「北原さん、これがあなたのデスクです。もともと社長一人用の部屋に急遽入れたので、少し狭いかもしれませんが」
翌朝、出勤して来た有紗をこの社長室で待っていた一倉が、彼女に淡々と説明しているのを真瀬は無言で見守る。
「それでは、実際には真瀬の指示に従ってください。ただし! 本当に『おかしい』と思ったら、すぐに私か加賀主任に一言お願いします」
……随分な言い草だとは感じるものの、『人形』遊びなんて言い出した自分が彼に不安視されるのは仕方がない。
これはビジネスが絡む真剣ごとなのだ。
一倉は別に真瀬の人間性そのものを疑っているわけではないのだから。たぶん、おそらくは。
「わかりました」
真面目に答えて、一倉を見送る彼女が身に着けているのは、レースやフリルたっぷりでスカート部分が大きく膨らんだワンピース。
子どもの上履きのようにしか見えない、先の丸い靴。
正直「ダサい」と捉えてしまったが、これは彼女の好みではないのだ。「可愛く、人形のように」という己の希望に沿ってくれたのだろうから、文句を言うのは良くない。
真瀬自身が口にした通り、なんとも浮世離れした衣装。
そういう点でも、理想通り、なのだろうか。
だからと言って、「コスプレ感満載」という訳でもない。茶系の落ち着いた色味のせいもあるのか、あくまでも「日常に頑張って盛った」レベルだ。
この辺りは秘書室の二人の匙加減なのだろう。感謝しなければ。
「……えーと。そのまま出勤してきたの? あ、服」
「? はい」
着替える場所がないのだから他に方法もないのは確実なのだが、思わず確認してしまった真瀬に彼女は何の疑問も抱いてはいないようだ。
「もし嫌なら、恥ずかしかったりしたら更衣室もあるから。通勤中まで僕に合わせなくていいからね」
「え? いえ、別に。そんなおかしな服じゃないですよね? 全然イヤらしくないですし。昨日お店の方も、加賀さんと鈴木さんも、どの服も似合うって言ってくださったので」
どうやら有紗は、所謂露出度の高い格好をさせられるのでは、という危惧はしていたらしい。
純粋培養の箱入りでもあるまいし、今どきの女子高生だったのなら当然それなりの知識はある筈だ。
そして確かにこの少女は、本当に素直な性格なのだというのだけは真瀬にも伝わった。買い物に来た客に、店員が「似合わない」という言葉など発するわけもなかろうに。
「あの。私は何をすればいいんでしょう」
会話が途切れ沈黙が流れて、有紗が思い切ったように口を開いた。
「何、って。うーん、別に何も。僕の仕事中は構えないから、自分の席で好きなことしてていいよ。本でもゲームでも。僕が呼んだときにちょっと来てくれたらそれで」
「……はぁ」
「あ、そうだ。僕のことは『ご主人様』て呼んで欲しい。で、君のこと『有紗』って呼んでも構わないかな? あ、でも嫌ならこっちはいいよ」
重要事項ではあるが、実際にどういう反応をされるか心配もしていた。しかし彼女は何の抵抗も示さない。
「はい、わかりました」
「そっか、よかった。じゃあよろしく」
「ご主人様、よろしくお願いします」
真瀬は所謂「メイド喫茶」なるものに行ったことはなかった。しかし、そういう非日常の場ではなく普段通りの自分のオフィスで呼ばれるには、あまりにも場違いなその呼称。
そもそも「ご主人様」なる単語自体、普通に生きていたらまず聞く機会がないのだから。
それでも、気恥ずかしくはあるが決して嫌な気はしなかった。毎日呼ばれていれば、そのうち慣れるだろう。
──ご主人様。そうだ、『主人』なのだ。この『人形』の。
単なる持ち主ではない。思っていたよりも面倒、かもしれないけれど、その分楽しみもありそうだ。
真瀬には無縁だったものの、多くの人間が『育成』的なゲームをしたがるのも同じなのだろうか?

