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第19話 パーラー・ニルヴァーナ

ー/ー



 休日だった。
 正確には、休日という概念がレベル2にあるのかは怪しいが、ヤシマの就業規則上は日曜にあたる。

 ナイリザは出てこない。事務所は閉めた。
 かといって自室にこもるのも息が詰まる。

 レベル2の歓楽街を歩いた。
 日曜の昼間は客引きも少なく、通りは比較的静かだ。ニュー・エデンの前を通り過ぎ、風俗の無料案内所が並ぶ一角を抜けると、四番通りに出る。

 その建物は、歓楽街の中でもひときわ異質だった。

 現地様式の漆喰壁の建物に、ネオン看板がでかでかと取り付けてある。
『パーラー・ニルヴァーナ』。
 カタカナと帝国語の併記。看板の縁取りには七色のLEDが点滅している。
 自動ドアではない。観音開きの木扉を押すと、中から暴力的な音圧が叩きつけてきた。

 軍艦マーチ。アニメソング。無数の銀玉が弾け飛ぶ金属音。
 日本で閉店したパチンコ店の設備を、什器ごと丸抜きして移設したのだという。二世代前のCR機が、百台近く並んでいる。
 店内は湿気と煙草の煙と、種族ごとの体臭が混ざった濃厚な空気で満ちていた。

 俺はパチンコを打たない。
 だが、この店には缶コーヒーの自販機がある。レベル2で稼働する自販機は珍しい。アンカー密度が高い歓楽街ならではだ。
 210円の缶コーヒーを買い、ホールの端の休憩スペースに腰を下ろした。

 台の前に座っているのは、ゴブリン、オーク、コボルト、ドワーフ。日本人もちらほらいる。
 彼らはハンドルを握りしめ、液晶画面を凝視している。
 画面の中ではアニメ調の魚群が泳いでいたが、時折、魔素の干渉で魚の目が充血したり、背景の色が反転したりするバグが走る。誰も気にしていない。

 隣のコボルトの台で、リーチ演出が始まった。
 美少女キャラクターが変身し、画面全体に極彩色のエフェクトが炸裂する。
『激熱』の文字が踊る。

 コボルトが泡を吹いて痙攣し、椅子から崩れ落ちた。
 大当たりした銀玉が床に散らばるが、両隣のオークは拾おうともしない。目の前の液晶を虚ろな目で見つめ続けている。

 店員が来た。
 くたびれた白シャツに黒いベスト。首からインカムを下げた、顔色の悪い日本人の男。
 帰還不能者だろう。「喜んでー」と間延びした声を出しながら、慣れた手つきで倒れたコボルトを椅子に戻し、散らばった玉を回収していく。

「放っておきなさい」

 声がした。
 見ると、三つ隣の台に鰐淵が座っていた。

 陶器のように白い肌。黒いスーツ。ハンドルを固定したまま、涼しい顔でこちらを見ている。

「いつからいた」

「加藤さんより先ですよ。お休みの日にこんなところで会うとは」

「缶コーヒーを買いに来ただけだ」

「ほう」

 鰐淵は台から目を離し、ホール全体をゆっくり見渡した。

「ここで本気でギャンブルをしに来ている人間なんて、殆(ほとん)どいません」

 倒れたコボルトは既に椅子に戻され、ぼんやりした目でまた画面を見つめ始めていた。

「電子ドラッグ、とでも言えばいいんですかね」

 鰐淵は煙草に火をつけた。今日はマッチだ。発火魔法ではない。

「現地人、特に帝国で奴隷階級だったオークやゴブリンは、このデジタルな光の点滅に、脳が耐えられないんですよ。我々には騒音でしかない二世代前のCR機が、彼らには文明の輝きを見せてくれる崇高な窓に見える」

 鰐淵は、ホールの奥で背を丸めているオークの群れに目をやった。

「あの目を見てください。銀貨を増やしたいんじゃない。あの光の中で脳を焼かれて、夢を見ていたいだけなんです。……運が良ければ日本のものも手に入る」

 景品カウンターの前に列ができていた。
 玉箱を積み上げた客が、並べられた景品を物色している。
 交換されるのは金ではなかった。カップ麺、缶詰、乾電池、ペットボトルの水。
 日本のドラッグストアなら百円のカップ麺が、ここでは一日の稼ぎに匹敵する。

