【6】②

ー/ー



◇  ◇  ◇
「うーん。正直言って、真瀬さんから聞いてた話とちょっと印象が違いましたね。……真瀬さんの話が間違ってたとかじゃなく」
 思ったよりも早く、その日のうちに真瀬の元を訪ねてきた吉野を迎える。
 正式な報告書を上げる前に、口頭でいいからすぐに聞きたい、と頼んであったのだ。
「最初の情報の限りでは俺、有紗さんの実家は金なくて、親に苛められてこき使われて逃げ出したと思ってたんですよ。でも実際には、母子家庭ですけど母親は近くの大企業の工場の現地採用社員なんです。まあ裕福とは言えなくても、まず生活に困ることはないんじゃないかって感じでした」
「そうなんだ。……母子家庭」
 真瀬の相槌に吉野が答えた。
「はい。これは調べてすぐわかったんですが、父親は十五年前に車の自損事故で亡くなってました。ハンドル操作を誤ったんじゃないかって結論付けられたようです。任意保険が切れてて、自賠責は自損じゃ死亡でも一切出ません。他人を巻き込まなかったのがせめてもの、って言うと不謹慎ですけどね。その後の家計は母親が一人で支えてたようです」
 一息ついて、彼はさらに言葉を継ぐ。
「有紗さんは三兄妹の末っ子で、一番上の兄の(れん)が二十五歳、下の兄の丈が二十三歳です。で、長男である蓮は大学卒業してからも家に居て、下の二人は高卒後すぐに家出てるんですよね。この蓮の結婚の聞き合わせ装って、近所で話聞いたんですけど」
 どうやって調べるのかなど真瀬には予想もつかなかったが、なるほどそういう搦め手もあるわけか、と感心する。
 やはりプロはプロだ。当然だが。
「調査員に対する感覚って人それぞれだし、胡散臭そうに見て口の重い人も、ペラペラ喋ってくれる人もいろいろなんですよ。警戒されて当然の仕事なんで、そこをどうするかが腕の見せ所でもありますね。──でも今回に限っては、全員の意見が一致してました。つまり『あの長男は止めとけ!』です」
「なんかよっぽど問題あるの? ……もしかして、有紗のこともその兄が原因だったりする?」
 まさか! と最悪の想像に浮足立った真瀬の言を、吉野は冷静に否定した。
「いえ。ご近所さんも、ご本人を悪く言う人はまあいませんでした。別に褒めもしませんけど。ただ、『あの息子と結婚だけは止めた方がいい』って口を揃えて仰るんですよね」
 もうあまり余計な口は挟まないでおこう、と真瀬は聞き役に徹することにする。
「真瀬さんもご存じなかったみたいですが、有紗さんの父親の(かい)さんは所謂ハーフっていうか……。開さんの父、つまり有紗さんの祖父に当たる人物がアメリカ人だったそうです」
 最初に『人形』の話をした時の「外国ルーツ」という印象通り、有紗はクォーターになるということか。
「軍属で、本国に家族がいたって開さん本人に聞いた、って方がいました」
「……現地妻、ってやつ、か」
「おそらくは。国に帰るときに開と母(こちらでの妻子)を置いて行ったそうですよ。実はそのことも有紗さんの事情に影響してるんじゃないかな、と」
「どういう?」
「一番語ってくださった奥様の話なんですが……」
 そう切り出して、吉野は情報源との会話を再現してくれた。

    ◆  ◆  ◆
「まーまー。結婚で調査入れるようなお家のお嬢さんが北原さんの息子さんと、ねぇ。やっぱりお金だか名前だかがあるお家ってのは、嗅ぎ分ける力があるのかしら。あなた、悪いこと言わないからそのお家や親御さんのためにも、止めた方がいいって報告してあげなさいよ」
 調査を始めてから彼女に限った論調ではなかったが、いきなり不穏なことを口にされて吉野はとりあえず問い返す。
「……何か素行に問題があるとかそういったお話でしょうか? いえ、お宅さまから伺ったとは何があっても漏らしませんのでご安心を──」
