夏座敷に、風を待つ
ー/ー 伊勢参りから戻って、二度目の夏が来た。
城下の空気は朝からぬるく、障子を開けても風はなかなか通らなかった。庭の青葉は盛りを迎え、石の手水鉢の水まで日向の匂いを帯びている。
奥向きでは、女中たちが朝のうちから簾を掛け替え、蚊遣りを焚き、夕刻までに氷室から届く氷の分配を相談していた。
どれも毎年同じように繰り返される夏の支度であるのに、おりつにはどこか去年までとは違って見えた。
違って見えるのは、たぶん自分のせいだった。
夜ごと机に向かって字を習うようになり、紙の白さや、墨の匂いや、筆先がわずかに震える感触を覚えてから、おりつの目は以前よりも多くのものを拾うようになっていた。朝の光の入り方、襖の引き手の傷、女中たちの言葉の綾、そして千代の沈黙に混じる、ごく細やかな息づかい。
千代もまた、伊勢の旅以前とは少し変わった。もともと物静かな人であることに変わりはないが、沈黙が重くなくなった。口数は決して多くないのに、そこに閉ざされた感じがない。人の話を聞くとき、以前よりもわずかに身を乗り出して頷くようになり、女中が失敗を恐れて身を縮めていると、ほんのひと言で場を和らげることが増えた。
とりわけ、この夏に入ってからは、奥向きの女中たちに帳付けや文の覚えをさせることに、千代は静かな熱心さを見せていた。
「米の出入りも、反物の数も、口で覚えるには限りがあります。書ける者が一人でも増えれば、皆が助かるでしょう」
表向きにはそういう理屈で、奥向きの一角に小さな文机を二つ置かせ、使い終わった帳面の切れ端や半紙の余りを集めさせた。御殿の経費を切り詰めるための工夫、と言えば誰も咎めない。だが、それだけではないことを、おりつは知っていた。
千代は、女が自分の胸の内を文字にできることの大切さを、きっと誰よりもよく知っていたのだ。
夕刻になると、仕事を終えた若い女中たちが入れ替わりに机の前へ座る。筆の持ち方もおぼつかない者、仮名なら少しは書ける者、商家から奉公に上がって算盤だけは達者な者。皆それぞれで、最初のうちは笑いながらも、うまく書けぬとすぐに肩を落とした。
そんな中でおりつは、千代から習ったことをそのまま下の者へ伝える役を担うようになっていた。
「止めるところで、少し息をつくのです」
「この『あ』は、丸くしすぎると次の字へ続きませぬ」
「急がずともよろしいの。読めれば、まずは十分です」
以前の自分なら、人にものを教えるなど考えもしなかった。けれど、文字を覚えるたびに、自分の中に小さな道が一本ずつ通っていくようで、その道をほかの誰かにも渡したいと思うようになっていた。
ある夕方、年若い下女のさよが、どうしても「夏」の字が書けず、半紙の上で泣きそうになっていた。おりつが横で手本を書いても、さよは首を振るばかりだ。
「むずかしゅうございます。こんなもの、私には無理でございます」
おりつがどう言葉をかけようか迷っていると、そこへ千代が来た。涼しげな薄藍の単衣をまとい、手には冷えた麦茶の入った茶碗を二つ持っている。
「さよ」
「は、はいっ」
さよは慌てて立ち上がろうとしたが、千代はやわらかく制した。
「座ったままで。書けない字があるのですね」
「申し訳ございません……」
「どうして謝るのです」
千代はさよの前にしゃがみ、紙をのぞき込んだ。そこには何度も書き損じた「夏」が並んでいた。払いが長すぎたり、中心がずれたり、途中で墨がかすれたりしている。
千代はその一枚をつまみ上げ、少し目を細めた。
「よく見れば、どれも違いますね」
「……え」
「うまく書けないとき、人は同じ失敗を繰り返しているつもりになるけれど、本当は少しずつ違うものです。昨日より今日、今日より明日、手は覚えていきます」
そして千代は、にこりともせず、それでいて不思議と慰めになる声で言った。
