第2章 逃げるが勝ち-3
ー/ー 春休みの間駆はずっとキッズシッターのアルバイトに奔走していた。力があるから双子の男児が一斉にタックルしてきても十分に耐えられるし、勉強を教えてくれるだけではなくゲームの相手もしてくれる頼れるお兄ちゃんとして双子達が駆の事を慕ってくれたし、どんな時も礼儀正しく物腰柔らかな駆の事を双子の両親も大層気に入ってくれたためである。
三月末など山梨の富士五湖湖畔でのグランピングに声がかかり、泊りがけでシッターをしていたほどだった。野外でのバーベキューや様々なアクティビティに付き合わされたらしく、帰宅した当日はさすがに魂が抜けたような表情をしていた。
しかし頑張った甲斐はあったようでとても評価され、当初の予定よりもバイト料を弾んでもらい、さらには新学期以降のシッターも出来る範囲でお願いしたいと頼まれたことで今年度後期の学費の目途も立った。だが無事四年に進級出来たら今度は卒論があるし、そして何より就職もしくは大学院進学について考えなければならないのだ。
駆は当初大学院進学を目指していたために就職活動は一切していなかった。しかしもし就職するなら三年のうちにインターンシップなどを考えなければならないし、大学院に進学するなら院試の試験勉強が必要になる。夏休みに入る前にはどちらかを選択しなければいけないということをネットからの情報で知って、私は全然のんびりしていられないことに気が付いた。そこで家族(ではないけど)会議を開くことにする。何せマネージャーの名乗りを上げてしまったのだから。
大学の新学期が始まる直前、四月上旬土曜日の朝、私はコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れそれぞれ愛用のマグカップに注いでから、ダイニングテーブルの一方に駆を座らせると、もったいぶって咳払いをしてから進路の話をし始める。
「あのね、私もこの一か月色々と調べてみたんだけど、今は就活のためにインターンシップするなら三年の夏休みが一番多いんだって?」
気分はすっかり就活生の母親だ。ちなみにうちの両親は私任せで、いっさい就職に口出すことはなかった。結果独立系中堅IT企業に就職し、時折転職という文字が頭をよぎりながらも残業に追われ忙しい日々を送っている。私だってもちろん本当は駆の進路に口出ししたかったわけではない。だが気が付いてしまったのだ。駆が大学卒業後就職するなら後二年で自立できるだろうが、修士課程への進学を希望するなら計四年が必要だということに。四年後というと私も晴れてアラサーだ。その事実に私は少しおののいてしまったのである。
いつも怖いと言われる目に力を込め駆を見つめた。駆はそれに応えるかのように私を真っ直ぐに見据え答えた。
「その通りです」
「逆算するとそろそろ進路を決めないといけないことに私は気が付いてしまったんだ。先月会ったばかりの頃、君は大学院に行こうと考えていたって言ってたよね。その気持ちは今も変わらない?」
駆は少し俯くと膝の上に置いた両手をもぞもぞと動かす。そして思い切ったように両拳を握りしめ、再び私の顔を見つめてきた。
「アルファさん、本題に入る前に長くなるけどオレの話を聞いてもらえますか?」
私は駆を促すように頷いた。
駆は高校時代、東京にある国立の理工系大学を志望していたのだという。だが元々文系科目が得意ではなかったことに加えて、本人が一切予想していなかったのにテニスでインターハイの全国大会に進んでしまったことなどから学習が大幅に遅れ、センター試験対策が十分とは言えなかった。結果本命は不合格となり、今在学中のK大学に進学することになったのだそうだ。
「父さんは浪人してもいいと言ってくれていた。だけどK大は母さんの母校だったし、何よりオレは浪人して再受験しても本命に落ちたらどうしようって怖気づいてしまって、K大への進学を決めてしまった……」
「決めてしまった、というと?」
私がその言葉のニュアンスが気になって尋ねると、駆は苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと校風が合わなかった……その……決して大学が悪いんじゃなくて、スタートで躓いてしまったからなんだけど……」
駆は当初から本命だった大学の大学院に進みたいと考え勉学に専念するために、強く勧誘されていた体育会系のテニス部には所属しないことに決めていた。代わりに大学公認テニスサークルに入部したのだが、入学式で出来たばかりの友人に誘われるがままに入ったサークルは駆が望んでいた――体育会系ほどではないけど真剣にテニスに取り組むサークルとは全然違っていた。経験者のほとんどいない、いわゆる出会いや青春を謳歌する者たちのためのゆるいサークルだったのである。
「経験者のオレは初心者の女の子達のコーチばかりさせられて、自分の鍛錬どころじゃなかった。辞めたいとはずっと思ってたんだけど、誘ってくれた友人に悪いと思って全然辞められなかったんだ」
そう言って深いため息をつく。女子のコーチばかりさせられていたのは上手だからという理由だけじゃないよなあと私は内心思ったが、それは敢えて口に出さず
「そう……それは辛かったね……」
とだけ言う。駆は情けなさそうな笑みを浮かべた。
「結局義理で三年弱続けてしまったけど、今思えばさっさと辞めるべきだった……最後揉めちゃったしね……」
「揉めちゃったって? 君が揉めるって想像できないんだけど……」
一か月同居して見て分かったことだが、駆は揉めたり意見の対立が苦手なのだ。また言い出しにくいことも黙ったままだったこともあったし、頼まれると断れない性分のようだった。先日一緒に買い出しに出かけたところ、街頭アンケートに協力してくれと頼まれてしばらく時間を費やす羽目に陥っていた。また信用できる団体が複数人で募金の呼びかけをしていたところ、財布に入っていたありったけの小銭を次々に募金箱に投入していた。いつか人に騙されてしまうのではなかろうかと心配になったくらいだ。
「……無理やりお酒を飲まされたんだ……より正確に言うと飲んでいたカクテルを、ウォッカが大量に混ぜられたものにすり替えられていた……」
その時の事を思い出したらしい駆が物凄く陰鬱そうな表情となった。
父親がキャリア警察官の駆は未成年の時は絶対にアルコールを口にしなかった。二十歳を迎えてからは多少付き合いで飲むようになったが、羽目を外すのが怖くて量を飲むのは控えていたらしい。駆の事を以前から付き合いの悪い奴だと感じていた同期達が去年のクリスマスパーティの時、駆が中座した隙を見計らって飲んでいたカクテルをすり替えたらしい。
「許容量を超えていたらしくって、オレは酔いつぶれて前後不覚に陥った……急性アルコール中毒にならなくて良かったけど……」
「ひどい……」
私は心底腹が立った。これは酒の強制、いわゆるアルハラだ。駆は目を伏せ続けた。
「ぐてんぐてんになった様子を動画に撮られてて、翌日サークルのSNSに面白おかしくアップされていた。もちろん抗議したんだけど、その時部長から指摘されたんだ。オレはサークルで誰よりもテニスが得意だから皆を見下している。だったら最初から体育会系に行けばよかった。無難な人付き合いはするけど心を一切開いてくれないから、皆はオレとの距離を詰めるためにやったことだって……」
私は絶句する。駆は唇をかんだ。
「確かにオレはサークルで全然心を開いてなかった。だって少女漫画とかゲーム好きとか口を滑らせたら絶対にバカにされると思って全然言えなかったから……」
オタクがバカにされやすいのは私も経験済みだ。私は最初に趣味を明かした上でそういう連中を牽制してきたけど、駆は一番最初に本当の自分を晒すことができずにその時までずるずるときてしまったのだろう。
「散々揉めた挙句アップされた動画は何とか削除させたけど、もう我慢できなくてサークルは辞めてしまったんだ……せめて幽霊部員でもいいから残ってくれって引き止められたけど、どうせ新入生のコーチさせられるだけって分かってたから未練はなかった……あの頃はもう誰も信頼できなかったんだ……」
去年の十二月の時の話だから、例のレイドバトルに参加して寝落ちし試験に遅刻した一月ほど前の話か。あの頃のFQⅢでのランちゃんは妙にハイテンションで、以前とは様子が明らかに違っていたのは記憶していた。もしかしたらあれは退部と因果関係があったのかもしれない。
「……事情は大体分かったよ……」
私は重々しく頷いた。駆はずっと泣きそうな顔をしていたが、ようやくほっとした表情になった。
「オレ、大学に入学してからずっと本当の自分を晒せずにいた。自分のオタクっぽい趣味を恥ずかしいと思い込んでいて、当たり障りのない人付き合いしかしてなくて……。高校までの友達は皆オレの性格や家の事情を知ってたから上手くいっていたんだけど……」
「三年間辛かったね」
私がそう言うと駆は首を振った。
「ううん、自業自得だと思ってる。心を開いていないと言われた時ドキッとした。サークルではつまらないと思いながら表面上はいつも愛想よく装って、頼まれたことは快く引き受けているように振舞っていたけど、実は全部見透かされていたんだなって。見栄で三年近く無駄にしてしまった……さらに留年しちゃったからプラス一年だね……つくづくオレってバカだ……」
駆が目に涙をためながら殊更に自分を責めるので、私は必死に自分の思いを伝えようと口を開いた。
「君は親からずっと自分の趣味を否定されていたんだから仕方ないよ。自分の好きなものを端から否定されるのは本当に辛いことだよね……」
私はここまで言ってから深呼吸をする。
「……私ね、思うんだけど、イヤだと思ったらすぐ逃げていいんだよ。我慢してイヤなことにずっと付き合い続ける必要はない。ランちゃんは合わないサークルを辞められたし、君を認めてくれない親からも逃げられた。時間こそかかってしまったけど君の選択は間違ってないと思う」
「……………………」
私の言葉を聞いた駆は私の方を向いたままぱちぱちと何度か瞬かせた。
「……間違ってない? オレ、父さんから嫌なことから絶対に逃げるな! っていつも言われ続けてきたよ……。オレはすぐ逃避する傾向があるんだって……。だから今回『勘当』されてほっとした事にずっと罪の意識を感じていたんだけど……」
それを訊いた私は少し考える。駆の父親の言う逃避癖とは剣道や受験の事を指しているのだろうか? しかし幼い頃始めたスポーツを一生続けなければならない理由などないし、受験にしても『今はびっくりするほど現役志向が強いんだな』と、浪人した経験のある私の父親が言っているのを聞いたことがある。昔ならともかく、今はたとえ滑り止めであっても合格した大学に進学するのが一般化している。駆の選択は咎められる筋合いはないと思うのだが。駆の父親は、自分の理想とするレールから息子が外れていく事を極端に嫌う性格なのかな、とふと感じた。
「うん、もちろん人生には逃げちゃいけない局面だってあるけど……理不尽なことからは逃げていい……というか逃げなくちゃいけないと私は思うんだ……」
私は言葉を選びつつ話し続けた。
「……君の留年なんて長い人生全体からすればちょっとした躓きみたいなものでしょ。そんな大それた失敗じゃないよ。そりゃ確かにその一年間でかかる学費や生活費は大きいけど、そんなものは出世払いで後から回収すればいいだけの話じゃない? ……でも『勘当だ!』なんて重たい言葉を迂闊に口に出すようなお父さんから逃げられてほっとした君は全くもって正しいよ!」
私は力を込めて駆を肯定した。今ここではそうしなければいけないような焦燥感にすら駆られていたのだ。
「おまけに君は留年にちゃんと向き合って自分で学費を稼いでいる訳だし、十分偉いよ!」
「でもそのせいでアルファさんには多大な迷惑が掛かってるし……」
駆は眉間にしわを寄せ肩を落とす。
「ちょっと待った!」
私は駆に向かって両手を突き出した。
「それはもう二度と言わないで! 私はね、君と同居してから毎日が楽しいんだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないから!」
これは掛け値なしに本当の事だ。両親が交通事故で亡くなってから私はずっと惰性で生きてきた。就職していなかったら、ゲームだけしている引きこもりになっていたかもしれない。だけど、駆が来てから生活にいい意味の緊張感が生まれただけではなく、他愛のない挨拶や会話を交わす幸せを再び味わうことができたのだ。また、駆の筋トレをソファに寝そべりながら眺めているだけでも面白かった。「アルファさんもやりましょうよ」といつも誘われるのだが、その都度ゲームに筋肉はいらないと言って断ってしまう。そのお約束のやり取りすら楽しかった。駆がグランピングのアルバイトで出かけた時はいなくて素直に寂しいと思ったし、わずか一か月で駆は私の生活から欠かすことのできない存在になっていたのだ。
「……本当……ですか?」
駆が不安そうに上目づかいで見つめてくる。私はうんうんと頷いた。
「こんなことでウソ言っても仕方ないじゃん。迷惑だったらちゃんとそう言ってるよ。むしろ、君の方が私との生活でストレス感じてるんじゃないかって心配だ」
「オレは……ストレスなんて一切感じてないし! だってここがオレの本当のうちだって感じられるから……無理をせず等身大のオレでいられるし、生きてて本当に良かったなって思えるんだ……」
その後、駆はぽつりぽつりと心の内を語ってくれた。
「……実家にいた頃はゲームや漫画を禁止されているから、家にいてもちっとも楽しくなかった……特に兄さんが上京した後は基本母さんと二人っきりで生活していたけど、会話が全然弾まないから空気が重かったよ……だからと言って単身赴任で不在がちな父さんがまれに在宅している時は、些細な事で叱られるんじゃないかっていつもびくびくしてて……気が休まらなかった……」
