【1】②
ー/ー
「高校卒業したばっかりなんだって? アルバイトってことは学生さんかな?」
店長にそれだけ聞いたんだ、と言いながらの真瀬の問いに、彼女はふるふると首を振った。
「いえ。就職するつもりだったんですけど、あの、バイトしか。それもすぐに『もういい』って言われてしまって──」
自分で払うと固辞するのを、真瀬が買って半ば強引に押し付けたドリンクを飲みながら、訥々と言葉を繋ぐ有紗。
申し訳ないが、今日の様子ではアルバイトが続かない、首を切られるのもむべなるかなという感想しかなかった。
むしろ接客より、真面目そうなこの子には地道な事務職の方がいいのではないか?
「そうなんだ。確かに不況で厳しいだろうけど、高校って就職の世話は手厚いんじゃないの? いや、僕も詳しくはないんだけどさ」
「あ……、私、親と折り合いが良くないっていうか……。親は地元で就職しろって言ったんですけど、どうしても家を出たかったんです。だから学校推薦の就職はできなくて」
「──成程ね」
ほぼ初対面の関係で、この場でこれ以上踏み込める内容ではない。
真瀬は当たり障りのない相槌で濁した。そもそも深い事情など不要だ。たかが玩具なのだから。
「兄が先に東京に出て来てるので、とりあえず来てみたんです。でも、仕事がなかなか決まらなくて。普通なら高卒の就職は学校通すので、訳ありに見られてしまうのかもしれません」
かろうじて聞き取れる声で、彼女が事情を話すのをとりあえずは聞く。
「そうだね。今は大学新卒でも、正規はなかなか難しいようだから」
あまり深入りしないようにと思うと、どうしても上辺だけの中身のない言葉しか掛けられなかった。
かと言って、自分にそんな相手の心に響くような何かが紡げる気もしない。
そこまで親身になるつもりもないので猶更だ。
「兄はもう結婚して新しい家族が居るので、あまり迷惑掛けられないし。部屋借りるのだけ助けてもらいました。安くて狭いアパートですけど、家賃と生活費だけでも稼がないと」
半ば俯きながら、有紗はそれでも決意を込めたように呟いた。
真瀬の周囲には、高校を卒業して就職するような人間はまず存在しない。
取引先の、特に叩き上げの社長などにはいそうな気もするが、そこまで上り詰めた彼らはまた別だろう。
就職が決まらず、アルバイトさえ続かない一人暮らし。この少女が金に困っているのは明白だ。千載一遇の好機を逃す手はなかった。
誰でもいいわけではない。まずは容姿、そして従順さ、さらにはこちらの要求を飲んでくれる状態にあるかどうか。
ここまで条件が揃う相手になど、もう二度と巡り会えないかもしれないのだ。
「あの、さ。僕、会社をやってるんだけど、あ、親から受け継いで二代目。ウチで秘書やってみない?」
このタイミングなら、受け入れられるかもしれない。「仕事」の依頼として。
思い切って告げた真瀬に、有紗は驚きに目を瞠った。
「……秘書?」
「そう、秘書。つっても、ちゃんとした秘書はもちろんいるから、君は給料出す名目としては社員で秘書ってことになるけど、実質僕の傍仕えだね。――『人形』になって欲しいんだ」
秘書を何やらお飾りの綺麗どころと捉える向きもあるようだが、とんでもない話だ。彼ら、彼女らはスケジューリングや対人折衝等のプロフェッショナルなのだ。
この子には何の責任もないが、正直あまり頭がいいようには見えない、高校出たての不器用な女の子に即務まる仕事ではない。
「にんぎょう……? あの、どういう?」
顔中に疑問符が見える。それはそうだろう、無理もない。
「もちろん、怪しい仕事じゃないよ! 綺麗な服着て、僕のオフィスで好きに過ごしてくれたらいい。生活に困らないお金は十分出すから」
「あ、その」
「すぐに決められなかったら、帰って考えてくれてもいいんだ」
こんなあり得ない申し出に困惑するのは当然だ。むしろ即座に飛びつかれたら、かえってこちらが身構えてしまいそうだった。
少なくとも真瀬の目に嫌悪は感じられない彼女に多少の期待はしつつも、焦らず余裕を見せる。
このあたりはビジネスで鍛えた駆け引きが役に立ってくれた。
「とりあえず連絡先を交換、してもらえるかな?」
スマートフォンを取り出した真瀬に、彼女は動揺しているようだ。
警戒させてしまっただろうか、と安心させる言葉を繋ごうとしたところに有紗が口を開く。