 調査に関わる決まり文句を述べる吉野を遠慮なく遮って、彼女は素っ気なく言葉を被せて来た。
「ここらじゃみんな知ってるから今更よ。蓮くんはね、まあ……、別に悪い子じゃないと思うわ」
「では、何でしょう」
「北原さんとこはお母さんがちょっとねぇ。あなたも知ってるかもしれないけど、あのお宅にはお子さんが三人居るのよ。蓮くんの下に弟さんと妹さん」
「はい、存じております」
「そりゃそうよね。とにかく昔っから、お母さんの綾子(あやこ)さんは蓮くんだけが特別なの。亡くなったお父さんが半分アメリカ人だったんだけど、丈くんと有紗ちゃん、あ、蓮くんの弟と妹ね。あの二人はお父さん似なのよ。日本人離れした美形兄妹で有名だったわ、この辺では。蓮くんはお母さん似で、外国の血が入ってるようには見えないもの」
「お父様のご事情については、多少なりとも得ております」
 こちらからどう話を振ろうかと考えるまでもなく、有紗の名前が出て吉野は内心高揚する。無論、表には一切出さない。
「少なくとも外からは、お父さんの方は三人を分け隔てしてたようには感じなかったわ。でも綾子さんは、小さい頃から蓮くんと下の二人で露骨に差をつけてて……。ちょっとどうかと思ってたけど、他人には何もできないじゃない? 明らかに虐待ってんならまだしも、そういうんじゃないし」
 ハーフの父親。父に似た外国風の顔立ちの二人の子ども。そして、同じくクォーターなのに母に似た日本人的な外見の上の息子。
 隔世遺伝もあるし、似ていないきょうだいなど珍しくもない。しかし、有紗の家庭では何か違ったのか?
「差、ですか」
「綾子さんも結構美人だし、蓮くんも格好いい方だと思うわ。そりゃまあ、三兄妹で明らかに見た目に違いがあれば気にするのもわからなくはないわよ?」
「ええ──」
「失礼なのは承知だけど蓮くんが不憫だったっていうのか、……そういうのがあったんだとはなんとなくわかる気がするの。同じ親として。でもそれはお子さんたちには責任なんかないじゃない?」
 単なるゴシップ好きの類ではなく、この夫人が真に有紗の家庭を気に留めていたのだろうというのはわかる。
「特に有紗ちゃんなんて、保育園のときからいっつもお兄ちゃんたちのお下がり着せられててねぇ。……古いしサイズも合ってなかったけど、洗濯はしてて一応汚れとかはないのよ。まあ背も高くてきれいな子だから、何でも似合うといえば似合ってたけど」
 何とか蓮以外、特に有紗に話題を持って行こうとした吉野の思惑にうまく乗ってもらえて、気持ちだけ拳を握った。
「うちは男ばっかなんだけど、女の子のいるお宅が見かねてお下がり持ってったりしてたくらい。別に受け取って着せるのは平気なのよね。それを狙ってるわけでもホントにそこまでお金ないわけでもなくて、単に蓮くん以外どうでもいいって感じなの。だってあの人、うちの旦那とそこまで収入変わんないはずよ。うちのは一応班長とはいえ、同じ工員だし」
 母親は、自分に似た息子だけを溺愛した。あとの二人には関心がなかった、らしい。得た情報を一つずつ整理して行く。
「そうなんですね、で──」
 勢いよく話す相手がひと息つくタイミングを見計らい、辛うじて相槌を打つくらいしか吉野にできることはなかった。
「蓮くんのすぐ下の丈くんも高校卒業したら出てって、有紗ちゃんもいつの間にかいなくなってたから。こう言っちゃあなんだけど、本当によかったと思うわ。今は蓮くんが隣の市の会社に勤めててお母さんと二人暮らしだけど、そこに奥さんが入ったら、というより普通結婚したら出てくでしょ? どっちにしても、考えるのも恐ろしいわね。あなた、止める方向で報告しなさいよ、絶対!」
    ◆  ◆  ◆

 立て板に水の如く一方的に話し続けた彼女は、最初と同じ言葉で話を締め括ったのだそうだ。