 俺は缶コーヒーを飲み干した。

「出るか」

「ええ。一服付き合いましょう」

 * * *

 パーラー・ニルヴァーナの裏手に、外階段で上がれる屋上があった。
 鰐淵は慣れた足取りで先に上がった。常連らしい。

 屋上からはレベル2の街並みが見渡せた。
 現地様式の漆喰壁とプレハブが入り乱れるモザイク。ところどころにブルーシートの青が目立つ。
 工事現場ではない。水を弾き、風を通さず、軽いポリエチレン製のシートは、現地では高級建材として再利用されていた。
 越界障害は容赦なく劣化をもたらすが、レベル2で使う分にはそこそこ保つ。

 遠くに旧帝都の城壁が霞んで見えた。
 第二太陽が西に傾きかけ、長い影が通りに落ちる。

 自販機はもう一台、屋上にもあった。
 210円の缶コーヒーをもう一本買い、手すりにもたれた。鰐淵はブラックを選んだ。

「加藤さん。ビニール傘の商売を始めたそうですね」

「誰から聞いた」

「狭い日本人社会ですから」

 鰐淵は缶を開け、一口飲んだ。能面の笑顔のまま。

「レベル2で商売を始める日本人は珍しい。アンカーは高給取りですし」

「ヤシマは渋いんだ」

「またまた。それに、現地通貨なんて稼いでも使い道がない、というのが普通ですよ」

 探りなのか、世間話なのか。鰐淵の場合は常にどちらでもある。

 しばらく黙って街を眺めた。
 通りをゴブリンの行商人が荷車を引いていく。空き缶を満載した荷車だ。日本から流れてきたアルミ缶を集めて、現地の鍛冶屋に卸すのだろう。
 別の通りでは、現地人の子供たちがペットボトルのキャップで遊んでいる。キャップを弾いて的に当てる遊びらしい。

「日本のゴミが宝になる世界、か」

 俺が呟くと、鰐淵はゆっくりと頷いた。

「彼らにとってはまさに宝、でしょうね。
 日本企業が持ち込んだ抗生剤、粉ミルク、ブルーシート、ペットボトル、期限切れの食品。
 そういったもので現地の死亡率は劇的に低下した、という話もある」

 鰐淵は缶コーヒーを手すりに置いた。

 着任してから数ヶ月が経つ。
 その間も、歓楽街の店は増え続けている。日本語の看板が増えた。
 パチンコ屋の隣には「カラオケ」という看板が出ていたし、二番通りには牛丼屋ができたと聞いた。
 日本の地方都市の繁華街が、じわじわと異世界に転写されている。

 鰐淵の口調は平坦だった。

「それが彼らにとって幸福かどうかなんて、日本人が決められることですかね」

 答えなかった。
 答える必要がないことを、鰐淵も分かっている。

 第二太陽が沈みかけている。
 街の輪郭が赤く染まり、パーラー・ニルヴァーナのネオンが周囲の暗がりに浮かび上がった。
 七色のLEDの点滅が、屋上まで届いている。

 階下から、くぐもった軍艦マーチの低音が響いてくる。
 あの中で、今もオークやゴブリンが光を浴び続けている。

「そろそろ戻ります」

 鰐淵は缶を手すりに残したまま、外階段を降りていった。
 体温を感じさせない白い手が、手すりの上を滑る。

 俺はしばらく屋上に残った。
 缶コーヒーの二本目を開ける。

 先週末オフィスから送られてきたファクシミリの件を思い出す。
 現地商人の協力が必要だった。
 限られたツテの中でギンネ=グアシェルの名が浮かんだ。
 煙草一本分の縁は繋いだ。
 手紙を出せば話くらいは聞いてくれるだろう。

