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#1-1 静けさのなかのはじまり

ー/ー



 雨上がりの夕方、雑居ビルの三階。廊下の奥にある木の引き戸を前にして、人見悠貴は少しだけ深呼吸をした。
 控えめな暖簾に『居酒屋 つむぎ』の文字。外からは店内の様子はうかがえないが、ほんのりと出汁の香りが漂っている。

 専門学校に入学して、もうすぐ二ヶ月が経とうとしていた。知らない土地での一人暮らし。最初こそ緊張の連続だったが、授業や生活にも少しずつ慣れ、ようやく心に余裕ができた頃だった。
 食費と、たまに買うゲームや本代くらいは自分でどうにかしたい――そう思って求人サイトを眺めていた時、ゴールデンウィークの記憶がよみがえった。

『居酒屋のバイトは融通利くし、時給もまあまあだぞ。接客苦手ならキッチン入ればいい』

 そう言って缶ビールを開けていたのは、次男の兄・拓海だった。

 都内の私立大学に進学したものの、ろくに通わず中退。
 今は職を転々としながら、同棲中の彼女に迷惑ばかりかけているらしい。親の前では「そろそろ落ち着こうと思ってる」なんて嘘とも本気ともつかないことを言いながら、結局フラフラしている。
 正直、どうしようもない――そう思うことも多い。でも、子供の頃は毎日のように遊んでもらっていた兄だ。キャッチボールも、ゲームも、夏祭りも。悠貴にとって、最初にできた“友だち”みたいな存在だった。

 彼女に甘えながら、実家にもふらっと帰ってくるあの図々しさは、たぶん兄の人懐っこさと憎めない人柄の裏返しなんだろう。
 親にも怒られながら、それでもなんとなく受け入れられてしまうのは、兄の“人徳”みたいなものなのかもしれない。

 悠貴は、手元のスマホで時刻を確認する。面接の時間まで、あと三分。

 胸の奥がわずかにざわついている。けれど、この緊張感も悪くない。
 軽く背筋を伸ばし、静かに手を伸ばした。
 少し湿った木の取っ手を握り、力を込めて、引き戸を開ける。

 まだ営業前の店内から漏れてきたのは、仕込み中の揚げ物の香りと、誰かの気さくな笑い声だった。

◇ ◆ ◇

 引き戸がわずかに軋んで閉まると、外の気配がふっと途切れた。
 人見悠貴は、まるで境界を越えたかのような気持ちで店内に足を踏み入れた。

 まだ営業前の「つむぎ」は、照明も控えめで、落ち着いた木の香りと出汁の匂いが混じっている。
 どこか、温泉旅館のラウンジのような――そんな、肩の力が抜ける静けさがあった。

 目の前のカウンターに、一人の女性が立っていた。

 作務衣風の制服の上に、私服と思われるグレーのパーカーを羽織っている。髪は後ろでまとめられていて、どこか柔らかい雰囲気をまとっていた。
 彼女はバインダーを開き、ページをめくりながら何かを確認している。シフト表か、発注リストか。とにかく、集中している様子だった。

 悠貴は声をかけるタイミングを一瞬逃した。
 あまりに静かに扉を閉めすぎたせいか、彼女はまだ彼の存在に気づいていない。

 そのまま数秒。
 彼女がふと顔を上げた。

「……わっ」

 心底驚いたように目を見開く。ほんのわずか身を引いたその拍子に、目が合った。
 そして次の瞬間、彼女の表情に理解の色が浮かび、すっと緩む。

「……あ、面接の方ですか?」

 表情の変化が、あまりにも自然で、柔らかかった。
 その声を聞いた瞬間、悠貴は胸の内にわずかな波を感じた。

(……あ、可愛いな)

 一目惚れというわけではない。ただ、素直にそう思った。
 可愛い、という感情が、抵抗もなく自分の中に落ちてきた。

「はい。人見です。今日、十七時からで……」
「うん、聞いてます。じゃあ、店長に繋ぐので――こっち、どうぞ」

 彼女はバインダーを閉じ、カウンターから出てくると、店内奥の個室席へと悠貴を案内した。

 その後ろ姿を、自然と目で追ってしまう。
 ゆったりした作務衣の上から羽織ったパーカーが、歩くたびにふわりと揺れた。
 そして何より目を引いたのは、まとめた髪だった。編み込みを組み合わせた凝ったアレンジで、素人目にもやけに手が込んでいるのが分かる。

(……手が四つくらいないと、あれ無理じゃない?)

