第1話 優香・有里奈と正雄
ー/ー 窓から差し込む西日が、誰もいなくなった教室の床に長い机の影を落としている。放課後の静寂をかき消すのは、教室の後方で身を寄せ合う二人の少女の話し声だけだった。
「ねえ優香、その色、光当たると結構ピンク目立たない?明日、風紀のハゲに捕まったら詰むよ」
望月優香は、アッシュベージュに染めた自慢の髪を指先で弄りながら、手元の鏡を覗き込んだ。
158cmの平均的な身長。短く切り詰めたスカートから伸びる、健康的な太腿のラインを見せることに余念がない。ブレザーを脱ぎ捨て、指定のブラウスのボタンを二つ目まで外したその隙間からは、ラベンダー色のレースが盛り上がった胸の谷間を縁取っているのが覗いている。
「え、マジ?セーフだと思ったのに。昨日、セルフでやったからサクラピンク強すぎたかな。でもこれ、室内なら普通にブラウンじゃない?」
「甘いって。朝の昇降口の光、バカにできないから。絶対バレる」
そう忠告する早瀬有里奈は、優香の相方としていつも行動を共にしている。154cmと小柄な体格を、さらに丸めるようにして熱心にリップを塗り直していた。
黒髪に近いダークブラウンのロングヘアをなびかせ、一見するとおとなしそうに見えるが、その実、校則を出し抜く小細工に関しては右に出る者がいなかった。
「げ、マジか。……ま、最悪『地毛です』で押し通すわ。てか、有里奈のスカート、今日短すぎ。折り目何個?」
「四つ。ベルト使ってる。下校の時だけね。職員室の前通るときは一瞬で下げる。これ、ウエストのゴムのとこで一回転させてからベルト巻くと、戻したときシワにならないからおすすめ」
有里奈がスカートのウエスト部分を器用に弄って見せると、優香が感嘆の声を上げた。
「ライフハックの天才じゃん。有里奈、相変わらず小細工だけは無双してるよね。私、折りすぎて昨日、美咲センセに『あんた、パンツ見えとるばい!』って長崎弁で言われて、尻叩かれたし」
「美咲センセ、鼻効きすぎ。元ギャルの勘、怖いわ。あのギャル風のカッコウ、教育委員会ともめたらしいじゃん!」
「よくやるよね、美咲センセ。カブトガニの愛しすぎじゃないの?」
優香は笑いながら、鏡で自分の顔をチェックし、ふと思い出したように声を潜めた。
「有里奈、2組の田中って知ってる?バスケ部の」
「あー、知ってる。背高いやつでしょ。何?」
「昨日、LINE来たんだよね。『今度遊びに行きたい』って。しかも、あいつの部活引退の打ち上げ、ホテルでやるから来ないかって。マジきもくない?」
有里奈の手が、リップを持ったまま止まった。
「……ホテル?打ち上げで? それ、完全にヤる気じゃん」
「でしょ~?顔は悪くないし、腕とか結構筋肉あっていいなとは思うけど、誘い方が雑すぎて引くわ。あいつ、去年も3組の子に中出ししたとか自慢してたらしいし」
「うわ、最悪。優香、返事しなくて正解だよ。あいつのアレ、見た目だけで中身スカスカそうだし」
優香は鏡を取り出して、自分の唇にティントを乗せながら続けた。
「有里奈はさ、最近いい男いないの?有里奈、意外と年上にモテそうだけど」
「……いない」
答えは早すぎた。
優香は薄く笑って、それ以上は聞かなかった。有里奈が「いない」と言うときの顔を、優香はよく知っていた。本当にいないときと、いるけど言えないときで、微妙に目の伏せ方が違う。今のは、後者だった。
有里奈は、鏡の中の自分をちらりと見た。
(……好きな人。そんな単純な話じゃないんだよな)
家に帰れば、制服のスカートを元の長さに戻して、リップを拭って、「ただいま」と言う。お母さんは「おかえり」と言いながら、有里奈の顔を値踏みするように見る。この家では、「可愛くなりたい」という気持ちは、どこかいけないことみたいに扱われる。だから有里奈は、学校でだけ、こっそり「自分」でいる。
好きな人ができても、どうせ同じだ。家に連れていけない。紹介できない。だったら、最初から「いない」でいい。
「……有里奈、今日なんか顔暗くない?」
優香の声に、有里奈は顔を上げた。
「そう?普通だけど」
「嘘つき。絶対なんかある。ガスト行ったら話して」