「真瀬さんが有紗さんに『親に就職しろって言われた』みたいなこと聞いたって話で、娘を働かせて稼ぎ取り上げようとしてるのかと思ってたんですよ、俺。金ヅル的な。でも単に長男以外に金掛けたくないだけっていうか、大学行かせる気はないけど出てっても探す気もないって感じでした」
「……もしかしたら、有紗が『東京で就職したい』って言ってたら、すんなり『勝手にしろ』だったかもしれないってこと、かな?」
 真瀬の思い付きに、吉野は少し難しい表情を作った。
「うーん、それはどうでしょうか。これは俺の超個人的経験則なんですけど、親の反応先読みし過ぎて言いたいこと飲み込んじゃうことってあるんで。母親の方も彼女に金入れさせるのはまだしも、家事なんかはさせようと考えてて、有紗さんにもそれが伝わって黙っちゃったのかもしれないですしね。……つまり、そもそも『東京へ行きたい』とか自分の希望を口に出せる家族関係じゃなかったんじゃないか、って」
「成程、――」
 意図せず吉野の過去に触れてしまった気がする……。
 真瀬は対応に困った末、結局素知らぬ顔で流すことを選んだ。
 吉野の、若さと他人に警戒心を抱かせない人好きのする明るい雰囲気が役立った面はあるかもしれない。
 しかしここまで簡単に家庭の内情が漏れるのは、どうやらそれだけではなさそうだ。周囲に、「北原家」をよく思わない人間が多いということでもあるのではないか。妬みや恨みではなく、心配や不安、嫌悪の方向で。
「吉野くん、ありがとう。急がせて申し訳なかったね。心付けは厳禁て聞いてるから渡せないけど、所長に賛辞は惜しまないでおくから」
 心からの感謝を告げた真瀬に、彼は満面の笑みを見せた。
「あ、それが何より嬉しいです! そういう積み重ねで、任される案件もステップアップできるんで。今回の件も、真瀬さんが前回俺のことすげえ褒めてくれたからって所長に聞きました」
「……こんな地味な調査、つまらなかったよね、かえって悪かったかな」
 彼の喜びように申し訳ない気分で告げた真瀬に、吉野は力説して来る。
「とんでもない! いや、確かに面白いとは言えないかもしれませんよ? つか、ウチの事務所でそんな『派手で面白い』案件なんてどれだけあるのかもわかんないです。でも俺はこうやって『依頼人(クライアント)』の信頼を勝ち取っていくのが、一人前の調査員になるには絶対必要だと思ってるんで!」
「吉野くんは絶対いい調査員になるよ。というか、今でも僕は安心して頼める調査員だと思ってるよ。……無駄かもしれないけど、所長に『特別ボーナス出してやってください』って頼んどく。その分、調査費に上乗せで払うから」
 改めて礼を言い吉野を送り出した後、真瀬はその内容について考えている。
 正直、金の問題だと思っていた。吉野に説明した際も客観的になるよう心掛けたものの、そうした真瀬の恣意が入って彼に先入観を与えてしまったのは否めない。
 それに引き摺られずフラットな目を持てるのが、調査員としての吉野の強みだと改めて思う。
 親に、……父の死後はたった一人の親である母に顧みられず育った。おそらく家庭での有紗の味方は次兄だけだ。だからこそ、家を出て真っ先に頼ったのが彼だった。
 辛かったのだろうか。寂しかったのか? わからない自分がもどかしく、情けなかった。
 幼い有紗の泣き顔は、それでも浮かばない。実態はともかく、彼女が感情を露わにする姿を思い描けないことに今更気づいた。静かな微笑み、控えめな喜び。笑顔さえ慎ましい少女。
 常に自分を抑えて生きて来たのか。まだ十八なのに。誰もが羨むほどの美しさを誇ってもいい、今が一番我儘で弾けていい年頃なのに。あの子、は。
 有紗が話さなかったこと。おそらくは思い出したくもないだろうことを、強引に暴いてしまった。

 ――こんなことをする権利が、真瀬にあるのだろうか。


