第3章 袖振り合うも多生の縁-2
ー/ー 五月下旬、五月晴れという言葉が正にふさわしいある土曜日のことだ。駆はおばあさんから直接紹介されたアルバイトに出かけていて不在だった。おばあさんの友人の有閑マダム達に都心のコートでテニスのコーチをしてから、高級ホテルの豪華アフタヌーンティーにに付き合うというまるで出張ホストのような内容で、おばあさんから電話で話を聞かされた時駆は激しく当惑していたが、提示された報酬額を聞くなり迷いなく承諾していた。ハイソな家庭のキッズシッターを引き受けてからというものある意味吹っ切れたのだろう。自尊心をかなぐり捨て、なりふり構わず稼いでいこうとする駆のハングリー精神、私は嫌いじゃなかったし、そんな内容の仕事を孫に臆面もなく紹介してくるお祖母さんも面白すぎる。直接資金提供をするのではなく、どんな形にせよ仕事を斡旋することで学費の足しにさせようとしているのだろう。
朝食後駆を見送ってから私はずっとソファにだらしなく寝そべって、録り溜めておいたバディものの人気刑事ドラマを一気見していた。よく考えてみるとこのドラマ、主役の中年警部は左遷されたものの実は優秀なキャリア警察官だということを思い出しながら。
昼前、久しぶりに我が家の固定電話が鳴る。両親ゆかりの人が電話をかけてくる可能性があったから基本非通知以外は固定電話に出ることにしており、ドラマを一時停止してから表示された番号をひょいと覗き込んだが、未登録の携帯電話からだった。私は一瞬躊躇したものの結局電話を取る。
「はい……」
「氷室さんの御宅でお間違いなかったでしょうか?」
電話は若い男からだった。ハキハキしていてよく通るいい声だ。
「あ、はい。そうですが、どちら様ですか?」
会社名も名乗らず営業の電話でもなさそうだった。私は首を傾げながら尋ねた。すると一呼吸置いてから帰ってくる。
「……山城 匠と申します。駆の兄です」
私は驚きのあまり受話器を落としそうになった。どうして駆のお兄さんがうちの固定電話番号を知っているの?
「もしもーし! 聞こえてますか?」
「き、聞こえてます……でも、どうしてこの番号を知ったんですか!?」
私は聞かずにはいられなかった。駆は母方のおばあさん以外にはここの住所を伏せていたし、おばあさんは話を聞く限り軽率に住所を吹聴するようなタイプには思えなかったからだ。
「どうして……ふむ、確かにそうですよね。簡単に説明しますと、弟は自分と同じ戸籍に入ったままなので、附票というものでそちらの住所を辿れるんです」
「で、でも、住民票の住所には電話番号なんて登録しませんよね」
「ええ、附票の住所からそちらのマンションが判明したので、今下まで来てポストの表札で氷室さんの名前を確認しました」
あんたはメリーさんかよ! いや、駆の話によるとキャリア警察官か。ポストの表札には私の姓『氷室』の隣に駆の姓『山城』が紙で貼ってあるから、住所さえ分かってしまえば私の姓を把握する事は容易いということなのだろう。だがそれでも納得できない。私は混乱する頭で必死に反論した。
「でも、表札でも電話番号までは分からないじゃないですか!」
「NTTの番号案内サービスを使いました……え、ご存じない?」
駆の兄を名乗る人物は名前と住所から電話番号を検索できる有料サービスがあることを教えてくれた。
「それって合法なんですよね!」
つい疑ってしまうが、電話の声はあくまで落ち着いている。
「もちろんです」
それでも私は問わずにはいられなかった。
「あなた、本当に駆君のお兄さんなんですか?」
随分疑り深いと思われるだろうが、世の中には特殊詐欺という犯罪が存在するのだ。特に最近の劇場型詐欺は相当凝っているらしい。警察を騙ってくるのは常套手段だと言うし、疑ってかかるに越したことはない。
受話器から我慢できなかったのかぷっと吹き出す声がした。
「確かに! 自分がかけ子かもしれませんよね!」
どうやらやたらツボにはまったようだ。楽しそうな声で続けてくる。
「何か質問していただければ答えますよ」
私は少し考えてから質問する。
「では、問題です。駆君が小学校の時にやっていたスポーツは何でしょうか?」
「剣道!」
即答だった。駆がテニスをしている事は調べればすぐに分かることだが、剣道をやっていたことは身内や地元の人しか知らない事実だ。さすがに信じてあげてもいいだろう。
「大当たり! あなたは駆君のお兄さんで間違いはなさそうですね」
「信じてもらえて良かったです」
駆の兄、匠はまだ笑っていた。警察官なのによりによってかけ子と疑われたらそりゃ受けるだろう。
「疑った事については謝ります。……でも、いきなりマンションの下に来られても困るんですけど!」
部屋着姿でソファに寝転がりだらしなく寛いでいた私の声は恥ずかしさからつい大きくなってしまう。髪はぼさぼさだし、何しろスッピンなのだ。
「何の用があって来たんですか!?」
「氷室さんの疑問は当然ですね。大変失礼いたしました。弟を助けてくれた事についてお礼を述べたいと思いまして」
本当に? 私は疑ってしまう。何か探りを入れられているようであまりいい気分はしなかった。相手が現職の警察官だと知っているから余計にそう思ってしまうのだけど。それに駆不在時を狙って電話をかけてきたのではなかろうかとつい疑念に駆られてしまう。
「……山城さんの目的は分かりました……でも、今すぐは無理ですから!」
強い口調で返した。すると
「氷室さんが支度を終えるまで待っていますので、どこかで食事でもいかがですか?」
私の格好を見透かしているような口調に腹が立ったが、実は私も駆の実家の事を知りたいとは密かに思っていたのだ。これはある意味絶好のチャンスだろう。
「……分かりました……申し訳ないけど、下でしばらく待っていてください!」
私は念のため匠に私のスマホの番号を伝えてから電話を切ると、着替えるのが簡単なネイビーの半袖のワンピースに袖を通し白いレースのカーディガンを羽織ると、適当に髪をとかし大き目のバレッタでハーフアップにし、手早く化粧をしていつも使っているショルダーバッグを掴むと自宅を後にした。
匠はマンションの入り口付近でずっと待っていたようだ。目立たないようにアーチ型の門の陰に隠れるようにさりげなく立ったまま、手にしたスマホを眺めている。
「山城さん?」
私が緊張しながら声をかけると、スマホを胸ポケットにしまってから私の方を見て礼儀正しく深々とお辞儀をした。
「山城です。氷室さんには弟が大変世話になっていて本当にありがとうございます」
私は軽く会釈してから、匠をさりげなく観察した。駆よりは少し背が低めだが、水泳でもしているのだろうか、ものすごく肩幅がありいわゆる逆三角形の体形だ。髪はサイドを刈り上げにして長めの前髪はワックスで軽くなでつけていた。眉はきちんと整えており奥二重の目は切れ長で鼻筋は通っている。二重で目が大きくまつ毛も長い王子様タイプの駆とは全然違うすっきりとしたイケメンである。駆とは全く似ていないのに何となく見覚えがある気がしたけど、気のせいだろうか。
長袖の薄手の青いチェックのシャツに黒っぽいスリムジーンズ、スポーツブランドの白いスニーカー姿だったが、意外なことにファストファッションのようだった。私が勝手に想像していたオーダーメイドの三つ揃えを着たエリート警察官の姿とは全然違っていた。確かに今日は休日なのだからスーツを着てくる必要はないのだが、期待してしまった私がバカだっただけだ。直前まで見ていた刑事ドラマに影響されすぎただけである。
「氷室 有葉です」
私は改めてきちんと名乗った上で、つい思ったことを口にしてしまう。
「その……弟さんと全然似てないので正直驚きました」
それを聞いた匠は声をたてて笑った。
「よく言われます。弟の顔立ちは母方の祖父系統で、自分は父方系なんですよ」
「なるほど」
私は頷いた。だから顔が全然違うのか。
「食事と言いましたが、この辺で落ち着いて食事できるいいお店はありませんか? せっかく出て来ていただいたのですから御馳走しますよ」
と匠が申し出てくれたので、私はこの周辺の飲食店を思い浮かべる。庶民的な住宅街のせいか、ファミレスなどの低価格帯の賑やかな店が多いのだが、それでも少し離れた裏通りに小洒落たビストロがあったことを思い出す。普段だったら御馳走すると言われてもお高い店に案内したりなどしないが、今回の用件に限って言えば絶対に罰は当たらないと思い、遠慮なくその店の名を挙げたのだった。
住宅街の中にひっそりと建っている白い外装にトリコロールの屋根のビストロは幸い既に開店していた。黒板に白いチョークで描かれたメニューと価格を見ても匠は眉一つ動かさず、店のドアを開けて慣れた仕草で私を誘導してくれる。私達を出迎えてくれた白いお仕着せを着たウェイターに、しばらく気兼ねなく話をしたいことを伝えたところ、奥まっていて目立たない半個室に通してくれた。
匠はドリンクメニューを眺めながら私に酒はいける口か尋ねてきた。私は一瞬迷ったが、酒の力を借りないと言えないこともあると思い頷いてみせた。匠はウェイターに、店お勧めの白ワインのフルボトルと、ランチで一番高いコースを頼んでくれる。ウェイターが去った後、匠は私に名刺を差し出してきた。『警察庁 ○○課係長 警部 山城 匠』と書いてあって、私は思わずしげしげと名刺を眺めてしまった。駆の説明だと匠は駆より三才年上らしいから私より一つ年下のはずだが、階級はもう警部なのだ。さっきのドラマの主役と同じである。まあ、あのドラマの設定がイレギュラーなだけなのだが。
私もショルダーバッグから自分の名刺入れを取り出し、会社の名刺を渡した。私の勤務している会社は中堅の独立系IT企業で、残念ながら世間的な知名度は全然ない。さらにそこの平社員なのだから匠とは月とすっぽんである。つい気後れしてしまいそうになるが、ここは強気で臨まなければ、と私は自分に心の中で気合を入れる。
すぐグラス二つとワインボトルが運ばれてきたので二人で軽く乾杯した後、匠がにこやかな表情で尋ねてきた。
「氷室さん、単刀直入にお伺いしますが、弟とはどんなご関係ですか?」
単刀直入すぎて吹き出しそうになったが、ぐっと堪える。
「元々はただのネットゲーム仲間ですよ。三月にランちゃん……じゃなかった駆君が住む処がなくなったとSNSで訴えてきたので、たまたま部屋が空いていた我が家に住んでもらうことになっただけです。大家と居候の関係ですね」
「彼女ではなかったのですか?」
私の説明に匠は意表を突かれたらしい。
「祖母から若い女性の家に身を寄せているとだけ聞いていたので、てっきり彼女だと思っていたのですが……」
「弟さんに彼女がいるかどうかご存じなかった?」
別に咎めるつもりはなかったのだが、私の発した言葉には多少棘が混ざってしまった。匠は苦笑いを浮かべる。
「……氷室さんの仰る通り、最近自分は弟とあまり交流がありませんでした。仕事が忙しかったりして、実家に戻った時互いに近況報告をするくらいで」
実際男兄弟なんてそんなものなのだろう。
「……お恥ずかしい話です。本当ならもっと早く氷室さんにお礼をしていなければならなかったというのに」
駆のお兄さんに感謝してほしいなんて思ったことはなかったので、何故そこに拘るのか不思議に感じた。
「山城さんが悪い訳ではないですから特にお礼など必要ないのに……」
「いや、仰る通りなのですが……それなりに仲の良かった弟が自分を頼ってくれなかった事がちょっとショックだったんです……」
それまでハキハキと喋っていた匠が初めて口ごもった。
「実は親父から弟を『勘当』したと聞いた時すぐLIMEしたのですが、『心配しないで、もう大丈夫だから』とだけ返ってきて。弟にしては物凄くそっけなかったので気にはなっていたものの、こちらも仕事に忙殺され、なかなか……」
「山城さんはお父さんとの仲は良好だと伺っています。だから遠慮したのでは?」
と私が推測を述べた。匠は腕組みをし唸った。
「そうかもしれませんね……自分は今独身寮に入っているので弟をそこに住まわせるわけにはいかないし、弟なりに気を遣ったのでしょう……しかし、逆に本来無関係の氷室さんの負担が大きすぎて、本当に申し訳なく思っています……」
「負担って大したことないですよ。駆君は料理や掃除をやってくれるので逆にこちらが助かってるくらいで」
私は照れくさそうに笑った。すると匠は驚いたように目を見開いた。
「弟が料理を? できるなんて知らなかった……」
「はい、とても上手なんですよ。駆君って本当に器用ですよね」
「先ほど弟は母方の祖父系統と言いましたが、手先が器用なところも祖父似なんです」
朝食後駆を見送ってから私はずっとソファにだらしなく寝そべって、録り溜めておいたバディものの人気刑事ドラマを一気見していた。よく考えてみるとこのドラマ、主役の中年警部は左遷されたものの実は優秀なキャリア警察官だということを思い出しながら。
昼前、久しぶりに我が家の固定電話が鳴る。両親ゆかりの人が電話をかけてくる可能性があったから基本非通知以外は固定電話に出ることにしており、ドラマを一時停止してから表示された番号をひょいと覗き込んだが、未登録の携帯電話からだった。私は一瞬躊躇したものの結局電話を取る。
「はい……」
「氷室さんの御宅でお間違いなかったでしょうか?」
電話は若い男からだった。ハキハキしていてよく通るいい声だ。
「あ、はい。そうですが、どちら様ですか?」
会社名も名乗らず営業の電話でもなさそうだった。私は首を傾げながら尋ねた。すると一呼吸置いてから帰ってくる。
「……山城 匠と申します。駆の兄です」
私は驚きのあまり受話器を落としそうになった。どうして駆のお兄さんがうちの固定電話番号を知っているの?
