第13話 鰐淵 後編
ー/ー 鰐淵に連れて行かれたのは、日本租界の外れにある現地風のバーだった。
看板は帝国語で書かれている。表音のとおりに読み上げてみると、イヤーバッズが「悪魔の巣穴」と訳した。
居酒屋「新橋」とは何もかもが違った。
低い天井。煙と獣脂の臭い。カウンターの向こうにはゴブリンのバーテンダーがいて、正体不明の酒を量り売りしている。
客は現地人が中心だが、日本人の姿もちらほら見える。ただし「新橋」にいたようなスーツ姿ではない。
くたびれた私服。剃り残しの顎。どこか焦点の合わない目。
帰還不能者か、それに近い人間たち。
「こちらの方が落ち着くでしょう? 肩肘張らなくていい」
鰐淵はカウンターに座り、バーテンダーに現地語で何か注文した。流暢だった。
出てきたのは琥珀色の蒸留酒で、度数は高そうだが、飲めないほどではない。
鰐淵は自分のグラスに口をつけた後、胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。
そしてライターを使うでもなく、合掌でもするように、両目を閉じて手を合わせる。
奇妙な間があった。
鰐淵はゆっくりと手を開いていく。水を掬うように開かれた両掌の中心を、半眼で見つめていた。
帝国語の小さな呟きが聞こえた。
「ナロヤ」
イヤーバッズが「火」と翻訳すると同時に、鰐淵の両掌に包まれるようにして、蝋燭ほどの小さな火が灯った。
鰐淵は咥えた煙草の先端を近づけて火をつけると、パンパンと両手を叩いた。
火はどこにもなくなっていた。
「……魔法か」
「ええ」
「渦とやらが、見えるのか」
鰐淵の両目が見開かれた。
能面のような笑顔が一瞬崩れ、虚を突かれた人間の表情が覗いた。
今日初めて、この男の素の反応を見た気がする。
「驚きましたよ、加藤さん。現地のことをよく勉強されてますね」
「受け売りだ。魔法を見るのは人生で二度目だ」
「ますます面白い。ええ、彼らは渦と呼んでいますね。もっとも、私に見えているのが彼らと同じものかどうかは、分かりませんが」
鰐淵は煙を吐き、グラスを傾けた。
「なぜ覚えた」
「なぜ、ですか」
鰐淵はくっくっと笑った。
「加藤さん、あなたも大分アンカー心理に毒されている。異世界に来た。魔法がある。覚えて使ってみたくなるのが人間でしょう」
普通ではない、と思った。だが口には出さなかった。
「私のような人間には便利な代物です。煙草に火をつけるだけで、日本人相手にハッタリが効く。……いささか効きすぎることもありますがね。以前、宇田川次長にこれをお見せしたら、それ以来避けられてしまいまして」
宇田川次長の名前が出た。
「そうそう、宇田川次長はお元気ですか」
連絡が取れていない、などと言えるわけがない。
「レベル1のオフィスに戻って、忙しくしてるんだろう」
皮肉を込めてそう言った。嘘ではない。
「おや? そうですか」
一拍の間があった。
「穴埋め業務が終わり次第、念願の帰国が叶うと聞いていたんですがね。辞令が延びたのか。会社勤めの辛いところですね」
油断も隙もない。
宇田川次長が本社に異動するという話は聞いていなかったが、考えてみればそうなってもおかしくない。
足掛け5年はいる次長が帰れていないのは、アンカーが空席だったから、なのだろう。
俺という後任に引き継いでもまだ帰国していない。少なくともその人事がまだ社内で公表されていないという事実は、抜かれてしまった。
どこまでが世間話でどこからが探りなのか、この男の会話には継ぎ目がない。
その後は他愛もない話をした。
レベル2の飯屋の話、雨季の長さの話、日本から届く物資の話。
鰐淵は一貫して上機嫌で、こちらの話を聞くよりも自分が喋る方が好きなようだった。
だが、時折挟まれる質問は、必ずこちらの情報を引き出す形になっている。
二杯目を飲み終えたところで、腰を上げた。
「そろそろ失礼する」
「ええ、お引止めはしません。——ああ、加藤さん」
鰐淵が不意に声のトーンを落とした。
能面の笑顔はそのままだが、目だけが変わっていた。
「つけられてますよ」
「……何」
「この店に入る前から。わかりやすい尾行です。プロの仕事ではない」
鰐淵はグラスの底に残った酒を揺らしながら言った。
「心当たりは?」
心当たりはあった。ありすぎた。
「……さあな」
「ご入用であれば、いつでもご相談ください。現地に詳しい人間がそばにいると何かと便利ですよ」
営業トークに戻った鰐淵の顔に、それ以上の追及はなかった。
* * *
店を出ると、夜気が肌に纏わりついた。雨季の湿気は夜になっても引かない。
アパートへの帰り道、遠回りをした。
角を曲がるたびに、背後の足音を聞いた。規則的な、隠す気のない足音だ。
プロの仕事ではない、と鰐淵は言った。
ならば盗賊ギルドでも末端か。俺が何を持っているか確認し、どう動くか監視している。
アパートの前まで来ると、あの吟遊詩人の老人がまだいた。
空き缶の前で、リュートを抱えて歌っている。
だが、何かが違った。
俺が近づくと、老人がゆっくりと顔を上げた。
フードを外した。
黒檀色の肌。銀髪。深い皺の刻まれた顔。
そして、左頬に蜘蛛の刺青。
老人はこちらを見て、歯のない口で笑った。
何も言わなかった。ただ笑って見せた。
それから再びフードを被り、歌いながら通りの闇に消えていった。
空き缶には、俺が入れた銅貨がまだ残っていた。
部屋には上がらず、事務所に戻った。
ソファに横になり、天井を眺めた。
あの老人は家探しの日からあそこにいた。
あの蜘蛛の刺青は見せるために見せたのだ。
お前を見ているぞ、と。
鰐淵の名刺を内ポケットから取り出した。
氏名と連絡先だけの、空白だらけの名刺。
しばらく眺めてから、ポケットに戻した。
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