「おりつも最初は、もっとひどい字でしたよ」
おりつは思わず顔を上げた。
「奥様」
さよが目を丸くし、次の瞬間、ふっと笑った。つられておりつも笑う。千代の口元も、ごくかすかに和らいだ。
「ほら、書いてごらんなさい。夏は逃げません」
その日、さよは最後に一枚だけ、見違えるほど整った「夏」を書いた。本人がいちばん驚いた顔をしていたので、部屋じゅうに笑いが起こった。
そうしたささやかな時間が、おりつにはひどく愛おしかった。
だが、夏という季節は、どこかで必ず空気を変える出来事を運んでくる。
七月の半ば、江戸詰めの家老からの書状が届いた。千代の義実家にあたる本家筋で、当主の叔母にあたる婦人が病を得、静養のためこちらの屋敷へ移ることになったという。身内の年長者が入ってくるとなれば、奥向きの空気が変わるのは避けられない。
数日後、輿で運ばれてきたのは、志乃と呼ばれる五十を過ぎた婦人だった。気位の高いことで知られ、若いころから礼儀作法にきびしく、少しでも決まりに外れることを好まぬ人であるという噂は、おりつも耳にしていた。
実際、着いて三日と経たぬうちに、志乃は奥向きのやり方に口を挟みはじめた。
「未亡人の御前で、下々が笑い声を立てるとは何事です」
「夜更けに女たちを集めて字を教えるなど、余計なこと」
「女は書きものよりも、黙って働くほうが品がよい」
その物言いは露骨ではない。あくまで“家のため”を思っての忠告という顔をしている。だからこそ、反発しづらかった。女中たちは次第に文机のある部屋へ足を運ばなくなり、せっかく覚えかけた字もまた遠のいていった。
おりつは悔しかった。けれど身分も立場も違いすぎる。たかが侍女が口を差し挟めることではない。
ある夜、いつものように千代の部屋で灯を整えていると、千代がふいに言った。
「おりつ。文机のこと、皆が遠慮しているようですね」
おりつは筆を洗う手を止めた。
「……はい」
「やはり、ご迷惑でございましょうか」
「誰がそう申しました」
静かな声だったが、そこにはいつもより深い響きがあった。おりつは胸が詰まり、言葉を探した。
「皆、奥様のお心はありがたく思っております。ただ……志乃様のお言葉が」
「そうでしょうね」
千代は膝の上に置いていた扇を閉じた。
「わたくしも分かっております。志乃様は家を守ろうとしておられるだけ。あのお方から見れば、わたくしなど、若くして夫を失い、身を慎んでいるようでいて、余計なことを考える危うい女に見えるのでしょう」
その言い方に、自嘲が混じっている気がして、おりつは思わず顔を上げた。
「奥様は、危ういお方などではございません」
千代はおりつを見た。夏の灯は柔らかく、障子越しに入る月明かりと重なって、その横顔をいっそう涼しく見せていた。
「おりつ、おまえはいつもそう言いますね」
「本心にございます」
「では、もしこのまま文机を片づけよと申されたら、どうします」
難しい問いだった。おりつはしばし黙したのち、慎重に答えた。
「片づけるしかございません。けれど、覚えたいと思った者の胸のうちまでは、誰にも片づけられません」
千代は目を伏せ、わずかに笑った。
「そうですね」
それから二、三日して、志乃はついに千代へはっきり言った。おりつは直接その場にいたわけではないが、襖一枚隔てたところで茶の支度をしていたから、声は聞こえた。
「千代殿、そなたのお心がけは理解できます。されど、分というものがございます。若い女どもに読み書きを与えれば、余計な知恵ばかりつきましょう。文を持てば、よからぬやりとりも生まれます。ましてそなたのようなお立場の方が率先するのは、慎みを欠くように映りますぞ」
千代はしばらく黙っていた。 やがて、穏やかな声で答えた。
「ご忠告、ありがたく存じます」