「もしもーし! 聞こえてますか?」
「き、聞こえてます……でも、どうしてこの番号を知ったんですか!?」
私は聞かずにはいられなかった。駆は母方のおばあさん以外にはここの住所を伏せていたし、おばあさんは話を聞く限り軽率に住所を吹聴するようなタイプには思えなかったからだ。
「どうして……ふむ、確かにそうですよね。簡単に説明しますと、弟は自分と同じ戸籍に入ったままなので、附票というものでそちらの住所を辿れるんです」
「で、でも、住民票の住所には電話番号なんて登録しませんよね」
「ええ、附票の住所からそちらのマンションが判明したので、今下まで来てポストの表札で氷室さんの名前を確認しました」
あんたはメリーさんかよ! いや、駆の話によるとキャリア警察官か。ポストの表札には私の姓『氷室』の隣に駆の姓『山城』が紙で貼ってあるから、住所さえ分かってしまえば私の姓を把握する事は容易いということなのだろう。だがそれでも納得できない。私は混乱する頭で必死に反論した。
「でも、表札でも電話番号までは分からないじゃないですか!」
「NTTの番号案内サービスを使いました……え、ご存じない?」
駆の兄を名乗る人物は名前と住所から電話番号を検索できる有料サービスがあることを教えてくれた。
「それって合法なんですよね!」
つい疑ってしまうが、電話の声はあくまで落ち着いている。
「もちろんです」
それでも私は問わずにはいられなかった。
「あなた、本当に駆君のお兄さんなんですか?」
随分疑り深いと思われるだろうが、世の中には特殊詐欺という犯罪が存在するのだ。特に最近の劇場型詐欺は相当凝っているらしい。警察を騙ってくるのは常套手段だと言うし、疑ってかかるに越したことはない。
受話器から我慢できなかったのかぷっと吹き出す声がした。
「確かに! 自分がかけ子かもしれませんよね!」
どうやらやたらツボにはまったようだ。楽しそうな声で続けてくる。
「何か質問していただければ答えますよ」
私は少し考えてから質問する。
「では、問題です。駆君が小学校の時にやっていたスポーツは何でしょうか?」
「剣道!」
即答だった。駆がテニスをしている事は調べればすぐに分かることだが、剣道をやっていたことは身内や地元の人しか知らない事実だ。さすがに信じてあげてもいいだろう。
「大当たり! あなたは駆君のお兄さんで間違いはなさそうですね」
「信じてもらえて良かったです」
駆の兄、匠はまだ笑っていた。警察官なのによりによってかけ子と疑われたらそりゃ受けるだろう。
「疑った事については謝ります。……でも、いきなりマンションの下に来られても困るんですけど!」
部屋着姿でソファに寝転がりだらしなく寛いでいた私の声は恥ずかしさからつい大きくなってしまう。髪はぼさぼさだし、何しろスッピンなのだ。
「何の用があって来たんですか!?」
「氷室さんの疑問は当然ですね。大変失礼いたしました。弟を助けてくれた事についてお礼を述べたいと思いまして」
本当に? 私は疑ってしまう。何か探りを入れられているようであまりいい気分はしなかった。相手が現職の警察官だと知っているから余計にそう思ってしまうのだけど。それに駆不在時を狙って電話をかけてきたのではなかろうかとつい疑念に駆られてしまう。
「……山城さんの目的は分かりました……でも、今すぐは無理ですから!」
強い口調で返した。すると
「氷室さんが支度を終えるまで待っていますので、どこかで食事でもいかがですか?」
私の格好を見透かしているような口調に腹が立ったが、実は私も駆の実家の事を知りたいとは密かに思っていたのだ。これはある意味絶好のチャンスだろう。
「……分かりました……申し訳ないけど、下でしばらく待っていてください!」
私は念のため匠に私のスマホの番号を伝えてから電話を切ると、着替えるのが簡単なネイビーの半袖のワンピースに袖を通し白いレースのカーディガンを羽織ると、適当に髪をとかし大き目のバレッタでハーフアップにし、手早く化粧をしていつも使っているショルダーバッグを掴むと自宅を後にした。
匠はマンションの入り口付近でずっと待っていたようだ。目立たないようにアーチ型の門の陰に隠れるようにさりげなく立ったまま、手にしたスマホを眺めている。
「山城さん?」
私が緊張しながら声をかけると、スマホを胸ポケットにしまってから私の方を見て礼儀正しく深々とお辞儀をした。
「山城です。氷室さんには弟が大変世話になっていて本当にありがとうございます」
私は軽く会釈してから、匠をさりげなく観察した。駆よりは少し背が低めだが、水泳でもしているのだろうか、ものすごく肩幅がありいわゆる逆三角形の体形だ。髪はサイドを刈り上げにして長めの前髪はワックスで軽くなでつけていた。眉はきちんと整えており奥二重の目は切れ長で鼻筋は通っている。二重で目が大きくまつ毛も長い王子様タイプの駆とは全然違うすっきりとしたイケメンである。駆とは全く似ていないのに何となく見覚えがある気がしたけど、気のせいだろうか。
長袖の薄手の青いチェックのシャツに黒っぽいスリムジーンズ、スポーツブランドの白いスニーカー姿だったが、意外なことにファストファッションのようだった。私が勝手に想像していたオーダーメイドの三つ揃えを着たエリート警察官の姿とは全然違っていた。確かに今日は休日なのだからスーツを着てくる必要はないのだが、期待してしまった私がバカだっただけだ。直前まで見ていた刑事ドラマに影響されすぎただけである。
「氷室 有葉です」
私は改めてきちんと名乗った上で、つい思ったことを口にしてしまう。
「その……弟さんと全然似てないので正直驚きました」
それを聞いた匠は声をたてて笑った。
「よく言われます。弟の顔立ちは母方の祖父系統で、自分は父方系なんですよ」
「なるほど」
私は頷いた。だから顔が全然違うのか。
「食事と言いましたが、この辺で落ち着いて食事できるいいお店はありませんか? せっかく出て来ていただいたのですから御馳走しますよ」
と匠が申し出てくれたので、私はこの周辺の飲食店を思い浮かべる。庶民的な住宅街のせいか、ファミレスなどの低価格帯の賑やかな店が多いのだが、それでも少し離れた裏通りに小洒落たビストロがあったことを思い出す。普段だったら御馳走すると言われてもお高い店に案内したりなどしないが、今回の用件に限って言えば絶対に罰は当たらないと思い、遠慮なくその店の名を挙げたのだった。
住宅街の中にひっそりと建っている白い外装にトリコロールの屋根のビストロは幸い既に開店していた。黒板に白いチョークで描かれたメニューと価格を見ても匠は眉一つ動かさず、店のドアを開けて慣れた仕草で私を誘導してくれる。私達を出迎えてくれた白いお仕着せを着たウェイターに、しばらく気兼ねなく話をしたいことを伝えたところ、奥まっていて目立たない半個室に通してくれた。
匠はドリンクメニューを眺めながら私に酒はいける口か尋ねてきた。私は一瞬迷ったが、酒の力を借りないと言えないこともあると思い頷いてみせた。匠はウェイターに、店お勧めの白ワインのフルボトルと、ランチで一番高いコースを頼んでくれる。ウェイターが去った後、匠は私に名刺を差し出してきた。『警察庁 ○○課係長 警部 山城 匠』と書いてあって、私は思わずしげしげと名刺を眺めてしまった。駆の説明だと匠は駆より三才年上らしいから私より一つ年下のはずだが、階級はもう警部なのだ。さっきのドラマの主役と同じである。まあ、あのドラマの設定がイレギュラーなだけなのだが。
私もショルダーバッグから自分の名刺入れを取り出し、会社の名刺を渡した。私の勤務している会社は中堅の独立系IT企業で、残念ながら世間的な知名度は全然ない。さらにそこの平社員なのだから匠とは月とすっぽんである。つい気後れしてしまいそうになるが、ここは強気で臨まなければ、と私は自分に心の中で気合を入れる。
すぐグラス二つとワインボトルが運ばれてきたので二人で軽く乾杯した後、匠がにこやかな表情で尋ねてきた。
「氷室さん、単刀直入にお伺いしますが、弟とはどんなご関係ですか?」
単刀直入すぎて吹き出しそうになったが、ぐっと堪える。
「元々はただのネットゲーム仲間ですよ。三月にランちゃん……じゃなかった駆君が住む処がなくなったとSNSで訴えてきたので、たまたま部屋が空いていた我が家に住んでもらうことになっただけです。大家と居候の関係ですね」
「彼女ではなかったのですか?」
私の説明に匠は意表を突かれたらしい。
「祖母から若い女性の家に身を寄せているとだけ聞いていたので、てっきり彼女だと思っていたのですが……」
「弟さんに彼女がいるかどうかご存じなかった?」
別に咎めるつもりはなかったのだが、私の発した言葉には多少棘が混ざってしまった。匠は苦笑いを浮かべる。
「……氷室さんの仰る通り、最近自分は弟とあまり交流がありませんでした。仕事が忙しかったりして、実家に戻った時互いに近況報告をするくらいで」
実際男兄弟なんてそんなものなのだろう。
「……お恥ずかしい話です。本当ならもっと早く氷室さんにお礼をしていなければならなかったというのに」
駆のお兄さんに感謝してほしいなんて思ったことはなかったので、何故そこに拘るのか不思議に感じた。
「山城さんが悪い訳ではないですから特にお礼など必要ないのに……」
「いや、仰る通りなのですが……それなりに仲の良かった弟が自分を頼ってくれなかった事がちょっとショックだったんです……」
それまでハキハキと喋っていた匠が初めて口ごもった。
「実は親父から弟を『勘当』したと聞いた時すぐLIMEしたのですが、『心配しないで、もう大丈夫だから』とだけ返ってきて。弟にしては物凄くそっけなかったので気にはなっていたものの、こちらも仕事に忙殺され、なかなか……」
「山城さんはお父さんとの仲は良好だと伺っています。だから遠慮したのでは?」
と私が推測を述べた。匠は腕組みをし唸った。
「そうかもしれませんね……自分は今独身寮に入っているので弟をそこに住まわせるわけにはいかないし、弟なりに気を遣ったのでしょう……しかし、逆に本来無関係の氷室さんの負担が大きすぎて、本当に申し訳なく思っています……」
「負担って大したことないですよ。駆君は料理や掃除をやってくれるので逆にこちらが助かってるくらいで」
私は照れくさそうに笑った。すると匠は驚いたように目を見開いた。
「弟が料理を? できるなんて知らなかった……」
「はい、とても上手なんですよ。駆君って本当に器用ですよね」
「先ほど弟は母方の祖父系統と言いましたが、手先が器用なところも祖父似なんです」
山城兄弟の母方の祖父は若くして胃ガンで亡くなったらしい。元々は旧家出身だったが、戦後家が没落した後に商家の娘だった祖母と東京で出会い結婚して以来、育児を行いながら好きに絵を描いていたそうだ。
「今でいうところの専業主夫なんでしょうね。お袋は自分の父親の事を『ヒモ』とか『ジゴロ』とか酷いこと言ってましたけど、単に男女逆転していただけじゃなかったかと……」
匠が家の事情を簡単に説明する。
「色々な夫婦の形があっていいと思いますけど」
それを聞いた私は感想を述べた。
「自分もそう思います。だけどお袋はそんな父親の事を毛嫌いしていたらしく、よりによって親父みたいな昭和な男を選んでしまうし」
匠は深々とため息をつく。私は匠の反応を意外に思った。駆の話だと匠は両親に大切にされていたそうだから、父親に同調しているのかと思っていたのだ。私の心を読んだかのように匠が吐露した。
「白状すると、自分は最近まで我が家の事を他所のうちに比べて厳しいけど一般的な家だと思っていたんです。だけど、彼女にずばり言われちゃったんですよ、山城家は絶対おかしいって……」
「そうですね」
先ほどから飲んでいる口当たりの良い白ワインの助けもあって、私も思わず彼女さんに同意してしまう。匠は肩をすくめて笑ってみせた。
「氷室さん、会ったばかりなのに手厳しいなあ……。でも、その通りです……自分は彼女に延々と説教されちゃいました」
匠の彼女は大学時代、すなわちT大の法学部の同級生で、帰国子女なのだという。元々歯に衣着せぬ物言いをするタイプだったそうだが、ようやく彼女の資格試験が終わった時、駆が『勘当』された話を要領の悪い弟のエピソードとして披露したところ、『人でなし』と激怒されたのだそうだ。自分は何もしていないと匠が言い訳したところ、弟が親から虐待されているのに見て見ぬ振りをしているところが十分人でなしなのだと叱られ、反省しないなら今すぐ別れると脅されたのだという。
「……お恥ずかしながら彼女とは別れたくなかったものですから、自分も必死になって色々調べたりしました……。どうやら我が家は典型的な機能不全家庭みたいですね……」
私は黙って頷いた。実は私も駆と同居してから気になって色々ネットを検索したのだが、匠も私と同じ結論に達していたようだ。
「うちは常に兄弟が比較されていました。自分と弟は三つ離れているから自分の方が出来ることが多いのは当然なのに、弟はそのことでいつも叱られていたんです。お兄ちゃんは出来るのに、何故駆は出来ないのかって……。だから弟はいつもべそをかいていました」
それを聞いた私は胸をぎゅっと掴まれたように痛むのを感じ、膝の上で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
「一方自分は弟みたいに言われるのが怖くて、必死に優等生を演じるようになりました。立派なお兄ちゃんであれば両親は自分を褒めてくれるから、そうやって居心地の良い居場所を確保したんです」
匠は目を伏せた。
「地方ではありますが中学高校と立候補してそれぞれ生徒会長になったし、模試では常に校内一位をキープしT大に現役合格し、さらには親父と同じ道を選んで自分は常に両親の自慢の息子でした……」
口で言うのは容易いが、優等生であるために匠も血のにじむような努力をしたに違いない。
「私には途方もない話のように聞こえます……山城さんも大変だったのですね……」
すると匠は自嘲するように乾いた笑い声を上げた。
「彼女に指摘されるまで、自分は正しい道を歩んでいると信じきっていました……ゲームで留年してしまうなんて弟はなんてバカなんだろうとしか思ってなかった……。しかしいきなり仕送りを完全に打ち切られ、一歩間違えばホームレスになるほどの悪いことをした訳ではない。確かに自分は人でなしでしたね……」
匠は喉の渇きを癒すかのようにグラスのワインをぐいっと飲み干すと、ワインクーラーに入っていたボトルのワインを更にグラスに注いだ。