「……別にないってば」
有里奈は笑った。愛嬌のある、タヌキ顔の笑顔。それがうまく作れることを、有里奈は中学の頃から知っていた。
「あ、見てよこのティント。新作。発色可愛すぎない?」
「あ、それロムアンドの新作? めっちゃいい」
「そう、これマジで落ちないやつ。唇の表面を染めるタイプだから、放課後まで色が残るんだよね。でもこれ、全塗りすると流石に浮くかな」
「中央だけ置いて指でぼかせば余裕。あ、でも……」
優香が教室の入り口付近へと視線を向け、わずかに声を潜めた。その先には、一人ぽつんと席に残り、ノートを広げている岬正雄の姿があった。
線が細く、透き通るような白い肌。伏せられた瞼に並ぶ長いまつ毛が、影となって頬に落ちている。女子が羨むような繊細な容貌を持つ彼は、その男子らしい名前とは裏腹に、女子たちの会話に聞き耳を立てるようにじっと座っていた。
二人は、正雄が自分たちのメイクやファッションの話題を、食い入るように、あるいは羨むように聞いていることに薄々気づいている。だが、それを揶揄するつもりも、かといって「こっちおいでよ」と招き入れるつもりもなかった。
「……正雄、まだあそこにいるじゃん。岬。あいつ、さっきから何してんの」
「ノート書いてるふりして、多分うちらのメイク見てる。鏡出すたんびに視線、感じるしぃ」
有里奈の言葉に、優香は改めて正雄の横顔を観察した。正雄が広げているノートの端には、ファッション誌から切り取ったような、繊細なアイラインの引き方のメモがびっしりと書き込まれているのを、彼女は以前、偶然目撃していた。
それに、彼が時折見せる、自分たちのネイルや髪色を見つめる熱を帯びた、それでいて切ない羨望の眼差しは、同じ「可愛くなりたい」という欲求を持つ優香には、言葉以上の確信として伝わっていた。
「正雄も大変だよね。女子になりたいんでしょ?有里奈、教えてあげれば?ティントの塗り方」
「無理に決まってるじゃん。正雄、親が厳しくて詰んでるらしいよ。……あーあ。スカート短くして髪染めて、それだけで戦いなのに。正雄とか、そもそも土俵にすら立ててない感じ?」
有里奈はそう言いながら、ちらりと正雄を見た。
(土俵に立ててない、か)
自分で言っておきながら、言葉が少しだけ喉に引っかかった。正雄が「なりたい自分」になれない理由と、自分が「本当の自分」でいられない理由が、どこかで似ているような気がして、有里奈はすぐにその考えを打ち消した。
全然違う。あたしは選んでやってる。正雄は、そもそも選べない立場にいる。
それは確かだ。でも、「選んでやってる」と「選ぶしかない」の境目が、有里奈にはときどきわからなくなる。
「それな。……あー、お腹空いた。ガスト行かない?美咲に捕まる前にずらかろうよ」
「賛成。ハゲに見つかる前に、プリ撮りにいこ」
二人は手早くスクールバッグを肩にかけると、正雄の横を風のように通り抜けて教室を後にした。
残された正雄は、彼女たちが去った後の微かな香水の残り香の中で、止まっていたペンを再び動かし始めた。ノートの端には、有里奈が言っていた「ティント、ロムアンドの新作」という名前が、小さな文字で書き留められていた。
二人が教室を出ていった後、しばらくして正雄は立ち上がった。有里奈の座っていた席へと吸い寄せられるように移動する。
鼻を引くつかせて、優香と有里奈の残り香を吸い込んだ。それはフローラルな柔軟剤と、制汗剤と、そして生身の女子の肌から立ち上る、脳を痺れさせるような匂いだった。
正雄は前かがみになって、有里奈の座っていた机の座面に顔を寄せ、そっと嗅いだ。
(女子の匂い……ぼくも、優香と有里奈みたいになりたい……)
正雄は中腰になって、スカートの布越しに感じていたであろう彼女の体温を追うように、机の角に股間を押し当てた。
(ああ……いいな、いいな……)
……その時、教室の入口で、優香は息を呑んだ。
正雄に教室の鍵を渡すのを忘れていたのに気づいて、有里奈を玄関に残して、ひとり戻ってきたのだ。
そこで目にしたのは、美少年の面影を歪ませ、恍惚とした表情で机の角に腰を擦り付けている正雄の姿だった。
