38.「カード・キス」

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 小窓の方から、ヒュルリと音がした。
 海風の薄く透き通った髪が、一本ずつほどけながらサラサラと靡いた。

 前髪がいくらか睫毛にかかったのに、震えて潤むふたつの瞳は大きく見開かれたまま、閉じる様子がない。

 目に入りそうだなと思ったので、そっと腕を伸ばし――前髪に触れて横へ逃がしてあげると、彼女は思い出したかのように瞬きをした。


『鬼』を突き出していた海風の腕はゆっくりと下がり、そのままカードを持った手が、床に崩していたスカート越しの膝へと置かれた。

 視線を落としたことで、ついさっきまで向かい合わせに掲げていた俺の『朱』と彼女の『鬼』のテキストが、ひとつの視界の中で重なった。

 ついに盤面で完成しなかった「すき」という二文字が、ふと頭をよぎる。

 あれ、ヘンだな。
 この言葉って――いま俺、口にしなかったっけ。


 落としていた視線を、海風の上半身に戻した。
 しかし、彼女の肩が小刻みに震えていることに気が付いて、無意識に視線を外してしまった。

 床の上でまとめられたカードたち。

 飲みかけの麦茶とコーラ。

 ひび割れた壁。

 静かに閉じられた鉄扉。

 きゅっと閉じられた海風の口もと。

 がんばりの証だった焼けた肌は――とても、あたたかな色に覆われていた。


 すべてを自覚した瞬間、全身がたちまち熱を帯びていった。

 同時に、海風の閉じられていた口が開かれた。


「もっと……先になっちゃうんだと、思ってた」


 ほんのちょっとだけ、からかうような口ぶりだ。
 しかし震えのせいだろうか、なんだか声の抑揚がヘンだ。

 そんな、だめだ――やり直さなきゃ!


「……ち、ちが、あれはっ! ごめん、ホントはつ、伝え方が、そのっ」


 そうだ、違うんだよ海風!
 もっと、海風にふさわしいちゃんとした告白をしようと思ってたのに。

 あれは俺が思っていたことが、そのまま口に出ちゃっただけだ!


 海風にそのことを伝えたくて、近づきたくて、前のめりになろうとした。

 でも、『朱』を持っていない方の手を床についたところで――すでに彼女の身体は目の前にあった。

 突如、肩から胸板にかけて触れた勢いとともに、俺は背後の壁へと押し倒される。

 背中に感じた固さが、眼前で密着した温もりと小刻みな鼓動に上書きされていく。

 海風が俺に身を寄せてきたのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。


「う、うみかぜっ、な、なにをっ」
「……すごく、嬉しい」


 カードを持った手を添えて、俺の胸板に顔をうずめた海風が絞り出した声は、いつものハツラツとしたそれとはまるで違う。

 一つ一つの文字を丁寧に紡ぐように、大切に囁いてくれているのがよく分かった。


「だから……ちがうなんて、いわないで」


 驚きのあまり、上がっていた両手を下げる前に、俺は思っていることを口にした。


「でも、おれ。まだまだ海風のこと……知らないことだらけだったんだよ」
「……ん」

「カ、カードに頼らなきゃ、気持ちを伝える勇気すら出なかったんだよ」
「……うん」


 それ以上は情けなくて、俺の口から続けられなかった。
 だけど、それでよかった。


「私も、室井くんのそういうところが……好きだよ」


 海風が行動ではなく、今度は言葉で示してくれて――胸のあたりが温かいを越えて、じんと熱くなったから。

 両手を海風の背中にゆっくり下ろして、ポンと触れた。

 手に伝わる鼓動は、最早どちらのものかも分からない。


 胸板に添えられている、海風の手に握られた『き』がふと目に入った。

 俺は、自身が握っていたカードを――海風のカードに、つんと当てた。



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 小窓の方から、ヒュルリと音がした。
 海風の薄く透き通った髪が、一本ずつほどけながらサラサラと靡いた。
 前髪がいくらか睫毛にかかったのに、震えて潤むふたつの瞳は大きく見開かれたまま、閉じる様子がない。
 目に入りそうだなと思ったので、そっと腕を伸ばし――前髪に触れて横へ逃がしてあげると、彼女は思い出したかのように瞬きをした。
『鬼』を突き出していた海風の腕はゆっくりと下がり、そのままカードを持った手が、床に崩していたスカート越しの膝へと置かれた。
 視線を落としたことで、ついさっきまで向かい合わせに掲げていた俺の『朱』と彼女の『鬼』のテキストが、ひとつの視界の中で重なった。
 ついに盤面で完成しなかった「すき」という二文字が、ふと頭をよぎる。
 あれ、ヘンだな。
 この言葉って――いま俺、口にしなかったっけ。
 落としていた視線を、海風の上半身に戻した。
 しかし、彼女の肩が小刻みに震えていることに気が付いて、無意識に視線を外してしまった。
 床の上でまとめられたカードたち。
 飲みかけの麦茶とコーラ。
 ひび割れた壁。
 静かに閉じられた鉄扉。
 きゅっと閉じられた海風の口もと。
 がんばりの証だった焼けた肌は――とても、あたたかな色に覆われていた。
 すべてを自覚した瞬間、全身がたちまち熱を帯びていった。
 同時に、海風の閉じられていた口が開かれた。
「もっと……先になっちゃうんだと、思ってた」
 ほんのちょっとだけ、からかうような口ぶりだ。
 しかし震えのせいだろうか、なんだか声の抑揚がヘンだ。
 そんな、だめだ――やり直さなきゃ!
「……ち、ちが、あれはっ! ごめん、ホントはつ、伝え方が、そのっ」
 そうだ、違うんだよ海風!
 もっと、海風にふさわしいちゃんとした告白をしようと思ってたのに。
 あれは俺が思っていたことが、そのまま口に出ちゃっただけだ!
 海風にそのことを伝えたくて、近づきたくて、前のめりになろうとした。
 でも、『朱』を持っていない方の手を床についたところで――すでに彼女の身体は目の前にあった。
 突如、肩から胸板にかけて触れた勢いとともに、俺は背後の壁へと押し倒される。
 背中に感じた固さが、眼前で密着した温もりと小刻みな鼓動に上書きされていく。
 海風が俺に身を寄せてきたのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
「う、うみかぜっ、な、なにをっ」
「……すごく、嬉しい」
 カードを持った手を添えて、俺の胸板に顔をうずめた海風が絞り出した声は、いつものハツラツとしたそれとはまるで違う。
 一つ一つの文字を丁寧に紡ぐように、大切に囁いてくれているのがよく分かった。
「だから……ちがうなんて、いわないで」
 驚きのあまり、上がっていた両手を下げる前に、俺は思っていることを口にした。
「でも、おれ。まだまだ海風のこと……知らないことだらけだったんだよ」
「……ん」
「カ、カードに頼らなきゃ、気持ちを伝える勇気すら出なかったんだよ」
「……うん」
 それ以上は情けなくて、俺の口から続けられなかった。
 だけど、それでよかった。
「私も、室井くんのそういうところが……好きだよ」
 海風が行動ではなく、今度は言葉で示してくれて――胸のあたりが温かいを越えて、じんと熱くなったから。
 両手を海風の背中にゆっくり下ろして、ポンと触れた。
 手に伝わる鼓動は、最早どちらのものかも分からない。
 胸板に添えられている、海風の手に握られた『き』がふと目に入った。
 俺は、自身が握っていたカードを――海風のカードに、つんと当てた。