「自分は小さい頃から弟の世話を任されることが多かったから、無条件に慕ってくれる弟の事を可愛いと思いながらも一方で鬱陶しいとも感じてきました」
「幼い頃から駆君の世話をしてきたのですか? お母さんは?」
私は驚いてしまった。匠は苦笑いを浮かべた。
「お袋は理由はよく分かりませんが、弟の事をずっと苦手に思っていたようです。親として必要最低限の事はやっていましたけど……本当に最低限でした……。暖かい言葉をかけることはほとんどなかった……もしかすると先ほど話した祖父に外見が似ていたのも原因だったかもしれません。親父は基本単身赴任でほとんど家にいないし、お袋は実家の仕事でいつも忙しかったから、普段は近所に住んでいる親戚のおばさんが自分達兄弟の世話をしてくれていたんです……。でもお袋と兄弟で出かける時はいつも自分が弟の手を引いていましたし……」
私は未だ子育ての経験はないが、普通は親がより幼い子と手を繋ぐものではないのだろうか。眩暈がしそうだった。
「信じられない……まだ幼い子に保護者代わりをさせてしまうなんて……」
思わず口にしてしまう。匠は頷いた。
「自分はなまじ幼い頃から出来る子だったから任せやすかったのでしょう。『さすが、お兄ちゃんは頼りになるね』ってお袋からおだてられるだけで有頂天になっていたんですよ。駆も全然手のかかる子じゃなくて、家ではいつも本を読むかお絵描きばかりする子だったから我が家は崩壊もせず辛うじて回ってたんでしょうね……」
私はそれまで山城家の問題は厳しすぎるお父さんに原因があると思っていたが、匠の話を聞いてお母さんにも原因の一端がありそうだと初めて認識した。考えてみれば、いくら夫が息子を『勘当』したからといって、その息子に連絡一つ寄越さない母親は冷たすぎる。今日アルバイトを紹介してくれたおばあさんは頻繁に携帯で連絡をくれると聞いているので、お母さんの冷淡さが改めて浮き彫りになったように思う。
その時前菜の野菜サラダとフランスパンが運ばれてきたので、会話がしばらく中断した。続いて運ばれてきたにんじんのポタージュに舌鼓を打った後、匠が再び口を開いた。
「弟の話をしに来たのに、自分の話ばかりで申し訳ありません。しかも初対面の氷室さんにこんな話をしてしまうなんてご迷惑ではないでしょうか……」
四半世紀生きてきて初めて自分の人生に疑問を持ったのだ。仕方がないと思う。それに利害関係のない私の方が話しやすいのだろう。私は胸に手を当て言った。
「いえ、気にしないで下さい。私は事情を知る第三者ですし、こう見えても口は堅い方なんです、遠慮なく話して下さって結構です」
「……そう仰っていただけると少し気が楽になります……こんな事誰にも話したことがなかったので……」
匠が少しもじもじした。誰もが羨むエリート一家がこんな問題を抱えているなんてなかなか言えないだろう。駆を事実上扶養している私にだからこそ言える話でもある。
「失礼ですが、氷室さんはおいくつですか? その……自分とほぼ同年代に見えるのにとても落ち着いていらっしゃるので……」
「二十五才です。山城さんの学年の一つ上ですね」
私は自分で言うのもなんだが第一印象はとてもいいのだ。ハイブランドにこそ手が届かないが、オタクの割にはファッションにもけっこう気を遣っている。今の私を見て、ほんの一時間前まで楽な部屋着姿でソファにだらしなく寝転がっていただなんて誰も思うまい。
「その……弟とは本当にネットゲーム仲間だったのですか?」
私は思わず声をたてて笑ってしまった。
「私はこう見えて筋金入りのゲームオタクですよ。意外ですか?」
匠は咳払いをする。
「自分の偏見なのでしょうけど、全然そんな風に見えなくて……」
「駆君だってゲームしているようには全然見えないじゃないですか。でも仲間内では一番プレイ時間が長かったし、今は絵に描いたようなゲームオタクは減ってるんじゃないでしょうか」
「そうなのですね……あまり詳しくなくて申し訳ありません……うちではゲーム禁止されていたので、未だに気後れして触る機会がないんです……」
匠は詫びるように頭を軽く下げる。
「本当にゲームしたことがないのですか?」
逆に私が尋ねた。駆は親の目を盗んで友達や従姉の家で遊んでいたと言っていたが。
「小学生の頃ちょっと触らせてもらったことはありますが、コントローラーを上手く使えなかったからそれきりですね。ああ、弟は器用だったからゲームに向いていたのか……」
匠は合点したようだった。
「ご存じの通り弟は本当に手先が器用なんですが、更にスポーツは何をやらせても上手だったな。運動神経抜群なんです。剣道をずっと続けていたら自分よりもずっと強くなっていただろうに、中学前に辞めてしまって本当に残念でした。自分はあいつの運動神経が心底羨ましかったですよ……」
そう言いながら遠い目をする。
「親父も本当は自分よりも弟に剣道を続けてもらいたかったようです。素直にそういえば良いのに、辞めたことでいつまでもネチネチ小言を垂れるものだから弟もうんざりだったでしょうね」
「駆君はどんなに頑張っても褒められたことがなかったとこぼしていました……」
「……親父にとって弟はコントロール不能で不快な存在だったからじゃないかと推測しています。弟はあれこれ叱られてべそをかく割にはけっこう頑固で、自分でこうと決めたら譲らない性格でしたから。自分のように親の顔色を窺ったりするタイプじゃなかった。剣道ではなくテニスを選んでからは結果を出そうと一生懸命努力していることは伝わってきました。その甲斐あって高三の時インターハイの全国大会に出場して、それだけでもの凄いことなのに、親父は優勝できなかったのだから褒める必要はないとかほざいていたんです……。さすがに自分も親父の事ガキかよって思いました」
匠はその時の事を思い出したのか、ワインをあおるように飲む。
「何せ弟を負かした相手はその年の優勝者で、その後プロ転向してるんですよ。自分は現地に応援に行っていたから分かりますが、負けたといってもとても善戦していたっていうのに……」
匠は駆の対戦相手の名を挙げたがスポーツニュースでも時々耳にする名前だったため、私は驚愕した。
「駆君って実は凄いんですね!」
匠があははと笑った。
「普段大人しいから全然そんな風に見えませんよね。でも試合になると人が変わったように強気になるんですよ。あの気迫、自分には絶対にかないません」
強気な駆を見てみたい、私はそう思った。
「あの……駆君がテニスしている動画とかお持ちじゃないですか?」
私はおずおずと尋ねる。匠は思い出すようにちょっと考えてから答えた。
「今は持ってませんが、自宅のパソコンにインハイの試合の映像がいくつか保存してあります。後でメールしますよ」
この時メインディッシュの魚料理が運ばれてくる。スズキのポワレ オレンジソースだ。魚がとても新鮮だし、ソースもオレンジの酸味と甘味が絶妙で美味しい。私達は黙々と食事に集中する。それからショコラのプティフールとフランボワーズのソルベの盛り合わせにコーヒーが来てコースの締めくくりを迎えた。昼からこんなに食べることは滅多にないため、すっかり満腹である。
満足そうにコーヒーを飲んでいる私をじっと見つめながら匠が突然尋ねてくる。
「氷室さん、失礼ですが彼女でもない貴女が弟にどうしてそんなに優しくできるのですか?」」
唐突な質問に私はコーヒーカップをソーサーに置きどう返答しようか考え込む。それからバクバクし始めた胸を鎮めるように手で押えながら、言葉を選びつつ必死に私の思いを口にする。
「実を言うと私は……私は両親を交通事故で突然亡くしました……。その日まで両親は私の事を精一杯愛しんでくれたと思っています。一方駆君はご両親がご健在にもかかわらず、自分の過失でお父さんから突き放されとても可哀そうに思ったんです……部屋が空いている私なら困っている駆君を受け入れることができる……ただそれだけでした……」
意図せず涙がにじんできた。私を見つめ続けていた匠の形の良い眉がひそめられる。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です……氷室さんを困らせるつもりは全然なかったのです……」
本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「いいんです、山城さんからすれば当然の疑問ですよね……」
私はショルダーバッグからハンカチを取り出すと涙をそっと拭った。
「お願いです、ご両親は無理でしょうけどせめて山城さんは駆君と交流してあげて下さい……愛する家族が死んでしまったら、どんなに後悔してももう絶対に元には戻らないのです……」
匠は私の言葉を真剣に受け止めてくれたようだった。うなだれたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「……職業柄氷室さんのような方にお会いする機会があります……その都度同じような事をお聞きしてきました……なのに、今まで本当の意味で我が事として受け止めたことはありませんでした……確かにそうですよね……いつ何時家族がいなくなるかなんて分からないのに、自分にはその覚悟がなかった……バカだな……」
匠が白い清潔なテーブルクロスの上に置いた手をぎゅっと握りしめた。私も目を落としたまま続ける。
「……両親が死んだ時は……今日みたいに天気の良い二月の土曜日で、私はたまたま休日出勤で仕事に出かけていたんです……一方仕事が休みだった両親は二人で近所にウォーキングに出かけていたんですが、スマホに気を取られてよそ見運転になった車がいきなり歩道に突っ込んできたため避けることもできずはねられました……」
私は駆にすら言ったことのない両親の死の顛末を匠に語った。匠が現職の警察官だからというのもあったのかもしれない。
「……ああ……この近くでの……その交通事故の事は存じ上げています……まさか氷室さんのご両親の事だったとは……」
匠が呻いた。運転手がスマホに気を取られてよそ見をした瞬間の事故だった。相当速度が出ていた車はコントロールを失い歩道に突っ込み両親を次々にはねた後、民家のブロック塀に激突しボンネットが完全に潰れてしまったのだ。そのため加害者自身右足の機能を失っている。加害者は裁判で過失運転致死傷罪で実刑判決を受け、今は交通刑務所に収監されていた。
「あの事故の事ご存じでしたか……事故や自然災害っていつ自分の身に降りかかるかなんて全く分からないですよね……私が言いたいのはその時に備えてご家族を大切にしてくださいって事なんです……」
私はそう言って顔を上げた。
「……そのお言葉胸に刻みます……」
匠は自分の胸辺りに右手を当てると、私の方をしっかりと見据えてきた。真剣な表情だった。この時、ああ、この青年が警察官になることを選んだのは、単に父親が望んだからだけではなかったのだろうなと感じたのである。
「弟には今晩にでも電話してみます。LIMEだけで済ませていたなんて本当に自分は酷いヤツだったな……」
匠は悔やむように唇をかむ。
「よろしくお願いします。そして……彼女さんとうまく行きますように。今日は本当に御馳走さまでした」
私はぺこりとお辞儀をすると一生懸命微笑んでみせた。匠も照れくさそうに笑ったのだった。
匠はマンションの下まで私を送ってくれた。別れ際にLIMEのIDやメールアドレスを交換し、今後も機会があれば気軽に交流しようと約束する。
「今でいうところの専業主夫なんでしょうね。お袋は自分の父親の事を『ヒモ』とか『ジゴロ』とか酷いこと言ってましたけど、単に男女逆転していただけじゃなかったかと……」
匠が家の事情を簡単に説明する。
「色々な夫婦の形があっていいと思いますけど」
それを聞いた私は感想を述べた。
「自分もそう思います。だけどお袋はそんな父親の事を毛嫌いしていたらしく、よりによって親父みたいな昭和な男を選んでしまうし」
匠は深々とため息をつく。私は匠の反応を意外に思った。駆の話だと匠は両親に大切にされていたそうだから、父親に同調しているのかと思っていたのだ。私の心を読んだかのように匠が吐露した。
「白状すると、自分は最近まで我が家の事を他所のうちに比べて厳しいけど一般的な家だと思っていたんです。だけど、彼女にずばり言われちゃったんですよ、山城家は絶対おかしいって……」
「そうですね」
先ほどから飲んでいる口当たりの良い白ワインの助けもあって、私も思わず彼女さんに同意してしまう。匠は肩をすくめて笑ってみせた。
「氷室さん、会ったばかりなのに手厳しいなあ……。でも、その通りです……自分は彼女に延々と説教されちゃいました」
匠の彼女は大学時代、すなわちT大の法学部の同級生で、帰国子女なのだという。元々歯に衣着せぬ物言いをするタイプだったそうだが、ようやく彼女の資格試験が終わった時、駆が『勘当』された話を要領の悪い弟のエピソードとして披露したところ、『人でなし』と激怒されたのだそうだ。自分は何もしていないと匠が言い訳したところ、弟が親から虐待されているのに見て見ぬ振りをしているところが十分人でなしなのだと叱られ、反省しないなら今すぐ別れると脅されたのだという。
「……お恥ずかしながら彼女とは別れたくなかったものですから、自分も必死になって色々調べたりしました……。どうやら我が家は典型的な機能不全家庭みたいですね……」
私は黙って頷いた。実は私も駆と同居してから気になって色々ネットを検索したのだが、匠も私と同じ結論に達していたようだ。
「うちは常に兄弟が比較されていました。自分と弟は三つ離れているから自分の方が出来ることが多いのは当然なのに、弟はそのことでいつも叱られていたんです。お兄ちゃんは出来るのに、何故駆は出来ないのかって……。だから弟はいつもべそをかいていました」
それを聞いた私は胸をぎゅっと掴まれたように痛むのを感じ、膝の上で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
「一方自分は弟みたいに言われるのが怖くて、必死に優等生を演じるようになりました。立派なお兄ちゃんであれば両親は自分を褒めてくれるから、そうやって居心地の良い居場所を確保したんです」
匠は目を伏せた。
「地方ではありますが中学高校と立候補してそれぞれ生徒会長になったし、模試では常に校内一位をキープしT大に現役合格し、さらには親父と同じ道を選んで自分は常に両親の自慢の息子でした……」
口で言うのは容易いが、優等生であるために匠も血のにじむような努力をしたに違いない。