(彼、何をしてるの?有里奈の座っていた机の角に……キモ!……)
「ねえ優香、その色、光当たると結構ピンク目立たない?明日、風紀のハゲに捕まったら詰むよ」
望月優香は、アッシュベージュに染めた自慢の髪を指先で弄りながら、手元の鏡を覗き込んだ。
158cmの平均的な身長。短く切り詰めたスカートから伸びる、健康的な太腿のラインを見せることに余念がない。ブレザーを脱ぎ捨て、指定のブラウスのボタンを二つ目まで外したその隙間からは、ラベンダー色のレースが盛り上がった胸の谷間を縁取っているのが覗いている。
「え、マジ?セーフだと思ったのに。昨日、セルフでやったからサクラピンク強すぎたかな。でもこれ、室内なら普通にブラウンじゃない?」
「甘いって。朝の昇降口の光、バカにできないから。絶対バレる」
そう忠告する早瀬有里奈は、優香の相方としていつも行動を共にしている。154cmと小柄な体格を、さらに丸めるようにして熱心にリップを塗り直していた。
黒髪に近いダークブラウンのロングヘアをなびかせ、一見するとおとなしそうに見えるが、その実、校則を出し抜く小細工に関しては右に出る者がいなかった。
「げ、マジか。……ま、最悪『地毛です』で押し通すわ。てか、有里奈のスカート、今日短すぎ。折り目何個?」
「四つ。ベルト使ってる。下校の時だけね。職員室の前通るときは一瞬で下げる。これ、ウエストのゴムのとこで一回転させてからベルト巻くと、戻したときシワにならないからおすすめ」
有里奈がスカートのウエスト部分を器用に弄って見せると、優香が感嘆の声を上げた。
「ライフハックの天才じゃん。有里奈、相変わらず小細工だけは無双してるよね。私、折りすぎて昨日、美咲センセに『あんた、パンツ見えとるばい!』って長崎弁で言われて、尻叩かれたし」
「美咲センセ、鼻効きすぎ。元ギャルの勘、怖いわ。あのギャル風のカッコウ、教育委員会ともめたらしいじゃん!」
「よくやるよね、美咲センセ。カブトガニの愛しすぎじゃないの?」
優香は笑いながら、鏡で自分の顔をチェックし、ふと思い出したように声を潜めた。
「有里奈、2組の田中って知ってる?バスケ部の」
「あー、知ってる。背高いやつでしょ。何?」
「昨日、LINE来たんだよね。『今度遊びに行きたい』って。しかも、あいつの部活引退の打ち上げ、ホテルでやるから来ないかって。マジきもくない?」
有里奈の手が、リップを持ったまま止まった。
「……ホテル?打ち上げで? それ、完全にヤる気じゃん」
「でしょ~?顔は悪くないし、腕とか結構筋肉あっていいなとは思うけど、誘い方が雑すぎて引くわ。あいつ、去年も3組の子に中出ししたとか自慢してたらしいし」
「うわ、最悪。優香、返事しなくて正解だよ。あいつのアレ、見た目だけで中身スカスカそうだし」
優香は鏡を取り出して、自分の唇にティントを乗せながら続けた。
「有里奈はさ、最近いい男いないの?有里奈、意外と年上にモテそうだけど」
「……いない」
答えは早すぎた。
優香は薄く笑って、それ以上は聞かなかった。有里奈が「いない」と言うときの顔を、優香はよく知っていた。本当にいないときと、いるけど言えないときで、微妙に目の伏せ方が違う。今のは、後者だった。
有里奈は、鏡の中の自分をちらりと見た。
(……好きな人。そんな単純な話じゃないんだよな)
家に帰れば、制服のスカートを元の長さに戻して、リップを拭って、「ただいま」と言う。お母さんは「おかえり」と言いながら、有里奈の顔を値踏みするように見る。この家では、「可愛くなりたい」という気持ちは、どこかいけないことみたいに扱われる。だから有里奈は、学校でだけ、こっそり「自分」でいる。
好きな人ができても、どうせ同じだ。家に連れていけない。紹介できない。だったら、最初から「いない」でいい。
「……有里奈、今日なんか顔暗くない?」
優香の声に、有里奈は顔を上げた。
「そう?普通だけど」
「嘘つき。絶対なんかある。ガスト行ったら話して」
「……別にないってば」
有里奈は笑った。愛嬌のある、タヌキ顔の笑顔。それがうまく作れることを、有里奈は中学の頃から知っていた。