 思わず心の中でツッコミを入れる。
 けれどそれ以上に、髪の“色”が妙に気になった。

 パッと見は黒髪。でも光の角度によっては、ほんのりとグレーがかっているようにも見える。
 地毛っぽくもあるけど、染めてるのかもしれない。不自然さはなくて、むしろさりげなくて洒落ている。

(あれって、美容室でなんて言えば出してもらえるんだ……?)

 そんなことを考えてしまうくらいには、彼女の髪は印象的だった。
 気づけば目で追ってしまっている自分に、悠貴は少しだけ戸惑いながら、それでも自然と歩を進めていた。

 やがて彼女が個室の前で立ち止まり、「ここです」と振り返った。

 悠貴は、どこか現実に引き戻されたような感覚で、軽く頭を下げながらその後に続いた。

◇ ◆ ◇

 個室の引き戸をそっと開けると、二人掛けのテーブルが一つ。壁際の照明が、柔らかなオレンジの光を落としている。

「ここ、座っててくださいね」

 笑顔とともにそう言って、彼女は椅子を軽く指さした。
 悠貴は「ありがとうございます」と小さく頭を下げて、促されるままに腰を下ろす。
 彼女は先ほど持っていたバインダーをカウンターに置いてきたようで、今は手ぶらのまま立っている。

「面接に来た人には、ソフトドリンクお出ししてるんです。何がいいですか?」

 さらりとした口調だったが、どこか気遣いがにじんでいた。
 けれど悠貴は、一瞬返事に詰まる。たったそれだけの質問なのに、何が“正解”なのか分からない。

(素直に答えていいのか、それとも……遠慮するのが大人っぽいのか?)

 コーラって言ったら子どもっぽい? いや、そもそも飲み物を出してもらうこと自体が悪いような――
 思考が絡まりかけたところで、彼女がふっと口元を緩めた。

「じゃあ……ウーロン茶と、オレンジジュースなら、どっちがいい?」

 子どもに接するような柔らかさで、軽く顔を覗き込んでくる。
 選びやすい選択肢を出してくれるそのやり方に、押しつけがましさはなく、自然な気配りがあった。

「あ、じゃあ……ウーロン茶で」

 ようやく口にした自分の声に、悠貴は内心ほっとする。
 彼女は「了解です」と穏やかに頷き、ゆっくりと個室を後にした。

 その後ろ姿を見送りながら、悠貴は少しだけ肩の力を抜いた。
 ――まだ何も始まってないのに、もう気疲れしてる自分がちょっと情けない。

 けれど、それ以上に。
 彼女の柔らかい声と、さっき見せた笑顔が、妙に心に残っていた。

 名前も知らない。
 けれど、たった数分で、なんとなく気になってしまった。

 数分もしないうちに、彼女が戻ってきた。
 手にはトレイ。乗っているのは、氷の入ったウーロン茶のグラスが一つ。

「ウーロン茶、どうぞ」

 彼女はテーブルの縁にそっとトレイを置き、グラスを滑らせるように悠貴の前へ差し出す。
 そのとき、前かがみになった拍子に、羽織っていた私服のパーカーの裾がわずかに持ち上がった。

 作務衣の胸元、そこに名札。
 ちらりと覗いた白いプレートには、丁寧な手書きの文字で――白崎の苗字が見えた。

(白崎、さん……)

