【3】②
ー/ー
今日は真瀬は朝から留守にしていて、夕方まで社には戻らない。
有紗ももちろん数日前から聞かされていて、適当に休んでもいいと指示されてはいたが、とてもそんな気にはならずにいつも通り出勤した。
もちろん『人形』として。
一人きりの社長室で、デスクの引き出しに仕舞ってある、秘書室の鈴木に借りた本を捲ってみる。
幼い頃から落ち着いて読書に没頭できる家庭環境ではなかったため、有紗は本を読むのがあまり得意ではない。
勉強もできる方ではなかったが、親身になってくれた学校の教師には「お前は頭は悪くないんだから」と励まされたりもした。
しかし、肝心の自分がそうは思えなかったのだ。
そこへ目の前の電話機から内線の呼び出し音が鳴り、一瞬戸惑ったものの無視するわけにも行かず有紗は受話器を取って応答する。
「はい」
『北原さん、一倉です。今日も来られたんですね。いつ帰っていただいても構いませんから。ご挨拶も不要で――』
「あ、あの!」
『すぐ伺います』
相手の言葉尻に被せるような有紗の勢いに、彼は何か察したのかすっと口調を変えた。
社長室のドアをノックする音に、有紗はボリュームのある「衣装」を揺するようにして席を立ち彼を迎えに出た。
「室長さん、何か私にできることありませんか? ……あ、何もできない、んですけど」
「……それは暇を持て余すのも苦痛ですよね。普通の人間は」
多くを語らなくとも、彼には有紗の言わんとするところは通じたらしい。
「北原さん。その場しのぎにしかなりませんが、明日とりあえず社長にあなたをここから連れ出す許可を取ります。秘書室の仕事でできそうなことがあれば、お願いしていいでしょうか」
何やら首を捻って考えていた一倉は、すぐに有紗に向き直ってありがたい提案をしてくれる。
「はい!」
弾んだ声で返事する有紗に、彼は笑みを向けて部屋を出て行った。
翌日、約束通り一倉が社長室を訪れる。ノックの音に真瀬が応えを返すと、ドアを開けて彼が入って来た。
「社長、今日は北原さんを少しお借りしていいですか? 秘書室の面々と、社長の可愛らしい人形との交流を図りたいのですが」
「え? まぁ、有紗がいいなら僕は構わないよ。どう?」
「行きたいです」
横を向いて確認する真瀬に、有紗は勇気を出して承諾を返す。
「じゃあどうぞ。ウチの秘書はみんないい子でいい人だから。意地悪とかされないだろうし」
「社長、ドラマの観過ぎでは? 女性陣に叱られますよ」
真瀬の言葉を軽くいなした一倉に促され、有紗は彼について社長室を出た。
「お手すきの方だけで結構ですので、少し来ていただけますか?」
有紗を伴って秘書室に戻った一倉の呼びかけに、主任の加賀をはじめとする数人が口々に返事を寄越した。
「手の空かない方はどうぞそのままで。すみませんね」
改めて自分のデスクに残った数人を労ってから、一倉の指示で部屋の端のソファセットに移動する。
細長いテーブルを挟んで、一人掛け用のソファが二つと三人掛けがひとつ、それぞれ配置されていた。
「私と並ぶのは皆さん気が進まないでしょうし、北原さんも初めてですので。申し訳ありませんが、あなた方がそちらに三人で掛けていただくので構いませんか?」
三人の女性が承諾したため、一人掛けに一倉と有紗、向かいに秘書の女性たちが腰掛けることになった。
「皆さん、コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
四人がそれぞれ腰を下ろした後、一倉が確認する。
「室長、お茶でしたらわたくしが――」
有紗が反応するよりも素早く、加賀が腰を浮かし掛けた。
「仕事ではありませんから。で、飲み物は?」
掌を向けることで加賀をあっさり制して、彼はさらに希望を尋ねる。
「……コーヒーをお願いいたします」
「あ、私は紅茶でいいですか?」
不承不承といった調子の加賀にもう一人の女性が続く。
「あたしはコーヒーでお願いします。北原さんは?」
「あ、あの紅茶、を」
鈴木に問われてとりあえず答えた。いいのだろうか。
それぞれの希望を確認し、一倉は室内の一角に設えられた給湯コーナーに消えた。
「室長ってマメな方でしょ? たぶんあたしたちが座ってから言ったのも、前もってだと誰かが『自分やります』って給湯コーナー向かっちゃうからよ」