「……ないんです」
「え?」
「あの、だから。……スマートフォン、持ってないんです」
衝撃だった。少なくとも真瀬にとって、この端末はなくてはならないものだ。
仕事に必要なのは無論だが、学生にとっても現代を生きる以上必需品に違いないと思うのだが。
「お金、なくて。そういうの後回しなんです。まず食べないといけない、ので」
真瀬の顔色からいろいろと読み取ったのか、有紗が俯き加減のまま無表情で淡々と述べる。
そして、意を決したようにきっと顔を上げて真瀬の目を見た。この子とはっきり視線がぶつかったのは初めてだ。吸い込まれそうな、透き通った瞳。
「あの! 本当に怪しいお仕事じゃない、んですよね?」
「うん。それだけはないから安心して。もし違ったら大騒ぎして僕を訴えたらいい。すごいお金になるかもよ?」
故意に冗談めかした言い方に緊張も解けたのか、有紗が目に見えて肩の力を抜いたのがわかる。
「今お返事します。お世話になりますので、よろしくお願いします」
「……わかった。こちらこそよろしく」
膝の上に両手を揃えて頭を下げる彼女に、真瀬も軽く頭を下げた。勝手に緩んだ口元を隠す意図も込めて。
「あ、詳しい話の前にちょっといいかな。ゴメン」
とりあえず、一旦この子の目のないところに行きたい。ここで怪しまれたら元も子もないのだ。
何もわからない、知識の足りない十代の子どもを言い包めている後ろめたさくらいはあった。
「はい、どうぞ」
内心の高揚を抑えつつ席を外す許可を願う真瀬に、彼女はすぐに承諾を返す。
「一倉、悪い! 大丈夫?」
店のすぐ前の邪魔にならない隅で、長い付き合いの秘書室長に電話を入れる。
声が弾んでいるのも伝わってはいるだろうが、通話相手は「何があったのか」と問うことなど一切せずに淡々と話し始めた。必要なことならこちらから告げる、と彼はわかっている。
『……大丈夫ですよ。もともと今日は、社長はいつ戻られるかわからない予定でしたしね』
確かに今日は朝から出先で、午後になってようやく戻って来た。
そして、食事をしようとしたカフェで有紗に会ったのだ。
『でもまあ、できるだけ事前の連絡をお願いします、これからは』
「わかってる。ホント申し訳ない。もう少し遅れるけど帰るから!」
再度謝って通話を終える。そのまま、続けて吉野に掛けた。
「あ、吉野くん? ゴメンな、振り回して。いまどこ? 外に居るの?」
『そのまま顔だけ右向いてください。声出さないで』
スマートフォンを耳に当てたまま、そっと右へ目をやると、カフェの隣の雑貨屋の角であらぬ方向を見て立ったまま電話している吉野の姿。
『この程度、振り回してるうちに入んないですから。そんないちいち恐縮されるとこっちが落ち着かないっす』
街角に自然に溶け込んでいる。店から出て来た時にもまったく気づかなかった。
「さすがだね。……ところで、今日はもうこれ以上は必要なさそうだ。お疲れさま。請求は僕個人に回してって所長に伝えてくれる?」
『承知しました~。それじゃ!』
「はい。またよろしくね」
通話を終えて席に戻り、有紗に会社の場所を説明する。アルバイトしているカフェの目と鼻の先なので、ビル入り口のデザインですぐに通じたらしい。
「きちんと雇用契約も結ぶし、もし辞めるにしても退職金も出すよ。……そんな非常識な額ってわけにはいかないけど、少なくとも短期のバイトとは比べ物にならない条件にはできると思うから」
「ありがとうございます。本当に嬉しい……」
「あ、そうだ! スマートフォンも支給するからね。明日、……はわからないけど時間見て買いに行こう。名義は君にはできないけど、使い道は完全に自由にしていいよ。持っててもらった方が僕も助かるし」
口だけではなく本当に喜びを表す彼女に、真瀬はもう一つ考えていたことを告げる。
「あ、ありがとうございます……! 頑張って使い方覚えますから」
「いや~、スマホは手にして即ある程度使えるのがウリでしょ? もちろん使いこなすなら勉強は要るけどさ。若いんだからすぐ覚えるよ」
「そうなんですね、私知らなくて」
どうやら本当に縁がなかったらしい。
いまどきの高校生がこれで大丈夫だったのだろうかと余計な心配をしてしまった。
「えっと、家はどこ? あ、住所じゃなくてだいたいの場所でいいよ」