「私には途方もない話のように聞こえます……山城さんも大変だったのですね……」
すると匠は自嘲するように乾いた笑い声を上げた。
「彼女に指摘されるまで、自分は正しい道を歩んでいると信じきっていました……ゲームで留年してしまうなんて弟はなんてバカなんだろうとしか思ってなかった……。しかしいきなり仕送りを完全に打ち切られ、一歩間違えばホームレスになるほどの悪いことをした訳ではない。確かに自分は人でなしでしたね……」
匠は喉の渇きを癒すかのようにグラスのワインをぐいっと飲み干すと、ワインクーラーに入っていたボトルのワインを更にグラスに注いだ。
「自分は小さい頃から弟の世話を任されることが多かったから、無条件に慕ってくれる弟の事を可愛いと思いながらも一方で鬱陶しいとも感じてきました」
「幼い頃から駆君の世話をしてきたのですか? お母さんは?」
私は驚いてしまった。匠は苦笑いを浮かべた。
「お袋は理由はよく分かりませんが、弟の事をずっと苦手に思っていたようです。親として必要最低限の事はやっていましたけど……本当に最低限でした……。暖かい言葉をかけることはほとんどなかった……もしかすると先ほど話した祖父に外見が似ていたのも原因だったかもしれません。親父は基本単身赴任でほとんど家にいないし、お袋は実家の仕事でいつも忙しかったから、普段は近所に住んでいる親戚のおばさんが自分達兄弟の世話をしてくれていたんです……。でもお袋と兄弟で出かける時はいつも自分が弟の手を引いていましたし……」
私は未だ子育ての経験はないが、普通は親がより幼い子と手を繋ぐものではないのだろうか。眩暈がしそうだった。
「信じられない……まだ幼い子に保護者代わりをさせてしまうなんて……」
思わず口にしてしまう。匠は頷いた。
「自分はなまじ幼い頃から出来る子だったから任せやすかったのでしょう。『さすが、お兄ちゃんは頼りになるね』ってお袋からおだてられるだけで有頂天になっていたんですよ。駆も全然手のかかる子じゃなくて、家ではいつも本を読むかお絵描きばかりする子だったから我が家は崩壊もせず辛うじて回ってたんでしょうね……」
私はそれまで山城家の問題は厳しすぎるお父さんに原因があると思っていたが、匠の話を聞いてお母さんにも原因の一端がありそうだと初めて認識した。考えてみれば、いくら夫が息子を『勘当』したからといって、その息子に連絡一つ寄越さない母親は冷たすぎる。今日アルバイトを紹介してくれたおばあさんは頻繁に携帯で連絡をくれると聞いているので、お母さんの冷淡さが改めて浮き彫りになったように思う。
その時前菜の野菜サラダとフランスパンが運ばれてきたので、会話がしばらく中断した。続いて運ばれてきたにんじんのポタージュに舌鼓を打った後、匠が再び口を開いた。
「弟の話をしに来たのに、自分の話ばかりで申し訳ありません。しかも初対面の氷室さんにこんな話をしてしまうなんてご迷惑ではないでしょうか……」
四半世紀生きてきて初めて自分の人生に疑問を持ったのだ。仕方がないと思う。それに利害関係のない私の方が話しやすいのだろう。私は胸に手を当て言った。
「いえ、気にしないで下さい。私は事情を知る第三者ですし、こう見えても口は堅い方なんです、遠慮なく話して下さって結構です」
「……そう仰っていただけると少し気が楽になります……こんな事誰にも話したことがなかったので……」
匠が少しもじもじした。誰もが羨むエリート一家がこんな問題を抱えているなんてなかなか言えないだろう。駆を事実上扶養している私にだからこそ言える話でもある。
「失礼ですが、氷室さんはおいくつですか? その……自分とほぼ同年代に見えるのにとても落ち着いていらっしゃるので……」
「二十五才です。山城さんの学年の一つ上ですね」
私は自分で言うのもなんだが第一印象はとてもいいのだ。ハイブランドにこそ手が届かないが、オタクの割にはファッションにもけっこう気を遣っている。今の私を見て、ほんの一時間前まで楽な部屋着姿でソファにだらしなく寝転がっていただなんて誰も思うまい。
「その……弟とは本当にネットゲーム仲間だったのですか?」
私は思わず声をたてて笑ってしまった。
「私はこう見えて筋金入りのゲームオタクですよ。意外ですか?」
匠は咳払いをする。
「自分の偏見なのでしょうけど、全然そんな風に見えなくて……」
「駆君だってゲームしているようには全然見えないじゃないですか。でも仲間内では一番プレイ時間が長かったし、今は絵に描いたようなゲームオタクは減ってるんじゃないでしょうか」
「そうなのですね……あまり詳しくなくて申し訳ありません……うちではゲーム禁止されていたので、未だに気後れして触る機会がないんです……」
匠は詫びるように頭を軽く下げる。
「本当にゲームしたことがないのですか?」
逆に私が尋ねた。駆は親の目を盗んで友達や従姉の家で遊んでいたと言っていたが。
「小学生の頃ちょっと触らせてもらったことはありますが、コントローラーを上手く使えなかったからそれきりですね。ああ、弟は器用だったからゲームに向いていたのか……」
匠は合点したようだった。
「ご存じの通り弟は本当に手先が器用なんですが、更にスポーツは何をやらせても上手だったな。運動神経抜群なんです。剣道をずっと続けていたら自分よりもずっと強くなっていただろうに、中学前に辞めてしまって本当に残念でした。自分はあいつの運動神経が心底羨ましかったですよ……」
そう言いながら遠い目をする。
「親父も本当は自分よりも弟に剣道を続けてもらいたかったようです。素直にそういえば良いのに、辞めたことでいつまでもネチネチ小言を垂れるものだから弟もうんざりだったでしょうね」
「駆君はどんなに頑張っても褒められたことがなかったとこぼしていました……」
「……親父にとって弟はコントロール不能で不快な存在だったからじゃないかと推測しています。弟はあれこれ叱られてべそをかく割にはけっこう頑固で、自分でこうと決めたら譲らない性格でしたから。自分のように親の顔色を窺ったりするタイプじゃなかった。剣道ではなくテニスを選んでからは結果を出そうと一生懸命努力していることは伝わってきました。その甲斐あって高三の時インターハイの全国大会に出場して、それだけでもの凄いことなのに、親父は優勝できなかったのだから褒める必要はないとかほざいていたんです……。さすがに自分も親父の事ガキかよって思いました」
匠はその時の事を思い出したのか、ワインをあおるように飲む。
「何せ弟を負かした相手はその年の優勝者で、その後プロ転向してるんですよ。自分は現地に応援に行っていたから分かりますが、負けたといってもとても善戦していたっていうのに……」
匠は駆の対戦相手の名を挙げたがスポーツニュースでも時々耳にする名前だったため、私は驚愕した。
「駆君って実は凄いんですね!」
匠があははと笑った。
「普段大人しいから全然そんな風に見えませんよね。でも試合になると人が変わったように強気になるんですよ。あの気迫、自分には絶対にかないません」
強気な駆を見てみたい、私はそう思った。
「あの……駆君がテニスしている動画とかお持ちじゃないですか?」
私はおずおずと尋ねる。匠は思い出すようにちょっと考えてから答えた。
「今は持ってませんが、自宅のパソコンにインハイの試合の映像がいくつか保存してあります。後でメールしますよ」
この時メインディッシュの魚料理が運ばれてくる。スズキのポワレ オレンジソースだ。魚がとても新鮮だし、ソースもオレンジの酸味と甘味が絶妙で美味しい。私達は黙々と食事に集中する。それからショコラのプティフールとフランボワーズのソルベの盛り合わせにコーヒーが来てコースの締めくくりを迎えた。昼からこんなに食べることは滅多にないため、すっかり満腹である。
満足そうにコーヒーを飲んでいる私をじっと見つめながら匠が突然尋ねてくる。
「氷室さん、失礼ですが彼女でもない貴女が弟にどうしてそんなに優しくできるのですか?」」
唐突な質問に私はコーヒーカップをソーサーに置きどう返答しようか考え込む。それからバクバクし始めた胸を鎮めるように手で押えながら、言葉を選びつつ必死に私の思いを口にする。
「実を言うと私は……私は両親を交通事故で突然亡くしました……。その日まで両親は私の事を精一杯愛しんでくれたと思っています。一方駆君はご両親がご健在にもかかわらず、自分の過失でお父さんから突き放されとても可哀そうに思ったんです……部屋が空いている私なら困っている駆君を受け入れることができる……ただそれだけでした……」
意図せず涙がにじんできた。私を見つめ続けていた匠の形の良い眉がひそめられる。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です……氷室さんを困らせるつもりは全然なかったのです……」
本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「いいんです、山城さんからすれば当然の疑問ですよね……」
私はショルダーバッグからハンカチを取り出すと涙をそっと拭った。
「お願いです、ご両親は無理でしょうけどせめて山城さんは駆君と交流してあげて下さい……愛する家族が死んでしまったら、どんなに後悔してももう絶対に元には戻らないのです……」
匠は私の言葉を真剣に受け止めてくれたようだった。うなだれたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「……職業柄氷室さんのような方にお会いする機会があります……その都度同じような事をお聞きしてきました……なのに、今まで本当の意味で我が事として受け止めたことはありませんでした……確かにそうですよね……いつ何時家族がいなくなるかなんて分からないのに、自分にはその覚悟がなかった……バカだな……」
匠が白い清潔なテーブルクロスの上に置いた手をぎゅっと握りしめた。私も目を落としたまま続ける。
「……両親が死んだ時は……今日みたいに天気の良い二月の土曜日で、私はたまたま休日出勤で仕事に出かけていたんです……一方仕事が休みだった両親は二人で近所にウォーキングに出かけていたんですが、スマホに気を取られてよそ見運転になった車がいきなり歩道に突っ込んできたため避けることもできずはねられました……」
私は駆にすら言ったことのない両親の死の顛末を匠に語った。匠が現職の警察官だからというのもあったのかもしれない。
「……ああ……この近くでの……その交通事故の事は存じ上げています……まさか氷室さんのご両親の事だったとは……」
匠が呻いた。運転手がスマホに気を取られてよそ見をした瞬間の事故だった。相当速度が出ていた車はコントロールを失い歩道に突っ込み両親を次々にはねた後、民家のブロック塀に激突しボンネットが完全に潰れてしまったのだ。そのため加害者自身右足の機能を失っている。加害者は裁判で過失運転致死傷罪で実刑判決を受け、今は交通刑務所に収監されていた。
「あの事故の事ご存じでしたか……事故や自然災害っていつ自分の身に降りかかるかなんて全く分からないですよね……私が言いたいのはその時に備えてご家族を大切にしてくださいって事なんです……」
私はそう言って顔を上げた。
「……そのお言葉胸に刻みます……」
匠は自分の胸辺りに右手を当てると、私の方をしっかりと見据えてきた。真剣な表情だった。この時、ああ、この青年が警察官になることを選んだのは、単に父親が望んだからだけではなかったのだろうなと感じたのである。
「弟には今晩にでも電話してみます。LIMEだけで済ませていたなんて本当に自分は酷いヤツだったな……」
匠は悔やむように唇をかむ。
「よろしくお願いします。そして……彼女さんとうまく行きますように。今日は本当に御馳走さまでした」
私はぺこりとお辞儀をすると一生懸命微笑んでみせた。匠も照れくさそうに笑ったのだった。
匠はマンションの下まで私を送ってくれた。別れ際にLIMEのIDやメールアドレスを交換し、今後も機会があれば気軽に交流しようと約束する。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
五月下旬、五月晴れという言葉が正にふさわしいある土曜日のことだ。駆はおばあさんから直接紹介されたアルバイトに出かけていて不在だった。おばあさんの友人の有閑マダム達に都心のコートでテニスのコーチをしてから、高級ホテルの豪華アフタヌーンティーにに付き合うというまるで出張ホストのような内容で、おばあさんから電話で話を聞かされた時駆は激しく当惑していたが、提示された報酬額を聞くなり迷いなく承諾していた。ハイソな家庭のキッズシッターを引き受けてからというものある意味吹っ切れたのだろう。自尊心をかなぐり捨て、なりふり構わず稼いでいこうとする駆のハングリー精神、私は嫌いじゃなかったし、そんな内容の仕事を孫に臆面もなく紹介してくるお祖母さんも面白すぎる。直接資金提供をするのではなく、どんな形にせよ仕事を斡旋することで学費の足しにさせようとしているのだろう。
朝食後駆を見送ってから私はずっとソファにだらしなく寝そべって、録り溜めておいたバディものの人気刑事ドラマを一気見していた。よく考えてみるとこのドラマ、主役の中年警部は左遷されたものの実は優秀なキャリア警察官だということを思い出しながら。
朝食後駆を見送ってから私はずっとソファにだらしなく寝そべって、録り溜めておいたバディものの人気刑事ドラマを一気見していた。よく考えてみるとこのドラマ、主役の中年警部は左遷されたものの実は優秀なキャリア警察官だということを思い出しながら。
昼前、久しぶりに我が家の固定電話が鳴る。両親ゆかりの人が電話をかけてくる可能性があったから基本非通知以外は固定電話に出ることにしており、ドラマを一時停止してから表示された番号をひょいと覗き込んだが、未登録の携帯電話からだった。私は一瞬躊躇したものの結局電話を取る。
「はい……」
「氷室さんの御宅でお間違いなかったでしょうか?」
電話は若い男からだった。ハキハキしていてよく通るいい声だ。
「あ、はい。そうですが、どちら様ですか?」
会社名も名乗らず営業の電話でもなさそうだった。私は首を傾げながら尋ねた。すると一呼吸置いてから帰ってくる。
「……山城 |匠《たくみ》と申します。駆の兄です」
私は驚きのあまり受話器を落としそうになった。どうして駆のお兄さんがうちの固定電話番号を知っているの?