私は黙ったまま頷く。
「……中学に進学した時剣道じゃなくてテニスを選んだことでずっと父さんから小言を頂戴し続けた……後から兄さんから聞いた話だけど、父さんはオレに期待していたんだって……だから止めた事でものすごく失望してしまったらしい……だったらせめてテニスで頑張ろうって決意したんだけど、どれだけ頑張っても一切認めてもらえなかった……」
予想外だったとはいえインターハイの全国大会に出場しても認めてくれない父親なんて、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ! 私は会ったこともない赤の他人に対して内心毒づく。私の心中など知る由もない駆は続けた。
「……本命の大学にも合格できなかったし、オレはずっとずっと父さんを失望させっぱなしだった……しっかり父さんの期待に応えられる兄さんと違って、オレには生きてる価値なんてないのかなって思う事もしょっちゅうだった……なのに、アルファさんはちょっとしたことでオレの事を褒めてくれる。高いところの電球を交換しただけで、凄い! 偉い!って」
いや、正直そんなことで感動されるとは思わなかった。自分が交換するなら巨大な脚立を物置から取り出してきて、脚立の上でよろよろしながら不安定な作業を行った後で、もう一度脚立を物置に戻さなければならない面倒な作業を、駆ならちょっと背伸びしてカバーを取り外した上で手早く電球を外し、新しい電球をきゅっきゅっとはめカバーを戻して、はい、作業完了なのだから、偉いに決まっている。
駆の事を世間的には十分ハイスペックなのに不思議なほど自己肯定感の低い青年だとは思っていたけど、親から全然認められずにずっと生きてきたのならこうなるのも当然なのだろう。親というものは子を無条件に認めてくれるこの世で一番の存在なのだと無邪気にずっと信じてきたけど、必ずしもそんなことはないのだと現実を突きつけられ、私は泣きそうになった。
「そんなことで喜んでもらえるなら、お姉さん、いくらでも褒めちゃうぞ」
私は心の動揺を押し隠すようになるべく明るく振舞った。両手の拳を握りしめ力説する。
「ランちゃんは料理作るのが上手で偉い! ハードな筋トレ毎日続けて偉い! アルバイト毎日頑張って偉い!」
さすがにちょっとわざとらしかったかな? 駆の様子を伺おうと駆の顔を覗き込んだところ、駆は両手で顔を覆いさめざめと泣いていたのだ。駆が涙もろいことは既に知っていたものの、今回は泣かせるつもりは全くなかった。
「……ごめん……私、ちょっとふざけすぎてしまった……」
しょんぼりしながら謝ると、駆は顔を隠したまま首を振った。
「違うんだ、嬉しくて涙が溢れてきた……」
私はキッチンカウンターの上に載っていたボックスティッシュを黙ったまま駆の方にそっと差し出したのだった。
すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら駆が泣き止むのを待っている時、私は肝心の話ができていなかったことを思い出した。駆の進路の話をしようと思っていたのに、思い切り脱線している。いや、そうではない、これは脱線ではなく、駆の背景を知り、その進路を考える上で必要な話だった。
「……アルファさん」
ようやく落ち着いた駆がまだ鼻声のまま話しかけてきた。
「オレの話をちゃんと聞いてくれてありがとうございました。今まで自分の中できちんと消化出来ていなかったことを、こうやって話すことで初めて整理できた気がする」
「それは良かった……」
とだけ言って、私は駆が話を続けるのを待った。駆はつかえつかえではあるが、丁寧な言葉で自分の進路について希望を語ってくれた。
「……オレは今でも本命の大学院に行きたいと思ってます……それは決して大学受験のリターンマッチとかではなく……オレの学びたい分野を専門とする高名な教授がいるからで……」
「じゃあ、君の学びたいことを教えてくれる?」
私は促した。すると駆は今大学で学んでいるのが電気工学で、送電ロスを研究したいのだと教えてくれた。送電ロスとは簡単に言うと「発電所で発電された電気が会社や自宅に供給されるまでの間に失われる電力量」のことだそうだ。このロスを減らすことで発電された電気が無駄なく使用できるから、結果省エネに繋がるということらしい。
「なるほど……君の希望は分かったよ……。だけど、金銭的な問題はどうクリアするの?」
「その件ですが……大学院は親の収入ではなく本人の収入で奨学金の判定を行うらしいので、無利子の第一種奨学金を借りようかと思ってます。足りなければ有利子の第二種奨学金も追加して。その上でアルバイトすれば一人で生活できるはず……」
駆の話をまとめると、大学では奨学金は親の収入で判定されるし、そもそも留年したら借りることはできないが、大学院では自分自身の収入で判定されるから間違いなく借りられるはずだという訳だ。志望している大学院は国立だから入学金・授業料を合わせても今の大学の院に進んだ場合必要な額の半分以下で済むとのこと。またそこの院試に合格できなかった場合は潔く諦め就職するとのことだった。
「……そうすると院に行こうと行くまいと二年後にはここを出ていくつもりでいるということ?」
「そのつもりです……いつまでもアルファさんに頼る訳にはいきませんから……」
しっかり考えているようで何より、のはずなのだが、半ば覚悟していた私は拍子抜けすると同時に、実家が太くて本来はしなくてもいい苦労を背負ってしまう駆の将来が心配になった。
「え、でも経済的に厳しくない? 院を卒業してもしばらく奨学金返済をすることになるんだよ」
「もちろん厳しいですけど……そのくらいは平気です……」
駆はほんの少し切ない顔をしながらも気丈に微笑んでみせた。
「大学の同じ学科の友達で、奨学金をもらいながら東京にある出身県の寮で生活しているヤツがいるんですけど、中高生の弟妹もいるのに実家の事業が傾いちゃったらしくって親が仕送りができないからってバイトしまくってて。オレはそいつの事をよく頑張ってて偉いなとはずっと思ってたけど、本当の意味でその大変さが分かっていなかった……。この一か月時間がある時はずっと考えていたんです。オレって本当に甘ちゃんだったんだなって……」
「生まれ育った環境はそれこそガチャだものね……」
私は切ない気持ちになりながらため息をついた。
「子どもは親や環境を選べないもの……」
「……オレは留年するまで自分の環境に疑問を抱いたことはありませんでした。幼い頃から習い事をいくつも通わされ同級生より遊ぶ時間が少なくて、うざいなあくらいにしか思っていなくて……それがどれだけ恵まれていたのかってオレは全然気付いていなかったんです……。小学生の時から塾も当たり前のように行ってたし、いい顔されなかったテニスだって結局高三まで思う存分やらせてもらったし、高校の時アメリカでショートホームステイもさせてもらった。なのにそうやって身に付いた学力は全て自分の実力だと思ってました。でもそうじゃない事が今なら分かります。オレは生まれで下駄を履かされてだけだったんだって……」
そう言う駆の表情は苦しそうだった。
「……そうかもしれないけど……」
私は言い淀んだ。駆の言いたいことは良く分かる。だからといってわざわざ修行僧のように積極的に苦労をしょい込む必要もない気はするのだけど。
駆は机の上で右手の拳を握りしめた。
「もちろんオレだって大学入ってから勉強は相当頑張ったつもりです……それは自負してます……。今回単位を落とすまではそれなりにいい成績を取ってきたんです……苦学生の友達がいたのなら、どうして前もって自分の恵まれた環境に気付き感謝して真摯に試験に取り組めなかったのかと、後悔ばかりが頭の中をぐるぐるしてしまって……。確かに就職後の奨学金返済は大変だと聞いていますが、大変なのは別にオレだけじゃないですから……」
駆が一生懸命反省し、しっかり考えた上で覚悟したのだということは伝わってきた。なら、今の私に出来る事はそんな駆を励まし支える事ぐらいだろうか。私は頷いた。
「君の覚悟は理解したよ。私はマネージャーとしてそんな君を今後も支えていきたいんだけど、構わないかな?」
駆も頷いた。
「もちろんです! オレ、アルファさんがこうやってオレの事をものすごく気に掛けてくれるのが物凄く嬉しいんです」
当初は大切な仲間に手を差し伸べたいという純粋な気持ちからだったが、今はそれだけではない気がする。
「私にとってランちゃんは大切な仲間で……共に生活している家族のような大事な存在だから……」
私はゆっくりと駆に語りかけた。
「だから本当に遠慮なく頼っていいんだからね」
「ありがとうございます……」
駆は頭を丁寧に下げた後おずおずと微笑んでから、こんなことを打ち明けてくる。
「……今まで同級生の誰にも留年の事話せなかったけれど、先日さっき話した苦学生の友達――内海 陽大って言うんですけど――ようやく連絡取ったんです。そしたらそいつは真面目に話を聞いてくれた上で、頑張れよ、応援しているしいつだって相談にも乗るからって言ってくれて……嬉しかった……」
「いい友達だね」
「はい、本当にそう思います」
駆はにっこりした。私は、孤独の影を感じていた駆にも実は信頼できる友達がいると知ってほっとする。
「今度うちにその内海君連れておいでよ。すき焼きパーティでもしよう!」
「すき焼き!?」
駆が驚いたような声をあげる。私は首を傾げた。
「あれ、しゃぶしゃぶの方が良かった?」
「いや、そうじゃなくて、パーティをする理由とは?」
駆が困惑の表情を浮かべた。私はふふっと笑って腕まくりする仕草をしてみせた。
「だって、ランちゃんの大事な友達でしょ。ましてや苦学生ならたまにはいいお肉を食べさせてあげたいじゃん。お姉さん、大盤振る舞いしちゃうぞー!」
駆は納得したように頷いた。
「分かった。内海君はバイトでいつも忙しく飛び回っているけど、声かけてみるね。アルファさんみたいな綺麗なお姉さんが誘ってくれたら大喜びすると思う」
いつの間にか言葉遣いがいつも通りに戻っている。緊張がほぐれたのだろう。
「綺麗なお姉さんってランちゃんお世辞上手だね」
私が突っ込むと、駆は困った顔をした。
「別にお世辞じゃないよ……だってアルファさん、かっこいいし」
先日と同じように、またかっこいいと言ってくる。
「かっこいいねえ……スケバンもそうだけど、目つきが鋭いからスナイパーっぽいとか、極妻とかは言われるけど」
私はぼやいて、スナイパーライフルを構える振りをした。駆は真面目な顔で私を見つめ、語気を強めた。
「とにかく! アルファさんはかっこいいんだよ! だってオレのヒーローだし!」
「ヒ、ヒーロー……」
私はびっくりした後大笑いした。
「私、ヒロインって柄じゃないもんね!」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
駆が両手を頭にやって身を小さくする。
「いや、いいよ、ヒーローって言われると気分いいから」
私は手を振った。
「そういえば戦隊ものの悪役女幹部顔とも言われてきたから、ヒーローは新鮮だわー」
「みんな、アルファさんに言いたい放題じゃないですか。ひどいな」
駆は我が事のように憤慨しているので、私は肩をすくめた。自分の顔の事は毎日鏡を覗く自分が一番よく知っている。
「仕方ないよ。本当の事だし」
「そんな事ないって!」
駆は頑として言い張った。
「アルファさんはもっと抗議した方がいい! 人の容姿をあれこれいじるとか失礼だよ!」
私は目をぱちくりさせた。いや、確かに駆の言う通りなんだけど、あまりにもいじられすぎたから鈍感になって、直接抗議する気力も消え失せ、せいぜい内心ぷりぷり怒っているだけになっていた。
「うん、ありがとう……本当に君の言う通りだね……」
私は駆の勢いに気圧された。その言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷く。駆が私の代わりに怒ってくれたことが実は嬉しかったのだ。自己肯定感の低い駆ほどではないが、私も自分の容姿にはずっとコンプレックスを感じていた。いわゆる三白眼故に小学生の頃から目つきが悪いとか、怖いとかさんざん言われ続けたし、父に似たためか、小学生の時クラスの誰よりも背が高いことから『でか女』と言われることも度々だった。中学になっていっきに身長の伸びた男子に背を抜かされるようになってほっとしたほどだ。
そんな頃密かに思いを寄せていた男子が「でかい女ってかわいくないよなー」と言っているのをたまたま聞いて以来、恋愛することに臆病になってしまった。私も自分に自信がないという意味では駆と同じだった。駆と違うのはいじられた時平気な振りをして積極的に自虐に走ったりしていたことだ。本当は嫌で嫌で仕方がなかったのに嫌われたくなくてつい同調してしまっていた。自虐は摩擦を避けるための私なりの処世術ではあったけど、もういい加減おさらばしてもいいのかなと、この時初めて思えた。
父からもらった身長と母に似たちょっと鋭い目つき、考えてみればそう悪くはない。駆が言うように、自分がヒーローだと考えたら気分が明るくなった。たった一人のためだけのヒーローだけど。その一人の心に寄り添ってあげられるのなら私の存在も捨てたものではない。ついふふっと笑ってしまった。駆がそんな私に気が付いてにこっと微笑み、椅子から立ち上がった。
「コーヒー淹れるけど、アルファさんも飲む?」
「飲む飲む。そうだ、コーヒー豆は先日お試しで買ってみたゲイシャ使ってみて。棚に入ってるから。高級品らしいよ」
私はキッチンの棚を指さした。