一通りの話を終えて、真瀬は別れる前に一応確認しておこうと彼女に振った。
「ここから三駅で、駅から徒歩二十分ちょっとなんです。……だから安いんですけど」
「二十分以上、って。大変じゃない? いやそれより、郊外になるしちょっと遅くなったら危ないんじゃないの? 引っ越したら?」
少し恥ずかしそうな有紗に、真瀬は思わず驚きの声を上げた。
「……でも。いつまでお仕事続くかわかりませんし。また引っ越しってなったらお金も掛かるし、今みたいな安いお部屋ないかもしれない、から」
ひとつひとつ考えながら言葉にして行く彼女に、真瀬は少し意外に感じていた。
どうやらこの子は『頭が悪い』わけではなさそうだ。
別に困った情報ではない。会話を交わすかはともかく、同じ空間で過ごすのに最低限の常識くらいは求めたかった。
あまり頭が良すぎると不都合なこともあり得るが、そこまでの心配はいらないだろう。
まさしく、丁度いい相手。
「ホントは今のお部屋でも家賃大変だったんです。でもあんまり不便なところだと、就職活動もできないし。……だからちゃんとお給料いただけるの凄くありがたいです」
「わかった。細かいことは社に来てもらったときに」
そこでこの場は終わらせて、真瀬は彼女と別れた。
翌日の午後。
アルバイト先のカフェを正式に辞めて、有紗は同じ通りに面した真瀬の会社にやって来た。
白い綿のブラウスに膝下丈の紺のスカート。白い靴下にコインローファーを履いている。
「……その、格好」
色味がまるで学校の制服だ。しかも昔の。真瀬も当然我が目で見たことはないが、昭和の女子中高生はこういう感じだったのだろうか。
「やっぱりダメでしたか? 私、服ってあまり持っていないんです」
「あー。まぁ、カフェは制服にエプロンだもんな。――『人形』の制服代わりを支給するよ。自分で買って来てくれてもいいんだけど」
「あ、あの。よく、わかりません」
俯いて呟く彼女に、なんだか可哀想になってしまう。
「そりゃそうだよな。秘書室の誰かに頼むか」
この娘には、阿部の『人形』のような妖艶なドレスは化粧をしたとしても仮装がいいところだろう。
垢抜けない服装はしていても間違いなく美貌であるし、細身で背も高くスタイルはかなりいい。ただ、ああいった身に沿うドレスを着こなすのに必要な、「成熟した女性らしい体型」ではなかった。
――いっそのこと「若い」という利点を押し出して、阿部の女には決してできない系統の『人形』を作り上げるのもいいかもしれない。
真瀬は大学卒業後は女性と交際したことがない。身体の関係を持ったことがないという意味ではなく。
寄って来るのは真瀬の持つ金や地位が目当ての女。あるいはどこか子どものような、……よく言えば少年の心を忘れない部分を残す真瀬を『矯正』しようと、上からものを言うことしかしない女。
どちらともとりあえず付き合ってみたことはあるが、神経を疲弊させられて終わった。
「あんたに合う『生身の女』なんかいないわ」
最後の『彼女』だった大学時代の相手に、別れ際に投げつけられた言葉が不意に脳裏に甦る。
この十年というもの、ただの一度も思い返すことさえなかったのに。どちらかというならば間違いなく「後者」の、準ミス桂銘大学に選ばれた才媛。
それ以来、真瀬は特別な相手を作るのは止めたのだ。
どうせそれなりの年齢になれば利害の一致する相手と見合いの場を設けられ、拒否する選択肢など与えられない結婚をする。
それが真瀬にとっての既定路線だった。実際には、意外にも三十三歳になる現在までそんな話題が出たことさえない。
真瀬の両親に対する思い込みに加え、何よりもイレギュラーな事態の発生によって。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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自分で払うと固辞するのを、真瀬が買って半ば強引に押し付けたドリンクを飲みながら、訥々と言葉を繋ぐ有紗。
申し訳ないが、今日の様子ではアルバイトが続かない、首を切られるのもむべなるかなという感想しかなかった。
むしろ接客より、真面目そうなこの子には地道な事務職の方がいいのではないか?