そこで終わるかと思った。だが次の言葉は、おりつの予想を超えていた。
「ですが、女が文字を知ることは、慎みを失うことではございません」
「なんと」
「帳面を読めれば、家の金子の流れも見えましょう。薬包みの書付も読めましょう。親が病めば、代わりに願文の一つもしたためられましょう。心が行き場を失ったとき、胸の内を紙に落とすこともできます。知らぬままでいるより、知っているほうが、よほど人を慎ませることもございます。それに、この家には女しかおりませんから」
志乃が息を呑む気配がした。千代はなおも声を荒らげずに続けた。
「もしそれでもご不快なら、わたくし一人の責めとしてお受けいたします。下の者を叱らないでやってくださいませ」
おりつは、茶托を持つ指に力が入るのを感じた。伊勢の林で胸の奥を明かしたときの千代と、今ここで家の年長者に向かう千代は、同じ人だった。黙って従うだけの人ではなく、ひそやかに、それでも確かに、自分の信じるものを守る人。
その夜、志乃は機嫌を損ねたまま引き上げたが、文机が撤去されることはなかった。ただし露骨な支援もできなくなり、稽古はしばらく細々と続けるよりほかなかった。
それでも、おりつは以前より強く思うようになった。文字はただの技ではない。人の内を支える、細い柱のようなものだと。
八月に入ると、暑さはさらに増した。蝉の声が朝から絶えず、夕立が来そうで来ない日が続く。そんな折、奥向きの中年女中およねの母親が、城下外れの長屋で病を得たという知らせが届いた。およねは気丈な女だったが、その日は仕事中も落ち着かず、何度も手元をあやまった。
「文を出したいのです」と、およねは夜更けにおりつへ打ち明けた。
「町医者への礼と、薬代の工面を親類に頼みたいのです。でも、私は名前を書くのがやっとで……」
おりつはすぐに、千代へそのことを伝えた。千代は少しもためらわず、紙と筆を出させた。
「およね、申すことをここで話しなさい。おりつが書きます」
「よろしいのでございますか」
「急ぐのでしょう」
およねは畳に手をつき、何度も頭を下げた。おりつは墨をすり、息を整えた。誰かの切実な思いを、自分の筆で運ぶ。あの春の日、漠然と抱いた願いが、唐突に目の前へ現れたようだった。
およねの言葉は飾り気がなく、切実だった。母の咳が止まらぬこと、手持ちの金子では薬が足りぬこと、迷惑を承知で助けを願うこと。おりつは一語ずつ確かめながら書いた。
千代は横で聞き、時折「そこはもう少しやわらかく」「礼の言葉を先に」と静かに助言する。
書き上がった文を読み返すと、およねは泣いた。 「まるで、私がちゃんとした者になったみたいでございます」
千代は首を振った。
「違います。おまえがそう思っていたことが、初めからちゃんとここにあったのです。言葉に姿を与えただけですよ」
その文はすぐに使いの者へ託され、数日後には親類から金子と薬が届いた。およねの母は大事には至らず、秋口には歩けるようになったという。
その出来事は、静かに奥向きの空気を変えた。文机に寄りつかなくなっていた女中たちが、また少しずつ集まるようになったのだ。字を覚えることが、ただの嗜みではなく、自分や家族を助ける力になると、皆が目の前で知ったからだった。
志乃も、それ以上は強く口を出さなくなった。あるいは、実利の前では古い理屈も押し通しづらかったのかもしれない。ある夕刻などは、通りがかりにさよの書いた帳面を一瞥し、「前よりは見やすい」とだけ言って去っていった。それがあの人なりの譲歩であると、奥向きの者たちは暗黙に受け取った。
夏の終わりが近づくころ、ひさしぶりに大きな夕立が来た。
日暮れ前から雲が厚くなり、やがて空一面が暗く沈んだかと思うと、白い稲光が走った。ほどなく雨脚が庭を叩き、木々はたちまちずぶ濡れになった。女中たちが慌てて簾を上げ、廊下へ吹き込む雨を拭って回る。おりつも濡れ縁の雑巾がけを手伝い、ようやく一息ついたのは、日がとっぷり暮れてからだった。