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「うーん。正直言って、真瀬さんから聞いてた話とちょっと印象が違いましたね。……真瀬さんの話が間違ってたとかじゃなく」
 思ったよりも早く、その日のうちに真瀬の元を訪ねてきた吉野を迎える。
 正式な報告書を上げる前に、口頭でいいからすぐに聞きたい、と頼んであったのだ。
「最初の情報の限りでは俺、有紗さんの実家は金なくて、親に苛められてこき使われて逃げ出したと思ってたんですよ。でも実際には、母子家庭ですけど母親は近くの大企業の工場の現地採用社員なんです。まあ裕福とは言えなくても、まず生活に困ることはないんじゃないかって感じでした」
「そうなんだ。……母子家庭」
 真瀬の相槌に吉野が答えた。
「はい。これは調べてすぐわかったんですが、父親は十五年前に車の自損事故で亡くなってました。ハンドル操作を誤ったんじゃないかって結論付けられたようです。任意保険が切れてて、自賠責は自損じゃ死亡でも一切出ません。他人を巻き込まなかったのがせめてもの、って言うと不謹慎ですけどね。その後の家計は母親が一人で支えてたようです」
 一息ついて、彼はさらに言葉を継ぐ。
「有紗さんは三兄妹の末っ子で、一番上の兄の|蓮《れん》が二十五歳、下の兄の丈が二十三歳です。で、長男である蓮は大学卒業してからも家に居て、下の二人は高卒後すぐに家出てるんですよね。この蓮の結婚の聞き合わせ装って、近所で話聞いたんですけど」
 どうやって調べるのかなど真瀬には予想もつかなかったが、なるほどそういう搦め手もあるわけか、と感心する。
 やはりプロはプロだ。当然だが。
「調査員に対する感覚って人それぞれだし、胡散臭そうに見て口の重い人も、ペラペラ喋ってくれる人もいろいろなんですよ。警戒されて当然の仕事なんで、そこをどうするかが腕の見せ所でもありますね。──でも今回に限っては、全員の意見が一致してました。つまり『あの長男は止めとけ!』です」
「なんかよっぽど問題あるの? ……もしかして、有紗のこともその兄が原因だったりする?」
 まさか! と最悪の想像に浮足立った真瀬の言を、吉野は冷静に否定した。
「いえ。ご近所さんも、ご本人を悪く言う人はまあいませんでした。別に褒めもしませんけど。ただ、『あの息子と結婚だけは止めた方がいい』って口を揃えて仰るんですよね」
 もうあまり余計な口は挟まないでおこう、と真瀬は聞き役に徹することにする。
「真瀬さんもご存じなかったみたいですが、有紗さんの父親の|開《かい》さんは所謂ハーフっていうか……。開さんの父、つまり有紗さんの祖父に当たる人物がアメリカ人だったそうです」
 最初に『人形』の話をした時の「外国ルーツ」という印象通り、有紗はクォーターになるということか。
「軍属で、本国に家族がいたって開さん本人に聞いた、って方がいました」
「……現地妻、ってやつ、か」
「おそらくは。国に帰るときに|開と母《こちらでの妻子》を置いて行ったそうですよ。実はそのことも有紗さんの事情に影響してるんじゃないかな、と」
「どういう?」
「一番語ってくださった奥様の話なんですが……」
 そう切り出して、吉野は情報源との会話を再現してくれた。
    ◆  ◆  ◆
「まーまー。結婚で調査入れるようなお家のお嬢さんが北原さんの息子さんと、ねぇ。やっぱりお金だか名前だかがあるお家ってのは、嗅ぎ分ける力があるのかしら。あなた、悪いこと言わないからそのお家や親御さんのためにも、止めた方がいいって報告してあげなさいよ」
 調査を始めてから彼女に限った論調ではなかったが、いきなり不穏なことを口にされて吉野はとりあえず問い返す。
「……何か素行に問題があるとかそういったお話でしょうか? いえ、お宅さまから伺ったとは何があっても漏らしませんのでご安心を──」