男性でもそういうことをするのだな、としか感じていなかった有紗は、テーブルに乗り出して囁くように教えてくれた鈴木の考察に、そんな観点もあるのだと初めて気づかされる。
「なかなか交流の機会を設けられなくてすみませんでした。改めて、こちら社長室付の北原さんです。今更ですけれど」
テーブルに淹れて来た飲み物のカップを置いて、改めて一倉が口火を切る。
「わたくしと鈴木さんはお衣装の調達にご一緒しましたので。ここは鷺島さんからどうぞ」
加賀の仕切りに、初出勤の日に紹介されてはいる筈だがまったく覚えのないショートカットの溌剌とした女性が有紗に向けて話し始めた。
「私、鷺島 依美です。よろしくね」
「あ、北原です。こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
「年齢的には、私が主任と鈴木さんの間ですね」
にっこり笑う鷺島に、加賀が即座に横から突っ込みを入れる。
「間には違いありませんが、もう少し正確に。鷺島さんは、わたくしよりずっと鈴木さんに近いじゃありませんか」
「そうですけど、そんな厳密にする必要ありませんよ。主任はもっとご自分に自信をお持ちになるべきでは?」
「あのぅ。北原さんが話について行けないと思うので、お年のこととかお教えしていいですか?」
口を挟めずおろおろしている有紗のために、鈴木が軽く挙手して許可を得てくれた。
「もちろんですわ。ごめんなさいね、北原さんのための機会ですのに蚊帳の外に置いてしまって」
「加賀主任はあたしより十歳年上で、鷺島さんは三歳上なの。鷺島さんは、秘書室であたしのすぐ上の先輩になるのよ」
慌てたように詫びる加賀に頷いて、鈴木が説明してくれるのを聞く。
「……女性の年齢の話には、私は恐ろしくてコメントしようもありませんが、確かに加賀主任はご自分の年齢を気になさり過ぎには思えます。世間的に見てもまだまだ十分お若いにも拘らず」
おそらく本人的には相当に思い切ったのだろう一倉の台詞に、加賀はやはり静かに話を続けた。
「――確かに、室長の仰る通りかもしれません。過ぎた謙遜は嫌味というのか、かえって周りに気を遣わせるとも申しますが、わたくしの場合は別に謙遜でも自虐でもございませんの」
いったん目を伏せて、加賀は言葉を切る。
「ただ、……親が『いい年なのに』というスタンスで責めて来ますので、自分でも知らず影響されているのだと気づきましたわ」
気をつけます、と恐縮したような彼女に皆一様に穏やかな笑みで応える中、有紗は顔が強張るのを抑えられなかった。
誰にも見られないようにしなければ、と不自然に俯く有紗に「人間相手」のプロである秘書たちが気づかないわけがないのだ。
それでも無遠慮に理由を問い質すことをしない一倉と女性たちの心遣いがありがたかった。
「あの、室長。この場のテーマの縛りとか何かあります? 仕事以外の話題でも構わないんでしょうか」
素知らぬ振りで矛先を変えてくれた鈴木に、一倉が肯定を返す。
「無論です。会議でも打ち合わせでもありませんし、何なりとご自由に。もし私がいない方が話が弾むようなら外して――」
「いえいえ、室長も居てくださいよ。いろいろ語っていただきたいですね」
鷺島がわざとらしい笑顔で彼を引き留める。
「主任、やっぱり親御さんいろいろ言って来られるんですか? ご結婚とか? ……あ、仰りたくなかったら今のはナシで!」
すみません、と焦る様子の鈴木に、加賀は気にするなという風に笑って見せた。
「いえ、構いませんわ。そうですね、わたくしの親はもう七十前後で、同年代の方たちの親御さんより少し年上で余計なのか、古い固定観念が強いんです。女が一人、三十過ぎても結婚せずに生きているというだけでこの世の終わりみたいに嘆かれて……」
加賀が、一つずつ言葉を選ぶように話し出す。
「わたくしが一人暮らしをしているのも気に入らないようですわ。今の七十くらいの方々って、もうそういう価値観だけではなかったと思うのですけれど、いったい何なんでしょうねぇ」
「うーん。確かにその年代の方って、様々な激動の時代を生き抜かれたわけだから、むしろ多様な価値観に触れて来られている筈なんですけどね。やはり考え方というのは簡単には変わらないということでしょうか」
