第12話 鰐淵 前編
ー/ー 事務所のソファで一晩を明かし、翌日の業務を終えた後、アパートに戻った。
階下には、まだ吟遊詩人の老人がいた。
フードを目深に被り、リュートを抱えて何かを歌っている。
前に置かれた空き缶には、昨日俺が入れた銅貨がそのまま残っていた。
二階の自室に異常はなかった。
昨日の家探しの痕跡もそのまま。二度目の侵入はないようだ。
だが、メモリカードは相変わらず内ポケットから移す気になれなかった。
宇田川次長には至急の連絡を入れてある。
件名に「至急」と書いたメールだ。
相変わらず応答がない。
パッチワークの報告書も上げた。返信は来ない。
オフィスの他の人間に相談する選択肢はない。
メモリの中身はヤシマの問題ではなく他社の問題だ。
少なくとも統括責任者たる宇田川次長の判断は仰ぐ必要がある。
つまり、いずれにせよ次長の返事が来なければ、手の打ちようがない。
話を広げて事情を知る人間が増えた分、漏洩のリスクが高まるだけだ。
家探しされた部屋に居ても気が塞ぐ。
俺は手がかりを探すように、夜の日本租界に出た。
* * *
レベル2の日本租界で最も治安が良いとされる一角に、その店はある。
話には聞きつつも、特に興味は湧かなかった。
その夜に限って足が向いたのは、やはり安全と安心を求めていたからだろうか。
看板には「居酒屋 新橋」。
赤提灯が軒先で揺れている。
暖簾をくぐると、そこは完璧に再現された昭和の居酒屋だった。
有線放送の九〇年代J-POP。壁にはビールのポスターと手書きの「本日のおすすめ」。
客は全員日本人。ワイシャツの袖をまくったスーツ姿の男たちが、ジョッキを片手に管を巻いている。
入店にはIDチェックが必要で、現地人や、明らかに変異が進んだ元日本人は断られる。
レベル2に常駐する日本人アンカーたちの聖域だ。
客全員がアンカーであるせいで、この店内だけ、日本のポスチュレートが濃い。
空調は完璧に動き、スマートフォンの電波も安定している。
酸味のある薄い生ビールだけが、ここが異世界であることを思い出させる。
俺はカウンターの端に座り、ジョッキを傾けていた。
ざっと周囲を見渡したが、例のメモリのリストにあった企業の社員で見覚えのある顔はない。
安堵のような落胆のような一瞬の後に浮かんだのは、自分に対する苛立ちだ。
見つかったところでどうする。
メモリを返して、酒でも酌み交わして、日本人同士なかったことにしましょう、とでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。
「トレードだけじゃ……オフテイク押さえなきゃさ」
「……こっちの飯も……良くないらしいよ」
「例の魔素漏れ……M社の荷が……」
「……ハラスメント通報……本社から配置換え……」
聞くともなしに、あちらこちらから会話が漏れ聞こえてくる。
どこか躁的で無防備なテンションを感じるのは、安全地帯にいるという安心が弛緩を生んでいるせいか。
近くのボックス席から、押し殺した会話が漏れてきた。
「……調達の田中、とうとう『出た』らしい」
「マジか。どこに」
「背中。鱗が三枚。本人は『皮膚炎だ』って言い張ってるけど、あれはさ……あれだよ」
「うわぁ……あいつ、現地の女に入れ込んでたからな」
声を潜めてはいるが、酒が入って音量の制御が利いていない。
ちらと見ると、顔を赤く染めた二人の男が社内の噂話をしているようだった。
「馬鹿だねえ。一年大人しくしてりゃ、任期も終わるのによ」
軽口のように言った男の、ジョッキを持つ手が震えていた。
ここにいる全員が同じ恐怖を抱えている。
日本の酒を飲み、日本にいた頃と同じように管をまくことで、自分の輪郭を保とうとしている。
「おや。加藤さんじゃないですか」
ねっとりとした声が隣に座った。
一度聞いたら忘れられない類の声だ。
良い意味ではない。
最初の夜、ニュー・エデンで名刺を押しつけてきた男。
陶器のように白く滑らかな肌。黒いスーツ。黒いネクタイ。
この店の照明の下でも体温を感じさせない。
「お仕事の後の一杯ですか。今夜はお一人のようですね」
「……鰐淵さん、だったか」
名刺の情報を思い出す。氏名と連絡先だけが記され、所属も肩書きも空白だった。
「覚えていただけて光栄です。宇田川次長に追い払われてしまいましたからね」
鰐淵は水割りを注文すると、カウンターに肘をつき、店内を見渡した。
「いい店でしょう。客全員がアンカーだから、空調も通信も完璧。まるで東京の地下街にいるようだ」
「その分席料は高い」
「安心への対価ですよ。ここは日本の植民地政策の最前線です。尖兵である皆さんには、安息の場所が必要というわけだ」
「アンカーは軍隊でも役人でもない。ただの出張要員だ」
「呼び方は何でもいいんですよ。
斜陽の日本が手に入れた打ち出の小槌です。搾り取る手にも力がこもる」
鰐淵は届いた水割りのグラスの縁を指先でなぞった。
「だから皆さん、巻き込まれないように、現地に染まらないように必死だ」
ボックス席の男たちの話題が変わっていた。
「管理本部の坂崎、あいつはもうダメだろ」「ああ、聞いたか? オークの肉を生で食ってるらしいぞ」「共食いじゃねえか。エリート様が聞いて呆れる」。
軽蔑と、自分たちはまだマシだという安堵が酒の肴になっている。
「それが正常な反応だろう」
俺は男たちの方を見ずに言った。
「誰も好き好んで化け物にはなりたくない」
「そうですか? 適応(アダプテーション)してしまった方が楽かもしれませんよ。坂崎さんは、ある意味で潔い」
鰐淵はグラスを傾けた。
「彼は変異を受け入れた上で、まだ『日本人』としての権益を行使している。……まあ、見た目は完全にモンスターですが」
世間話の体裁をしているが、中身は辛辣だ。
辛辣だが、どういう立場でものを言っているのかがいまいちわからない。
定位しない男だ。
「アンカー仲間をお探しですか? お近づきの印に、何人かご紹介してもいい。こう見えて顔は広いんです」
鰐淵は能面のような笑顔を貼り付けたまま、こちらの顔を覗き込んだ。
「それとも、場所を変えて飲み直しませんか。おすすめの店があるんです。ここよりはいささか現地風ですがね」
断る理由はいくらでもある。
宇田川次長が「気をつけろ」と言った人間だ。帰還不能者。所属なし。
だが、今夜は手詰まりの夜だった。
メモリの問題も、パッチワークの問題も、宇田川次長の不在も、俺一人ではどうにもならない。
この男は所属がない代わりに、日本人社会にも現地社会にも顔が広いようだ。
どこまで信用できるかは別として、レベル2の地勢に通じた人間の話を聞く機会は今の俺には貴重だった。
「付き合おう」
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