「それと……この前渚がお裾分けしてくれたメイドインスイスのチョコも一緒に入っているからそれも食べよう」
私も立ち上がる。
「いいね。渚さんってアルファさんのお友達だったよね?」
「そう、小学校からの付き合い。いわゆる幼馴染ってヤツだね。今度機会があったら紹介するよ。彼氏持ちだけど」
何を隠そう、その渚は肉食系女子なんだけどね。
私達はわいわい言いながら、コーヒーとチョコの支度をする。進路面談はもう終わり。駆の進学の意志は固かった。私はそんな彼の背中を精一杯支えてあげるだけだ。方針が決まった上に気分爽快。私は久々に晴れ晴れとした気分になったのだった。
三月末など山梨の富士五湖湖畔でのグランピングに声がかかり、泊りがけでシッターをしていたほどだった。野外でのバーベキューや様々なアクティビティに付き合わされたらしく、帰宅した当日はさすがに魂が抜けたような表情をしていた。
しかし頑張った甲斐はあったようでとても評価され、当初の予定よりもバイト料を弾んでもらい、さらには新学期以降のシッターも出来る範囲でお願いしたいと頼まれたことで今年度後期の学費の目途も立った。だが無事四年に進級出来たら今度は卒論があるし、そして何より就職もしくは大学院進学について考えなければならないのだ。
駆は当初大学院進学を目指していたために就職活動は一切していなかった。しかしもし就職するなら三年のうちにインターンシップなどを考えなければならないし、大学院に進学するなら院試の試験勉強が必要になる。夏休みに入る前にはどちらかを選択しなければいけないということをネットからの情報で知って、私は全然のんびりしていられないことに気が付いた。そこで家族(ではないけど)会議を開くことにする。何せマネージャーの名乗りを上げてしまったのだから。
大学の新学期が始まる直前、四月上旬土曜日の朝、私はコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れそれぞれ愛用のマグカップに注いでから、ダイニングテーブルの一方に駆を座らせると、もったいぶって咳払いをしてから進路の話をし始める。
「あのね、私もこの一か月色々と調べてみたんだけど、今は就活のためにインターンシップするなら三年の夏休みが一番多いんだって?」
気分はすっかり就活生の母親だ。ちなみにうちの両親は私任せで、いっさい就職に口出すことはなかった。結果独立系中堅IT企業に就職し、時折転職という文字が頭をよぎりながらも残業に追われ忙しい日々を送っている。私だってもちろん本当は駆の進路に口出ししたかったわけではない。だが気が付いてしまったのだ。駆が大学卒業後就職するなら後二年で自立できるだろうが、修士課程への進学を希望するなら計四年が必要だということに。四年後というと私も晴れてアラサーだ。その事実に私は少しおののいてしまったのである。
いつも怖いと言われる目に力を込め駆を見つめた。駆はそれに応えるかのように私を真っ直ぐに見据え答えた。
「その通りです」
「逆算するとそろそろ進路を決めないといけないことに私は気が付いてしまったんだ。先月会ったばかりの頃、君は大学院に行こうと考えていたって言ってたよね。その気持ちは今も変わらない?」
駆は少し俯くと膝の上に置いた両手をもぞもぞと動かす。そして思い切ったように両拳を握りしめ、再び私の顔を見つめてきた。
「アルファさん、本題に入る前に長くなるけどオレの話を聞いてもらえますか?」
私は駆を促すように頷いた。
駆は高校時代、東京にある国立の理工系大学を志望していたのだという。だが元々文系科目が得意ではなかったことに加えて、本人が一切予想していなかったのにテニスでインターハイの全国大会に進んでしまったことなどから学習が大幅に遅れ、センター試験対策が十分とは言えなかった。結果本命は不合格となり、今在学中のK大学に進学することになったのだそうだ。
「父さんは浪人してもいいと言ってくれていた。だけどK大は母さんの母校だったし、何よりオレは浪人して再受験しても本命に落ちたらどうしようって怖気づいてしまって、K大への進学を決めてしまった……」
「決めてしまった、というと?」
私がその言葉のニュアンスが気になって尋ねると、駆は苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと校風が合わなかった……その……決して大学が悪いんじゃなくて、スタートで躓いてしまったからなんだけど……」
駆は当初から本命だった大学の大学院に進みたいと考え勉学に専念するために、強く勧誘されていた体育会系のテニス部には所属しないことに決めていた。代わりに大学公認テニスサークルに入部したのだが、入学式で出来たばかりの友人に誘われるがままに入ったサークルは駆が望んでいた――体育会系ほどではないけど真剣にテニスに取り組むサークルとは全然違っていた。経験者のほとんどいない、いわゆる出会いや青春を謳歌する者たちのためのゆるいサークルだったのである。
「経験者のオレは初心者の女の子達のコーチばかりさせられて、自分の鍛錬どころじゃなかった。辞めたいとはずっと思ってたんだけど、誘ってくれた友人に悪いと思って全然辞められなかったんだ」
そう言って深いため息をつく。女子のコーチばかりさせられていたのは上手だからという理由だけじゃないよなあと私は内心思ったが、それは敢えて口に出さず
「そう……それは辛かったね……」
とだけ言う。駆は情けなさそうな笑みを浮かべた。
「結局義理で三年弱続けてしまったけど、今思えばさっさと辞めるべきだった……最後揉めちゃったしね……」
「揉めちゃったって? 君が揉めるって想像できないんだけど……」
一か月同居して見て分かったことだが、駆は揉めたり意見の対立が苦手なのだ。また言い出しにくいことも黙ったままだったこともあったし、頼まれると断れない性分のようだった。先日一緒に買い出しに出かけたところ、街頭アンケートに協力してくれと頼まれてしばらく時間を費やす羽目に陥っていた。また信用できる団体が複数人で募金の呼びかけをしていたところ、財布に入っていたありったけの小銭を次々に募金箱に投入していた。いつか人に騙されてしまうのではなかろうかと心配になったくらいだ。
「……無理やりお酒を飲まされたんだ……より正確に言うと飲んでいたカクテルを、ウォッカが大量に混ぜられたものにすり替えられていた……」
その時の事を思い出したらしい駆が物凄く陰鬱そうな表情となった。
父親がキャリア警察官の駆は未成年の時は絶対にアルコールを口にしなかった。二十歳を迎えてからは多少付き合いで飲むようになったが、羽目を外すのが怖くて量を飲むのは控えていたらしい。駆の事を以前から付き合いの悪い奴だと感じていた同期達が去年のクリスマスパーティの時、駆が中座した隙を見計らって飲んでいたカクテルをすり替えたらしい。
「許容量を超えていたらしくって、オレは酔いつぶれて前後不覚に陥った……急性アルコール中毒にならなくて良かったけど……」
「ひどい……」
私は心底腹が立った。これは酒の強制、いわゆるアルハラだ。駆は目を伏せ続けた。
「ぐてんぐてんになった様子を動画に撮られてて、翌日サークルのSNSに面白おかしくアップされていた。もちろん抗議したんだけど、その時部長から指摘されたんだ。オレはサークルで誰よりもテニスが得意だから皆を見下している。だったら最初から体育会系に行けばよかった。無難な人付き合いはするけど心を一切開いてくれないから、皆はオレとの距離を詰めるためにやったことだって……」
私は絶句する。駆は唇をかんだ。
「確かにオレはサークルで全然心を開いてなかった。だって少女漫画とかゲーム好きとか口を滑らせたら絶対にバカにされると思って全然言えなかったから……」
オタクがバカにされやすいのは私も経験済みだ。私は最初に趣味を明かした上でそういう連中を牽制してきたけど、駆は一番最初に本当の自分を晒すことができずにその時までずるずるときてしまったのだろう。
「散々揉めた挙句アップされた動画は何とか削除させたけど、もう我慢できなくてサークルは辞めてしまったんだ……せめて幽霊部員でもいいから残ってくれって引き止められたけど、どうせ新入生のコーチさせられるだけって分かってたから未練はなかった……あの頃はもう誰も信頼できなかったんだ……」
去年の十二月の時の話だから、例のレイドバトルに参加して寝落ちし試験に遅刻した一月ほど前の話か。あの頃のFQⅢでのランちゃんは妙にハイテンションで、以前とは様子が明らかに違っていたのは記憶していた。もしかしたらあれは退部と因果関係があったのかもしれない。
「……事情は大体分かったよ……」
私は重々しく頷いた。駆はずっと泣きそうな顔をしていたが、ようやくほっとした表情になった。
「オレ、大学に入学してからずっと本当の自分を晒せずにいた。自分のオタクっぽい趣味を恥ずかしいと思い込んでいて、当たり障りのない人付き合いしかしてなくて……。高校までの友達は皆オレの性格や家の事情を知ってたから上手くいっていたんだけど……」
「三年間辛かったね」
私がそう言うと駆は首を振った。
「ううん、自業自得だと思ってる。心を開いていないと言われた時ドキッとした。サークルではつまらないと思いながら表面上はいつも愛想よく装って、頼まれたことは快く引き受けているように振舞っていたけど、実は全部見透かされていたんだなって。見栄で三年近く無駄にしてしまった……さらに留年しちゃったからプラス一年だね……つくづくオレってバカだ……」
駆が目に涙をためながら殊更に自分を責めるので、私は必死に自分の思いを伝えようと口を開いた。
「君は親からずっと自分の趣味を否定されていたんだから仕方ないよ。自分の好きなものを端から否定されるのは本当に辛いことだよね……」
私はここまで言ってから深呼吸をする。
「……私ね、思うんだけど、イヤだと思ったらすぐ逃げていいんだよ。我慢してイヤなことにずっと付き合い続ける必要はない。ランちゃんは合わないサークルを辞められたし、君を認めてくれない親からも逃げられた。時間こそかかってしまったけど君の選択は間違ってないと思う」
「……………………」
私の言葉を聞いた駆は私の方を向いたままぱちぱちと何度か瞬かせた。
「……間違ってない? オレ、父さんから嫌なことから絶対に逃げるな! っていつも言われ続けてきたよ……。オレはすぐ逃避する傾向があるんだって……。だから今回『勘当』されてほっとした事にずっと罪の意識を感じていたんだけど……」
それを訊いた私は少し考える。駆の父親の言う逃避癖とは剣道や受験の事を指しているのだろうか? しかし幼い頃始めたスポーツを一生続けなければならない理由などないし、受験にしても『今はびっくりするほど現役志向が強いんだな』と、浪人した経験のある私の父親が言っているのを聞いたことがある。昔ならともかく、今はたとえ滑り止めであっても合格した大学に進学するのが一般化している。駆の選択は咎められる筋合いはないと思うのだが。駆の父親は、自分の理想とするレールから息子が外れていく事を極端に嫌う性格なのかな、とふと感じた。
「うん、もちろん人生には逃げちゃいけない局面だってあるけど……理不尽なことからは逃げていい……というか逃げなくちゃいけないと私は思うんだ……」
私は言葉を選びつつ話し続けた。
「……君の留年なんて長い人生全体からすればちょっとした躓きみたいなものでしょ。そんな大それた失敗じゃないよ。そりゃ確かにその一年間でかかる学費や生活費は大きいけど、そんなものは出世払いで後から回収すればいいだけの話じゃない? ……でも『勘当だ!』なんて重たい言葉を迂闊に口に出すようなお父さんから逃げられてほっとした君は全くもって正しいよ!」
私は力を込めて駆を肯定した。今ここではそうしなければいけないような焦燥感にすら駆られていたのだ。
「おまけに君は留年にちゃんと向き合って自分で学費を稼いでいる訳だし、十分偉いよ!」
「でもそのせいでアルファさんには多大な迷惑が掛かってるし……」
駆は眉間にしわを寄せ肩を落とす。
「ちょっと待った!」
私は駆に向かって両手を突き出した。
「それはもう二度と言わないで! 私はね、君と同居してから毎日が楽しいんだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないから!」
これは掛け値なしに本当の事だ。両親が交通事故で亡くなってから私はずっと惰性で生きてきた。就職していなかったら、ゲームだけしている引きこもりになっていたかもしれない。だけど、駆が来てから生活にいい意味の緊張感が生まれただけではなく、他愛のない挨拶や会話を交わす幸せを再び味わうことができたのだ。また、駆の筋トレをソファに寝そべりながら眺めているだけでも面白かった。「アルファさんもやりましょうよ」といつも誘われるのだが、その都度ゲームに筋肉はいらないと言って断ってしまう。そのお約束のやり取りすら楽しかった。駆がグランピングのアルバイトで出かけた時はいなくて素直に寂しいと思ったし、わずか一か月で駆は私の生活から欠かすことのできない存在になっていたのだ。
「……本当……ですか?」
駆が不安そうに上目づかいで見つめてくる。私はうんうんと頷いた。
「こんなことでウソ言っても仕方ないじゃん。迷惑だったらちゃんとそう言ってるよ。むしろ、君の方が私との生活でストレス感じてるんじゃないかって心配だ」
「オレは……ストレスなんて一切感じてないし! だってここがオレの本当のうちだって感じられるから……無理をせず等身大のオレでいられるし、生きてて本当に良かったなって思えるんだ……」
その後、駆はぽつりぽつりと心の内を語ってくれた。