「そうなんだ。確かに不況で厳しいだろうけど、高校って就職の世話は手厚いんじゃないの? いや、僕も詳しくはないんだけどさ」
「あ……、私、親と折り合いが良くないっていうか……。親は地元で就職しろって言ったんですけど、どうしても家を出たかったんです。だから学校推薦の就職はできなくて」
「──成程ね」
ほぼ初対面の関係で、この場でこれ以上踏み込める内容ではない。
真瀬は当たり障りのない相槌で濁した。そもそも深い事情など不要だ。たかが玩具なのだから。
「兄が先に|東京《こっち》に出て来てるので、とりあえず来てみたんです。でも、仕事がなかなか決まらなくて。普通なら高卒の就職は学校通すので、訳ありに見られてしまうのかもしれません」
かろうじて聞き取れる声で、彼女が事情を話すのをとりあえずは聞く。
「そうだね。今は大学新卒でも、正規はなかなか難しいようだから」
あまり深入りしないようにと思うと、どうしても上辺だけの中身のない言葉しか掛けられなかった。
かと言って、自分にそんな相手の心に響くような何かが紡げる気もしない。
そこまで親身になるつもりもないので猶更だ。
「兄はもう結婚して新しい家族が居るので、あまり迷惑掛けられないし。部屋借りるのだけ助けてもらいました。安くて狭いアパートですけど、家賃と生活費だけでも稼がないと」
半ば俯きながら、有紗はそれでも決意を込めたように呟いた。
真瀬の周囲には、高校を卒業して就職するような人間はまず存在しない。
取引先の、特に叩き上げの社長などにはいそうな気もするが、そこまで上り詰めた彼らはまた別だろう。
就職が決まらず、アルバイトさえ続かない一人暮らし。この少女が金に困っているのは明白だ。千載一遇の|好機《チャンス》を逃す手はなかった。
誰でもいいわけではない。まずは容姿、そして従順さ、さらにはこちらの要求を飲んでくれる状態にあるかどうか。
ここまで条件が揃う相手になど、もう二度と巡り会えないかもしれないのだ。
「あの、さ。僕、会社をやってるんだけど、あ、親から受け継いで二代目。ウチで秘書やってみない?」
このタイミングなら、受け入れられるかもしれない。「仕事」の依頼として。
思い切って告げた真瀬に、有紗は驚きに目を|瞠《みは》った。
「……秘書?」
「そう、秘書。つっても、ちゃんとした秘書はもちろんいるから、君は給料出す名目としては社員で秘書ってことになるけど、実質僕の傍仕えだね。――『人形』になって欲しいんだ」
秘書を何やらお飾りの綺麗どころと捉える向きもあるようだが、とんでもない話だ。彼ら、彼女らはスケジューリングや対人折衝等のプロフェッショナルなのだ。
この子には何の責任もないが、正直あまり頭がいいようには見えない、高校出たての不器用な女の子に即務まる仕事ではない。
「にんぎょう……? あの、どういう?」
顔中に疑問符が見える。それはそうだろう、無理もない。
「もちろん、怪しい仕事じゃないよ! 綺麗な服着て、僕のオフィスで好きに過ごしてくれたらいい。生活に困らないお金は十分出すから」
「あ、その」
「すぐに決められなかったら、帰って考えてくれてもいいんだ」
こんなあり得ない申し出に困惑するのは当然だ。むしろ即座に飛びつかれたら、かえってこちらが身構えてしまいそうだった。
少なくとも真瀬の目に嫌悪は感じられない彼女に多少の期待はしつつも、焦らず余裕を見せる。
このあたりはビジネスで鍛えた駆け引きが役に立ってくれた。
「とりあえず連絡先を交換、してもらえるかな?」
スマートフォンを取り出した真瀬に、彼女は動揺しているようだ。
警戒させてしまっただろうか、と安心させる言葉を繋ごうとしたところに有紗が口を開く。
「……ないんです」
「え?」
「あの、だから。……スマートフォン、持ってないんです」
衝撃だった。少なくとも真瀬にとって、この端末はなくてはならないものだ。
