伊勢路にて、春はまだ遠く
ー/ー おりつが奥方の千代に仕えるようになってから、もう七年が過ぎていた。
はじめて御殿の奥向きに上がったころ、千代はまだ嫁いで間もない若奥様で、白い指先にいつもほのかな香をまとわせていた。物静かな人で、むやみに笑うことも、声を荒らげることもなかったが、障子を開ける手つきひとつにまで品があり、おりつはまだ年若い身でありながら、この人のそばにいられることを誇りに思っていた。
その千代が夫を亡くしたのは、二十三の春だった。
御前様と呼ばれたその人は病弱ではあったが、家中の誰にもやさしい人で、庭の梅がほころぶころにはもう起き上がれなくなり、花の盛りを見ぬまま逝った。千代は泣き乱れることもなく、ただ一層口数を減らし、白い喪の着物のまま日々を静かにやり過ごした。
おりつは、千代のそばで湯を沸かし、薬を運び、夜の更けるまで灯心を整えながら、その沈黙を守るように暮らした。
秋が過ぎ、年が改まったある日、千代は藩に願い出て、伊勢参りに赴くことになった。
亡夫の供養のため――表向きにはそういうことになっていた。若くして夫を失った身が神宮へ詣でるのは、誰にも咎められることではない。むしろ殊勝だとさえ言われた。
供をする者におりつの名が挙がったとき、胸のうちに小さな灯がともった。役目にすぎないと分かっていても、千代と二人きりで長く旅をするなど、めったにあることではない。
だが、旅支度の折から、おりつはうすうす気づいていた。千代の旅支度は、供養の旅にしてはどこか奇妙だった。仏前に供える香や数珠のほかに、薄鼠の小さな桐箱を一つ、誰にも触れさせず自ら懐にしまい込んだ。さらに、出立の前夜には、いつになく長く硯に向かっていた。書き上げたものはすぐに畳み、火にかざして封をしたので、中身を見ることは叶わなかった。だが、その横顔には、おりつの知らぬ緊張があった。
江戸から伊勢へ向かう道は、春浅い風をまとっていた。まだ山あいには冬の名残があり、街道の茶店では湯気の立つ餅がよく売れていた。二人は数人の供回りとともに東海道を下り、川を渡り、宿場を泊まり継いだ。
日ごろ屋敷の内にある千代は、道中の草花にも人の行き交いにもむやみに目を留めることはなかったが、ときおり、何気ない景色にふっと足を止めた。
たとえば、ある宿場外れの柳の木。たとえば、川縁で手を濯ぐ旅の女たち。たとえば、古びた道しるべに刻まれた「伊勢」の二文字。
そのたび千代の目に、供養だけでは説明のつかぬ、遠いものを探す色が差した。
夜半、宿の小部屋でおりつが燭台の火を弱めると、千代はしばらく眠らずにいた。寝息が聞こえないまま時が過ぎ、やがてかすかな衣擦れがする。眠れぬのかと案じても、おりつは問うことができない。ただそっと起きて湯呑に白湯を注ぎ、枕元へ置いた。
「おりつ」
ある夜、千代が不意に呼んだ。
「はい」
「おまえは、旅は好きですか」
思いがけぬ問いに、おりつは少し考えてから答えた。
「好きかどうかは、よく分かりません。けれど、奥様とご一緒なら、どこへでもありがたく」
千代は薄く笑った。その笑みは、嫁いで間もないころに見たものより、ずっと儚く、しかしどこかやわらかかった。
「そう」
それきり会話は続かなかったが、その短い返事が、なぜだかおりつの胸に長く残った。
伊勢が近づくにつれ、千代はますます寡黙になった。二見の浜に着いた朝、海は鈍い銀色に光り、夫婦岩のあたりには早くも参詣の人々が集まっていた。供回りの者たちが道筋を確かめているあいだ、千代は波打ち際に立ち、寄せては返す水をじっと見つめていた。風にあおられた裾が濡れるのも構わない様子である。
「お足元が」
おりつが声をかけると、千代はようやく我に返ったように一歩退いた。その目が、うっすらと赤いのを見て、おりつはそれ以上なにも言えなかった。