「……実家にいた頃はゲームや漫画を禁止されているから、家にいてもちっとも楽しくなかった……特に兄さんが上京した後は基本母さんと二人っきりで生活していたけど、会話が全然弾まないから空気が重かったよ……だからと言って単身赴任で不在がちな父さんがまれに在宅している時は、些細な事で叱られるんじゃないかっていつもびくびくしてて……気が休まらなかった……」
私は黙ったまま頷く。
「……中学に進学した時剣道じゃなくてテニスを選んだことでずっと父さんから小言を頂戴し続けた……後から兄さんから聞いた話だけど、父さんはオレに期待していたんだって……だから止めた事でものすごく失望してしまったらしい……だったらせめてテニスで頑張ろうって決意したんだけど、どれだけ頑張っても一切認めてもらえなかった……」
予想外だったとはいえインターハイの全国大会に出場しても認めてくれない父親なんて、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ! 私は会ったこともない赤の他人に対して内心毒づく。私の心中など知る由もない駆は続けた。
「……本命の大学にも合格できなかったし、オレはずっとずっと父さんを失望させっぱなしだった……しっかり父さんの期待に応えられる兄さんと違って、オレには生きてる価値なんてないのかなって思う事もしょっちゅうだった……なのに、アルファさんはちょっとしたことでオレの事を褒めてくれる。高いところの電球を交換しただけで、凄い! 偉い!って」
いや、正直そんなことで感動されるとは思わなかった。自分が交換するなら巨大な脚立を物置から取り出してきて、脚立の上でよろよろしながら不安定な作業を行った後で、もう一度脚立を物置に戻さなければならない面倒な作業を、駆ならちょっと背伸びしてカバーを取り外した上で手早く電球を外し、新しい電球をきゅっきゅっとはめカバーを戻して、はい、作業完了なのだから、偉いに決まっている。
駆の事を世間的には十分ハイスペックなのに不思議なほど自己肯定感の低い青年だとは思っていたけど、親から全然認められずにずっと生きてきたのならこうなるのも当然なのだろう。親というものは子を無条件に認めてくれるこの世で一番の存在なのだと無邪気にずっと信じてきたけど、必ずしもそんなことはないのだと現実を突きつけられ、私は泣きそうになった。
「そんなことで喜んでもらえるなら、お姉さん、いくらでも褒めちゃうぞ」
私は心の動揺を押し隠すようになるべく明るく振舞った。両手の拳を握りしめ力説する。
「ランちゃんは料理作るのが上手で偉い! ハードな筋トレ毎日続けて偉い! アルバイト毎日頑張って偉い!」
さすがにちょっとわざとらしかったかな? 駆の様子を伺おうと駆の顔を覗き込んだところ、駆は両手で顔を覆いさめざめと泣いていたのだ。駆が涙もろいことは既に知っていたものの、今回は泣かせるつもりは全くなかった。
「……ごめん……私、ちょっとふざけすぎてしまった……」
しょんぼりしながら謝ると、駆は顔を隠したまま首を振った。
「違うんだ、嬉しくて涙が溢れてきた……」
私はキッチンカウンターの上に載っていたボックスティッシュを黙ったまま駆の方にそっと差し出したのだった。
すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら駆が泣き止むのを待っている時、私は肝心の話ができていなかったことを思い出した。駆の進路の話をしようと思っていたのに、思い切り脱線している。いや、そうではない、これは脱線ではなく、駆の背景を知り、その進路を考える上で必要な話だった。
「……アルファさん」
ようやく落ち着いた駆がまだ鼻声のまま話しかけてきた。
「オレの話をちゃんと聞いてくれてありがとうございました。今まで自分の中できちんと消化出来ていなかったことを、こうやって話すことで初めて整理できた気がする」
「それは良かった……」
とだけ言って、私は駆が話を続けるのを待った。駆はつかえつかえではあるが、丁寧な言葉で自分の進路について希望を語ってくれた。
「……オレは今でも本命の大学院に行きたいと思ってます……それは決して大学受験のリターンマッチとかではなく……オレの学びたい分野を専門とする高名な教授がいるからで……」
「じゃあ、君の学びたいことを教えてくれる?」
私は促した。すると駆は今大学で学んでいるのが電気工学で、送電ロスを研究したいのだと教えてくれた。送電ロスとは簡単に言うと「発電所で発電された電気が会社や自宅に供給されるまでの間に失われる電力量」のことだそうだ。このロスを減らすことで発電された電気が無駄なく使用できるから、結果省エネに繋がるということらしい。
「なるほど……君の希望は分かったよ……。だけど、金銭的な問題はどうクリアするの?」
「その件ですが……大学院は親の収入ではなく本人の収入で奨学金の判定を行うらしいので、無利子の第一種奨学金を借りようかと思ってます。足りなければ有利子の第二種奨学金も追加して。その上でアルバイトすれば一人で生活できるはず……」
駆の話をまとめると、大学では奨学金は親の収入で判定されるし、そもそも留年したら借りることはできないが、大学院では自分自身の収入で判定されるから間違いなく借りられるはずだという訳だ。志望している大学院は国立だから入学金・授業料を合わせても今の大学の院に進んだ場合必要な額の半分以下で済むとのこと。またそこの院試に合格できなかった場合は潔く諦め就職するとのことだった。
「……そうすると院に行こうと行くまいと二年後にはここを出ていくつもりでいるということ?」
「そのつもりです……いつまでもアルファさんに頼る訳にはいきませんから……」
しっかり考えているようで何より、のはずなのだが、半ば覚悟していた私は拍子抜けすると同時に、実家が太くて本来はしなくてもいい苦労を背負ってしまう駆の将来が心配になった。
「え、でも経済的に厳しくない? 院を卒業してもしばらく奨学金返済をすることになるんだよ」
「もちろん厳しいですけど……そのくらいは平気です……」
駆はほんの少し切ない顔をしながらも気丈に微笑んでみせた。
「大学の同じ学科の友達で、奨学金をもらいながら東京にある出身県の寮で生活しているヤツがいるんですけど、中高生の弟妹もいるのに実家の事業が傾いちゃったらしくって親が仕送りができないからってバイトしまくってて。オレはそいつの事をよく頑張ってて偉いなとはずっと思ってたけど、本当の意味でその大変さが分かっていなかった……。この一か月時間がある時はずっと考えていたんです。オレって本当に甘ちゃんだったんだなって……」
「生まれ育った環境はそれこそガチャだものね……」
私は切ない気持ちになりながらため息をついた。
「子どもは親や環境を選べないもの……」
「……オレは留年するまで自分の環境に疑問を抱いたことはありませんでした。幼い頃から習い事をいくつも通わされ同級生より遊ぶ時間が少なくて、うざいなあくらいにしか思っていなくて……それがどれだけ恵まれていたのかってオレは全然気付いていなかったんです……。小学生の時から塾も当たり前のように行ってたし、いい顔されなかったテニスだって結局高三まで思う存分やらせてもらったし、高校の時アメリカでショートホームステイもさせてもらった。なのにそうやって身に付いた学力は全て自分の実力だと思ってました。でもそうじゃない事が今なら分かります。オレは生まれで下駄を履かされてだけだったんだって……」
そう言う駆の表情は苦しそうだった。
「……そうかもしれないけど……」
私は言い淀んだ。駆の言いたいことは良く分かる。だからといってわざわざ修行僧のように積極的に苦労をしょい込む必要もない気はするのだけど。
駆は机の上で右手の拳を握りしめた。
「もちろんオレだって大学入ってから勉強は相当頑張ったつもりです……それは自負してます……。今回単位を落とすまではそれなりにいい成績を取ってきたんです……苦学生の友達がいたのなら、どうして前もって自分の恵まれた環境に気付き感謝して真摯に試験に取り組めなかったのかと、後悔ばかりが頭の中をぐるぐるしてしまって……。確かに就職後の奨学金返済は大変だと聞いていますが、大変なのは別にオレだけじゃないですから……」
駆が一生懸命反省し、しっかり考えた上で覚悟したのだということは伝わってきた。なら、今の私に出来る事はそんな駆を励まし支える事ぐらいだろうか。私は頷いた。
「君の覚悟は理解したよ。私はマネージャーとしてそんな君を今後も支えていきたいんだけど、構わないかな?」
駆も頷いた。
「もちろんです! オレ、アルファさんがこうやってオレの事をものすごく気に掛けてくれるのが物凄く嬉しいんです」
当初は大切な仲間に手を差し伸べたいという純粋な気持ちからだったが、今はそれだけではない気がする。
「私にとってランちゃんは大切な仲間で……共に生活している家族のような大事な存在だから……」
私はゆっくりと駆に語りかけた。
「だから本当に遠慮なく頼っていいんだからね」
「ありがとうございます……」
駆は頭を丁寧に下げた後おずおずと微笑んでから、こんなことを打ち明けてくる。
「……今まで同級生の誰にも留年の事話せなかったけれど、先日さっき話した苦学生の友達――内海 陽大って言うんですけど――ようやく連絡取ったんです。そしたらそいつは真面目に話を聞いてくれた上で、頑張れよ、応援しているしいつだって相談にも乗るからって言ってくれて……嬉しかった……」
「いい友達だね」
「はい、本当にそう思います」
駆はにっこりした。私は、孤独の影を感じていた駆にも実は信頼できる友達がいると知ってほっとする。
「今度うちにその内海君連れておいでよ。すき焼きパーティでもしよう!」
「すき焼き!?」
駆が驚いたような声をあげる。私は首を傾げた。
「あれ、しゃぶしゃぶの方が良かった?」
「いや、そうじゃなくて、パーティをする理由とは?」
駆が困惑の表情を浮かべた。私はふふっと笑って腕まくりする仕草をしてみせた。
「だって、ランちゃんの大事な友達でしょ。ましてや苦学生ならたまにはいいお肉を食べさせてあげたいじゃん。お姉さん、大盤振る舞いしちゃうぞー!」
駆は納得したように頷いた。
「分かった。内海君はバイトでいつも忙しく飛び回っているけど、声かけてみるね。アルファさんみたいな綺麗なお姉さんが誘ってくれたら大喜びすると思う」
いつの間にか言葉遣いがいつも通りに戻っている。緊張がほぐれたのだろう。
「綺麗なお姉さんってランちゃんお世辞上手だね」
私が突っ込むと、駆は困った顔をした。
「別にお世辞じゃないよ……だってアルファさん、かっこいいし」
先日と同じように、またかっこいいと言ってくる。
「かっこいいねえ……スケバンもそうだけど、目つきが鋭いからスナイパーっぽいとか、極妻とかは言われるけど」
私はぼやいて、スナイパーライフルを構える振りをした。駆は真面目な顔で私を見つめ、語気を強めた。
「とにかく! アルファさんはかっこいいんだよ! だってオレのヒーローだし!」
「ヒ、ヒーロー……」
私はびっくりした後大笑いした。
「私、ヒロインって柄じゃないもんね!」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
駆が両手を頭にやって身を小さくする。
「いや、いいよ、ヒーローって言われると気分いいから」
私は手を振った。
「そういえば戦隊ものの悪役女幹部顔とも言われてきたから、ヒーローは新鮮だわー」
「みんな、アルファさんに言いたい放題じゃないですか。ひどいな」
駆は我が事のように憤慨しているので、私は肩をすくめた。自分の顔の事は毎日鏡を覗く自分が一番よく知っている。
「仕方ないよ。本当の事だし」
「そんな事ないって!」
駆は頑として言い張った。
「アルファさんはもっと抗議した方がいい! 人の容姿をあれこれいじるとか失礼だよ!」
私は目をぱちくりさせた。いや、確かに駆の言う通りなんだけど、あまりにもいじられすぎたから鈍感になって、直接抗議する気力も消え失せ、せいぜい内心ぷりぷり怒っているだけになっていた。
「うん、ありがとう……本当に君の言う通りだね……」
私は駆の勢いに気圧された。その言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷く。駆が私の代わりに怒ってくれたことが実は嬉しかったのだ。自己肯定感の低い駆ほどではないが、私も自分の容姿にはずっとコンプレックスを感じていた。いわゆる三白眼故に小学生の頃から目つきが悪いとか、怖いとかさんざん言われ続けたし、父に似たためか、小学生の時クラスの誰よりも背が高いことから『でか女』と言われることも度々だった。中学になっていっきに身長の伸びた男子に背を抜かされるようになってほっとしたほどだ。
そんな頃密かに思いを寄せていた男子が「でかい女ってかわいくないよなー」と言っているのをたまたま聞いて以来、恋愛することに臆病になってしまった。私も自分に自信がないという意味では駆と同じだった。駆と違うのはいじられた時平気な振りをして積極的に自虐に走ったりしていたことだ。本当は嫌で嫌で仕方がなかったのに嫌われたくなくてつい同調してしまっていた。自虐は摩擦を避けるための私なりの処世術ではあったけど、もういい加減おさらばしてもいいのかなと、この時初めて思えた。
父からもらった身長と母に似たちょっと鋭い目つき、考えてみればそう悪くはない。駆が言うように、自分がヒーローだと考えたら気分が明るくなった。たった一人のためだけのヒーローだけど。その一人の心に寄り添ってあげられるのなら私の存在も捨てたものではない。ついふふっと笑ってしまった。駆がそんな私に気が付いてにこっと微笑み、椅子から立ち上がった。
「コーヒー淹れるけど、アルファさんも飲む?」