千代の部屋へ戻ると、障子の向こうで雨音が少し遠のいていた。空気はひんやりとして、まるで別の季節が忍び込んだかのようだった。
「おりつ」
千代は窓際に座り、濡れた庭を眺めていた。灯を背に受けた横顔は静かで、しかしどこか思いに沈んで見える。
「はい」
「この夏は、長い夏でしたね」
おりつは隣に控えた。
「はい。長い夏でございました」
「長くて、少し息苦しくて、それでも悪いことばかりではなかった」
しばらく、二人で雨後の庭を見ていた。木の葉から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと石を打つ。
やがて千代が言った。
「わたくしは、伊勢から戻ってから、ずっと考えていたのです。胸の内にしまったものを、ただ自分で抱えて終えるだけでよいのかと。けれど、誰かに無理に話させることも、違う気がして」
「はい」
「文机を置いたのは、そのためでもありました。声にできぬことを、せめて自分の字で持てるように」
おりつは静かに頷いた。
「奥様は、お優しゅうございます」
「お優しい、では済まないこともありますよ。たぶん、わたくしは自分のためでもあったのです。誰かが書けるようになるたび、あの旅で置いてきた文が、わたくしの中で正しい場所へ納まっていく気がしたのです」
おりつは、その言葉を胸の深いところで受け止めた。人は、自分一人のためだけでは癒えないことがある。誰かに手を差し出すことで、ようやく自分の傷もやわらぐ。千代がしていることは、きっとそういうことなのだ。
「奥様」
「なんです」
「以前申し上げたこと、覚えておいでですか」
「どれのことかしら」
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています、と」
千代は驚いたように目を瞬き、それからやわらかく笑った。
「ええ、覚えています」
おりつは膝の上で手を重ねた。
「今も変わりません。けれど、その意味は前より少し違ってきた気がいたします」
「どう違うのです」
「以前は、ただ奥様のおそばにいて、見届けることだけが私の役目のように思っておりました。けれど今は……奥様のなさろうとしていることを、私も一緒に支えとうございます。見ているだけではなく」
千代はしばし黙っていた。雨上がりの風が、障子の隙からほのかに入り、灯火をわずかに揺らした。
「では、おりつ」
「はい」
「これからも手を貸してください。わたくし一人では、どうにも狭いところしか見えません」
その言葉は、おりつにとって何より深い信頼の証だった。侍女として命を受けるのとは違う。人として、共に歩くことを許されたような気がした。
「はい。喜んで」
夏の夜は短くない。けれど、終わりの気配はいつも唐突にやって来る。数日後には蝉の声もわずかに弱まり、朝の水仕事がほんの少し楽になる。庭の芙蓉は相変わらず大きく咲いていたが、その色は盛りを過ぎた美しさを帯びていた。
ある朝、おりつが文机の紙を整えていると、さよがそっと近寄ってきた。
「おりつ様」
「どうしました」
「私、今度は“秋”を書けるようになりたいです」
おりつは微笑んだ。
「ええ、書きましょう。夏の次には、秋が参りますから」
そう答えながら、おりつは思った。季節は巡る。巡るたび、人の心にも少しずつ違う風が入る。あの春に始まったものは、この夏に根を張ったのだ。まだ細く、頼りない根かもしれない。けれど、土の下では確かに伸びている。
それは千代にとっても、おりつにとっても同じだった。
見上げた空は、まだ夏の青さを強く残していた。だがその高みには、秋へ向かう透明さが、かすかに混じり始めていた。
