所用を済ませて社長室に入ろうとしたところを、一倉に呼び止められた。
子どもの頃から親しくしている阿部、──『人形』を持ちたいという切っ掛けになった彼が結婚するらしいと聞かされたのだ。
ただ実際にそうなれば、間違いなく真瀬は招待客として数えられている筈だ。つまり、阿部本人から必ず知らせが来る。一倉もそれは承知だろう。
阿部の件は単なる話の入りに過ぎず、真瀬は本題の仕事のためにそのまま一倉と秘書室に向かい、ようやく社長室に戻って来た。
「有紗……?」
真瀬の目に映ったのは、誰も居ない部屋に大きく椅子だけが引かれた有紗のデスク。
普段なら、彼女はこういうことは絶対にしない。真瀬に呼ばれて席を立つ際にも、きちんと椅子は戻すのが常だ。
有紗はあくまでも『人間』なので、手洗いにも立てば食事やお茶で席を外すこともある。それこそ一倉に呼ばれて秘書室へ行くこともあった。
この部屋で、真瀬がひとりになるのもないことではない。けれど。
無性に嫌な胸騒ぎがする。
真瀬はとりあえず自分のデスクに足を運び、固定電話の受話器を上げて一倉の内線を呼び出した。
「社長。あんな若い、しかもごくまともな感覚の子に囲われ者みたいな、――それにも満たないことをさせるのはどうなんですか?」
早口で捲し立てる真瀬の話を聞き終わるなり、一倉は疑問に答えることもせずに苦言を呈して来る。
「……こんなの、長く続ける気なかった。というか、始めたのが間違いだった、のかもな。でも、今更『はい、終わり!』ってわけにはいかないよ。有紗には生活があるんだ。『辞めてもお金だけあげるよ』なんて言われて、平気で受け取るような子じゃないんだから」
見るに見かねてといった調子の彼に、真瀬は言い訳がましい言葉を吐くしかできなかった。
「もし北原さんがこの待遇に胡坐をかくようなタイプなら、きっと私も放っておきましたよ。でも、……彼女は」
一倉の言わんとすることは真瀬にも痛いほどわかる。
そうなのだ。対価を払ってGIVE&TAKEで片付く相手なら、何も気にする必要などなかった。まさしくビジネスだ。
「……あなたは本当に妙なところで不器用な方ですが、少し変わって来たようですね」
溜息とともに吐き出された一倉の台詞の意味は、真瀬にはよく理解できなかった。
◇ ◇ ◇
「ところで、阿部さまがご結婚準備をなさっているという情報が入って来ておりますが」
「お前、ホント地獄耳だよな。……でもさ、そうしたらあの『人形』はどうなるんだ?」
「私は阿部さまの『人形』については初耳ですので、具体的なことは申し上げようがありません。ですが、遊びなら後腐れなく別れていただくために金に糸目はつけられないでしょうね。阿部さまのお家なら、おめでたいお話に一切の瑕疵も無きように当然口止め料も込みで」
喉の渇きに、休憩コーナーのドリンクサーバーへ行こうとドアに向かった有紗は、ノブに手を掛けたところで話し声に気づき動きを止めた。
決して薄くはないドアの向こうで、真瀬と一倉が立ち話をしているらしい。
「昔っからの友達に、『人形』を見せびらかされてさ」
なぜ『人形』など、という話題になったとき、真瀬がそれだけを口にした。
おそらくそれが、いま二人が話していた――。
所詮、遊び相手。
いや「相手」ですらない。要らなくなったら捨ててしまえばいいだけの、お金で黙る単なる道具、……玩具。
実際その通りだ。仕事なのだから。
金をもらって『人形』を演じる。真瀬の気を紛らわせるだけの存在。会話を交わす役さえ果たせない、目に楽しい抜け殻同然の。
彼が飽きたら、有紗は用無しになってすべてが終わる。
経済的に余裕があって普通の遊びに倦んだ人の、少し変わった趣向の手慰みに求められただけだ。
最初からそのつもりで引き受けたのに、何故こんなに動揺しているのかわからない。
もうお金がもらえなくなるから? また生活に困る日々が戻って来るから?