「飲む飲む。そうだ、コーヒー豆は先日お試しで買ってみたゲイシャ使ってみて。棚に入ってるから。高級品らしいよ」
私はキッチンの棚を指さした。
「それと……この前渚がお裾分けしてくれたメイドインスイスのチョコも一緒に入っているからそれも食べよう」
私も立ち上がる。
「いいね。渚さんってアルファさんのお友達だったよね?」
「そう、小学校からの付き合い。いわゆる幼馴染ってヤツだね。今度機会があったら紹介するよ。彼氏持ちだけど」
何を隠そう、その渚は肉食系女子なんだけどね。
私達はわいわい言いながら、コーヒーとチョコの支度をする。進路面談はもう終わり。駆の進学の意志は固かった。私はそんな彼の背中を精一杯支えてあげるだけだ。方針が決まった上に気分爽快。私は久々に晴れ晴れとした気分になったのだった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
春休みの間駆はずっとキッズシッターのアルバイトに奔走していた。力があるから双子の男児が一斉にタックルしてきても十分に耐えられるし、勉強を教えてくれるだけではなくゲームの相手もしてくれる頼れるお兄ちゃんとして双子達が駆の事を慕ってくれたし、どんな時も礼儀正しく物腰柔らかな駆の事を双子の両親も大層気に入ってくれたためである。
三月末など山梨の富士五湖湖畔でのグランピングに声がかかり、泊りがけでシッターをしていたほどだった。野外でのバーベキューや様々なアクティビティに付き合わされたらしく、帰宅した当日はさすがに魂が抜けたような表情をしていた。
しかし頑張った甲斐はあったようでとても評価され、当初の予定よりもバイト料を弾んでもらい、さらには新学期以降のシッターも出来る範囲でお願いしたいと頼まれたことで今年度後期の学費の目途も立った。だが無事四年に進級出来たら今度は卒論があるし、そして何より就職もしくは大学院進学について考えなければならないのだ。
駆は当初大学院進学を目指していたために就職活動は一切していなかった。しかしもし就職するなら三年のうちにインターンシップなどを考えなければならないし、大学院に進学するなら院試の試験勉強が必要になる。夏休みに入る前にはどちらかを選択しなければいけないということをネットからの情報で知って、私は全然のんびりしていられないことに気が付いた。そこで家族(ではないけど)会議を開くことにする。何せマネージャーの名乗りを上げてしまったのだから。
大学の新学期が始まる直前、四月上旬土曜日の朝、私はコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れそれぞれ愛用のマグカップに注いでから、ダイニングテーブルの一方に駆を座らせると、もったいぶって咳払いをしてから進路の話をし始める。
「あのね、私もこの一か月色々と調べてみたんだけど、今は就活のためにインターンシップするなら三年の夏休みが一番多いんだって?」
気分はすっかり就活生の母親だ。ちなみにうちの両親は私任せで、いっさい就職に口出すことはなかった。結果独立系中堅IT企業に就職し、時折転職という文字が頭をよぎりながらも残業に追われ忙しい日々を送っている。私だってもちろん本当は駆の進路に口出ししたかったわけではない。だが気が付いてしまったのだ。駆が大学卒業後就職するなら後二年で自立できるだろうが、修士課程への進学を希望するなら計四年が必要だということに。四年後というと私も晴れてアラサーだ。その事実に私は少しおののいてしまったのである。
いつも怖いと言われる目に力を込め駆を見つめた。駆はそれに応えるかのように私を真っ直ぐに見据え答えた。
「その通りです」
「逆算するとそろそろ進路を決めないといけないことに私は気が付いてしまったんだ。先月会ったばかりの頃、君は大学院に行こうと考えていたって言ってたよね。その気持ちは今も変わらない?」
駆は少し俯くと膝の上に置いた両手をもぞもぞと動かす。そして思い切ったように両拳を握りしめ、再び私の顔を見つめてきた。
「アルファさん、本題に入る前に長くなるけどオレの話を聞いてもらえますか?」
私は駆を促すように頷いた。
三月末など山梨の富士五湖湖畔でのグランピングに声がかかり、泊りがけでシッターをしていたほどだった。野外でのバーベキューや様々なアクティビティに付き合わされたらしく、帰宅した当日はさすがに魂が抜けたような表情をしていた。
しかし頑張った甲斐はあったようでとても評価され、当初の予定よりもバイト料を弾んでもらい、さらには新学期以降のシッターも出来る範囲でお願いしたいと頼まれたことで今年度後期の学費の目途も立った。だが無事四年に進級出来たら今度は卒論があるし、そして何より就職もしくは大学院進学について考えなければならないのだ。
駆は当初大学院進学を目指していたために就職活動は一切していなかった。しかしもし就職するなら三年のうちにインターンシップなどを考えなければならないし、大学院に進学するなら院試の試験勉強が必要になる。夏休みに入る前にはどちらかを選択しなければいけないということをネットからの情報で知って、私は全然のんびりしていられないことに気が付いた。そこで家族(ではないけど)会議を開くことにする。何せマネージャーの名乗りを上げてしまったのだから。
大学の新学期が始まる直前、四月上旬土曜日の朝、私はコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れそれぞれ愛用のマグカップに注いでから、ダイニングテーブルの一方に駆を座らせると、もったいぶって咳払いをしてから進路の話をし始める。
「あのね、私もこの一か月色々と調べてみたんだけど、今は就活のためにインターンシップするなら三年の夏休みが一番多いんだって?」
気分はすっかり就活生の母親だ。ちなみにうちの両親は私任せで、いっさい就職に口出すことはなかった。結果独立系中堅IT企業に就職し、時折転職という文字が頭をよぎりながらも残業に追われ忙しい日々を送っている。私だってもちろん本当は駆の進路に口出ししたかったわけではない。だが気が付いてしまったのだ。駆が大学卒業後就職するなら後二年で自立できるだろうが、修士課程への進学を希望するなら計四年が必要だということに。四年後というと私も晴れてアラサーだ。その事実に私は少しおののいてしまったのである。
いつも怖いと言われる目に力を込め駆を見つめた。駆はそれに応えるかのように私を真っ直ぐに見据え答えた。
「その通りです」
「逆算するとそろそろ進路を決めないといけないことに私は気が付いてしまったんだ。先月会ったばかりの頃、君は大学院に行こうと考えていたって言ってたよね。その気持ちは今も変わらない?」
駆は少し俯くと膝の上に置いた両手をもぞもぞと動かす。そして思い切ったように両拳を握りしめ、再び私の顔を見つめてきた。
「アルファさん、本題に入る前に長くなるけどオレの話を聞いてもらえますか?」
私は駆を促すように頷いた。
駆は高校時代、東京にある国立の理工系大学を志望していたのだという。だが元々文系科目が得意ではなかったことに加えて、本人が一切予想していなかったのにテニスでインターハイの全国大会に進んでしまったことなどから学習が大幅に遅れ、センター試験対策が十分とは言えなかった。結果本命は不合格となり、今在学中のK大学に進学することになったのだそうだ。
「父さんは浪人してもいいと言ってくれていた。だけどK大は母さんの母校だったし、何よりオレは浪人して再受験しても本命に落ちたらどうしようって怖気づいてしまって、K大への進学を決めてしまった……」
「決めてしまった、というと?」
私がその言葉のニュアンスが気になって尋ねると、駆は苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと校風が合わなかった……その……決して大学が悪いんじゃなくて、スタートで躓いてしまったからなんだけど……」
駆は当初から本命だった大学の大学院に進みたいと考え勉学に専念するために、強く勧誘されていた体育会系のテニス部には所属しないことに決めていた。代わりに大学公認テニスサークルに入部したのだが、入学式で出来たばかりの友人に誘われるがままに入ったサークルは駆が望んでいた――体育会系ほどではないけど真剣にテニスに取り組むサークルとは全然違っていた。経験者のほとんどいない、いわゆる出会いや青春を謳歌する者たちのためのゆるいサークルだったのである。
「経験者のオレは初心者の女の子達のコーチばかりさせられて、自分の鍛錬どころじゃなかった。辞めたいとはずっと思ってたんだけど、誘ってくれた友人に悪いと思って全然辞められなかったんだ」
そう言って深いため息をつく。女子のコーチばかりさせられていたのは上手だからという理由だけじゃないよなあと私は内心思ったが、それは敢えて口に出さず
「そう……それは辛かったね……」
とだけ言う。駆は情けなさそうな笑みを浮かべた。
「結局義理で三年弱続けてしまったけど、今思えばさっさと辞めるべきだった……最後揉めちゃったしね……」
「揉めちゃったって? 君が揉めるって想像できないんだけど……」
「父さんは浪人してもいいと言ってくれていた。だけどK大は母さんの母校だったし、何よりオレは浪人して再受験しても本命に落ちたらどうしようって怖気づいてしまって、K大への進学を決めてしまった……」
「決めてしまった、というと?」
私がその言葉のニュアンスが気になって尋ねると、駆は苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと校風が合わなかった……その……決して大学が悪いんじゃなくて、スタートで躓いてしまったからなんだけど……」
駆は当初から本命だった大学の大学院に進みたいと考え勉学に専念するために、強く勧誘されていた体育会系のテニス部には所属しないことに決めていた。代わりに大学公認テニスサークルに入部したのだが、入学式で出来たばかりの友人に誘われるがままに入ったサークルは駆が望んでいた――体育会系ほどではないけど真剣にテニスに取り組むサークルとは全然違っていた。経験者のほとんどいない、いわゆる出会いや青春を謳歌する者たちのためのゆるいサークルだったのである。
「経験者のオレは初心者の女の子達のコーチばかりさせられて、自分の鍛錬どころじゃなかった。辞めたいとはずっと思ってたんだけど、誘ってくれた友人に悪いと思って全然辞められなかったんだ」
そう言って深いため息をつく。女子のコーチばかりさせられていたのは上手だからという理由だけじゃないよなあと私は内心思ったが、それは敢えて口に出さず
「そう……それは辛かったね……」
とだけ言う。駆は情けなさそうな笑みを浮かべた。
「結局義理で三年弱続けてしまったけど、今思えばさっさと辞めるべきだった……最後揉めちゃったしね……」
「揉めちゃったって? 君が揉めるって想像できないんだけど……」
一か月同居して見て分かったことだが、駆は揉めたり意見の対立が苦手なのだ。また言い出しにくいことも黙ったままだったこともあったし、頼まれると断れない性分のようだった。先日一緒に買い出しに出かけたところ、街頭アンケートに協力してくれと頼まれてしばらく時間を費やす羽目に陥っていた。また信用できる団体が複数人で募金の呼びかけをしていたところ、財布に入っていたありったけの小銭を次々に募金箱に投入していた。いつか人に騙されてしまうのではなかろうかと心配になったくらいだ。
「……無理やりお酒を飲まされたんだ……より正確に言うと飲んでいたカクテルを、ウォッカが大量に混ぜられたものにすり替えられていた……」
その時の事を思い出したらしい駆が物凄く陰鬱そうな表情となった。
父親がキャリア警察官の駆は未成年の時は絶対にアルコールを口にしなかった。二十歳を迎えてからは多少付き合いで飲むようになったが、羽目を外すのが怖くて量を飲むのは控えていたらしい。駆の事を以前から付き合いの悪い奴だと感じていた同期達が去年のクリスマスパーティの時、駆が中座した隙を見計らって飲んでいたカクテルをすり替えたらしい。
「許容量を超えていたらしくって、オレは酔いつぶれて前後不覚に陥った……急性アルコール中毒にならなくて良かったけど……」
「ひどい……」
私は心底腹が立った。これは酒の強制、いわゆるアルハラだ。駆は目を伏せ続けた。
「ぐてんぐてんになった様子を動画に撮られてて、翌日サークルのSNSに面白おかしくアップされていた。もちろん抗議したんだけど、その時部長から指摘されたんだ。オレはサークルで誰よりもテニスが得意だから皆を見下している。だったら最初から体育会系に行けばよかった。無難な人付き合いはするけど心を一切開いてくれないから、皆はオレとの距離を詰めるためにやったことだって……」
私は絶句する。駆は唇をかんだ。
「確かにオレはサークルで全然心を開いてなかった。だって少女漫画とかゲーム好きとか口を滑らせたら絶対にバカにされると思って全然言えなかったから……」
オタクがバカにされやすいのは私も経験済みだ。私は最初に趣味を明かした上でそういう連中を牽制してきたけど、駆は一番最初に本当の自分を晒すことができずにその時までずるずるときてしまったのだろう。
「散々揉めた挙句アップされた動画は何とか削除させたけど、もう我慢できなくてサークルは辞めてしまったんだ……せめて幽霊部員でもいいから残ってくれって引き止められたけど、どうせ新入生のコーチさせられるだけって分かってたから未練はなかった……あの頃はもう誰も信頼できなかったんだ……」