城下の空気は朝からぬるく、障子を開けても風はなかなか通らなかった。庭の青葉は盛りを迎え、石の手水鉢の水まで日向の匂いを帯びている。
奥向きでは、女中たちが朝のうちから簾を掛け替え、蚊遣りを焚き、夕刻までに氷室から届く氷の分配を相談していた。
どれも毎年同じように繰り返される夏の支度であるのに、おりつにはどこか去年までとは違って見えた。
違って見えるのは、たぶん自分のせいだった。
夜ごと机に向かって字を習うようになり、紙の白さや、墨の匂いや、筆先がわずかに震える感触を覚えてから、おりつの目は以前よりも多くのものを拾うようになっていた。朝の光の入り方、襖の引き手の傷、女中たちの言葉の綾、そして千代の沈黙に混じる、ごく細やかな息づかい。
千代もまた、伊勢の旅以前とは少し変わった。もともと物静かな人であることに変わりはないが、沈黙が重くなくなった。口数は決して多くないのに、そこに閉ざされた感じがない。人の話を聞くとき、以前よりもわずかに身を乗り出して頷くようになり、女中が失敗を恐れて身を縮めていると、ほんのひと言で場を和らげることが増えた。
とりわけ、この夏に入ってからは、奥向きの女中たちに帳付けや文の覚えをさせることに、千代は静かな熱心さを見せていた。
「米の出入りも、反物の数も、口で覚えるには限りがあります。書ける者が一人でも増えれば、皆が助かるでしょう」
表向きにはそういう理屈で、奥向きの一角に小さな文机を二つ置かせ、使い終わった帳面の切れ端や半紙の余りを集めさせた。御殿の経費を切り詰めるための工夫、と言えば誰も咎めない。だが、それだけではないことを、おりつは知っていた。
千代は、女が自分の胸の内を文字にできることの大切さを、きっと誰よりもよく知っていたのだ。
夕刻になると、仕事を終えた若い女中たちが入れ替わりに机の前へ座る。筆の持ち方もおぼつかない者、仮名なら少しは書ける者、商家から奉公に上がって算盤だけは達者な者。皆それぞれで、最初のうちは笑いながらも、うまく書けぬとすぐに肩を落とした。
そんな中でおりつは、千代から習ったことをそのまま下の者へ伝える役を担うようになっていた。
「止めるところで、少し息をつくのです」
「この『あ』は、丸くしすぎると次の字へ続きませぬ」
「急がずともよろしいの。読めれば、まずは十分です」
以前の自分なら、人にものを教えるなど考えもしなかった。けれど、文字を覚えるたびに、自分の中に小さな道が一本ずつ通っていくようで、その道をほかの誰かにも渡したいと思うようになっていた。
ある夕方、年若い下女のさよが、どうしても「夏」の字が書けず、半紙の上で泣きそうになっていた。おりつが横で手本を書いても、さよは首を振るばかりだ。
「むずかしゅうございます。こんなもの、私には無理でございます」
おりつがどう言葉をかけようか迷っていると、そこへ千代が来た。涼しげな薄藍の単衣をまとい、手には冷えた麦茶の入った茶碗を二つ持っている。
「さよ」
「は、はいっ」
さよは慌てて立ち上がろうとしたが、千代はやわらかく制した。
「座ったままで。書けない字があるのですね」
「申し訳ございません……」
「どうして謝るのです」
千代はさよの前にしゃがみ、紙をのぞき込んだ。そこには何度も書き損じた「夏」が並んでいた。払いが長すぎたり、中心がずれたり、途中で墨がかすれたりしている。
千代はその一枚をつまみ上げ、少し目を細めた。
「よく見れば、どれも違いますね」
「……え」
「うまく書けないとき、人は同じ失敗を繰り返しているつもりになるけれど、本当は少しずつ違うものです。昨日より今日、今日より明日、手は覚えていきます」
そして千代は、にこりともせず、それでいて不思議と慰めになる声で言った。
「おりつも最初は、もっとひどい字でしたよ」
おりつは思わず顔を上げた。
「奥様」
