第2話 目撃
ー/ー 優香は、反射的に教室の扉の影に身を隠した。心臓が嫌な速さで脈打っている。
隙間から覗き見ると、正雄はまだ机の角に身を預け、恍惚とした、それでいて泣き出しそうな表情で有里奈のいた場所を貪っていた。
(嘘でしょ……岬、あんなことすんの?)
ただの大人しい男子だと思っていた。自分たちの会話を遠くから眺めているだけの、無害な存在だと。だが、いま目の前で机に身体を押し付けている正雄からは、言葉にできないような、少し彼から重い空気を感じて、彼のことを知りたいと思った。
優香は手に持っていた教室の鍵を握りしめた。本来なら「あ、ごめん鍵忘れてた!」と明るく声をかけるつもりだった。だが、今の正雄の異様な空気の中に飛び込む勇気は、もう微塵も残っていない。
足音を立てないようにゆっくりと後ずさりし、優香は逃げるように廊下を走った。
昇降口では、有里奈がスマホをいじりながら待っていた。
「遅~い。鍵、渡せた?」
「……あ、ううん。なんか、正雄もういなかった。っていうか、掃除のおじさんいたから、そのまま預けちゃった」
優香は、精一杯の嘘を吐いた。声が少し震えているのを、有里奈に気づかれないよう祈りながら。
「ふーん、まあいっか。じゃあガスト行こ。限定のいちごパフェ食べたい」
「……うん、行こう。めっちゃ食べたい」
有里奈の腕を掴んで歩き出す優香の脳裏には、机に腰を擦り付けていた正雄の、白い肌と長いまつ毛が焼き付いて離れなかった。
その頃、教室に残された正雄は、ようやく我に返ったように体を離した。
乱れた呼吸を整え、誰もいない教室を見渡す。そこには、ただ静まり返った空間と、自分が汚してしまったような気がする机があるだけだった。
彼は震える手でノートを閉じると、這うような足取りで自分の席に戻った。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に宛てるともなく、小さな、かすれた声で呟く。
彼が本当に望んでいたのは、机を嗅ぐことでも、角に体を寄せることでもない。ただ、あの二人の輪の中に、当たり前のように入って、笑い合いたかっただけなのだ。だが、その一歩を踏み出す勇気も、術も持たなかった。
正雄の告白
翌日の放課後。優香は有里奈を先に帰らせ、校門近くで岬正雄を待ち伏せした。現れた正雄は、昨日誰かに見られたことなど露ほども思っていない様子で、俯きながら歩いていた。
「正雄、ちょっといい?」
声をかけると、正雄はビクッと肩を揺らし、怯えたように優香を見た。
「あ……望月さん。な、なに……?」
「ちょっと話したいことあるんだけど。……ガスト、奢るからさ」
駅前のファミレス。ドリンクバーの炭酸が抜ける音が、二人の間の沈黙を埋めていた。
優香はポテトをつまみながら、単刀直入に切り出した。
「あんさ、昨日、教室戻ったんだよね、私。……教室の鍵をあんたに渡すの忘れてたから」
正雄の顔から、一気に血の気が引いた。グラスを持つ手が震え、氷がカチカチと音を立てる。
「あ、あの……それは……」
「誰にも言ってない。ただ、気になっただけ。正雄って、有里奈のことが好きなの?それとも、女子の匂いとかが好きな……そういうフェチなの?」
優香の問いは、彼女なりの精一杯の歩み寄りだった。もし有里奈が好きなら、協力してあげてもいい。そんな軽い気持ちさえあった。
だが、正雄は力なく首を振った。
「……違うんだ。有里奈さんが好きとか、そういう……いや、好きだけど、付き合いたいとかじゃなくて」
正雄は自分の指先をじっと見つめ、消え入りそうな声で告白を始めた。
「……ぼくは、優香さんや有里奈さんみたいになりたいんだ。二人の匂いを嗅ぐと、自分がその一部になれた気がして……あの机に座って、二人の輪の中にいる自分の姿を想像して……そうしないと、頭がおかしくなりそうで」
優香は、ポテトを持つ手を止めた。
「……なりたいって、女の子に?」
「うん。でも、男の人が好きかって聞かれると、それも少しはあるけど……それより、女の子の可愛さや、柔らかい雰囲気が大好きで……もしぼくが女の子になれたら、女の子と恋をしたいって思う。これって、変だよね。男の体なのに、女になりたくて、でも女の人が好きなんて……」
正雄の告白は、優香が想像していた「有里奈への片想い」や「単なる変態行為」を遥かに超えていた。
男の体で、女になりたい。けれど、対象は女。
優香はその複雑な構造を完全には理解できなかった。けれど、昨日見たあの「机に腰を擦り付ける」という行為の裏にあったのが、卑猥な興奮だけではなく、「ここではないどこかへ行きたい」という、切実すぎる叫びだったことだけは、直感的に悟った。
「……変じゃない……とは言えないけど……」
優香は、ドリンクのストローを指先でくるくると回した。何か言おうとして、やめた。炭酸の弾ける音だけが、しばらく二人の間に漂った。
「……なんか」
もう一度、口を開く。
「うちらが適当にスカート折ったり、髪染めたりしてるのが、バカらしくなるくらいマジだね」笑おうとしたが、うまく笑えなかった。だから、ドリンクを飲み干すことにした。「わかった。昨日のことは、墓場まで持ってってあげる。有里奈にも言わない」
「……ありがとう、望月さん」
隙間から覗き見ると、正雄はまだ机の角に身を預け、恍惚とした、それでいて泣き出しそうな表情で有里奈のいた場所を貪っていた。
(嘘でしょ……岬、あんなことすんの?)