去年の十二月の時の話だから、例のレイドバトルに参加して寝落ちし試験に遅刻した一月ほど前の話か。あの頃のFQⅢでのランちゃんは妙にハイテンションで、以前とは様子が明らかに違っていたのは記憶していた。もしかしたらあれは退部と因果関係があったのかもしれない。
「……事情は大体分かったよ……」
私は重々しく頷いた。駆はずっと泣きそうな顔をしていたが、ようやくほっとした表情になった。
「オレ、大学に入学してからずっと本当の自分を晒せずにいた。自分のオタクっぽい趣味を恥ずかしいと思い込んでいて、当たり障りのない人付き合いしかしてなくて……。高校までの友達は皆オレの性格や家の事情を知ってたから上手くいっていたんだけど……」
「三年間辛かったね」
私がそう言うと駆は首を振った。
「ううん、自業自得だと思ってる。心を開いていないと言われた時ドキッとした。サークルではつまらないと思いながら表面上はいつも愛想よく装って、頼まれたことは快く引き受けているように振舞っていたけど、実は全部見透かされていたんだなって。見栄で三年近く無駄にしてしまった……さらに留年しちゃったからプラス一年だね……つくづくオレってバカだ……」
駆が目に涙をためながら殊更に自分を責めるので、私は必死に自分の思いを伝えようと口を開いた。
「君は親からずっと自分の趣味を否定されていたんだから仕方ないよ。自分の好きなものを端から否定されるのは本当に辛いことだよね……」
私はここまで言ってから深呼吸をする。
「……私ね、思うんだけど、イヤだと思ったらすぐ逃げていいんだよ。我慢してイヤなことにずっと付き合い続ける必要はない。ランちゃんは合わないサークルを辞められたし、君を認めてくれない親からも逃げられた。時間こそかかってしまったけど君の選択は間違ってないと思う」
「……………………」
私の言葉を聞いた駆は私の方を向いたままぱちぱちと何度か瞬かせた。
「……間違ってない? オレ、父さんから嫌なことから絶対に逃げるな! っていつも言われ続けてきたよ……。オレはすぐ逃避する傾向があるんだって……。だから今回『勘当』されてほっとした事にずっと罪の意識を感じていたんだけど……」
それを訊いた私は少し考える。駆の父親の言う逃避癖とは剣道や受験の事を指しているのだろうか? しかし幼い頃始めたスポーツを一生続けなければならない理由などないし、受験にしても『今はびっくりするほど現役志向が強いんだな』と、浪人した経験のある私の父親が言っているのを聞いたことがある。昔ならともかく、今はたとえ滑り止めであっても合格した大学に進学するのが一般化している。駆の選択は咎められる筋合いはないと思うのだが。駆の父親は、自分の理想とするレールから息子が外れていく事を極端に嫌う性格なのかな、とふと感じた。
「うん、もちろん人生には逃げちゃいけない局面だってあるけど……理不尽なことからは逃げていい……というか逃げなくちゃいけないと私は思うんだ……」
私は言葉を選びつつ話し続けた。
「……君の留年なんて長い人生全体からすればちょっとした躓きみたいなものでしょ。そんな大それた失敗じゃないよ。そりゃ確かにその一年間でかかる学費や生活費は大きいけど、そんなものは出世払いで後から回収すればいいだけの話じゃない? ……でも『勘当だ!』なんて重たい言葉を迂闊に口に出すようなお父さんから逃げられてほっとした君は全くもって正しいよ!」
私は力を込めて駆を肯定した。今ここではそうしなければいけないような焦燥感にすら駆られていたのだ。
「おまけに君は留年にちゃんと向き合って自分で学費を稼いでいる訳だし、十分偉いよ!」
「でもそのせいでアルファさんには多大な迷惑が掛かってるし……」
駆は眉間にしわを寄せ肩を落とす。
「ちょっと待った!」
私は駆に向かって両手を突き出した。
「それはもう二度と言わないで! 私はね、君と同居してから毎日が楽しいんだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないから!」
これは掛け値なしに本当の事だ。両親が交通事故で亡くなってから私はずっと惰性で生きてきた。就職していなかったら、ゲームだけしている引きこもりになっていたかもしれない。だけど、駆が来てから生活にいい意味の緊張感が生まれただけではなく、他愛のない挨拶や会話を交わす幸せを再び味わうことができたのだ。また、駆の筋トレをソファに寝そべりながら眺めているだけでも面白かった。「アルファさんもやりましょうよ」といつも誘われるのだが、その都度ゲームに筋肉はいらないと言って断ってしまう。そのお約束のやり取りすら楽しかった。駆がグランピングのアルバイトで出かけた時はいなくて素直に寂しいと思ったし、わずか一か月で駆は私の生活から欠かすことのできない存在になっていたのだ。
「……本当……ですか?」
駆が不安そうに上目づかいで見つめてくる。私はうんうんと頷いた。
「こんなことでウソ言っても仕方ないじゃん。迷惑だったらちゃんとそう言ってるよ。むしろ、君の方が私との生活でストレス感じてるんじゃないかって心配だ」
「オレは……ストレスなんて一切感じてないし! だってここがオレの本当のうちだって感じられるから……無理をせず等身大のオレでいられるし、生きてて本当に良かったなって思えるんだ……」
その後、駆はぽつりぽつりと心の内を語ってくれた。
「……実家にいた頃はゲームや漫画を禁止されているから、家にいてもちっとも楽しくなかった……特に兄さんが上京した後は基本母さんと二人っきりで生活していたけど、会話が全然弾まないから空気が重かったよ……だからと言って単身赴任で不在がちな父さんがまれに在宅している時は、些細な事で叱られるんじゃないかっていつもびくびくしてて……気が休まらなかった……」
私は黙ったまま頷く。
「……中学に進学した時剣道じゃなくてテニスを選んだことでずっと父さんから小言を頂戴し続けた……後から兄さんから聞いた話だけど、父さんはオレに期待していたんだって……だから止めた事でものすごく失望してしまったらしい……だったらせめてテニスで頑張ろうって決意したんだけど、どれだけ頑張っても一切認めてもらえなかった……」
予想外だったとはいえインターハイの全国大会に出場しても認めてくれない父親なんて、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ! 私は会ったこともない赤の他人に対して内心毒づく。私の心中など知る由もない駆は続けた。
「……本命の大学にも合格できなかったし、オレはずっとずっと父さんを失望させっぱなしだった……しっかり父さんの期待に応えられる兄さんと違って、オレには生きてる価値なんてないのかなって思う事もしょっちゅうだった……なのに、アルファさんはちょっとしたことでオレの事を褒めてくれる。高いところの電球を交換しただけで、凄い! 偉い!って」
いや、正直そんなことで感動されるとは思わなかった。自分が交換するなら巨大な脚立を物置から取り出してきて、脚立の上でよろよろしながら不安定な作業を行った後で、もう一度脚立を物置に戻さなければならない面倒な作業を、駆ならちょっと背伸びしてカバーを取り外した上で手早く電球を外し、新しい電球をきゅっきゅっとはめカバーを戻して、はい、作業完了なのだから、偉いに決まっている。
駆の事を世間的には十分ハイスペックなのに不思議なほど自己肯定感の低い青年だとは思っていたけど、親から全然認められずにずっと生きてきたのならこうなるのも当然なのだろう。親というものは子を無条件に認めてくれるこの世で一番の存在なのだと無邪気にずっと信じてきたけど、必ずしもそんなことはないのだと現実を突きつけられ、私は泣きそうになった。
「そんなことで喜んでもらえるなら、お姉さん、いくらでも褒めちゃうぞ」
私は心の動揺を押し隠すようになるべく明るく振舞った。両手の拳を握りしめ力説する。
「ランちゃんは料理作るのが上手で偉い! ハードな筋トレ毎日続けて偉い! アルバイト毎日頑張って偉い!」
さすがにちょっとわざとらしかったかな? 駆の様子を伺おうと駆の顔を覗き込んだところ、駆は両手で顔を覆いさめざめと泣いていたのだ。駆が涙もろいことは既に知っていたものの、今回は泣かせるつもりは全くなかった。
「……ごめん……私、ちょっとふざけすぎてしまった……」
しょんぼりしながら謝ると、駆は顔を隠したまま首を振った。
「違うんだ、嬉しくて涙が溢れてきた……」
私はキッチンカウンターの上に載っていたボックスティッシュを黙ったまま駆の方にそっと差し出したのだった。
「……無理やりお酒を飲まされたんだ……より正確に言うと飲んでいたカクテルを、ウォッカが大量に混ぜられたものにすり替えられていた……」
その時の事を思い出したらしい駆が物凄く陰鬱そうな表情となった。
父親がキャリア警察官の駆は未成年の時は絶対にアルコールを口にしなかった。二十歳を迎えてからは多少付き合いで飲むようになったが、羽目を外すのが怖くて量を飲むのは控えていたらしい。駆の事を以前から付き合いの悪い奴だと感じていた同期達が去年のクリスマスパーティの時、駆が中座した隙を見計らって飲んでいたカクテルをすり替えたらしい。
「許容量を超えていたらしくって、オレは酔いつぶれて前後不覚に陥った……急性アルコール中毒にならなくて良かったけど……」
「ひどい……」
私は心底腹が立った。これは酒の強制、いわゆるアルハラだ。駆は目を伏せ続けた。
「ぐてんぐてんになった様子を動画に撮られてて、翌日サークルのSNSに面白おかしくアップされていた。もちろん抗議したんだけど、その時部長から指摘されたんだ。オレはサークルで誰よりもテニスが得意だから皆を見下している。だったら最初から体育会系に行けばよかった。無難な人付き合いはするけど心を一切開いてくれないから、皆はオレとの距離を詰めるためにやったことだって……」
私は絶句する。駆は唇をかんだ。
「確かにオレはサークルで全然心を開いてなかった。だって少女漫画とかゲーム好きとか口を滑らせたら絶対にバカにされると思って全然言えなかったから……」
オタクがバカにされやすいのは私も経験済みだ。私は最初に趣味を明かした上でそういう連中を牽制してきたけど、駆は一番最初に本当の自分を晒すことができずにその時までずるずるときてしまったのだろう。
「散々揉めた挙句アップされた動画は何とか削除させたけど、もう我慢できなくてサークルは辞めてしまったんだ……せめて幽霊部員でもいいから残ってくれって引き止められたけど、どうせ新入生のコーチさせられるだけって分かってたから未練はなかった……あの頃はもう誰も信頼できなかったんだ……」
去年の十二月の時の話だから、例のレイドバトルに参加して寝落ちし試験に遅刻した一月ほど前の話か。あの頃のFQⅢでのランちゃんは妙にハイテンションで、以前とは様子が明らかに違っていたのは記憶していた。もしかしたらあれは退部と因果関係があったのかもしれない。
「……事情は大体分かったよ……」
私は重々しく頷いた。駆はずっと泣きそうな顔をしていたが、ようやくほっとした表情になった。
「オレ、大学に入学してからずっと本当の自分を晒せずにいた。自分のオタクっぽい趣味を恥ずかしいと思い込んでいて、当たり障りのない人付き合いしかしてなくて……。高校までの友達は皆オレの性格や家の事情を知ってたから上手くいっていたんだけど……」
「三年間辛かったね」
私がそう言うと駆は首を振った。
「ううん、自業自得だと思ってる。心を開いていないと言われた時ドキッとした。サークルではつまらないと思いながら表面上はいつも愛想よく装って、頼まれたことは快く引き受けているように振舞っていたけど、実は全部見透かされていたんだなって。見栄で三年近く無駄にしてしまった……さらに留年しちゃったからプラス一年だね……つくづくオレってバカだ……」
駆が目に涙をためながら殊更に自分を責めるので、私は必死に自分の思いを伝えようと口を開いた。
「君は親からずっと自分の趣味を否定されていたんだから仕方ないよ。自分の好きなものを端から否定されるのは本当に辛いことだよね……」
私はここまで言ってから深呼吸をする。
「……私ね、思うんだけど、イヤだと思ったらすぐ逃げていいんだよ。我慢してイヤなことにずっと付き合い続ける必要はない。ランちゃんは合わないサークルを辞められたし、君を認めてくれない親からも逃げられた。時間こそかかってしまったけど君の選択は間違ってないと思う」
「……………………」
私の言葉を聞いた駆は私の方を向いたままぱちぱちと何度か瞬かせた。
「……間違ってない? オレ、父さんから嫌なことから絶対に逃げるな! っていつも言われ続けてきたよ……。オレはすぐ逃避する傾向があるんだって……。だから今回『勘当』されてほっとした事にずっと罪の意識を感じていたんだけど……」
それを訊いた私は少し考える。駆の父親の言う逃避癖とは剣道や受験の事を指しているのだろうか? しかし幼い頃始めたスポーツを一生続けなければならない理由などないし、受験にしても『今はびっくりするほど現役志向が強いんだな』と、浪人した経験のある私の父親が言っているのを聞いたことがある。昔ならともかく、今はたとえ滑り止めであっても合格した大学に進学するのが一般化している。駆の選択は咎められる筋合いはないと思うのだが。駆の父親は、自分の理想とするレールから息子が外れていく事を極端に嫌う性格なのかな、とふと感じた。
「うん、もちろん人生には逃げちゃいけない局面だってあるけど……理不尽なことからは逃げていい……というか逃げなくちゃいけないと私は思うんだ……」
私は言葉を選びつつ話し続けた。