翌日、外宮、ついで内宮へと参った。御垣内に手を合わせる千代の姿は、どこから見ても若い未亡人の慎ましい祈りそのものであった。けれど、祈り終えて人波から離れたとき、千代はおりつにだけこう言った。
「もう一つ、行きたいところがあります」
それは神宮のほど近く、古い橋を渡った先の、小さな林だった。案内を請うと、土地の老爺は「ああ、昔は若い者が待ち合わせに使ったものです」と笑って道を教えた。供回りの者は離れたところで待たせ、千代はおりつだけを連れて、林の奥へ入っていった。
杉と楠の匂いが湿った土に混じっている。人の気配は少なく、遠くで鶯が一声鳴いた。
林の中央に、手水鉢もない小さな祠があった。社とも呼べないほど質素なもので、風雨にさらされた木肌は白く乾いている。千代はその前に立つと、懐から例の桐箱を取り出した。蓋を開けると、中には古びた薄紅の組紐と、畳まれた一通の文が入っていた。
おりつは息をのんだ。供養の品ではない。亡夫の形見でもないことは、ひと目で分かった。
千代はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「驚いたでしょう」
おりつは答えに窮した。けれど、嘘はつけなかった。
「……はい」
「供養の旅というのは、半分だけ本当です」
千代は祠の前に膝をついた。いつもの整った物言いではなく、喉の奥から搾り出すような、ひどく人間らしい声だった。
「わたくしは、ここへ一度来たことがあります。まだ嫁ぐ前、父に連れられて伊勢参りをした折に」
十五の春だったという。体の弱い母の快癒を願う旅で、千代は道中、今よりいくらか明るく、まだ世のしきたりに従うばかりではない娘だった。そのとき、この林のそばで一人の若者と出会った。伊勢の町で紙を商う家の息子で、神宮に納める札の写しを運ぶ途中だった。大層聡明な人でも、立派な身分の人でもなかった。ただ、落とした懐紙を拾ってくれ、道を譲る折に二言三言交わしただけ。それだけのはずだった。
だが、翌日また同じ場所で会った。互いに偶然を装いながら、心のどこかで待っていたのだろうと千代は言った。若者は、伊勢の川の水は人の胸の澱まで洗うと笑った。その言葉が可笑しくて、千代はつい笑ってしまった。母の病、家のこと、これから決まるであろう縁談。少女の胸に積もっていた息苦しさが、その笑いで少しほどけた。
「たった二日です。約束らしい約束もございません。ただ、またいつか伊勢で、と……それだけ」
ほどなくして千代の縁談は決まり、藩のため、家のために嫁いだ。相手となった夫は誠実な人で、千代はその人を憎んだことは一度もない。むしろ敬い、妻としてつとめを果たした。けれど、十五の春に林の奥で交わした、たった二日の約束だけは、誰にも言えぬまま胸の底に沈んだ。
「嫁いで三年ほどたったころ、伊勢の紙商の家が火事で焼け、そこの息子も病を得て亡くなったと、人づてに聞きました」
そのとき初めて、千代は自分がずっとその人を忘れていなかったことを思い知ったのだという。
「愚かな話でしょう。夫に仕えながら、心の片隅で別の人を――」
言葉はそこで途切れた。千代の指先が、古い組紐の上で震えている。
おりつは、胸のうちでなにかが音もなく裂けるのを感じた。千代は、いつも正しく、静かで、美しい人だった。けれど今、自分の目の前にいるのは、正しさだけでは生きられぬ一人の女だった。誰にも言えず、恥じ、責め、長いあいだ抱えてきたものを、ようやく吐き出そうとしている。
「わたくしは、夫の供養もしたかったのです。あの方には、感謝しております。けれどそれだけではなく――一度、この文をここへ置いて帰りたかった。好きでございました、と。たったそれだけを、もうこの世にいない方へ」
千代は文を取り上げた。封には年数を経た染みがあり、何度も書き直した跡が見て取れた。
「誰にも知られぬまま終えるつもりでした。けれど、おまえには、黙っておくのがつらくなりました」