真瀬はきっと、ただ有紗を切り捨てるようなことはしない。「退職金も出す」と告げられていたし、あとのこともきちんと計らってくれるだろう。
それなのに、何故。
そのままどのくらい経ったのだろう。既にドアの向こうは沈黙が広がっている。
有紗はゼンマイ仕掛けのようにデスクに取って返し、乱雑に椅子を引いて足元の棚に置いたバッグだけ掴んで社長室のドアを開ける。
そこにまだ彼らが居る可能性など頭の片隅にもなかった。
――一切何も考えられてはいなかった。
気がつくと、見知らぬ駅のホームだった。
もちろん、通勤沿線の先にある駅なので名前は知っているし、会社の最寄り駅からさほど距離があるわけでもない。
どうやら無意識に電車に乗ってまた降りてしまったらしい。
バッグからのろのろとスマートフォンを取り出すと、いつの間にかもう十九時近い。道理で目の前の人の波が途切れないわけだ。
会社を出たのは終業より一時間以上早かった筈だが、おそらく真っ直ぐ駅まで行き最初に来た電車に飛び乗ったのだろう。
その電車を降りてこのホームのベンチに座って、ここに三時間は居たことになる。
しかし、その間の記憶がどうしても掴めなかった。今まで生きて来て、思い通りに運んだことなど碌にない。今更この程度で狼狽えている自分が不思議でならなかった。
手にしたままだったスマートフォンが震えて、通話着信につい反射的に応えてしまう。
耳に届く声は兄の丈だ。
『有紗? 今お前のアパート行ったら、家の前になんかヘンな奴がいたんだけど。お前、なんかあったのか?』
アパート。変な、奴。
兄の疑問に何と返していいかわからなくなった。
「……丈、く――」
言葉に詰まる有紗に、兄は矢継ぎ早に指示を出して来る。
『有紗、とにかくウチ来い! 今どこだ? は? なんでそんなとこ、まあとにかく迎えに行くからじっとして、てかカフェでも入って待ってろ。いいな?』
畳み掛けてくる兄の言葉に、逆らう気力もなく言いなりに行動していた。行儀が悪いことにも神経が行かないまま、話しながら歩いて改札を出る。
目の前に見えたカフェの名を兄に告げて通話を切ってから店内に入り、飲み物を買って席に着いた。
ぼんやりとスマートフォンを確認すると、真瀬からの着信履歴がいくつも残っている。
仕事中はマナーモードに設定しているため音も鳴らず、気づかず無視した格好になってしまったが、今はむしろよかったと思えた。
今彼と話したらきっと泣いてしまう。『人形』がくだらない感情を曝け出すなんてあってはならない。取り乱して迷惑を掛けて、……終わりが早まるだけだ。
いや、こうして逃げ出した時点でもう終わったも同然か。
たまたま気づいて出てしまったのが兄からの電話で幸運だった、と有紗は完全に電源を落としてスマートフォンをバッグに仕舞う。
「有紗!」
息を切らして店に飛び込んできた丈に、有紗は黙って顔を上げただけだった。己と同じ栗色の髪と瞳の兄。
「どうした? いったい何があったんだよ。……つか、お前何? その、格好」
この服、……『人形』の衣装で兄に会うのは初めてだ。
ドレスと言っても差し支えないものではなく、多少装飾過多でもブラウスとジャンパースカートだったのがせめてもの幸いか。
「就職が決まった」という報告だけで、詳しい内容は何も話していなかった。
正確には「話しようもなかった」のではあるが。
「別に何もない。これ、は仕事の服。……たぶん、アパートで丈くんが見たのも悪い人なんかじゃない。ただ、今はあの部屋には帰れないの」
また俯いてぽつぽつと呟くような有紗に、兄は納得は行かないようだが、とにかく促されるまま彼の家に向かうことになった。