 口に出すことはしなかったが、その名前が頭の中に静かに刻まれる。
 少し緊張の抜けた指先で、彼女はグラスの下のコースターを撫でるように整える。

 几帳面なだけかもしれない。でも、その仕草にはどこか、落ち着かなさがにじんでいた。

 彼女は立ち上がったまま、言う。

「店長、まだ来ないんですね〜」

 口調は明るい。けれど、言葉が出る直前、彼女のまつ毛がふっと伏せられた。
 視線が一度、何かを避けるように下へ、それからほんのわずか右下へ泳ぐ。
 そして、すぐに元の笑顔に戻る――その一瞬が、妙に印象に残った。

(……なんだろう、ちょっとトーンが変わった気がしたけど)

 気のせいかもしれない。
 そう思いながら、悠貴はウーロン茶のグラスに指をかける。

「すみません、もう少しだけお待ちくださいね」

 白崎はそう言って、小さく頭を下げた。
 扉を開けて静かに出ていく後ろ姿。

 その背中が見えなくなってから、悠貴はふっと息を吐いた。
 ようやく緊張がほどけた……はずなのに、なぜか気が休まらない。

 ――白崎。
 その名前が、なぜか耳の奥に残っている。

 ほんの数分前まで知らなかった他人。
 それでもなぜか、少しだけ、目が離せなかった。


 再び引き戸が開いた音に、悠貴は反射的に背筋を伸ばした。

 現れたのは、先ほどの白崎さんの制服と同じ作務衣姿の男性だった。
 ただ、その作務衣の色は――悠貴が通されたときに見た制服より、少し落ち着いた墨色。
 前掛けもこげ茶で、やけにしっくりと馴染んでいる。

 「ごめんごめん、待たせたね。店長の河原です」

 そう言いながら、小さく頭を下げる。
 声は柔らかく、けれどどこか眠たげな響きを帯びていた。

 (あ、この人が……)

 悠貴の目が自然と、胸元の名札に向かう。
 「河原 晃司〈店長〉」と、肩書きまできっちり記された文字が目に入った。

 肩の力が抜けたような笑顔と、ラフな立ち居振る舞い。
 それでいて、不思議と清潔感があった。
 イケメンというわけではないが、こういう人、女の人からモテるんだろうな――と、そんな印象だった。

 「お、ウーロン茶もらってるね。……白崎さん、気が利くな〜」

 そう言って河原は、悠貴の向かいの席にストンと腰を下ろす。
 椅子の背にもたれかけるようにしながら、にこっと笑った。

 「じゃあ、簡単に面接してくね。かしこまらなくて大丈夫だから、楽にしていいよ」

 ――たしかに、店長っぽさはある。でも、イメージしていた“店長”とはちょっと違う。

 悠貴は軽く頷きながらも、心のどこかで、「この人の空気感、ちょっと不思議だな」と思っていた。

 河原は履歴書に目を落とした。
 webフォームから送られてきた内容を印刷したもので、紙質もレイアウトも少しだけ味気ない。

 「……“人見”くん、ね。よろしく」

 顔を上げた河原は、さっきより少しだけ真面目なトーンで言った。

 「えーっと……“東関医療専門学院”? あ、ここからけっこう近いとこだよね?」

 「あ、はい。駅から歩いて10分くらいで」
 「ってことは、家もこのへん?」
 「……はい。一人暮らししてます」
 「お、学生で一人暮らし。なかなかだねぇ」

 河原は軽く感心したように口元をゆるめて、手元の履歴書にさらさらと何かを書き足した。

 「で、勉強の方はどう? 医療系って大変そうなイメージあるけど」
 「まあ……はい。でも、今はまだ授業も実習もそこまで大変じゃないので」
 「そっかそっか、ならよかった」

 河原はそう言いながら、ペンを置いて悠貴に視線を戻す。
 穏やかな目つきのまま、表情だけ少し崩してみせる。

 「バイト、初めて?」
 「いえ、高校のときに……郵便局で、年賀状の仕分けを少しだけやってました」
 「なるほど。ってことは、接客業は初めてか」
 「……はい」
 「ま、最初はみんなそうだから。ぜんっぜん気にしなくていいよ」

