優しい囚人
ー/ー 男に私は声をかける。
そのモニターには男の顔が写っていた。肩まで伸びた、まるで女性のような、つやつやとした髪、透き通ったような男性にしては色白の肌、そしてまるで見る人を吸い込むかのように引きつける茶色い瞳。
男は監視カメラ越しに微笑みかける。
私にはそれが理解できなかった。男の気持ちになってみると、男には私の顔が見えない。聞こえるのは音割れしたスピーカーから聞こえる俺の声のみ。しかも声は看守を特定させないためにあえてボイスチェンジャーで声色が変化している。私ならそんな相手に感情を抱くことはない。我々も基本的に囚人に対して特定の感情を持たないように務めている。――それにもかかわらず、この独房にいる男は我々の声に対して微笑み、優しく答えるのだ。
「手首は傷まないか?」
「傷まないといえば嘘になりますが……大丈夫です」
全く持って不要な言葉。
必要のない全く持って。
男は椅子に座ったまま、後手を縛られている。通常の囚人ではこのような処置は行われない、厳重な管理。
この男の罪状は明かされていない。私たち看守にすら秘密にされていた。そのため、私たちの間では政治思想犯なのではないか。あるいは誤認逮捕なのではないかなどの憶測が飛んでいた。
しかし所詮は憶測。
なにの確証もなし。
私たちの間でこの囚人は何の罪を犯したのかの賭け事が行われる程であった。しかしどれも荒唐無稽な話ばかりだった。そもそも手がかりがなさすぎた。そこで看守たちの間で一つの試みが行われることになった。それはこの囚人との対話である。
看守長にバレれば大目玉は避けられない、が特に何も起きることのないこの監獄に皆飽き飽きしていたのだ。今日の監獄で揉め事を起こすような人物はあまりいなかった。つまり私たちの職務はドモホルンリンクルの見つめる人とほぼ変わりない職務。
そんな中、突如現れた異質の囚人、いやでも皆、気になってしまうのだ。しかし私は悩んだ……何を尋ねるか。基本的に質問する事はまとめてはあったが、俺は自分の言葉で話をしてみたかった。ただ、当然だが『なぜ捕まったのか』は聴くことは許されない。悩んだ挙句、私は実にくだらないことを聞いた。
「ここをでたら、何かしたいことがあるか?」
バカげた言葉。
下らない言葉。
至らない言葉。
「そうですね……まずは妻と子を抱きしめたいと思います」
優しい男らしい、優しく、平凡で、儚い夢。
俺は何の言葉をかければいいか、わからなくなった。何故ならこの男がいつ出所できるのか、その情報が私にはない。だから安易なことが言えなかった。それでもつい口に出てしまった。
「叶うと……いいな」
一番言ってはいけない言葉をかけた気がする。しかし――
「はい、ありがとうございます」
この男はどこまでも優しかった。私たちにはわからないがきっとこの囚人はきっと、自分の刑期や罪状について把握してるのだろう。していないのであればここまで平静を保っているとは考えにくい。俺は仕方なく、皆でまとめた、下らないメモ帳を開いて問いかける。
「趣味はなんですか?」
「……趣味、ですか……」
誰だこんな文章を書いたやつは。お見合いの常套文句か?
「趣味……ないかもしれませんね、もっと何かをしてくればよかった」
人を傷つける感覚が俺の心を切り裂いた。
私は未だ知らない、この心優しき囚人の未来を。
私はもう知ることはない、この心優しき囚人の行く先を。
私はこれ以上声をかけていいのか悩んだ。私たちの下らない探究心で人の心を、この心優しい囚人を弄んでいいのか。俺が思ったよりこの話し合いは重いものだった。私はメモを書いた手帳を手元において一言だけ男に言った。
「下らないことを言って済まなかった」
「下らないことなんてこの世には無いんですよ。話ができて楽しかったです」
返ってきた言葉はやはり優しかった。
そうこう言っている間に休憩の時間がやってきた。看守に許された時間は30分のみ。私は給湯室でインスタントコーヒーの粉末をコップにいれ、お湯を注いた。それをスプーンでかき回す。
浮かぶ
砕ける
混ざる
溶ける
消える
そんな物理変化を
目で見て楽しむ。
鼻で香り楽しむ。
口で味を楽しむ。
それはまるでワインのテイスティングかのように。
私は考えていたのだ。あの囚人が一体何者なのかを。
別に優しいのは特別ではない。
別に素性が知れぬは特別ではない。
別に両手が縛られているは特別ではない。
そういう囚人が全くいないということはない。
だが、それ以外の要素があるわけでもないのに、私は彼を特別しする。私以外もそうだ。彼の魅力に引き付けられ、皆彼を知りたがっている。人は理屈ではなく感情で動く。それはこの職場にいると嫌というほど知ること事が多い。繰り返しになるが囚人も人間だ。意外かもしれないが優しい人間は多い。ただ、その優しさの形が。
人と違ってたり
逆に逆撫でしたり
噛み合わなかったり
様々なのだ、色んな人がいて、大枠では同じでも一人ひとりを見れば全く同じ人間なんていない。わかっている。なのに私達はあの囚人に魅入られる。それがわからないのだ。
紙コップを取り出し、ブラックコーヒーを注ぐ。味変でミルクだけを入れる。予めコーヒーをスプーンで激しく、かき混ぜておいて、ミルクをコップの縁から垂らすように入れるのが私の趣味だった。ぐるぐると周り、そして徐々に徐々に、渦を描くようにミルクは周り、そして中央に到達する。何度見てもこの在り方が、まるで世の中の理のように感じられて、私はいつもこの『儀式』を愉しんでいる。