「……君の留年なんて長い人生全体からすればちょっとした躓きみたいなものでしょ。そんな大それた失敗じゃないよ。そりゃ確かにその一年間でかかる学費や生活費は大きいけど、そんなものは出世払いで後から回収すればいいだけの話じゃない? ……でも『勘当だ!』なんて重たい言葉を迂闊に口に出すようなお父さんから逃げられてほっとした君は全くもって正しいよ!」
私は力を込めて駆を肯定した。今ここではそうしなければいけないような焦燥感にすら駆られていたのだ。
「おまけに君は留年にちゃんと向き合って自分で学費を稼いでいる訳だし、十分偉いよ!」
「でもそのせいでアルファさんには多大な迷惑が掛かってるし……」
駆は眉間にしわを寄せ肩を落とす。
「ちょっと待った!」
私は駆に向かって両手を突き出した。
「それはもう二度と言わないで! 私はね、君と同居してから毎日が楽しいんだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないから!」
これは掛け値なしに本当の事だ。両親が交通事故で亡くなってから私はずっと惰性で生きてきた。就職していなかったら、ゲームだけしている引きこもりになっていたかもしれない。だけど、駆が来てから生活にいい意味の緊張感が生まれただけではなく、他愛のない挨拶や会話を交わす幸せを再び味わうことができたのだ。また、駆の筋トレをソファに寝そべりながら眺めているだけでも面白かった。「アルファさんもやりましょうよ」といつも誘われるのだが、その都度ゲームに筋肉はいらないと言って断ってしまう。そのお約束のやり取りすら楽しかった。駆がグランピングのアルバイトで出かけた時はいなくて素直に寂しいと思ったし、わずか一か月で駆は私の生活から欠かすことのできない存在になっていたのだ。
「……本当……ですか?」
駆が不安そうに上目づかいで見つめてくる。私はうんうんと頷いた。
「こんなことでウソ言っても仕方ないじゃん。迷惑だったらちゃんとそう言ってるよ。むしろ、君の方が私との生活でストレス感じてるんじゃないかって心配だ」
「オレは……ストレスなんて一切感じてないし! だってここがオレの本当のうちだって感じられるから……無理をせず等身大のオレでいられるし、生きてて本当に良かったなって思えるんだ……」
その後、駆はぽつりぽつりと心の内を語ってくれた。
「……実家にいた頃はゲームや漫画を禁止されているから、家にいてもちっとも楽しくなかった……特に兄さんが上京した後は基本母さんと二人っきりで生活していたけど、会話が全然弾まないから空気が重かったよ……だからと言って単身赴任で不在がちな父さんがまれに在宅している時は、些細な事で叱られるんじゃないかっていつもびくびくしてて……気が休まらなかった……」
私は黙ったまま頷く。
「……中学に進学した時剣道じゃなくてテニスを選んだことでずっと父さんから小言を頂戴し続けた……後から兄さんから聞いた話だけど、父さんはオレに期待していたんだって……だから止めた事でものすごく失望してしまったらしい……だったらせめてテニスで頑張ろうって決意したんだけど、どれだけ頑張っても一切認めてもらえなかった……」
予想外だったとはいえインターハイの全国大会に出場しても認めてくれない父親なんて、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ! 私は会ったこともない赤の他人に対して内心毒づく。私の心中など知る由もない駆は続けた。
「……本命の大学にも合格できなかったし、オレはずっとずっと父さんを失望させっぱなしだった……しっかり父さんの期待に応えられる兄さんと違って、オレには生きてる価値なんてないのかなって思う事もしょっちゅうだった……なのに、アルファさんはちょっとしたことでオレの事を褒めてくれる。高いところの電球を交換しただけで、凄い! 偉い!って」
いや、正直そんなことで感動されるとは思わなかった。自分が交換するなら巨大な脚立を物置から取り出してきて、脚立の上でよろよろしながら不安定な作業を行った後で、もう一度脚立を物置に戻さなければならない面倒な作業を、駆ならちょっと背伸びしてカバーを取り外した上で手早く電球を外し、新しい電球をきゅっきゅっとはめカバーを戻して、はい、作業完了なのだから、偉いに決まっている。
駆の事を世間的には十分ハイスペックなのに不思議なほど自己肯定感の低い青年だとは思っていたけど、親から全然認められずにずっと生きてきたのならこうなるのも当然なのだろう。親というものは子を無条件に認めてくれるこの世で一番の存在なのだと無邪気にずっと信じてきたけど、必ずしもそんなことはないのだと現実を突きつけられ、私は泣きそうになった。
「そんなことで喜んでもらえるなら、お姉さん、いくらでも褒めちゃうぞ」
私は心の動揺を押し隠すようになるべく明るく振舞った。両手の拳を握りしめ力説する。
「ランちゃんは料理作るのが上手で偉い! ハードな筋トレ毎日続けて偉い! アルバイト毎日頑張って偉い!」
さすがにちょっとわざとらしかったかな? 駆の様子を伺おうと駆の顔を覗き込んだところ、駆は両手で顔を覆いさめざめと泣いていたのだ。駆が涙もろいことは既に知っていたものの、今回は泣かせるつもりは全くなかった。
「……ごめん……私、ちょっとふざけすぎてしまった……」
しょんぼりしながら謝ると、駆は顔を隠したまま首を振った。
「違うんだ、嬉しくて涙が溢れてきた……」
私はキッチンカウンターの上に載っていたボックスティッシュを黙ったまま駆の方にそっと差し出したのだった。
すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら駆が泣き止むのを待っている時、私は肝心の話ができていなかったことを思い出した。駆の進路の話をしようと思っていたのに、思い切り脱線している。いや、そうではない、これは脱線ではなく、駆の背景を知り、その進路を考える上で必要な話だった。
「……アルファさん」
ようやく落ち着いた駆がまだ鼻声のまま話しかけてきた。
「オレの話をちゃんと聞いてくれてありがとうございました。今まで自分の中できちんと消化出来ていなかったことを、こうやって話すことで初めて整理できた気がする」
「それは良かった……」
とだけ言って、私は駆が話を続けるのを待った。駆はつかえつかえではあるが、丁寧な言葉で自分の進路について希望を語ってくれた。
「……オレは今でも本命の大学院に行きたいと思ってます……それは決して大学受験のリターンマッチとかではなく……オレの学びたい分野を専門とする高名な教授がいるからで……」
「じゃあ、君の学びたいことを教えてくれる?」
私は促した。すると駆は今大学で学んでいるのが電気工学で、送電ロスを研究したいのだと教えてくれた。送電ロスとは簡単に言うと「発電所で発電された電気が会社や自宅に供給されるまでの間に失われる電力量」のことだそうだ。このロスを減らすことで発電された電気が無駄なく使用できるから、結果省エネに繋がるということらしい。
「なるほど……君の希望は分かったよ……。だけど、金銭的な問題はどうクリアするの?」
「その件ですが……大学院は親の収入ではなく本人の収入で奨学金の判定を行うらしいので、無利子の第一種奨学金を借りようかと思ってます。足りなければ有利子の第二種奨学金も追加して。その上でアルバイトすれば一人で生活できるはず……」
駆の話をまとめると、大学では奨学金は親の収入で判定されるし、そもそも留年したら借りることはできないが、大学院では自分自身の収入で判定されるから間違いなく借りられるはずだという訳だ。志望している大学院は国立だから入学金・授業料を合わせても今の大学の院に進んだ場合必要な額の半分以下で済むとのこと。またそこの院試に合格できなかった場合は潔く諦め就職するとのことだった。
「……そうすると院に行こうと行くまいと二年後にはここを出ていくつもりでいるということ?」
「そのつもりです……いつまでもアルファさんに頼る訳にはいきませんから……」
しっかり考えているようで何より、のはずなのだが、半ば覚悟していた私は拍子抜けすると同時に、実家が太くて本来はしなくてもいい苦労を背負ってしまう駆の将来が心配になった。
「え、でも経済的に厳しくない? 院を卒業してもしばらく奨学金返済をすることになるんだよ」
「もちろん厳しいですけど……そのくらいは平気です……」
駆はほんの少し切ない顔をしながらも気丈に微笑んでみせた。
「大学の同じ学科の友達で、奨学金をもらいながら東京にある出身県の寮で生活しているヤツがいるんですけど、中高生の弟妹もいるのに実家の事業が傾いちゃったらしくって親が仕送りができないからってバイトしまくってて。オレはそいつの事をよく頑張ってて偉いなとはずっと思ってたけど、本当の意味でその大変さが分かっていなかった……。この一か月時間がある時はずっと考えていたんです。オレって本当に甘ちゃんだったんだなって……」
「生まれ育った環境はそれこそガチャだものね……」
私は切ない気持ちになりながらため息をついた。
「子どもは親や環境を選べないもの……」
「……オレは留年するまで自分の環境に疑問を抱いたことはありませんでした。幼い頃から習い事をいくつも通わされ同級生より遊ぶ時間が少なくて、うざいなあくらいにしか思っていなくて……それがどれだけ恵まれていたのかってオレは全然気付いていなかったんです……。小学生の時から塾も当たり前のように行ってたし、いい顔されなかったテニスだって結局高三まで思う存分やらせてもらったし、高校の時アメリカでショートホームステイもさせてもらった。なのにそうやって身に付いた学力は全て自分の実力だと思ってました。でもそうじゃない事が今なら分かります。オレは生まれで下駄を履かされてだけだったんだって……」
そう言う駆の表情は苦しそうだった。
「……そうかもしれないけど……」
私は言い淀んだ。駆の言いたいことは良く分かる。だからといってわざわざ修行僧のように積極的に苦労をしょい込む必要もない気はするのだけど。
駆は机の上で右手の拳を握りしめた。
「もちろんオレだって大学入ってから勉強は相当頑張ったつもりです……それは自負してます……。今回単位を落とすまではそれなりにいい成績を取ってきたんです……苦学生の友達がいたのなら、どうして前もって自分の恵まれた環境に気付き感謝して真摯に試験に取り組めなかったのかと、後悔ばかりが頭の中をぐるぐるしてしまって……。確かに就職後の奨学金返済は大変だと聞いていますが、大変なのは別にオレだけじゃないですから……」
駆が一生懸命反省し、しっかり考えた上で覚悟したのだということは伝わってきた。なら、今の私に出来る事はそんな駆を励まし支える事ぐらいだろうか。私は頷いた。
「君の覚悟は理解したよ。私はマネージャーとしてそんな君を今後も支えていきたいんだけど、構わないかな?」
駆も頷いた。
「もちろんです! オレ、アルファさんがこうやってオレの事をものすごく気に掛けてくれるのが物凄く嬉しいんです」
当初は大切な仲間に手を差し伸べたいという純粋な気持ちからだったが、今はそれだけではない気がする。
「私にとってランちゃんは大切な仲間で……共に生活している家族のような大事な存在だから……」
私はゆっくりと駆に語りかけた。
「だから本当に遠慮なく頼っていいんだからね」
「ありがとうございます……」
駆は頭を丁寧に下げた後おずおずと微笑んでから、こんなことを打ち明けてくる。
「……今まで同級生の誰にも留年の事話せなかったけれど、先日さっき話した苦学生の友達――|内海 陽大《うつみ はると》って言うんですけど――ようやく連絡取ったんです。そしたらそいつは真面目に話を聞いてくれた上で、頑張れよ、応援しているしいつだって相談にも乗るからって言ってくれて……嬉しかった……」
「いい友達だね」
「はい、本当にそう思います」
駆はにっこりした。私は、孤独の影を感じていた駆にも実は信頼できる友達がいると知ってほっとする。
「今度うちにその内海君連れておいでよ。すき焼きパーティでもしよう!」
「すき焼き!?」
駆が驚いたような声をあげる。私は首を傾げた。
「あれ、しゃぶしゃぶの方が良かった?」
「いや、そうじゃなくて、パーティをする理由とは?」
駆が困惑の表情を浮かべた。私はふふっと笑って腕まくりする仕草をしてみせた。
「だって、ランちゃんの大事な友達でしょ。ましてや苦学生ならたまにはいいお肉を食べさせてあげたいじゃん。お姉さん、大盤振る舞いしちゃうぞー!」
駆は納得したように頷いた。
「分かった。内海君はバイトでいつも忙しく飛び回っているけど、声かけてみるね。アルファさんみたいな綺麗なお姉さんが誘ってくれたら大喜びすると思う」
いつの間にか言葉遣いがいつも通りに戻っている。緊張がほぐれたのだろう。
「綺麗なお姉さんってランちゃんお世辞上手だね」
私が突っ込むと、駆は困った顔をした。
「別にお世辞じゃないよ……だってアルファさん、かっこいいし」
先日と同じように、またかっこいいと言ってくる。
「かっこいいねえ……スケバンもそうだけど、目つきが鋭いからスナイパーっぽいとか、極妻とかは言われるけど」
私はぼやいて、スナイパーライフルを構える振りをした。駆は真面目な顔で私を見つめ、語気を強めた。
「とにかく! アルファさんはかっこいいんだよ! だってオレのヒーローだし!」
「ヒ、ヒーロー……」
私はびっくりした後大笑いした。
「私、ヒロインって柄じゃないもんね!」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
駆が両手を頭にやって身を小さくする。
「いや、いいよ、ヒーローって言われると気分いいから」
私は手を振った。
「そういえば戦隊ものの悪役女幹部顔とも言われてきたから、ヒーローは新鮮だわー」
「みんな、アルファさんに言いたい放題じゃないですか。ひどいな」