仕事に必要なのは無論だが、学生にとっても現代を生きる以上必需品に違いないと思うのだが。
「お金、なくて。そういうの後回しなんです。まず食べないといけない、ので」
真瀬の顔色からいろいろと読み取ったのか、有紗が俯き加減のまま無表情で淡々と述べる。
そして、意を決したようにきっと顔を上げて真瀬の目を見た。この子とはっきり視線がぶつかったのは初めてだ。吸い込まれそうな、透き通った瞳。
「あの! 本当に怪しいお仕事じゃない、んですよね?」
「うん。それだけはないから安心して。もし違ったら大騒ぎして僕を訴えたらいい。すごいお金になるかもよ?」
故意に冗談めかした言い方に緊張も解けたのか、有紗が目に見えて肩の力を抜いたのがわかる。
「今お返事します。お世話になりますので、よろしくお願いします」
「……わかった。こちらこそよろしく」
膝の上に両手を揃えて頭を下げる彼女に、真瀬も軽く頭を下げた。勝手に緩んだ口元を隠す意図も込めて。
「あ、詳しい話の前にちょっといいかな。ゴメン」
とりあえず、一旦この子の目のないところに行きたい。ここで怪しまれたら元も子もないのだ。
何もわからない、知識の足りない十代の子どもを言い包めている後ろめたさくらいはあった。
「はい、どうぞ」
内心の高揚を抑えつつ席を外す許可を願う真瀬に、彼女はすぐに承諾を返す。
「|一倉《いちくら》、悪い! 大丈夫?」
店のすぐ前の邪魔にならない隅で、長い付き合いの秘書室長に電話を入れる。
声が弾んでいるのも伝わってはいるだろうが、通話相手は「何があったのか」と問うことなど一切せずに淡々と話し始めた。必要なことならこちらから告げる、と彼はわかっている。
『……大丈夫ですよ。もともと今日は、社長はいつ戻られるかわからない予定でしたしね』
確かに今日は朝から出先で、午後になってようやく戻って来た。
そして、食事をしようとしたカフェで有紗に会ったのだ。
『でもまあ、できるだけ事前の連絡をお願いします、これからは』
「わかってる。ホント申し訳ない。もう少し遅れるけど帰るから!」
再度謝って通話を終える。そのまま、続けて吉野に掛けた。
「あ、吉野くん? ゴメンな、振り回して。いまどこ? 外に居るの?」
『そのまま顔だけ右向いてください。声出さないで』
スマートフォンを耳に当てたまま、そっと右へ目をやると、カフェの隣の雑貨屋の角であらぬ方向を見て立ったまま電話している吉野の姿。
『この程度、振り回してるうちに入んないですから。そんないちいち恐縮されるとこっちが落ち着かないっす』
街角に自然に溶け込んでいる。店から出て来た時にもまったく気づかなかった。
「さすがだね。……ところで、今日はもうこれ以上は必要なさそうだ。お疲れさま。請求は僕個人に回してって所長に伝えてくれる?」
『承知しました~。それじゃ!』
「はい。またよろしくね」
通話を終えて席に戻り、有紗に会社の場所を説明する。アルバイトしているカフェの目と鼻の先なので、ビル入り口のデザインですぐに通じたらしい。
「きちんと雇用契約も結ぶし、もし辞めるにしても退職金も出すよ。……そんな非常識な額ってわけにはいかないけど、少なくとも短期のバイトとは比べ物にならない条件にはできると思うから」
「ありがとうございます。本当に嬉しい……」
「あ、そうだ! スマートフォンも支給するからね。明日、……はわからないけど時間見て買いに行こう。名義は君にはできないけど、使い道は完全に自由にしていいよ。持っててもらった方が僕も助かるし」
口だけではなく本当に喜びを表す彼女に、真瀬はもう一つ考えていたことを告げる。
「あ、ありがとうございます……! 頑張って使い方覚えますから」
「いや~、スマホは手にして即ある程度使えるのがウリでしょ? もちろん使いこなすなら勉強は要るけどさ。若いんだからすぐ覚えるよ」
「そうなんですね、私知らなくて」