「もしもーし! 聞こえてますか?」
「き、聞こえてます……でも、どうしてこの番号を知ったんですか!?」
私は聞かずにはいられなかった。駆は母方のおばあさん以外にはここの住所を伏せていたし、おばあさんは話を聞く限り軽率に住所を吹聴するようなタイプには思えなかったからだ。
「どうして……ふむ、確かにそうですよね。簡単に説明しますと、弟は自分と同じ戸籍に入ったままなので、附票というものでそちらの住所を辿れるんです」
「で、でも、住民票の住所には電話番号なんて登録しませんよね」
「ええ、附票の住所からそちらのマンションが判明したので、今下まで来てポストの表札で氷室さんの名前を確認しました」
あんたはメリーさんかよ! いや、駆の話によるとキャリア警察官か。ポストの表札には私の姓『氷室』の隣に駆の姓『山城』が紙で貼ってあるから、住所さえ分かってしまえば私の姓を把握する事は容易いということなのだろう。だがそれでも納得できない。私は混乱する頭で必死に反論した。
「でも、表札でも電話番号までは分からないじゃないですか!」
「NTTの番号案内サービスを使いました……え、ご存じない?」
駆の兄を名乗る人物は名前と住所から電話番号を検索できる有料サービスがあることを教えてくれた。
「それって合法なんですよね!」
つい疑ってしまうが、電話の声はあくまで落ち着いている。
「もちろんです」
それでも私は問わずにはいられなかった。
「あなた、本当に駆君のお兄さんなんですか?」
随分疑り深いと思われるだろうが、世の中には特殊詐欺という犯罪が存在するのだ。特に最近の劇場型詐欺は相当凝っているらしい。警察を騙ってくるのは常套手段だと言うし、疑ってかかるに越したことはない。
受話器から我慢できなかったのかぷっと吹き出す声がした。
「確かに! 自分がかけ子かもしれませんよね!」
どうやらやたらツボにはまったようだ。楽しそうな声で続けてくる。
「何か質問していただければ答えますよ」
私は少し考えてから質問する。
「では、問題です。駆君が小学校の時にやっていたスポーツは何でしょうか?」
「剣道!」
即答だった。駆がテニスをしている事は調べればすぐに分かることだが、剣道をやっていたことは身内や地元の人しか知らない事実だ。さすがに信じてあげてもいいだろう。
「大当たり! あなたは駆君のお兄さんで間違いはなさそうですね」
「信じてもらえて良かったです」
駆の兄、匠はまだ笑っていた。警察官なのによりによってかけ子と疑われたらそりゃ受けるだろう。
「疑った事については謝ります。……でも、いきなりマンションの下に来られても困るんですけど!」
部屋着姿でソファに寝転がりだらしなく寛いでいた私の声は恥ずかしさからつい大きくなってしまう。髪はぼさぼさだし、何しろスッピンなのだ。
「何の用があって来たんですか!?」
「氷室さんの疑問は当然ですね。大変失礼いたしました。弟を助けてくれた事についてお礼を述べたいと思いまして」
本当に? 私は疑ってしまう。何か探りを入れられているようであまりいい気分はしなかった。相手が現職の警察官だと知っているから余計にそう思ってしまうのだけど。それに駆不在時を狙って電話をかけてきたのではなかろうかとつい疑念に駆られてしまう。
「……山城さんの目的は分かりました……でも、今すぐは無理ですから!」
強い口調で返した。すると
「氷室さんが支度を終えるまで待っていますので、どこかで食事でもいかがですか?」
私の格好を見透かしているような口調に腹が立ったが、実は私も駆の実家の事を知りたいとは密かに思っていたのだ。これはある意味絶好のチャンスだろう。
「……分かりました……申し訳ないけど、下でしばらく待っていてください!」
私は念のため匠に私のスマホの番号を伝えてから電話を切ると、着替えるのが簡単なネイビーの半袖のワンピースに袖を通し白いレースのカーディガンを羽織ると、適当に髪をとかし大き目のバレッタでハーフアップにし、手早く化粧をしていつも使っているショルダーバッグを掴むと自宅を後にした。
「はい……」
「氷室さんの御宅でお間違いなかったでしょうか?」
電話は若い男からだった。ハキハキしていてよく通るいい声だ。
「あ、はい。そうですが、どちら様ですか?」
会社名も名乗らず営業の電話でもなさそうだった。私は首を傾げながら尋ねた。すると一呼吸置いてから帰ってくる。
「……山城 |匠《たくみ》と申します。駆の兄です」
私は驚きのあまり受話器を落としそうになった。どうして駆のお兄さんがうちの固定電話番号を知っているの?
「もしもーし! 聞こえてますか?」
「き、聞こえてます……でも、どうしてこの番号を知ったんですか!?」
私は聞かずにはいられなかった。駆は母方のおばあさん以外にはここの住所を伏せていたし、おばあさんは話を聞く限り軽率に住所を吹聴するようなタイプには思えなかったからだ。
「どうして……ふむ、確かにそうですよね。簡単に説明しますと、弟は自分と同じ戸籍に入ったままなので、附票というものでそちらの住所を辿れるんです」
「で、でも、住民票の住所には電話番号なんて登録しませんよね」
「ええ、附票の住所からそちらのマンションが判明したので、今下まで来てポストの表札で氷室さんの名前を確認しました」
あんたはメリーさんかよ! いや、駆の話によるとキャリア警察官か。ポストの表札には私の姓『氷室』の隣に駆の姓『山城』が紙で貼ってあるから、住所さえ分かってしまえば私の姓を把握する事は容易いということなのだろう。だがそれでも納得できない。私は混乱する頭で必死に反論した。
「でも、表札でも電話番号までは分からないじゃないですか!」
「NTTの番号案内サービスを使いました……え、ご存じない?」
駆の兄を名乗る人物は名前と住所から電話番号を検索できる有料サービスがあることを教えてくれた。
「それって合法なんですよね!」
つい疑ってしまうが、電話の声はあくまで落ち着いている。
「もちろんです」
それでも私は問わずにはいられなかった。
「あなた、本当に駆君のお兄さんなんですか?」
随分疑り深いと思われるだろうが、世の中には特殊詐欺という犯罪が存在するのだ。特に最近の劇場型詐欺は相当凝っているらしい。警察を騙ってくるのは常套手段だと言うし、疑ってかかるに越したことはない。
受話器から我慢できなかったのかぷっと吹き出す声がした。
「確かに! 自分がかけ子かもしれませんよね!」
どうやらやたらツボにはまったようだ。楽しそうな声で続けてくる。
「何か質問していただければ答えますよ」
私は少し考えてから質問する。
「では、問題です。駆君が小学校の時にやっていたスポーツは何でしょうか?」
「剣道!」
即答だった。駆がテニスをしている事は調べればすぐに分かることだが、剣道をやっていたことは身内や地元の人しか知らない事実だ。さすがに信じてあげてもいいだろう。
「大当たり! あなたは駆君のお兄さんで間違いはなさそうですね」
「信じてもらえて良かったです」
駆の兄、匠はまだ笑っていた。警察官なのによりによってかけ子と疑われたらそりゃ受けるだろう。
「疑った事については謝ります。……でも、いきなりマンションの下に来られても困るんですけど!」
部屋着姿でソファに寝転がりだらしなく寛いでいた私の声は恥ずかしさからつい大きくなってしまう。髪はぼさぼさだし、何しろスッピンなのだ。
「何の用があって来たんですか!?」
「氷室さんの疑問は当然ですね。大変失礼いたしました。弟を助けてくれた事についてお礼を述べたいと思いまして」
本当に? 私は疑ってしまう。何か探りを入れられているようであまりいい気分はしなかった。相手が現職の警察官だと知っているから余計にそう思ってしまうのだけど。それに駆不在時を狙って電話をかけてきたのではなかろうかとつい疑念に駆られてしまう。
「……山城さんの目的は分かりました……でも、今すぐは無理ですから!」
強い口調で返した。すると
「氷室さんが支度を終えるまで待っていますので、どこかで食事でもいかがですか?」
私の格好を見透かしているような口調に腹が立ったが、実は私も駆の実家の事を知りたいとは密かに思っていたのだ。これはある意味絶好のチャンスだろう。
「……分かりました……申し訳ないけど、下でしばらく待っていてください!」
私は念のため匠に私のスマホの番号を伝えてから電話を切ると、着替えるのが簡単なネイビーの半袖のワンピースに袖を通し白いレースのカーディガンを羽織ると、適当に髪をとかし大き目のバレッタでハーフアップにし、手早く化粧をしていつも使っているショルダーバッグを掴むと自宅を後にした。
匠はマンションの入り口付近でずっと待っていたようだ。目立たないようにアーチ型の門の陰に隠れるようにさりげなく立ったまま、手にしたスマホを眺めている。
「山城さん?」
私が緊張しながら声をかけると、スマホを胸ポケットにしまってから私の方を見て礼儀正しく深々とお辞儀をした。
「山城です。氷室さんには弟が大変世話になっていて本当にありがとうございます」
私は軽く会釈してから、匠をさりげなく観察した。駆よりは少し背が低めだが、水泳でもしているのだろうか、ものすごく肩幅がありいわゆる逆三角形の体形だ。髪はサイドを刈り上げにして長めの前髪はワックスで軽くなでつけていた。眉はきちんと整えており奥二重の目は切れ長で鼻筋は通っている。二重で目が大きくまつ毛も長い王子様タイプの駆とは全然違うすっきりとしたイケメンである。駆とは全く似ていないのに何となく見覚えがある気がしたけど、気のせいだろうか。
長袖の薄手の青いチェックのシャツに黒っぽいスリムジーンズ、スポーツブランドの白いスニーカー姿だったが、意外なことにファストファッションのようだった。私が勝手に想像していたオーダーメイドの三つ揃えを着たエリート警察官の姿とは全然違っていた。確かに今日は休日なのだからスーツを着てくる必要はないのだが、期待してしまった私がバカだっただけだ。直前まで見ていた刑事ドラマに影響されすぎただけである。
「氷室 有葉です」
私は改めてきちんと名乗った上で、つい思ったことを口にしてしまう。
「その……弟さんと全然似てないので正直驚きました」
それを聞いた匠は声をたてて笑った。
「よく言われます。弟の顔立ちは母方の祖父系統で、自分は父方系なんですよ」
「なるほど」
私は頷いた。だから顔が全然違うのか。
「食事と言いましたが、この辺で落ち着いて食事できるいいお店はありませんか? せっかく出て来ていただいたのですから御馳走しますよ」
と匠が申し出てくれたので、私はこの周辺の飲食店を思い浮かべる。庶民的な住宅街のせいか、ファミレスなどの低価格帯の賑やかな店が多いのだが、それでも少し離れた裏通りに小洒落たビストロがあったことを思い出す。普段だったら御馳走すると言われてもお高い店に案内したりなどしないが、今回の用件に限って言えば絶対に罰は当たらないと思い、遠慮なくその店の名を挙げたのだった。
「山城さん?」
私が緊張しながら声をかけると、スマホを胸ポケットにしまってから私の方を見て礼儀正しく深々とお辞儀をした。
「山城です。氷室さんには弟が大変世話になっていて本当にありがとうございます」
私は軽く会釈してから、匠をさりげなく観察した。駆よりは少し背が低めだが、水泳でもしているのだろうか、ものすごく肩幅がありいわゆる逆三角形の体形だ。髪はサイドを刈り上げにして長めの前髪はワックスで軽くなでつけていた。眉はきちんと整えており奥二重の目は切れ長で鼻筋は通っている。二重で目が大きくまつ毛も長い王子様タイプの駆とは全然違うすっきりとしたイケメンである。駆とは全く似ていないのに何となく見覚えがある気がしたけど、気のせいだろうか。
長袖の薄手の青いチェックのシャツに黒っぽいスリムジーンズ、スポーツブランドの白いスニーカー姿だったが、意外なことにファストファッションのようだった。私が勝手に想像していたオーダーメイドの三つ揃えを着たエリート警察官の姿とは全然違っていた。確かに今日は休日なのだからスーツを着てくる必要はないのだが、期待してしまった私がバカだっただけだ。直前まで見ていた刑事ドラマに影響されすぎただけである。
「氷室 有葉です」
私は改めてきちんと名乗った上で、つい思ったことを口にしてしまう。
「その……弟さんと全然似てないので正直驚きました」
それを聞いた匠は声をたてて笑った。
「よく言われます。弟の顔立ちは母方の祖父系統で、自分は父方系なんですよ」
「なるほど」
私は頷いた。だから顔が全然違うのか。
「食事と言いましたが、この辺で落ち着いて食事できるいいお店はありませんか? せっかく出て来ていただいたのですから御馳走しますよ」