駆は我が事のように憤慨しているので、私は肩をすくめた。自分の顔の事は毎日鏡を覗く自分が一番よく知っている。
「仕方ないよ。本当の事だし」
「そんな事ないって!」
駆は頑として言い張った。
「アルファさんはもっと抗議した方がいい! 人の容姿をあれこれいじるとか失礼だよ!」
私は目をぱちくりさせた。いや、確かに駆の言う通りなんだけど、あまりにもいじられすぎたから鈍感になって、直接抗議する気力も消え失せ、せいぜい内心ぷりぷり怒っているだけになっていた。
「うん、ありがとう……本当に君の言う通りだね……」
私は駆の勢いに気圧された。その言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷く。駆が私の代わりに怒ってくれたことが実は嬉しかったのだ。自己肯定感の低い駆ほどではないが、私も自分の容姿にはずっとコンプレックスを感じていた。いわゆる三白眼故に小学生の頃から目つきが悪いとか、怖いとかさんざん言われ続けたし、父に似たためか、小学生の時クラスの誰よりも背が高いことから『でか女』と言われることも度々だった。中学になっていっきに身長の伸びた男子に背を抜かされるようになってほっとしたほどだ。
そんな頃密かに思いを寄せていた男子が「でかい女ってかわいくないよなー」と言っているのをたまたま聞いて以来、恋愛することに臆病になってしまった。私も自分に自信がないという意味では駆と同じだった。駆と違うのはいじられた時平気な振りをして積極的に自虐に走ったりしていたことだ。本当は嫌で嫌で仕方がなかったのに嫌われたくなくてつい同調してしまっていた。自虐は摩擦を避けるための私なりの処世術ではあったけど、もういい加減おさらばしてもいいのかなと、この時初めて思えた。
「……アルファさん」
ようやく落ち着いた駆がまだ鼻声のまま話しかけてきた。
「オレの話をちゃんと聞いてくれてありがとうございました。今まで自分の中できちんと消化出来ていなかったことを、こうやって話すことで初めて整理できた気がする」
「それは良かった……」
とだけ言って、私は駆が話を続けるのを待った。駆はつかえつかえではあるが、丁寧な言葉で自分の進路について希望を語ってくれた。
「……オレは今でも本命の大学院に行きたいと思ってます……それは決して大学受験のリターンマッチとかではなく……オレの学びたい分野を専門とする高名な教授がいるからで……」
「じゃあ、君の学びたいことを教えてくれる?」
私は促した。すると駆は今大学で学んでいるのが電気工学で、送電ロスを研究したいのだと教えてくれた。送電ロスとは簡単に言うと「発電所で発電された電気が会社や自宅に供給されるまでの間に失われる電力量」のことだそうだ。このロスを減らすことで発電された電気が無駄なく使用できるから、結果省エネに繋がるということらしい。
「なるほど……君の希望は分かったよ……。だけど、金銭的な問題はどうクリアするの?」
「その件ですが……大学院は親の収入ではなく本人の収入で奨学金の判定を行うらしいので、無利子の第一種奨学金を借りようかと思ってます。足りなければ有利子の第二種奨学金も追加して。その上でアルバイトすれば一人で生活できるはず……」
駆の話をまとめると、大学では奨学金は親の収入で判定されるし、そもそも留年したら借りることはできないが、大学院では自分自身の収入で判定されるから間違いなく借りられるはずだという訳だ。志望している大学院は国立だから入学金・授業料を合わせても今の大学の院に進んだ場合必要な額の半分以下で済むとのこと。またそこの院試に合格できなかった場合は潔く諦め就職するとのことだった。
「……そうすると院に行こうと行くまいと二年後にはここを出ていくつもりでいるということ?」
「そのつもりです……いつまでもアルファさんに頼る訳にはいきませんから……」
しっかり考えているようで何より、のはずなのだが、半ば覚悟していた私は拍子抜けすると同時に、実家が太くて本来はしなくてもいい苦労を背負ってしまう駆の将来が心配になった。
「え、でも経済的に厳しくない? 院を卒業してもしばらく奨学金返済をすることになるんだよ」
「もちろん厳しいですけど……そのくらいは平気です……」
駆はほんの少し切ない顔をしながらも気丈に微笑んでみせた。
「大学の同じ学科の友達で、奨学金をもらいながら東京にある出身県の寮で生活しているヤツがいるんですけど、中高生の弟妹もいるのに実家の事業が傾いちゃったらしくって親が仕送りができないからってバイトしまくってて。オレはそいつの事をよく頑張ってて偉いなとはずっと思ってたけど、本当の意味でその大変さが分かっていなかった……。この一か月時間がある時はずっと考えていたんです。オレって本当に甘ちゃんだったんだなって……」
「生まれ育った環境はそれこそガチャだものね……」
私は切ない気持ちになりながらため息をついた。
「子どもは親や環境を選べないもの……」
「……オレは留年するまで自分の環境に疑問を抱いたことはありませんでした。幼い頃から習い事をいくつも通わされ同級生より遊ぶ時間が少なくて、うざいなあくらいにしか思っていなくて……それがどれだけ恵まれていたのかってオレは全然気付いていなかったんです……。小学生の時から塾も当たり前のように行ってたし、いい顔されなかったテニスだって結局高三まで思う存分やらせてもらったし、高校の時アメリカでショートホームステイもさせてもらった。なのにそうやって身に付いた学力は全て自分の実力だと思ってました。でもそうじゃない事が今なら分かります。オレは生まれで下駄を履かされてだけだったんだって……」
そう言う駆の表情は苦しそうだった。
「……そうかもしれないけど……」
私は言い淀んだ。駆の言いたいことは良く分かる。だからといってわざわざ修行僧のように積極的に苦労をしょい込む必要もない気はするのだけど。
駆は机の上で右手の拳を握りしめた。
「もちろんオレだって大学入ってから勉強は相当頑張ったつもりです……それは自負してます……。今回単位を落とすまではそれなりにいい成績を取ってきたんです……苦学生の友達がいたのなら、どうして前もって自分の恵まれた環境に気付き感謝して真摯に試験に取り組めなかったのかと、後悔ばかりが頭の中をぐるぐるしてしまって……。確かに就職後の奨学金返済は大変だと聞いていますが、大変なのは別にオレだけじゃないですから……」
駆が一生懸命反省し、しっかり考えた上で覚悟したのだということは伝わってきた。なら、今の私に出来る事はそんな駆を励まし支える事ぐらいだろうか。私は頷いた。
「君の覚悟は理解したよ。私はマネージャーとしてそんな君を今後も支えていきたいんだけど、構わないかな?」
駆も頷いた。
「もちろんです! オレ、アルファさんがこうやってオレの事をものすごく気に掛けてくれるのが物凄く嬉しいんです」
当初は大切な仲間に手を差し伸べたいという純粋な気持ちからだったが、今はそれだけではない気がする。
「私にとってランちゃんは大切な仲間で……共に生活している家族のような大事な存在だから……」
私はゆっくりと駆に語りかけた。
「だから本当に遠慮なく頼っていいんだからね」
「ありがとうございます……」
駆は頭を丁寧に下げた後おずおずと微笑んでから、こんなことを打ち明けてくる。
「……今まで同級生の誰にも留年の事話せなかったけれど、先日さっき話した苦学生の友達――|内海 陽大《うつみ はると》って言うんですけど――ようやく連絡取ったんです。そしたらそいつは真面目に話を聞いてくれた上で、頑張れよ、応援しているしいつだって相談にも乗るからって言ってくれて……嬉しかった……」
「いい友達だね」
「はい、本当にそう思います」
駆はにっこりした。私は、孤独の影を感じていた駆にも実は信頼できる友達がいると知ってほっとする。
「今度うちにその内海君連れておいでよ。すき焼きパーティでもしよう!」
「すき焼き!?」
駆が驚いたような声をあげる。私は首を傾げた。
「あれ、しゃぶしゃぶの方が良かった?」
「いや、そうじゃなくて、パーティをする理由とは?」
駆が困惑の表情を浮かべた。私はふふっと笑って腕まくりする仕草をしてみせた。
「だって、ランちゃんの大事な友達でしょ。ましてや苦学生ならたまにはいいお肉を食べさせてあげたいじゃん。お姉さん、大盤振る舞いしちゃうぞー!」
駆は納得したように頷いた。
「分かった。内海君はバイトでいつも忙しく飛び回っているけど、声かけてみるね。アルファさんみたいな綺麗なお姉さんが誘ってくれたら大喜びすると思う」
いつの間にか言葉遣いがいつも通りに戻っている。緊張がほぐれたのだろう。
「綺麗なお姉さんってランちゃんお世辞上手だね」
私が突っ込むと、駆は困った顔をした。
「別にお世辞じゃないよ……だってアルファさん、かっこいいし」
先日と同じように、またかっこいいと言ってくる。
「かっこいいねえ……スケバンもそうだけど、目つきが鋭いからスナイパーっぽいとか、極妻とかは言われるけど」
私はぼやいて、スナイパーライフルを構える振りをした。駆は真面目な顔で私を見つめ、語気を強めた。
「とにかく! アルファさんはかっこいいんだよ! だってオレのヒーローだし!」
「ヒ、ヒーロー……」
私はびっくりした後大笑いした。
「私、ヒロインって柄じゃないもんね!」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
駆が両手を頭にやって身を小さくする。
「いや、いいよ、ヒーローって言われると気分いいから」
私は手を振った。
「そういえば戦隊ものの悪役女幹部顔とも言われてきたから、ヒーローは新鮮だわー」
「みんな、アルファさんに言いたい放題じゃないですか。ひどいな」
駆は我が事のように憤慨しているので、私は肩をすくめた。自分の顔の事は毎日鏡を覗く自分が一番よく知っている。
「仕方ないよ。本当の事だし」
「そんな事ないって!」
駆は頑として言い張った。
「アルファさんはもっと抗議した方がいい! 人の容姿をあれこれいじるとか失礼だよ!」
私は目をぱちくりさせた。いや、確かに駆の言う通りなんだけど、あまりにもいじられすぎたから鈍感になって、直接抗議する気力も消え失せ、せいぜい内心ぷりぷり怒っているだけになっていた。
「うん、ありがとう……本当に君の言う通りだね……」
私は駆の勢いに気圧された。その言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷く。駆が私の代わりに怒ってくれたことが実は嬉しかったのだ。自己肯定感の低い駆ほどではないが、私も自分の容姿にはずっとコンプレックスを感じていた。いわゆる三白眼故に小学生の頃から目つきが悪いとか、怖いとかさんざん言われ続けたし、父に似たためか、小学生の時クラスの誰よりも背が高いことから『でか女』と言われることも度々だった。中学になっていっきに身長の伸びた男子に背を抜かされるようになってほっとしたほどだ。
そんな頃密かに思いを寄せていた男子が「でかい女ってかわいくないよなー」と言っているのをたまたま聞いて以来、恋愛することに臆病になってしまった。私も自分に自信がないという意味では駆と同じだった。駆と違うのはいじられた時平気な振りをして積極的に自虐に走ったりしていたことだ。本当は嫌で嫌で仕方がなかったのに嫌われたくなくてつい同調してしまっていた。自虐は摩擦を避けるための私なりの処世術ではあったけど、もういい加減おさらばしてもいいのかなと、この時初めて思えた。
父からもらった身長と母に似たちょっと鋭い目つき、考えてみればそう悪くはない。駆が言うように、自分がヒーローだと考えたら気分が明るくなった。たった一人のためだけのヒーローだけど。その一人の心に寄り添ってあげられるのなら私の存在も捨てたものではない。ついふふっと笑ってしまった。駆がそんな私に気が付いてにこっと微笑み、椅子から立ち上がった。
「コーヒー淹れるけど、アルファさんも飲む?」
「飲む飲む。そうだ、コーヒー豆は先日お試しで買ってみたゲイシャ使ってみて。棚に入ってるから。高級品らしいよ」
私はキッチンの棚を指さした。
「それと……この前渚がお裾分けしてくれたメイドインスイスのチョコも一緒に入っているからそれも食べよう」
私も立ち上がる。
「いいね。渚さんってアルファさんのお友達だったよね?」
「そう、小学校からの付き合い。いわゆる幼馴染ってヤツだね。今度機会があったら紹介するよ。彼氏持ちだけど」
何を隠そう、その渚は肉食系女子なんだけどね。
私達はわいわい言いながら、コーヒーとチョコの支度をする。進路面談はもう終わり。駆の進学の意志は固かった。私はそんな彼の背中を精一杯支えてあげるだけだ。方針が決まった上に気分爽快。私は久々に晴れ晴れとした気分になったのだった。
「コーヒー淹れるけど、アルファさんも飲む?」
「飲む飲む。そうだ、コーヒー豆は先日お試しで買ってみたゲイシャ使ってみて。棚に入ってるから。高級品らしいよ」
私はキッチンの棚を指さした。
「それと……この前渚がお裾分けしてくれたメイドインスイスのチョコも一緒に入っているからそれも食べよう」
私も立ち上がる。
「いいね。渚さんってアルファさんのお友達だったよね?」
「そう、小学校からの付き合い。いわゆる幼馴染ってヤツだね。今度機会があったら紹介するよ。彼氏持ちだけど」
何を隠そう、その渚は肉食系女子なんだけどね。
私達はわいわい言いながら、コーヒーとチョコの支度をする。進路面談はもう終わり。駆の進学の意志は固かった。私はそんな彼の背中を精一杯支えてあげるだけだ。方針が決まった上に気分爽快。私は久々に晴れ晴れとした気分になったのだった。