ただの大人しい男子だと思っていた。自分たちの会話を遠くから眺めているだけの、無害な存在だと。だが、いま目の前で机に身体を押し付けている正雄からは、言葉にできないような、少し彼から重い空気を感じて、彼のことを知りたいと思った。
優香は手に持っていた教室の鍵を握りしめた。本来なら「あ、ごめん鍵忘れてた!」と明るく声をかけるつもりだった。だが、今の正雄の異様な空気の中に飛び込む勇気は、もう微塵も残っていない。
足音を立てないようにゆっくりと後ずさりし、優香は逃げるように廊下を走った。
昇降口では、有里奈がスマホをいじりながら待っていた。
「遅~い。鍵、渡せた?」
「……あ、ううん。なんか、正雄もういなかった。っていうか、掃除のおじさんいたから、そのまま預けちゃった」
優香は、精一杯の嘘を吐いた。声が少し震えているのを、有里奈に気づかれないよう祈りながら。
「ふーん、まあいっか。じゃあガスト行こ。限定のいちごパフェ食べたい」
「……うん、行こう。めっちゃ食べたい」
有里奈の腕を掴んで歩き出す優香の脳裏には、机に腰を擦り付けていた正雄の、白い肌と長いまつ毛が焼き付いて離れなかった。
その頃、教室に残された正雄は、ようやく我に返ったように体を離した。
乱れた呼吸を整え、誰もいない教室を見渡す。そこには、ただ静まり返った空間と、自分が汚してしまったような気がする机があるだけだった。
彼は震える手でノートを閉じると、這うような足取りで自分の席に戻った。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に宛てるともなく、小さな、かすれた声で呟く。
彼が本当に望んでいたのは、机を嗅ぐことでも、角に体を寄せることでもない。ただ、あの二人の輪の中に、当たり前のように入って、笑い合いたかっただけなのだ。だが、その一歩を踏み出す勇気も、術も持たなかった。
正雄の告白
翌日の放課後。優香は有里奈を先に帰らせ、校門近くで岬正雄を待ち伏せした。現れた正雄は、昨日誰かに見られたことなど露ほども思っていない様子で、俯きながら歩いていた。
「正雄、ちょっといい?」
声をかけると、正雄はビクッと肩を揺らし、怯えたように優香を見た。
「あ……望月さん。な、なに……?」
「ちょっと話したいことあるんだけど。……ガスト、奢るからさ」
駅前のファミレス。ドリンクバーの炭酸が抜ける音が、二人の間の沈黙を埋めていた。
優香はポテトをつまみながら、単刀直入に切り出した。
「あんさ、昨日、教室戻ったんだよね、私。……教室の鍵をあんたに渡すの忘れてたから」
正雄の顔から、一気に血の気が引いた。グラスを持つ手が震え、氷がカチカチと音を立てる。
「あ、あの……それは……」
「誰にも言ってない。ただ、気になっただけ。正雄って、有里奈のことが好きなの?それとも、女子の匂いとかが好きな……そういうフェチなの?」
優香の問いは、彼女なりの精一杯の歩み寄りだった。もし有里奈が好きなら、協力してあげてもいい。そんな軽い気持ちさえあった。
だが、正雄は力なく首を振った。
「……違うんだ。有里奈さんが好きとか、そういう……いや、好きだけど、付き合いたいとかじゃなくて」
正雄は自分の指先をじっと見つめ、消え入りそうな声で告白を始めた。
「……ぼくは、優香さんや有里奈さんみたいになりたいんだ。二人の匂いを嗅ぐと、自分がその一部になれた気がして……あの机に座って、二人の輪の中にいる自分の姿を想像して……そうしないと、頭がおかしくなりそうで」
優香は、ポテトを持つ手を止めた。
「……なりたいって、女の子に?」
「うん。でも、男の人が好きかって聞かれると、それも少しはあるけど……それより、女の子の可愛さや、柔らかい雰囲気が大好きで……もしぼくが女の子になれたら、女の子と恋をしたいって思う。これって、変だよね。男の体なのに、女になりたくて、でも女の人が好きなんて……」
正雄の告白は、優香が想像していた「有里奈への片想い」や「単なる変態行為」を遥かに超えていた。
男の体で、女になりたい。けれど、対象は女。
優香はその複雑な構造を完全には理解できなかった。けれど、昨日見たあの「机に腰を擦り付ける」という行為の裏にあったのが、卑猥な興奮だけではなく、「ここではないどこかへ行きたい」という、切実すぎる叫びだったことだけは、直感的に悟った。
「……変じゃない……とは言えないけど……」
優香は、ドリンクのストローを指先でくるくると回した。何か言おうとして、やめた。炭酸の弾ける音だけが、しばらく二人の間に漂った。
「……なんか」
もう一度、口を開く。
「うちらが適当にスカート折ったり、髪染めたりしてるのが、バカらしくなるくらいマジだね」笑おうとしたが、うまく笑えなかった。だから、ドリンクを飲み干すことにした。「わかった。昨日のことは、墓場まで持ってってあげる。有里奈にも言わない」
「……ありがとう、望月さん」
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