【5】③
ー/ー
風呂上がり。
加賀が洗濯まで引き受けてくれて、とりあえず風呂で軽く手洗いした下着類を申し訳ない思いで委ねる。
「有紗ちゃん。言いたくなければ無理強いはしません。ですが、もし話せることがあったら少しでも聞かせてくださると嬉しいです」
共に入浴も済ませた後、加賀が静かに切り出した台詞。当然だろう。
「その前に、あの。会社、で、今日、何か……?」
恐る恐る訊いた有紗に、加賀が知っていることを説明してくれる。
「四時頃でしたかしら? 社長に呼ばれた室長が戻られて、『北原さんが帰ってしまわれたらしい。もしかしたらご家族に何かあって慌てて駆け付けられたのかもしれないし、どちらにしてももし何か連絡があれば知らせて欲しい』と仰って」
有紗ちゃんが、いきなり黙って帰ってしまうような方ではないのは周知の事実ですから、と加賀は付け足した。
「あの。……少し長くなりますけど、その」
「構いませんよ」
穏やかな彼女の声に覚悟を決める。
「……最初は、『人形』にならないか、って声を掛けられて――」
今日、立ち聞きしてしまった内容の具体的な名には触れないように、それ以外はほぼありのままにだらだらと話した有紗に、加賀は溜息を吐いた。
呆れられたのだろうか、と身構えたのは一瞬で、口を開いた彼女の言葉には責める色も嘲る調子も一切感じない。
「わたくしは社長が『人形』なんて言い出された時に、どなたかの影響なのだろうと感じてはおりました。少なくともわたくしが存じ上げている社長は、そういった遊びを思いつく方だとは思えませんので」
「それは、お友達の――」
「ええ。ですが、単にそれらしい格好をさせるお飾りの『人形』でしたら、他に相応しい女性はいくらでもいらっしゃいます。社長のような方なら、お金で割り切れるお相手を伝手を使って見つけられるでしょう。……有紗ちゃんはそういう役割からは相当に遠いですし、社長はそれがわからない方でもない筈です」
「……? でも、ご、社長、は私を」
真瀬は有紗を選んだ。それだけが事実だ。
「ですからね、――ちょうど『人形』という理由付けがあるところに有紗ちゃんに会ったということでは? 社長ご自身も、最初はそこまで意識なさっておられなかったとは拝察いたしますが」
「ごめんなさい。よく、わからないです」
加賀が微笑みながら語ってくれる内容は、有紗には理解できなかった。やはり自分はあまり頭が良くないのだろう。
「……有紗ちゃんは、社長がお好きだったんですよね? だから、他の方の『人形』のお話を聞いて、それを自分に置き換えて怖くなったんでしょう?」
加賀の問い掛けは、有紗の中にも存在するものだった。
──なるべく目を背けていたかっただけで。
意識して向き合った途端、有紗の奥にある、薄く透明な何かに小さな罅が入っていることに気付く。
罅が少しずつ広がって、ガラスのような弱く脆い心が砕け散る前に守らなければ、と無意識にその原因を遠ざけた。
それがこの、自分らしくもない、後先考えない逃走だったのだろうか。
「好き、……いえあの、私――」
「そして、これはあくまでもわたくしの推測、──推量に過ぎませんが。社長も貴女をお好きなのでは、と感じておりましたわ」
「! そんなわけないです!」
いくら加賀の言葉でも、到底信じられなかった。
同じ空間で二人きりで過ごす中で、真瀬からそういった感情を一度も受け取ったことはない。
何よりも彼のような恵まれた立場の人間が、有紗如きの取るに足りない存在をまともに相手にする筈がない、のだ。
彼の優しさは、どこまでも『上』の者が『下』を労わる感覚でしかないと思っている。
「有紗ちゃん。わたくしの話を致しましょうか。少し聞いていただいても?」
加賀が、唐突に話題を変えて来た。
おそらく彼女には、有紗の考えていることなど手に取るようにわかっていることだろう。
「はい、もちろんです」
「……先日も申しましたが、わたくしは結婚願望はありません。恋愛も、特にしたいとは思っておりません。『絶対しない』ともまた、決めてはおりませんが」
有紗にとって加賀は、美しく聡明で完璧に近い存在とさえ映っていた。「憧れ」の対象にさえならない程に遠かった。
だからこそ、彼女が自分に自信のなさそうな言動を取るたびに、不思議で仕方がない。
しかし反面、「親に掛けられていた言葉の影響で」という彼女に、強烈な親近感のような何かを抱いてしまったのもまた、確かだった。