更にシュガースティックの中央をへし折り、砂糖を加える。コーヒー好きの知り合い達はこの私の『味変』を変な習慣だと否定されることが多い。世はブラックはブラックだけ、砂糖とミルク派は最初から入れろと言われるのだが、私はこの香り、苦み、酸味、甘み、円み。全てを味わいたいのだ。同僚にはラーメンじゃないんだぞとつっこまれたが、私はこのこだわりを捨てることはないだろう。
すると一人の同僚がやってきた。彼は俺に成果を訊ねてくる。
「どうだった? なにか面白い話の1つでも聞き出せたか?」
優しいあの囚人に対して、この同僚はただただ興味心のみが先行しているようだ。私は眉間にシワを寄せていった。
「実際に聞く身になれよ……あの人に聞くの、私はなんか心苦しくなっちまったよ。当たり前だけどどうして捕まったとかは聞けないしな」
すると意外にも同意するその同僚。
「まぁわかるよ、俺もあの囚人の監視をやったことがあるからな。優しい人だよほんと。けどまぁ好奇心が勝ってしまうのも事実だがな」
言わんとすることはわかる。私も今はあの囚人の看守であるから感情移入しているのだろう。あの囚人にはそれだけの魅力があった。私もきっと担当でなければ彼のような反応をしていただろう。
「結局、皆が聞きたがっていた事は聞けたのか?」
「いや、私には無理だったよ……申し訳ない」
すると同僚は軽く笑うと言う。
「まぁ、いいんじゃないかな。囚人のプライベートに必要以上に切り込むのは本来問題行為だ。あくまでも雑談の延長線上で話がたまたま出たって時だけ黙認される。俺達は無理してリスクを取る必要は無い」
――ブルルルルル
休憩時間の終わりを告げるスマホの音。私はぐっと残ったコーヒーを飲み干すと、ぐっと紙コップを握りつぶしてゴミ箱に放り投げた。
「ま、気楽にな……」
「ああ、ありがとう」
私は立ち上がり、看守室戻った。
――悲鳴をあげる寸前だった。
あの……囚人が……ありえない。脳が状況を拒否する。
ありえない。
揺らがない。
ゆるせない。
頭の思考が回らない。
そうだ、この自体を知らせなければならない! 私は警報を鳴らす。ブザーが鳴り響き、監獄内は厳戒態勢に入る。私は慌てて囚人の部屋へ向かった。目を覆いたくなるような惨状とはこの事を言うのか。
首から上がなかった。
「おい。嘘だろ……返事してくれよ……」
脳の思考が回らない。
返事があるわけがない、首から上がない人間が生きている道理などこの世にはない。ただ、囚人はそこに倒れていた……。私はぼーっと突っ立っている。その時、大勢の看守や医者が駆けつけてきた。
頭部が無いため、詳細がわからないが、確実に死んでいるとのことだった。そしてこの囚人が死んだのが一時間前だと医者は言った。何を言っているんだ? 理解できない。だったら私が話していたあの『囚人』は誰だったというのだ? それとも私が会話していたのは幽霊だったとでも言うのか?
―――――
事件から1時間後、刑事たちが監獄に駆け込んできた。ただ、死後硬直は始まっており、死亡時刻は私の休憩後から遡って一時間後であることは変わらなかった。一方の私は三十分の休憩しかしていない。それを頑なに主張していた。ただ幸いなことに私の主張は頭がおかしくなった看守としては扱われなかった。何故なら監視カメラが私の主張との整合性を示していたからである。
なぜ噛み合わない。
どうして合わない。
そのの日の夜、私達は刑事達に帰宅を禁止され、軟禁状態にあった。誰が犯人か、わからないためだ。そんな時だった。私達が囚人に質問するためのメモ帳を作成した男が『少し話がしたい』というため、私は彼に従ってついて行った。
「いや、実に君はいい看守だった。先に礼を言っておこうと思ってね」
意味がわからない。なぜ私は感謝されているのか。
彼と特別親しいわけでもない。
彼が特別偉いわけでもない。
彼が特別なことなどない。
「君のおかげであの御方を無事監獄から脱出させることが出来た」
「一体貴方は何を言ってるんだ?」
「わかった、順を追って説明しよう」
そう言うと、男は禁煙室で煙草に火をつけた。一息つくと、携帯灰皿を取り出して語り始める。
「まだ事件はわかっていないが、刑事たちは頭がないことで死体の照合に苦労する作業が難航しているらしい。あの御方は指紋や血液型の情報がすべて伏せられいる。指紋の照合は難しい。流石に血液型は誤魔化せないため、血液型が一致する死骸を用意するのには難儀したよ」
死骸を用意しただと? こいつは何を言っているんだ? 不信感が募る。
「一体何がいいたいのか、もう少しわかりやすく言ってくれないか?」
「はは、ずいぶんお人好しというか、察しが悪いと言うか」
この男はトントンと煙草を携帯灰皿に叩き、燃えカスを落とす。私はイラッとして言った。
「ずいぶんと偉そうな物言いだが、結局のところ、犯罪の自白かなにかか? 私に何かを言う暇があったら刑事に自白したらどうだ?」
すると男はニヤリと笑い、私の目を見て言う。
「なるほど、理解できないわけじゃなかったのだね、これは失礼した。君は君の善意に基づいて……いややはり正常性バイアスで私をみたか。まぁそれはそれで致し方ない。君は間違いなくいい人間だ」
「一人で納得してて頭いい気になってるのか?」
「いや、悪かったよ。君には感謝を伝えたかったんだ。これは嘘じゃない。ただ私はそうだな……」
男は再びタバコを吸う。
まるでこれから死にゆく人間かのような
まるでこれからたびだつ人間かのような
まるでこれからかなしむ人間かのような
まるでこれから散りゆく人間かのような
まるでこれから噛みつく人間かのような
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