さよが目を丸くし、次の瞬間、ふっと笑った。つられておりつも笑う。千代の口元も、ごくかすかに和らいだ。
「ほら、書いてごらんなさい。夏は逃げません」
その日、さよは最後に一枚だけ、見違えるほど整った「夏」を書いた。本人がいちばん驚いた顔をしていたので、部屋じゅうに笑いが起こった。
そうしたささやかな時間が、おりつにはひどく愛おしかった。
だが、夏という季節は、どこかで必ず空気を変える出来事を運んでくる。
七月の半ば、江戸詰めの家老からの書状が届いた。千代の義実家にあたる本家筋で、当主の叔母にあたる婦人が病を得、静養のためこちらの屋敷へ移ることになったという。身内の年長者が入ってくるとなれば、奥向きの空気が変わるのは避けられない。
数日後、輿で運ばれてきたのは、志乃と呼ばれる五十を過ぎた婦人だった。気位の高いことで知られ、若いころから礼儀作法にきびしく、少しでも決まりに外れることを好まぬ人であるという噂は、おりつも耳にしていた。
実際、着いて三日と経たぬうちに、志乃は奥向きのやり方に口を挟みはじめた。
「未亡人の御前で、下々が笑い声を立てるとは何事です」
「夜更けに女たちを集めて字を教えるなど、余計なこと」
「女は書きものよりも、黙って働くほうが品がよい」
その物言いは露骨ではない。あくまで“家のため”を思っての忠告という顔をしている。だからこそ、反発しづらかった。女中たちは次第に文机のある部屋へ足を運ばなくなり、せっかく覚えかけた字もまた遠のいていった。
おりつは悔しかった。けれど身分も立場も違いすぎる。たかが侍女が口を差し挟めることではない。
ある夜、いつものように千代の部屋で灯を整えていると、千代がふいに言った。
「おりつ。文机のこと、皆が遠慮しているようですね」
おりつは筆を洗う手を止めた。
「……はい」
「やはり、ご迷惑でございましょうか」
「誰がそう申しました」
静かな声だったが、そこにはいつもより深い響きがあった。おりつは胸が詰まり、言葉を探した。
「皆、奥様のお心はありがたく思っております。ただ……志乃様のお言葉が」
「そうでしょうね」
千代は膝の上に置いていた扇を閉じた。
「わたくしも分かっております。志乃様は家を守ろうとしておられるだけ。あのお方から見れば、わたくしなど、若くして夫を失い、身を慎んでいるようでいて、余計なことを考える危うい女に見えるのでしょう」
その言い方に、自嘲が混じっている気がして、おりつは思わず顔を上げた。
「奥様は、危ういお方などではございません」
千代はおりつを見た。夏の灯は柔らかく、障子越しに入る月明かりと重なって、その横顔をいっそう涼しく見せていた。
「おりつ、おまえはいつもそう言いますね」
「本心にございます」
「では、もしこのまま文机を片づけよと申されたら、どうします」
難しい問いだった。おりつはしばし黙したのち、慎重に答えた。
「片づけるしかございません。けれど、覚えたいと思った者の胸のうちまでは、誰にも片づけられません」
千代は目を伏せ、わずかに笑った。
「そうですね」
それから二、三日して、志乃はついに千代へはっきり言った。おりつは直接その場にいたわけではないが、襖一枚隔てたところで茶の支度をしていたから、声は聞こえた。
「千代殿、そなたのお心がけは理解できます。されど、分というものがございます。若い女どもに読み書きを与えれば、余計な知恵ばかりつきましょう。文を持てば、よからぬやりとりも生まれます。ましてそなたのようなお立場の方が率先するのは、慎みを欠くように映りますぞ」
千代はしばらく黙っていた。 やがて、穏やかな声で答えた。
「ご忠告、ありがたく存じます」
そこで終わるかと思った。だが次の言葉は、おりつの予想を超えていた。
「ですが、女が文字を知ることは、慎みを失うことではございません」