「わたくしは、このまま独身で仕事に生きる所存です。たとえ周りに『寂しい、惨めな生き方だ』と嘲笑されても、自分の考えを変える気はございません。……もちろん、今後変わる可能性までは完全に否定はしませんし、できませんけれど」
静かに、けれどはっきりと紡がれる台詞。
「笑う人は放っておけばいいと思います。私があの服で皆さんとケーキの会に行った時も、誰一人イヤな顔なんてなさいませんでした」
「そうね、本当にその通りですわ」
精一杯の感想を、彼女は笑って受け取ってくれる。
「有紗ちゃん、大人は斯様に臆病で面倒な生き物ですの。きっと社長もそうなのではないでしょうか。――表に出しているだけが、真実とは限りませんのよ」
まるで謎掛けのような加賀の言葉に、有紗はどう返していいかわからず曖昧に微笑むしかできなかった。
「ねぇ、有紗ちゃん。決めるのは貴女ですが、とりあえず無事でいるということだけ社長にお知らせする気はありませんか?」
いったん話が途切れたあと加賀が優しく切り出した言葉に、有紗はまた対応に迷ってしまった。
「それは、……でも、どこにいるか訊かれたらどうすればいいですか? 華子さんに迷惑が掛かるのだけは嫌なんです」 とりあえず正直に打ち明ける。
「答えなくていいんですよ。『安全なところに居ます。どこかは言えません』で押し通せば。そして、わたくしのことは心配無用です。迷惑がどうのなど考えるくらいなら、最初から救いの手など差し伸べません」
きっぱりとした彼女の言葉に、有紗も覚悟を決めた。
「……わかりました。朝になったら、電話、してみます」
加賀の好意に応えるためにも、逃げてばかりはいられない。思い切って口にした有紗に、彼女は笑って奥の部屋を指した。
「それがいいでしょうね。では、寝ましょうか。ベッドの横に予備のお布団を敷きますね、狭いのですが」
「すみません、ありがとうございます」
「わたくし、お友達とお泊り会などしたことがないんですの。なんだかウキウキしますわ。有紗ちゃんは大変ですのにごめんなさいね」
有紗に気を遣わせないようにだろうというくらいはわかるものの、本当に楽しそうな加賀に少し心も軽くなる。
「私も初めてです。……ちょっと、楽しい、です」
有紗の返事に、二人は顔を見合わせて笑った。
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共に入浴も済ませた後、加賀が静かに切り出した台詞。当然だろう。
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恐る恐る訊いた有紗に、加賀が知っていることを説明してくれる。
「四時頃でしたかしら? 社長に呼ばれた室長が戻られて、『北原さんが帰ってしまわれたらしい。もしかしたらご家族に何かあって慌てて駆け付けられたのかもしれないし、どちらにしてももし何か連絡があれば知らせて欲しい』と仰って」
有紗ちゃんが、いきなり黙って帰ってしまうような方ではないのは周知の事実ですから、と加賀は付け足した。
「あの。……少し長くなりますけど、その」
「構いませんよ」
穏やかな彼女の声に覚悟を決める。
「……最初は、『人形』にならないか、って声を掛けられて――」
今日、立ち聞きしてしまった内容の具体的な名には触れないように、それ以外はほぼありのままにだらだらと話した有紗に、加賀は溜息を吐いた。
呆れられたのだろうか、と身構えたのは一瞬で、口を開いた彼女の言葉には責める色も嘲る調子も一切感じない。
「わたくしは社長が『人形』なんて言い出された時に、どなたかの影響なのだろうと感じてはおりました。少なくともわたくしが存じ上げている社長は、そういった遊びを思いつく方だとは思えませんので」
「それは、お友達の――」
「ええ。ですが、単にそれらしい格好をさせるお飾りの『人形』でしたら、他に相応しい女性はいくらでもいらっしゃいます。社長のような方なら、お金で割り切れるお相手を伝手を使って見つけられるでしょう。……有紗ちゃんはそういう役割からは相当に遠いですし、社長はそれがわからない方でもない筈です」
「……? でも、ご、社長、は私を」
真瀬は有紗を選んだ。それだけが事実だ。
「ですからね、――ちょうど『人形』という理由付けがあるところに有紗ちゃんに会ったということでは? 社長ご自身も、最初はそこまで意識なさっておられなかったとは拝察いたしますが」
「ごめんなさい。よく、わからないです」
