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第2章 逃げるが勝ち-2

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 翌週を迎え、私の憂鬱な平日が再び始まった。先週金曜上司に圧力をかけられ代休を取ったのはいいが、結局仕事が積み上がるので更に忙しくなるだけなのである。
 一方駆はそれまで住んでいた賃貸マンション退去の立ち合いや、役所で住所変更の手続きをした後、春休みの間だけの時給のいいアルバイト探しを始めていた。そんな折り駆のスマホに見知らぬ番号から電話がかかってきた。おばあさんの仕事上の知人らしく、今から春休みにかけて小学生のお子さん二人のシッターをお願いしたいとのことらしい。これまでもおばあさんのつてで家庭教師のアルバイトは受けてきたことはあったが、キッズシッターなどやったことがない駆は戸惑っていたものの、提示された時給に心が揺れたらしく私に相談してきた。その時給が受験生相手の家庭教師並みの時給だったため、私は駆の背中を押す。
「いいんじゃないの? おばあさんのつてがあるからこそそういったおいしい話も舞い込んでくるんだろうし。この春休みでガンガン稼いじゃえ!」
 しばらく悩んだ末駆はその話を承諾した。春休みに入るまでは、小学一年生の双子男子を放課後学校までそのお宅の所有する自動車で迎えに行って、その足で塾やお稽古の教室まで連れて行き、終わるまで車内で待機、終わったら自宅に戻って両親が仕事から帰ってくるまで双子の相手をするという内容のアルバイトだったが、送迎に使う車はドイツ製左ハンドルの高級車で気を遣うし、双子が揃って相当やんちゃらしく、アルバイトの初日私が帰宅した時、既に戻っていた駆は放心状態だった。
 「なんか大変そうだね?」
ソファにぐったりともたれかかっていた駆の顔を覗き込むと、駆は無理やり笑ってみせた。
「いや、慣れればきっと大丈夫。子どもの相手なんて初めてだったから戸惑っただけ。春休みに入ったら留守番もかねてずっと面倒見て欲しいって言われたから頑張らないと……」
 新学期が始まれば駆もそうそう長時間のアルバイトはできなくなる。だからこそ今稼いでおきたいのだ。
「疲れた時は夕飯作らなくていいから」
私がそう提案すると、駆は首を振った。
「いや、食事作りはオレの仕事だから」
そう言ってソファから素早く起き上がる。夕食用のおかずは既にダイニングテーブルにラップをかけて置いてあった。
「今日は作ってくれたから有難く食べるけど、今後はそこまで張り切らなくていいから。私もたまには外食したいし」
私は安心させるようにこう言った。
「君が頑張って食事作ってくれるのは本当に助かるけど、君の優先順位はまず学費稼ぎだから。今ある貯金で前期の学費を賄って、夏休みまでに後期の学費を稼ぐのが目標でしょ?」
「……うん……」
予想に反して駆の眉間にしわが寄った。自分の事をふがいないと感じているのが伝わってくる。私は続けた。
「ランちゃん、労働者は身体が資本なんだよ。私も就職してから色々あって無理したことがあったけど、最終的に過労で倒れてしまった。結果的に周囲に迷惑をかけてしまったから無理は良くない。適当に肩の力を抜いていこう」
「……はい……」
頷いたものの完全に納得している訳ではなさそうだ。駆は根が真面目だから、手抜きしてもいいと言われても素直に喜んだりできないタチなのだろう。する必要のないことは絶対にしたくない私と、駆ではものの考え方が全然違う人間なのだと私は悟った。私の両親も合理的な人間だったから手抜きが人生のデフォルトだった私にとって、駆のような存在は新鮮でもあり多少面倒くさくもあったが、今後はその性格を理解した上で上手に付き合っていく必要がありそうだ。
 ご飯をよそってくれている駆の背中に向かって、少し考えた私が話しかける。
「明日うちの会社のノー残業デーなんだ、外食しない?」
「ノー残業デー、って何ですか?」
駆が振り返った。
「会社の労使間の決まりでその日は残業しちゃダメな日ってこと。確実に定時で上がれるから新宿辺りで待ち合わせしようか」