と匠が申し出てくれたので、私はこの周辺の飲食店を思い浮かべる。庶民的な住宅街のせいか、ファミレスなどの低価格帯の賑やかな店が多いのだが、それでも少し離れた裏通りに小洒落たビストロがあったことを思い出す。普段だったら御馳走すると言われてもお高い店に案内したりなどしないが、今回の用件に限って言えば絶対に罰は当たらないと思い、遠慮なくその店の名を挙げたのだった。
住宅街の中にひっそりと建っている白い外装にトリコロールの屋根のビストロは幸い既に開店していた。黒板に白いチョークで描かれたメニューと価格を見ても匠は眉一つ動かさず、店のドアを開けて慣れた仕草で私を誘導してくれる。私達を出迎えてくれた白いお仕着せを着たウェイターに、しばらく気兼ねなく話をしたいことを伝えたところ、奥まっていて目立たない半個室に通してくれた。
匠はドリンクメニューを眺めながら私に酒はいける口か尋ねてきた。私は一瞬迷ったが、酒の力を借りないと言えないこともあると思い頷いてみせた。匠はウェイターに、店お勧めの白ワインのフルボトルと、ランチで一番高いコースを頼んでくれる。ウェイターが去った後、匠は私に名刺を差し出してきた。『警察庁 ○○課係長 警部 山城 匠』と書いてあって、私は思わずしげしげと名刺を眺めてしまった。駆の説明だと匠は駆より三才年上らしいから私より一つ年下のはずだが、階級はもう警部なのだ。さっきのドラマの主役と同じである。まあ、あのドラマの設定がイレギュラーなだけなのだが。
私もショルダーバッグから自分の名刺入れを取り出し、会社の名刺を渡した。私の勤務している会社は中堅の独立系IT企業で、残念ながら世間的な知名度は全然ない。さらにそこの平社員なのだから匠とは月とすっぽんである。つい気後れしてしまいそうになるが、ここは強気で臨まなければ、と私は自分に心の中で気合を入れる。
すぐグラス二つとワインボトルが運ばれてきたので二人で軽く乾杯した後、匠がにこやかな表情で尋ねてきた。
「氷室さん、単刀直入にお伺いしますが、弟とはどんなご関係ですか?」
単刀直入すぎて吹き出しそうになったが、ぐっと堪える。
「元々はただのネットゲーム仲間ですよ。三月にランちゃん……じゃなかった駆君が住む処がなくなったとSNSで訴えてきたので、たまたま部屋が空いていた我が家に住んでもらうことになっただけです。大家と居候の関係ですね」
「彼女ではなかったのですか?」
私の説明に匠は意表を突かれたらしい。
「祖母から若い女性の家に身を寄せているとだけ聞いていたので、てっきり彼女だと思っていたのですが……」
「弟さんに彼女がいるかどうかご存じなかった?」
別に咎めるつもりはなかったのだが、私の発した言葉には多少棘が混ざってしまった。匠は苦笑いを浮かべる。
「……氷室さんの仰る通り、最近自分は弟とあまり交流がありませんでした。仕事が忙しかったりして、実家に戻った時互いに近況報告をするくらいで」
実際男兄弟なんてそんなものなのだろう。
「……お恥ずかしい話です。本当ならもっと早く氷室さんにお礼をしていなければならなかったというのに」
駆のお兄さんに感謝してほしいなんて思ったことはなかったので、何故そこに拘るのか不思議に感じた。
「山城さんが悪い訳ではないですから特にお礼など必要ないのに……」
「いや、仰る通りなのですが……それなりに仲の良かった弟が自分を頼ってくれなかった事がちょっとショックだったんです……」
それまでハキハキと喋っていた匠が初めて口ごもった。
「実は親父から弟を『勘当』したと聞いた時すぐLIMEしたのですが、『心配しないで、もう大丈夫だから』とだけ返ってきて。弟にしては物凄くそっけなかったので気にはなっていたものの、こちらも仕事に忙殺され、なかなか……」
「山城さんはお父さんとの仲は良好だと伺っています。だから遠慮したのでは?」
と私が推測を述べた。匠は腕組みをし唸った。
「そうかもしれませんね……自分は今独身寮に入っているので弟をそこに住まわせるわけにはいかないし、弟なりに気を遣ったのでしょう……しかし、逆に本来無関係の氷室さんの負担が大きすぎて、本当に申し訳なく思っています……」
「負担って大したことないですよ。駆君は料理や掃除をやってくれるので逆にこちらが助かってるくらいで」
私は照れくさそうに笑った。すると匠は驚いたように目を見開いた。
「弟が料理を? できるなんて知らなかった……」
「はい、とても上手なんですよ。駆君って本当に器用ですよね」
「先ほど弟は母方の祖父系統と言いましたが、手先が器用なところも祖父似なんです」
山城兄弟の母方の祖父は若くして胃ガンで亡くなったらしい。元々は旧家出身だったが、戦後家が没落した後に商家の娘だった祖母と東京で出会い結婚して以来、育児を行いながら好きに絵を描いていたそうだ。
「今でいうところの専業主夫なんでしょうね。お袋は自分の父親の事を『ヒモ』とか『ジゴロ』とか酷いこと言ってましたけど、単に男女逆転していただけじゃなかったかと……」
匠が家の事情を簡単に説明する。
「色々な夫婦の形があっていいと思いますけど」
それを聞いた私は感想を述べた。
「自分もそう思います。だけどお袋はそんな父親の事を毛嫌いしていたらしく、よりによって親父みたいな昭和な男を選んでしまうし」
匠は深々とため息をつく。私は匠の反応を意外に思った。駆の話だと匠は両親に大切にされていたそうだから、父親に同調しているのかと思っていたのだ。私の心を読んだかのように匠が吐露した。
「白状すると、自分は最近まで我が家の事を他所のうちに比べて厳しいけど一般的な家だと思っていたんです。だけど、彼女にずばり言われちゃったんですよ、山城家は絶対おかしいって……」
「そうですね」
先ほどから飲んでいる口当たりの良い白ワインの助けもあって、私も思わず彼女さんに同意してしまう。匠は肩をすくめて笑ってみせた。
「氷室さん、会ったばかりなのに手厳しいなあ……。でも、その通りです……自分は彼女に延々と説教されちゃいました」
匠はドリンクメニューを眺めながら私に酒はいける口か尋ねてきた。私は一瞬迷ったが、酒の力を借りないと言えないこともあると思い頷いてみせた。匠はウェイターに、店お勧めの白ワインのフルボトルと、ランチで一番高いコースを頼んでくれる。ウェイターが去った後、匠は私に名刺を差し出してきた。『警察庁 ○○課係長 警部 山城 匠』と書いてあって、私は思わずしげしげと名刺を眺めてしまった。駆の説明だと匠は駆より三才年上らしいから私より一つ年下のはずだが、階級はもう警部なのだ。さっきのドラマの主役と同じである。まあ、あのドラマの設定がイレギュラーなだけなのだが。
私もショルダーバッグから自分の名刺入れを取り出し、会社の名刺を渡した。私の勤務している会社は中堅の独立系IT企業で、残念ながら世間的な知名度は全然ない。さらにそこの平社員なのだから匠とは月とすっぽんである。つい気後れしてしまいそうになるが、ここは強気で臨まなければ、と私は自分に心の中で気合を入れる。
すぐグラス二つとワインボトルが運ばれてきたので二人で軽く乾杯した後、匠がにこやかな表情で尋ねてきた。
「氷室さん、単刀直入にお伺いしますが、弟とはどんなご関係ですか?」
単刀直入すぎて吹き出しそうになったが、ぐっと堪える。
「元々はただのネットゲーム仲間ですよ。三月にランちゃん……じゃなかった駆君が住む処がなくなったとSNSで訴えてきたので、たまたま部屋が空いていた我が家に住んでもらうことになっただけです。大家と居候の関係ですね」
「彼女ではなかったのですか?」
私の説明に匠は意表を突かれたらしい。
「祖母から若い女性の家に身を寄せているとだけ聞いていたので、てっきり彼女だと思っていたのですが……」
「弟さんに彼女がいるかどうかご存じなかった?」
別に咎めるつもりはなかったのだが、私の発した言葉には多少棘が混ざってしまった。匠は苦笑いを浮かべる。
「……氷室さんの仰る通り、最近自分は弟とあまり交流がありませんでした。仕事が忙しかったりして、実家に戻った時互いに近況報告をするくらいで」
実際男兄弟なんてそんなものなのだろう。
「……お恥ずかしい話です。本当ならもっと早く氷室さんにお礼をしていなければならなかったというのに」
駆のお兄さんに感謝してほしいなんて思ったことはなかったので、何故そこに拘るのか不思議に感じた。
「山城さんが悪い訳ではないですから特にお礼など必要ないのに……」
「いや、仰る通りなのですが……それなりに仲の良かった弟が自分を頼ってくれなかった事がちょっとショックだったんです……」
それまでハキハキと喋っていた匠が初めて口ごもった。
「実は親父から弟を『勘当』したと聞いた時すぐLIMEしたのですが、『心配しないで、もう大丈夫だから』とだけ返ってきて。弟にしては物凄くそっけなかったので気にはなっていたものの、こちらも仕事に忙殺され、なかなか……」
「山城さんはお父さんとの仲は良好だと伺っています。だから遠慮したのでは?」
と私が推測を述べた。匠は腕組みをし唸った。
「そうかもしれませんね……自分は今独身寮に入っているので弟をそこに住まわせるわけにはいかないし、弟なりに気を遣ったのでしょう……しかし、逆に本来無関係の氷室さんの負担が大きすぎて、本当に申し訳なく思っています……」
「負担って大したことないですよ。駆君は料理や掃除をやってくれるので逆にこちらが助かってるくらいで」
私は照れくさそうに笑った。すると匠は驚いたように目を見開いた。
「弟が料理を? できるなんて知らなかった……」
「はい、とても上手なんですよ。駆君って本当に器用ですよね」
「先ほど弟は母方の祖父系統と言いましたが、手先が器用なところも祖父似なんです」
山城兄弟の母方の祖父は若くして胃ガンで亡くなったらしい。元々は旧家出身だったが、戦後家が没落した後に商家の娘だった祖母と東京で出会い結婚して以来、育児を行いながら好きに絵を描いていたそうだ。
「今でいうところの専業主夫なんでしょうね。お袋は自分の父親の事を『ヒモ』とか『ジゴロ』とか酷いこと言ってましたけど、単に男女逆転していただけじゃなかったかと……」
匠が家の事情を簡単に説明する。
「色々な夫婦の形があっていいと思いますけど」
それを聞いた私は感想を述べた。
「自分もそう思います。だけどお袋はそんな父親の事を毛嫌いしていたらしく、よりによって親父みたいな昭和な男を選んでしまうし」
匠は深々とため息をつく。私は匠の反応を意外に思った。駆の話だと匠は両親に大切にされていたそうだから、父親に同調しているのかと思っていたのだ。私の心を読んだかのように匠が吐露した。
「白状すると、自分は最近まで我が家の事を他所のうちに比べて厳しいけど一般的な家だと思っていたんです。だけど、彼女にずばり言われちゃったんですよ、山城家は絶対おかしいって……」
「そうですね」
先ほどから飲んでいる口当たりの良い白ワインの助けもあって、私も思わず彼女さんに同意してしまう。匠は肩をすくめて笑ってみせた。
「氷室さん、会ったばかりなのに手厳しいなあ……。でも、その通りです……自分は彼女に延々と説教されちゃいました」
匠の彼女は大学時代、すなわちT大の法学部の同級生で、帰国子女なのだという。元々歯に衣着せぬ物言いをするタイプだったそうだが、ようやく彼女の資格試験が終わった時、駆が『勘当』された話を要領の悪い弟のエピソードとして披露したところ、『人でなし』と激怒されたのだそうだ。自分は何もしていないと匠が言い訳したところ、弟が親から虐待されているのに見て見ぬ振りをしているところが十分人でなしなのだと叱られ、反省しないなら今すぐ別れると脅されたのだという。
「……お恥ずかしながら彼女とは別れたくなかったものですから、自分も必死になって色々調べたりしました……。どうやら我が家は典型的な機能不全家庭みたいですね……」
私は黙って頷いた。実は私も駆と同居してから気になって色々ネットを検索したのだが、匠も私と同じ結論に達していたようだ。
「うちは常に兄弟が比較されていました。自分と弟は三つ離れているから自分の方が出来ることが多いのは当然なのに、弟はそのことでいつも叱られていたんです。お兄ちゃんは出来るのに、何故駆は出来ないのかって……。だから弟はいつもべそをかいていました」
それを聞いた私は胸をぎゅっと掴まれたように痛むのを感じ、膝の上で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
「一方自分は弟みたいに言われるのが怖くて、必死に優等生を演じるようになりました。立派なお兄ちゃんであれば両親は自分を褒めてくれるから、そうやって居心地の良い居場所を確保したんです」
