を同じ容器に入れても、混ざり合うことはない。
――免疫の仕組みは、自己と非自己を区別する。
――死んだ人間の魂は、この世に留まることを許されない。
わかりやすく例えるなら、こういうことなのだ。
それは、蓬莱公園で感じたこととは、微妙に内容が食い違っていたかもしれない。
だが、表面的な違いがどうあれ、ふたつの体験は同一の淵源に根ざしていると思った。
どこからか虫の羽音が近づいて、トレーナーの袖口に細長い虫がとまった。ハンミョウに似ているが、色が違う。ベニカミキリだ。腕を這い上がろうとしたので指先で弾くと、赤い鞘翅を広げて、どこかへ飛んでいった。
風に乗って、小林たちの笑い声が届けられる。振り返ると、菜の花の花むらの合間に、談笑する三人の顔が見えた。ベンチ中央の岡崎が煙草を吸っていないところをみると、そろそろ出発の時間だ。
U字ブロックから腰を上げ、ペットボトルのキャップをしめた。お茶はあまり減らなかった。
ズボンの後ろをはたいたとき、足元に一輪の白いタンポポを見つけた。関東地方では珍しい。鎮守の森へ向かう道に咲いているのは、すべて黄色いタンポポだ。
青草の合間にひっそり咲く花を見つめていたら、またふつふつと思考がわき出してきた。が、ちょうど真一を呼ぶ声がし、三人のところへ戻っていった。
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