「……アルファさんが外食したいなら……」
少し硬い声だった。今の駆は私の食事を作り続けることでこの家にいられると思っているから、それを否定されると不安に感じるのだろう。私は気にせず明るく返した。
「私は君と外で食事がしたいだけだよ。ダメかな?」
言った後で、これじゃなんだかデートに誘っているみたいだなとふと思ってしまい内心苦笑する。
「……ダメじゃないよ……それじゃ明日よろしくお願いします……」
そう言いながら俯き加減の駆がご飯の入った茶碗をダイニングテーブルの上に置いてくれたのだった。



 人間一度気ままな一人暮らしを経験してしまうと生活がだらしなくなるもので、駆が同居するまで私は下着姿のまま平気で家中うろうろしていた。それが出来なくなり、自分の部屋を出る時は部屋着をきちんと身に付けているか指差し確認するようになった。両親と暮らしていた頃は当たり前にやっていたことなのに、一旦堕落してしまうと生活習慣を元に戻すのは大変なのだ。
 とはいえ我が家で全くリラックスできないのも困るので、駆には最初に断った上で自分のライフスタイルはなるべく変えないようにした。テレビのチャンネル権は私が握っていること、朝風呂に入ること、仕事から帰ったらまず化粧を落として美肌マスク姿でうろうろすること、食事の後ソファの上でしばらくうだうだしていること、等々。これは大家の特権である。
 その代わりここは我が家だと思って自由にくつろいでほしいと言ったとたん、駆が始めたことは全くの予想外の事だった。トレーニングウェアに着替え自室から大き目のトレーニングマットを抱えて来ると、我が家では一番スペースのあるリビングダイニングでいきなりハードな筋トレを始めたのだった。確かに駆の部屋は狭いため筋トレは難しいのだが、ソファにだらしなくうつ伏せで寝そべった私の目の前で、負荷の高いスクワットやら腕立て伏せ他、私には名前の分からない筋トレを延々と行うのでかなりびっくりする。駆の筋肉を維持するためには確かに日々のトレーニングが欠かせないのだろう。更にはもう少し場所を必要とする筋トレをやるにはどうしたらいいかと相談されたので、簡易な屋根が付いているルーフバルコニーを使うように勧めた。もちろんドタバタ音のするトレーニングは下の住人に迷惑になるから厳禁だけど、駆はとても常識的な青年だったのでその辺は心配には及ばなかった。
 やがてルーフバルコニーには駆手製の棚が設置され、ダンベルやトレーニングチューブ、バランスボール等が置かれるようになり、ルーフバルコニーは徐々に駆色に染められていったのだった。かつてそこには私や遊びに来た友人達が遊べるように滑り台が付いた色鮮やかなジャングルジムが設置されていたが、今は物干し台と多少の観葉植物が並ぶだけの寂しい場所となっていただけに、どんな形であれ使ってくれる人がいるというのは嬉しいものだ。氷室家の面子は誰もスポーツをしなかったから、こんな風に使われるなんて亡くなった両親も夢にも思わなかった事だろう。
 駆は共同生活者としては申し分のない存在で、決めたルールを守るだけではなく、水回りもとてもきれいに使うしごみ捨ても率先してやってくれるので、私の生活の質は駆と同居する前に比べて明らかに向上したのだが、唯一驚かされた事はやたらめったらよく食べる事である。その筋肉質な身体を維持するためには筋トレだけではなく、しっかり食べることも必要なのだろうが、とにかく食べる量が半端なかった。料理を作ってくれるので文句は言えないのだが、食費が私が一人暮らしをしていた頃の二倍以上に跳ね上がり目玉が飛び出るかと思ったほどだ。当然米の消費量も上がり、頻繁に米を買う羽目になってしまったのだ。まあ、当の本人が米を担いでくれるからいいんだけど。
 私が一人で暮らしていた頃はコンビニ弁当やら外食のお世話になっていて割高だったから、自炊すれば二倍以内に収まるだろうと予測していただけに、(オタクだけど)体育会系男子の食欲は洒落にならなかった。しかし本人曰く、これでも食べる量はだいぶ減ったらしい。家に駆みたいな食べ盛りの男子が複数いたらと想像するだけで、私は戦慄するしかなかった。