一倉が加賀の台詞を受けて考えを述べる。
三十代二人の軽くはないやりとりに、有紗だけではなく二十代の二人も聞いているしかできないようだ。
有紗とは理由は違うだろうが、自分一人が取り残されたのではないことに安心してしまった。
「わたくしは正直、結婚願望ってまったくないんですの。子どもも嫌いではありませんし、小さな子は可愛らしいとは思いますが、特に子を持ちたいという希望もございませんし。でも両親にとっては、それ自体がもう非現実的な思考らしいんですのよ」
「え? 今どきそんなのごく普通ですよね? いや、あたしは一応結婚願望はある、……ある、んですけど」
鈴木の声が小さくなって行ったのは、おそらく具体的な結婚生活などは描いていないからだろう。
「北原さんは? 結婚願望ってあるの? いや、意外と今の若い子ってそういうのシビアだったりする?」
唐突な鈴木の問いに、有紗は一瞬言葉に詰まる。結婚。──家族。
しかし、名指しでこの至近距離で問われて、無言を貫くこともできなかった。口が乾いて声が出にくいのをどうにか絞り出す。
「あ、えーと。……いつかはしたいな、って、思って、ます」
「そっかぁ。なんか、素直にそう言えるのっていいですねぇ」
それでもどうにか答えた有紗に、鈴木だけではなく他の面々も笑みを浮かべて頷いていた。
「えーと、私もいいですか? 失礼なこともお聞きするかもしれませんけど、答えたくなければ当然無視してくださっていいですから。……で、室長はプライベートは謎ですけど、実際どうなんでしょう?」
聞き手に回っていた鷺島が思い切ったように口を開く。
「私? いきなり私ですか? ……私も加賀主任と同じです。結婚願望はありません」
突然の指名に多少混乱した様子は見せたものの、一倉は落ち着いて話を継いだ。
「この会社は大きくはないですが、男女とも結婚のプレッシャーを掛けられることもありませんし、いざ結婚したり出産したりしても、きちんと制度も使えますしね。なかなか働きやすい風土ではないかと考えていますが」
一倉が、どういう意図なのかさり気なく会社のメリットを並べるのに、鈴木が興奮したように乗って来る。
「あ! あたし、制度があるのに実質使えないなんて信じられなかったんですよね。いや、法律で決まってるんじゃないの? って。でも、去年就職してほかの会社の友達の話聞くと、ほんっといろんなとこあるみたいですよ」
「先代社長の時代は、まだまだ旧態依然な部分も残っていましたよ。主任はご存じでしょうが」
「……そうでしたわね。そう思えば本当に変わりました」
過去を振り返る一倉の言葉に、加賀もしみじみとした口調で力を込めて頷いた。
「そうだったんですね。全然知りませんでした。あたしが入社した時には、もう現体制でしたし」
最も若い鈴木が驚きを表す。
「先代社長が問題だったわけじゃないんです。社内全体の空気の問題があったというのか、特に上層部が。……現社長は、本当によくやっておられましたよ、いや今も」
「ええ、本当に」
「……前の社長さんって、ご、今の社長さんのお父さんなんですよね?」
一倉と加賀の会話を聞き有紗が以前真瀬に聞いた話を思い出して問うのに、秘書室長がそうですよ、と微笑む。
「北原さん。社長はちょっと困った人に見えるかもしれませんが、……いえ、確かにそういう面は否定できませんが、決して悪い人間ではないんです。若いあなたに多くを委ねるのは酷ですが」
有紗には彼が何を言いたいのかよくわからなかったのだが、一倉が真剣な目で告げる言葉に黙って首肯した。
「あ、そうだ! お買い物の時に言ってたんですけど、またスイーツ会しませんか? いえ、他の何会でもいいんですけど。北原さんも来て欲しいから、室長何とかなりません?」
解散のタイミングで、鈴木が思い出したように持ち出した話。
「ああ、そういえば最近企画していませんでしたね。皆さんお忙しそうでしたし。是非、近いうちに。よろしければ、あとで都合の悪い日を教えてください。他の皆さんにも伝えていただけますか? ──社長には私が何とか話を通します」
一倉がにこやかに言葉を繋ぎながら、最後の一節は有紗の目を見てくれた。
