第17話 裏帳簿
ー/ー ザファル商会への業務委託が始まると、事務所は静かになった。
採掘現場に行く必要がなくなった。
産量の数字はザファル商会から月次で上がってくる。こちらがやることは、数字を確認し、実費精算書を処理し、本社に報告するだけだ。
城島が言っていた「駐在員にやってほしい仕事が山ほどある」という話は、今のところ何の動きもない。
朝、事務所に出る。PCを起動する。メールを確認する。大した用件はない。
ナイリザが向かいのデスクで帳簿と格闘している。俺は報告書のフォーマットをいじったり、過去の帳簿を整理したりして時間を潰す。
昼になると弁当を食い、午後も同じことを繰り返す。
日が暮れると帰る。
アンカーとしてここにいること自体に意味がある。それは変わらない。
エアコンは動き、PCは安定し、通信も途切れない。俺がいるから。
だが、「いるだけ」の日々というのは、忙殺されていた頃よりもかえって堪える。
動いていれば考えなくて済むことを、止まっていると考えてしまう。
ヴォルグの目。宇田川の話。ザファルの握手。
「一気に暇になった」
ぼやくと、ナイリザが帳簿から顔を上げた。
「そう? 私の仕事は増えたわよ」
ナイリザは帳簿の束をバサリとデスクに叩きつけた。
「ザファル商会の実費精算書。ここまで汚く書けるものなのね。私もまだまだだわ。殺意が湧く」
「仕方がない。ミスリルルートは、本社的にはあれでいいらしい。そのまま上げてくれ」
「ふうん。普段はコンプライアンスだ監査だとうるさい割に、こういうときには急に聞き分けが良くなるの。ザ・日本人って感じね」
皮肉だが、間違ってはいない。
背に腹は代えられない。ザファルの精算書が汚いのは織り込み済みだ。本社もそれを承知で乙案を選んだ。
「目に余るなら、本社も考えるのかもしれない」
「いつ? 帳簿が焼けた後?」
ナイリザは安酒のカップを煽り、デスクに突っ伏した。
* * *
飲みにでも行くか。
日が暮れて、そう思った。
理由があるわけではない。事務所にいても仕方がないし、アパートに戻っても同じだ。
意外と選択肢は多くない。
「新橋」は息が詰まる。変異の噂話を聞く気分ではない。「悪魔の巣穴」は鰐淵のテリトリーだろう。
「ニュー・エデン」の名が浮かんだ。
現地のキャバクラで多少飲んだとて、金額はたかが知れている。
完璧な空調と、日本語の通じるサービスと、何も考えなくていい時間を買う場所だ。
ジャケットを引っ掛けて立ち上がろうとしたところで、ナイリザが帰り支度の手を止めた。
「どこに行くの」
「定時だ……軽く飲んで帰る」
ナイリザは一瞬こちらを見た。
それから、上着を羽織りながら言った。
「ちょっと付き合いなさい」
「何だ、急に」
「急じゃないわよ。ただの気まぐれ」
理由は言わなかった。
無言で立ち上がったナイリザの後を追う。
ナイリザが選んだのは、日本租界の裏通りにある現地風の酒亭だった。
間口は狭く、暖簾の代わりに色褪せたタペストリーが垂れ下がっている。
中は薄暗く、カウンターに数席と、奥に小さなテーブルが二つ。
客筋は入り混じっていたが、誰も騒がず、店の空気を壊さない飲み方をしていた。
日本のものなど何ひとつないのに、不思議と場末めいた感じがしない。
卓も椅子も古びてはいるが、どれもきちんと手入れされていて、帝都が帝都だった頃の名残がまだ少し残っているように見えた。
もっと昼から酔っ払いが管を巻いているような店を想像していただけに、少し意外だった。
「ここは?」
「たまに来るのよ。安いし、一人で飲んでても何も言われないし」
ナイリザは慣れた様子でカウンターに座り、現地語で何か注文した。
出てきたのは白濁した蒸留酒で、匂いはきついが悪くなかった。
ナイリザはそれを手慣れた仕草で煽り、すぐに二杯目を頼んだ。
事務所での安酒とは飲み方が違う。こちらが本来の飲み方なのだろう。
「おごり?」
「……おごりだ」
「そう」
それだけだった。礼も言わない。
しばらく、仕事の話はしなかった。
ナイリザはレベル2の雨季の終わりが見えないことへの不満を述べ、俺は適当に相槌を打った。
カウンターの向こうで現地人の男が独り言のように歌い始め、それを聞くともなく聞いていた。
「目が死んでる」
唐突に言われた。
まじまじと見返すと、ナイリザはジェスチャーで煙草を要求してきた。
一本渡すと、指先でつまんで口に添えたまま、ぐいと肩を寄せてきたので、
ライターで火をつけてやった。
ナイリザはゆっくりと体を離し、紫煙を吐き出すと、気だるげに口を開いた。
「……そんなに暇なら仕事しなさいよ」
「だから、仕事がない」
「馬鹿ね。ないうちにしかできない仕事だってあるでしょう」
ナイリザは眼鏡の奥からこちらを見た。
「わかったでしょう。他の選択肢がなければ、看板だけあっても力関係では負ける。ワニブチと愉快な仲間たちにしゃぶり尽くされたくないなら、ツテを広げることよ」
「現地人と、か。とっかかりもないな。紹介でもしてくれるのか」