 街を見下ろすと、ペットボトルのキャップで遊んでいた子供たちの姿はもうなかった。
 代わりに、夜の仕事に向かう女たちが、通りに出始めていた。



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 休日だった。
 正確には、休日という概念がレベル2にあるのかは怪しいが、ヤシマの就業規則上は日曜にあたる。
 ナイリザは出てこない。事務所は閉めた。
 かといって自室にこもるのも息が詰まる。
 レベル2の歓楽街を歩いた。
 日曜の昼間は客引きも少なく、通りは比較的静かだ。ニュー・エデンの前を通り過ぎ、風俗の無料案内所が並ぶ一角を抜けると、四番通りに出る。
 その建物は、歓楽街の中でもひときわ異質だった。
 現地様式の漆喰壁の建物に、ネオン看板がでかでかと取り付けてある。
『パーラー・ニルヴァーナ』。
 カタカナと帝国語の併記。看板の縁取りには七色のLEDが点滅している。
 自動ドアではない。観音開きの木扉を押すと、中から暴力的な音圧が叩きつけてきた。
 軍艦マーチ。アニメソング。無数の銀玉が弾け飛ぶ金属音。
 日本で閉店したパチンコ店の設備を、什器ごと丸抜きして移設したのだという。二世代前のCR機が、百台近く並んでいる。
 店内は湿気と煙草の煙と、種族ごとの体臭が混ざった濃厚な空気で満ちていた。
 俺はパチンコを打たない。
 だが、この店には缶コーヒーの自販機がある。レベル2で稼働する自販機は珍しい。アンカー密度が高い歓楽街ならではだ。
 210円の缶コーヒーを買い、ホールの端の休憩スペースに腰を下ろした。
 台の前に座っているのは、ゴブリン、オーク、コボルト、ドワーフ。日本人もちらほらいる。
 彼らはハンドルを握りしめ、液晶画面を凝視している。
 画面の中ではアニメ調の魚群が泳いでいたが、時折、魔素の干渉で魚の目が充血したり、背景の色が反転したりするバグが走る。誰も気にしていない。
 隣のコボルトの台で、リーチ演出が始まった。
 美少女キャラクターが変身し、画面全体に極彩色のエフェクトが炸裂する。
『激熱』の文字が踊る。
 コボルトが泡を吹いて痙攣し、椅子から崩れ落ちた。
 大当たりした銀玉が床に散らばるが、両隣のオークは拾おうともしない。目の前の液晶を虚ろな目で見つめ続けている。
 店員が来た。
 くたびれた白シャツに黒いベスト。首からインカムを下げた、顔色の悪い日本人の男。
 帰還不能者だろう。「喜んでー」と間延びした声を出しながら、慣れた手つきで倒れたコボルトを椅子に戻し、散らばった玉を回収していく。
「放っておきなさい」
 声がした。
 見ると、三つ隣の台に鰐淵が座っていた。
 陶器のように白い肌。黒いスーツ。ハンドルを固定したまま、涼しい顔でこちらを見ている。
「いつからいた」
「加藤さんより先ですよ。お休みの日にこんなところで会うとは」
「缶コーヒーを買いに来ただけだ」
「ほう」
 鰐淵は台から目を離し、ホール全体をゆっくり見渡した。
「ここで本気でギャンブルをしに来ている人間なんて、殆《ほとん》どいません」
 倒れたコボルトは既に椅子に戻され、ぼんやりした目でまた画面を見つめ始めていた。
「電子ドラッグ、とでも言えばいいんですかね」
 鰐淵は煙草に火をつけた。今日はマッチだ。発火魔法ではない。
「現地人、特に帝国で奴隷階級だったオークやゴブリンは、このデジタルな光の点滅に、脳が耐えられないんですよ。我々には騒音でしかない二世代前のCR機が、彼らには文明の輝きを見せてくれる崇高な窓に見える」
 鰐淵は、ホールの奥で背を丸めているオークの群れに目をやった。
「あの目を見てください。銀貨を増やしたいんじゃない。あの光の中で脳を焼かれて、夢を見ていたいだけなんです。……運が良ければ日本のものも手に入る」