おりつはすぐには返事ができなかった。胸の奥に去来したのは驚きばかりではない。少しの痛みと、少しの安堵と、そしてひどく温かなものだった。千代が完璧な人でないことに、なぜ安堵したのか、自分でも分からなかった。
やがておりつは、祠の前にそっと膝をつき、千代より半歩うしろで手を重ねた。
「奥様」
千代が振り向く。
おりつは深く頭を垂れた。声が震えぬよう、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています」
林に風が通った。杉の葉がかすかに鳴り、どこかでまた鶯が鳴いた。
「それは、奥様がまことに清らかなお方だから、というだけではございません。迷いも、悔いも、誰にも言えぬ思いも抱えて、それでもなおお優しい奥様を、私はお慕いしております。ですから、どうかご自身をお責めにならないでくださいませ」
千代はしばらく、おりつを見つめていた。やがて、いまにもほどけそうな顔で笑った。その笑みは、泣く寸前の人の笑みだった。
「おまえは、不思議なことを申しますね」
「恐れながら、本心にございます」
その瞬間、千代の目から大粒の涙がひとつ、頬を伝って落ちた。堰を切るようなものではない。ただ、長い年月、胸の底で凍っていたものが、春先の雪のように静かに融けたのだった。
千代は文を祠に納め、組紐をその上に置いた。手を合わせる姿には、亡夫への祈りも、若き日の恋への別れも、どちらも含まれていたように見えた。人の心は一つの名だけでは括れないのだと、おりつはそのとき初めて知った。
帰りの道中、千代は以前より少しだけよく話した。宿場の団子が甘すぎること、川霧の朝は髪が湿ること、伊勢で買った小さな守り袋の色が気に入っていること。ほんの些細なことばかりだったが、おりつにはそれがうれしかった。千代の胸に、ようやく風の通い道ができたのだと思えた。
桑名を過ぎたあたりで、千代が不意に言った。
「おりつ、おまえには何か願いがありますか」
おりつは戸惑った。願い。そんなものを、あらためて考えたことがなかった。良き奉公をすること、主人に恥をかかせぬこと、病まずに働くこと。そうしたことは願いというより日々の務めだった。
「分かりません」
正直にそう答えると、千代は頷いた。
「以前のわたくしも、そうでした。けれど、人は一つくらい、自分のための願いを持ってもよいのだと思います」
その言葉は、おりつの胸に小さく沈み、旅が終わっても消えなかった。
屋敷へ戻ると、日々はまた同じように流れた。朝の支度、昼の給仕、夕べの灯。けれど、おりつの目には、以前とは少し違って映るものがあった。中庭の椿の赤、廊下を渡る風、女中たちの笑い声、自分の手の甲にいつのまにかできた細かな傷。どれもこれも、ただ務めの背景としてではなく、自分が生きている証のように思えた。
ある晩、おりつは帳面の隅に、自分の名を書いてみた。丸みの足りぬ、拙い字だった。もう一度書く。今度は少しましだった。おりつは文字を書くのがそれほど得意ではなかったが、旅のあいだに見た道しるべや宿帳や、千代が懐にしまった文を思い出すうち、文字というものが、人の胸の奥を運ぶ舟のように思えてきたのだ。
それから夜ごと、少しずつ字を習った。年かさの女中に教わり、ときには千代からも手ほどきを受けた。千代はおりつの紙面を見て、「おまえの字はまっすぐですね」とほほえんだ。
二年後、千代は屋敷の奥に小さな文机を置かせ、女中たちが手すさびに読み書きを習えるよう取り計らった。表向きは倹約のための記録づけを覚えさせるという名目だったが、おりつには、それが千代なりの贈りものだと分かっていた。
やがてまた春が来た。
庭の梅が白くほころび、亡き御前様の命日が近づいた日のこと、千代は仏前に香を供えたあと、おりつを呼んだ。
「今年は、供養の文をおまえに書いてもらいたいのです」