どうやら本当に縁がなかったらしい。
いまどきの高校生がこれで大丈夫だったのだろうかと余計な心配をしてしまった。
「えっと、家はどこ? あ、住所じゃなくてだいたいの場所でいいよ」
一通りの話を終えて、真瀬は別れる前に一応確認しておこうと彼女に振った。
「ここから三駅で、駅から徒歩二十分ちょっとなんです。……だから安いんですけど」
「二十分以上、って。大変じゃない? いやそれより、郊外になるしちょっと遅くなったら危ないんじゃないの? 引っ越したら?」
少し恥ずかしそうな有紗に、真瀬は思わず驚きの声を上げた。
「……でも。いつまでお仕事続くかわかりませんし。また引っ越しってなったらお金も掛かるし、今みたいな安いお部屋ないかもしれない、から」
ひとつひとつ考えながら言葉にして行く彼女に、真瀬は少し意外に感じていた。
どうやらこの子は『頭が悪い』わけではなさそうだ。
別に困った情報ではない。会話を交わすかはともかく、同じ空間で過ごすのに最低限の常識くらいは求めたかった。
あまり頭が良すぎると不都合なこともあり得るが、そこまでの心配はいらないだろう。
まさしく、丁度いい相手。
「ホントは今のお部屋でも家賃大変だったんです。でもあんまり不便なところだと、就職活動もできないし。……だからちゃんとお給料いただけるの凄くありがたいです」
「わかった。細かいことは社に来てもらったときに」
そこでこの場は終わらせて、真瀬は彼女と別れた。
翌日の午後。
アルバイト先のカフェを正式に辞めて、有紗は同じ通りに面した真瀬の会社にやって来た。
白い綿のブラウスに膝下丈の紺のスカート。白い靴下にコインローファーを履いている。
「……その、格好」
色味がまるで学校の制服だ。しかも昔の。真瀬も当然我が目で見たことはないが、昭和の女子中高生はこういう感じだったのだろうか。
「やっぱりダメでしたか? 私、服ってあまり持っていないんです」
「あー。まぁ、カフェは制服にエプロンだもんな。――『人形』の制服代わりを支給するよ。自分で買って来てくれてもいいんだけど」
「あ、あの。よく、わかりません」
俯いて呟く彼女に、なんだか可哀想になってしまう。
「そりゃそうだよな。秘書室の誰かに頼むか」
この娘には、阿部の『人形』のような妖艶なドレスは化粧をしたとしても仮装がいいところだろう。
垢抜けない服装はしていても間違いなく美貌であるし、細身で背も高くスタイルはかなりいい。ただ、ああいった身に沿うドレスを着こなすのに必要な、「成熟した女性らしい体型」ではなかった。
――いっそのこと「若い」という利点を押し出して、阿部の女には決してできない系統の『人形』を作り上げるのもいいかもしれない。
真瀬は大学卒業後は女性と交際したことがない。身体の関係を持ったことがないという意味ではなく。
寄って来るのは真瀬の持つ金や地位が目当ての女。あるいはどこか子どものような、……よく言えば少年の心を忘れない部分を残す真瀬を『矯正』しようと、上からものを言うことしかしない女。
どちらともとりあえず付き合ってみたことはあるが、神経を疲弊させられて終わった。
「あんたに合う『生身の女』なんかいないわ」
最後の『彼女』だった大学時代の相手に、別れ際に投げつけられた言葉が不意に脳裏に甦る。
この十年というもの、ただの一度も思い返すことさえなかったのに。どちらかというならば間違いなく「後者」の、準ミス桂銘大学に選ばれた才媛。
それ以来、真瀬は特別な相手を作るのは止めたのだ。
どうせそれなりの年齢になれば利害の一致する相手と見合いの場を設けられ、拒否する選択肢など与えられない結婚をする。
それが真瀬にとっての既定路線だった。実際には、意外にも三十三歳になる現在までそんな話題が出たことさえない。
真瀬の両親に対する思い込みに加え、何よりもイレギュラーな事態の発生によって。