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 翌週を迎え、私の憂鬱な平日が再び始まった。先週金曜上司に圧力をかけられ代休を取ったのはいいが、結局仕事が積み上がるので更に忙しくなるだけなのである。
 一方駆はそれまで住んでいた賃貸マンション退去の立ち合いや、役所で住所変更の手続きをした後、春休みの間だけの時給のいいアルバイト探しを始めていた。そんな折り駆のスマホに見知らぬ番号から電話がかかってきた。おばあさんの仕事上の知人らしく、今から春休みにかけて小学生のお子さん二人のシッターをお願いしたいとのことらしい。これまでもおばあさんのつてで家庭教師のアルバイトは受けてきたことはあったが、キッズシッターなどやったことがない駆は戸惑っていたものの、提示された時給に心が揺れたらしく私に相談してきた。その時給が受験生相手の家庭教師並みの時給だったため、私は駆の背中を押す。
「いいんじゃないの? おばあさんのつてがあるからこそそういったおいしい話も舞い込んでくるんだろうし。この春休みでガンガン稼いじゃえ!」
 しばらく悩んだ末駆はその話を承諾した。春休みに入るまでは、小学一年生の双子男子を放課後学校までそのお宅の所有する自動車で迎えに行って、その足で塾やお稽古の教室まで連れて行き、終わるまで車内で待機、終わったら自宅に戻って両親が仕事から帰ってくるまで双子の相手をするという内容のアルバイトだったが、送迎に使う車はドイツ製左ハンドルの高級車で気を遣うし、双子が揃って相当やんちゃらしく、アルバイトの初日私が帰宅した時、既に戻っていた駆は放心状態だった。
 「なんか大変そうだね?」
ソファにぐったりともたれかかっていた駆の顔を覗き込むと、駆は無理やり笑ってみせた。
「いや、慣れればきっと大丈夫。子どもの相手なんて初めてだったから戸惑っただけ。春休みに入ったら留守番もかねてずっと面倒見て欲しいって言われたから頑張らないと……」
 新学期が始まれば駆もそうそう長時間のアルバイトはできなくなる。だからこそ今稼いでおきたいのだ。
「疲れた時は夕飯作らなくていいから」
私がそう提案すると、駆は首を振った。
「いや、食事作りはオレの仕事だから」
そう言ってソファから素早く起き上がる。夕食用のおかずは既にダイニングテーブルにラップをかけて置いてあった。
「今日は作ってくれたから有難く食べるけど、今後はそこまで張り切らなくていいから。私もたまには外食したいし」
私は安心させるようにこう言った。
「君が頑張って食事作ってくれるのは本当に助かるけど、君の優先順位はまず学費稼ぎだから。今ある貯金で前期の学費を賄って、夏休みまでに後期の学費を稼ぐのが目標でしょ?」
「……うん……」
予想に反して駆の眉間にしわが寄った。自分の事をふがいないと感じているのが伝わってくる。私は続けた。
「ランちゃん、労働者は身体が資本なんだよ。私も就職してから色々あって無理したことがあったけど、最終的に過労で倒れてしまった。結果的に周囲に迷惑をかけてしまったから無理は良くない。適当に肩の力を抜いていこう」
「……はい……」
頷いたものの完全に納得している訳ではなさそうだ。駆は根が真面目だから、手抜きしてもいいと言われても素直に喜んだりできないタチなのだろう。する必要のないことは絶対にしたくない私と、駆ではものの考え方が全然違う人間なのだと私は悟った。私の両親も合理的な人間だったから手抜きが人生のデフォルトだった私にとって、駆のような存在は新鮮でもあり多少面倒くさくもあったが、今後はその性格を理解した上で上手に付き合っていく必要がありそうだ。
 ご飯をよそってくれている駆の背中に向かって、少し考えた私が話しかける。
「明日うちの会社のノー残業デーなんだ、外食しない?」
「ノー残業デー、って何ですか?」
駆が振り返った。
「会社の労使間の決まりでその日は残業しちゃダメな日ってこと。確実に定時で上がれるから新宿辺りで待ち合わせしようか」