おりつは驚いて顔を上げた。
「私が、でございますか」
「ええ。おまえの字で」
おりつは硯をすりながら、胸の奥で静かに息を整えた。墨の匂いが立ちのぼる。その向こうで千代が座している。喪に沈んだ若奥様ではなく、痛みも悔いも抱えたうえで、それでも前を向いて生きる一人の女として。
紙に筆を置く前に、おりつはふと思った。あの伊勢の林で、千代が置いてきた文は、失われた恋への別れであると同時に、自らを赦すための文でもあったのだろう。そして自分がいま書こうとしているのは、亡き人への供養であると同時に、残された者が今日を生きるための文なのだ。
「奥様」
おりつが呼ぶと、千代がこちらを見た。
「なんでしょう」
おりつは少しだけ笑った。
「私は、ようやく一つ願いができました」
「まあ。どのような」
「まだ、うまく申せません。でも、いつか自分の手で、人の心が少し軽くなるような文を書けるようになりとうございます」
千代は目を細めた。その眼差しは、昔と同じようにやわらかく、けれどもっと深く、人を見ていた。
「きっとなれます」
その一言で十分だった。
おりつは筆をとり、白い紙の上に最初の文字を書いた。墨は迷いなくのび、細い川のように連なってゆく。失われたものは戻らない。語られなかった恋も、若くして終わった夫婦の日々も、伊勢の林に置いてきた手紙も、すべて時の向こうへ去ってゆく。けれど、去ってゆくものがあるからこそ、人は新しく何かを選び取れるのだと、おりつは知っていた。
窓の外では、春の風が梅の香を運んでいた。
その香のなかで、おりつは静かに筆を進める。かつて誰かを見届けるだけだと思っていた自分の人生にも、ようやく、小さくても確かな行き先が生まれはじめていた。千代を慕う心は変わらない。変わらないまま、それでも自分の足で歩いてゆける。
伊勢路の果てで見た涙は、二人の女に、それぞれの春の始まりを教えていた。
はじめて御殿の奥向きに上がったころ、千代はまだ嫁いで間もない若奥様で、白い指先にいつもほのかな香をまとわせていた。物静かな人で、むやみに笑うことも、声を荒らげることもなかったが、障子を開ける手つきひとつにまで品があり、おりつはまだ年若い身でありながら、この人のそばにいられることを誇りに思っていた。
その千代が夫を亡くしたのは、二十三の春だった。
御前様と呼ばれたその人は病弱ではあったが、家中の誰にもやさしい人で、庭の梅がほころぶころにはもう起き上がれなくなり、花の盛りを見ぬまま逝った。千代は泣き乱れることもなく、ただ一層口数を減らし、白い喪の着物のまま日々を静かにやり過ごした。
おりつは、千代のそばで湯を沸かし、薬を運び、夜の更けるまで灯心を整えながら、その沈黙を守るように暮らした。
秋が過ぎ、年が改まったある日、千代は藩に願い出て、伊勢参りに赴くことになった。
亡夫の供養のため――表向きにはそういうことになっていた。若くして夫を失った身が神宮へ詣でるのは、誰にも咎められることではない。むしろ殊勝だとさえ言われた。
供をする者におりつの名が挙がったとき、胸のうちに小さな灯がともった。役目にすぎないと分かっていても、千代と二人きりで長く旅をするなど、めったにあることではない。
だが、旅支度の折から、おりつはうすうす気づいていた。千代の旅支度は、供養の旅にしてはどこか奇妙だった。仏前に供える香や数珠のほかに、薄鼠の小さな桐箱を一つ、誰にも触れさせず自ら懐にしまい込んだ。さらに、出立の前夜には、いつになく長く硯に向かっていた。書き上げたものはすぐに畳み、火にかざして封をしたので、中身を見ることは叶わなかった。だが、その横顔には、おりつの知らぬ緊張があった。
江戸から伊勢へ向かう道は、春浅い風をまとっていた。まだ山あいには冬の名残があり、街道の茶店では湯気の立つ餅がよく売れていた。二人は数人の供回りとともに東海道を下り、川を渡り、宿場を泊まり継いだ。