◇ ◇ ◇
三日目になるその翌日。
正確には『人形』としての二日目、有紗が出勤するなり社長室で迎えてくれた真瀬が焦った顔で訊いて来た。
「有紗、昨日お昼食べた?」
「あ、いえ。その……」
突然のことに戸惑い、言葉に詰まってしまう。
『人形』が『ご主人様』の前で飲食など許されないだろう、と言い出せなかったのだ。飲み物はドリンクサーバーを利用できると一倉に教えられていたのだが、昨日は喉が渇いたと感じる余裕もなかった。
一食くらい食べなくてもどうということはない。高校時代も、朝弁当を作る時間がない時はパンを買う金もなく、昼を抜くこともよくあった。
毎日だと厳しいのは確かだが、昨日はそれ以上考えることを放棄してしまったのだ。それは有紗の問題だと思っている。
困る有紗に、真瀬の方が動揺しているように見えた。
「それくらいなんで言って、──いや僕が、『主人』が気配りすべきことだよな。本当にごめん」
頭を下げる真瀬に驚きで言葉も出ない。なぜ、自分なんかにこんな。
「昼休みは勤務時間外だから! 『人形』であろうとなかろうと、自由に過ごしていい、というか過ごせなきゃいけないんだよ」
「……はい」
「ウチはこの規模だから社員食堂なんてものはないけど、希望者にはデリバリーランチも利用できるようにしてるんだ。人数集まらないと配達してもらえないからね」
ふっと息を吐いた真瀬が、有紗を安心させるように静かに説明してくれた。
「総務で毎朝取り纏めてるからさ、有紗はもし食べたかったら秘書室に入れてもらえばいいよ。一倉に言っとく。……あ、もちろん外に食べに行くのも買いに行くのも好きにしていいからね」
「わかりました。……ありがとうございます」
《"NOBLESSE OBLIGE"》
そんな言葉が唐突に頭に浮かぶ。
高校の世界史の授業中、斜に構えたところのある担当教師がいきなり黒板に書き殴ったフランス語。
「『
NOBLESSE OBLIGE』。みなさんは知ってますか? 身分の高いものには相応の義務がある、というような意味です。身も蓋もない言い方をすれば
施しですが、上に立つ人たちには上なりの
柵や矜持があるってことですね」
教室に広がる微妙な空気などものともせず、彼は書いたばかりの文字を無造作に消すと、何事もなかったかのように授業の板書を再開した。
真瀬にとっての有紗もそういう対象なのかもしれない。『主人』と『人形』という上下関係において。
「有紗」
「は、はい。何でしょうか、ご主人様」 ふいに呼ばれて、ぼんやりしていた有紗は慌てて背筋を伸ばす。
「ちょっと立ってみてよ。で、この前、部屋の中央でくるっと回って見せてくれる?」
真瀬が自分のデスクに座ったまま机の前のスペースを指すのに、有紗はゆっくりと立ち上がりデスクの脇を回って指示された場所に出た。
「ここで回ればいいんですか?」
「そう。優雅にふわっとね」
よく理解できないままに、有紗はスカートが広がるように気をつけてその場でゆったりと回転して見せる。
「ああ、いいね! 今日の服、なんかファンタジーに出て来そうでいいねぇ。凄く可愛い」
有紗が身に着けているのは、オフホワイト地に紺のアクセントラインが縦に走るワンピース。
正直なところ、昨日まで着ていたものと今日の衣装の間に何の差があるのか有紗には判別できなかった。
しかし、真瀬には違うようだ。言うまでもなく大事なのは彼の意向。
「あの、ご主人様がこれがお好みなら、これを多めに着て来ましょうか?」
毎朝「可愛い」と声掛けしてはくれるものの、特に衣装に関する具体的な感想など言われたことがなかったため咄嗟に訊いた有紗に、真瀬はあっさり首を振った。
「いや? いつものも可愛いよ、ホントに。どれが好きとか嫌いとかじゃなくて、それぞれ有紗には似合ってると思うし。だから有紗の好きなのを今まで通りに着て来てくれたらいい」
「……はい」
「今日のは何て言うか、なんかのゲームっぽい? うーん、僕あんまりゲームしないから詳しくないんだけど、テレビとかで観たのかなぁ」
単に既視感を覚えただけだ、とあっさり言って真瀬は話を終わらせた。
突然始まった『人形』生活も、ようやく一週間。
初日はどうしても時間が取れない、と申し訳なさそうにしていた真瀬は、その翌日に何とか空きを作ってスマートフォンを買いに連れて行ってくれた。
すべてお任せで、いくつかの候補の中から見た目の色だけで選んだ端末にも、どうにか馴染んできたところだ。