 あっけらかんとした口ぶりに、悠貴は少しだけ肩の力を抜いた。

 河原は書類をトンと揃え、テーブルの脇へ寄せると、指を組んでにこっと笑った。

 「いいね。なんか真面目そうだし、素直っぽいし」

 その言葉に、悠貴は少しだけ照れくさくなりながらも、頷いてみせた。
 ――まだ面接の最中なのに、不思議と空気は重くない。
 この店、思ってたより居心地が良さそうだな――そんな感触が、悠貴の中にほんのりと残った。

 河原は、履歴書の下部にある「希望シフト」の欄に目を通して、ふっと口元を緩めた。

 「金曜と土曜、だけ?」

 問いかけるような口調に、悠貴は少しだけ居心地が悪そうに姿勢を正した。

 「……はい。授業が多いのと、実習とかもあって……今のところ、それくらいしか入れそうになくて」

 答えながら、(やっぱり少ないって思われるかな)と、どこか不安が胸をよぎる。
 けれど河原は、意外なほどあっさりとした口ぶりで言った。

 「いやいや、全然オッケー。むしろ助かるよ。学生ってさ、だいたい暇な平日に入りたがるからさ。
 金土って、毎週バチバチに人手欲しいんよ。タイミング、ドンピシャ」
 「……そうなんですか」
 「そうそう。そんで祝日前とかも入れるって書いてるし、めっちゃありがたいよ」

 河原は履歴書を指でトントンと叩きながら、ふっと笑った。

 「キッチン希望って書いてるの、いいね。……なんだけど」

 言葉を少しだけ区切って、穏やかに続ける。

 「最初のうちは、できればホールに入ってもらいたいんだよね。もちろん無理にとは言わないけど、店の雰囲気とか、一通り見てもらった方がやりやすくなると思うからさ」

 悠貴は、軽く目を見開いたあと、すぐに頷いた。

 「……わかりました。大丈夫です」
 「ありがとう。覚えるスピードにもよるけど、最初の一か月くらいは、ホール中心になるかも。先輩たちも教えてくれるし、安心して」

 河原の声には、気遣いと期待が程よく混じっている。
 押しつけではないけれど、ちゃんと店の事情も考えてくれている感じがした。

 「はい、がんばります」

 悠貴の返事は、自然と少しだけ力が入っていた。
 まだ知らない世界だけど、ちゃんとやってみようと思える空気が、そこにはあった。

「……じゃあさ、早速だけど、今週いけそう?」

 履歴書をテーブルの端に寄せながら、河原がふと尋ねてくる。
 その口調は、もうすっかり「仲間」として話しているような柔らかさだった。

 「今週、ですか?」

 悠貴が少し驚いたように聞き返すと、河原は「うん」と頷いて、手元のメモを一瞥した。

 「金曜から……って思ったけど」

 言いかけてから、ふっと目線を上に向ける。
 そして、少し考えたあと、にこっと笑って言った。

 「初日だけ、木曜入れない? 金曜って結構バタつくからさ。落ち着いて教える余裕、あんまりなくてさ」

 その言い方には、無理強いするような圧はまったくなかった。
 むしろ、「君がやりやすいようにしたい」という気遣いすら感じられるほどだった。

 「……大丈夫です。木曜、入れます」

 悠貴が答えると、河原は「おっけー」と頷いて、テーブルの脇に置いていたファイルを開いた。
 中には今週分のシフト表らしき紙が挟まれている。

 「木曜は……うん、大丈夫そうだね。教えてくれる人もいるし」

 そう言いながら、河原はさらりと続けた。

 「白崎さんって人が入ってるから、その人が教えてくれると思うよ。――さっき、ウーロン茶持ってきてくれた子」

 「あ……」

 自然と、小さな声が漏れた。
 ようやく“名前”と“顔”が結びついて、悠貴は心の中でそっと繰り返す。

 (白崎さん……)

