第18話 ビニール傘
ー/ー 酸性雨が降っていた。
レベル2の雨季はまだ終わらない。空から落ちてくる水には魔素が混じっているらしく、車のボンネットに当たるとわずかに蛍光を帯びる。
ハイラックスのフロントガラスをワイパーが定期的に拭うが、追いつかない。
助手席でナイリザが足を組み替えた。
コンソールボックスからワンカップを取り出し、蓋を開ける気配がする。
「運転中に開けるな」
「揺れるからこぼれるのよ。もっと丁寧に走りなさい」
「道が悪い」
帝国語で返すと、ナイリザが一瞬こちらを見た。
「……今の、帝国語で言ったわね」
「ああ」
「発音は相変わらず酷いけど」
別に褒められたわけではない。ナイリザは窓の外に目を戻した。
レベル1のオフィスで消耗品の補充を済ませた帰りだった。後部座席にはコピー用紙の箱とトナーカートリッジが積んである。
日本租界の門を抜けると道は石畳に変わり、速度を落とさざるを得ない。人ごみの中をトロトロと進む。
雨の日は歩く者が減る代わりに、荷車や家畜が通りを塞ぐ。
ふと、前方の店から一人のエルフが出てきた。
身なりの良い中年の男。上等な外套。手にはビニール傘を持っている。
新品のそれから包装の薄いビニールを外し、おもむろに傘を開いて差すと、酸性雨の中を悠然と歩き出した。
日本ではあまりに見慣れた光景だった。
外したビニール包装を丁寧に折り畳み、内ポケットにしまった点を除けば。
高級品を扱うようなその手つきに世界の隔たりを感じる。
ビニール傘がステータスシンボルであるという事実は、頭では知っていた。
日本では五百円かそこらで買い、電車に忘れ、コンビニでまた買う。そういうものだ。
だが、この世界にはビニールを均一の厚さで成型する技術がない。透明で、軽く、水を通さない。それだけの性質が、ここでは魔法に近い。
車が赤信号——正確には、交差点に立つゴブリンの交通整理員が手旗を上げた——で止まった。
「ナイリザ」
「何よ」
「傘を買うぞ」
「……傘?」
* * *
店内は狭かった。
日本製品と現地品が雑然と並んでいる。
棚の一角にはカップ麺やレトルト食品、別の棚には現地の干し肉や香辛料。
壁にはビニール袋に入った乾電池やライター、蚊取り線香が吊るされている。
どれにも手書きの値札がついており、日本語と帝国語が併記されていた。
店主はドワーフだった。カウンターの向こうから、ずんぐりした体を乗り出してきた。
「おや、ヤポンの方は珍しい。何をお探しで」
ナイリザが訳す前に、意味はとれた。
「傘はないか」
俺が帝国語で言うと、店主は目を丸くし、それからにんまりと笑った。
「なるほど、さっきのお客様をご覧になりましたな。運が良い。実は出物がございます」
店主は奥の棚から、うやうやしくビニール傘を一本持ってきた。
透明のビニール。プラスチックの柄。日本のコンビニで見慣れた、あのビニール傘だ。
「新品でしょう? 『タグ』がついている。ヤポンの方には珍しくないのかもしれませんが、この状態で出回るのは本当に稀でしてな」
「いくらだ」
「状態も加味しまして……銀貨二枚でいかがでしょう」
脳内で為替計算をした。
ヤシマのレートでは銀貨1枚約2500円だが、これはかなり保守的に設定されたレートだ。体感購買力としては、銀貨1枚3000円相当というのがおおよその基準と教えられた。
銀貨2枚で6000円。
ビニール傘一本に6000円。
「高いな」
思わず呟いた。日本語で。
店主は聞き取れなかったようだが、表情は読んだ。
「お気持ちはわかります。しかし、この透明盾(アクア・シャロン)を使うのはステータスでしてな。安くはお売りできません」
透明盾。
ビニール傘に現地名がついている。
「……いや、悪かった。買う」
銀貨を二枚、カウンターに並べた。
店主はビニール傘を一本取り出すと、「こちらはサービスです」と言って水滴防止の薄いビニール袋に丁重に挿し入れた。
大仰に差し出されたそれを受け取る。
店を出ると、ナイリザが隣で鼻を鳴らした。
「あなた、レベル1で買えるでしょう。二千円もしないわよ」
「戻ったときならな。欲しいのは今だ」
「高い買い物だったわね」
ビニール傘を差す。酸性雨がビニールを叩く音が、妙に大きく聞こえた。
* * *
事務所に戻り、PCを開いた。
レベル1のコンビニでのビニール傘の売価は1540円。本国の倍以上だ。
物流コストと越界障害による輸送ロスを考えれば妥当だろう。
レベル2での売価は銀貨2枚。日本円換算で6000円。