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もちろん『人形』として。
一人きりの社長室で、デスクの引き出しに仕舞ってある、秘書室の鈴木に借りた本を捲ってみる。
幼い頃から落ち着いて読書に没頭できる家庭環境ではなかったため、有紗は本を読むのがあまり得意ではない。
勉強もできる方ではなかったが、親身になってくれた学校の教師には「お前は頭は悪くないんだから」と励まされたりもした。
しかし、肝心の自分がそうは思えなかったのだ。
そこへ目の前の電話機から内線の呼び出し音が鳴り、一瞬戸惑ったものの無視するわけにも行かず有紗は受話器を取って応答する。
「はい」
『北原さん、一倉です。今日も来られたんですね。いつ帰っていただいても構いませんから。ご挨拶も不要で――』
「あ、あの!」
『すぐ伺います』
相手の言葉尻に被せるような有紗の勢いに、彼は何か察したのかすっと口調を変えた。
社長室のドアをノックする音に、有紗はボリュームのある「衣装」を揺するようにして席を立ち彼を迎えに出た。
「室長さん、何か私にできることありませんか? ……あ、何もできない、んですけど」
「……それは暇を持て余すのも苦痛ですよね。普通の人間は」
多くを語らなくとも、彼には有紗の言わんとするところは通じたらしい。
「北原さん。その場しのぎにしかなりませんが、明日とりあえず社長にあなたをここから連れ出す許可を取ります。秘書室の仕事でできそうなことがあれば、お願いしていいでしょうか」
何やら首を捻って考えていた一倉は、すぐに有紗に向き直ってありがたい提案をしてくれる。
「はい!」
弾んだ声で返事する有紗に、彼は笑みを向けて部屋を出て行った。
翌日、約束通り一倉が社長室を訪れる。ノックの音に真瀬が|応《いら》えを返すと、ドアを開けて彼が入って来た。
「社長、今日は北原さんを少しお借りしていいですか? 秘書室の面々と、社長の可愛らしい人形との交流を図りたいのですが」
「え? まぁ、有紗がいいなら僕は構わないよ。どう?」
「行きたいです」
横を向いて確認する真瀬に、有紗は勇気を出して承諾を返す。
「じゃあどうぞ。ウチの秘書はみんないい子でいい人だから。意地悪とかされないだろうし」
「社長、ドラマの観過ぎでは? 女性陣に叱られますよ」
真瀬の言葉を軽くいなした一倉に促され、有紗は彼について社長室を出た。
「お手すきの方だけで結構ですので、少し来ていただけますか?」
有紗を伴って秘書室に戻った一倉の呼びかけに、主任の加賀をはじめとする数人が口々に返事を寄越した。
「手の空かない方はどうぞそのままで。すみませんね」
改めて自分のデスクに残った数人を労ってから、一倉の指示で部屋の端のソファセットに移動する。
細長いテーブルを挟んで、一人掛け用のソファが二つと三人掛けがひとつ、それぞれ配置されていた。
「私と並ぶのは皆さん気が進まないでしょうし、北原さんも初めてですので。申し訳ありませんが、あなた方がそちらに三人で掛けていただくので構いませんか?」
三人の女性が承諾したため、一人掛けに一倉と有紗、向かいに秘書の女性たちが腰掛けることになった。
「皆さん、コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
四人がそれぞれ腰を下ろした後、一倉が確認する。
「室長、お茶でしたらわたくしが――」
有紗が反応するよりも素早く、加賀が腰を浮かし掛けた。
「仕事ではありませんから。で、飲み物は?」
掌を向けることで加賀をあっさり制して、彼はさらに希望を尋ねる。
「……コーヒーをお願いいたします」
「あ、私は紅茶でいいですか?」
不承不承といった調子の加賀にもう一人の女性が続く。
「あたしはコーヒーでお願いします。北原さんは?」
「あ、あの紅茶、を」
鈴木に問われてとりあえず答えた。いいのだろうか。
それぞれの希望を確認し、一倉は室内の一角に設えられた給湯コーナーに消えた。
「室長ってマメな方でしょ? たぶんあたしたちが座ってから言ったのも、前もってだと誰かが『自分やります』って|給湯コーナー《あっち》向かっちゃうからよ」