「あ、見てよこのティント。新作。発色可愛すぎない?」
「あ、それロムアンドの新作? めっちゃいい」
「そう、これマジで落ちないやつ。唇の表面を染めるタイプだから、放課後まで色が残るんだよね。でもこれ、全塗りすると流石に浮くかな」
「中央だけ置いて指でぼかせば余裕。あ、でも……」
優香が教室の入り口付近へと視線を向け、わずかに声を潜めた。その先には、一人ぽつんと席に残り、ノートを広げている岬正雄の姿があった。
線が細く、透き通るような白い肌。伏せられた瞼に並ぶ長いまつ毛が、影となって頬に落ちている。女子が羨むような繊細な容貌を持つ彼は、その男子らしい名前とは裏腹に、女子たちの会話に聞き耳を立てるようにじっと座っていた。
二人は、正雄が自分たちのメイクやファッションの話題を、食い入るように、あるいは羨むように聞いていることに薄々気づいている。だが、それを揶揄するつもりも、かといって「こっちおいでよ」と招き入れるつもりもなかった。
「……正雄、まだあそこにいるじゃん。岬。あいつ、さっきから何してんの」
「ノート書いてるふりして、多分うちらのメイク見てる。鏡出すたんびに視線、感じるしぃ」
有里奈の言葉に、優香は改めて正雄の横顔を観察した。正雄が広げているノートの端には、ファッション誌から切り取ったような、繊細なアイラインの引き方のメモがびっしりと書き込まれているのを、彼女は以前、偶然目撃していた。
それに、彼が時折見せる、自分たちのネイルや髪色を見つめる熱を帯びた、それでいて切ない羨望の眼差しは、同じ「可愛くなりたい」という欲求を持つ優香には、言葉以上の確信として伝わっていた。
「正雄も大変だよね。女子になりたいんでしょ?有里奈、教えてあげれば?ティントの塗り方」
「無理に決まってるじゃん。正雄、親が厳しくて詰んでるらしいよ。……あーあ。スカート短くして髪染めて、それだけで戦いなのに。正雄とか、そもそも土俵にすら立ててない感じ?」
有里奈はそう言いながら、ちらりと正雄を見た。
(土俵に立ててない、か)
自分で言っておきながら、言葉が少しだけ喉に引っかかった。正雄が「なりたい自分」になれない理由と、自分が「本当の自分」でいられない理由が、どこかで似ているような気がして、有里奈はすぐにその考えを打ち消した。
全然違う。あたしは選んでやってる。正雄は、そもそも選べない立場にいる。
それは確かだ。でも、「選んでやってる」と「選ぶしかない」の境目が、有里奈にはときどきわからなくなる。
「それな。……あー、お腹空いた。ガスト行かない?美咲に捕まる前にずらかろうよ」
「賛成。ハゲに見つかる前に、プリ撮りにいこ」
二人は手早くスクールバッグを肩にかけると、正雄の横を風のように通り抜けて教室を後にした。
残された正雄は、彼女たちが去った後の微かな香水の残り香の中で、止まっていたペンを再び動かし始めた。ノートの端には、有里奈が言っていた「ティント、ロムアンドの新作」という名前が、小さな文字で書き留められていた。
二人が教室を出ていった後、しばらくして正雄は立ち上がった。有里奈の座っていた席へと吸い寄せられるように移動する。
鼻を引くつかせて、優香と有里奈の残り香を吸い込んだ。それはフローラルな柔軟剤と、制汗剤と、そして生身の女子の肌から立ち上る、脳を痺れさせるような匂いだった。
正雄は前かがみになって、有里奈の座っていた机の座面に顔を寄せ、そっと嗅いだ。
(女子の匂い……ぼくも、優香と有里奈みたいになりたい……)
正雄は中腰になって、スカートの布越しに感じていたであろう彼女の体温を追うように、机の角に股間を押し当てた。
(ああ……いいな、いいな……)
……その時、教室の入口で、優香は息を呑んだ。
正雄に教室の鍵を渡すのを忘れていたのに気づいて、有里奈を玄関に残して、ひとり戻ってきたのだ。
そこで目にしたのは、美少年の面影を歪ませ、恍惚とした表情で机の角に腰を擦り付けている正雄の姿だった。
(彼、何をしてるの?有里奈の座っていた机の角に……キモ!……)
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