 あの、気さくで、でもどこか芯の強そうな雰囲気の子。
 名前を知った途端、彼女の印象が少しだけ輪郭を増した気がした。


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 雨上がりの夕方、雑居ビルの三階。廊下の奥にある木の引き戸を前にして、人見悠貴は少しだけ深呼吸をした。
 控えめな暖簾に『居酒屋 つむぎ』の文字。外からは店内の様子はうかがえないが、ほんのりと出汁の香りが漂っている。
 専門学校に入学して、もうすぐ二ヶ月が経とうとしていた。知らない土地での一人暮らし。最初こそ緊張の連続だったが、授業や生活にも少しずつ慣れ、ようやく心に余裕ができた頃だった。
 食費と、たまに買うゲームや本代くらいは自分でどうにかしたい――そう思って求人サイトを眺めていた時、ゴールデンウィークの記憶がよみがえった。
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 都内の私立大学に進学したものの、ろくに通わず中退。
 今は職を転々としながら、同棲中の彼女に迷惑ばかりかけているらしい。親の前では「そろそろ落ち着こうと思ってる」なんて嘘とも本気ともつかないことを言いながら、結局フラフラしている。
 正直、どうしようもない――そう思うことも多い。でも、子供の頃は毎日のように遊んでもらっていた兄だ。キャッチボールも、ゲームも、夏祭りも。悠貴にとって、最初にできた“友だち”みたいな存在だった。
 彼女に甘えながら、実家にもふらっと帰ってくるあの図々しさは、たぶん兄の人懐っこさと憎めない人柄の裏返しなんだろう。
 親にも怒られながら、それでもなんとなく受け入れられてしまうのは、兄の“人徳”みたいなものなのかもしれない。
 悠貴は、手元のスマホで時刻を確認する。面接の時間まで、あと三分。
 胸の奥がわずかにざわついている。けれど、この緊張感も悪くない。
 軽く背筋を伸ばし、静かに手を伸ばした。
 少し湿った木の取っ手を握り、力を込めて、引き戸を開ける。
 まだ営業前の店内から漏れてきたのは、仕込み中の揚げ物の香りと、誰かの気さくな笑い声だった。
◇ ◆ ◇
 引き戸がわずかに軋んで閉まると、外の気配がふっと途切れた。
 人見悠貴は、まるで境界を越えたかのような気持ちで店内に足を踏み入れた。
 まだ営業前の「つむぎ」は、照明も控えめで、落ち着いた木の香りと出汁の匂いが混じっている。
 どこか、温泉旅館のラウンジのような――そんな、肩の力が抜ける静けさがあった。
 目の前のカウンターに、一人の女性が立っていた。
 作務衣風の制服の上に、私服と思われるグレーのパーカーを羽織っている。髪は後ろでまとめられていて、どこか柔らかい雰囲気をまとっていた。
 彼女はバインダーを開き、ページをめくりながら何かを確認している。シフト表か、発注リストか。とにかく、集中している様子だった。
 悠貴は声をかけるタイミングを一瞬逃した。
 あまりに静かに扉を閉めすぎたせいか、彼女はまだ彼の存在に気づいていない。
 そのまま数秒。
 彼女がふと顔を上げた。
「……わっ」
 心底驚いたように目を見開く。ほんのわずか身を引いたその拍子に、目が合った。
 そして次の瞬間、彼女の表情に理解の色が浮かび、すっと緩む。
「……あ、面接の方ですか?」
 表情の変化が、あまりにも自然で、柔らかかった。
 その声を聞いた瞬間、悠貴は胸の内にわずかな波を感じた。
(……あ、可愛いな)
 一目惚れというわけではない。ただ、素直にそう思った。
 可愛い、という感情が、抵抗もなく自分の中に落ちてきた。
「はい。人見です。今日、十七時からで……」