男性でもそういうことをするのだな、としか感じていなかった有紗は、テーブルに乗り出して囁くように教えてくれた鈴木の考察に、そんな観点もあるのだと初めて気づかされる。
「なかなか交流の機会を設けられなくてすみませんでした。改めて、こちら社長室付の北原さんです。今更ですけれど」
テーブルに淹れて来た飲み物のカップを置いて、改めて一倉が口火を切る。
「わたくしと鈴木さんはお衣装の調達にご一緒しましたので。ここは|鷺島《さぎしま》さんからどうぞ」
加賀の仕切りに、初出勤の日に紹介されてはいる筈だがまったく覚えのないショートカットの溌剌とした女性が有紗に向けて話し始めた。
「私、鷺島 |依美《えみ》です。よろしくね」
「あ、北原です。こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
「年齢的には、私が主任と鈴木さんの間ですね」
にっこり笑う鷺島に、加賀が即座に横から突っ込みを入れる。
「間には違いありませんが、もう少し正確に。鷺島さんは、わたくしよりずっと鈴木さんに近いじゃありませんか」
「そうですけど、そんな厳密にする必要ありませんよ。主任はもっとご自分に自信をお持ちになるべきでは?」
「あのぅ。北原さんが話について行けないと思うので、お年のこととかお教えしていいですか?」
口を挟めずおろおろしている有紗のために、鈴木が軽く挙手して許可を得てくれた。
「もちろんですわ。ごめんなさいね、北原さんのための機会ですのに蚊帳の外に置いてしまって」
「加賀主任はあたしより十歳年上で、鷺島さんは三歳上なの。鷺島さんは、秘書室であたしのすぐ上の先輩になるのよ」
慌てたように詫びる加賀に頷いて、鈴木が説明してくれるのを聞く。
「……女性の年齢の話には、私は恐ろしくてコメントしようもありませんが、確かに加賀主任はご自分の年齢を気になさり過ぎには思えます。世間的に見てもまだまだ十分お若いにも拘らず」
おそらく本人的には相当に思い切ったのだろう一倉の台詞に、加賀はやはり静かに話を続けた。
「――確かに、室長の仰る通りかもしれません。過ぎた謙遜は嫌味というのか、かえって周りに気を遣わせるとも申しますが、わたくしの場合は別に謙遜でも自虐でもございませんの」
いったん目を伏せて、加賀は言葉を切る。
「ただ、……親が『いい年なのに』というスタンスで責めて来ますので、自分でも知らず影響されているのだと気づきましたわ」
気をつけます、と恐縮したような彼女に皆一様に穏やかな笑みで応える中、有紗は顔が強張るのを抑えられなかった。
誰にも見られないようにしなければ、と不自然に俯く有紗に「人間相手」のプロである秘書たちが気づかないわけがないのだ。
それでも無遠慮に理由を問い質すことをしない一倉と女性たちの心遣いがありがたかった。
「あの、室長。この場のテーマの縛りとか何かあります? 仕事以外の話題でも構わないんでしょうか」
素知らぬ振りで矛先を変えてくれた鈴木に、一倉が肯定を返す。
「無論です。会議でも打ち合わせでもありませんし、何なりとご自由に。もし私がいない方が話が弾むようなら外して――」
「いえいえ、室長も居てくださいよ。いろいろ語っていただきたいですね」
鷺島がわざとらしい笑顔で彼を引き留める。
「主任、やっぱり親御さんいろいろ言って来られるんですか? ご結婚とか? ……あ、仰りたくなかったら今のはナシで!」
すみません、と焦る様子の鈴木に、加賀は気にするなという風に笑って見せた。
「いえ、構いませんわ。そうですね、わたくしの親はもう七十前後で、同年代の方たちの親御さんより少し年上で余計なのか、古い固定観念が強いんです。女が一人、三十過ぎても結婚せずに生きているというだけでこの世の終わりみたいに嘆かれて……」
加賀が、一つずつ言葉を選ぶように話し出す。
「わたくしが一人暮らしをしているのも気に入らないようですわ。今の七十くらいの方々って、もうそういう価値観だけではなかったと思うのですけれど、いったい何なんでしょうねぇ」
「うーん。確かにその年代の方って、様々な激動の時代を生き抜かれたわけだから、むしろ多様な価値観に触れて来られている筈なんですけどね。やはり考え方というのは簡単には変わらないということでしょうか」