 調査に関わる決まり文句を述べる吉野を遠慮なく遮って、彼女は素っ気なく言葉を被せて来た。
「ここらじゃみんな知ってるから今更よ。蓮くんはね、まあ……、別に悪い子じゃないと思うわ」
「では、何でしょう」
「北原さんとこはお母さんがちょっとねぇ。あなたも知ってるかもしれないけど、あのお宅にはお子さんが三人居るのよ。蓮くんの下に弟さんと妹さん」
「はい、存じております」
「そりゃそうよね。とにかく昔っから、お母さんの|綾子《あやこ》さんは蓮くんだけが特別なの。亡くなったお父さんが半分アメリカ人だったんだけど、丈くんと有紗ちゃん、あ、蓮くんの弟と妹ね。あの二人はお父さん似なのよ。日本人離れした美形兄妹で有名だったわ、この辺では。蓮くんはお母さん似で、外国の血が入ってるようには見えないもの」
「お父様のご事情については、多少なりとも得ております」
 こちらからどう話を振ろうかと考えるまでもなく、有紗の名前が出て吉野は内心高揚する。無論、表には一切出さない。
「少なくとも外からは、お父さんの方は三人を分け隔てしてたようには感じなかったわ。でも綾子さんは、小さい頃から蓮くんと下の二人で露骨に差をつけてて……。ちょっとどうかと思ってたけど、他人には何もできないじゃない? 明らかに虐待ってんならまだしも、そういうんじゃないし」
 ハーフの父親。父に似た外国風の顔立ちの二人の子ども。そして、同じくクォーターなのに母に似た日本人的な外見の上の息子。
 隔世遺伝もあるし、似ていないきょうだいなど珍しくもない。しかし、有紗の家庭では何か違ったのか?
「差、ですか」
「綾子さんも結構美人だし、蓮くんも格好いい方だと思うわ。そりゃまあ、三兄妹で明らかに見た目に違いがあれば気にするのもわからなくはないわよ?」
「ええ──」
「失礼なのは承知だけど蓮くんが不憫だったっていうのか、……そういうのがあったんだとはなんとなくわかる気がするの。同じ親として。でもそれはお子さんたちには責任なんかないじゃない?」
 単なるゴシップ好きの類ではなく、この夫人が真に有紗の家庭を気に留めていたのだろうというのはわかる。
「特に有紗ちゃんなんて、保育園のときからいっつもお兄ちゃんたちのお下がり着せられててねぇ。……古いしサイズも合ってなかったけど、洗濯はしてて一応汚れとかはないのよ。まあ背も高くてきれいな子だから、何でも似合うといえば似合ってたけど」
 何とか蓮以外、特に有紗に話題を持って行こうとした吉野の思惑にうまく乗ってもらえて、気持ちだけ拳を握った。
「うちは男ばっかなんだけど、女の子のいるお宅が見かねてお下がり持ってったりしてたくらい。別に受け取って着せるのは平気なのよね。それを狙ってるわけでもホントにそこまでお金ないわけでもなくて、単に蓮くん以外どうでもいいって感じなの。だってあの人、うちの旦那とそこまで収入変わんないはずよ。うちのは一応班長とはいえ、同じ工員だし」
 母親は、自分に似た息子だけを溺愛した。あとの二人には関心がなかった、らしい。得た情報を一つずつ整理して行く。
「そうなんですね、で──」
 勢いよく話す相手がひと息つくタイミングを見計らい、辛うじて相槌を打つくらいしか吉野にできることはなかった。
「蓮くんのすぐ下の丈くんも高校卒業したら出てって、有紗ちゃんもいつの間にかいなくなってたから。こう言っちゃあなんだけど、本当によかったと思うわ。今は蓮くんが隣の市の会社に勤めててお母さんと二人暮らしだけど、そこに奥さんが入ったら、というより普通結婚したら出てくでしょ? どっちにしても、考えるのも恐ろしいわね。あなた、止める方向で報告しなさいよ、絶対!」
    ◆  ◆  ◆
 立て板に水の如く一方的に話し続けた彼女は、最初と同じ言葉で話を締め括ったのだそうだ。