「うん、聞いてます。じゃあ、店長に繋ぐので――こっち、どうぞ」
 彼女はバインダーを閉じ、カウンターから出てくると、店内奥の個室席へと悠貴を案内した。
 その後ろ姿を、自然と目で追ってしまう。
 ゆったりした作務衣の上から羽織ったパーカーが、歩くたびにふわりと揺れた。
 そして何より目を引いたのは、まとめた髪だった。編み込みを組み合わせた凝ったアレンジで、素人目にもやけに手が込んでいるのが分かる。
(……手が四つくらいないと、あれ無理じゃない?)
 思わず心の中でツッコミを入れる。
 けれどそれ以上に、髪の“色”が妙に気になった。
 パッと見は黒髪。でも光の角度によっては、ほんのりとグレーがかっているようにも見える。
 地毛っぽくもあるけど、染めてるのかもしれない。不自然さはなくて、むしろさりげなくて洒落ている。
(あれって、美容室でなんて言えば出してもらえるんだ……?)
 そんなことを考えてしまうくらいには、彼女の髪は印象的だった。
 気づけば目で追ってしまっている自分に、悠貴は少しだけ戸惑いながら、それでも自然と歩を進めていた。
 やがて彼女が個室の前で立ち止まり、「ここです」と振り返った。
 悠貴は、どこか現実に引き戻されたような感覚で、軽く頭を下げながらその後に続いた。
◇ ◆ ◇
 個室の引き戸をそっと開けると、二人掛けのテーブルが一つ。壁際の照明が、柔らかなオレンジの光を落としている。
「ここ、座っててくださいね」
 笑顔とともにそう言って、彼女は椅子を軽く指さした。
 悠貴は「ありがとうございます」と小さく頭を下げて、促されるままに腰を下ろす。
 彼女は先ほど持っていたバインダーをカウンターに置いてきたようで、今は手ぶらのまま立っている。
「面接に来た人には、ソフトドリンクお出ししてるんです。何がいいですか?」
 さらりとした口調だったが、どこか気遣いがにじんでいた。
 けれど悠貴は、一瞬返事に詰まる。たったそれだけの質問なのに、何が“正解”なのか分からない。
(素直に答えていいのか、それとも……遠慮するのが大人っぽいのか?)
 コーラって言ったら子どもっぽい? いや、そもそも飲み物を出してもらうこと自体が悪いような――
 思考が絡まりかけたところで、彼女がふっと口元を緩めた。
「じゃあ……ウーロン茶と、オレンジジュースなら、どっちがいい?」
 子どもに接するような柔らかさで、軽く顔を覗き込んでくる。
 選びやすい選択肢を出してくれるそのやり方に、押しつけがましさはなく、自然な気配りがあった。
「あ、じゃあ……ウーロン茶で」
 ようやく口にした自分の声に、悠貴は内心ほっとする。
 彼女は「了解です」と穏やかに頷き、ゆっくりと個室を後にした。
 その後ろ姿を見送りながら、悠貴は少しだけ肩の力を抜いた。
 ――まだ何も始まってないのに、もう気疲れしてる自分がちょっと情けない。
 けれど、それ以上に。
 彼女の柔らかい声と、さっき見せた笑顔が、妙に心に残っていた。
 名前も知らない。
 けれど、たった数分で、なんとなく気になってしまった。
 数分もしないうちに、彼女が戻ってきた。
 手にはトレイ。乗っているのは、氷の入ったウーロン茶のグラスが一つ。
「ウーロン茶、どうぞ」
 彼女はテーブルの縁にそっとトレイを置き、グラスを滑らせるように悠貴の前へ差し出す。
 そのとき、前かがみになった拍子に、羽織っていた私服のパーカーの裾がわずかに持ち上がった。
 作務衣の胸元、そこに名札。
 ちらりと覗いた白いプレートには、丁寧な手書きの文字で――白崎の苗字が見えた。
(白崎、さん……)
 口に出すことはしなかったが、その名前が頭の中に静かに刻まれる。
 少し緊張の抜けた指先で、彼女はグラスの下のコースターを撫でるように整える。