日ごろ屋敷の内にある千代は、道中の草花にも人の行き交いにもむやみに目を留めることはなかったが、ときおり、何気ない景色にふっと足を止めた。
たとえば、ある宿場外れの柳の木。たとえば、川縁で手を濯ぐ旅の女たち。たとえば、古びた道しるべに刻まれた「伊勢」の二文字。
そのたび千代の目に、供養だけでは説明のつかぬ、遠いものを探す色が差した。
夜半、宿の小部屋でおりつが燭台の火を弱めると、千代はしばらく眠らずにいた。寝息が聞こえないまま時が過ぎ、やがてかすかな衣擦れがする。眠れぬのかと案じても、おりつは問うことができない。ただそっと起きて湯呑に白湯を注ぎ、枕元へ置いた。
「おりつ」
ある夜、千代が不意に呼んだ。
「はい」
「おまえは、旅は好きですか」
思いがけぬ問いに、おりつは少し考えてから答えた。
「好きかどうかは、よく分かりません。けれど、奥様とご一緒なら、どこへでもありがたく」
千代は薄く笑った。その笑みは、嫁いで間もないころに見たものより、ずっと儚く、しかしどこかやわらかかった。
「そう」
それきり会話は続かなかったが、その短い返事が、なぜだかおりつの胸に長く残った。
伊勢が近づくにつれ、千代はますます寡黙になった。二見の浜に着いた朝、海は鈍い銀色に光り、夫婦岩のあたりには早くも参詣の人々が集まっていた。供回りの者たちが道筋を確かめているあいだ、千代は波打ち際に立ち、寄せては返す水をじっと見つめていた。風にあおられた裾が濡れるのも構わない様子である。
「お足元が」
おりつが声をかけると、千代はようやく我に返ったように一歩退いた。その目が、うっすらと赤いのを見て、おりつはそれ以上なにも言えなかった。
翌日、外宮、ついで内宮へと参った。御垣内に手を合わせる千代の姿は、どこから見ても若い未亡人の慎ましい祈りそのものであった。けれど、祈り終えて人波から離れたとき、千代はおりつにだけこう言った。
「もう一つ、行きたいところがあります」
それは神宮のほど近く、古い橋を渡った先の、小さな林だった。案内を請うと、土地の老爺は「ああ、昔は若い者が待ち合わせに使ったものです」と笑って道を教えた。供回りの者は離れたところで待たせ、千代はおりつだけを連れて、林の奥へ入っていった。
杉と楠の匂いが湿った土に混じっている。人の気配は少なく、遠くで鶯が一声鳴いた。
林の中央に、手水鉢もない小さな祠があった。社とも呼べないほど質素なもので、風雨にさらされた木肌は白く乾いている。千代はその前に立つと、懐から例の桐箱を取り出した。蓋を開けると、中には古びた薄紅の組紐と、畳まれた一通の文が入っていた。
おりつは息をのんだ。供養の品ではない。亡夫の形見でもないことは、ひと目で分かった。
千代はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「驚いたでしょう」
おりつは答えに窮した。けれど、嘘はつけなかった。
「……はい」
「供養の旅というのは、半分だけ本当です」
千代は祠の前に膝をついた。いつもの整った物言いではなく、喉の奥から搾り出すような、ひどく人間らしい声だった。
「わたくしは、ここへ一度来たことがあります。まだ嫁ぐ前、父に連れられて伊勢参りをした折に」
十五の春だったという。体の弱い母の快癒を願う旅で、千代は道中、今よりいくらか明るく、まだ世のしきたりに従うばかりではない娘だった。そのとき、この林のそばで一人の若者と出会った。伊勢の町で紙を商う家の息子で、神宮に納める札の写しを運ぶ途中だった。大層聡明な人でも、立派な身分の人でもなかった。ただ、落とした懐紙を拾ってくれ、道を譲る折に二言三言交わしただけ。それだけのはずだった。