「真瀬さんが有紗さんに『親に就職しろって言われた』みたいなこと聞いたって話で、娘を働かせて稼ぎ取り上げようとしてるのかと思ってたんですよ、俺。金ヅル的な。でも単に長男以外に金掛けたくないだけっていうか、大学行かせる気はないけど出てっても探す気もないって感じでした」
「……もしかしたら、有紗が『東京で就職したい』って言ってたら、すんなり『勝手にしろ』だったかもしれないってこと、かな?」
 真瀬の思い付きに、吉野は少し難しい表情を作った。
「うーん、それはどうでしょうか。これは俺の超個人的経験則なんですけど、親の反応先読みし過ぎて言いたいこと飲み込んじゃうことってあるんで。母親の方も彼女に金入れさせるのはまだしも、家事なんかはさせようと考えてて、有紗さんにもそれが伝わって黙っちゃったのかもしれないですしね。……つまり、そもそも『東京へ行きたい』とか自分の希望を口に出せる家族関係じゃなかったんじゃないか、って」
「成程、――」
 意図せず吉野の過去に触れてしまった気がする……。
 真瀬は対応に困った末、結局素知らぬ顔で流すことを選んだ。
 吉野の、若さと他人に警戒心を抱かせない人好きのする明るい雰囲気が役立った面はあるかもしれない。
 しかしここまで簡単に家庭の内情が漏れるのは、どうやらそれだけではなさそうだ。周囲に、「北原家」をよく思わない人間が多いということでもあるのではないか。妬みや恨みではなく、心配や不安、嫌悪の方向で。
「吉野くん、ありがとう。急がせて申し訳なかったね。心付けは厳禁て聞いてるから渡せないけど、所長に賛辞は惜しまないでおくから」
 心からの感謝を告げた真瀬に、彼は満面の笑みを見せた。
「あ、それが何より嬉しいです! そういう積み重ねで、任される案件もステップアップできるんで。今回の件も、真瀬さんが前回俺のことすげえ褒めてくれたからって所長に聞きました」
「……こんな地味な調査、つまらなかったよね、かえって悪かったかな」
 彼の喜びように申し訳ない気分で告げた真瀬に、吉野は力説して来る。
「とんでもない! いや、確かに面白いとは言えないかもしれませんよ? つか、ウチの事務所でそんな『派手で面白い』案件なんてどれだけあるのかもわかんないです。でも俺はこうやって『|依頼人《クライアント》』の信頼を勝ち取っていくのが、一人前の調査員になるには絶対必要だと思ってるんで!」
「吉野くんは絶対いい調査員になるよ。というか、今でも僕は安心して頼める調査員だと思ってるよ。……無駄かもしれないけど、所長に『特別ボーナス出してやってください』って頼んどく。その分、調査費に上乗せで払うから」
 改めて礼を言い吉野を送り出した後、真瀬はその内容について考えている。
 正直、金の問題だと思っていた。吉野に説明した際も客観的になるよう心掛けたものの、そうした真瀬の恣意が入って彼に先入観を与えてしまったのは否めない。
 それに引き摺られずフラットな目を持てるのが、調査員としての吉野の強みだと改めて思う。
 親に、……父の死後はたった一人の親である母に顧みられず育った。おそらく家庭での有紗の味方は次兄だけだ。だからこそ、家を出て真っ先に頼ったのが彼だった。
 辛かったのだろうか。寂しかったのか? わからない自分がもどかしく、情けなかった。
 幼い有紗の泣き顔は、それでも浮かばない。実態はともかく、彼女が感情を露わにする姿を思い描けないことに今更気づいた。静かな微笑み、控えめな喜び。笑顔さえ慎ましい少女。
 常に自分を抑えて生きて来たのか。まだ十八なのに。誰もが羨むほどの美しさを誇ってもいい、今が一番我儘で弾けていい年頃なのに。あの子、は。
 有紗が話さなかったこと。おそらくは思い出したくもないだろうことを、強引に暴いてしまった。
 ――こんなことをする権利が、真瀬にあるのだろうか。