「なんで私がそんな世話までするのよ」
ナイリザはグラスを置いた。
「こちらのツテをこちらの流儀で広げたいなら、こちらの銀貨を用意しなさいな」
「銀貨」
「現地の通貨よ。日本円じゃない。経費精算で承認を取って使う金じゃない。
あなたの判断で、あなたの裁量で、すぐに動かせる金」
要するに裏金だ。
「非公式な交渉用の裏帳簿を作れということか。
……どうやって裏金を出す。横領はできないぞ。
ザファルみたいにはっきり黙認されるのとは訳が違う」
「それくらいは自分で考えなさい」
ナイリザなりの踏み込んだアドバイスであることはわかった。
裏金。裏帳簿。
煙草に火をつける。
考え込む俺をよそに、ナイリザは四杯目を注文し、それでその話は終わった。
その後はまた他愛のない話題に戻ったが、裏帳簿の話は脳裏に引っかかったままだった。
六杯目が空いたころには、すっかり出来上がっていた。
ふと、カウンターの奥から誰かが爪弾くリュートの音色が聞こえてきた。
その音色に合わせて、ナイリザが、囁くような低音で帝国語の歌詞を口ずさんだ。
半分以上をハミングで誤魔化しているせいでイヤーバッズが機能しない。
「久しぶりだわ」
歌が途切れた後のその独り言だけ、イヤーバッズが拾った。
何が、とは聞かなかった。
アルコールで頭が回らない。
カウンターに肘をつき、顎を乗せたナイリザの横顔を見た。
仕事場では見ない顔だった。
* * *
酒亭を出ると、ナイリザの足取りが怪しい。
腕を出すと、舌打ちされた。
十歩ほど歩いて、ナイリザの方から袖を掴んできた。何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
鍵を開けかけて、振り返ったナイリザに聞かれた。
「戻って仕事する気?」
夜風で少し頭が冷えていた。
事務所に戻ろうと思っていたのは事実だが、見透かされているとは思わなかった。
「まあ、少しな」
曖昧に誤魔化す。
「……臭うわよ。シャワー浴びていきなさい」
ナイリザはそう言うと、ドアを開け、振り返らずに部屋に入っていった。
部屋は安酒の匂いがした。
* * *
事務所に戻った頃には、とうに深夜を回っていた。
深夜のオフィスは静かだ。蛍光灯の下で、エアコンだけが低く唸っている。
俺がいるから動いている。いなくなれば止まる。
手癖でPCを開いた。
裏帳簿。言うは容易い。
日本でやれば横領か背任だが、この街にはこの街の流儀があるのだろう。
ふと思い立って、内ポケットからメモリカードを取り出した。
坂崎に返されたあのメモリだ。
「せっかくですから中身もよく見てみるといい」
坂崎はそう言っていたか。
メモリを差し込んだ。
フォルダの中身はスプレッドシートのファイル一件のみ。
ファイル名は「misc」。雑費。
リストの性質を考えるとグロテスクなネーミングだが、中身を覗いて妙に納得した。
売買以外の不明確な金の流れが多い。これは確かに雑費としか言いようがない。
個別の取引から、取引相手ごとのピボットテーブルが出せるようになっていた。
どこの誰かは知らないが、レベル2の裏取引に首の根まで浸かった男の、几帳面な素顔が見えるようだ。
顧客ごとの取引累計額、頻度、支払手段、未収率。帳簿外の、金銭評価できない貸し借りの記載欄まであった。
これは裏帳簿というより顧客管理台帳だ。
「裏帳簿の付け方として参考になる」。
坂崎の冗談が浮かんだ。
案外、本気だったのかもしれない。あの顔貌から真意を読み解くのは難しい。
ふと、ナイリザのデスクに散らばったザファル商会の伝票が目に入った。
手に取ってめくる。
内容は汚いが、書式は整理されていて、字も読みやすかった。
経理にも帰還不能者が入っているのかもしれない。
「セ・ダ・デル……マ・ヤ」
表音のままに声に出して読み上げてみた。正確な発音はわからない。
「護衛費」
イヤーバッズが訳した。
護衛費、関所手数料、工賃、祈祷料、迷惑料、酒代。
俺の読み上げでイヤーバッズが反応したものだけを拾っても、なんとなく取引の色が見えてくる。
めくっていくほどに不明な収支が積み重なっていくのがわかった。
確かに汚い。
例えば、部族との取引の同日に、その部族の呪い師への祈祷料が計上されている。偶然ではあるまい。
これがレベル2の商取引というもので、ザファルの支配力の源泉なのだろう。
自分のデスクに戻る。
メモリの帳簿を開いたまま、ファイルをコピーした。
値をすべて削除する。
新しいスプレッドシートができた。
ファイル名はそのまま「misc」。
白紙のまま保存する。
器はできた。
僅か数回のクリックで、裏帳簿の準備ができてしまった。
収入がなければ支出もない。今は一行たりとも記帳すべきトランザクションはない。
どうやって現実のフローを生み出し、器を満たすか。
深夜の事務所で、蛍光灯の下、俺は白紙のスプレッドシートを眺めていた。
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