匠は目を伏せた。
「地方ではありますが中学高校と立候補してそれぞれ生徒会長になったし、模試では常に校内一位をキープしT大に現役合格し、さらには親父と同じ道を選んで自分は常に両親の自慢の息子でした……」
口で言うのは容易いが、優等生であるために匠も血のにじむような努力をしたに違いない。
「私には途方もない話のように聞こえます……山城さんも大変だったのですね……」
すると匠は自嘲するように乾いた笑い声を上げた。
「彼女に指摘されるまで、自分は正しい道を歩んでいると信じきっていました……ゲームで留年してしまうなんて弟はなんてバカなんだろうとしか思ってなかった……。しかしいきなり仕送りを完全に打ち切られ、一歩間違えばホームレスになるほどの悪いことをした訳ではない。確かに自分は人でなしでしたね……」
匠は喉の渇きを癒すかのようにグラスのワインをぐいっと飲み干すと、ワインクーラーに入っていたボトルのワインを更にグラスに注いだ。
「自分は小さい頃から弟の世話を任されることが多かったから、無条件に慕ってくれる弟の事を可愛いと思いながらも一方で鬱陶しいとも感じてきました」
「幼い頃から駆君の世話をしてきたのですか? お母さんは?」
私は驚いてしまった。匠は苦笑いを浮かべた。
「お袋は理由はよく分かりませんが、弟の事をずっと苦手に思っていたようです。親として必要最低限の事はやっていましたけど……本当に最低限でした……。暖かい言葉をかけることはほとんどなかった……もしかすると先ほど話した祖父に外見が似ていたのも原因だったかもしれません。親父は基本単身赴任でほとんど家にいないし、お袋は実家の仕事でいつも忙しかったから、普段は近所に住んでいる親戚のおばさんが自分達兄弟の世話をしてくれていたんです……。でもお袋と兄弟で出かける時はいつも自分が弟の手を引いていましたし……」
私は未だ子育ての経験はないが、普通は親がより幼い子と手を繋ぐものではないのだろうか。眩暈がしそうだった。
「信じられない……まだ幼い子に保護者代わりをさせてしまうなんて……」
思わず口にしてしまう。匠は頷いた。
「自分はなまじ幼い頃から出来る子だったから任せやすかったのでしょう。『さすが、お兄ちゃんは頼りになるね』ってお袋からおだてられるだけで有頂天になっていたんですよ。駆も全然手のかかる子じゃなくて、家ではいつも本を読むかお絵描きばかりする子だったから我が家は崩壊もせず辛うじて回ってたんでしょうね……」
私はそれまで山城家の問題は厳しすぎるお父さんに原因があると思っていたが、匠の話を聞いてお母さんにも原因の一端がありそうだと初めて認識した。考えてみれば、いくら夫が息子を『勘当』したからといって、その息子に連絡一つ寄越さない母親は冷たすぎる。今日アルバイトを紹介してくれたおばあさんは頻繁に携帯で連絡をくれると聞いているので、お母さんの冷淡さが改めて浮き彫りになったように思う。
「……お恥ずかしながら彼女とは別れたくなかったものですから、自分も必死になって色々調べたりしました……。どうやら我が家は典型的な機能不全家庭みたいですね……」
私は黙って頷いた。実は私も駆と同居してから気になって色々ネットを検索したのだが、匠も私と同じ結論に達していたようだ。
「うちは常に兄弟が比較されていました。自分と弟は三つ離れているから自分の方が出来ることが多いのは当然なのに、弟はそのことでいつも叱られていたんです。お兄ちゃんは出来るのに、何故駆は出来ないのかって……。だから弟はいつもべそをかいていました」
それを聞いた私は胸をぎゅっと掴まれたように痛むのを感じ、膝の上で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
「一方自分は弟みたいに言われるのが怖くて、必死に優等生を演じるようになりました。立派なお兄ちゃんであれば両親は自分を褒めてくれるから、そうやって居心地の良い居場所を確保したんです」
匠は目を伏せた。
「地方ではありますが中学高校と立候補してそれぞれ生徒会長になったし、模試では常に校内一位をキープしT大に現役合格し、さらには親父と同じ道を選んで自分は常に両親の自慢の息子でした……」
口で言うのは容易いが、優等生であるために匠も血のにじむような努力をしたに違いない。
「私には途方もない話のように聞こえます……山城さんも大変だったのですね……」
すると匠は自嘲するように乾いた笑い声を上げた。
「彼女に指摘されるまで、自分は正しい道を歩んでいると信じきっていました……ゲームで留年してしまうなんて弟はなんてバカなんだろうとしか思ってなかった……。しかしいきなり仕送りを完全に打ち切られ、一歩間違えばホームレスになるほどの悪いことをした訳ではない。確かに自分は人でなしでしたね……」
匠は喉の渇きを癒すかのようにグラスのワインをぐいっと飲み干すと、ワインクーラーに入っていたボトルのワインを更にグラスに注いだ。
「自分は小さい頃から弟の世話を任されることが多かったから、無条件に慕ってくれる弟の事を可愛いと思いながらも一方で鬱陶しいとも感じてきました」
「幼い頃から駆君の世話をしてきたのですか? お母さんは?」
私は驚いてしまった。匠は苦笑いを浮かべた。
「お袋は理由はよく分かりませんが、弟の事をずっと苦手に思っていたようです。親として必要最低限の事はやっていましたけど……本当に最低限でした……。暖かい言葉をかけることはほとんどなかった……もしかすると先ほど話した祖父に外見が似ていたのも原因だったかもしれません。親父は基本単身赴任でほとんど家にいないし、お袋は実家の仕事でいつも忙しかったから、普段は近所に住んでいる親戚のおばさんが自分達兄弟の世話をしてくれていたんです……。でもお袋と兄弟で出かける時はいつも自分が弟の手を引いていましたし……」
私は未だ子育ての経験はないが、普通は親がより幼い子と手を繋ぐものではないのだろうか。眩暈がしそうだった。
「信じられない……まだ幼い子に保護者代わりをさせてしまうなんて……」
思わず口にしてしまう。匠は頷いた。
「自分はなまじ幼い頃から出来る子だったから任せやすかったのでしょう。『さすが、お兄ちゃんは頼りになるね』ってお袋からおだてられるだけで有頂天になっていたんですよ。駆も全然手のかかる子じゃなくて、家ではいつも本を読むかお絵描きばかりする子だったから我が家は崩壊もせず辛うじて回ってたんでしょうね……」
私はそれまで山城家の問題は厳しすぎるお父さんに原因があると思っていたが、匠の話を聞いてお母さんにも原因の一端がありそうだと初めて認識した。考えてみれば、いくら夫が息子を『勘当』したからといって、その息子に連絡一つ寄越さない母親は冷たすぎる。今日アルバイトを紹介してくれたおばあさんは頻繁に携帯で連絡をくれると聞いているので、お母さんの冷淡さが改めて浮き彫りになったように思う。
その時前菜の野菜サラダとフランスパンが運ばれてきたので、会話がしばらく中断した。続いて運ばれてきたにんじんのポタージュに舌鼓を打った後、匠が再び口を開いた。
「弟の話をしに来たのに、自分の話ばかりで申し訳ありません。しかも初対面の氷室さんにこんな話をしてしまうなんてご迷惑ではないでしょうか……」
四半世紀生きてきて初めて自分の人生に疑問を持ったのだ。仕方がないと思う。それに利害関係のない私の方が話しやすいのだろう。私は胸に手を当て言った。
「いえ、気にしないで下さい。私は事情を知る第三者ですし、こう見えても口は堅い方なんです、遠慮なく話して下さって結構です」
「……そう仰っていただけると少し気が楽になります……こんな事誰にも話したことがなかったので……」
匠が少しもじもじした。誰もが羨むエリート一家がこんな問題を抱えているなんてなかなか言えないだろう。駆を事実上扶養している私にだからこそ言える話でもある。
「失礼ですが、氷室さんはおいくつですか? その……自分とほぼ同年代に見えるのにとても落ち着いていらっしゃるので……」
「二十五才です。山城さんの学年の一つ上ですね」
私は自分で言うのもなんだが第一印象はとてもいいのだ。ハイブランドにこそ手が届かないが、オタクの割にはファッションにもけっこう気を遣っている。今の私を見て、ほんの一時間前まで楽な部屋着姿でソファにだらしなく寝転がっていただなんて誰も思うまい。
「その……弟とは本当にネットゲーム仲間だったのですか?」
私は思わず声をたてて笑ってしまった。
「私はこう見えて筋金入りのゲームオタクですよ。意外ですか?」
匠は咳払いをする。
「自分の偏見なのでしょうけど、全然そんな風に見えなくて……」
「駆君だってゲームしているようには全然見えないじゃないですか。でも仲間内では一番プレイ時間が長かったし、今は絵に描いたようなゲームオタクは減ってるんじゃないでしょうか」
「そうなのですね……あまり詳しくなくて申し訳ありません……うちではゲーム禁止されていたので、未だに気後れして触る機会がないんです……」
匠は詫びるように頭を軽く下げる。
「本当にゲームしたことがないのですか?」
逆に私が尋ねた。駆は親の目を盗んで友達や従姉の家で遊んでいたと言っていたが。
「小学生の頃ちょっと触らせてもらったことはありますが、コントローラーを上手く使えなかったからそれきりですね。ああ、弟は器用だったからゲームに向いていたのか……」
匠は合点したようだった。
「ご存じの通り弟は本当に手先が器用なんですが、更にスポーツは何をやらせても上手だったな。運動神経抜群なんです。剣道をずっと続けていたら自分よりもずっと強くなっていただろうに、中学前に辞めてしまって本当に残念でした。自分はあいつの運動神経が心底羨ましかったですよ……」
そう言いながら遠い目をする。
「親父も本当は自分よりも弟に剣道を続けてもらいたかったようです。素直にそういえば良いのに、辞めたことでいつまでもネチネチ小言を垂れるものだから弟もうんざりだったでしょうね」
「駆君はどんなに頑張っても褒められたことがなかったとこぼしていました……」
「……親父にとって弟はコントロール不能で不快な存在だったからじゃないかと推測しています。弟はあれこれ叱られてべそをかく割にはけっこう頑固で、自分でこうと決めたら譲らない性格でしたから。自分のように親の顔色を窺ったりするタイプじゃなかった。剣道ではなくテニスを選んでからは結果を出そうと一生懸命努力していることは伝わってきました。その甲斐あって高三の時インターハイの全国大会に出場して、それだけでもの凄いことなのに、親父は優勝できなかったのだから褒める必要はないとかほざいていたんです……。さすがに自分も親父の事ガキかよって思いました」
匠はその時の事を思い出したのか、ワインをあおるように飲む。
「何せ弟を負かした相手はその年の優勝者で、その後プロ転向してるんですよ。自分は現地に応援に行っていたから分かりますが、負けたといってもとても善戦していたっていうのに……」
匠は駆の対戦相手の名を挙げたがスポーツニュースでも時々耳にする名前だったため、私は驚愕した。
「駆君って実は凄いんですね!」
匠があははと笑った。
「普段大人しいから全然そんな風に見えませんよね。でも試合になると人が変わったように強気になるんですよ。あの気迫、自分には絶対にかないません」
強気な駆を見てみたい、私はそう思った。
「あの……駆君がテニスしている動画とかお持ちじゃないですか?」
私はおずおずと尋ねる。匠は思い出すようにちょっと考えてから答えた。
「今は持ってませんが、自宅のパソコンにインハイの試合の映像がいくつか保存してあります。後でメールしますよ」
「弟の話をしに来たのに、自分の話ばかりで申し訳ありません。しかも初対面の氷室さんにこんな話をしてしまうなんてご迷惑ではないでしょうか……」
四半世紀生きてきて初めて自分の人生に疑問を持ったのだ。仕方がないと思う。それに利害関係のない私の方が話しやすいのだろう。私は胸に手を当て言った。
「いえ、気にしないで下さい。私は事情を知る第三者ですし、こう見えても口は堅い方なんです、遠慮なく話して下さって結構です」
「……そう仰っていただけると少し気が楽になります……こんな事誰にも話したことがなかったので……」
匠が少しもじもじした。誰もが羨むエリート一家がこんな問題を抱えているなんてなかなか言えないだろう。駆を事実上扶養している私にだからこそ言える話でもある。
「失礼ですが、氷室さんはおいくつですか? その……自分とほぼ同年代に見えるのにとても落ち着いていらっしゃるので……」