「……アルファさんが外食したいなら……」
少し硬い声だった。今の駆は私の食事を作り続けることでこの家にいられると思っているから、それを否定されると不安に感じるのだろう。私は気にせず明るく返した。
「私は君と外で食事がしたいだけだよ。ダメかな?」
言った後で、これじゃなんだかデートに誘っているみたいだなとふと思ってしまい内心苦笑する。
「……ダメじゃないよ……それじゃ明日よろしくお願いします……」
そう言いながら俯き加減の駆がご飯の入った茶碗をダイニングテーブルの上に置いてくれたのだった。
 人間一度気ままな一人暮らしを経験してしまうと生活がだらしなくなるもので、駆が同居するまで私は下着姿のまま平気で家中うろうろしていた。それが出来なくなり、自分の部屋を出る時は部屋着をきちんと身に付けているか指差し確認するようになった。両親と暮らしていた頃は当たり前にやっていたことなのに、一旦堕落してしまうと生活習慣を元に戻すのは大変なのだ。
 とはいえ我が家で全くリラックスできないのも困るので、駆には最初に断った上で自分のライフスタイルはなるべく変えないようにした。テレビのチャンネル権は私が握っていること、朝風呂に入ること、仕事から帰ったらまず化粧を落として美肌マスク姿でうろうろすること、食事の後ソファの上でしばらくうだうだしていること、等々。これは大家の特権である。
 その代わりここは我が家だと思って自由にくつろいでほしいと言ったとたん、駆が始めたことは全くの予想外の事だった。トレーニングウェアに着替え自室から大き目のトレーニングマットを抱えて来ると、我が家では一番スペースのあるリビングダイニングでいきなりハードな筋トレを始めたのだった。確かに駆の部屋は狭いため筋トレは難しいのだが、ソファにだらしなくうつ伏せで寝そべった私の目の前で、負荷の高いスクワットやら腕立て伏せ他、私には名前の分からない筋トレを延々と行うのでかなりびっくりする。駆の筋肉を維持するためには確かに日々のトレーニングが欠かせないのだろう。更にはもう少し場所を必要とする筋トレをやるにはどうしたらいいかと相談されたので、簡易な屋根が付いているルーフバルコニーを使うように勧めた。もちろんドタバタ音のするトレーニングは下の住人に迷惑になるから厳禁だけど、駆はとても常識的な青年だったのでその辺は心配には及ばなかった。
 やがてルーフバルコニーには駆手製の棚が設置され、ダンベルやトレーニングチューブ、バランスボール等が置かれるようになり、ルーフバルコニーは徐々に駆色に染められていったのだった。かつてそこには私や遊びに来た友人達が遊べるように滑り台が付いた色鮮やかなジャングルジムが設置されていたが、今は物干し台と多少の観葉植物が並ぶだけの寂しい場所となっていただけに、どんな形であれ使ってくれる人がいるというのは嬉しいものだ。氷室家の面子は誰もスポーツをしなかったから、こんな風に使われるなんて亡くなった両親も夢にも思わなかった事だろう。
 駆は共同生活者としては申し分のない存在で、決めたルールを守るだけではなく、水回りもとてもきれいに使うしごみ捨ても率先してやってくれるので、私の生活の質は駆と同居する前に比べて明らかに向上したのだが、唯一驚かされた事はやたらめったらよく食べる事である。その筋肉質な身体を維持するためには筋トレだけではなく、しっかり食べることも必要なのだろうが、とにかく食べる量が半端なかった。料理を作ってくれるので文句は言えないのだが、食費が私が一人暮らしをしていた頃の二倍以上に跳ね上がり目玉が飛び出るかと思ったほどだ。当然米の消費量も上がり、頻繁に米を買う羽目になってしまったのだ。まあ、当の本人が米を担いでくれるからいいんだけど。
 私が一人で暮らしていた頃はコンビニ弁当やら外食のお世話になっていて割高だったから、自炊すれば二倍以内に収まるだろうと予測していただけに、(オタクだけど)体育会系男子の食欲は洒落にならなかった。しかし本人曰く、これでも食べる量はだいぶ減ったらしい。家に駆みたいな食べ盛りの男子が複数いたらと想像するだけで、私は戦慄するしかなかった。