本編
ー/ー ひどい渇きを覚えて目を覚ます。
夜目も利かないうちに手探りで、買っておいたペットボトルを探り当てる。すぐに見つかったそれを、勢いよく喉に流し込み、空になるまで飲み続ける。
空になったペットボトルを部屋の隅に放り投げる。残念ながらゴミ箱には入らず、壁に当たり畳に落ちた。
ふと、どこからか無数の視線を感じる。挙動不審な動作で周りを見回す。ようやく闇の中でも、物が見えるようになってきてはいたが、どこにも目はない。
横で眠っている女に目をやる。白く死んだような顔をしている。まさか死んでいるだろうなんて本気で思っていたわけではないが、そっとその頬に手をあてる。
柔らかく血の通った頬だった。そっと安堵する。寒いのだろうかと思い、はだけた浴衣を直してやる。蹴飛ばされ、部屋の隅に追いやられた布団を引きずり、もう一度女にかぶせた。
安心したのも束の間、やはり例の視線は消えていない。
ふらつきながら立ち上がり、何度か転びそうになりながら、広縁までやってくる。窓から見えたのは、闇に包まれ趣を感じる温泉街の街並みだけで、不埒な覗きをする者などどこにもいない。
それまで開けっぱなしにしていた襖を閉める。もう一度布団に戻り、強く目を瞑る。
依然として視線はこちらを凝視し続けている。
居ても立っても居られなくなり、すぐに布団から起き上がる。隣の部屋や廊下へ向かって耳をたててみても、誰の気配も感じない。
「気のせいか……」そう諦めるしかないと観念し、再び布団へ潜り頭まで被さる。瞼をきつく縛り、なるべく別のことを考える。例えば、さっき食べた魚の造りだとか、明日訪れる水族館だとか、そうしているうちにやっと視線のことなど忘れ、睡魔が戻ってくる。
「己がいく」
どこからか声が聞こえる。
「待ってくれないか。 私にいかせてちょうだい」
「いや。 吾人の番である 」
訪れていた睡魔はいとも簡単に吹き飛んだ。もはや確認する勇気すらない。総毛立ち、奥歯ががたがたと震える。背中を冷や汗がつたい、暑いのか寒いのかすらわからない。
「約束したじゃないか。 ここは平和に取り決めの通りにいこうじゃないかい」
無数の視線は何かを言い争っているようだが、日本語であるのに一体なんの話をしているのか皆目見当もつかない。
いさかいもいつの間にかひと段落したのか、
「見事なり」
「見事じゃ」
といくつかの感嘆の声が聞こえる。
「いけ。 やれ」と何かを煽り、鼓舞している。
どんと何かが窓ガラスに強く当たる音が聞こえる。
もう一度衝突音が聞こえたかと思うと、同時にがしゃりと、けたたましい音がする。ガラスが突き破られ、ぱりぱりとかけらが辺りに散らばる。
その勢いのまま襖にも突っ込んできて、襖は簡単に砕け散る。障子はボロボロに破け、木枠もひしゃげ、折れ曲がり、木っ端微塵になる。
そこには大きな黒い影のような鳥の姿があった。鶴やフラミンゴに似た姿をしているような気がした。
鳥は大きく翼を広げると、彗星の如く飛びかかってくる。
思わず目を瞑る。
どんという音が聞こえる。薄目で確かめてみると、鳥は壁に激突していた。
「阿呆阿呆」と囃し立て、先ほどまで言い争っていた者たちが、鳥を馬鹿にしている。
鳥は翼を大きく広げ、鋭い嘴を突き上げて頭を背に反らす。かたかたと何度も嘴を強く鳴らす。
一頻り鳴いた後、畳に爪がひっかかるような湿った音をさせながら、緩慢な態度で歩いてくるのを感じる。
なぜだかもうこのまま二人とも死んでしまうのではないかという気分がと肥大し、強く目を瞑り、痛いくらいに歯を食いしばる。
しばらくそうやって堪えていたけれども、何も起きる気配はない。薄目を開けて、隣で寝ている女の方に目をやる。