 景品カウンターの前に列ができていた。
 玉箱を積み上げた客が、並べられた景品を物色している。
 交換されるのは金ではなかった。カップ麺、缶詰、乾電池、ペットボトルの水。
 日本のドラッグストアなら百円のカップ麺が、ここでは一日の稼ぎに匹敵する。
 俺は缶コーヒーを飲み干した。
「出るか」
「ええ。一服付き合いましょう」
 * * *
 パーラー・ニルヴァーナの裏手に、外階段で上がれる屋上があった。
 鰐淵は慣れた足取りで先に上がった。常連らしい。
 屋上からはレベル2の街並みが見渡せた。
 現地様式の漆喰壁とプレハブが入り乱れるモザイク。ところどころにブルーシートの青が目立つ。
 工事現場ではない。水を弾き、風を通さず、軽いポリエチレン製のシートは、現地では高級建材として再利用されていた。
 越界障害は容赦なく劣化をもたらすが、レベル2で使う分にはそこそこ保つ。
 遠くに旧帝都の城壁が霞んで見えた。
 第二太陽が西に傾きかけ、長い影が通りに落ちる。
 自販機はもう一台、屋上にもあった。
 210円の缶コーヒーをもう一本買い、手すりにもたれた。鰐淵はブラックを選んだ。
「加藤さん。ビニール傘の商売を始めたそうですね」
「誰から聞いた」
「狭い日本人社会ですから」
 鰐淵は缶を開け、一口飲んだ。能面の笑顔のまま。
「レベル2で商売を始める日本人は珍しい。アンカーは高給取りですし」
「ヤシマは渋いんだ」
「またまた。それに、現地通貨なんて稼いでも使い道がない、というのが普通ですよ」
 探りなのか、世間話なのか。鰐淵の場合は常にどちらでもある。
 しばらく黙って街を眺めた。
 通りをゴブリンの行商人が荷車を引いていく。空き缶を満載した荷車だ。日本から流れてきたアルミ缶を集めて、現地の鍛冶屋に卸すのだろう。
 別の通りでは、現地人の子供たちがペットボトルのキャップで遊んでいる。キャップを弾いて的に当てる遊びらしい。
「日本のゴミが宝になる世界、か」
 俺が呟くと、鰐淵はゆっくりと頷いた。
「彼らにとってはまさに宝、でしょうね。
 日本企業が持ち込んだ抗生剤、粉ミルク、ブルーシート、ペットボトル、期限切れの食品。
 そういったもので現地の死亡率は劇的に低下した、という話もある」
 鰐淵は缶コーヒーを手すりに置いた。
 着任してから数ヶ月が経つ。
 その間も、歓楽街の店は増え続けている。日本語の看板が増えた。
 パチンコ屋の隣には「カラオケ」という看板が出ていたし、二番通りには牛丼屋ができたと聞いた。
 日本の地方都市の繁華街が、じわじわと異世界に転写されている。
 鰐淵の口調は平坦だった。
「それが彼らにとって幸福かどうかなんて、日本人が決められることですかね」
 答えなかった。
 答える必要がないことを、鰐淵も分かっている。
 第二太陽が沈みかけている。
 街の輪郭が赤く染まり、パーラー・ニルヴァーナのネオンが周囲の暗がりに浮かび上がった。
 七色のLEDの点滅が、屋上まで届いている。
 階下から、くぐもった軍艦マーチの低音が響いてくる。
 あの中で、今もオークやゴブリンが光を浴び続けている。
「そろそろ戻ります」
 鰐淵は缶を手すりに残したまま、外階段を降りていった。
 体温を感じさせない白い手が、手すりの上を滑る。
 俺はしばらく屋上に残った。
 缶コーヒーの二本目を開ける。
 先週末オフィスから送られてきたファクシミリの件を思い出す。
 現地商人の協力が必要だった。
 限られたツテの中でギンネ=グアシェルの名が浮かんだ。
 煙草一本分の縁は繋いだ。
 手紙を出せば話くらいは聞いてくれるだろう。
 街を見下ろすと、ペットボトルのキャップで遊んでいた子供たちの姿はもうなかった。
 代わりに、夜の仕事に向かう女たちが、通りに出始めていた。