だが、翌日また同じ場所で会った。互いに偶然を装いながら、心のどこかで待っていたのだろうと千代は言った。若者は、伊勢の川の水は人の胸の澱まで洗うと笑った。その言葉が可笑しくて、千代はつい笑ってしまった。母の病、家のこと、これから決まるであろう縁談。少女の胸に積もっていた息苦しさが、その笑いで少しほどけた。
「たった二日です。約束らしい約束もございません。ただ、またいつか伊勢で、と……それだけ」
ほどなくして千代の縁談は決まり、藩のため、家のために嫁いだ。相手となった夫は誠実な人で、千代はその人を憎んだことは一度もない。むしろ敬い、妻としてつとめを果たした。けれど、十五の春に林の奥で交わした、たった二日の約束だけは、誰にも言えぬまま胸の底に沈んだ。
「嫁いで三年ほどたったころ、伊勢の紙商の家が火事で焼け、そこの息子も病を得て亡くなったと、人づてに聞きました」
そのとき初めて、千代は自分がずっとその人を忘れていなかったことを思い知ったのだという。
「愚かな話でしょう。夫に仕えながら、心の片隅で別の人を――」
言葉はそこで途切れた。千代の指先が、古い組紐の上で震えている。
おりつは、胸のうちでなにかが音もなく裂けるのを感じた。千代は、いつも正しく、静かで、美しい人だった。けれど今、自分の目の前にいるのは、正しさだけでは生きられぬ一人の女だった。誰にも言えず、恥じ、責め、長いあいだ抱えてきたものを、ようやく吐き出そうとしている。
「わたくしは、夫の供養もしたかったのです。あの方には、感謝しております。けれどそれだけではなく――一度、この文をここへ置いて帰りたかった。好きでございました、と。たったそれだけを、もうこの世にいない方へ」
千代は文を取り上げた。封には年数を経た染みがあり、何度も書き直した跡が見て取れた。
「誰にも知られぬまま終えるつもりでした。けれど、おまえには、黙っておくのがつらくなりました」
おりつはすぐには返事ができなかった。胸の奥に去来したのは驚きばかりではない。少しの痛みと、少しの安堵と、そしてひどく温かなものだった。千代が完璧な人でないことに、なぜ安堵したのか、自分でも分からなかった。
やがておりつは、祠の前にそっと膝をつき、千代より半歩うしろで手を重ねた。
「奥様」
千代が振り向く。
おりつは深く頭を垂れた。声が震えぬよう、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています」
林に風が通った。杉の葉がかすかに鳴り、どこかでまた鶯が鳴いた。
「それは、奥様がまことに清らかなお方だから、というだけではございません。迷いも、悔いも、誰にも言えぬ思いも抱えて、それでもなおお優しい奥様を、私はお慕いしております。ですから、どうかご自身をお責めにならないでくださいませ」
千代はしばらく、おりつを見つめていた。やがて、いまにもほどけそうな顔で笑った。その笑みは、泣く寸前の人の笑みだった。
「おまえは、不思議なことを申しますね」
「恐れながら、本心にございます」
その瞬間、千代の目から大粒の涙がひとつ、頬を伝って落ちた。堰を切るようなものではない。ただ、長い年月、胸の底で凍っていたものが、春先の雪のように静かに融けたのだった。
千代は文を祠に納め、組紐をその上に置いた。手を合わせる姿には、亡夫への祈りも、若き日の恋への別れも、どちらも含まれていたように見えた。人の心は一つの名だけでは括れないのだと、おりつはそのとき初めて知った。
帰りの道中、千代は以前より少しだけよく話した。宿場の団子が甘すぎること、川霧の朝は髪が湿ること、伊勢で買った小さな守り袋の色が気に入っていること。ほんの些細なことばかりだったが、おりつにはそれがうれしかった。千代の胸に、ようやく風の通い道ができたのだと思えた。
桑名を過ぎたあたりで、千代が不意に言った。
「おりつ、おまえには何か願いがありますか」