 几帳面なだけかもしれない。でも、その仕草にはどこか、落ち着かなさがにじんでいた。
 彼女は立ち上がったまま、言う。
「店長、まだ来ないんですね〜」
 口調は明るい。けれど、言葉が出る直前、彼女のまつ毛がふっと伏せられた。
 視線が一度、何かを避けるように下へ、それからほんのわずか右下へ泳ぐ。
 そして、すぐに元の笑顔に戻る――その一瞬が、妙に印象に残った。
(……なんだろう、ちょっとトーンが変わった気がしたけど)
 気のせいかもしれない。
 そう思いながら、悠貴はウーロン茶のグラスに指をかける。
「すみません、もう少しだけお待ちくださいね」
 白崎はそう言って、小さく頭を下げた。
 扉を開けて静かに出ていく後ろ姿。
 その背中が見えなくなってから、悠貴はふっと息を吐いた。
 ようやく緊張がほどけた……はずなのに、なぜか気が休まらない。
 ――白崎。
 その名前が、なぜか耳の奥に残っている。
 ほんの数分前まで知らなかった他人。
 それでもなぜか、少しだけ、目が離せなかった。
 再び引き戸が開いた音に、悠貴は反射的に背筋を伸ばした。
 現れたのは、先ほどの白崎さんの制服と同じ作務衣姿の男性だった。
 ただ、その作務衣の色は――悠貴が通されたときに見た制服より、少し落ち着いた墨色。
 前掛けもこげ茶で、やけにしっくりと馴染んでいる。
 「ごめんごめん、待たせたね。店長の河原です」
 そう言いながら、小さく頭を下げる。
 声は柔らかく、けれどどこか眠たげな響きを帯びていた。
 (あ、この人が……)
 悠貴の目が自然と、胸元の名札に向かう。
 「河原 晃司〈店長〉」と、肩書きまできっちり記された文字が目に入った。
 肩の力が抜けたような笑顔と、ラフな立ち居振る舞い。
 それでいて、不思議と清潔感があった。
 イケメンというわけではないが、こういう人、女の人からモテるんだろうな――と、そんな印象だった。
 「お、ウーロン茶もらってるね。……白崎さん、気が利くな〜」
 そう言って河原は、悠貴の向かいの席にストンと腰を下ろす。
 椅子の背にもたれかけるようにしながら、にこっと笑った。
 「じゃあ、簡単に面接してくね。かしこまらなくて大丈夫だから、楽にしていいよ」
 ――たしかに、店長っぽさはある。でも、イメージしていた“店長”とはちょっと違う。
 悠貴は軽く頷きながらも、心のどこかで、「この人の空気感、ちょっと不思議だな」と思っていた。
 河原は履歴書に目を落とした。
 webフォームから送られてきた内容を印刷したもので、紙質もレイアウトも少しだけ味気ない。
 「……“人見”くん、ね。よろしく」
 顔を上げた河原は、さっきより少しだけ真面目なトーンで言った。
 「えーっと……“東関医療専門学院”? あ、ここからけっこう近いとこだよね?」
 「あ、はい。駅から歩いて10分くらいで」
 「ってことは、家もこのへん?」
 「……はい。一人暮らししてます」
 「お、学生で一人暮らし。なかなかだねぇ」
 河原は軽く感心したように口元をゆるめて、手元の履歴書にさらさらと何かを書き足した。
 「で、勉強の方はどう? 医療系って大変そうなイメージあるけど」
 「まあ……はい。でも、今はまだ授業も実習もそこまで大変じゃないので」
 「そっかそっか、ならよかった」
 河原はそう言いながら、ペンを置いて悠貴に視線を戻す。
 穏やかな目つきのまま、表情だけ少し崩してみせる。
 「バイト、初めて?」
 「いえ、高校のときに……郵便局で、年賀状の仕分けを少しだけやってました」
 「なるほど。ってことは、接客業は初めてか」
 「……はい」
 「ま、最初はみんなそうだから。ぜんっぜん気にしなくていいよ」
 あっけらかんとした口ぶりに、悠貴は少しだけ肩の力を抜いた。