加賀が微笑みながら語ってくれる内容は、有紗には理解できなかった。やはり自分はあまり頭が良くないのだろう。
「……有紗ちゃんは、社長がお好きだったんですよね? だから、他の方の『人形』のお話を聞いて、それを自分に置き換えて怖くなったんでしょう?」
加賀の問い掛けは、有紗の中にも存在するものだった。
──なるべく目を背けていたかっただけで。
意識して向き合った途端、有紗の奥にある、薄く透明な何かに小さな|罅《ひび》が入っていることに気付く。
罅が少しずつ広がって、ガラスのような弱く脆い心が砕け散る前に守らなければ、と無意識にその原因を遠ざけた。
それがこの、自分らしくもない、後先考えない逃走だったのだろうか。
「好き、……いえあの、私――」
「そして、これはあくまでもわたくしの推測、──推量に過ぎませんが。社長も貴女をお好きなのでは、と感じておりましたわ」
「! そんなわけないです!」
いくら加賀の言葉でも、到底信じられなかった。
同じ空間で二人きりで過ごす中で、真瀬からそういった感情を一度も受け取ったことはない。
何よりも彼のような恵まれた立場の人間が、有紗如きの取るに足りない存在をまともに相手にする筈がない、のだ。
彼の優しさは、どこまでも『上』の者が『下』を労わる感覚でしかないと思っている。
「有紗ちゃん。わたくしの話を致しましょうか。少し聞いていただいても?」
加賀が、唐突に話題を変えて来た。
おそらく彼女には、有紗の考えていることなど手に取るようにわかっていることだろう。
「はい、もちろんです」
「……先日も申しましたが、わたくしは結婚願望はありません。恋愛も、特にしたいとは思っておりません。『絶対しない』ともまた、決めてはおりませんが」
有紗にとって加賀は、美しく聡明で完璧に近い存在とさえ映っていた。「憧れ」の対象にさえならない程に遠かった。
だからこそ、彼女が自分に自信のなさそうな言動を取るたびに、不思議で仕方がない。
しかし反面、「親に掛けられていた言葉の影響で」という彼女に、強烈な親近感のような何かを抱いてしまったのもまた、確かだった。
「わたくしは、このまま独身で仕事に生きる所存です。たとえ周りに『寂しい、惨めな生き方だ』と嘲笑されても、自分の考えを変える気はございません。……もちろん、今後変わる可能性までは完全に否定はしませんし、できませんけれど」
静かに、けれどはっきりと紡がれる台詞。
「笑う人は放っておけばいいと思います。私があの服で皆さんとケーキの会に行った時も、誰一人イヤな顔なんてなさいませんでした」
「そうね、本当にその通りですわ」
精一杯の感想を、彼女は笑って受け取ってくれる。
「有紗ちゃん、大人は|斯様《かよう》に臆病で面倒な生き物ですの。きっと社長もそうなのではないでしょうか。――表に出しているだけが、真実とは限りませんのよ」
まるで謎掛けのような加賀の言葉に、有紗はどう返していいかわからず曖昧に微笑むしかできなかった。
「ねぇ、有紗ちゃん。決めるのは貴女ですが、とりあえず無事でいるということだけ社長にお知らせする気はありませんか?」
いったん話が途切れたあと加賀が優しく切り出した言葉に、有紗はまた対応に迷ってしまった。
「それは、……でも、どこにいるか訊かれたらどうすればいいですか? 華子さんに迷惑が掛かるのだけは嫌なんです」 とりあえず正直に打ち明ける。
「答えなくていいんですよ。『安全なところに居ます。どこかは言えません』で押し通せば。そして、わたくしのことは心配無用です。迷惑がどうのなど考えるくらいなら、最初から救いの手など差し伸べません」
きっぱりとした彼女の言葉に、有紗も覚悟を決めた。
「……わかりました。朝になったら、電話、してみます」
加賀の好意に応えるためにも、逃げてばかりはいられない。思い切って口にした有紗に、彼女は笑って奥の部屋を指した。
「それがいいでしょうね。では、寝ましょうか。ベッドの横に予備のお布団を敷きますね、狭いのですが」
「すみません、ありがとうございます」
「わたくし、お友達とお泊り会などしたことがないんですの。なんだかウキウキしますわ。有紗ちゃんは大変ですのにごめんなさいね」
有紗に気を遣わせないようにだろうというくらいはわかるものの、本当に楽しそうな加賀に少し心も軽くなる。
「私も初めてです。……ちょっと、楽しい、です」
有紗の返事に、二人は顔を見合わせて笑った。