一倉が加賀の台詞を受けて考えを述べる。
三十代二人の軽くはないやりとりに、有紗だけではなく二十代の二人も聞いているしかできないようだ。
有紗とは理由は違うだろうが、自分一人が取り残されたのではないことに安心してしまった。
「わたくしは正直、結婚願望ってまったくないんですの。子どもも嫌いではありませんし、小さな子は可愛らしいとは思いますが、特に子を持ちたいという希望もございませんし。でも両親にとっては、それ自体がもう非現実的な思考らしいんですのよ」
「え? 今どきそんなのごく普通ですよね? いや、あたしは一応結婚願望はある、……ある、んですけど」
鈴木の声が小さくなって行ったのは、おそらく具体的な結婚生活などは描いていないからだろう。
「北原さんは? 結婚願望ってあるの? いや、意外と今の若い子ってそういうのシビアだったりする?」
唐突な鈴木の問いに、有紗は一瞬言葉に詰まる。結婚。──家族。
しかし、名指しでこの至近距離で問われて、無言を貫くこともできなかった。口が乾いて声が出にくいのをどうにか絞り出す。
「あ、えーと。……いつかはしたいな、って、思って、ます」
「そっかぁ。なんか、素直にそう言えるのっていいですねぇ」
それでもどうにか答えた有紗に、鈴木だけではなく他の面々も笑みを浮かべて頷いていた。
「えーと、私もいいですか? 失礼なこともお聞きするかもしれませんけど、答えたくなければ当然無視してくださっていいですから。……で、室長はプライベートは謎ですけど、実際どうなんでしょう?」
聞き手に回っていた鷺島が思い切ったように口を開く。
「私? いきなり私ですか? ……私も加賀主任と同じです。結婚願望はありません」
突然の指名に多少混乱した様子は見せたものの、一倉は落ち着いて話を継いだ。
「|この会社《ウチ》は大きくはないですが、男女とも結婚のプレッシャーを掛けられることもありませんし、いざ結婚したり出産したりしても、きちんと制度も使えますしね。なかなか働きやすい風土ではないかと考えていますが」
一倉が、どういう意図なのかさり気なく会社のメリットを並べるのに、鈴木が興奮したように乗って来る。
「あ! あたし、制度があるのに実質使えないなんて信じられなかったんですよね。いや、法律で決まってるんじゃないの? って。でも、去年就職してほかの会社の友達の話聞くと、ほんっといろんなとこあるみたいですよ」
「先代社長の時代は、まだまだ旧態依然な部分も残っていましたよ。主任はご存じでしょうが」
「……そうでしたわね。そう思えば本当に変わりました」
過去を振り返る一倉の言葉に、加賀もしみじみとした口調で力を込めて頷いた。
「そうだったんですね。全然知りませんでした。あたしが入社した時には、もう現体制でしたし」
最も若い鈴木が驚きを表す。
「先代社長が問題だったわけじゃないんです。社内全体の空気の問題があったというのか、特に上層部が。……現社長は、本当によくやっておられましたよ、いや今も」
「ええ、本当に」
「……前の社長さんって、ご、今の社長さんのお父さんなんですよね?」
一倉と加賀の会話を聞き有紗が以前真瀬に聞いた話を思い出して問うのに、秘書室長がそうですよ、と微笑む。
「北原さん。社長はちょっと困った人に見えるかもしれませんが、……いえ、確かにそういう面は否定できませんが、決して悪い人間ではないんです。若いあなたに多くを委ねるのは酷ですが」
有紗には彼が何を言いたいのかよくわからなかったのだが、一倉が真剣な目で告げる言葉に黙って首肯した。
「あ、そうだ! お買い物の時に言ってたんですけど、またスイーツ会しませんか? いえ、他の何会でもいいんですけど。北原さんも来て欲しいから、室長何とかなりません?」
解散のタイミングで、鈴木が思い出したように持ち出した話。
「ああ、そういえば最近企画していませんでしたね。皆さんお忙しそうでしたし。是非、近いうちに。よろしければ、あとで都合の悪い日を教えてください。他の皆さんにも伝えていただけますか? ──社長には私が何とか話を通します」
一倉がにこやかに言葉を繋ぎながら、最後の一節は有紗の目を見てくれた。