「二十五才です。山城さんの学年の一つ上ですね」
私は自分で言うのもなんだが第一印象はとてもいいのだ。ハイブランドにこそ手が届かないが、オタクの割にはファッションにもけっこう気を遣っている。今の私を見て、ほんの一時間前まで楽な部屋着姿でソファにだらしなく寝転がっていただなんて誰も思うまい。
「その……弟とは本当にネットゲーム仲間だったのですか?」
私は思わず声をたてて笑ってしまった。
「私はこう見えて筋金入りのゲームオタクですよ。意外ですか?」
匠は咳払いをする。
「自分の偏見なのでしょうけど、全然そんな風に見えなくて……」
「駆君だってゲームしているようには全然見えないじゃないですか。でも仲間内では一番プレイ時間が長かったし、今は絵に描いたようなゲームオタクは減ってるんじゃないでしょうか」
「そうなのですね……あまり詳しくなくて申し訳ありません……うちではゲーム禁止されていたので、未だに気後れして触る機会がないんです……」
匠は詫びるように頭を軽く下げる。
「本当にゲームしたことがないのですか?」
逆に私が尋ねた。駆は親の目を盗んで友達や従姉の家で遊んでいたと言っていたが。
「小学生の頃ちょっと触らせてもらったことはありますが、コントローラーを上手く使えなかったからそれきりですね。ああ、弟は器用だったからゲームに向いていたのか……」
匠は合点したようだった。
「ご存じの通り弟は本当に手先が器用なんですが、更にスポーツは何をやらせても上手だったな。運動神経抜群なんです。剣道をずっと続けていたら自分よりもずっと強くなっていただろうに、中学前に辞めてしまって本当に残念でした。自分はあいつの運動神経が心底羨ましかったですよ……」
そう言いながら遠い目をする。
「親父も本当は自分よりも弟に剣道を続けてもらいたかったようです。素直にそういえば良いのに、辞めたことでいつまでもネチネチ小言を垂れるものだから弟もうんざりだったでしょうね」
「駆君はどんなに頑張っても褒められたことがなかったとこぼしていました……」
「……親父にとって弟はコントロール不能で不快な存在だったからじゃないかと推測しています。弟はあれこれ叱られてべそをかく割にはけっこう頑固で、自分でこうと決めたら譲らない性格でしたから。自分のように親の顔色を窺ったりするタイプじゃなかった。剣道ではなくテニスを選んでからは結果を出そうと一生懸命努力していることは伝わってきました。その甲斐あって高三の時インターハイの全国大会に出場して、それだけでもの凄いことなのに、親父は優勝できなかったのだから褒める必要はないとかほざいていたんです……。さすがに自分も親父の事ガキかよって思いました」
匠はその時の事を思い出したのか、ワインをあおるように飲む。
「何せ弟を負かした相手はその年の優勝者で、その後プロ転向してるんですよ。自分は現地に応援に行っていたから分かりますが、負けたといってもとても善戦していたっていうのに……」
匠は駆の対戦相手の名を挙げたがスポーツニュースでも時々耳にする名前だったため、私は驚愕した。
「駆君って実は凄いんですね!」
匠があははと笑った。
「普段大人しいから全然そんな風に見えませんよね。でも試合になると人が変わったように強気になるんですよ。あの気迫、自分には絶対にかないません」
強気な駆を見てみたい、私はそう思った。
「あの……駆君がテニスしている動画とかお持ちじゃないですか?」
私はおずおずと尋ねる。匠は思い出すようにちょっと考えてから答えた。
「今は持ってませんが、自宅のパソコンにインハイの試合の映像がいくつか保存してあります。後でメールしますよ」
この時メインディッシュの魚料理が運ばれてくる。スズキのポワレ オレンジソースだ。魚がとても新鮮だし、ソースもオレンジの酸味と甘味が絶妙で美味しい。私達は黙々と食事に集中する。それからショコラのプティフールとフランボワーズのソルベの盛り合わせにコーヒーが来てコースの締めくくりを迎えた。昼からこんなに食べることは滅多にないため、すっかり満腹である。
満足そうにコーヒーを飲んでいる私をじっと見つめながら匠が突然尋ねてくる。
「氷室さん、失礼ですが彼女でもない貴女が弟にどうしてそんなに優しくできるのですか?」」
唐突な質問に私はコーヒーカップをソーサーに置きどう返答しようか考え込む。それからバクバクし始めた胸を鎮めるように手で押えながら、言葉を選びつつ必死に私の思いを口にする。
「実を言うと私は……私は両親を交通事故で突然亡くしました……。その日まで両親は私の事を精一杯愛しんでくれたと思っています。一方駆君はご両親がご健在にもかかわらず、自分の過失でお父さんから突き放されとても可哀そうに思ったんです……部屋が空いている私なら困っている駆君を受け入れることができる……ただそれだけでした……」
意図せず涙がにじんできた。私を見つめ続けていた匠の形の良い眉がひそめられる。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です……氷室さんを困らせるつもりは全然なかったのです……」
本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「いいんです、山城さんからすれば当然の疑問ですよね……」
私はショルダーバッグからハンカチを取り出すと涙をそっと拭った。
「お願いです、ご両親は無理でしょうけどせめて山城さんは駆君と交流してあげて下さい……愛する家族が死んでしまったら、どんなに後悔してももう絶対に元には戻らないのです……」
匠は私の言葉を真剣に受け止めてくれたようだった。うなだれたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「……職業柄氷室さんのような方にお会いする機会があります……その都度同じような事をお聞きしてきました……なのに、今まで本当の意味で我が事として受け止めたことはありませんでした……確かにそうですよね……いつ何時家族がいなくなるかなんて分からないのに、自分にはその覚悟がなかった……バカだな……」
匠が白い清潔なテーブルクロスの上に置いた手をぎゅっと握りしめた。私も目を落としたまま続ける。
「……両親が死んだ時は……今日みたいに天気の良い二月の土曜日で、私はたまたま休日出勤で仕事に出かけていたんです……一方仕事が休みだった両親は二人で近所にウォーキングに出かけていたんですが、スマホに気を取られてよそ見運転になった車がいきなり歩道に突っ込んできたため避けることもできずはねられました……」
私は駆にすら言ったことのない両親の死の顛末を匠に語った。匠が現職の警察官だからというのもあったのかもしれない。
「……ああ……この近くでの……その交通事故の事は存じ上げています……まさか氷室さんのご両親の事だったとは……」
匠が呻いた。運転手がスマホに気を取られてよそ見をした瞬間の事故だった。相当速度が出ていた車はコントロールを失い歩道に突っ込み両親を次々にはねた後、民家のブロック塀に激突しボンネットが完全に潰れてしまったのだ。そのため加害者自身右足の機能を失っている。加害者は裁判で過失運転致死傷罪で実刑判決を受け、今は交通刑務所に収監されていた。
「あの事故の事ご存じでしたか……事故や自然災害っていつ自分の身に降りかかるかなんて全く分からないですよね……私が言いたいのはその時に備えてご家族を大切にしてくださいって事なんです……」
私はそう言って顔を上げた。
「……そのお言葉胸に刻みます……」
匠は自分の胸辺りに右手を当てると、私の方をしっかりと見据えてきた。真剣な表情だった。この時、ああ、この青年が警察官になることを選んだのは、単に父親が望んだからだけではなかったのだろうなと感じたのである。
「弟には今晩にでも電話してみます。LIMEだけで済ませていたなんて本当に自分は酷いヤツだったな……」
匠は悔やむように唇をかむ。
「よろしくお願いします。そして……彼女さんとうまく行きますように。今日は本当に御馳走さまでした」
私はぺこりとお辞儀をすると一生懸命微笑んでみせた。匠も照れくさそうに笑ったのだった。
匠はマンションの下まで私を送ってくれた。別れ際にLIMEのIDやメールアドレスを交換し、今後も機会があれば気軽に交流しようと約束する。
満足そうにコーヒーを飲んでいる私をじっと見つめながら匠が突然尋ねてくる。
「氷室さん、失礼ですが彼女でもない貴女が弟にどうしてそんなに優しくできるのですか?」」
唐突な質問に私はコーヒーカップをソーサーに置きどう返答しようか考え込む。それからバクバクし始めた胸を鎮めるように手で押えながら、言葉を選びつつ必死に私の思いを口にする。
「実を言うと私は……私は両親を交通事故で突然亡くしました……。その日まで両親は私の事を精一杯愛しんでくれたと思っています。一方駆君はご両親がご健在にもかかわらず、自分の過失でお父さんから突き放されとても可哀そうに思ったんです……部屋が空いている私なら困っている駆君を受け入れることができる……ただそれだけでした……」
意図せず涙がにじんできた。私を見つめ続けていた匠の形の良い眉がひそめられる。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です……氷室さんを困らせるつもりは全然なかったのです……」
本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「いいんです、山城さんからすれば当然の疑問ですよね……」
私はショルダーバッグからハンカチを取り出すと涙をそっと拭った。
「お願いです、ご両親は無理でしょうけどせめて山城さんは駆君と交流してあげて下さい……愛する家族が死んでしまったら、どんなに後悔してももう絶対に元には戻らないのです……」
匠は私の言葉を真剣に受け止めてくれたようだった。うなだれたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「……職業柄氷室さんのような方にお会いする機会があります……その都度同じような事をお聞きしてきました……なのに、今まで本当の意味で我が事として受け止めたことはありませんでした……確かにそうですよね……いつ何時家族がいなくなるかなんて分からないのに、自分にはその覚悟がなかった……バカだな……」
匠が白い清潔なテーブルクロスの上に置いた手をぎゅっと握りしめた。私も目を落としたまま続ける。
「……両親が死んだ時は……今日みたいに天気の良い二月の土曜日で、私はたまたま休日出勤で仕事に出かけていたんです……一方仕事が休みだった両親は二人で近所にウォーキングに出かけていたんですが、スマホに気を取られてよそ見運転になった車がいきなり歩道に突っ込んできたため避けることもできずはねられました……」
私は駆にすら言ったことのない両親の死の顛末を匠に語った。匠が現職の警察官だからというのもあったのかもしれない。
「……ああ……この近くでの……その交通事故の事は存じ上げています……まさか氷室さんのご両親の事だったとは……」
匠が呻いた。運転手がスマホに気を取られてよそ見をした瞬間の事故だった。相当速度が出ていた車はコントロールを失い歩道に突っ込み両親を次々にはねた後、民家のブロック塀に激突しボンネットが完全に潰れてしまったのだ。そのため加害者自身右足の機能を失っている。加害者は裁判で過失運転致死傷罪で実刑判決を受け、今は交通刑務所に収監されていた。
「あの事故の事ご存じでしたか……事故や自然災害っていつ自分の身に降りかかるかなんて全く分からないですよね……私が言いたいのはその時に備えてご家族を大切にしてくださいって事なんです……」
私はそう言って顔を上げた。
「……そのお言葉胸に刻みます……」
匠は自分の胸辺りに右手を当てると、私の方をしっかりと見据えてきた。真剣な表情だった。この時、ああ、この青年が警察官になることを選んだのは、単に父親が望んだからだけではなかったのだろうなと感じたのである。
「弟には今晩にでも電話してみます。LIMEだけで済ませていたなんて本当に自分は酷いヤツだったな……」
匠は悔やむように唇をかむ。
「よろしくお願いします。そして……彼女さんとうまく行きますように。今日は本当に御馳走さまでした」
私はぺこりとお辞儀をすると一生懸命微笑んでみせた。匠も照れくさそうに笑ったのだった。
匠はマンションの下まで私を送ってくれた。別れ際にLIMEのIDやメールアドレスを交換し、今後も機会があれば気軽に交流しようと約束する。