「なんと」
「帳面を読めれば、家の金子の流れも見えましょう。薬包みの書付も読めましょう。親が病めば、代わりに願文の一つもしたためられましょう。心が行き場を失ったとき、胸の内を紙に落とすこともできます。知らぬままでいるより、知っているほうが、よほど人を慎ませることもございます。それに、この家には女しかおりませんから」
志乃が息を呑む気配がした。千代はなおも声を荒らげずに続けた。
「もしそれでもご不快なら、わたくし一人の責めとしてお受けいたします。下の者を叱らないでやってくださいませ」
おりつは、茶托を持つ指に力が入るのを感じた。伊勢の林で胸の奥を明かしたときの千代と、今ここで家の年長者に向かう千代は、同じ人だった。黙って従うだけの人ではなく、ひそやかに、それでも確かに、自分の信じるものを守る人。
その夜、志乃は機嫌を損ねたまま引き上げたが、文机が撤去されることはなかった。ただし露骨な支援もできなくなり、稽古はしばらく細々と続けるよりほかなかった。
それでも、おりつは以前より強く思うようになった。文字はただの技ではない。人の内を支える、細い柱のようなものだと。
八月に入ると、暑さはさらに増した。蝉の声が朝から絶えず、夕立が来そうで来ない日が続く。そんな折、奥向きの中年女中およねの母親が、城下外れの長屋で病を得たという知らせが届いた。およねは気丈な女だったが、その日は仕事中も落ち着かず、何度も手元をあやまった。
「文を出したいのです」と、およねは夜更けにおりつへ打ち明けた。
「町医者への礼と、薬代の工面を親類に頼みたいのです。でも、私は名前を書くのがやっとで……」
おりつはすぐに、千代へそのことを伝えた。千代は少しもためらわず、紙と筆を出させた。
「およね、申すことをここで話しなさい。おりつが書きます」
「よろしいのでございますか」
「急ぐのでしょう」
およねは畳に手をつき、何度も頭を下げた。おりつは墨をすり、息を整えた。誰かの切実な思いを、自分の筆で運ぶ。あの春の日、漠然と抱いた願いが、唐突に目の前へ現れたようだった。
およねの言葉は飾り気がなく、切実だった。母の咳が止まらぬこと、手持ちの金子では薬が足りぬこと、迷惑を承知で助けを願うこと。おりつは一語ずつ確かめながら書いた。
千代は横で聞き、時折「そこはもう少しやわらかく」「礼の言葉を先に」と静かに助言する。
書き上がった文を読み返すと、およねは泣いた。 「まるで、私がちゃんとした者になったみたいでございます」
千代は首を振った。
「違います。おまえがそう思っていたことが、初めからちゃんとここにあったのです。言葉に姿を与えただけですよ」
その文はすぐに使いの者へ託され、数日後には親類から金子と薬が届いた。およねの母は大事には至らず、秋口には歩けるようになったという。
その出来事は、静かに奥向きの空気を変えた。文机に寄りつかなくなっていた女中たちが、また少しずつ集まるようになったのだ。字を覚えることが、ただの嗜みではなく、自分や家族を助ける力になると、皆が目の前で知ったからだった。
志乃も、それ以上は強く口を出さなくなった。あるいは、実利の前では古い理屈も押し通しづらかったのかもしれない。ある夕刻などは、通りがかりにさよの書いた帳面を一瞥し、「前よりは見やすい」とだけ言って去っていった。それがあの人なりの譲歩であると、奥向きの者たちは暗黙に受け取った。
夏の終わりが近づくころ、ひさしぶりに大きな夕立が来た。
日暮れ前から雲が厚くなり、やがて空一面が暗く沈んだかと思うと、白い稲光が走った。ほどなく雨脚が庭を叩き、木々はたちまちずぶ濡れになった。女中たちが慌てて簾を上げ、廊下へ吹き込む雨を拭って回る。おりつも濡れ縁の雑巾がけを手伝い、ようやく一息ついたのは、日がとっぷり暮れてからだった。