鳥は鋭い眼光で、隣で寝息を立てている女の顔を覗き込んでいる。女は浅く呼吸を繰り返し、その髑髏のような白い額に汗をいくつも浮かべている。
突然、鳥が眩い光に包まれる。今まで鳥の形をしていた光は、粘土をこねるようにぐにゃぐにゃと形を変えている。次第に新しい形を成していく。
どれくらい時間が経っただろうか。一瞬だった気もするし、気の遠くなるほどその光景を眺めていたような気もする。
さながらビッグバンの再演のような異様な光景はふいに終わりを告げる。それは人の形になった。
人の形になって女の上へ馬乗りになったと思ったら、段々と縮んでいく。
女の呼吸は苦しむように荒くなっていく。苦悶の表情を浮かべ、時折喘いでいる。
光は長い時間をかけて、さらに小さく縮んでいく。人の形だったものが、次第に丸くなり、最後には消えてなくなった。
その歪な気配がなくなり落ち着きを取り戻したのか、女の呼吸は元のように浅く平坦で規則的なものへと戻っていた。
女の名前を呼ぶ。声が掠れて音にならない。きちんと発音できたのか、それが叶わなかったのかわからず嫌な気持ち悪さを覚える。
今度はそっと黒く艶のある髪を撫でる。寝汗のせいで湿っており、手のひらがべたつくのを感じる。
「祝言じゃ。 祝言じゃ」
窓の外から無邪気にはしゃぐような笑い声が届く。
先ほど言い争っていた者たちは、何やら嬉しそうにはしゃぎ、鐘太鼓を鳴らしている。
その音につられて、窓の方へ目をやる。
丁度車が横切り、ヘッドライトの明かりが一瞬だけ室内を照らす。その眩しい光の中に、薄ぼんやりと奇妙に踊る影がいくつか見える。
それらは金太鼓や踊りに合わせて、珍妙な歌を歌い始める。その節はどこか古臭く、あるいは懐かしいような、どうにも言語化するのが難しいものだった。
気がつけば窓の外はもう白み始めており、視線も気配も囃子の音色ももう跡形もなく消え去っていた。
夜目も利かないうちに手探りで、買っておいたペットボトルを探り当てる。すぐに見つかったそれを、勢いよく喉に流し込み、空になるまで飲み続ける。
空になったペットボトルを部屋の隅に放り投げる。残念ながらゴミ箱には入らず、壁に当たり畳に落ちた。
ふと、どこからか無数の視線を感じる。挙動不審な動作で周りを見回す。ようやく闇の中でも、物が見えるようになってきてはいたが、どこにも目はない。
横で眠っている女に目をやる。白く死んだような顔をしている。まさか死んでいるだろうなんて本気で思っていたわけではないが、そっとその頬に手をあてる。
柔らかく血の通った頬だった。そっと安堵する。寒いのだろうかと思い、はだけた浴衣を直してやる。蹴飛ばされ、部屋の隅に追いやられた布団を引きずり、もう一度女にかぶせた。
安心したのも束の間、やはり例の視線は消えていない。
ふらつきながら立ち上がり、何度か転びそうになりながら、広縁までやってくる。窓から見えたのは、闇に包まれ趣を感じる温泉街の街並みだけで、不埒な覗きをする者などどこにもいない。
それまで開けっぱなしにしていた襖を閉める。もう一度布団に戻り、強く目を瞑る。
依然として視線はこちらを凝視し続けている。
居ても立っても居られなくなり、すぐに布団から起き上がる。隣の部屋や廊下へ向かって耳をたててみても、誰の気配も感じない。
「気のせいか……」そう諦めるしかないと観念し、再び布団へ潜り頭まで被さる。瞼をきつく縛り、なるべく別のことを考える。例えば、さっき食べた魚の造りだとか、明日訪れる水族館だとか、そうしているうちにやっと視線のことなど忘れ、睡魔が戻ってくる。
「己がいく」
どこからか声が聞こえる。
「待ってくれないか。 私にいかせてちょうだい」
「いや。 吾人の番である 」
訪れていた睡魔はいとも簡単に吹き飛んだ。もはや確認する勇気すらない。総毛立ち、奥歯ががたがたと震える。背中を冷や汗がつたい、暑いのか寒いのかすらわからない。