レベル1の三倍以上。
もともとレベル2に流通する日本製品にはプレミアムがつく。ペットボトルの水やコンビニ弁当は日常消費財として一定の供給量があるから、プレミアムもそれなりに圧縮されている。
だが、ビニール傘のような必需品でないものは事情が違う。
行政や大手企業の供給ルートに乗っていない。現地側にも「高級品」を安定的に大量購入するほどの市場はない。
希少品としての需要はあるが供給は更に少ない。だから値が崩れない。
レベル1で1540円のものを買い、レベル2で銀貨2枚で売る。
差額が利益になる。
ナイリザがデスクの向かいからこちらを見ていた。
「何を考えてるの」
「アービトラージだ」
「何よそれ」
「裁定取引。二つの市場の価格差を利用して利鞘を抜く。商社の基本だ」
「ビニール傘で?」
「ビニール傘で」
ナイリザは眼鏡の奥で呆れたような、感心したような顔をした。
「ささやかね」
「ささやかだ。だが第一歩としては十分だ」
* * *
翌週、レベル1に戻った際にコンビニでビニール傘を三束買った。一束12本。計36本。
5万5440円。経費ではない。自腹だ。
ハイラックスの荷台にコピー用紙の箱と一緒に積み、レベル2に持ち込んだ。
検問では咎められなかった。ビニール傘は規制品目に入っていない。
「ナイリザ。付き合え」
「また傘?」
「商談だ」
例の店を再び訪ねた。
36本のビニール傘を束のまま持ち込むと、店主は目を丸くした。
「これは……タグ付きの新品。しかもこの数」
「いくらで買う」
店主は指を折って計算を始めた。
「銀貨三十枚では」
一本あたり銀貨0.8枚くらいの計算か。
「先日、一本銀貨二枚で売っていただろう。売価は三十六本で銀貨七十二枚。仕入れでも銀貨四十五枚は出せるはずだ」
ナイリザが帝国語に訳した。
店主は首を振った。
「四十五枚は難しい。これだけ一度に入れれば値も崩れます。今後のお付き合いがあるなら三十六枚でも考えますが」
一本銀貨1枚。売値の半値。わかりやすい。
「それでいい」
店主の表情が変わった。日本人の仕入れルートが確保できるかもしれない、という期待が目に浮かんでいる。
「ただし、条件がある」
俺は帝国語で続けた。ナイリザが隣で黙って聞いている。
「買値は一本銀貨一枚で固定。月に三束。すべて買い取れ。どこに転売しても構わない」
店主は慌ててうなずいた。
「それと、支払いは銀貨で」
「もちろんでございます」
握手を交わした。
* * *
帰りの車内で、ナイリザが口を開いた。
「商談、できてたじゃない」
「……考えておいた条件をそのまま伝えただけだ」
「ふうん。転売は『シャーラザー』じゃなくて『シャーズリー』よ。伝わったと思うけど」
ぼそりと呟かれた。
俺は伸びかけた無精ひげを撫でた。
我ながら異常な速度で修得が進んでいるが、まだ語彙は弱い。
まあ習うより慣れろ、だ。
「……で、計算は合うの」
「一本1540円だから仕入れが三十六本で5万5440円。一本銀貨一枚で売ると銀貨三十六枚。銀貨三十六枚は日本円で11万円弱。差額が5万円強」
「毎月5万円強の利益」
「毎月の給料の一部を銀貨に替えて持つと思えばもっと効率はいい。円を銀貨に両替しようとすると手数料やらスプレッドやらで一割は消える。それを考えれば実質的な利益はもっと大きい」
ナイリザは窓の外を見ていた。
雨は上がりかけていて、第二太陽の光が雲の切れ間から差し込んでいる。
「毎月銀貨で三十六枚。11万円弱程度、ここで自由に使える金ができる」
「規則とかに引っかかるんじゃないの?」
「規定上は私的な売買を禁じる条項がない。アンカーの個人消費物資の持ち込みに数量制限もない。ビニール傘は規制品目に含まれていない」
「調べたのね」
「調べた」
しばらく黙っていた。
「ねえ」
「何だ」
「一本ちょうだい」
「……傘か?」
「在庫は三十六本あるんでしょう。一本くらい」
「経費で落ちないぞ」
「原価でいいわよ。1540円。給料から天引きしなさい」
俺はバックミラー越しにナイリザを見た。
助手席で足を組んだまま、窓の外を眺めている。
事務用ベストの下の白いブラウス。100円ショップの眼鏡。安酒の匂い。
「……一本くらい、サンプルだ」
「あら。太っ腹」
その夜、「misc」に最初の数字を入力した。
ビニール傘三十六本。仕入5万5440円。売上銀貨36枚。
裏帳簿の第一行だった。
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