千代の部屋へ戻ると、障子の向こうで雨音が少し遠のいていた。空気はひんやりとして、まるで別の季節が忍び込んだかのようだった。
「おりつ」
千代は窓際に座り、濡れた庭を眺めていた。灯を背に受けた横顔は静かで、しかしどこか思いに沈んで見える。
「はい」
「この夏は、長い夏でしたね」
おりつは隣に控えた。
「はい。長い夏でございました」
「長くて、少し息苦しくて、それでも悪いことばかりではなかった」
しばらく、二人で雨後の庭を見ていた。木の葉から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと石を打つ。
やがて千代が言った。
「わたくしは、伊勢から戻ってから、ずっと考えていたのです。胸の内にしまったものを、ただ自分で抱えて終えるだけでよいのかと。けれど、誰かに無理に話させることも、違う気がして」
「はい」
「文机を置いたのは、そのためでもありました。声にできぬことを、せめて自分の字で持てるように」
おりつは静かに頷いた。
「奥様は、お優しゅうございます」
「お優しい、では済まないこともありますよ。たぶん、わたくしは自分のためでもあったのです。誰かが書けるようになるたび、あの旅で置いてきた文が、わたくしの中で正しい場所へ納まっていく気がしたのです」
おりつは、その言葉を胸の深いところで受け止めた。人は、自分一人のためだけでは癒えないことがある。誰かに手を差し出すことで、ようやく自分の傷もやわらぐ。千代がしていることは、きっとそういうことなのだ。
「奥様」
「なんです」
「以前申し上げたこと、覚えておいでですか」
「どれのことかしら」
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています、と」
千代は驚いたように目を瞬き、それからやわらかく笑った。
「ええ、覚えています」
おりつは膝の上で手を重ねた。
「今も変わりません。けれど、その意味は前より少し違ってきた気がいたします」
「どう違うのです」
「以前は、ただ奥様のおそばにいて、見届けることだけが私の役目のように思っておりました。けれど今は……奥様のなさろうとしていることを、私も一緒に支えとうございます。見ているだけではなく」
千代はしばし黙っていた。雨上がりの風が、障子の隙からほのかに入り、灯火をわずかに揺らした。
「では、おりつ」
「はい」
「これからも手を貸してください。わたくし一人では、どうにも狭いところしか見えません」
その言葉は、おりつにとって何より深い信頼の証だった。侍女として命を受けるのとは違う。人として、共に歩くことを許されたような気がした。
「はい。喜んで」
夏の夜は短くない。けれど、終わりの気配はいつも唐突にやって来る。数日後には蝉の声もわずかに弱まり、朝の水仕事がほんの少し楽になる。庭の芙蓉は相変わらず大きく咲いていたが、その色は盛りを過ぎた美しさを帯びていた。
ある朝、おりつが文机の紙を整えていると、さよがそっと近寄ってきた。
「おりつ様」
「どうしました」
「私、今度は“秋”を書けるようになりたいです」
おりつは微笑んだ。
「ええ、書きましょう。夏の次には、秋が参りますから」
そう答えながら、おりつは思った。季節は巡る。巡るたび、人の心にも少しずつ違う風が入る。あの春に始まったものは、この夏に根を張ったのだ。まだ細く、頼りない根かもしれない。けれど、土の下では確かに伸びている。
それは千代にとっても、おりつにとっても同じだった。
見上げた空は、まだ夏の青さを強く残していた。だがその高みには、秋へ向かう透明さが、かすかに混じり始めていた。
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