 河原は書類をトンと揃え、テーブルの脇へ寄せると、指を組んでにこっと笑った。
 「いいね。なんか真面目そうだし、素直っぽいし」
 その言葉に、悠貴は少しだけ照れくさくなりながらも、頷いてみせた。
 ――まだ面接の最中なのに、不思議と空気は重くない。
 この店、思ってたより居心地が良さそうだな――そんな感触が、悠貴の中にほんのりと残った。
 河原は、履歴書の下部にある「希望シフト」の欄に目を通して、ふっと口元を緩めた。
 「金曜と土曜、だけ?」
 問いかけるような口調に、悠貴は少しだけ居心地が悪そうに姿勢を正した。
 「……はい。授業が多いのと、実習とかもあって……今のところ、それくらいしか入れそうになくて」
 答えながら、(やっぱり少ないって思われるかな)と、どこか不安が胸をよぎる。
 けれど河原は、意外なほどあっさりとした口ぶりで言った。
 「いやいや、全然オッケー。むしろ助かるよ。学生ってさ、だいたい暇な平日に入りたがるからさ。
 金土って、毎週バチバチに人手欲しいんよ。タイミング、ドンピシャ」
 「……そうなんですか」
 「そうそう。そんで祝日前とかも入れるって書いてるし、めっちゃありがたいよ」
 河原は履歴書を指でトントンと叩きながら、ふっと笑った。
 「キッチン希望って書いてるの、いいね。……なんだけど」
 言葉を少しだけ区切って、穏やかに続ける。
 「最初のうちは、できればホールに入ってもらいたいんだよね。もちろん無理にとは言わないけど、店の雰囲気とか、一通り見てもらった方がやりやすくなると思うからさ」
 悠貴は、軽く目を見開いたあと、すぐに頷いた。
 「……わかりました。大丈夫です」
 「ありがとう。覚えるスピードにもよるけど、最初の一か月くらいは、ホール中心になるかも。先輩たちも教えてくれるし、安心して」
 河原の声には、気遣いと期待が程よく混じっている。
 押しつけではないけれど、ちゃんと店の事情も考えてくれている感じがした。
 「はい、がんばります」
 悠貴の返事は、自然と少しだけ力が入っていた。
 まだ知らない世界だけど、ちゃんとやってみようと思える空気が、そこにはあった。
「……じゃあさ、早速だけど、今週いけそう?」
 履歴書をテーブルの端に寄せながら、河原がふと尋ねてくる。
 その口調は、もうすっかり「仲間」として話しているような柔らかさだった。
 「今週、ですか?」
 悠貴が少し驚いたように聞き返すと、河原は「うん」と頷いて、手元のメモを一瞥した。
 「金曜から……って思ったけど」
 言いかけてから、ふっと目線を上に向ける。
 そして、少し考えたあと、にこっと笑って言った。
 「初日だけ、木曜入れない? 金曜って結構バタつくからさ。落ち着いて教える余裕、あんまりなくてさ」
 その言い方には、無理強いするような圧はまったくなかった。
 むしろ、「君がやりやすいようにしたい」という気遣いすら感じられるほどだった。
 「……大丈夫です。木曜、入れます」
 悠貴が答えると、河原は「おっけー」と頷いて、テーブルの脇に置いていたファイルを開いた。
 中には今週分のシフト表らしき紙が挟まれている。
 「木曜は……うん、大丈夫そうだね。教えてくれる人もいるし」
 そう言いながら、河原はさらりと続けた。
 「白崎さんって人が入ってるから、その人が教えてくれると思うよ。――さっき、ウーロン茶持ってきてくれた子」
 「あ……」
 自然と、小さな声が漏れた。
 ようやく“名前”と“顔”が結びついて、悠貴は心の中でそっと繰り返す。
 (白崎さん……)
 あの、気さくで、でもどこか芯の強そうな雰囲気の子。
 名前を知った途端、彼女の印象が少しだけ輪郭を増した気がした。