おりつは戸惑った。願い。そんなものを、あらためて考えたことがなかった。良き奉公をすること、主人に恥をかかせぬこと、病まずに働くこと。そうしたことは願いというより日々の務めだった。
「分かりません」
正直にそう答えると、千代は頷いた。
「以前のわたくしも、そうでした。けれど、人は一つくらい、自分のための願いを持ってもよいのだと思います」
その言葉は、おりつの胸に小さく沈み、旅が終わっても消えなかった。
屋敷へ戻ると、日々はまた同じように流れた。朝の支度、昼の給仕、夕べの灯。けれど、おりつの目には、以前とは少し違って映るものがあった。中庭の椿の赤、廊下を渡る風、女中たちの笑い声、自分の手の甲にいつのまにかできた細かな傷。どれもこれも、ただ務めの背景としてではなく、自分が生きている証のように思えた。
ある晩、おりつは帳面の隅に、自分の名を書いてみた。丸みの足りぬ、拙い字だった。もう一度書く。今度は少しましだった。おりつは文字を書くのがそれほど得意ではなかったが、旅のあいだに見た道しるべや宿帳や、千代が懐にしまった文を思い出すうち、文字というものが、人の胸の奥を運ぶ舟のように思えてきたのだ。
それから夜ごと、少しずつ字を習った。年かさの女中に教わり、ときには千代からも手ほどきを受けた。千代はおりつの紙面を見て、「おまえの字はまっすぐですね」とほほえんだ。
二年後、千代は屋敷の奥に小さな文机を置かせ、女中たちが手すさびに読み書きを習えるよう取り計らった。表向きは倹約のための記録づけを覚えさせるという名目だったが、おりつには、それが千代なりの贈りものだと分かっていた。
やがてまた春が来た。
庭の梅が白くほころび、亡き御前様の命日が近づいた日のこと、千代は仏前に香を供えたあと、おりつを呼んだ。
「今年は、供養の文をおまえに書いてもらいたいのです」
おりつは驚いて顔を上げた。
「私が、でございますか」
「ええ。おまえの字で」
おりつは硯をすりながら、胸の奥で静かに息を整えた。墨の匂いが立ちのぼる。その向こうで千代が座している。喪に沈んだ若奥様ではなく、痛みも悔いも抱えたうえで、それでも前を向いて生きる一人の女として。
紙に筆を置く前に、おりつはふと思った。あの伊勢の林で、千代が置いてきた文は、失われた恋への別れであると同時に、自らを赦すための文でもあったのだろう。そして自分がいま書こうとしているのは、亡き人への供養であると同時に、残された者が今日を生きるための文なのだ。
「奥様」
おりつが呼ぶと、千代がこちらを見た。
「なんでしょう」
おりつは少しだけ笑った。
「私は、ようやく一つ願いができました」
「まあ。どのような」
「まだ、うまく申せません。でも、いつか自分の手で、人の心が少し軽くなるような文を書けるようになりとうございます」
千代は目を細めた。その眼差しは、昔と同じようにやわらかく、けれどもっと深く、人を見ていた。
「きっとなれます」
その一言で十分だった。
おりつは筆をとり、白い紙の上に最初の文字を書いた。墨は迷いなくのび、細い川のように連なってゆく。失われたものは戻らない。語られなかった恋も、若くして終わった夫婦の日々も、伊勢の林に置いてきた手紙も、すべて時の向こうへ去ってゆく。けれど、去ってゆくものがあるからこそ、人は新しく何かを選び取れるのだと、おりつは知っていた。
窓の外では、春の風が梅の香を運んでいた。
その香のなかで、おりつは静かに筆を進める。かつて誰かを見届けるだけだと思っていた自分の人生にも、ようやく、小さくても確かな行き先が生まれはじめていた。千代を慕う心は変わらない。変わらないまま、それでも自分の足で歩いてゆける。
伊勢路の果てで見た涙は、二人の女に、それぞれの春の始まりを教えていた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。