「約束したじゃないか。 ここは平和に取り決めの通りにいこうじゃないかい」
無数の視線は何かを言い争っているようだが、日本語であるのに一体なんの話をしているのか皆目見当もつかない。
いさかいもいつの間にかひと段落したのか、
「見事なり」
「見事じゃ」
といくつかの感嘆の声が聞こえる。
「いけ。 やれ」と何かを煽り、鼓舞している。
どんと何かが窓ガラスに強く当たる音が聞こえる。
もう一度衝突音が聞こえたかと思うと、同時にがしゃりと、けたたましい音がする。ガラスが突き破られ、ぱりぱりとかけらが辺りに散らばる。
その勢いのまま襖にも突っ込んできて、襖は簡単に砕け散る。障子はボロボロに破け、木枠もひしゃげ、折れ曲がり、木っ端微塵になる。
そこには大きな黒い影のような鳥の姿があった。鶴やフラミンゴに似た姿をしているような気がした。
鳥は大きく翼を広げると、彗星の如く飛びかかってくる。
思わず目を瞑る。
どんという音が聞こえる。薄目で確かめてみると、鳥は壁に激突していた。
「阿呆阿呆」と囃し立て、先ほどまで言い争っていた者たちが、鳥を馬鹿にしている。
鳥は翼を大きく広げ、鋭い嘴を突き上げて頭を背に反らす。かたかたと何度も嘴を強く鳴らす。
一頻り鳴いた後、畳に爪がひっかかるような湿った音をさせながら、緩慢な態度で歩いてくるのを感じる。
なぜだかもうこのまま二人とも死んでしまうのではないかという気分がと肥大し、強く目を瞑り、痛いくらいに歯を食いしばる。
しばらくそうやって堪えていたけれども、何も起きる気配はない。薄目を開けて、隣で寝ている女の方に目をやる。
鳥は鋭い眼光で、隣で寝息を立てている女の顔を覗き込んでいる。女は浅く呼吸を繰り返し、その髑髏のような白い額に汗をいくつも浮かべている。
突然、鳥が眩い光に包まれる。今まで鳥の形をしていた光は、粘土をこねるようにぐにゃぐにゃと形を変えている。次第に新しい形を成していく。
どれくらい時間が経っただろうか。一瞬だった気もするし、気の遠くなるほどその光景を眺めていたような気もする。
さながらビッグバンの再演のような異様な光景はふいに終わりを告げる。それは人の形になった。
人の形になって女の上へ馬乗りになったと思ったら、段々と縮んでいく。
女の呼吸は苦しむように荒くなっていく。苦悶の表情を浮かべ、時折喘いでいる。
光は長い時間をかけて、さらに小さく縮んでいく。人の形だったものが、次第に丸くなり、最後には消えてなくなった。
その歪な気配がなくなり落ち着きを取り戻したのか、女の呼吸は元のように浅く平坦で規則的なものへと戻っていた。
女の名前を呼ぶ。声が掠れて音にならない。きちんと発音できたのか、それが叶わなかったのかわからず嫌な気持ち悪さを覚える。
今度はそっと黒く艶のある髪を撫でる。寝汗のせいで湿っており、手のひらがべたつくのを感じる。
「祝言じゃ。 祝言じゃ」
窓の外から無邪気にはしゃぐような笑い声が届く。
先ほど言い争っていた者たちは、何やら嬉しそうにはしゃぎ、鐘太鼓を鳴らしている。
その音につられて、窓の方へ目をやる。
丁度車が横切り、ヘッドライトの明かりが一瞬だけ室内を照らす。その眩しい光の中に、薄ぼんやりと奇妙に踊る影がいくつか見える。
それらは金太鼓や踊りに合わせて、珍妙な歌を歌い始める。その節はどこか古臭く、あるいは懐かしいような、どうにも言語化するのが難しいものだった。
気がつけば窓の外はもう白み始めており、視線も気配も囃子の音色ももう跡形もなく消え去っていた。
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